2007年4月9日月曜日

「哲学する工学」

ちょっと前に参加した大阪大学工学教育シンポジウムで
鷲田副学長のお話に出てきた言葉が,

「哲学する工学」。

なかなか面白い言葉なので,
その後もいろいろと考え続けている。

現代における工学には,
その技術の使われ方や在り方,開発の進め方などに
哲学的な思索が不可欠であるとの意味であると思う。

それだけ工学という学問の在り方が,
人間社会に大きな影響を与えるようになってきている


「哲学する」というのは,
別にベルクソンやヴィトゲンシュタインなどの
哲学書を読めということを言っているのではない。
幅広い知識の上に立って,
社会・環境・倫理を考慮した工学研究を進めるということだと思う。

もちろん,専門性が欠けていては,
研究者・技術者ではなくなってしまうので,
深い専門知識は不可欠である。
ただ現在は専門バカではない人間が求められている。

以前にも「π型人間」について書いた。
専門知識も一分野で深いだけではだめなのである。
「幅広い知識+複数の専門知識」が求められている。

そして更に,社会的な見地から研究を
見つめなおすことが求められている。
これが哲学するということではないだろうか。
そして,そこには文系的素養が必要だ。

私は常々現在の理工系の学生が
本を読まないことを本当に悲しく思っている。
もちろん,本というのは理工系の教科書・専門書ではない。
文系の本を読む量が絶対的に不足しているのではないだろうか
小説,随筆,紀行文に限らず,哲学書,政治学,経済学,etc.
若いのだから,いろんな方向に手を出せばよいと思う。
人生がもっともっと豊かになると思うのに。

本を読む時間がないという言い訳がおかしい。
一日は24時間もある。
学生は自由時間が社会人よりずっと多いはずだ。
テレビを見ているのか,ネットにつながっているのか,
その時間を少しでも振り換えれば,
本を読む時間などいつでも作り出せる。
少しでも読書の時間を作り,それを継続してみよう。
そのうちきっと,より多くの読書時間を必要とすることになるだろう。

君子たる人間として一般的な教養は不可欠である。
そしてそうした素養がなければ,
工学を哲学することができないのではないか。


学生のみなさんは,
教養のない将来の自分の姿に耐えられるのだろうか。
私には無理だ。
だから今の自分が恥ずかしい。
今からでも少しでも教養を身につけようと思っている。

まずは本を読んでみよう。
そしてそれについて深く考えてみよう。
社会との関わりの中で,自分の研究の意味について再確認してみよう。
そうすれば,また研究に対する情熱も湧いてくると思うのだ。

「哲学する工学」。
どういうことなのか一緒に考えてみようゼ。

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