2007年12月28日金曜日

20%からはじまる

今日で仕事納めである.
(一応.仕事が終われば)

今年一年の反省を少ししてみる.
というか,今年一年に限らないのだけれど,
ここ最近,自分の研究の時間が確保できていない.
この点を非常に反省すべきである.

いろいろな仕事にかまけて
研究時間が不足している.
来年は,なんとか研究時間を確保することが目標である.

とはいえ,仕事が減るわけではない.
ということは,時間確保のためには,
知的生産性を向上する必要がある.

生産性の向上というと,
このブログでもたびたび話題にしている
ライフハックがあげられる.
しかしライフハックは,どちらかというと
Tips的な内容となる.
もちろん,それはそれで大切で,
非常に効果が高いのだけれど,
もっとコンセプチュアルに生産性を上げる
努力をしていきたい.

有名な話に,グーグルの社員は20%の時間を
自分の研究のために使うのだという.
20%といえば,1週間を5日労働とすれば,
丸一日をそれに充てるということだ.
これはかなりの割合である.

とても20%とはいかないけれど,
なんとか1日2時間を自分の時間に充てるようにしようと思う.
努力するのではなく,そう決めて,
それに合わせて仕事を進めることにする.
そう,ここに決意する.

その他,
- 睡眠時間を6時間以上確保する
- 集中力をあげるために体力をつける
- 合氣道の稽古を欠かさない
- 散歩をする
- 読書を1ヵ月4冊を目標に進める

と仕事の生産性を上げるための努力をしていきたいと思う.

人間の能力は総合的なものである.
知的生産性を高めるためには,
健康で,体力をつけることが最も効率が良いと思う.
だから上記の目標をあげた.

まずはリソースの20%を自分のために使う.
この20%から来年を始めようと思っている.
なにか今年とは別の結果が生まれるだろうか.
実行あるのみである.

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今年はこれが最後のエントリーかもしれません.
仕事始めは1/4です.
次回更新は1/4の予定ですが,
もしかするとそれまでに不定期に更新するかもしれません.

それでは,みなさん,良いお年を.

2007年12月27日木曜日

物語の必要性

古来の哲人たちの中には,
自ら教えを著すことなく,
弟子たちやその後の追随者がその教えを
書物に残した場合が多くある.

不完全な言葉によって教えを説いても,
誤解が広がるだけと考えたからかもしれない.

そこで弟子たちは,師の教えを物語として残した.
この点が重要なのだと思う.

人は,人の言葉だけでは理解を
共有することができない.
田口ランディさんの著書に,
「人は人とわかりあえない,ということのみ
わかりあえる」といった意味の言葉があったが,
確かにそうかもしれないと思う.
所詮,違う脳,違う感覚器,違う身体をもつ
個体なのだ.
同じ考えをもつことなどありえない.
だから言葉だけで理解を共有することは本当に難しいだろう.

それでも教えを残す必要があった.
だから弟子たちは短い言葉で伝えることをしなかった.
その教えが説かれた背景,状況などを細かく,
そして時には脚色をして物語として伝えた.
より正確に教えを伝えるために.

たとえば,もしも電気工学がシンプルな4つの方程式,
すなわちマクスウェルの方程式だけで
理解しろ,といわれたらどうだろう.
(すみません,例えがぐっと専門的な話になって)

確かにこの世界の電磁現象は,
マクスウェルの4つの方程式だけで記述できるかもしれないが,
それで終わりというわけではない.
4つの方程式は,電磁気学のいうなれば"骨"であって,
さまざまな事象に現れる"血肉"が付いているわけではない.
しかし,この血肉こそが,電磁気学を面白くし,
私たちに学問の喜びを与えるものなのである.

だから私たちは電磁現象を理解するために,
さまざまな事象についてマクスウェルの方程式を適用する.
学生たちは理解のために,適用例,例題,演習問題を必要とする.
それで,現象の複雑さ,学問の面白さを理解する.

大切な教えの理解には,物語(ストーリー)を必要とする.
そこに含まれる意味が深ければ深いほど,
そこには精密なストーリーとそのバリエーションを必要とする.
それは,哲学であっても工学であっても変わらない.

2007年12月26日水曜日

まるで詰将棋のように緻密な論理で

昨日,今日と2日連続で
私は朝から夕方まで研究室の学生の
研究の中間発表を聴いている.
明日は午前中で終わる予定だけれど,
一日7時間くらいヒアリングしている.

研究室の学生は30人以上いるから,
全部の学生の研究の進捗状況をヒアリングをするのは,
結構しんどいのだ.
でもみんな頑張っている.
それで私も頑張って理解しようとするのだけれど,
正直夕方になるとフラフラである.

昨日,今日の学生諸君の発表を聴いて思ったのだけれど,
どうも相手に理解してもらおう,
説得しようとする努力が足りないのではないか.
それは基本的なスキルの不足なのかもしれないけれど,
もっと本質的な心がけの問題のような気がする.

プレゼンテーションでも,会話でも,
コミュニケーションの目的は,相手に理解してもらうこと,
あるいは説得することである.
それができていなければ,
そのコミュニケーションは失敗なのである.

まず自分の考えや研究の結論を,
相手が理解してくれるように資料を準備すること.
そうした資料の準備は,ちょうどチェスか
詰将棋のようなものだと思えばいい.

条件,証拠を示しながらあるシチュエーション
あるいは結論に相手を追い込む.
そのためには,ひとつひとつ障害をクリアしていく.
まるで城の外堀,中堀,内堀と順に埋めて,
本丸を攻めるようにである.

たとえば電気関係の発表であるならば,

自分の研究の目的,その分野における位置づけ,
研究の前提となっている条件,
検討したシステム構成,回路,パラメータ条件,
そしてそれらの妥当性.
シミュレーション条件,実験条件,
その結果の妥当性と評価,考察.
そして結論(最初に結論を持ってくるのもアリである).

なぜその結論に至ったかを説明するのに,
反駁の余地もないよう,
緻密に論理を構築する.
まるでエラリー・クイーンの推理小説のように.

弱点は素直に認める.
逆に指摘されたことについて意見交換や
議論をすることによってより建設的な結論を導く.
そして最後に,将来の計画を示す.

そうしたことができれば,まずは合格であろう.

いかにロジックを組み立て,マテリアルを集めるか.

自分がわかっていても
相手がわかってくれるかどうかはわからない.
たとえ指導教員であっても,
わからないものはわからないのだ.
やはり肝心なところを省略してはならない.

自分が他人になったつもりで,
自分の説明を聴いてみよう.
それで誰かを説得できるだろうか.
なにか不足していないだろうか.
自問してみよう.
(まぁ,これができれば一人前なのだけれど)

とにかくコミュニケーションの成否は
あくまでも相手にどのような影響を与えたか
という結果によってのみ決定する.
自己満足であってはならない.

もう一度,プレゼンテーションをする
意味を考えてみてはどうだろうか.



(と小言はいっても,さすがと思わせるところも
端々にみられた.君たちのポテンシャルは感じる.
あとは各自の精進あるのみ!)

2007年12月25日火曜日

ものいわぬ哲人たち

Merry Christmas!
みなさん,よいクリスマスをお過ごしですか?

私の家の子どもたちも今日は
イエス・キリストの誕生日だということを
なんとなく理解しているようだ.
とりあえず,ただプレゼントをもらえる日では
ないということはわかっているようで,
なぜか少し役割を果たした気になっている.
(私はキリスト教徒ではないのだけれど)

イエスの話で思いついたのだけれど,
聖書というのは,イエスの死後にその弟子たちによって
編纂されたものだという.
イエス自身がその教えを書いたものではない.
成立を追っていくと,もっとも古いのは
マルコ,マタイあたりではなかったかな.
とにかく何十年も経って書かれたものである.
(と,聖書研究ではされている)
それだけ長い間教えが伝えられてきたことが素晴らしい.

ブッダもそうである.
彼の言葉とされている書物も彼自身が書いたものではない.
数々の聖典,経典も彼らの弟子,
あるいはずっと後世の教団によって作成されたものである.
だからそのときどきの時代の思想が
反映されているといわれている.

孔子もそうだ.
彼自身が論語をまとめたわけではない.
やはり弟子たちである.
私の好きな王陽明の伝習録も
また弟子がまとめたものである.

そういえばソクラテスの弁明もプラトンの手による.
(裁判の記録なのだけど)
ソクラテス自身は自分の考えを著していないようだ.
プラトンの対話集として,彼の思想が残されている.

こうやってみてみると,古来の哲人たちは,
自分自身の手で書物をあらわすことをしなかった.

このことには,実は重要な意味があるように思われる.
すなわち,最も大切なことは言葉では伝えることができない,
という至極当然のことがここに示されている.
哲人たちは,不完全な言葉により
教えが誤って伝わることを恐れたのだろう.

そして,弟子たちも,それを伝えるために,
言葉ではなくストーリーを必要とした.
何かを正確に伝えようとすると,
それは,どうしてもストーリーが必要になる.
ちょうど科学技術論文で論理を展開するように.

しかし,ある人(人間ではない人もいるけど)の教えが
何十年間,何百年間と伝わり,
それが時代を経た人たちに編纂されるって,
本当に奇跡的なことではないだろうか.

何十年,何百年後に読まれるもの.
20世紀にそうしたものがあるとしたら,
それはアインシュタインの論文などなのだろうか,と
思ったりもする.

この21世紀に偉大な哲人は現れるのだろうか.

2007年12月21日金曜日

先入観を越えて説明する

昨日は,魅力ある大学院教育イニシアチブ
先端通信エキスパート養成プログラムの
一環として行われたコミュニケーションスキルに関する
講習会に参加した.

都合によりすべてに参加することは
できなかったのだけれど,
最初の「説明力」を磨く演習には参加することができた.

演習課題は,配られた紙に書かれた複雑な図形を,
言葉だけでいかに正確に,限られた時間内で説明し,
他の人に描いてもらうか,というもの.
グループに分かれ,ゲーム形式で
何人の人が正確に図を描けていたかを得点として
競い合う.

参加している学生は工学系なので,
座標や幾何学的知識を駆使して,
説明に工夫をして説明していた.
思いのほか,複雑な図形も正確に
他人に伝えることができており,
驚いたほどである.

しかし,こうした説明を聴いていると,
まだまだ不十分であると感じた.
他人が描く姿をはっきりとイメージできていない.
自分が図形を描くとしたら,
形,位置や大きさ,色などを
どの順番で思う浮かべていくだろうか.
位置だけ先に説明されても,
何を描くかを知らされていなければ,
人間は何も思い浮かべることができない.
そこら辺が理解できているか,
イメージできているかが,
勝敗を決めていたように思う.

こうした説明において,
大きな障害の一つが先入観である.
(この点について講師であるI先生も
強調して教えておられた)
今回の演習であれば,
自分はすでに図形を見て知っている.
だから,自分にとって当り前のことについて
説明を省きやすくなってしまう.

もちろん,今回の演習だけに言えることではない.
人に説明するときは,
常にこうした先入観を排するような
工夫をしなければならない.

特に,学会や論文などによる発表では,
ついつい自分の中では自明であることを,
説明し忘れてしまう.
その結果,一番肝心なことが聴衆に,
あるいは読者に伝わっていない,という結果に
終わってしまうこともよく見受けられる.

自分にとっての常識が,
他の人にとっても自明であることとは
限らないのである.

私も昔国際学会で失敗したことがある.
ランク分けを丸,バツ,三角の記号で表したのだけれど,
後で,それぞれの記号はどういう意味だったのかと
尋ねられた.
丸が優れている,というのは,
世界のどの国でも通用する概念ではなかったのだ.
そのときは,このことを思い知って,
非常に落ち込んだものである.

ということで,今回の講習も
こうしたことに改めて気づく
良い機会となった.

参加した学生たちも何かを得てくれていたとしたらうれしい.

2007年12月20日木曜日

サンタのプレゼント希望はテルミン

昨日は電気系教職員の懇親会があり,
夕方は飲んでいた.
これで二日連続である.
今週は,あと土曜日まで毎日が飲み会なのである.
五日連続.
二日目だというのにこの疲れである.
自分の老いを感じざるを得ない.
(もうずいぶん前から感じているけど)

昨日,懇親会に出席するために参加できなかったのだけれど,
吹田キャンパス内の別会場では,
「テルミンの夕べ」なる催しが開かれていた.
もしも懇親会がなければ必ず参加してであろうに.
残念至極である.

「テルミン」を知らない人もいるだろうから,
ここで説明しておくと,楽器なのである.
ロシアのテルミン博士が発明した世界初の電子楽器なのである.
昔,テルミン博士のドキュメンタリー映画もあったらしいから,
それをご覧になった方もいるかもしれない.

楽器といっても鍵盤も弦もない.
ただアンテナが2種類突き出ているだけである.
そして演奏者は楽器に触れない.
アンテナに手を近付けたり遠ざけたりすることで,
音程と音量を調節するのだ.

非常に不思議な音がする.
SF映画や怪奇映画の効果音にもってこい.

しかし,もちろんちゃんと演奏もできる.
テルミンのソナタがあるかどうかは知らないが,
協奏曲はあるのだという.
(その演奏法は非常に難しいとのこと)

私はメシアンの交響曲で使用されている電子楽器が
テルミンだとばかり思って勘違いしていたので知っていた.
(メシアンの方はオンドマルトノが正解)

しかし,なんとか演奏してみたいと思っていたら,
実は最近の「大人の科学」という雑誌の付録で
ミニ・テルミンがついていた.
欲しい.
そういったら,うちの奥さんに直ちに却下されてしまった.
う~ん,でも欲しい.

私にもサンタクロースが来てくれないかと
切に思ったりする.

2007年12月19日水曜日

考えることを要求する工学

昨日,ある企業の方とお話しする機会があった.
エネルギーに関わる企業の方たちで,
最近のエネルギー問題,CO2排出問題など,
いろいろな話題が出た.

まず,研究者・技術者がこうした問題に対して
何ができるかということ.
電力蓄積技術や省エネ技術の開発など,
人類がとりうるオプションの幅を広げることが,
研究者・技術者の役割と私は考えているが,
最近,その限界も感じ始めている.

もちろん鋭意努力することには,
なんのためらいもないけれど,
インバータの効率が1%上がったところで,
世界ではどれだけのCO2が低減できるのだろうか.
インバータ化率の高い日本であれば,
原発数基くらいの省電力になるのかもしれないが,
インバータ化が進んでいない国がほとんどを占める
世界を考えると,その効果は限定的になるのだろうと思う.

では,世界を救うためにはどうすればよいのか.

世界を救うのは研究者・技術者ではなく,
偉大な政治家,哲学者,宗教家なのかもしれないとも思う.

だが研究者・技術者としても,
もっとやるべきことはあるのではないかと思う.
情報発信と選択肢の提供だけではなく,
もっと人々の生活に影響を与えるような
ソフトあるいはハードの開発ができないものか.
人々が便利に・安全に暮らすためだけの技術だけでなく,
もっと人々に考えることを要求するようなことが
できないものであろうか.

ちょっと危険な感じもするけれど,
もう少し工学の可能性について考えてみてはどうだろうか.

とはいえ,現状できることは目の前の研究開発である.
たとえその研究者としての努力が
"ハチドリの一滴"だとしても,
やはりやらなければならない.
そのことは重々承知しているのだけれど.

2007年12月18日火曜日

心をゆたに

昼食を食べる暇も無いくらいに忙しい.
(いつも昼食を食べつつ
ブログ記事を書いているのだけれど)
師走とはよくいったもの,
本当に忙しい.

こうした加速する忙しさの中で思い出す歌がある.

事にふれ 身はいかさまに くだくとも
心はゆたに なすよしもがな


これは,これは、昭憲皇太后、
すなわち明治天皇の皇后の御歌である。
以前,明治神宮を参拝した際にひいたおみくじに
書かれていた歌なのである.
明治神宮のおみくじには,
明治天皇と皇后の歌が書かれているらしい.

"心をゆたに"
この言葉を思い出して,そっと肩の力を抜く.

忙しくなると,心の中の空白が無くなっていく.
気持ちに余裕は無くなるし,
良いアイデアも浮かばなくなってくる.

心を動かすためには空白が必要なのだ.
タイルパズルと同じだ.
何かを動かすためには,
まず何かを動かして
スペースを作らなければならない.

"心をゆたに"
まず何かを動かす.
そうすれば次が動くのだ.

2007年12月17日月曜日

選択のルールと自由

私も(少し前に)40歳になった.
「不惑」の歳である.

もちろん,全然「惑わず」などということはなく,
今も人生を迷い続けているわけだが,
これまでいくつかの岐路に立ったとき,
どちらを選ぶか,ことに関しては,
ひとつのルールがある.それは,

「難しい方を選ぶ」

ということである.
簡単なことと難しいことがあったら,
難しい方を選べ,ということである.

これは,学生時代の恩師S先生から
伺った言葉だったかもしれない.
難しい方を選べば,あとで後悔が少なくなる.

「若者は安全株を買ってはいけない」

という言葉もどこかで読んだ覚えがある.
私は既に若者でなくなってずいぶん経つけれど,
いまだにこの言葉を選択のよりどころとしている.

なぜ突然こんな話を書いたかというと,
最近,村上春樹の「東京奇譚集」が文庫化されたので,
購入して読み終えたのである.
その中の「偶然の旅人」という短編の中で主人公が
どうしたらいいのかわからなくなってしまったときに
しがみつくルールとして,

「かたちあるものと、かたちのないものと、
どちらかをえらばなくちゃならないとしたら、
かたちのないものを選べ」


と話す箇所が妙に心に残ったのだ.

人生は選択の連続である.
映画「マトリックス」でも選択(Choice)の重要性が
繰り返し表現されている.

行くに易い道を選ぶこともできるし,
長く険しい道を選ぶこともできる.
いずれにしろ,どちらの道を選ぶのかを決定するまでは,
その自由は自分のうちにある.
それって,ずいぶん素晴らしいことなのではないかと
最近あらためて思う.
大人になるということは,
この自由を手に入れるということなのかもしれない.

選択に迷うときは,本当に困ってしまうのだけれど,
それは私がもつ自由の表れのひとつなのである.
ただ,そう思えるのは,
その選択を終えてしばらく経ってのことで,
悩んでいるときにはそんな余裕はない.

これからもずっと人生の選択は続き,
優柔不断は私は悩み続けるのだと観念している.
「不惑」の40歳を過ぎても,それは変わらない.

2007年12月14日金曜日

泉岳寺詣でと忠臣蔵

今日は12月14日.
忠臣蔵討ち入りの日とされている.
(もちろん,本来は旧暦なのだけれど)

大学時代,私が所属していた研究室では,
なぜかこの日になると,
赤穂浪士の墓所がある東京高輪の泉岳寺に詣でて,
その後ボーリング大会,飲み会,と進む行事があった.
なぜこの行事が始まったのか,よくわからない.
たぶんS先生の思いつきが始まりだったのだろうと思う.

この日の泉岳寺は大変な混雑となる.
そして線香の煙で境内は真っ白だ.
ゴツゴツ人にぶつかりながらゆっくりと境内・墓所をめぐり,
外へ出てくるとコートが線香臭くなっている.
そうした思い出だけが残っている.

忠臣蔵といわれても正直あまりピンとこない.
NHKの大河ドラマも見ていなかったし,
これまでにそれを題材にした映画も見たことがない.
(なぜか忠臣蔵と言えば流れるあの有名な音楽だけは
すぐに思い出すことができるのだけれど)

暗号で「山」,「川」と合言葉を使ったとされるのだったっけ.
山鹿流陣太鼓が聞こえて討ち入りを知るというくだりも脚色だとか,
四谷怪談も忠臣蔵からみの話だとか,
そうした要らぬ知識はあるけれど,実際どうだったのかがよくわからない.
今度勉強してみようかは思っている.
しかし,その悲しい結末を知っているために,
どうも気が進まないのが正直なところである.

とはいえ,実は,私はNHKラジオで浪曲をたまに聞くのだけれど,
忠臣蔵をテーマにしたものは,やはり面白い.
昔から日本で人気があるのもうなづける.
まずは,堀部安兵衛あたりから手をつけてみようかな.
高田馬場の決闘なんて,面白そうだし.

2007年12月13日木曜日

管理するプロジェクトで忘れてはいけないこと

昨日は,紫翠会の例会とその忘年会に出席する.
紫翠会というのは,関西の大学と企業の情報交換を目的として
開催されている研究会で,昨日は第811回目の例会であった.

ほぼ毎月の開催だから,1年で11回.
すなわち70年以上の歴史があるということだ.
昭和6年から始まって,戦時中も休むことなく継続されているという
非常に歴史ある会なのである.
(唯一,休会となったのは5.15事件(いや,2.26事件だったかな?)
のときだけだということである)

昨日の講演は,会社内の情報セキュリティマネジメントに関するものだった.
印象に残ったことが2つあった.

ひとつは,管理するために決定されたことを
100%実行するためには,時間がかかるといこと.

これは,情報漏洩防止のために各人のPCについて,
チェックを行うことを管理する部署が定めた.
しかし,これをすべての社員が実行するまでに
非常に時間がかかったのだという.
ただし,9割の社員の実行を確認するまでには,
さほど時間はかからなかったのだという.
残りの1割(病欠とか海外派遣などの事情も含めて)の
社員において実行を確認するまでに,
なんと1年を要したのだという.
100%の完全実行がどれだけ難しいかということを示している.
よく簡単に「徹底する」というが,
その遂行に関わる困難性は想像をはるかに越える.

ふたつめに印象に残ったことは,
管理するルールを決める際に
「守れるルールを作る」ということを念頭において
作成された言う話.
作ったルールを守るということは当然なのだが,
ルールは作っても守られないことが多い.
それは,ルールが最初から守られないように
作られているからに他ならない.

誰もが守るルールとは,
守るという行動を起こすためのハードルが低いということであり,
そうした行動においても効果が十分に得られるような
ルールを作成する,ということが
最も重要であるということではないだろうか.

昨日のこの二つの話は,
何かを管理するということについて
重要な示唆を与えている.
忘れないようにしたいものである.

2007年12月12日水曜日

時間の長さではなく物事の濃密さが

長い月日も回数で考えると
ぐっと短く感じられるという話を
昨日書いた.

こう考えると,大学の講義などは
半年の開講期間ではあるけれど,
講義数で数えれば,たった14回でしかない.
(試験を含めれば15回)

私のような先生と半年間付き合うと思うと,
ゲンナリする学生もいると思うが,
回数で言えば14回.
なんとか我慢して講義に
出席してきて欲しいものである.

しかし,少ない講義回数においても,
強烈な印象を残す先生もいらっしゃる.
そう考えて,私がすぐに思い出すのは,
大学時代の江頭淳夫先生である.

江頭淳夫先生は,「江藤淳」という文芸評論家であり,
当時,東京工業大学で
「日本文学概論」(うろ覚え)という講義を担当されていた.

内容は,「雨月物語」などをテキストに,
日本文学の歴史と成り立ちなどに関する講義だった.
朗々と語られる解釈はとても素晴らしく,私などは
これをきっかけに初めて古典を
生々しい感触を持って読むことができるようになった.

加えて講義の合間の雑談がとてつもなく面白かった.
辛口の文芸評論家らしく,歯に衣着せぬ批評を
火を噴くようにして語られていた.

例えば,島崎藤村の「夜明け前」などは
全く時代考証がなっておらず,
あんなのは文学とはいえない,だとか,
当時連載されていた井上靖の「孔子」については,
井上もあんなのを書くようになってはおしまいだ,
みたいなことを平気でおっしゃっていた.

私は実は,先生が著名な文芸評論家であることを
講義を受けている頃は全く知らなかったので,
この先生は,恐れも知らぬ意見を言う人だと,
本当に驚いたものである.

江頭先生の講義は,こうしたエピソードもあってか,
先生のかくしゃくとした姿勢とともに
今でもときどき思い出す.

考えてみれば,江頭先生の講義も
14回に満たなかったに違いない.
それでも先生の講義は覚えている.

やはり大事なのは時間の長さではない.
それぞれの物事の濃密さが,
心に深く足跡を残すのだ.

2007年12月11日火曜日

月日を回数で考える

時間の経過というものは,わかっているようで,
なかなか実感できていないのではないだろうか.

特に,数か月,数年,何十年という時間の流れを思うとき,
それが自分にとってどれだけの意味をもつのか,
そうしたことに思いを巡らすことは難しい.

今年も年末の帰省のための切符を取った.
故郷の両親に会うためである.
両親といっても,40歳を越えた息子がいるくらいだから,
もう60歳半ばをとうに過ぎている.
親不孝な私は1年に一回くらいしか帰省しない.

そこで以前ふと考えてみた.
年に一回しか帰省しないとすると,
あと20年両親が生きていたとしても,
両親に会える回数はたった20回である.
たとえ年に2回帰省したとしても
たかだか40回しか会うことができない.

高校時代までは一緒に暮らしていたのだから,
毎日顔を合わせていた.
その回数は本当に生きてきた日数分だけあるだろう.
しかし,大学に進学し故郷を離れてから,
一体何回両親と会っただろうか.

故郷を離れてから既に22年が過ぎようとしているが,
両親に会った回数はたぶん50回程度ではないだろうか.
自分が過ごしてきた20年以上の年月に比べて,
あまりに少ない気がする.
こう考えると自然と帰省の機会が貴重なものに思えてくる.

定期的に会うことができる人には,
次も会えるという安心感を持ってしまう.
もちろんそれが普通で,毎回涙の別れというわけにもいかない.
しかし本当は,「次」は無いのかも知れないのである.

次も会うことができると期待して別れるが,
未来は,そうはならないかもしれない.

「さようなら」の語源は
「左様であるならば」であるという(諸説あり).

これは江戸時代のように今よりもずっと不確定性が高かった時代では,
次に会えるかどうかはわからなかった.そこで,

「次会えるかどうかもわかりませんが,
左様であるならば,またお会いしましょう」

という意味も含まれていたのだという.
(先日,NHK教育ラジオの講座で聞いた話)

次があるかどうかもわからない.
そして,次があったとしても,
回数で数えれば,長い年月もぐっと短く貴重に感じられる.

時間の積分の大きさが重要なのではない.
そこに離散的に含まれたイベントの回数が大切なのだ.

2007年12月10日月曜日

卒業生の成長に驚く

金曜日には,研究室の卒業生が遊びに来た.
リクルート活動かと尋ねると,そうでもないという.
それでもいろいろと就職の話をしていく.
そうした時期が既に始まっている.

彼は着慣れないスーツを着ていたけれど
(会社でもスーツはあまり着ていないらしい)
そしてちょっと見,全然変わっていないように見えたけど,
ちょっと話しただけで,彼の成長ぶりは良く分かった.
相手の論点を即時に理解し,適切な回答を行う.
うむ,うむ.職場で鍛えられているな,と感心する.

彼は,意識的にそうした能力を磨こうと
していたわけではないのかもしれない.
しかし,職場の人たちとコミュニケーションをとることによって
(それはほとんど目上の人とのものになるだろう)
彼は無意識的ではあるかもしれないが,
そうした能力を獲得してきたと思われる.

現代の仕事はほとんどがグループで行われる.
コミュニケーション力なくして仕事はできない.
ジェネレーションギャップがあったとしても,
相手の意図することを理解し,その先に行動する.
こうしたことができてこそ「社会人としての大人」なのである.

学生時代,少し彼に感じた頼りなさは影をひそめ,
地に足がついている感じがする.
こうした印象が彼に今後もプラスに働いていくだろうことは,
容易に想像できる.
この獲得した能力は隠すことはできない.
敏感な人には,すぐに察知されるのである.

しかし,環境が変わるということの大きさを改めて知る.
適応力にすぐれた若者は,別人のように成長を遂げる.
まさに,「男子三日会わざれば刮目して見よ」である.

教育とは,そうした環境を整えることこそが
目的なのかもしれない,とも思う.

2007年12月7日金曜日

知識がある方が楽しめる

今朝,通勤途中に車のラジオをつけると,
ベートーベンの交響曲第9番の第3楽章が流れていた.
あぁ,もうすっかり世の中は歳末シーズンである.
(昨日は山下達郎の「クリスマス・イブ」で
クリスマスシーズンを実感していたのだけれど)

良く知られる話だけれど,
年末にこれだけ第九を演奏するのは
世界でも日本だけである.
ヨーロッパなどでは,本当に聴く機会が少ない
あるいは特別な時にしか演奏されない曲なのだという.
なぜって,合唱団も入れた大所帯で
演奏しなければならないから.

なぜ第九が年末に演奏されるようになったのかという話も有名で,
あるオーケストラ(現在のN響)が年越しのモチ代を稼ぐために,
演奏への参加人数も多く(チケットが多く売れる),
人入りが良かったこの曲を年末の題目にしたのだということである.
(確か私の記憶では,このころのN響のコンマスは黒柳徹子さんの
お父さんだったと,黒柳さんが話されていた)

以来,年末に第九を演奏するオケが多くなり,
私が東京に住んでいたころは,在京オケが十数個もあったので,
12月になると,プロ・アマ合わせて東京近郊では,
毎日のように第九がどこかで演奏されている状態であった.

規模も大きくなり,1万人の第九なんて企画ももう何年も続いている.
第九を聴くならば規模が大きい日本が一番いい,
という話もあるくらいである.

というわけで,車内で天上の音楽とも言われる
緩徐楽章に耳を澄ましていて思ったのが,
あぁ,私も楽譜が読めたらなぁ,ということである.
楽譜が読めたら,もっと面白く聴けるだろうと思う.

どこで,どんな工夫がしてあるのか,
ベートーベンの意図はどのようなものだったのか,
演奏者はなにを意図しているのか,
などがわかるようになったら,どんなに素敵だろう.

何かをより楽しむためには知識があった方がいい.
武道の演武においてもそうである.
どういう意味がその技・動作に含まれているのか,
やはりバックグラウンドとなる知識がなければ,
理解することは難しい.

研究においてもそうである.
学会の発表を聞いていても,
その発表の裏にある技術,苦労を推測できる方が,
いろいろと勉強になる.

知識が,面白さ・興味を倍増させてくれるのだ.

確かに音楽などは,細かい知識がなくても十分楽しめる.
あるいは先入観がある方がむしろ悪いということもある.
しかし,それでも本当の楽しみを知るためには,
やはり勉強が必要なのだろうと私は思う.
知識がある方が,楽しみが深みを増す.

放送されていた第九は,第4楽章で
異常な加速をして,オケもついてこれない演奏だった.
フルトベングラー・バイロイト祝祭管弦楽団による
至高の第九と呼ばれる演奏であった.

曲が終わったあと溜息をつく.
この演奏は聴くとちょっと疲れる.
私のお気に入りの演奏は,
セル・クリーブランド管の録音だったりする.

2007年12月6日木曜日

神戸ルミナリエは省エネに役立っている?

今朝,通勤途中の車の中で,
山下達郎の「クリスマス・イブ」をラジオで聴いた.
神戸では,ルミナリエも始まったという.
あぁ,もうすっかり世の中はクリスマス・シーズンである.

我が家でも小さな小さなクリスマスツリーを飾った.
ピカピカと点滅する電球をみて,
その消費電力を思う(笑).

ニュースで聞いた話だけれど,
パリでシャンゼリゼ通りのライトアップが始まったけれど,
今年はすべてリニューアル.
照明の数は2倍に増やしたのだけれど,
消費電力は30%減ったのだという.
その理由はLEDの採用.
LEDの消費電力は(同じ光量を得るという条件で)
白熱球に比べ,約1/10.
寿命はほぼ半永久的だから,
多少初期コストがかかっても,
十分にペイできるということだろう.

LEDは今後も用途が拡大していくだろう.
信号も,車のバックライトもずいぶんとLED化された.
ここで青色ダイオードの発明の素晴らしさを思う.
ダイオードに光の三原色が揃い,その用途は一気に広がった.
その省エネ効果と寿命の長さを考えると,
やはりノーベル賞並の発明なのだろうと思う.

さて,神戸ルミナリエはどうだろう.
残念ながら照明がLEDだという話は聞かない.
おそらく相当量の電力を消費しているのだろう.
電力会社が別途,一時的な回線を引いているとも聞いている.
しかし,その開催される意味を考えたら,
そんな消費電力などの問題について
あれこれいうのは野暮な話なのだろう.

今年の電気関連学会 関西支部大会の懇親会で
照明学会の会長のあいさつで,こんな話があった.

「ルミナリエの照明について電力うんぬんと
苦情を言われる方も多い.
確かに,電力的には問題がある.
しかし,ルミナリエは200万人もの方が
足を運んでくださる催しなのです.

そしてこう考えてはいかがでしょうか.
その200万人の人がルミナリエに来ていた時間は,
家庭内の電灯は消えている.
つまり省エネになっているということです」

もちろん,ちょっとした笑い話になっているわけだが,
ひょっとしたら,本当にその効果はあるかもしれない,と
思わせるところが,さすが学会会長である.

そんなことを考えながら(いやすっかり忘れて),
ぜひあの光の下を歩いてみたいものである.
(実は,一度も行ったことがない)

2007年12月5日水曜日

次世代パワー半導体素子が開くパワエレの未来

昨日は,東京 品川で開かれた
パワー半導体素子に関するセミナーに参加してきた.

参加費がそこそこ高かったので,
参加者が200名以上いたことに驚いた.
パワー半導体素子への業界の関心は高いのだ.

パワー半導体素子というのは,
情報通信などに用いられる半導体とは異なり,
主に電力の制御,すなわちモータ駆動や家電の電源,
電力系統への応用などに用いられる
制御可能なパワー(電力)が大きい素子である.

素子としては,パワートランジスタ,サイリスタ,
MOSFET,GTO,IGBT,IGCT,IEGTなどがある.
この応用を研究するのがパワーエレクトロニクス(パワエレ)であり,
私もこの分野に従事している.

パワエレ機器は,
電力を交流から直流に変換したり,
電圧や電流の大きさを制御したり,
周波数を変換したりする.

直流から交流に変換する回路をインバータといい,
電力をうまく制御し電気機器や回路の効率を向上させることから
省エネには不可欠の技術である.
もちろんCO2削減にも大いに役立つ.
例えば,太陽光発電や風力発電,燃料電池など
新エネルギーだってパワエレ技術がなければ
うまく使うことはできないのだ.

皆さんの身近にある携帯電話の充電器や
ノートPCのアダプタなども交流から低圧の直流に変換する
パワエレ機器なのである(ちょっと見,黒い箱でしかないけど).

エアコン,IHクッキングヒータ,掃除機,冷蔵庫,
炊飯器,蛍光灯,テレビなど,
とにかくありとあらゆる家電に使用されている.
もちろん電気鉄道もそうだし,最近では自動車にも
非常に多くのパワエレ機器が積まれている.
私たちの生活はパワエレ機器なくしては成り立たないところまで来ている.

だから市場としても大変魅力的で,
自動車分野のパワエレの需要が10%/年程度の
高成長率で伸びているのは当然として,
それを上回る民生分野(つまり家電など)の成長率が
その用途の裾野の広さを示している.
これらの市場をメーカは見逃すはずはないのだ.

パワエレの歴史はまだ短いが
(トランジスタが発明されて60年も経っていない!),
ここまで世界に普及し,非常に多くの研究がなされてきた.
まだまだ研究することは山ほどある.

しかし,残念なことに効率向上という面では,
なかなか革新的な技術が開発されていないという現状がある.
それは基本的には回路の効率が,使用される素子の性能によって
決まってしまうというところに問題がある.
特に使用するパワー半導体素子の損失の大きさや,
スイッチングするときの周波数など,
素子の性能によって効率が制限されているのだ.

現在,パワー半導体素子はシリコンSiを用いた素子が大部分である.
しかし,その性能はSiの物性から予測される限界値に
すでに達しようとしている.
そこで,新しい材料を用いた素子に注目が集まっているのだ.

昨日のセミナーでもSiCやGaNといった次世代素子の話題が多かった.
もしこれらの素子が実現されれば,
変換器(回路)のエネルギー変換効率は99%に
肉薄するだろうと言われている.
そしてそれらの素子が低価格となり,普及するようになったら
またパワエレの世界は変わるのは間違いない.

電気機器はさらに小さく,制御はさらに高速に,
そして損失はほとんどないような回路が実現されるにちがいない.
もしインバータの効率が1%も向上したら,
この日本にあるインバータの数,容量を考えれば,
すぐに原発何基分かの電力が節約できることが計算できるだろう.
それほどインパクトがある話なのだ.

SiC素子などはかなり実用が近い段階まで
来ているように感じられた.
一方で,省エネ・CO2削減という観点から
パワエレ技術への期待も高まっている.
次世代パワー半導体素子が
次の技術革命を起こすのもそう遠くはないと感じている.

2007年12月3日月曜日

12/4

不在です.

効率の良い計算機のプログラミングとは

先日は,プログラミングの大前提は
計算速度の向上とメモリの節約であるとの話を書いた.

しかし,現在のプログラミングはそれだけではいけない.
それよりも大事なもの.
それがメンテナンス性である.

すなわち,誰が見ても,そのプログラム構造が容易に理解でき,
変更が容易に行えるようにプログラミングは
されていなければならない.

あるクライアントに,ソフトウェアを納めることとする.
数年後,プログラムに変更の必要があったとき,
再び自分がその仕事を行うとは限らない.

自分の部下や後輩,
あるいは全く別の会社のプログラマーが
行うことになるかもしれない.
そのときにプログラムが理解できない,では
まずいのである.
あるいはバグが生じやすい複雑な構造は,
望ましくないのである.

そこで,見た目にも機能的にも美しいプログラムを
書く必要が出てくる.
すなわち,メンテナンス性の良さが一番
プログラミングに要求されるスキルとなってくる.

そこで,何十枚,何百枚にもおよぶ状態遷移フロー図や,
プログラム本文の何十倍の量にもなるコメント文が,
必要となってくるのだ.

だから昔とは当然プログラミングの手法は変わってきている.
例えば,メモリの割り当ても,現在のように十分に大きなメモリが
使用できるのであれば,複雑なアロケーションはせずに,
単純に割り当てる方が,ずっとシンプルなプログラムになる.

確かに,個人においてもこれらのスキルは不可欠である.
私が3か月前に作成したプログラムがあっても,
コメントなしにはとても理解することができない.
自分が書いたものでさえ,この状態なのである.
まして他人が書くプログラムにいたっては...

(最近私は,一週間後の私は別人だと思っている.
その別人である私に向けてメモを残すようにしている)

効率の良いプログラミングは,
メモリの節約や計算速度の向上から,
メンテナンスの容易さにずいぶんとシフトしてきている.
すなわち総合的な作業量が最小化されるように,
効率化されていく.

今後は,スーパーコンピュータなどの特殊な用途だけに
メモリと速度向上のスキルは特化していくのだろう.

2007年11月30日金曜日

計算機のコーディングについて

昨日の会議で,最近の学生たちは,
コンピュータの中身が良く分かっていないどころか,
コーディングの基礎も良く分かっていないのではないか,
という話題があった.

ある学生のプログラムで,
ループの各繰り返し毎に,
標準出力をさせる文を入れていたために,
非常に計算速度が遅くなっていた,
という話が,その元である.

入出力の回数を減らすというのは,
計算速度を上げるためのテクニックとしては,
ちょっと前までは不可欠なものだった.

しかし,現在の学生たちにおいては,
あまりにコンピュータのパフォーマンスが上がりすぎたために,
そういう基本的なことを失念している人が多いのだ.

メモリの使用法についても同様なことがいえる.
昔は,どれだけメモリを節約するか,
ということが大命題だった.

まぁ私も本格的にニーモニックでコーディングし,
64k程度のメモリに四苦八苦をしていたわけではないから,
それほど偉そうなことは言えないが,
それでも学生時代は,PC上で電磁界解析などをするときに,
メッシュの数をそれなりに制限しなければ,
すぐにメモリーオーバーのエラーが出て,
計算ができなかったものである.

計算速度の向上とメモリの節約.
それを常に頭において,コーディングしていたわけである.
PCのパフォーマンスが上がって,
そういう苦労をしなくて済むようになったわけだが,
その代り,基礎的なところでポカを
起こしやすくなっているような気がする.

技術のブラックスボックス化が,
基礎技術,中堅技術のドーナツ化を招いている.

これでいいわけがない.
なんとか手を打たなければならない時期に来ているのだろう.

別のセミナーで,スーパーコンピュータを
手作りするという話題が出た.
天文学や分子動力学のような多体問題の解析に特化した
計算機モジュールを並列化し,
計算の速度を向上させようというものである.
個々のモジュールは単純な計算だけを行えば良いので,
高速化を図ることができる.

もしこのような高速計算機を手作りで作ろうとしたら,
それはそれでずいぶん計算機の勉強になるだろうと思う.
当然,学生たちに計算機を作らせてみたらどうかという話になる.
そんな実習科目があってもいい.

2007年11月29日木曜日

散歩をすれば

昨日の夜,久しぶりに散歩をした.
といっても,帰宅前に学内を一周するだけなのだけれど.
それでも広いキャンパスなので30分くらいの行程となる.

歩くのはダイエットのためもあるけれど,
それ以上に散歩は気分転換のために重要である.
散歩をすると頭の働きが良くなる気がする.
(気がするだけかもしれないけれど)

脳というのは,やはり身体と密接な関係があるに違いない.
散歩をすることで全身の血流が良くなり,
気分が良くなるだけでなく,
脳の働きも活性化するのではないか.
そう思っている.

確かに散歩の間は,いろいろなことを考える.
結構,研究のことも考える.
いつも歩く道であるからこそ,
自然,考えに集中できるのだ.
(いま気づいてみると,結構危ない状態だけど)

身体を動かしながら,頭を動かす.
もちろん激しい運動では難しいであろうが,
適度な負荷による単純な運動は,
逆に集中を高めるような気がする.
つまり散歩はそのちょうど良い運動なのだ.

以前,ある空手の流派を開いた人が
山に篭って1万本くらい突きを繰り返す稽古をしていた際に,
意識はどんどんクリアになって哲学的思想に耽っていたという
話を聞いたことがある.
この単純な繰り返し動作ということが大切なのだと思う.

単純な繰り返しに脳はすぐに飽きてしまう.
そして新たな思索を始めようとする.
これが自動的に生じるというところが大事なような気がする.
脳が自発的に思考に対して開かれるため,
新たなアイデアが生まれるチャンスが多くなるのではないだろうか.

散歩中にアイデアがひらめく,
そんな話は山ほどある.
そうでなくとも散歩をすれば,
ずいぶんと気分が良くなって,また机の前に座ることができる.

最近は,忙しくて散歩する暇もなかったし,
身を切るような寒さがその意欲をくじくのだけれど,
また機会があるたびに歩こう,
そう昨晩,散歩の帰りに思ったのである.

2007年11月28日水曜日

学生時代に勉強すると生まれる良い結果

昨日,あるメーカの方々とお話しさせていただく機会があった.
そのメーカには,本年度卒業生がひとり就職している.
自然,その卒業生の話題になった.

その卒業生の働きぶりのお話をハラハラしながら
聞いていたのだけれど,ひとつなるほどと思うことがあった.

彼はパワーエレクトロニクス(パワエレ)を勉強していて,
パワエレに関連したメーカに入った.
いくら大学で研究していたからといっても,
企業の第一線では,即戦力というわけにはいかない.
現場は常に最先端をいっているのだ.
また,研究と違って一テーマだけに集中すればよいのではなく,
総合的な知識が要求される.
当然,「基礎学力の不足」などの不満がでるのかと思っていた.

しかし,意外にも彼は(彼に失礼だけど)好評であった.
それは,「どこまでを習っていて,どこからが習っていないか」を
はっきりと表明してくれるから,ということらしい.

この話に私はすっかり感心してしまった.
パワエレを勉強してきたからこそ,自分の現在の知識を把握でき,
自分に不足していることをはっきりと認識できる.
それは非常に重要なことだ.

それは仕事に対して能力がないと言っているのとは違う.
むしろ自分に自信があるからこそ,
ここまではわかるが,この先は勉強したことがない,
とはっきりと上司に言えるのだ.
それだけでもパワエレを学生時代一生懸命勉強した価値がある.

ぼんやりとしていて,わかっているのか,わかっていないのか,
それが判断できない部下はずいぶんと取扱いに困るのだろう.
学生時代,基礎をやるということはこうした利点もあるのだと,
あらためて認識した.
逆に自分の現時点での実力を推し量るには,
それなりの素養が必要ということだ.

もちろん,その卒業生の彼の評判がよかったのは,
上記の理由だけでなく,どの仕事も一生懸命に努力し,
夜遅くまで自発的に頑張っているからであることも,
忘れずに記しておきたい.

2007年11月27日火曜日

パワエレのマンガはないものか

パワーエレクトロニクス(パワエレ)の分野で,
人材が不足しているらしい.

電機メーカ等も最近景気が良くなってきて,
家電の分野でも,パワエレの知識を持つ人が
欲しくてたまらない他,
電力の分野でも,半導体変換器による電力制御の
重要性が高まると同時に,電力会社もまた設備投資を増やしており,
重電分野でも人が足りないという.
もちろん,太陽光発電,風力発電でもパワエレは不可欠だ.

そして自動車.
あと何十年後には,すべての車にモータが
積まれているだろうことに異論を唱える人は少ないだろう.
今は自動車メーカへのパワエレ技術者の流出が
問題になるくらいである.

どうしてこれで大学の電気系の人気が低いのか,
本当に残念でならない.
各メーカ,電力会社の社長あたりが,
これからの時代はパワエレだ!と
一言高校生向けに言ってくれればいいのに,と思う.

確かにパワエレは地味である.
回路自体は動かない.
もちろん,モータを駆動するから,
ハイブリッド自動車,電車,ロボットと
すべての心臓部に含まれているけれど,
残念ながらそれ自体は地味である.

オシロスコープなどで電流・電圧波形を見て
初めて動いていることがわかる代物である.
だから本当に注目を集めにくい.

子供むけにパワエレをテーマとしたマンガでも
誰か書いてくれないかと思う.

昔,「巨人の星」,「ドカベン」によって,
野球ブームがあった.
「タイガーマスク」,
「プロレススーパースター列伝」によって,
プロレスブームがあった.
「キャプテン翼」によって,サッカーブームが,
「スラムダンク」によって,バスケットブームが,
そして「空手バカ一代」によって格闘技ブームが,
それぞれ巻き起こった.

こうしてみるとマンガの影響力は非常に大きい.
スポーツだけではない.
「ヒカルの碁」で囲碁のブームが起こったし,
「動物のお医者さん」では獣医ブームが,
最近では「のだめカンタービレ」によって
クラシックブームが起こった.
別に激しい動きがあるテーマだけとは限らないはずだ.

はんだごてを片手に必殺技ですごい回路を作るとか,
新しいパワーデバイスを用いた超高性能の回路が
世界を救うとか,そうした夢を子供たちに与える
パワエレのマンガは描けないものか,
そう,つまらない想像をときどきする.

ロボコンはあっても,
パワエレコンは難しい.
やっぱり高校生たちは盛り上がらないだろうなぁ.

なんとか魅力あるパワエレにできないものか.
そうつねづね考えている.

2007年11月26日月曜日

ガリレオは准教授志望を増やすのか

最近は大学教員を目指す学生が少ない.
博士後期課程に進む学生の数はめっきり減っている.
博士課程の学生は研究室の実力向上に不可欠なので,
この博士課程の学生の減少は非常に困っている.

この原因としては(何度も書いてきてはいるが),
博士号を取得したからといって,
なにもメリットがないからである.
いや,むしろ就職先がない,生涯賃金が少なくなる,
企業から敬遠される,などのデメリットの方が多い.

特に私に関係が深い電力業界などは,
実質的に博士課程修了の学生を採用しないというところもある.
こうした業界の状況が,現在の大学の研究室に悪影響を及ぼし,
電気系の人気を悪くしているということを,
業界はもっと真摯に受け止めるべきであると思う.

教員である私たちも,将来の就職が不透明であるのに,
博士課程への進学を勧めにくいのだ.

大学の研究室にとっては,博士課程の学生の有無は非常に大きい.
ぜひ博士課程への進学が増えるように,
電力業界だけでなく,他のメーカも
博士課程修了後の学生の採用を積極的に行ってほしいものである.
そうした努力が,電気系の底の向上につながるのだと思う.

(電力業界は,電気系の人気が下がっている状況でも,
現在の学生たちの安定志向のおかげで,就職人気が高い.
だから真剣にこのことを考えてこなかったような気がする.
ようやく電気事業連合のパワーアカデミーなどの活動が
始まろうとしてはいるが)

一方で,大学教員の人気も相変わらず低い.
以前に学生たちになぜ大学教員になりたいと思わないのか,
と尋ねたことがある.

すると,
給料は高くなさそう(当たっている)なわりに,
いつも「忙しい,忙しい」といって,大変そうである.
その上,学生の相手をしなければならない...
との答え.

うっ,見抜かれている...

もちろん,大学教員には楽しいことも多々ある.
しかし,その楽しさが学生たちに伝わるようには,私は
働いてこなかったような気がする.
つまりは,私たち(いや私?)を見て,
大学教員に魅力を感じていなかったわけである.
この答えを聞いて,私もずいぶん反省した.

しかし,この大学教員の不人気にもちょっとした朗報がある.

最近,「ガリレオ」というTVドラマが大人気だそうである.
東野圭吾原作の探偵小説に基づいたドラマで,
主演は福山雅治,そして柴咲コウ.
ずいぶん視聴率がいいらしい.
私は残念ながら,ほんの少ししか観たことがないのだけれど.
(今日も見逃した.月曜9時からの放映である)

探偵小説とはいっても,主人公の職業は
なんと准教授.専門は物理学で,
天才だが奇人であるという設定らしい.

なんといっても福山演じる准教授がカッコイイとのこと.
これだ!と私はひそかにほくそ笑んでいる.

以前,木村拓哉主演の「HERO」というドラマのおかげで,
松たか子演じる担当事務官を志望する人が増えたらしい.
(さすがに検事の人気が上がったという話はなかったけれど)
同じく木村拓哉主演の「GOOD LUCK!!」では,
パイロットと整備士の人気が向上.
「ビューティフルライフ」では美容師人気が再燃.

一方,「カバチタレ」では行政書士が,
「やまとなでしこ」や「CAとお呼びっ!」では,スチュワーデスが,
そして「ナースのお仕事」では看護婦がそれぞれ人気向上した.

そして,今回の「ガリレオ」.
必ずや准教授の人気が高まるに違いない.
再来年あたりから多くの学生が突然博士課程に進学を希望する.
そんな夢みたいな話にならないものかと,淡い期待を抱いている.

まぁ,私と福山雅治演じる主人公の間には,同じ准教授といえど,
日本海溝よりも深いギャップがあるのだけれど(笑).

2007年11月22日木曜日

「サチる」に「ネグる」

業界用語というものがある.
それがいつの間にか広がって,
一般認識のもと使用されるようになった言葉も多い.

たとえば,「トリ」という言葉.
これは落語で最後に現れる芸人を言っていたものが,
いつのまにか最後を締めくくる人全般に
用いられるようになった.

あるいは,「ドタキャン」.
これも今では日常的に使用されている.

一方,理工学系の学会で良く用いられる
業界用語もある.

例えば「サチる」
これは,飽和する,増加率が減少する,
ということを意味する.
saturateを日本語っぽくいうところから
きている(と思う).
結構,よく耳にする.

また,「ネグる」
これは式の展開などにおいて,
ある項を省略するときなどに使う.
neglectする,を略したのだと思われる.
こちらもときどき耳にする.
なぜか,「オミットる」などとは言わない.

こうした言葉遣いは,
その業界から離れた人にとっては
奇異に感じる.

私も初めて学会に参加したときのことを思い出す.
大学4年生の冬,確か雪深い長岡技術科学大学で開催された
プラズマ・核融合学会だったと思う.

風邪を引き引き,それでも,なんとか自分の発表を終え,
他の講演を聴く余裕も出てきたときに,
いきなりこうした特殊用語のオンパレードに
面食らったのだ.

「ここでプラズマはリジッドに移動するものとし,
フラックスもフリーズされているとの仮定のもとですと,
この項はネグることができ...」

もうちんぷんかんぷん.
指導教官であるS先生に,
「日本語を使って欲しいです」などと
苦情を言っていたことを今でも覚えている.

一般的にこうした用語を用いるのは,
あまり品性よろしくない.
使うのを避けるべきである.
研究者たるもの,
できるだけ正確な表現を心がけるべきだ.
(ときどき「50%」を「ゴジュッパー」などと
発音しているひとがいるが,
これはちょっといただけない)

しかし,「サチる」という言葉を
「増加率がここで減少する」などと
正確に表現しようとすると,
実は違和感を感じてしまうのも事実なのである.

「サチる」というのは良く言ったもので,
それほど物理現象にぴったりなのである.

私が学会でこの言葉を使用することはないだろうが,
他人が使用してるのを聞いても
別に違和感を感じない.

いつか一般に浸透したら
使用してもいいかもしれないとも思う.
しかし,「サチる」,「ネグる」は
一般化しないのだろうなぁ.

こうしたことを考えてみると,
和洋に関わらず,次々と新しい言葉が生まれてくる
この日本語というものの可能性の大きさを
思わずにはいられない.

2007年11月21日水曜日

ゲンコツひとつですむならば

最近,自分の至らなさのためか,
腹がたつことが多い.

往々にして,腹がたつということは,
相手がどうするということではなく,
自分がどう感じるか,ということに依存する.

相手はその怒りのTriggerとなる行動を行うが,
それに対して怒るか否かは,
こちらの受け取り方による.

赤ん坊を怒ることはない.
それは赤ん坊だから分別がつかないということを
あらかじめ認識しているからである.

一方,人に対して腹が立つのは,
その人がそうした行為をすることが,
当然その人がすべき行動から外れているからである.
そしてその行動が私に悪影響を与えるからである.

相手に対して怒りをぶつけることで
相手が反省するならば良い.
しかし,ただ相手を怒ってところで,
相手の行動が変わるということは
本当に少ないのではないだろうか.
そして,その相手の年齢が高くなればなるほど
行動が変わる確率は低くなる.

ならばなぜ怒るのか.
結局は自己満足ではないのか.
相手に自分が不愉快だと伝えるだけならば,
怒る必要はない.
怒ることによって,効果が上がるとは限らない.
むしろ逆効果のことも多い.
じっと相手を諭すことが大切なのである.

しかし,私も未熟なために,
自分の怒りを適当に収めることができないのだ.
相手を怒っても仕方がない.
でも自分の感情も手に余る.
相手を諭す余裕もない.
こうして私はストレスをためることになるのだ.

あぁ,ゲンコツひとつでみなが幸せになるならば,
それはどんなに素晴らしい世界だろうか.
そう,頭が単純な私はいつも思うのである.

2007年11月20日火曜日

睡眠と意識のClock Up

強烈に眠たくなるときがある.
それが今日だった.

車を運転していても集中力がなくなる(危ない!).
キーボードを打っていてもミスタイプが目立つ.
そしてポカが多くなる.

今日のポカは,雑誌を洗濯機で洗ってしまう事態を招いた.
もちろん直接雑誌を洗ったわけではないけれど,
洗濯かごの中に雑誌を入れたままにしていたばかりに,
雑誌も稽古のための道着とともに洗われてしまったのである.

大失態.
洗われた雑誌は「coyote 10月号」.
大判の厚い雑誌が紙くずとなってしまった.
道着もちぎれた紙くずまみれ.
本当に情けない.
家族のみなさんがブーブー言いながら,
紙くずだらけの洗濯槽の中や,
紙くずだらけに灰色になってしまった道着を
綺麗にしてくれた.
本当に申し訳ない.

睡眠不足になると,いつもこうだ.
ポカが多くなる.
失敗だらけでみなに迷惑をかける.

こうしたときは眠るに限る.
長時間の睡眠は新しい自分にrenewalしてくれる.
頭脳がClock Upするのだ.
計算処理速度がぐっと上がるような気がするのだ.

脳はもともと並列処理を行うようにできているようだ.
脳の中には,いくつもの意識が存在しており,
それぞれが,おのおのの処理を行っているような気がする.
しかし,自分が意識できる意識はひとつだけで(顕在意識),
その意識を中心にあとはNetworkでつながれているような気がするのだ.

それぞれの意識の中で行われた計算結果は,
まるで液体の中を泡のように浮かび上がってくる.
その泡を捕まえることによって,
私たちの意識にアイデアや考えが生まれるのではないだろうか.
そんなモデルが私の実感としてある.

自分の顕在意識とは別に並列処理が行われている.
例えばキーボードを叩くという行為.
私はいちいちキーボードのキー位置を意識していない.
今では考えが浮かんだとおりに手が自動的に動く.
この「自動的に」ということが,実は他のサブ意識が,
私の指と手を制御しているのである.

この処理がうまく行われているために,
意識の中に空白のWorking Memoryのスペースを確保する.
これが眠るということの意味の一つであると思う.
この眠っている間に,起きている間に積もり積もった考えが整理される.
それらは圧縮されて脳の中に格納される.
そして空白のスペースが新たに生じるのである.
このスペースをうまく用いて,
各サブ意識の計算速度は向上するのである.

もちろん,それぞれの意識で働いているCPUの演算速度も向上するし,
その意識を結ぶネットワークの通信速度も向上する.
バスも太くなる.
こうしてアイデアの結合は強くなり,また新たな発想を生む.

つまり眠ることは,私にとって新しい発想のために不可欠なのである.
まずは,とにかく仕事を忘れて布団の中にもぐりこむ.
9時間以上は眠りたい.
そうすれば,朝には新しい自分になっているような気がする.
毎朝,私は生まれ変わっている,と思うことは
私の生活において重要な意味を持っている.


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それにしてもcoyoteがだめになってしまったことは,
返す返すも残念だ.
この号は,柴田元幸氏がポールオースターの作品
「CITY OF GLASS」の全訳が掲載されていたもので,
途中まで興味深く読んでいた.
まだ10%程度の読了率だった.
あぁ,結末が気になる.
単行本に収録されるのはいつのことか.
首を長くして待つことになりそうだ.

2007年11月19日月曜日

かたつむり,身体の軸

週末土日は,電気関係学会関西支部連合大会(神戸大学)に参加.
1セッションの座長を務める.

学会に参加した時の常で,
帰宅の途は反省の時間となる.
別に今回の座長の進行や
研究室の学生の発表に関する反省ではない.
日頃の私の研究生活の至らなさを,
他の研究者の発表を見て
いつも思い知らされるのである.

なぜあの発想に至らなかったのか?
なぜあのような水も漏らさぬような検討ができないのか?

確かにいろいろと理由はある.
しかし愚痴っていても始まらない.
研究をやる価値はある.
ならば「精神一到,何事か成らざらん」である.
躊躇している暇はない.

"かたつむり
富士に登らば登るべし
精神一統なにごとかならざらん"

とは,私の好きな山岡鉄舟の歌である.

さて,とはいえここしばらくずっと忙しかった.
デスクワークばかりで,身体を動かす時間がなかった.
こうなると,どうも身体の軸が歪んでくるような気がする.

身体の中の軸?
もちろん仮想的な軸である.
ある理想的な状態に身体が(実は心も)なっているときに
身体の中で「実感できる」軸なのである.

背骨とはちょっと違うような気がする.
たぶん身体の中を切ってみても,
その軸は認識されないだろう.
しかし,身体的感覚においてそれは実感できる.
身体の中を確かに貫く軸がある.

身体が理想的な状態にあるためには,
心が身体を動かす限り,
心も理想的な状態になければならない.
(そうでなければ身体は心の悪影響を受けてしまう)
この状態を私が稽古している武道においては,
「統一体」と呼んでいる.
この状態をもって日常生活万般にあたることが,
肝要であるとしている.

残念ながら,私も常にその状態ができているとは言えない.
そこで合氣道の稽古を通じて,
歪んだ軸を矯正する,
あるいは見失ったその軸を再確認するのだ.

今日は,いつもとは別の教室のお邪魔して
とにかく身体を動かそう.
汗をかけば,まずはストレスが激減する.

今日は師走並みに寒い.
道着だけでは道場は寒いだろうなぁと躊躇する.
しかしこの怠惰な心を切り捨てて,
今日は稽古に飛び込もう.
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるだろう.
(ちょっと違う気もする)

2007年11月16日金曜日

私は何歳で

朝の通勤時にはNHK-FMを聴くことが多い.
今日はメンデルスゾーンの特集だった.

バイオリンコンチェルト第3楽章を途中から聴く.
ハイフェッツのバイオリンが冴えまくっている演奏だった.
聴き飽きるくらいよく聴く曲だけれど,
こうしていい演奏だと知らず知らず聴き入ってしまう.
そしてやっぱり名曲なのだと納得する.

つづいてルター作曲のコラールが流れ,
そしてその曲が用いられている交響曲第5番「宗教改革」が流れた.

ラジオの解説を聞いて驚いたのは,
メンデルスゾーンがこれらの曲を作曲したのは
38歳に夭折するまでの短い間であったということである.

「成熟したころの作品で」などと解説されていはいたけれど,
私の年齢よりもずっと若い.
恐ろしい才能である.
私はもう少しで40歳になろうとしているが,
とても成熟などという言葉は使えない.
未熟も未熟,青二才のままである.

(余談ではあるが,今度「椿三十郎」がリメイクされたらしい.
作中,主人公が名前を訊かれ,
「椿,椿三十郎,もうそろそろ四十郎ですが」
などと答えるシーンがあるけれども,
まさに私もそうした年になった.
あぁ,あの渋さは私にはないなぁ.

「俺か・・・、俺の名前は、桑畑三十郎。
もうそろそろ四十郎だがな」(「用心棒」)

このセリフを言っても,
誰も吹き出さないような人物に
なりたいものである.)

昔には,早熟の天才が多くいたのかもしれない.
また若くして事を成し遂げた人物も多いような気がする.

昨日,11月15日は坂本竜馬の命日だった.
(実際,旧暦だと異なる日なのかもしれない)
彼も30歳を越えたくらいで亡くなっている.

40歳を目前にして,
私はこれまでの人生で何をしてきたのだろうと
問わずにはいられない.

上をみれば,とてつもない人たちがいて,
自分の至らなさを思い知らされる.
しかし,そうしたことは成長していく上で
非常に大切だと思う.

偏差値世代は自分の横だけを見て安心する傾向がある.
縦の流れをみれば,自分たちがいかに昔に比べ
なまっちょろいかを思い知る.
ゆとり世代の学生のみなさんは,
特に縦の視点を持つことが大切なのだと思う.

2007年11月15日木曜日

N700系に乗る

昨日は,東京に調査専門委員会出席のために出張.
「新しい配電システムを構築する
パワーエレクトロニクス技術調査専門委員会」の
第1回目の委員会であった.

メンバーには,Microgrid,品質別電力供給関係や
大学・電機メーカのほか,船舶関係の方もいて,
今後の展開が楽しみな委員会となった.

さて,東京への交通手段で新幹線に乗った.
客車に入ると,どうもすべてが新しい.
車両を区切る扉の上の電光掲示板も
2行表示で見やすくなっている.
座席も新品の雰囲気をにおわせていて,
心なしか広く感じる.

そして足元を見てみると,
なんとコンセントがあった!

そこではたと思いついた.
これはN700系と呼ばれる
のぞみの最新車両ではないのかと.
少し前までは始発ともう1本くらいしか
運行されていなかったかと思うけれど,
そういえば11月から増発されるという話があったっけ.

このN700系では,車両の左右の壁に,すべての列に1個ずつ
100V ACのコンセントが設けられているのだ.

早速,手持ちのPCをコンセントに接続しようとしたが,
その前に,一応容量を確かめた.
100V, 2A, 60Hz
とある.安心して接続する.
ただこれが足もとの床面ぎりぎりのところに
表示されていたので,本当に見にくかった.
まぁ,普通の人は確認しないだろうけど.

私は新幹線の中でNOTE PCを開くことは少ない.
実は画面を見ていると乗り物酔いを起こしてしまい,
気持ち悪くなって,PCを閉じることがしばしばなのだ.

しかし,このN700系.さすが最新だけあって,
揺れが少ないような気がする.
長い時間液晶画面を見ていても,
疲れがずいぶんと少なかった.
これならば快適.
(それほど仕事は進まなかったのだけれど)

あとは無線LANだけか.
一部の航空便ではLAN接続が可能なのだという.
これが新幹線で実現できれば,
ずいぶんと新幹線を選択する人が増えるだろう,とは
私のボス,伊瀬先生の言葉である.

確かに,行き帰りの2.5時間x2=5時間を
有効に使うことができれば,かなり嬉しい.
Disturbなく集中できるところが,新幹線移動の利点である.

ただ,そこまで仕事をする必要があるのか,
という気もしないでもないが,
現実問題,その方が仕事がはかどるのだから,
まぁ,良しとしよう.

残念ながら,帰りの新幹線はN700系ではなかった.
といっても車内で仕事などはまったくせず,
委員会の懇親会で飲んだビールに酔って,
ぐっすりと新大阪まで寝ただけのことだったのだけれど.


<一言>
上にも書いたとおり,新幹線の交流は60Hzなのである.
なぜ50Hzでなく,60Hzなのか.
50Hz区間も地上で60Hzに変換して配電されている.
この理由のひとつは,50Hz区間が短いからなのだが,
その他にもトランスなどでメリットがあるからなのだと思われる.
今度,詳しく調べてみようか.

2007年11月13日火曜日

11/14

不在です.

視認性のよい背表紙

以前から,視認性の悪さが脳の能力に
悪影響を及ぼすということに関心がある.

だから机の上はなるべくきれいにする.
視界に不要なものが入ると,
それが何かを一回一回脳は識別することとなり,
あまり認識されないけれど脳に
確実に負荷をかけている.

「それが何か」と思うだけならばまだ良い.
そのモノから派生するさまざまな出来事,仕事について
思いがめぐらされるようになると,
さらに脳への負荷は重くなる.
こうしたことを避けるために,
机の上は整理整頓しておくべきである.
(とりあえず頭がすっきりする)

さて,この視認性というのは
文字についても同様なことがいえると思う.
悪字で書かれたものは,
一見して,それを理解するのに時間がかかる.
このワンステップの手間が脳の働きを鈍らせる.
ときには大事なアイデアを逃すことにもなりかねない.
(何かをした際に,それ以前に考えていたことを
忘れてしまうことはしょっちゅう経験している)

私の文字は残念ながら美しいとはとても言えない.
資料を閉じる紙ファイルの背表紙に書かれた私の文字は,
やはり一見して判断がつかず,
目を凝らして内容を理解しなければならない.

これではいけないと常々思っていた.
そこでラベルライターが欲しいと思っていたのだ.
そしてとうとう個人用のラベルライターを購入することができた.

ラベルライターというのは意外に価格が高い.
本体も高いし,カートリッジも高い.
なかなか購入に踏み切れなかった.

以前より欲しかったのはPCに接続するタイプで,
マウスで文字列を選択して,ライターに送るだけで,
ラベルが作成できるというすぐれものだった.
しかし,かなり高価でとても手が出ない.

今回購入できたのは,
近くのスーパーマーケットが新装開店した際に
在庫処分品として売りに出された,
ひと世代前の型落ち品である.
定価9000円以上のものが3000円以下.
ラベルライターのキーを打って
入力しなければならないという手間があるけれど,
まずはこれで良しとする.

ラベルを作成してファイルの背表紙に貼ってみる.
美しい.
こうでなければならない.
頭の中も幾分すっきりするような気がする.

こうしたちょっとしたことが,
仕事の能率に影響しているような気がするのだ.
物事が整理されていくとうれしい.
それは脳が負荷から解放された喜びなのだろうと思う.

2007年11月12日月曜日

忙しさが加速する

師走も前だというのに,
忙しさが等比級数的に加速している.

締め切りの仕事は山ほどある.
あさっても東京出張で委員会.
今週末も学会.

われながら笑っちゃうね,この仕事の量は.
でも,誰も代わりをしてくれない.
これが個人営業のつらさである.

前の職場ではプロジェクトとして
グループで仕事を行っていた.
グループでの仕事のシェアがうまくいっていると,
たまに私が風邪などで倒れても,
なんとか仕事は進んでいたものである.
(ときには私がいない方が仕事が片付くことも...)
それがグループで行う仕事の良さである.

グループで仕事をうまく回すにはコツがいる.
そのひとつが情報の共有である.
仕事の透明性である.
言いかえると自分が今どのような仕事をしているかを,
他のメンバーが理解している必要がある.
そうなるように,常に意識して仕事を行う.
そうであれば,グループ内に信頼関係がありさえすれば(!),
仕事はなんとかしのげるだろう.

だが,それができないのが大学教員のつらさである.
私が休んでも,誰かが代わりに教壇に立ってくれることもなく,
担当する講義は休講となってしまう.
それでは,何十名も集まってくれた
学生のみなさんに申し訳が立たない.
幸いにして未だそのような事態を招いてはいないのだけれど.

自分の許容量を超える仕事があった場合,
私は電力システムでいうところの最終手段,
"負荷遮断"をとる.
すなわち,仕事に優先度をつけて,
優先度の低いものは締め切りを勝手に先延ばしにする.
(心の中では「ごめんなさい」と繰り返し言うことを
忘れない)
そして残された負荷に十分な電力を供給する,
すなわち自分のリソースを注力するのだ.

個人営業の自転車操業の場合,倒れることは許されない.
倒れる前に負荷をコントロールするのだ.
そうやってなんとか乗り切るしかない.

どうも私のキャパシティは年齢とともに減少しているのだろうか.
それとも負荷を切り捨てる図々しさが増してきただけなのだろうか.
先延ばしの仕事をお待ちの皆様,ごめんなさい.

そして師走に向けて,忙しさはますます加速していく.

2007年11月9日金曜日

注射と痛みの妄想

昨日はインフルエンザの予防接種で注射を打った.
今日は血液検査のために,針を腕に刺した.
一体全体,私は注射が嫌いである.

針の現実の痛さが問題なのではない.
妄想する痛さが嫌なのだ.

自分の皮膚に針が刺さっていく瞬間,
恐怖で身体がこわばる.
看護師さんが,"大丈夫ですか"と尋ねてくれるが,
答える余裕はない.
そんなことを訊くくらいなら早く終了してくれと願う.

針が刺さる寸前まで,いろいろな痛さを妄想する.

血管に突き刺さる針を想像する.
血管を突き抜けたらどうなるのだろう?
筋肉に突き刺さったら痛くないのか?
針が折れることはないのか?

どんどんと妄想が膨らんでいき,
その大きさにつぶされてしまう.

針が刺さってしまえば,こうした妄想は消えていくのだけれど,
それまでがいけない.

特に血を見ると,その妄想は輪をかけて広がる.
血が抜かれているのを見ると,気分が悪くなったりする.
一度,採血のときに貧血を起こして倒れたこともある.
以来,体調の悪いときはベッドに横になって,
採血をしてもらったりしているのだ.
男として情けない限りである...

高校時代,交通事故にあった.
事故のあと,自分の命があることを確認してほっとすると,
生暖かいものが顔を伝わるのがわかった.
手で顔を触ってみると手が鮮血で朱色に染まった.
それをみて貧血気味になり地面に座り込んでしまった.
それ以来,血が怖くなってしまったのかもしれない.

自分の血を見ても相当気分が悪くなるのだけれど,
他人の血を見るともっと背筋がぞっとする.
他人が血を流しているのをみると,
その痛みをやはり妄想してしまうのだ.

映画などでナイフで皮膚を切りつけられるシーンがある.
私はその痛みを想像する.
車に人が飛ばされるシーンを見る.
腰に鈍痛を想像し,いたたまれない気持ちになる.

実を言うと,妄想の発端は,血だけではない.
毎日報道される事故や火災のニュース.
これらも妄想の始まりとなる.
被害者の方が,最後にどのような痛みを感じていたのか,
想像してしまうのである.
そしてその無念さに思いを巡らせてしまう.

こうして過剰な反応をしてしまう私は,
毎日を結構"痛く"過ごしている.
Negativeな反応は心身によろしくないことはわかるのだけれど,
そうした痛みを想像することも忘れたくないと思う.

でも,注射くらいは恐れずに受けられるようになりたいと思う.

2007年11月8日木曜日

歓迎! スポーツ部

うちの研究室には所属学生たちによる
スポーツ部というものがあるらしい.
種目は限らず,とにかく研究室のみんなで
バレーボール,バスケット,バドミントンなどを
行うらしい.

良き哉,良き哉.
私はそうした活動が大好きである.
(私は運動音痴だけれど)
研究の合間に,ぜひストレスを発散してほしい.
学生同士の親睦も深まることだろう.

うちの研究室はメンバーが多いから
ソフトボール大会出場においても,
あまり苦労が無いらしい.
女子学生は応援に行っている.
...いいじゃないか.

試合は私は見たことがないのだけれど,
(いつも勤務時間内に行われており,
なかなか応援には行きにくい...)
結構な強さらしい.
この研究室は代々スポーツが得意な学生が
集まってくるようだ.

私がこの吹田キャンパスに来て驚いたのは,
学生たちの課外活動が少ないこと.
大学2年生で吹田キャンパスに移ってきて,
その後,部活動をしない学生たちが多い.
大変にもったいないと思う.
折角の学生時代の余暇をバイトだけに費やすなんて
もったいなさすぎる.

私も学生時代は毎日運動ばかりしていた.
独自にトレーニングセンターに行ったり,
部活にいったり,研究室のみんなでテニスをしたりしていた.

身体を単に動かすだけで,気分はずいぶんと良くなる.
まぁ,私が単細胞なだけかもしれないけれど.
(学生時代は,私の脳みそは筋肉で動くとまで言われていた)

何度もいうけれど,私は運動音痴である.
ただ好きなだけである.
しかし,そのおかげで運動が精神に与える効果を,
十分に認識することができた.
こうした身体性を認識できるだけでも,運動はその意味がある.
そして,現在もその認識は大いに役立っている.

ぜひ学生のみなさんには,
この機会に運動をして,自分の身体と対話できたらよいと思う.
私は集団競技は苦手なのだけれど,その良さもあるのだろう.

スポーツ部.
手を挙げて歓迎である.

2007年11月7日水曜日

手帳を買う

来年用の手帳を買う.
何も書かれていない新しい手帳を手に取ると,
なぜかうれしくなる.
来年が良い年になることを期待するからだろうか.

学生の頃,手帳なんて全然必要じゃなかった.
すべてのスケジュールは頭の中で管理することができた.
(もちろん,ときどきポカをしたけれど)

働き始めて,手帳が不可欠となった.
手帳はまずスケジュールを管理する.
ミーティングのダブルブッキングなどをしてしまうと,
顔面蒼白になる.
とにかくこうしたエラーを起こさないために,
スケジュールだけはしっかりと管理したい.

次にアイデアのネタ帳として使う.
とにかくすべてのアイデアを書きこんでいく.
だから私の手帳はフォーマットが固定されていない.
適宜好きなようにページを埋めていくだけである.
このアイデア帳を一冊にまとめておくということが
大切なのである.

私は,少し前まで電子手帳(PDA)を使用していた.
スケジュールが頻繁に変更されるため,
紙の手帳では予定の書き換えですぐに一杯になってしまうからだ.

PDAはずいぶんと重宝した.
PCの予定表とも同期できるし,
予定の変更も簡単だ.
メールの内容やデジタルのファイルを
すぐに持ち出すこともできる.

ただ私が使っていたPDAの電池がへたり,
新しいPDAを購入しようかという時に
選択肢があまりにも少なかった.
Palm関係のPDAが日本から次々と撤退したためだ.
私が愛用していたSONYのCLIEももう新規モデルは出ない.

今までのものを電池を交換して使用しようかと
思いもしたが,Vistaの導入や新しいソフトがPDA側に
あまり開発されていないということもあり,
しばらく紙の手帳に戻ったのである.

PDAは現在ではビジネスフォンに統合されつつある.
日本でも数機種が入手できるようになってきた.
もう少し期が熟したらそちらの方に移ろうかなとも思っている.
電話,手帳,カメラ.
ビジネスツールとしては最強であるからだ.

しかし,最近は紙の手帳の良さも再認識している.
手帳のスペースに絵を描く(電気回路図が多いけれど).
デザインを描く(どこかのデザインをメモるだけでけど).
こうした作業が次のアイデアの発火を促すことも多い.
このような目的のためには白い紙と色ボールペンが適しているようだ.

来年も紙手帳が主役である.
白い手帳は,なにか期待を持たせてくれる.
ここにどんな予定が書き込まれていくのだろう.

しかし,養老孟司氏は予定が決定している未来は,
未来ではないと話していたという.
スケジュールが埋まった手帳は,
もはや未来を示すものではなくなる.
だがそれは自分の仕事の履歴を示すものになる.
それは今年の手帳を見ても実感する.

2007年11月6日火曜日

私はあがり症だったりする

今日は朝から,ある研究に対するヒアリングがあった.
ほんの短時間のプレゼンで,
リラックスした雰囲気の中で行われたにも関わらず,
私はずいぶんと緊張していた.

一体全体,私はあがり症なのである.
これで良く教壇に立っているなと思うほど,
人前で話すのはドキドキする.

これまでのいろいろと緊張して失敗してきた.
そうした失敗の積み重ねが,
また更なる緊張を生む.

中学校卒業式で送辞を読んだ.
もう膝ががくがくして,前に座っていた学生が
指をさして笑っていたのを今でも覚えている.

日本青年館で合氣道部の演武をしたときに司会をした.
目がかすんで原稿が見えず.もうメタメタだった.
武道の修行を断念するかとまで思った.

結婚式の司会をやったときもそうだった.
舌をかみかみ,声は変に気取ってしまった.
今思い出しても顔が赤くなってしまう.

どうにもこうにも,
あがることからは逃げることはできない.
よく,あがり症の克服などと本やセミナーがあるけれど,
実際,本当にできるのだろうか.

でも私は依然として人前に立ち続けている.
これは,実は自分があがるのが好きだからかもしれない,と思っている.
自分が窮地に陥るのを意外に楽しんでいるのだ.
(究極のS,いやM?)

何か特別なことをするとき,
神経が過敏になり,血圧が上がる等の反応が起こるのは,
人間として当然のことなのである.
避けることはできない.
ならば,むしろ喜んでその状況を引き受けよう.

逆にもしも,なにをやってもドキドキしないのであれば,
どんなにつまらない毎日になるだろう.
恋人と会ってもドキドキしないし,
スポーツの試合でもドキドキしない.
これでは何を人生の楽しみとするのか,ということになる.

人間をシステムとしてみた場合,
環境からの刺激を受けて,その内部に反応が誘起される.
それは当然のこととして受け止めて,
そこで誘起される反応を観察し,
その信号レベルを把握するのが面白い.
過剰なレベルは困るけれど,
適切なレベルに制御できるならばどんなに素敵だろう.

人生には刺激が必要だ.
刺激を求めていけば,そこには何かしらの緊張を伴う.
あがるのは当然.
人生の楽しみのひとつなのだ.
まぁ,私が人前に立つのは
単なる話好きということもあるのだけれど.

2007年11月5日月曜日

日本人の英語のプレゼンは

先週末は,リーガロイヤルホテル大阪で開かれた
電力に関する国際シンポジウムCIGREに参加してきた.

CIGREに参加するのは今回が初めてなので,
どのようなものなのかずいぶん楽しみにしていた.

内容は,電力会社,重電メーカ,
ケーブルメーカなどを中心とした
最近の技術情報の交換がメインで,
プラクティカルな技術に関する報告が
いろいろと行われていた.
私が聞いても興味深い内容も多く,
なかなか楽しむことができた.

しかし,日本人のプレゼンを見て,
少し考えるところがあった.

第1に,発表時に発表原稿を読むのはいかがなものかと思う.
以前このブログにも書いたけれど,
発表においては,聴衆とのコミュニケーションが大切である.
アイコンタクトや会場の雰囲気を感じることは
良いプレゼンを行うために欠かしてはならないことである.
発表原稿を読み上げるだけのプレゼンでは,
これらの要素を切り捨てることになる.

発表内容に正確を期するために
原稿を読むのはわかるのだけれど,
やはり会場受けはかなり悪い.
心配であるならば原稿を覚えるまで
練習をして発表に臨むべきである.

第2に,質疑応答がうまくいくように努力すべきである.
英語での質疑応答は,非常にストレスフルである.
だいたい質問は早口だし,
ネイティブなイングリッシュ・スピーカであるとは限らない.
だから発音もアクセントもまちまちで,
質問の内容を把握するのも一苦労である.
(おまけに壇上であがっているし)

しかし,それでも相手の質問を理解しようと
しなければならない.
何を言っているかわからなくて四苦八苦していても,
チェアマンや会場の誰かが手を貸してくれることもある.
(ときには日本語に訳してくれたりする)
まずはそこまで頑張らなければならない.

次に,簡潔にその質問に答える努力をすべきである.
「未検討です」
「考えがありません」
「あとで話し合いましょう」
などと即答するのは最低である.

発表者は,発表内容については
少なくても会場の誰よりも詳しいはずである.
自信をもって発表内容については説明すればよい.
意見を求められたときには,
意見を堂々と述べればよい.
多少偏った意見でも,質疑応答の場では
言った者勝ちである(ちょっと言い過ぎかな)

第3に,自分の話す内容の論理・ストーリーを
はっきりさせるべきである.
日本人の発表は自分で行ったことを
すべて紹介するようなものがあったりする.
聴衆はどこに議論が向かっているのかわかりづらくなる.
論理性を明瞭に示すべきであると思う.
AだからB,BだからC,
したがって,AならばC,のような三段論法でOKなのだ.
逆に論理性が不十分であれば反論も当然起こる.

残念ながら論理性が不明瞭なために,
一体なにが言いたかったのかわからないプレゼンもある.
結論は何なのか.
それを説明するために,明瞭な論理構成とデータを示すことが
特に海外の会議におけるプレゼンには重要なのだ.

さらに論理性がはっきりしていれば,
多少英語に難があったとしても相手には理解してもらえる.
質疑応答であってもデータと仮説から導き出される結論について
英語は下手であっても丁寧に説明していけば,
とりあえずわかってもらえるのである.

ただし,この論理性という問題,
英語のプレゼンだけに限る問題ではない.
日本語においても全く同じことがいえる.
海外ではこうした論理の進め方に関する授業が存在する.
あるいは論文の書き方に関する講義がある.
残念ながら日本においてはこうした講義の必要性が
十分に認識されていないようである.
しかし,訓練されていないのだから仕方がない,
では済まないのである.
自分の弱点を認識したら,それを克服するよう努力をしよう.

その他,Breakのときに,ある大学の先生が
「英語の発音が良いと,おっ,聴こうかな,って思うよね」
とおっしゃっていた.
確かにその通り.そうなればかっこがいい.
しかし,それ以前の問題が山積しているのである.

ただ,ここで述べたことは残念ながら私にも反省すべき点が多い.
まさに「自分のことは棚にあげて」という話だ.
しかし,そうだからといって避けてはいられない.
これからも修行である.

2007年11月2日金曜日

モーツァルトは悪魔か

このブログの話題は,どうも堅苦しいものか,
学生への愚痴ばかりになりがちなので,
今日は珍しく音楽の話を.

私は音楽マニアではないけれど
音楽愛好家ではあると思っている.
どんなジャンルの音楽でも聴くけれど,
クラシックを聴く機会が多い.

先日も車を運転しているとNHKのFMから,
モーツァルトが聞こえてきた.

セレナーデ 第13番 ト長調 K.525

Eine kleine Nachtmusikの愛称で知られる
モーツァルト作曲の中でも最も有名なものだ.

実は私は有名曲というのは苦手である.
何度も聴いているために,新鮮味がなくあまり感動がない.
だから自分から進んで聴こうとは思わない.

たとえばベートーベンの運命とか
ブラームスの交響曲1番などは
聴くのは年に2,3度くらいのものである.
チャイコフスキーの交響曲5番などは
もう2~3年は聴いていないような気がする.

ということで,このモーツァルトの曲も,
ラジオから聞こえてこなければ,
耳にすることはなかったものである.

演奏は現代風の速いテンポで,
聴いていて気持ち良くはあまりならなかったけれど,
新鮮味が感じられて,聴き通すことができた.
(途中で嫌になる演奏も多い)

そこでこの曲を改めて聴いてみて思ったのは,
やはりモーツァルトはすごいということ.
こんな気楽そうな曲であっても,明るさの裏に
そこはかとなく悲しさやはかなさというものが感じられる.
まぁ,これは私だけが言っているのではないのだけれど,
本当にそう思う.
若い時にこれがかけたモーツァルトというのは
やはりずいぶんな才の持ち主なのだと感じる.

小林秀雄の「モオツァルト」に紹介されていた話だけれど,
(元ネタはロマン・ロランだったかな)
ゲーテは,それも晩年のゲーテは,
モーツァルトの曲は悪魔が姿を借りて書いていたに違いない,
と思っていたそうである.
それほど人間技ではない完成度と思っていたらしい.

確かに悪魔だったら書ける気がする...

しかし,モーツァルトというのは幼いころから見世物扱いされていて,
大きくなってからは(見世物としての価値がなくなって)
ずいぶんとつらい思いをしたらしいから,
そうした悲しい思いを隠して作曲をしていたと思うと
このような透明な悲しみを感じさせる曲を書いたとしても
おかしくはないような気がする.
十分に苦渋の人生を送っているのだ.

モーツァルトでは他にもいろいろ名曲があるのだけれど,
最近よく聴くのは,クラリネット五重奏曲かクラリネット協奏曲.
クラリネットの音色が秋に良く合う.

(追記)
久しぶりに,小林秀雄の「モオツァルト」を読んだら,
ゲーテの話のネタは,エッケルマンだった.
ここに訂正しておく.(2007.11.19)

2007年11月1日木曜日

二分法の思考からの脱却

どうも世の中,簡単なものいいが要求される.
ある物事をなるべく正確に伝えようとして,
多面的にいろいろと説明する.
そして,聞いてくれた人は最後にこんなことをいう.

「で,一言でいうとどうなんですか」

う~ん,参ったという感じである.
一言で言えないから,さまざまな言葉を尽くして
説明するというのに.
結局,その物事の複雑さ(それは往々にして魅力なのだが)を
わかってくれない.

自分の説明が悪いのだろうかとも思うのだが,
世の中にあふれるメディアからの情報は,
そう言われてみると,
どうも単純化の一途をたどっているような気がする.
複雑な思考を避けようとしているような風潮がある.

最近の”お笑いを見ていても,
短時間で笑うことができる音と形で表現したものが多い.
そんなに今の人は単純思考を好むのだろうか.

また議論もすべからく二分法で考えようとする.
賛成か,反対か.
許容か,拒否か.
善か悪か.
好きか嫌いか.
これではデジタルの0か1かと同じになってしまう.
常に対立軸が意識される.
一体,中間はどこにあるのだろうか.

議論が複雑であればあるほど,
単純に白黒つけることができないのは
みんな重々わかっている.
だから複雑な問題なのだ.

しかし,その複雑さを引き受けようとする
覚悟がなくなってきているような気がする.
複雑さを引き受けるということは,
自分の中で混沌を引き受けるということである.
自分の中に多面的な考え方を
育んでいこうとするものである.

そうした考えかたの多様性を育てることこそが,
人生を豊かにするのではないかと思う.

ちょっと陳腐な言い回しだったので,
大人になるということではないかと思う,
と言い直そう.

とにかく物事を単純化し,
二分法で括らない.
そうした態度こそが大人ではないだろうか.

そうすれば過剰な反応はしなくて済む.
いまはメディアが議論を単純化しすぎるために,
対立が激しくなってしまうのではないか.
思考が単一化の方向へ向かい,
意見が合わなければ憎しみあい,
逆ならば過剰に仲間意識をもつ.

そして仲間外れにされないように,
その組織はわかりやすい価値観,思想が
支配するようになる.

どうもあんまり良くはない.

世の中は複雑なんだから,
複雑のままでいいんじゃないの.
私はそう開き直っている.
その方が自分の考え方も柔軟になるような気がする.

解があるとは限らないんだから,
無理に解を求める必要もないんじゃないの.
断言することは思考を止めることだし.

みんないい加減さを許さなくなったら,
この世の中,ずいぶん住みにくくなると思うのだけれど.

2007年10月31日水曜日

10/31

不在です。

2007年10月30日火曜日

10/30

不在です.

2007年10月29日月曜日

昔と今はちがう

先週末は,先生方と三木市で合宿して研修.
どのようにしたらより良い教育,
そして運営ができるか,議論し合う.

みなさん,驚くほど学生のことを考えている.
私などは,とてもとても...
でもそんなことは言っていられないので,
いろいろな先生方のお話をうかがう.

話題のひとつの挙がったのは,
学生の気質が私たちのころとは大きく違う,ということ.
なぜここまで消極的なのだろう.
どうやったら講義内容に興味を持ってもらえるのだろう.
昔の自分を想定して考えても解は出ない.
残念ながらそこまで大きく離れている.

昔の授業ではこんな講義もあった.
教授が教室にやってきて板書をはじめる.
あとは黒板相手にずっと話して,
学生たちの方に向くのは最初と最後だけ.
そんな講義でも私たちはなんとか勉強したものである.

今,そんな講義をしたら誰も勉強してくれないだろう.
パワーポイントを多用した,アニメーションを交えた講義.
そんなものが当たり前となっている.
(私もそのような講義スタイルだ)
しかし,これが本当に学生たちにとって良いことなのだろうか.

ビジュアル世代の学生たちには,
そうした動画を利用した講義が効果的なのはよくわかる.
しかし,昔はその足りない部分を想像しなければいけなかった.
その努力が実は理解を促していたということもあったのではないか.
今は何となくわかった気持ちにはなれるかもしれないが,
真に理解できているかどうかは疑問である.

今の学生には,講義がテレビと同じようになっている.
興味があるならば,ぼーっと眺めている.
そうでなければ,居眠りをする.
テレビと同じように提供されるサービス次第で
見るか見ないかを決定する.
講義もサービス次第なのだ.
そしてテレビと同じように内容を忘れていく.
一時的な興味でしかない.

努力するという姿勢が講義には必要だ.
昔の学生は退屈な講義でもなんとか理解しようという気持ちがあった.
今の学生は退屈な講義は先生のせいだから,
理解しなくてもよい,というような考えを持っているようだ.

もちろん退屈な講義でなくなるよう,私たちは努力しており,
それは今回の合宿でもひしひしと感じられたのだが,
その努力が実らないはがゆさもまた強くなった.

どうにか学生たちと,
勉強するというその一点だけでも
わかりあえないか,と思う.

2007年10月26日金曜日

変わらない教科書,うれしさの反面...

私の担当している「電気機器」の講義の時間の前に,
同じ教室で「プラズマ」に関する講義が行われている.
二つの講義を共通して取っている学生も多いので,
机の上に置かれたテキストを目にする機会があった.
(プラズマの講義が電気機器の講義の前にあるために,
電気機器の講義を受講する学生の数も多いような気がする.
有難いことである)

見覚えのある紺色の表紙.

「プラズマ物理入門」
Francis F. Chen (著), 内田 岱二郎 (翻訳)

という本だった.
私も所有している.
とはいえ最近はすっかり開いたこともないので,
ずっと本棚に眠ったままであるけれど.
私も昔少しプラズマを勉強していたこともあるのだ.
(実は学生時代プラズマ核融合の研究をしていた)

うれしくなって学生からテキストを借り,
手にとってペラペラページをめくると,
まず,ソフトカバーになっていることに驚いた.
私が所有している本はハードカバーで,
いかにも教科書という体裁なのに.

しかし,内容はほとんど変わっていないようである.
そこでふと気付いたのだけれど,
内容がほとんど変わっていないというのは素晴らしい.
これは物理の教科書だからであろう.

工学の教科書というのはそうもいかない.
もちろん基礎的なところは変わりようがないけれど,
応用部分においては,技術の進展を
常に反映していかなければならない.
したがって,つねに新しい記述が必要となる.

担当する電気機器などは,
もうその原理は100年以上も変わっていないが,
その応用技術はパワーエレクトロニクスの進展を反映して,
ずいぶんと高度に変化している.
その部分は,やはり改めていかなければならない.

私が電気機器を学んだ教科書は
宮入庄太先生の著されたものであり,
今でももちろん愛用しているが,
後半の半導体変換器部分については,
サイリスタの呼称をSCRとしてあることや,
PWM制御についてはほとんど触れられていないなど,
やはりちょっと古めかしさを感じてしまう.
(ちょっと専門的な用語が出てきてしまい,ごめんなさい)

こうした工学ではなく物理の教科書というのは
ずっと使えるというのだから,
気づいてみると,これは素晴らしいことなのかもしれない.

よく物理学出身の人は応用力があって,
現場でも重宝されると聞くが,
意外にこうしたことと関連しているのかもと思う.

工学であってもやはり理論には精通していなければならない.

#余談だが,最近のTV番組「ガリレオ」第1回放映分で,
主人公の大学准教授がプラズマについて板書している
シーンがあった.
何気なく見ていると,プラズマがプラズマである条件が
数式で書かれてあった.
(特性長がデバイ長よりも十分に大きい,とか
デバイ長で定義される球体積内には
十分に多数の粒子が存在するとか,などの条件)
見ていて,思わず「ふふん」とにやけてしまった.

2007年10月25日木曜日

解法の探究を目指せ

文科省から全国学力テストの結果が公表され,
子供たちの応用力が不足している傾向があることが
指摘されている。

応用力の不足,
これは大学においても深刻な問題となっているので,
さもありなんと思う一方,
この病根は本当に深いと考えさせられる。

大学の講義において学生からよく要望されるのは,
演習問題を数多くやってくれというもの。
確かに演習問題をこなすことによって,理解が進む。

それは認める。
いや演習問題をこなさなければ,
なかなか理解できないのが現実だ。

ならば演習問題をやればよいではないか,
と学生たちは言うだろう。
私もやれば良いといっている。
ただし講義中ではなく,自宅で教科書の例題を解けばよい。
あるいは図書館等にある問題集を解けばよい。

講義内で期待しているのは,
講義で取り上げた演習問題が試験に出題されることである.
こうなると残念ながら問題の意味を
理解しようとする学生は少なくなってしまう.
多くの学生は,その形式の問題を簡単に解くための
解法を覚えようとするのである.

この解法というものが曲者である.
大学受験のまでの間,勉強といえば
暗記と解法を身につけることがメインとなってしまっている.
確かにセンター試験で出題される問題の膨大さを考えると,
いちいち問題の意味を考えるなどということはできない.
限られた時間内にあれだけの問題を解くためには,
やはり解法が必要なのである.

しかし,こんな解法は大学以降の勉強,研究,
あるいは企業においては全く役に立たない.
それが学生にはわからないのである.
(センター試験にはやはり問題がある)

学生たちは受験勉強の延長で,解法を求めようとする.
こうなると解法を用いずに考えなければならない問題が発生した時に,
応用が利かないということになる.
すなわち,全国学力テストの結果と同じである.
そもそも実社会の現場において発生する問題に解法はあるのだろうか.
少し考えてみればわかるだろうに.

学生のみなさんには解法を覚える人ではなく,
未解決の問題を解法を探求する人になってほしい.
それには根気強く科目に向き合う努力が必要である.
物事の本質を見極める努力が必要である.

その努力の先には,新たな解法と,
それを見つける新たな喜びがある.

2007年10月24日水曜日

学生は消費者ではない

現在,学生たちの間に蔓延している価値観が,
授業料を払っているのだから大学において
それなりのサービスが受けられる,というものである.
(卒業も当然のようにできると考えている!)

この考えはある意味正しい.
大学は教育・研究の場を提供するものであり,
授業料を払っている学生の皆さんは
それらを享受しているのだから.

しかし,大学に顧客というものがあるとすれば,
それは学生ではなく社会であるという話を
以前にもこのブログで書いたことがある.

大学は社会に対して大きな責任を
果たしていかなければならない.
この大学は多くの経営を税金によって
賄われているのだ.
授業料は全収入の1/7~1/10の程度しか
占めていないであろう.
そう考えれば,納税者である社会に対して,
大学の責務を果たすべき必要があるのは明らかだろう.

そもそも教育とはサービス業ではないと思う.
学生たちの満足度の向上のためには
もちろん十分な努力をすべきと思うが,
勉強とはもともと自発的に行うものである.
決してサービスを享受するだけの
受動的な行為ではない.

教職員と学生たちが同等に精進(あるいは切磋琢磨)をして,
作り上げていこうとするものが大学の教育ではないかと思う.

そこを理解できず,ただ教職員が提供するサービスを
受動的に受け入れていけばよいと考えている学生は,
勉強はもちろん積極的には行わないだろうし,
その他の大学における活動についても消極的となるだろう.

それでいて自分の満足度が低ければ,
サービスの提供者に平気で不平・不満をいう.
(もちろん私たちは建設的な意見に対しては,
謙虚に耳を傾けるべきだと思うけど)

自分が努力をしなければ,当然満足度が低くなるのが,
教育・勉強というものである.
努力をしないで不平不満を言うのは
そもそもが考え違いをしている.

大学に限らず,小・中・高等学校においても
クレーマとなる親,生徒が増えていると聞く.
その底辺には,自分たちが教育の場においても
消費者であるという勘違いが蔓延しているような気がする.

現代の子供たちはバブルを経験した親たちをもち,
子供の頃からお金を払えばサービスが受けられると思っている.
また,消費者が一番偉いような勘違いをしている.
この価値観を変えようとしても,
かなりその病根は深いと思われるのである.

2007年10月23日火曜日

大学へ何をしに来ているのか

学生は一体何をしに学校に来ているのだろうか,
という話題が先生方の集まりにおいて出た.

もちろん,勉強や研究を行うため,というのが
普通の回答であろう.
しかし,本当にそうだろうか?
単位を取ること(そして卒業すること)が目的で,
勉強をしに来ているのではないのではないか,
という危惧を先生方は持っていらっしゃるのである.

大学というところは,社会に出る以前に,
自分の能力を向上させるために,
実力をつけるために,
あるいはそれらのためのポテンシャルを蓄えるために,
来るところである.

しかし,現在ではただ単位を取得し,
卒業することが目的となってしまっており,
自分の実力をつけるために勉強しようという学生が
本当に少なくなっているような感じがする.

「興味がある科目は一生懸命勉強する」などと
答える学生がいるが,一つの科目でもいいから,
本当に一心不乱に勉強している学生が何人いるのだろうか.

先日のそのミーティングでも話に出たが,
一つでも一生懸命に勉強する学生は,
その周辺知識がいずれ必要となって,
結局のところ範囲をそれなりに広げて
勉強を熱心にするようになるものである.
そうした学生は良い.

問題なのは,ひとつの科目に対しても興味が持てず,
なにも努力をしない学生である.
興味が持てないというのは講義が面白くないからだ,
という批判もあるだろう.
その批判は甘んじて受けよう.
しかし,それでもである.
学生たちが真に自分の力をつける
という目的で勉強するならば,
多少講義に不満があっても,
主体的に取り組むのではないだろうか.
とにかくひとつの科目でも良い,
内容が分かり始めれば,その科目は面白くなるものである.
そうミーティングにおいて強く主張された先生が
いらっしゃって,私も全く同感であると思ったのである.
(講義への不満は直接先生に言えば良い)

結局のところ学生たちは楽がしたいだけで,
受験という目的がなくなった今では,
勉強へ駆り立てるものがなく,
自らの将来を展望することもなく
受動的に講義に来ているだけに過ぎないのだろうか?

では,出席は成績に考慮しないといったら,
学生たちは講義に来なくなるだろうか.
単位はテストで及第点さえとれば取得できるとしたら,
彼らは学校に来なくなるであろうか?

いや,そうではないだろう,と別の先生が発言された.
学生たちは,他にやることがないから大学に来るのである,
とそう喝破されていた.
ほんとに.
そうかもしれない.
彼らは学校に来なくなったとして,
その時間を有意義に過ごすことができるのだろうか.
あるいは有意義に過ごそうとする努力をするのだろうか.
それもかなり怪しい.

ただ大学に来て講義に顔を出し,
自分の横の友達の顔を見て安心する.
それでおわり.
そんな毎日だとしたら,本当にひどい大学生活だ.
あまりに受動的すぎる.
そんな受動的な4年間(あるいは6年間)が
どのような結果を生むのか,
いや現在生みつつあるのか,
そう思うと空恐ろしい気がする.

2007年10月22日月曜日

わが栄光の...今シーズンの終わり

私にとっての今シーズンが終了した.
セ・リーグのクライマックス・シリーズにて
わが栄光の巨人軍が,中日に惨敗し,
私の今シーズンが終了した.

私はわが栄光の巨人軍ファンである.
なかなかこの大阪の地においては肩身が狭い.
そして,なぜあんなチームを応援するのだと
非難されることが多い.
でも好きなものは好きなのである.

あの実力がありながら不本意な成績に
終わっていく強者の悲しみ.
なぜか裏目に出てしまう施策.
そして歯車がどこかでずれてしまい,
修正されることなく終わっていくはがゆさ.
これらがすべて巨人軍に存在する.

私は,巨人軍は日本球界のレアル・マドリッドなのだ,
と言い続けてきた.
あれだけのスター選手を集めていながら優勝できない.
そして,あのオーナーと綺羅星のごとく存在するスターOBの
プレッシャーと戦いながら,それでも健全なチーム運営を
しようと努力しつづける監督,スタッフ,そして選手たち.
とても涙なくしては見れないのである.
(現在の選手の名前などほんのわずかしか私は知らない)

プロというのは勝てばよいというものではない.
プロがプロたるゆえんは,やはりプレーの素晴らしさである.
高校野球のような野球をプロがして勝って面白いのだろうか.
それよりも,負けてもいいから華麗なプレーで
夢を見させてくれた方がどれだけ良いか.

しかし,最近の巨人軍がその夢を見させてくれているかどうか,
と言われると答えにつまってしまう.
だがこの数年の巨人軍は,上記の不遇な強者の悲しみを
見せてくれている.
そこには,そんじょそこらの小説よりもずっと深いドラマがある.

君は,今回のクライマックスシリーズにおける
あの悲愴な原監督の表情をみただろうか.
なんという悲痛さ.
なんという無念さ.
そうしたものが伝わってこないだろうか.
あれだけの選手のコマをそろえておきながら
なにかが足りなくて栄光にはたどり着けない.

これこそが人生なのである.
コツコツやっていく人生など,
自分のものだけで十分なのである.
われわれが望むものは
プロが人生をかけてみせてくれるドラマなのである.
そしてその悲愴なドラマが今の巨人軍にあるのだ.

とりあえず,今シーズンは終わった.
今は解脱した修行僧のような落合監督が率いる
中日を応援するしかない.

来年は,また巨人軍はどのようなドラマを
見せてくれるのだろうか?
ドラマがそこにある限り,
私は巨人のファンであり,
巨人軍は,「わが栄光の...」なのである.

2007年10月19日金曜日

実力があっても性格が悪い人と,性格が良くても実力のない人

昨日,先生方とのミーティングでの話題のひとつに,
企業の就職試験では学力は重視されず,
おもにコミュニケーション力の欠如によって,
学生たちが落とされている
ということがあった.

それでは,企業は大学に対して,
学生に学力をつけさせることを期待していないのか,
という議論になるのだが,それはひとまず脇に置いておいて,
ここでは,逆になぜそこまでコミュニケーション力が
重視されるか
,ということを考えてみたい.

ちょっと前,NHKの「サラリーマン NEO」という番組の中で
(放映が終わってしまって寂しい.シーズン3に期待)
ロッテ マリーンズ監督のボビー・バレンタイン氏に
質問をして答えてもらうというコーナー
「教えて Mr.バレンタイン」を見る機会があった.

その中で,

「実力があっても性格の悪い選手と,
性格が良くても実力が足りない選手,
監督だったらどちらを採用しますか?」


という質問があった.
私だったらどちらだろう,と思いながら
画面を見てバレンタイン監督の回答を待った.

「性格が良くても実力が足りない選手を採用します」

という答えに正直驚いた.
プロ野球という実力がすべてという世界だから,
実力のある選手を採用するというのではないかと
思っていたのだ.

彼はこう説明していた.

「実力があっても性格が悪ければチームとして問題が出る.
性格を直すのは難しいけれど,
チームとして選手の力を伸ばすことは比較的可能である.
だから性格が良い選手を採用するのです」
(詳細うろ覚え)

この説明は,企業の就職試験において
コミュニケーション力を重視するという理由に
全く当てはまるのではないか,と思った.

結局のところ,大学で行っている研究が,
直接企業の活動に資するということは少ない.
したがって,そこで得られた即戦力的な実力はあまり重視しない.

それよりも企業というチームに入ったのち,
その学生がどれだけ伸びるか,そのポテンシャルに注目する.
そして,そのポテンシャルを伸ばすことができるかどうかは,
その学生のコミュニケーション力に大きく依存する.
だからこそ,コミュニケーション力を重要視するのだ.

いくら即戦力の実力があっても,
その後に不安が残る.
コミュニケーション力が不足していれば,
入社後の指導やチーム作業に問題が生じるのだ.

ただし,バレンタイン氏はこうもいっていた.

「しかし,実力が不足している選手も
基礎力をもっていることが前提だけれどね」

結局,企業に対して果たすべき大学の役割は
ここにあるのではないだろうか.
研究室で行う専門的な研究も,結局のところ
研究のかんどころをつかむための手段でしかない.
(最先端の研究を題材に
概念と知識と技術を身につけるのである.
なんという贅沢な教育方法だろう)
将来の学生たちが実力を伸ばしていくことに
資するための基礎学力の養成
それが大学が社会に対して果たす責任のひとつである.
企業のみなさんが口を酸っぱくして
基礎学力,基礎学力というのもわかる.

しかし,現在の卒業生に基礎学力がついているかどうかは
はなはだ疑問である.
そもそも学生たちは基礎学力が必要だ,などとは
本心から思っていないのではないか.
一体この先,どうするつもりなのだろうと心配してしまう.

2007年10月18日木曜日

江原さんを疑ってみることも大切

学生がマスコミ情報を無批判に受け入れる傾向は
最近特に強くなってきているように感じられる.
疑うことをあまりしない.
いや,疑うことが面倒くさい,という感じである.

今はスピリチュアリズムが大ブームである.
私はこれを危惧している.
スピリチュアリズムというのは,
やはり非科学的なものであるのだが,
それが存在することについては私は否定はしない.
宗教だって歴史の中で大きな役割を果たしてきたわけだし.

しかし,テレビや雑誌などで取り上げられていることを
無批判に受け入れるという姿勢はいただけない.
なぜそれを本当だと思うのだろうか.
テレビや新聞が取り上げる情報が
すべて正しいとは限らないのではないだろうか.

江原さんの番組を先日目にすることがあった.

「う~ん,それはお母さんです」

とタレントの亡くなったお母さんが霊となって,
タレントの身に不思議な現象を起こしたのだと断言していた.

この世の中には不思議な現象があることは私は否定しない.
物理的か心理的かわからないけれど,
人間がそう感じる不思議なことってあるだろう.
しかし,その理由が霊であるということは
どうやったら調べられるのだろうか?
例えば上記の江原さんの断言について
真偽を確かめることができるのだろうか?
そうしたことを学生のみなさんには考えてほしいと思う.

結局のところ,江原さんの人柄を信じ,
結果,彼の言を信じるということではないだろうか.
しかし,彼の人柄というのもマスコミが編集の力で
作り上げたものかもしれないのだ.
もちろんそうでないかもしれない.
だが,そうした可能性があるということを
忘れてはいけないと思う.

また信頼できる人の言葉だからと言って,
すべてが正しいわけではないことも
覚えておく必要がある.

マスコミの報道というものは,
その真偽を確かめるのが非常に難しい.
ニュースであっても,疑ってみる必要はあるのだ.

そう思うと,そうした思考を
日頃から心がけてはどうだろう.
ときには教科書に書いてあることだって疑ったって良い.
ただその真偽を確認すればよいだけのことである.
(それは結構難しかったりする.
またデータがねつ造されている論文もあることだし)

そうした思考方法を科学的な態度の根本において
私たちは行動をする必要がある.
それが社会に対する私たち理工系であるものの
責任であると思う.

2007年10月17日水曜日

マスコミの情報は本当に正しいのか

学生たちが,世間に流布している情報を無批判に受け入れる傾向が強くなっているのではないかという危惧の話.

血液型性格判断を当り前のように話している学生たちを見ると,本当に大丈夫なのかと思ってしまう.どうも最近の学生たちは無批判になんでもかんでも情報を受け入れすぎなのではないだろうか.

情報ソースがテレビであればそれを信じてしまう.
あるいは新聞であれば信じる.
最近ではインターネット上の情報もそれに類する.
こうした情報には誤りが含まれている可能性があることを,
もっと日頃から気をつけるべきではないのだろうか.

例えばテレビ.
昔はどうだったのかはしらないが,
現在は視聴率第一主義で,番組を面白くするためならば
情報操作を行うことも厭わない姿勢は,
最近でもよく報じられている.

「あるある***」などは典型的な例だろう.
データがねつ造されて放映されていた.
情報バラエティー番組でなく,
ドキュメンタリーとして放送された番組であっても,
意図的な編集が行われていることが多い.
昔,某国営放送の番組において,
常温核融合に関してインタビューを受けた研究者が,
自分の意図していたこととは異なるような発言をしていたように
編修がされていたことに憤慨し,抗議していたことを覚えている.
結局は番組の方針にしたがって
意見を述べているように編集されてしまうのだ.

それがニュースであっても同様である.
ニュース番組でとりあげられた
あるトピックに対して,賛成と反対の意見を
それぞれの専門家が述べていたのが放映されていたとする.
視聴者は,どちらの意見もあるのだとはわかるけれど,
それがどれだけの割合を占めているのかは
知らされないことが多い.
確かに反対意見は存在するが,
その分野の専門家のほぼ99%が賛成なのかもしれないのだ.
その分野ではその専門家の意見は認められていなくても,
マスコミがこうして取り上げることによって
一般社会に影響を及ぼしはじめることがある.
そうなるとその分野の人たちは対応に
苦慮しなければならなくなるのである.
本当にマスコミはこうした悪影響に無責任なのである.

あるいはリアルタイムで飛び込んでくるニュースでも
誤報は数多い.
私は1999年9月に起きたJCO事故の際に,
その隣にある研究所(旧日本原子力研究所那珂研究所)に居たのだが,
そのときテレビから流れるニュースは
とても信じられない内容だったのを覚えている.

JCOの事業所の屋根が爆発で吹き飛んだ,
などと報道されていたのに驚いて,
窓から隣のJCO建屋を確かめたりしたものである.
CNNもひどい情報を流していた.
ああした情報で住民にパニックが起こっていたならば,
報道機関はどのような責任をとるつもりだったのだろう?

その後の新聞報道もひどかった.
科学技術的に誤った記事などは平気で書いていた.
それよりも酷かったのは,
明らかに悪意をもって記事を書いていたことである.

JCOの事故では付近にはほとんど影響がない放射能しか漏れなかった.
しかし,新聞では多大な放射能を受けると
重大な影響を人体に及ぼすというような
不安を増幅させるような話ばかりを書き,
実際の放射能は微小で,ほとんど影響が無いと
安心させるような記事は,ほとんどなかった.

(たとえば1シーベルトの被ばくについての話を書き,
記事の最後の行で,周辺住民の被ばく量は
30ミリシーベルトにも満たない,とちょっと書くだけだった.
1シーベルトは,JCOの作業員の被ばくレベルであったけれど,
周辺にはそのような高いレベルでの被ばくは起こらなかった.
周辺住民の被ばく量については,
原子力関係作業者の年間被ばく限度量である50ミリシーベルトを
下回っていたけれど,
公衆の被ばく限度量である1ミリシーベルトを越えてしまった住民は
100名以上にのぼった)

後日,周辺の農作物が風評被害を受けたとしてJCOを訴えたが,
私は訴訟先はマスコミも含むべきだったと思っている.
もともと新聞社によっては原子力に対しては
悪意をもった記事を社の方針として
書こうとしているところもあるから,
とても中立性を保っているとは思えない.
社内には,如何に断言をせずして(証拠を残さずして),
読者に悪印象を与えることができるか,という
マニュアルも存在しているという.
社会の公器と言われた新聞でさえもこんな感じなのである.

とにかく,情報の真偽というものは
自分で注意深く判断する必要がある.
そして,この情報社会においてはその能力を磨く以外に
対処のしようがない.
そうでなければインターネット上のデマなどに踊らされて,
大変な事態を招きかねないだろう.

ということで,
今回はいかにマスコミの情報は
操作されているかというお話でした.
この話題つづきます.

2007年10月16日火曜日

血液型性格判断を信じるのか?

私が嫌いな話題のひとつに血液型性格判断がある.

「君って何型?」

「A型」

「やっぱりね.几帳面だものなぁ」

というのが典型的な会話.
どうしてそうなのか,全く理解できない.

これが理工系の学生でも平気で話題に取り上げるのだから呆れてしまう.
彼らはどこに根拠を持っているのだろうか?
みんながいうから,マスコミが取り上げるから,
それを信じるというのだろうか?
全く科学的ではない.

韓国でも流行っているし...などという人もいる.
それは日本から伝わったものである.
中国においても流行っているのだという.
一方,欧米ではほとんどそんな話は通用しない.

血液型と性格の相関について述べられた論文については,
その科学性が否定されており,現在ではそれを取り上げることはない.
しかし,そうした話だけが流布され残っているのである.
それを科学的に証明した論文があるならば私に教えてほしい.

そもそも血液型で性格を4つにしか分けないということを
不思議に思わないのだろうか?
欧米でのB型,AB型の人が占める割合を知っているのだろうか?
本当に少ないのである.
あるいは,ネイティブアメリカンなどはほとんどがO型のはずである.
以前,このネイティブアメリカンはO型ばかりという話をしたら,

「あぁ,だからみんな大らかな性格なんだ」

などと真面目に感想を述べるのだから本当に呆れる.

冗談でみんな楽しんでいるのだからいいじゃないか,
などという人がいるが,
もしも会社で血液型で適性を判断され,
就職や配属に影響を与えているとしたら,
どうだろう.
ここまでいくと,明らかに人権侵害の疑いがある.

相関がないことも証明できていないではないか,
(否定もできていない)
などという話をする人もいるが,
いったいどういう料簡なのだろうと思う.

では実際にデータをとってみたらどうか,
という人もいるだろう.
しかし,これが厄介で,日本で調査をやれば,
たぶん相関があるという結果を得ることになるだろう.
たとえば,A型だから私は几帳面だ.
B型だからマイペース.
AB型だから個性的.
そんなふうに自分を判断してしまっている人が多いのだ.
それほど私たちの意識には血液型と性格の相関が
信じ込まされているのだ.

実際に調査をするならば,血液型性格判断の説が
ほとんど知られていない国で行うべきである.
あるいは,血液型の割合が日本と異なる国で
それぞれの性格の人が人口に占める割合などを
調査してみるなどという手法が必要である.
まぁ,すでにそれに準じた調査が行われ,
そこには相関がないと現在では
結論付けられているのだけれど.

とにかく,あまりに無批判にこうした説を
学生は受け入れすぎるのではないかと,
それを私は危惧している.
理工系の学生でさえこんな感じなのだから,
一般社会にいたっては...

そう思うとこの社会はかなり危ういことに気づく.

2007年10月15日月曜日

学食の味とノーベル賞

先週の土曜日は,大阪電気通信大学で
パワーエレクトロニクス学会の研究会が開催された.

昼食は大阪電気通信大学の食堂で,
メーカや他大学の委員の皆さんととることになった.
そこでみなさんが口々におっしゃっていたのが,
学生食堂(学食)の食事の美味しさである.
つまりは,自分たちが学生のころに比べて,
ずいぶんと学食の質が上がっているというのである.

もちろん,その場の全員が大阪電気通信大学の
卒業生であったというわけではない.
(いや,誰もいなかったかな)
でも,今から15~25年前というのは,
どこの大学の学食もたいして変わらず,
安かろう,まずかろう,というメニューだったのである.

それが現在.
どこの大学も学生たちへのサービスを重視し,
まずきれいで明るい雰囲気の学食を備えるようにしている.
そしてメニューも,一人暮らしの学生でも
バランスの良い食事が取れるように工夫されている.
確かに昔とは大きな違いだ.

私はあまり味に頓着しない方だし,
学生のころなどはお腹が膨れれば
それで良かったくらいだったのだけれど,
言われてみると,今の方がおいしい気がする.
そう思うと現在の学生は幸せなのだなとあらためて思う.

私の所属する大阪大学工学部の学食は
カフェテリア方式で,
焼き魚などもチョイスできるし,
サラダバーで生野菜も食べることができる.
なるほど,昔の学食とはずいぶん違う.

実はかくいう私も,昼も夕もこの学食で食べている.
平日の毎日食べているのだけれど,
飽きずに通っている.
これも意外にすごいことなのかもしれない.
(まぁ,頓着しないのは相変わらずなのだけれど)

私が学生時代,某有名T大学からノーベル賞受賞者が生まれないのは
学食のメシがまずいからなどと噂が立ったことがあった.
まずいかうまいか,本当はどうだったのかは知らないが,
(一度その学食で食べたけれど,すっかり忘れてしまった)
学食の質が上がるとノーベル賞が出るというのであれば,
現在の大学は,あちらこちらでノーベル賞級の
研究者を輩出しているはずである.
それくらい現在の学食は味が向上している.

2007年10月12日金曜日

子供たちは全く新しい感性で生きていく

運転をしていて,空を見上げると
関西空港から飛び立った飛行機が陽を受けて光っていた.

昔の人は,こんなものが空を飛ぶなんて
思ってもいなかっただろうなぁ.
もしみたらびっくりするだろうに.

と考えていたのだけれど,
私もこれまでの人生,
いろいろなモノに驚いてきたんだと気づいた.

例えば,携帯電話,写メール,iモード.
移動電話といえば,スーツケースに入ったものか,
ホルスタータイプのものしかなかった時代を
生きてきたものにとっては,
これらのものがポケベルに代わって登場してきたときには,
本当に驚いたものである.
現在では,昔のウルトラ警備隊が持っていた通信機に
匹敵するサイズと機能を持っている.
それはそれは驚くべき変革だったのである.

飛行機に私が驚かないのは,
生まれたときにはすでに飛行機が飛んでいたからにすぎない.
今の子供たちは生まれたときから携帯電話があり,
インターネットが普及している.
それを当然のものとして受けとめ,
上手に利用している.
驚く必要がない.

技術の発展とはこんなものなのかなと思う.
昔を知っているひと世代前の人間にとっては,
そのありがたみが実感できるけれども,
次の世代の人たちには,それが当り前の技術となっている.

いつまでも飛行機に驚いているわけにはいかないけれど,
そうしてありがたみが薄れていくのはさびしい思いがする.
しかし,これが技術の宿命かとも思う.

以前,ホンダの開発した二足歩行ロボット アシモの実物を
初めて目にしたとき,私はやはりずいぶんと興奮したのだけれど,
息子は全然驚いていなかった.
彼にとってみれば,テレビに出てくるロボットはすべて
二足歩行をしているのだから驚く理由がなかったのだ.

子供たちと私の感性はずいぶん違うのだなとそのとき実感した.

2007年10月11日木曜日

私にとっては4回目であっても

20世紀の偉大な指揮者であるフルトヴェングラーのアインザッツは,
指揮棒がブルブルと震えていたために,
楽団員に非常に緊張を与えていたのだという.
いつはじまるのか,そのタイミングが取りづらかったらしい.

だから彼の録音,たとえばベートーヴェンの第5番交響曲であっても,
その始まりは,どの録音についても印象が異なる.
演奏自体も,どの録音もかなり違うテンポで演奏されたりしていて,
そのたびにはっとさせられる.

彼は楽団員にこういっていたという.

「君たちはもう何万回と演奏した曲かもしれないが,
聴衆たちにとっては,それが初めて演奏されるように
聴こえなければならない」(詳細うろ覚え)

常に新鮮味を感じさせ,
感動を与える演奏でなければならないということだろう.

なぜこんな話をしたかというと,
本日今年で4年目となる講義の2回目があった.
最初の年の,私が持っていた一生懸命さが,
今は失われていないか,
そう不安に思ったのである.

やはり教員の熱意は学生たちにダイレクトに伝わる.
講義する内容は一緒ではあるけれど,
非言語的になにかが確実に学生たちに伝わっている.
それは熱意であったり,あるときはなまけ心かもしれない.

そうしたことを考えるとき,
私はフルトヴェングラーのこの話を思い出して,
また気合いを入れ直すのである.
私にとっては4年目の講義であっても,
学生のみなさんにとっては初めての講義なのである.
今日の講義も,この気合いが
みんなに伝わったのならば良いのだけれど.

いっそフルトヴェングラーをみならって,
一体何を話すかわからない講義にして,
学生たちの集中を促そうかな,とも考えるけれど,
そうなったら苦情・不満がでるだろうな,やっぱり.

2007年10月10日水曜日

一体だれが将来の核融合を支えるのか

昨日は東京においてJT-60SAに関する会議に参加してきた.
JT-60とは日本が世界に誇る核融合試験装置である.
(正確には臨界プラズマ試験装置.
人類が作り出した最高温度5.2億度のギネスレコードも持っている)

現在JT-60として常伝導のコイルを用いている装置を,
超伝導化改造し,JT-60SAとして
100秒程度の高性能プラズマの
長時間の放電を実現しよう,というものである.
(ちなみにSAは,Super Advancedとのこと)

ITERという国際協力によって建設が進められている
核融合実験炉のサテライトマシンとして,
7年後くらいから実験を行おうとしている.
ITERの建設が完了するのは少なくとも10年後だから,
それに先行して実験を行い,
ITERの実験に資するのもこの装置の目的でもある.

だから,実はこの装置は半分はヨーロッパの出資によって
建設されるのである.
半分はITERのための試験(BA,Broad Approach)としての性格を持ち,
このBA分についてはヨーロッパと半々の取り分.
そして残り半分は,日本の国内装置としての性格をもち,
これについては日本が主導的に試験を行うことになっている.

昨日の会合では,ヨーロッパとの国際協力に関わる多くの課題も
報告されていたのだが,私がもっとも深刻に思ったのは
人材不足の問題である.

このJT-60SAは核融合分野の
人材育成といった役割も期待されている.
しかし,JT-60SA計画を主体的に行う
日本原子力開発機構(JAEA)は,現在
新たなパーマネントな職員をなかなか増やせない状況にある.
つまりは新人が少ないのである.

現状では,任期付きの研究員が頑張っている.
文科省は,任期付きの職を増やし研究員の流動性を狙ったのだけど,
なかなかそうはなっていない.
そうしたキャリアパスは現在も確立したとは言い難い.
結局,残念ながらそうした道を選ぶには相当の覚悟がいる.

そうした道に,現在の安定志向の学生が進むであろうか.
核融合分野には当然博士の研究員が必要とされている.
しかし,そうした先の見えない道に進むことを覚悟して,
博士課程に進む学生がどれだけいると思っているのだろうか.

JAEAは,人材を育ててほしいと大学にいうけれど,
博士号を取得しても5年程度しか雇われず,
その先どうなるかわからない,といわれて,
そんな道を学生たちに勧めることができるだろうか.
少なくとも私は消極的である.

しかし,このままいけば核融合分野の人材不足は
深刻な状況になるのは間違いない.
7年後,JT-60SAの装置ができたときに実験で活躍しようとする若手は
だれもいないということになるのではないか.
そして,ITERが完成したとき,日本は世界を主導できる人材を
擁しているのだろうか.
一体誰が日本を背負うのか?
昨日,私は非常に暗澹たる思いをもって帰宅の途に就いたのである.

やはり,JAEAがパーマネントに職員を確保してもらわなければ
どうにもならないのではないかと思う.
任期制というのは,学生たちに全然魅力的ではないのである.
核融合科学研究所もそれほど研究者を
将来のために確保してくれる状況にはないようだ.

う~ん,私は核融合を応援したいのだけれど,
どうすれば良いのか良い案が思い浮かばない.
全くもって問題なのである.


#私も大学の任期付き職員なのだけど...

2007年10月8日月曜日

10/9

不在です。

2007年10月5日金曜日

暑いのか寒いのか,そして人の服装とヒステリシス

朝晩はずいぶんと涼しくなり,
すっかり秋めいてきた.
と思いきや,まだ日中の最高気温は25度を
平気で越え,まだまだ昼間は半袖シャツの方が
良いのではないかとも思える.
学内を見ても,まだTシャツ姿が多いことだし.

春と秋の季節で,町行く人の服装を比べてみると,
同じ気温であっても,
春には長袖の人が多く,
秋には半袖の人が多い.

春には冬の名残があり,
秋には夏の名残がある.
すなわち,人の服装は過去の履歴を引きずって,
気温に応じて即座に変化するわけではない.
これをヒステリシス特性という.
(箪笥の中身を変えるのに時間がかかるということかな)

昨日,磁性体のB-H曲線を講義していたときに
こんな話をした.
実は,このネタは私が学生時代に電磁気学の講義で
内藤喜之先生に習ったことの受け売りである.
(まぁ,知識の伝達とは多くの場合受け売りになるのだけれど)

私はもうすっかり歳なので,
この朝晩と昼の温度差に身体がついていけず,
風邪をひいてしまった.
喉と熱はもうおさまったのだけれど,
まだ,頭痛,鼻水,咳に悩まされている.
おかげで今週はどうも調子がでなかった.

やれやれ,歳を取るつれ自己管理が難しくなるようだ.
少々の風邪でもずいぶんしんどく感じるようだし.

2007年10月4日木曜日

他分野の学問で自分のポテンシャルを高める

大学に来て痛感したのは,
教員とは総合的な知識が要求されるということ.

単に自分の専門だけ研究し,
論文を書けばよいというものではない.
以前の研究所にいたころ,
視野が狭くならないようにと気をつけてはいたつもりだったが,
やはりそれなりにタコつぼ的な研究生活だったようだ.

自分の専門を深く掘り下げることも必要だが,
他分野の学問,研究も大いに参考になることが多い.
こうした間口を広くとっておくことが,
研究者としてのポテンシャルを高めることになるのだと思う.

しかし,最近の学生には自らその間口を
狭めている人が多いように思う.
博士課程の学生などには,自分の専門分野でなければ
発表を聴かない,あるいは議論に参加しない人も多いと聞く.

そうでなくても,修士課程や学部生であっても,
自分で間口を広げて,いろいろな学問を経験してみようという
気概をもった人が少なくなりつつあるようだ.

要は,楽して単位が取れれば良い,との考え方に尽きる.
しかし,自分の将来のポテンシャルをあげるためには,
大学での学問は非常に有益である.
専門以外に幅広く見聞を広げることができるからである.

専門などは自分が就職してから嫌というほど勉強させられる.
そもそも自分が現在やっている研究と就職してからの研究が
一致することなど,そうそうあり得ないのである.

と考えると,現時点で自分の研究はこれです,と線を引き,
他分野の知識を拒絶するなどという態度は,
決して賢いものとは言えないだろう.

大学時代は本当に恵まれている.
講義さえ出席すれば,第一線の知識を
やさしく教えてくれる先生がいる.
質問をすれば答えてくれる先生がいる.
この素晴らしい機会を逃してはいけない.

自分の専門ではないといって耳をふさぐのではなく,
他分野の講義にも積極的に参加しもっと耳目を広げて,
将来の自分のために投資してはどうだろうか.
して無駄になる勉強というものはそうそう無いものである.

2007年10月3日水曜日

無愛想では通用しない

私は自慢ではないけれど,顔のつくりが不細工である.
それに少々無愛想なのかもしれないと思っている.

顔のつくりについては,
遺伝なのでどうしようもないのだけれど,
もう少し,愛想は良くしても良いかと思っている.
でもちょっと無愛想くらいで十分とも思っているのだ.

本日,あるミーティングで表情に関する話が出た.
日本においては,感情を顔をあらわさないことを
美徳とする風潮があった.
その一方で(いや,だからこそ),言葉に出さなくても
相手の表情を読んで相手の心を察するということが
求められてきた.
そうした文化がいまだに意外と強く残っている.

私も無意識のうちにそうした文化の影響を受けている.
それほどおかしくなければ笑わないし,
腹の中は煮えくりかえっていても顔には出さない.
(いや出さないようにしているだけかも)
そのように知らず知らずのうちに育ってきた.

それを思い知ったのは,何年か前にフランス マルセイユで
開かれた学会でのバンケットでのこと.
国際学会でのバンケットにおいては,
それぞれのお国柄にあった出し物が用意されていることが多い.
例えば,日本で開催された場合には,琴や和太鼓の演奏などが,
バンケットで披露される.
それを見て海外の方はヤンヤヤンヤと喝采を贈るわけである.

そのマルセイユでは,当時町で一番最先端のプレイスポットだったという
倉庫を改造したアミューズメント施設でバンケットが開催された.
倉庫の中の町で,大道芸人が技を披露していたり,
露店のようなところでゲームを楽しんだりする,という趣向である.

私はそもそも騒がしいのが嫌いである.
たとえば,日本でのパーティでも,ビンゴ大会とかが始まると,
もう耳をふさいで会場の外へ逃れてしまう位である.
もっとゆっくり酒と会話を楽しませてくれ,と思う.

この時のマルセイユの出し物も,私にはうんざりだった.
でも全然嫌な顔はしていなかったと思う.
それなりに異文化の香りがして物珍しかったし.

多々あるゲームのなかのひとつにペタンクみたいなものがあり,
それに無理やり参加させられた.
まぁ,そこそこの点数をとって,少し私はニコリとした.
(というか,私にとってはそれはそれで
十分な笑顔だったと思うのだけれど)

しかし,となりにいた外国人は私に向かって,

「面白くないのか?もっと楽しめよ!」

みたいなことをいってきた.私は,

「十分楽しんでるさ」

と答えたのだけれど,向こうは全然そうは思わない.
私の肩を強くたたいて,さぁ,もっとやれ,もっとやれ,と
前に出させるのだ.
これには本当に辟易した.
もうほっといてくれ!と言いたくなった.

つまりは,西洋人からみると私の顔は表情に乏しく,
無感動で,全然楽しんでいないように見えるらしいのだ.

そう思うと,それまでの海外旅行においても,
こちらは十分楽しんでいるのに,
同行する西洋人が不安そうに
私の顔を見ていることがあったように思う.
あぁ,そうだったのか.
あれは,私の表情が少なくて心配していたのか.
ようやく合点がいった.

以来,海外では私が喜ぶときには,
ずいぶんとオーバーアクション気味に態度で示すようになった.

気づいてみると,海外慣れしている先生方や研究者は,
こうした大きめのアクションをして,海外の方と会話している.
それが相手に安心を与え,
結局のところ信頼を得ることにつながっているのだ.

西洋人は表情を読み取る感度が悪く,私たちは相手に
フィードバックする信号レベルを上げなければならない,
などと書くと怒られるだろうか.
でもそれが私の偽らざる実感なのである.
そしてやっぱり日本では無愛想くらいで十分だと思っているのだ.
(いや,でも愛想はいい方です,ほんとに)

2007年10月2日火曜日

多様性に恵まれた研究室

新学期が始まり,私たちの研究室にもNew comerがあった.
なんと5名.
これで私たちの研究室は,学生だけで32名,
スタッフを含めると36名の大所帯となる.

たぶん,この電気電子情報工学専攻の中でも
最大の陣容となることだろう.

さて,新人5名のうち,
社会人の博士課程の方と,
3年から飛び級できた学生が日本人である.

あとは,
フランスから1名,
中国から1名,
そして韓国から1名
という構成である.

これまでに,
インドネシアから1名
中国から1名
台湾から1名
ジンバブエから1名
韓国から1名
の学生が在籍しているから,
海外からの留学生はトータルで8名ということになる.

8 / 32というと25%になる.
私たちの研究室は,いながらにして
国際交流ができるという素晴らしい環境が整いつつある.
(もっと英会話が研究室内で飛び交うようになるといいのだけど)

そして,社会人ドクター,飛び級などの人もいて,
この研究室には,優れたDivesityが内包されるようになった.

優れたDiversityは,新しい発想のincubatorとなりうる.
この可能性が私たちの研究室の新たな魅力となりつつある.
こうした環境は欲しくても簡単には手に入らない.
ぜひ学生の皆さんはこの機会を十分に生かしてほしいと思う.

2007年10月1日月曜日

新学期の始まり ~ 教員に夏休みはない

今日から新学期が始まった.
では,いままで夏休みだったのか,と言われると,
実はそうなのである.
8月のお盆前から昨日までが,本学の夏休みであった.

こうした話をすると,大学は夏休みがあっていいですねぇと
良く言われるのだけれど,全くそうではない.
夏休みがあるのは,学生,それも学部学生だけである.

私たち教員は,ほとんど休みがない.
お盆に3日休んだだけである.
というのは,大学では8月頭まで講義があり,
まとまって学校を空けることができない.
したがって,学会や研究会は夏休みを狙って開催されることになる.
こうした学会や研究会をハシゴすることによって,
そしてさらに大学院の入試や編入学試験などもあって,
教員は夏休み,忙殺されるのである.

では講義が始まれば楽になるのかといえば,
もちろんそうではない.
講義の合間をぬって,出張や会議にでかけることになる.
講義も演習などがあってかなり大変なのである.
そのうえ,学生実験もこなさなければならない.

こうしてまた新学期も忙殺される.
もう大学に来て3年が過ぎ,
こうした状況にも慣れてきた.

あとは自分でどう時間をやりくりするか,というだけのことである.
長い時間をとることはできないので,
短い時間に集中し,それを組み合わせて仕事をこなす.
その技術をいま,身につけつつある.

なるほど教員というものは忙しい.
しかし,これが年末に向けて加速していくというのだから,
いまから体力をつけておくくらいしか対策がないのである.

2007年9月30日日曜日

哲学者,思想家の説明力に驚嘆する

普段このブログは平日更新を心がけているのだけれど,
今日は特別に更新。

「私の身体は頭がいい」 (内田 樹,文春文庫) を読了。
(息子の運動会の"場所取り"の待ち時間で読んだのだけど)

内田樹氏は,フランス哲学の教授にして,
合気道家でもある思想家(?)である。
神戸女学院大学にお勤めとのことで,
ずいぶんと近いところに居られるのだということは,
最近になって初めて知った。

少し前から,氏(とか呼んでいいのかな。やっぱり先生と呼ぶべきかも)の
ブログにはたびたびお邪魔し,
その記事の明快な論理性に惹かれている。
その内田氏が武道について著された本が文庫本化されたので,
内田ワールドへの手始めとして読んだのである。

氏は合気道の修行者であり,
身体性への考察が非常に面白い。
また合気道という武道の特殊性についても
はっきりと認識され,それについても素晴らしい説明をされている。

そして,この著書の中で氏は武道の第一の目的は,
「生き延びること」であると述べられている。
そのために,「敵」という概念には,
危害を加える人間に限らず,
天災や病気のウィルスも含まれる。
そして,この「敵」 (主体ー他者)の二元論からの脱却を目指すことこそ
武道の目的なのだと喝破されている。

...昨日,私も偶然にも「武道の目的」について
ブログの記事を書き,それは"survive"することだと述べた。
その目的はほぼ一致している。
これについては驚き,正直うれしかった。
武道というものは武技に限らない総合的なシステムであるという私の考えは,
それほど遠くないのであると勇気付けられた。
(というか,武道修行者ならばみなそう思うのだろうか?)

しかし,ショックだったのは,その説明力の素晴らしさである。
哲学者,思想家というものは,ここまでクリアに論理をすすめ,
読者に(なるべく)正確に自分の考えを伝えることができるものなのか。
そうしたことに感動し,その一方で自分の論理展開の幼稚さを恥じた。
それがショックだったのだ。

もちろん,工学的な論文というものにはよりクリアな論理展開が求められる。
あいまいさは許されない。
それが介入しないために私たちは数式とデータを用いるのだ。
(時々,データの解釈には問題が生じることもあろうが)
しかし,それはあくまでも事実の描写であり,
理論,仮説の説明である。

こう考えると,工学的な理論,仮説というのは,
人間の考えに比べるとずいぶんと単純なものであるということに気づく。
いや,理論,仮説というものは万人に理解されうるべきものでなければならず,
基本的に単純であることが求められるのだ。

一方で,人間の思考というものはその発生時点からして複合的である。
あるひとつの単純な論理だけが初めから生まれてくるということは
ほとんどないのではないか。
多岐にわたる複合的な思索の結果として,単純な結論に至る。
そうしたものなのだろうと思う。

したがって,その結論に至る過程を誰にとっても理解してもらえるように
説明することは,その決して順序立てて想起されたのではない思索を
系統的に解きほぐし,そこに論理性を持たせるようにしなければならない。
理工学の論文とは難しさが違う。
それができるのが哲学者,思想家なのであろう。
そうでなければ,思索のプロとは呼ばれない。

しかし,いま,この私の考えを説明しようとするだけでも,
自分の未熟さに悲しくなる。
どうやったら自分の考えをより精度良く伝えることができるのだろうか。
いや,それ以前に,自分の考えをより精密に構築していけるのだろうか。
そうした力を私は身につけていきたい。

このブログは,短時間に書きつけているのが常であるが,
少しでもこの説明力を磨こうと思う。

氏の文章を読んで,ちょっとショックだったので,
今日は特別にブログを更新した。
それほど衝撃的だったのだ。

2007年9月28日金曜日

武道の目的とは?

もう武道を修行し始めて24年にもなろうとしている.
残念ながら未だ至らず,人に自慢できるものではなく,
下手の横好きといった具合で,
ほそぼそと道場通いを継続している程度なのではあるが.

しかし,私の人生に「武道」が占める割合はすこぶる大きい.
武道の存在なくして,今の私はありえない.
そんなところまで深く入り込んでしまっている.

なぜこれほどまでに武道にひかれるのか.
これから少し考えていきたい.

ということで今回は,まず武道の目的は何か.
考え始めるとなかなか難しいのかもしれないが,
私は単純に「Surviveすること」と考えている.

Surviveするということは,
「敵」というものと戦って負けないということであり,
不利な状況においても生き延びようとすることであり,
そうした不利な状況に陥らぬよう危険を察知することである.

ここらへんは,誰もが武道からイメージしやすいことだろうけれど,
この他には,
周囲の人たち・状況に適応すること,
自分の能力のすべてを開発し使用する技術を磨くこと,
などが含まれる.
これらは,ちょっと武道という言葉からはイメージしにくいかもしれない.
だが,Surviveする,という目的のために,
(これらは日常生活をおくる上でも)
非常に有用なことである.

これらの目的が通常言われるスポーツとは異なることが理解できるだろう.
武道というのは,単に武技を学ぶだけが目的ではないのである.
身体的・精神的に統合された非常に高度なシステムなのである.

中学校の体育に武道が採用されたからといって,
これらを教えることはたぶん相当に難しい.

しかし,だからこそ一生をかけて学ぶ価値がある.
そして一度はまったら,
もうその魅力から逃げだすことができなくなるのである.

2007年9月27日木曜日

プロジェクトXは工学にとって福音となったのか

工学離れが深刻である.
文科省の調査によれば,この10年で
工学系志願者の数がほぼ半減したのだという.
一方,医学,薬学は増加し,
看護,医療,保健などの分野は倍増している.

これは高校生が不透明なこの世の中で,
資格などに魅力を感じているからだと推測されている.
また工学は分野が多岐にわたりすぎており,
高校生からは内容がよく見えないといった理由もあるのだという.

内容が分かりやすい建築工学科など
デザイン系は工学系のなかでも健闘している.
一方,電気や機械といった古くある分野は,
かなり苦戦しているのが現状である.

ちょっと以前のことになるがNHKのTV放映で
「プロジェクトX ~挑戦者たち~」という番組があった.
私も最初のころは,その面白さに
毎週欠かさず見ていたものである.

このころ,よく言われていたのが,
この番組によって
理工系離れに歯止めがかかるのではないか,
というもの.

私もそれを期待していた.
それでもこの工学離れ.
どうしてなのだろうと思っていたのだけれど,
数年前,ある予備校の方からのお話で納得した.

その方のお話によれば,
プロジェクトXは確かに素晴らしい.
感動する.
しかし,親は子供たちにあのような苦労をさせたくない,
と思うのだそうである.
だから理数系の科目の成績が良いと
医薬系への進学を勧めるのだという...
(おなじ医学でも苦労が予想される
産婦人科,小児科などの人気がないのは,
周知のとおりである)

なんとあの福音とも思えたプロジェクトXは,
実は工学離れを加速させていた
のである!

親からして子供に楽をさせようと考えている.
確かに理工系は,つらいこともある.
それでもやはり面白い分野なのだと思うのだ.
日本人はとくに,ものづくりに向いている国民性なのだと思う.
しかし,苦労が報われていない,という印象も否めない.
マネーゲームで巨額の富を稼いでいる人たちを横目で見ながら,
ひたすら地道に工夫を重ねている人たちは
やはり報われていないような気がする.

では,理工系離れを止めるにはどうすればいいか.
簡単である.
私はなんども言っている.
理工系の給料を今の倍にすればいいのだ.
健全な苦労が報われる健全な社会になればいい.

ものづくり国家というスローガンを挙げている日本なのだから,
もっと工学者が優遇されてもいい.
私はずっとそう思っている.

2007年9月26日水曜日

温泉で英気を養う (電力システム研究交流会)

月曜日,火曜日と仙台の作並温泉に出張し,
電力システム研究交流会に参加してきた.

電力システム研究交流会とは,大阪大学の2研究室の他,
北海道大学,茨城大学,横浜国立大学の合計5つの
電力システムを研究している研究室を中心として開かれている
学生たちの交流を目的とした会である.

もともとは,FRIENDS (Flexible, Reliable and Intelligent Electric eNergy Delivery System)という高機能な電力システムの研究会が母体であった.
FRIENDSというのは...と,今回は説明は割愛して(笑),
毎年幹事校を決めて,全国のあちらこちらで夏休み中に開かれる.

昨年は大阪大学の私の所属する研究室が幹事で,
青山高原の風力発電所の近くの榊原温泉で開催された.
今年は,横浜国立大学が幹事となって仙台の作並温泉で開かれたのである.(横浜国立大学の皆様,ありがとうございました)

初日は,各研究室が毎年定められるテーマについて発表する.
今年のテーマは「電力・エネルギー問題を解決する21世紀の革新的技術」であった.
学生たちは,自由な発想にて発表を行う.

そして,教員が発言を禁じられているのが,
この交流会の特徴である.
途中,なんども口を出したくなる.
「そうじゃないよ!」
でもぐっと教員は言葉を飲み込んで耐えるのである.
学生たちは先生方の目を気にせず,
言いたい放題できる,それがこの交流会の良いところなのである.

とはいえ,ちょっと常識的な議論が多かったかな,と不満に思う.
もっとざっくばらんに,なにが有力なエネルギー源なのか,
私たち研究者は(大風呂敷を広げて)地球を救うために何をすればよいのか,
そんな議論があってもよかったのではないかと思うのだ.

みな電力・エネルギーを専門としているために,
逆に発想が縛られているような感じがした.
といっても,私もいいアイデアがあるわけでもなく,
だから若い皆さんに期待するのだけれど.

夜は懇親会.
学生,教員たちの交流がメインである.
学生たちは,各研究室で余興を準備し,
披露し,そしてスベっていった(笑).

しかし,ごめんなさい.
私はずいぶんと体調が悪くて,
あまりお酒も飲めなかった.
懇親会の前に,温泉にもつかり,
身体を温めてはみたものの,どうもいけなかった.
湯の中においても,あまりリラックスできなかったのである.
毛穴が開き,頭から湯気が出る,という状態には至らなかった.

風邪気味だったのだろうか.
飛行機の中も,電車の中も,バスの中も,
眠くって,眠くって,仕方がなかった.
懇親会も,最後の方は頭痛がひどくなり,
どうにもできない.
そして,一次会でダウン.
そのまま寝床でぐったりと横になったのだった.

こういう交流会では,ある意味二次会の飲み会がメインである.
それを逃すとは...
夜に弱い私ではあるけれど,少しは参加したかった.
ずいぶんと申し訳ない気持ちでいっぱいだった.

翌日もどうもいけない.
朝6時に温泉に出かけてなんとか復活を試みるが,
露天の岩風呂が女子専用時間となっており,
大浴場でガマン.
やっぱり本調子ではなかった.

朝食後,岩風呂に再トライ.
となりを流れる渓流の水面が,
岩風呂の天井にキラキラと光を反射させているのを見ているうちに,
ようやく身体の緊張がほぐれていく.
う~ん,心が身体に及ぼす影響の大きさよ.
たった10分間の入浴ではあったけれどようやく復調の兆しが見えた.

二日目の午前中は学生からの各々の研究の発表.
昨晩の懇親会で打ち解けたのか,思いのほか質問が出る.
若い人たちも捨てたものではない.

午後は,仙台で行われているNEDOの委託事業,
「品質別電力供給システム」の実証研究のサイトを見学させてもらう.
学生たちにとっては,動いているガスエンジン発電機や燃料電池を,
直接見学することが,大変良い経験になったのだと期待したい.
教科書からは感じ取れない,実物の迫力がそこにある.
こうした迫力は,記憶としてはすぐに薄れてしまうのかもしれないが,
記憶の底でじっと影響を及ぼし続けるのだと思う.
次に「燃料電池」というタームをみるときには,
実物を見る前に想起されるイメージとは
異なるものが想起されるはずである.
やはりモノは見て,そのリアリティを感じるべきなのである.

そんなことを思いながら,午後にはすっかりと私の体調も回復した.
伊丹空港からの帰宅途中,
中秋の素晴らしい月を見ながら,
今回の出張によって,ずいぶんと健康になったなぁと
ちょっと申し訳ない気持ちになっていたのである.

うん,でも作並温泉は良かった.

2007年9月21日金曜日

9/25

不在です.

実践こそ工学

私が好きなBruce Leeが好きだった言葉に,

Knowing is not enough; we must apply.
Willing is not enough; we must do.


というものがある.
もとはゲーテの詩が出典らしい.
哲学に傾倒していた彼らしい.

知るだけでは十分ではない.
やはり実践が伴わなければいけないのだ.

孔子は思想家であったけれども,
すぐれた実践者でもあった.
残念ながらその機会にはほとんど恵まれなかったけれど.
しかし,その弟子のひとりである子路は
すぐれた治世を行ったといわれている.

私が好きな王陽明は,
知行合一
を命題とし,事上磨錬をモットーとした.

また私が好きな思想家のひとりである墨子は,
優れたengineerであったという.

実践なくして知識はその用をなさない.
知識の実践こそが工学であると思う.

しかし,実学だからといって
目前の問題だけにとらわれていてはいけない.
工学とは,単なる技術ではなく,
大きな視野をもった学問であるべきだとも思うのである.

2007年9月20日木曜日

工学者であること

工学とは,科学技術にお金をかけたものである.

確か私の恩師のS教授から伺った言葉である.
理学では,コストを度外視しても,その結果,
宇宙の真理に近づく成果が得られれば,
それで良しとされる.

一方,工学では常にコストが重視される.
コストさえかければ出来てしまうことも多い.
(いくらコストをかけても出来ないものも多いが)
例えば耐震構造.
お金さえかければ,非常に大きな地震が来ても
耐えうる建物は実現可能だろう.
免震だってできる.
しかし,それでは現実的ではない.
つまりはコストが見合わないということである.
実際には,地震の確立や大きさなどを
適切に評価し,最小のコストでそれをクリアできるよう,
設計がなされる.
それが工学である.

工学者を育てるには金がかかる.

これは前職場の研究者の方から聞いた言葉.
工学ではコストが重視されるのだから,
コストの感覚,リソース管理のセンスが必要となる.
それを得るためには,ある程度の金を使わなければならない.
そういう意味である.

しかし,だからこそ工学者のセンスというのは
非常に信頼されてきたのだと思う.
以前,講演で聞いた話なのだけれど,
一度日本に進出しようとして失敗したハンバーガチェーンの
マネージャは,MBAよりもエンジニアのセンスを信頼する,
と話していたそうだ.

確かに工学者は,つねに工程表を意識している.
コスト,時間,人のリソースの管理を行っている.
最小のeffortで最大のoutcomeを得るように動く.
それがまさに工学の考え方である.

S教授は次のようにも言っていた.

古代においては,
理学はphyrosophyに分類されており,
工学はartに分類されていた.
(だから理学博士はPh.Dであり,
artificialは,人工的という意味なのだ)

私たちは工学者であることに誇りを持ちたい.

2007年9月19日水曜日

私の言葉は女っぽい?

大阪に来てよりたまに言われるのが,
私の話し方が女っぽく感じる,というもの.

もちろん,一部の方が用いる「おねえ」言葉を使っているわけではない.
私は,いわゆる標準語に近い話し方をしている(と思っている)のだが,
それが気に障る人がときどきいるらしい.
講義の際にも気になるという話を聞いたことがある.
どうも大阪の人は私の言葉遣いに違和感を感じるらしい.
(地方出身の学生はあまりそういうことを言わない)

確かに私なども,初めて大阪に来たときには,
大人から子供まで,誰でも私にケンカを売っているのかと
思った覚えがある.
やはり大阪弁はけたたましく感じられる.

茨城県で務めていた時もそうだった.
地元の人に,言葉遣いが優しすぎて,
女っぽく感じるなどといわれた.
茨城弁というのも高音がきつい堅い感じの言葉なのである.

ただ,私もそう言われても困ってしまうのである.
無理やりに下手な大阪弁を話したところで,
ますます違和感を感じてしまうことだろう.

確かに土地土地の方言には,きつい口調として感じられるものもある.
いわゆる標準語(東京弁とは異なるものだと思っているが)は,
こうした角を取り,誰にでも優しく聞こえる言葉遣いとして
成立してきたのではないだろうか.

私自身は新潟の出身である.
では新潟弁はないのか,といわれると,ちゃんとある.
ただ,私はそれがうまくしゃべれないのである.

小さいころ新潟市から長岡市に引っ越したことに
その原因があるのではないかと自分では思っている.
同じ新潟でも,その地方によって方言が大きく異なるのだ.
幼いころに二つの異なる方言に触れた結果,
どちらも話せないということになった.
今となっては,少しさびしく思う.

生粋の新潟人である母が話しているのを聞いていても,
ときどき理解不能な言葉がある.
新潟弁も大阪弁,茨城弁に負けず劣らずDeepなのである.

私はもう新潟を離れて20年以上になる.
自分にとって新潟弁がずいぶん遠くなってしまったのを感じる.
(とはいえ,新潟市内でもめっきり方言の濃度が
薄くなってきたようだけれど)

方言というのは,その土地に根ざした文化のひとつである.
それが私にはないというのがさびしい.
それが根付いた土地においては私はいつになっても
異邦人なのかもしれないとときどき思う.

とはいえ,自分が関西弁を話している姿は
全く想像できないのだけれど.

2007年9月18日火曜日

マイクログリッドは世界を救うか?

先週は電気学会 電力・エネルギー部門大会に参加するため,
青森 八戸に行ってきた.
大阪とはちがって,ずいぶんと涼しく,
会場のエアコンが迷惑に思えるほどであった.

いろいろな発表・講演を聴き,また旧友にも会って,
非常に刺激を受けた.
やはり学会に参加することは重要だと思った.

最終日,私は八戸のマイクログリッドの見学ツアーに参加した.
マイクログリッドというのは,
既存の電力系統とルーズにカップリングをしながら(時には自立する),
分散電源等に支えられた局所的でインテリジェントな電力システムである.
(実はいまだに定義というものがはっきりしていないのだ)

八戸には,八戸市,三菱総研,三菱電機がNEDOから受託した実証研究,
「八戸市 水の流れを電気で返すプロジェクト」
が本年度いっぱいまで行われている.
これは,太陽光発電,風力発電,バイオマス発電と蓄電池を組み合わせ,
これらを適切に制御することによって,その地域内の負荷(市庁舎,学校等)に
安定した電力と熱の供給をしようとしているものである.

実証しようとしているのは,まず技術.
連系されている東北電力の系統に影響を与えないように制御するのである.
実は太陽光発電,風力発電は,天候任せでその発電出力が変化する.
一方で,負荷(われわれが使っている電力)も,時刻に応じて変化する.
それらをバランスさせなければならないのである.
もし,発電量が負荷を上回ってしまったら,周波数が上がってしまう.
あるいは系統の電圧が高くなってしまうなどの問題が発生してしまう.
もし発電量が足りなくなってしまったらその逆の問題が発生してしまう.

つねに電力の世界においては,
発電と負荷がバランスしていなければならないのである.
電力会社は実はこのための制御をそれぞれの系統で行っている.
それを自然エネルギーという制御が難しいものを相手に,
小さな系統で安定な電力供給を実現しようというのが
マイクログリッドなのである.

もちろん,電気を貯める技術もある.
たとえば蓄電池.
電気が余っているときは電気をため,
足りないとこは電池から電力を出す.
しかし,コストがかなり高く,大容量のものは難しい.
とても系統の電力を支えようというわけにはいかないのが現状だ.

いま,世界では太陽光発電,風力発電などの自然エネルギーの導入が
強くすすめられている.
しかし,それらの発電出力はお天気まかせ,風まかせなのである.
その問題を解決しようというのがマイクログリッドなのである.
大きくいえば,マイクログリッドは世界のエネルギー問題を救うための
有力な一方策なのである.

八戸のプロジェクトを訪れたのはこれで2度目.
一度目は,稼働前の設備を見学したのだった.
今回はすでに運転実績があり,
そのデータは,本当に価値あるものだと思う.

このサイトの技術的な問題はほぼ解決されているのではないだろうか.
もちろん,経済性,効率の問題は大きく立ちはだかっている.
しかし基本技術が確立されたのは大きい.

今後もマイクログリッドや分散電源,新エネルギーについては
このブログで触れていくことになるだろう.
こうしたものが抱えている問題点とその解決策などが
紹介できればと思っている.

2007年9月10日月曜日

9/11~9/14

不在です.

データ捏造問題について

先日参加した研究会において,データの捏造問題が話題になった.

データの捏造をふせぐには,
コミュニティーの厳しい相互レビュー,チェックが必要だということなのだが,
果たして本当にそうなのかという話が出た.

すなわち厳しすぎる環境が,
データの捏造を強要することもあるのではないか,
という意見であった.

この意見にはいろいろと反論が出て,
やはりデータの捏造を防ぐためには,
厳しい相互チェックが必要なのだということになったのだが,
私は,周囲のプレッシャーがデータを捏造するということも
ありうるのかなぁと初めて思い至ったのであった.

私が関係している分野は,
電気工学,パワーエレクトロニクスである.
電気回路の世界というのは,
実は数値シミュレーション(回路解析ソフトウェア)で,
かなりの精度で動作が解析できてしまう.
実験結果と比較しても,
どちらがシミュレーション結果なのか,
わからないくらいなのである.

また,論文では,その回路トポロジー(構成)と
制御法について具体的に明らかにするため,
シミュレーションによって
誰でもそれを比較的簡単に確認することができる.
(というか,ほとんどシミュレーションをしなくても
おおよその動作が推測できてしまうものである)
すなわち,誰でも検証できるということなる.
この辺が化学や生物学,実験物理学などと違うところである.

だからデータの捏造のしようがない.
その辺りが,私が捏造問題に疎い理由なのだろう.
したがって,周囲の状況に強要されて
データを捏造するなどということなど,
全く思いもよらなかったのである.

しかし,捏造する人の良心の呵責といったら,
推し量るこちらがかわいそうになるくらい
つらいものだろうと思う.

捏造したデータは素晴らしい結果で,
その結果,引用の回数が非常に多くなる.
その業績が賞賛される一方で,
だれも追試験ができず疑念が持たれるようになる.
誰も再現できない唯一のデータとなるのだから
ますます引用の回数が増えていく.
引用回数が多い論文は捏造を疑えとまで
言われているらしいのである.
その結果,内部告発や再査読を経て
データ捏造と認められてしまう.
学界からは追放される.
いままでの賞賛は侮蔑へと瞬時に変わってしまう.
本当に悲しい結果である.

電気回路を相手にしている私などは,
データの捏造のしようがないのだけれど,
似たようなことはどこにでもあるのではないかと思う.
気づかぬうちに,おかしなデータを取得している可能性だってある.
数値シミュレーションにいたっては,条件を間違ってしまえば
あり得ない結果が導かれることもある.
こうしたことを常に忘れず,どこにでもある落とし穴に
十分気をつけなければならない,と強く思うのである.

2007年9月7日金曜日

武道の学校体育への必修化について

このブログでは政治的・行政的な話はしたくないのだけど,
中教審がまとめた学習指導要領を改定する素案というものに,
中学授業において武道を必修化するとの
内容があったということを聞いて
一応武道を稽古するものとして私の考えをまとめておく.

私は基本的に武道必修化の必要性はないのではないかと思う.
「伝統と文化の尊重」との方針のもと出されたアイデアだろうと
推測されるが,本当にそうなるのだろうか.
「伝統と文化の尊重」を目的として武道の必修化をするならば,
それが達成されるかどうかははなはだ疑問である.

そもそも,必修化しようとしている「武道」とは,
現在,競技スポーツ化された柔道や剣道なのではないだろうか.
単純に競技のルールや技などを週に1度学ぶことになるのであれば,
それは他のスポーツを行うことと全く変わりがないと思う.

そもそも武道とスポーツとの違いとはなんなのだろうか.
私は実は明快に答えることが未だできないでいる.

Sportの語源は気晴らしであるという.
そう考えると人の生死を問題とする武道とは大きく異なる気がする.

しかし,現在のスポーツのトップアスリートたちには
それこそ生命をかけてその競技に賭けている人たちがいる.
その練習量,真剣さは決して武道修行者に劣るものではない.
むしろ一般的にはずっと苛酷な状況下にあったりする.

武道は常在戦場の心で24時間修行するものであり,
試合に向けてコンディショニングを整えるスポーツとは異なるのだ,
という人もいる.しかし,プロ野球選手などはどうだろう.
ストイックに節制し,つねに最高の状態に自分があるように努力している.
武道だけが不断の努力を行っているわけではないのだ.

こうした観点では,武道修行者よりもむしろスポーツアスリートの方が
ずっと厳しい状況に自分を置いているような気がする.

それでは武道とスポーツの違いは何なのか.
それはやはり伝統と文化のバックグラウンドの違いというべきなのだろう.

武道は日本の侍文化の思想・哲学が結実したものである.
単なる格闘術ではないのだ.
もちろんスポーツにも文化的背景はある.
だから,武道との違いは,その文化的背景の有無ではなく,
その背景が日本の侍文化であることなのだろうと思うのである.
これが最近の私の認識である.
(「侍文化」というのが適当であるかどうかはまだ検討が必要だと思うが)

では,武道が武道たるゆえんのその「思想・哲学」が
学校教育の週に1時間くらいの授業で学ぶことができるのだろうか.
それは非常に困難であるといわざるを得ない.
武道の特色は,そうした思想・哲学を
実践の中で学ぶことにある.
いや,実践しなければ武道とは呼べないのである.

それを中学校の授業で伝えることができるのだろうか.
それを有効に伝えることができる教師がどれだけいるのだろうか.
そうしたことを鑑みると,この武道の必修化による
「伝統と文化の尊重」という目的の達成は,甚だ疑問なのである.

(町道場に通う修行者も確かに道場での稽古は
週に1回程度で短時間である.
しかし,彼らは強いモチベーションをもって,
道場外でも24時間稽古している(はずな)のである.
それを中学生に同様に行えというのであろうか)

道場に集まって,少々の礼法と技を学ぶだけでは,
それを武道と呼ぶことはできないのである.
中途半端で終わってしまうことを私は危惧する.
むしろ生徒たちがより興味をもつことができるスポーツ種目を
真剣に楽しむことを教えた方が,
ずっと教育として効果があるのではないかと思うのである.


#柔剣道もすぐれた指導者につけば,スポーツ競技とは異なる
武道としての柔道・剣道の修行が可能だと思います.
決して柔剣道がスポーツだと決めつけているわけではありません.

2007年9月5日水曜日

9/6

不在です.

去年とは違うところにいる

イチロー選手が今年も200安打を達成した.
7年連続である.
この7年間で安打は1500本以上打っていることになるのだろう.
私は野球はやらないのだけれど,
相当にものすごいことなのだろうと思う.

そのイチローの200安打達成後のインタビューでの発言である.

----去年は「自分の弱さしか見えてこない」と語っていましたが.

「今年は感じていません。去年とは違うところにいると思う」


というようなやり取りである(詳細は正確ではないと思うけど).

本当に頭が下がる.
私はイチローのようなストイックさを感じさせる人は大好きで,
また彼の発言は素晴らしいとつねづね思っているのだけれど,
今回のこの言葉には,ただただ感心するばかりである.
彼をますます尊敬するようになった.

昨年ももちろん200安打を達成したのだが,
そこで知った自分の弱さを今年は克服したということである.
自分で目標を立てて,それを着実に実現している.
実に素晴らしい.
そうやって黙々と努力し,実現していく強い人,
そういう人に私は憧れる.

そしてはっきりと去年とは違うと言える自信.
うらやましく思う.
昨年の自分と比べてみて,私はどれだけ変わったといえるだろうか.
それを自信をもって言えるほどの努力をしただろうか.

彼の才能の素晴らしさには到底及ばないけれど,
その姿勢だけは見習えるのではないか.
来年の自分,いや明日の自分でもいい.
何らかの進展があるように毎日を過ごしたいものである.

2007年9月4日火曜日

核融合炉の夢 (1)

先週の金曜日は,核融合科学研究所(NIFS)に出張してきた.
将来のヘリカル型炉の概念設計に関する研究会である.
私は,実は核融合に昔関連した研究開発を行っていたのである
(というか今もだけど.ただそれがメインではなくなった).

核融合は夢の発電である.
核融合発電には大きく分けて2種類ある.
ひとつは磁場閉じ込め核融合,ふたつめは慣性閉じ込め核融合である.

核融合反応を実現するためには,燃料である重水素や三重水素を,
非常に高温にして,一定時間保持しなければならない.

ガスである重水素や三重水素をどんどん加熱していくと,
ついには原子が電子と原子核に分かれる.
この状態をプラズマと呼ぶ.

プラズマ状態になると原子核はイオンとなっていて,
プラスの電荷をもっている.
プラスの電荷とプラスの電荷をもつ原子核同士をぶつけて
融合させるのが核融合反応である.

プラスとプラスは反発しあう.
だから原子核同士をぶつけるためには
それらを非常に高速に加速しなければならない.
加速といえば,加速器をもちいて粒子を加速すればいいのだけれど,
それではエネルギー収支的に発電炉として成り立たない.

そこで,バルクの(大きな体積を持つ)プラズマに電流を流したり,
ビームを打ち込んだり,電磁波を入れたりして,加熱していく.
(つまりは,多数の電子,原子核を一斉に加速している).

どこまで加熱するかというと,一般には1億度以上必要といわれている.
太陽の表面温度が6000度といわれているから,
それよりもずっと高温である.
当然地球上に,そんな高温なプラズマを入れておく容器は存在しない.
最も高い融点をもつタングステンでも3500度もあれば溶けてしまう.

そこで地球上に閉じ込めておくために,
磁場で真空中に浮かせて,どこにも触れないようにして維持する,
すなわち磁場で作った容れ物に燃料(プラズマ)を閉じ込めるのが
磁場閉じ込め核融合である.

一方慣性閉じ込めについては,説明がややこしい.

と,気づくとまるで核融合の講義のようだ.
ということで今日はここまで.
またいつか気が向いたら,この話の続きをします.

2007年9月3日月曜日

「境界」に存在するモノを嫌悪する

先日,帰宅してTVをつけてみると,
「爆笑問題のニッポンの教養」(NHK総合)が放送されていた.
見ると,大阪大学工学研究科の石黒浩先生の研究が紹介されている.
石黒先生は,愛知万博でも展示されていたアンドロイドを作成した
ロボット・アンドロイドの研究の第一人者である.
(他分野にほとほと疎い私であるが,
さすがに同じ大学の先生ということで,
名前は存じあげている)
これまでに製作されたアンドロイドが紹介されるとともに面白い話題が続き,
ついつい最後まで番組を見てしまうこととなった.

アンドロイドというのは人間に酷似したロボットのことである(らしい).
シリコンの人工皮膚を持ち,微妙な表情,しぐさまでが再現されている.
(生き人形といわれる人形製作の分野があるのだけど,
ここでは美術品ではなく実用品という印象を受けた)

しかし,人間に近ければ近くなるほど,
人間との違和感を埋めるのが大変になるという.
この問題は「不気味の谷」と呼ばれるらしい.

人間はある程度人の行動を予測しているものである.
話の内容やしぐさなどは予測していなければ
迅速な対応が可能とならない.

ロボットが人間とそれほど類似していない場合,
人間はロボットの単純な行動を見て予測し,安心し,
そして足りない部分は補ってしまう.
ASIMOなどのロボットの動作にかわいらしさを感じたり,
感情に似たものを感じたりするのは,
人間側が補っているからだと思われる.

一方,ロボットがある程度以上人間に近づいてしまうと,
その微妙なしぐさにおいて,私たちの予想を裏切ることになる.
アンドロイドは見かけはほとんど人間なので,
もう私たちの脳はアンドロイドの行動を擬人化して補おうとしない.
むしろ人間だと思って対応する.
そのときに,アンドロイドは私たちの予想を裏切りつづけることにある.
それが違和感を増長させるのではないだろうかと思うのである.

人間に近づきすぎて,
その人間とモノとの「境界」に存在するようになると,
人間はそれを嫌悪する.
この考えは,私に鷲田清一先生(大阪大学の学長である)の
「ちぐはぐな身体 ーファッションって何?」という著書の記述を思い出させた.

この本は,ファッションが意味するものについての思索を
身体性という観点から進め,若い人たちに紹介している本だが,
人間は「境界」に存在するものに不安を感じ,
それらを嫌悪するものだ
という考えが述べられている.

たとえば人間の排泄物,吐瀉物,垢,フケ.
これらは,ちょっと前までは人間の体内に存在したものであり,
そのときに汚いとは感じない.
それが身体の外に出された途端に汚いと嫌悪されるのである.
これらのモノはやはり身体の内と外の「境界」に存在するものなのである.

社会的にも「境界」に存在するものは
やはり激しく嫌悪されることが多いように思う.
こうした人間の性質は,民族問題,宗教問題,差別,
それらにも深く関わっている気がする.


ということで,ふたりの大阪大学の先生の研究について思いを巡らせ,
あらためて大阪大学の懐の広さを実感した次第.

しかし,私もその末席を汚しているだけに,精進いたそうと思う.
この末席が「境界」となって,嫌悪されないように努力しなければ...

2007年8月29日水曜日

8/30, 8/31

不在です.

謙虚さ,そしてHandwavingということ

先日,リサ・ランドールさんが来日した際の
講演に関するTV番組を見た.(NHK衛星)

リサ・ランドールという人は理論物理学の人で,
この宇宙を取り巻いて異次元の世界が
(番組では5次元の世界に言及していた)
あるという説を提案しているとのことである.

実は恥ずかしながら私は彼女を知らなかった.
ハーバード大学の理論物理学で初めて女性で教授になった人で,
「ワープする宇宙」という一般向けに彼女の理論を紹介した本は,
アメリカでベストセラーになったのだそう.
容姿の美しさもあいまって,大変話題な人なのだそうである.

以前にもこのブログで書いたとおり,
私は宇宙論というものを未だ生理的に受け付けない.
5次元の世界など,よほどの考察がなければ
存在するとは言えないのではないだろうか.
だが,(たぶんだけど)彼女の著書を読んで,
5次元の世界が存在すると簡単に言ってしまう,
あるいは信じてしまう,という多くの人たちの中に
私は含まれたくないのである.

しかし,興味はある(笑).
生協に原本が置いてあった.今度トライしてみよう...

さて,番組では茂木健一郎氏が対談を行っていた.
実は,私は茂木氏が結構好きなのである.
学術的にどのような研究をされているのかは
よく知らないのだけれど,
(その辺は,その分野の研究者にお任せして)
彼の著作はいろいろと示唆に富んでいる.
賛成できる部分も,できない部分も.

その彼がリサ・ランドールについて,
彼女の研究姿勢について非常に感心していた.
それは誰からの意見も謙虚に受け止めるという
Open Mindな態度である.

私もいろいろと学会に参加してきて,
いろいろな発表を見てきた.
確かに自分の意見が否定されると,激こうする人がいる.
謙虚に人の意見を聴くことができない.

データがあるからいいのだ.
こうだからいいのだ.
つい,そう言い切りたくなってしまう.

しかし,そこには自分の理論やデータへの
過信がないだろうかという
自らを省みる姿勢が必要なのではないだろうか.
あるいはたとえ正しくても,他の研究者からの意見によって
新たな視点を得ることはできないだろうか.
そのように考え,謙虚に他人の意見に耳を傾ける態度,
それが大切なのだと私も思う.

リサ・ランドールさんも,自分の理論の限界をよく認識しており,
そうした点への指摘については,素直に認め,
議論を進めるといった姿勢をお持ちだったということだ.

茂木氏は,この話に関わって
Handwavingという言葉について言及されていた.
物理学などで使われる言葉で,
それほど厳密に正しいというわけでもないのに,
データや仮定を我田引水的に使用して,
自分の提案を良しと主張することである.
強く主張する際のジェスチャーに由来する言葉らしい.
(正しいのかな,この理解で...)

とにかくそうした態度は研究者としては恥ずべき態度である.
一流の研究者は,Open Mindな人が多い.
自分の提案の限界を知ることは大変重要である.
それが謙虚さとして現れる.
そうしたことを忘れずにいたいと思う.

2007年8月28日火曜日

なんだ,世界も変わんないじゃん.

昨日から,韓国のMyongji Universityの
Han教授が研究室を来訪されている.
Power Electronicsに関するWork Shopを,
私が所属する研究室と合同で開いた.

向こうもこちらも,学生たちが英語で発表する.
昨日は夕食を一緒にしたのだけれど,
Communicationはもちろん英語である.
学生のみなさんにとっては(韓国の学生にとっても),
良い経験になったのではないかと思う.

こうして親密に話し合う機会というのは,
結構研究者にとっては大事なのだと思う.
ただ発表された論文を読むだけではわからないことがわかる.
それはもちろん技術的な話題もあるし,
もっと広く,若者の興味,性向などの話題もある.

こうして世界の研究者,学生たちも
同じような問題を抱え,
同じように悩んでいる,
そうしたことを実感することが
意外に大事なのではないかと思うのである.

私も初めて海外に出張に出かけたときは,学会ののち,
独りでItaly Padova, UK Oxfordの研究所を回ったのだった.
メタメタな英語で(今も変わらないけど)
なんとか技術的な話をして帰ってきて,
それで抱いた感想は,

「なんだ,世界の研究者たちも私とたいして変わらないじゃないか」

ということであった.
彼らもやはり同じような問題を抱え,頭を悩ませていた.
それでいて,日常生活で興味を持っていることもあまり変わらない.
赤いスポーツカーをブイブイと乗り回していたり,
レオタードでヨガをやっていたり.

Padovaの研究所に行った時には,いきなり年とった研究者に

"Do you know Nakata?"

と尋ねられたことを今でもよく覚えている.
「ナカタ」という研究者は知らないと答えると,
フットボールプレーヤの中田だという.
彼のユベントスとの開幕戦での2ゴールがすごかったぜ,
みたいな話だった.
(私がその研究所を訪問したのは1998年だった)

もうガチガチに技術・研究の話をするのかと思っていたので,
砂糖を山のようにいれたエスプレッソを飲みながらしたサッカー談議は,
拍子ぬけしたけれど,本当に楽しかった.

こうして,初めての海外出張は
私のその後の研究生活に少し自信を持たせてくれたのだった.

今回の韓国の学生たちの訪問が,
この研究室の学生への良い刺激になってくれればうれしい.
彼らは,国は違えど同じ課題に頭を悩ましている仲間だ.
ときには競争するけれど,やっぱり仲間なのだ.

とにかく多くの研究者と交流をする.
とかく研究者はタコつぼに入りやすいのだけれど,
世界にアンテナを開いておくことは
研究生活において大事なことなのだと思う.
(それは,研究生活にかぎらないか)

2007年8月27日月曜日

暑い大阪での学会ばかり

本日から明日まで,大阪大学にて
電気学会 基礎・材料・共通部門大会が開催されている.
私は発表もなく,本日,明日と別のミーティングに
参加する予定なので欠席である.

ふと気付いたのだけれど,今年の電気学会の部門大会は
なぜか大阪開催が多い.
大阪大学の基礎・材料・共通部門大会もそうだし,
先日大阪工業大学で開催された産業応用部門もそう.
そして,電子・情報・システム部門大会も大阪府立大学で開催される.
(ちなみに,電力・エネルギー部門大会は青森 八戸である)

げんきんなものだが,東京や大阪で開かれる学会では,
参加人数がたいてい少なくなる.
それはビジネスで訪れることが多いので,
地域自体に魅力が少ないためなのだろうと思われる.
沖縄や北海道だと参加人数が多いのである.
(やっぱり同じ学会だったらビルの谷間より,
自然が近い場所のほうがいいものなぁ)

それに大阪は暑い.
今年は特に酷暑である.
なぜ暑いところで学会を開くのか,と愚痴の一つもでてしまう.

産業応用部門大会も福井,名古屋,大阪と来て,来年は高知である.
また暑い西である.
ちょっとため息がでる.

今年の大阪は世界陸上も開かれている.
その選手たちを考えれば,
まぁ学会はエアコンが効いている部屋にいられるので,
不満はいえないか.

9月の八戸の学会は涼しそうでいい.
ただ今度は台風が心配になるのだけど.

2007年8月24日金曜日

会社はチームか個人か

昨日紹介したメーカの方とのお話の続き.

このブログでも何度も話題にしているが,
会社の現場では個人で働くということはほとんどない.
だいたいが課やプロジェクトに所属し,
そのグループのメンバーと協力して仕事を行う.
だからこそ,コミュニケーション能力が重要視されているのだ,
という話をしてきた.

だが,現代の若者はグループで働くということに慣れていない.
確かに,大学までの人生では部活動でサッカーや野球などをしない限り,
個々人で生きてきても問題がないことも多い.

そうした人たちは,自分の働いた能力に見合った分の報酬がなければ,
たいへんな不満を持ちやすい.
もちろん,それは当然のことである.
しかし,実際の会社において,
個々人の働きを正しく評価できることは可能なのだろうか?
グループで仕事を進めるという条件のもとでは,
個人の業績の評価は非常に難しいのではないか.

結局個人の努力はグループのため,会社のためなのである.
それが日本の社会のシステムなのである.
私はこれが悪いとはそれほど思っていない.

もしも正確に個人の業績を評価しようとしたら,
仕事の内容を完全分業化することが必要だ.
それは,もう単純作業か,
あるいはデザイナー,俳優などの個人の仕事しかできないだろう.

そのメーカの方は,サッカーと同じだとおっしゃっていた.
すなわち,個人の能力も大切だが,チームプレーも大切なのである.
ラグビーではないが,時にはOne for Allの考え方も必要なのである.

日本の現場においては,チーム力ということが重視されてきた.
確かに悪い面もあるが,これまでは比較的うまくいって
日本の技術力は支えられてきたのではないかと思う.
これが欧米や中国のように個人主義にシフトしていったとして,
日本はこれまでのように発展し続けることはできるだろうか.
日本のチーム力というのは,世界でもいまでも注目されている
一つの大きな特長なのだと思っている.

もちろん,悪い面も多々あることもわかっている.
単純な年功序列がいいとは私も思っていない.
しかし,完全な能力主義となり,
だれもが自分の仕事の責任しかとらない,という事態になったら,
日本の会社は成り立たなくなるのではないかと思う.
だれもがちょっと能力が上がれば,よりよい待遇を求め,
それが見田さんれなければ,他社へ移ってしまう.
そんな状況で人を育てるということが可能だろうか.
チーム力は発揮できるだろうか.

若い人が会社を辞める原因のひとつに,
自分の能力が評価されないという不満があるという.
確かに搾取されている若者も多い.
そうした若者は転職が可能であればそうすればよいと思う.
しかし,日本の現場ではチーム力も重視される.
そこでは,個人プレーだけが評価されるわけではない.
チームのために働くという覚悟も必要である.
そのことは忘れないようにしたい.

#何度も繰り返すが,グループでの仕事が嫌な人は,
大学教員になるというのもひとつの手である.
その代り,学生相手に苦労することになるけれども(笑).