2007年6月29日金曜日

阪大生は面接が不得意?

就職活動もピークは過ぎたが,
まだ頑張っている学生もいる。

ある会社の試験に落ちたとしても,
決して人間性が否定されたわけではない。
ただ,その会社のニーズとマッチしなかっただけである。
どこかに君を待っている会社がある。
また次にチャレンジして欲しいと思う。

だが面接試験で落ちるのは結構つらい。
グループで面接を受けても,
なぜ自分が落ちたのか理解できないこともしばしばである。
最近は面接試験が重視されているために,
そこでの失敗は大きく結果に響くのだ。

私はこの面接試験を重視するという方針が嫌いである。
話がうまくなくても,能力が高い学生はたくさんいる。
しかし,こうした学生は何回も受ける面接試験において
落とされてしまうことが多い。
逆に成績が芳しくなくても,面接の印象で合格する人もいる。
他大学の先生とこの問題について話すことも多い。

企業の言い分もわかる。
現場が欲しいのはコミュニケーション能力である。
上司や同僚とうまくやっていく能力。
現在の職場は,グループで仕事を遂行するのがほとんどである。
個人でやることはほとんどない。
個人で仕事や研究がしたいのであれば,
職場を選ばなければならないだろう。
(たとえば,プリンストンの高等研究所とかにいけば…)

グループでの仕事においてはコミュニケーション能力が不可欠である。
他人との協調性が求められる。
信頼関係をくずすような行動をする人がいると,
グループの仕事効率は一気に劣化してしまう。

だからそうした人間をふるいにかけるために
面接試験を行うのだ。
(私もそうした社会性のない人間は嫌いで,
よほどの天才でない限り,私も採用しないだろう)


ここで,阪大生には面接に弱い人が多いのではないだろうか。
というのが今回の主題である(まくらが長い!)

阪大生においては,学校の推薦枠というものがある。
学校の推薦状をもらって会社を受験するのである。
昔はこの推薦状に権威があった。
学校から推薦された学生を落とすということは,
その学校の面目を潰すことになるからだ。
当然,翌年にはその企業には学生を送らない。
そうした時代があった。

しかし,就職氷河期を経て,
すっかり学校の推薦状の価値は下がってしまった。
学校推薦であっても結構な割合で試験に落ちる学生がいる。
この原因で多いのが面接試験の失敗なのだ。

推薦された学生は,当然その一社しか受験しない。
いきなり本番である。
緊張するのも当たり前。
どぎまぎした態度で,
受け答えもしどろもどろになってしまう。
あるいは,丸暗記した文章をテープレコーダのように
話してしまう。
そんな学生が落ちることが多いようだ。

一方,他校の学生たちはこの会社に来るまでに
何社も受験している。
百戦錬磨の就職試験のプロと化している。
そうした人たちの受け答えが
ずいぶんと洗練されているであろうことは
想像に難くない。
比較されたら阪大生はずいぶんと分が悪いことになるだろう。

もともと吹田キャンパスの阪大生は
コミュニケーション能力が低いのではないか。

吹田キャンパスは,特に工学部は部活動が活発でない。
サークルはいくつかあるようだが。
体育会の学生が重宝されるのは,
その社会性の良さからである。
目上の人との接し方,同僚への気遣い,
そうした周囲への気配りが利くように指導される。

そうしたことを嫌って,
上下関係のゆるいサークルなどに入っては,
いつまでもそうした人間関係を学べない。
自己中心的な主張がいつでも,誰に対してもでき,
いやだったらサークルにでなければよいのだ。

しかし,周囲への気配りができないということは,
仕事の現場では許されないのである。

自分の意見を,周囲に配慮しながら的確に述べる。
あるいは自分の責任を自主的に果たす。
こうしたことは集団行動の規律が問われる
体育会系の部活においてこそ身につけやすいのではないか。
それが吹田キャンパスには足りないのである。

もちろん,社会性を身につけるには,
その他の方法もたくさんある。
しかし,そのためには社会に出ていかなければならない。
学校が終われば家に帰ってネットかゲーム。
バイトも家庭教師。
そんな生活では,やはりコミュニケーション能力は
身につかないのではないだろうか。

研究室に入ってから,プレゼンテーションの能力を
身につけさせることはもちろん必須である。
しかし,発表はうまくできても,
質疑応答をうまくこなせるためには,どうしても経験が必要である。
それを研究室の3年間。
それもずいぶんと限られた発表の機会だけで
身につけるというのは限界がある。
結局日頃の地力がものをいうのである。

面接試験で成功するためには,
日頃の努力が必要なのだ。
そのために,阪大生には進んで社会とかかわりをもって欲しい。
そして地力をつけるのだ。

さて,最後に人と協調して働くのが嫌だという人はどうすればよいか。
一つの解は,大学の教員になることである(笑)。

2007年6月28日木曜日

電力工学I(5/25)のレポートについて(1)

5/25出題,6/4締め切りだった電力工学Iのレポートについて,いろいろと書いていきたいと思います。

まず,問題について。
「核融合が将来社会に受け入れられていくためには何が必要か述べよ」

だいたい大きく分けて,

(1)技術
(2)コスト
(3)社会受容性

の3つの議論がありました。
回答で最も多かったのは,核融合の宣伝が足りないということ。
人々が「核」という言葉にもつアレルギーについて
言及するものでした。

これを解決するために,核融合の安全性について
社会にもっと説明していく必要がある,との意見が多く,
簡単に言ってしまえば「宣伝」が足りないというものでした。

驚いたのは,電気系であっても,
今回の講義で初めて核融合炉と核分裂炉の違いを知ったという
学生が多かったこと。
確かに高校では教わらず,また大学に入ってからも,
こうした講義はなかったのでしょう。
もっと驚いたのは阪大に大きなレーザー核融合の装置が
あるということを知らなかった学生が結構いたこと。
エネルギー量子の学生でさえ知らない人がいて,
ちょっとショックでした…。

しかし,ちょっと前までは核融合といえば,
未来エネルギーのホープと目されていて,
学生(高校生も)の人気もずいぶん高いものでした。
したがって,核融合がどういうものか
少しくらいは知っている学生が多かったものです。
少なくとも阪大がレーザー核融合の
メッカになっているという事実は
多くの阪大生が知っていました。

それがこのような結果になっているとは,
最近の「核」に対する嫌悪感が
核融合からも核分裂からも
学生たちに目をそむけさせているのでしょう。

核融合は宣伝が足りない。
実は私も学生時代に思いました。
所属していた研究室は核融合もテーマの一つでしたから,
ITER計画などは非常に魅力的に感じていたものです。
しかし,周りは誰も知らない。
世界でトップを走っている日本の活躍も知らない。
これはもったいないと非常に悔しい思いをしていたものです。

それで,大学に特別講義にいらしていただいた,
日本原子力研究所(当時)のKさんなどにも,

「なぜSSCならみんな知っているのに,
ITERは誰も知らないのですか?
原研の宣伝不足なのではないでしょうか?」

などと質問したものです。
(ちなみにSSCというのは,当時アメリカで計画されていた
Superconducting Super Collider、超伝導超大型加速器です。
計画が頓挫して大きな話題になっていました)

あれから20年たった今も,
核融合の社会的立場はあまり変わっていない,
いや,むしろずっと逆風となっているな,と
改めて思いました。

今回の講義で,核融合に興味をもつことができた,と
答えてくれた学生が多かったのがせめてもの救いです。
少しは核融合分野のお役に立てたかなと思っています。

このほか,レポートにはいろいろな意見,質問がありました。
核融合に関連したサイトなどの紹介も含め,
これから何回かにわたって(不定期ですが)
この話題に触れていきたいと思います。

2007年6月27日水曜日

失われた信頼は

人生が選択の連続であるという話のつづき。

選択には責任が伴う。
子供であれば,その責任はある程度まぬがれることができる。
その選択が,たとえば自己中心的なものであっても,
子供だということで周囲は許してくれる。

以前,ヤンキー先生のテレビ番組で,
その高校へ通う女子高校生が考えを聞かれて

「間違っても許してくれそうだからいい」

という主旨の発言をしていた。
はじめから間違えることを前提に,
そして,それが許されることを期待している,
という態度に,実は私は腹を立てたのだが,
まぁ,高校生というのはまだ子供として
社会に認められる時期である。
そうした教育(しつけ)を受けてきたのかと
悲しみはしたが,大目に見るべきなのだろうと,
そのときは思った。
(まぁ,私が腹を立てたからといって
どうなるわけでもありません。
ただ自分で納得するかどうかだけの問題です)

しかし,大人の社会はそうはいかない。
社会は,自分の過失については責任を取らなくてはならない。
たとえそれが自分が意図しないものであっても。

そしてたとえ自分が一生懸命努力していたとしても
失敗したら許されないことがある。
社会は厳しいのである。

いわんや,結果がどういうことになるかわかっていた上での
選択については,すべからく責任を取るべきである。
大学生は当然その責任を取るべき立場にある。
もう子供ではない。

(もちろん,一生懸命やった上での失敗や
うっかりとしたミスなどは,大学という教育の場では
大目に見るべきであると思ってはいるが)

自分が行った選択によって,引き起こされた結果については
責任をとらなければならない。
このことは人の信頼関係において特に重大である。

たとえば,ある行為によって人の信頼を裏切ったとする。
そうなることが当然予想されていたにも関わらず,
そのような選択をしたのであれば,
その責任は取らなければならない。

一度失われた信頼は,二度と取り戻せない。
タンパク質が変性してしまうように,
二度と同じようには戻らない。
覆水盆に返らず。
そうなったら,新たな信頼関係を長い時間をかけて
構築しなおすしかないのだ。
その結果を甘んじて受けなければならない。

社会は信頼関係で成り立っている。
甘えは許されない。
大学生もすでに大人と認められたこの社会の一員なのである。
もう大目に見てくれる人はいないのだ。
このことを肝に銘じて行動してほしいと思う。

(自分を一番信頼し,大目に見てくれる人は親であろう。
しかし,学生たちはその親の最も温かい信頼を
裏切ってはいないだろうか)

2007年6月26日火曜日

「カイゼン」というコンセプト

「カイゼン」という言葉がある。
トヨタ自動車で有名になった,
現場から作業改善の提案・実現をしていくという
ボトムアップの活動である。

それが転じて,現在ではいろいろなところに
「カイゼン」が使われている。

私も「カイゼン」には親しんでいる。
私の場合は,仕事の進め方の効率を上げることである。
といっても大したことはない。
ソフトウェアのショートカットキーを覚えるとか,
ネット上のスケジュール表を使うとか,
メモを常時携帯するとか,
そんな日常のちょっとしたことに工夫をするのだ。

またカイゼンで重要なことは,継続性である。
毎日,少しでもいいからカイゼンをしていく。
立ち止まることは,後退である。
Gain or Lostなのだ。

Life Hackという言葉がある。
GTDという本を以前に読んで,
以来,仕事術についてもカイゼンを求めてきた。
ちょっとしたカイゼンが
仕事の成果に大きく影響するというところが
面白いのである。

もちろん仕事のクオリティが直接向上するわけではない。
しかし,ちょっとした工夫(これを広義のHackと読んでいる)で
気分がずいぶんとよくなり,
すなわちストレス減らして仕事を進めることができる。
その結果,クオリティの向上につながるのだ。

私がカイゼンに取り組むようになったのは,
以前の職場の同僚Kさんがきっかけである。
Kさんには,電子手帳(Palm)やメモ術,時間管理術まで,
いろいろと教わることができた。
仕事は大変忙しかったけれど,
そうしたHackのおかげで,ずいぶんと助かってきたように思う。
こうして考えるとKさんにはいくら感謝しても足りないのだと気づく。
(今度会ったらそう言おう)

とにかく,カイゼン,Life hackは,
これからの仕事の効率を向上させるために,
ぜひお勧めしておきたいキーワードである。
ネットや本でちょっと調べてみれば,
すぐにいくつかのHackを知ることができるだろう。

まずは手近なところからぜひ試してみてほしい。
ちょっとのことで,ずいぶん効果があることに驚くから。

2007年6月25日月曜日

無数の選択の上に

週末が終わり,自堕落的に過ごしてしまったことを反省。
私には時間が足りないということの認識が薄かった。

仕事もそうだが,私生活でもやりたいことは山ほどある。
読みたい本もあるし,
ネットサーフィンもやりたいし,
もちろん,子どもたちとも遊んでやりたい。

限られた身体,限られた時間で
できることには限界がある。

一方で,年齢とともにやりたいことは増加しているようだ。
特にインターネットというものができて,
多くの情報を手に入れることができるようになってからは,
いろいろなことに興味が出てくる。

新しい本,CDの発売も知ることができるし,
どこかで美術展が開かれることもわかる。
だが限界がある。
そこで,選択ということが重要になる。

映画「MATRIX」でも,
「選択(choice)」がテーマになっていた。
考えてみれば人生は選択の連続である。
(って,よくいわれていることだけど)

以前は,それほど選択肢は多くなかったのではないか。
それがインターネット時代となり,
選択肢の数は飛躍的に増大している。
(そういえば,最近読んだ
「フューチャリスト宣言」(梅田望夫,茂木健一郎,ちくま新書)
にもインターネットにおける選択について話題があった)

だが,その選択の重要さが薄まっているわけではない。
むしろ最近の情報過多の状況においては,
選択の重要さがますます増しているような気がする。

選択の連続で人生ができているのであれば,
これから,自分が何をするのか,何を選択するのか
もう少し考えて,時間を有意義に過ごしてみようと,
あらためて反省。

(何を選択するかということとは別に,もうひとつ,
時間をいかに効率よく過ごすかというベクトルがあるが,
それはまた別の機会に)

2007年6月22日金曜日

駿馬に鞭をあてる

最近の若い人は(定型句ですね),
叱られるとすぐにへこむ人が多い。
あるいはムッとした態度にでる。
ともすると逆切れする。
本当に扱いづらい。

叱られ方が下手な人が多い。
私もずいぶん叱られてきたけれど,
自分の中で反省したら,
私はそれで良いと思っている。

さらに相手は私のことを案じて叱ってくれているのだとしたら,
それはもう有難いことだと思って聞いている。
(相手のためを思って叱ることと腹を立てて怒ることは違う)

結局,相手が自分を叱る目的が,
自分の行動を変化させることであるならば,
そうすれば良いだけのことなのだ。
そうと決めたら必要以上にへこむ必要はない。
そう考えている。

私の武道の先生は,
「有難いのだからニコニコ笑って聞いていればよい」などと
おっしゃっているのだが,私もさすがにそこまではできない。


昔,墨子という思想家がいた。
一時期は儒家に匹敵する思想集団を形成していたという。
ただ教えは非常に厳格で,
やはり民衆には広く受け入れられなかったのか
いつのまにか姿を消してしまった。
最近は「墨攻」という映画も作られたので,
ご存じの方もいるだろう。

さて,その墨子と弟子の耕注子のお話。

あるとき墨子が弟子の耕注子を厳しく叱りつけた。
それでかなり落ち込んだ耕注子が,
僕はとりえのない人間なんでしょうか…」と墨子に尋ねた。

そこで墨子は,
もし私たちが大行山に登る大旅行をするとして,
駿馬と羊とに車を引かせるとしたら,
君だったらどちらに鞭をあてる?
」と尋ねた。

耕注子は,「駿馬に鞭をあてます」と答えると,
墨子は「なぜ駿馬に鞭をあてるのかい?」と再び尋ねた。

耕注子は,
駿馬だったら,鞭をあてられて
山を登る責務を果たすことができるからです
」と答えると,
墨子は,
私の場合も,君のことをその責務に足ると思うからこそ叱るのだよ
と言ったという。
(墨子 耕注篇)

叱られるということは,
有望と思われているからだと考えれば良い。
叱れば変わると思っているから叱るのだ。
そうでない人には,最初から叱ることをしない。

学生諸君のポテンシャルを信じているのである。

注:決してこの記事は,
叱ることを正当化するために
書いたのではありません(笑)

2007年6月21日木曜日

美味しい水

牛を水場に連れてきても,
水を飲むかどうかは牛次第だ。


という話をときどき聞く。
すなわち,周囲がお膳立てしても,
やるかやらないかは本人次第ということだ。

現代の若者はマクドナルド世代である。

OOはいかがですか?XXはいかがですか?

そう尋ねられたものについて答える。
向こうからやってくるものを選択すれば良い。
自分からつかみとろうとする努力が足りないような気がする。

ある大学の先生から伺った話。

(先生)「なぜ卒業研究を進めないのだ?

(学生)「だって,先生がデータをくれないから

(先生)「・・・(絶句)」

すなわち,実験データでさえも与えられるものだと思っている。
研究が進まないのは,先生が情報をくれないからだと思っている。
大学の研究でさえも,なにかの課題や演習と勘違いしているようだ。

研究では当然,自主性が求められる。
決して,先生がこうしろ,ああしろ,
という言葉に従って動いていればよいのではない。
自分で問題を見つけ,それを解決するということが求められる。
その手段も自分で見つけていくことが期待されている。
マクドナルドの店員のようにあれこれ尋ねてくれる人はいない。

大学では,そんな学生たちのモチベーションをあげるために,
あれこれと手を打っている。
(昔はそんなことはなかったのに…)
いろいろなプログラムを用意したり,
講義の内容,やり方も以前に比べれば
ずっと工夫されるようになってきた。
それでも,彼らは勉強をしない。研究をしない。
結局,水を飲むか飲まないかは牛次第なのである。

だが,先日ふと思った。
その水が非常に美味しいことを知っていたら,
こちらが飲むのをやめさせようとしても,
水を飲もうとするのではないか,と。

環境を整えてやるということも大切だけれども,
研究の面白さをどううまく伝えるのかが
もっと大切なのではないか
と思ったのである。
研究が面白ければ,なにも言わなくても
学生たちは喜んで研究してくれるだろう。

このことを思いついたのは,
蛍の唄を子どもが歌っているときである。

「こっちの水はあまいぞ」

と蛍に教えてあげれば,蛍は寄ってくるのである。

現実問題,研究はそれほど甘い水ではない。
しかし,もう少し研究の面白さを伝えることができればと思う。
学問・研究の面白さを伝えることが,
大学の講義の意義であると常々考えているが,
(そうでなければ教科書をマスターすれば十分)
それがまだまだ足りないということか,と反省。

2007年6月20日水曜日

会社を深く語るためには

大阪大学 電気系の学生の諸君の就職活動も一段落しつつある。
今年は2~3年前の状況がすっかり変化して,
ずいぶんと売り手市場だったらしい。
それでも皆安定志向なのか,
有名大手企業への希望が集中し,
それなりに競争があったという。
大変なことには変わりないということか。

さて,就職活動の時期になると,リクルータと呼ばれる人たちが
頻繁に大学を訪問するようになる。
彼らは学生たちを企業に勧誘する目的で来るのだ。
大学としては,大変に有難い存在であり,
講義・研究の邪魔にならないのであるならば,
どんどん来訪していただきたいと思う。

ただ,こうしたリクルータの方々を見ていて気になったことがある。
リクルータとして入社後2~3年の新人を
送り込んでくる企業がある
ということだ。
一体どういうつもりなのだろう。
本気で勧誘に来ていないということなのかと不思議に思う。

企業の方に尋ねたい。
入社2~3年で会社の一体何がわかるというのだろう。
みなさんは,2~3年で仕事の面白さ,難しさ,
そしてそれらの奥深さを理解していたのだろうかと。
そんな若いリクルータに会社について何が話せるというのだろうか。

そうした若いリクルータたちは,
自分が会社を代表しているという責任感がどうも希薄な気がする。
どんなことを学生たちに話しているのか,
果たして上司のみなさんは把握しているのだろうか。
ここで紹介するのも憚られる酷い話も結構ある。
私がその会社とお付き合いしている印象では,
そんな酷さなどはないというのに。
(学生たちも決してそうした話を鵜呑みにしてはいけません!)

私はやはり最低入社後7~8年以上の社員を
リクルータとして派遣してほしい
と思っている。
仕事の酸いも甘いも一通り経験していると思われるからだ。
学生たちも本当はそういう話をじっくり聞きたいと思っている。

若いリクルータには,確かに学生たちが
気楽に話しやすいというメリットがある。
だが,彼らが話す仕事や会社のイメージは,
彼らがこの2~3年で持った一面的なものでしかない。
学生たちも,入社後の生活がどんなものになるのか,
そうした具体的な情報を得ることができるだろうが,
そんな情報は2~3年でほとんど役に立たなくなるだろう。

それよりもやはり中堅の方々に,
会社の奥深さを話してもらった方がずっと学生たちのためになる。
ただ,会社の方もリクルータとして働いてもらうために,
そんな第一線の人に一日現場を離れてもらうのは
困るというのも理解できる。
本当に優秀な人は,一日でも現場を離れれば,
職場にそれなりのダメージが生じるものである。

だが,10年後,20年後の会社の将来を担う優秀な人材を
確保することは社運を決定づける重要な仕事のひとつである。
会社は人。開発は人。なのである。
やはり人事はなによりも優先されるべきだと思う。

中堅の方とは学生が話しにくいというのであれば,
若手とペアを組んでリクルートに来られてはいかがだろうか。
とにかく若手の話す会社や仕事のイメージでは,
勧める側の大学としても困る
のである。

今年も中堅以上の方がリクルータとしていらして,
しっかりと学生と時間をかけて話し合っていただいた企業には,
やはり優秀な生徒の就職が決定している
ように思える。
リクルートに来られる企業の方には
ぜひご検討いただきたいことである。

2007年6月19日火曜日

歳歳年年人不同

本日の昼休み,研究室で卒業アルバム用の写真を撮影した。
図書館の前で,学生たちと並んで撮る。

3年前の写真を見て気づいたことがある。
どうも私はめっきり老けてしまったようだ。


大学という職場は,人が毎年入れ代わっていく。
幾人かの学生が研究室に入り,
幾人かの学生は卒業し就職していく。
(たまにそうでない人が研究室に残る)

よく,うらやましいですね,と言われる。
確かに国立の研究所などに就職すると,
30年以上も職場の同僚は一緒だったりする。
新入職員・研究員もずいぶん珍しい。
毎日同じ人たちと顔を合わせて,
同じような話をして過ごすことになる。

そうした職場から見れば,大学は変化があって
それはそれで素敵に見えることと思う。
事実,私もこうした環境に身を置いていることを
幸せに思っている。

しかし,若い人と付き合っていると
自分も若くなる,なんて話があるが,
そうとばかりは限らないようだ。

学生たちと話していると,
彼らとの年の違いを実感し,
逆に自分を相対化して
より老けてしまっているような気がする。
この効果で私も
ここ数年ですっかり老けた気がする。

研究室で繰り広げられる光景は毎年あまり変わらないが,
人はどんどん入れ代わっていく。
自分はここにとどまり,その変化を見つめている。
そして私も忘れがちではあるが,
確実に年齢を重ねているのだ。
こればかりは逃げようがない。

2007年6月18日月曜日

「本当の自分さがし」という夢

「勤労は美徳である。
ただし,勤労を通じて自己実現欲求が満たされる場合に限って」


と書いてみたのだけど,今度は自己実現欲求について少し考えてみた。

私が大嫌いな言葉のひとつに,
「本当の自分」
というものがある。

今の不幸は,今の自分が「本当の自分」ではないからであって,
「本当の自分」が実現できたときに幸せを手に入れることができる,
という話である。

私はそもそも,この「本当の自分」というものがまやかしである,
自己逃避・現実逃避の表れである,といいたい。

だいたいここで話に出てくる「本当の自分」とは,
その人が勝手に描いた自分の理想像であることが多い。
単に自分の性格の嫌なところの裏返しとしてイメージされる人物像が
「本当の自分」なのである。

それなのに,現在の不満は「本当の自分」ではないからなのだと,
まるで自分の他に原因があるような論で話を進めている。

あるいは「自分は特別」,「自分は本当はもっと素晴らしい」などと,
妄想である自分の理想像を夢見ている。
哀れに思う。時には滑稽にも思える。

もっと現実を直視してみたら,と思う。
いつまでも「本当の自分」という妄想を追い,
現在の不幸の理由を別に求め,
今本当に必要な努力をしないのは
もうやめたらよいのに,と思うのである。

本当の自分に対峙するのは,実際つらいことである。
それが嫌で,一生懸命に努力しないという人もいる。
一生懸命努力してだめだった時に,
自分に才能がない,と知るのがつらいからだ。
自分が何者かではない,特別ではないことを知るのは本当につらい。
しかし,そこからしか始まらない本当の修行がある。
夢から覚める必要があるのだ。

最近,小説「腑抜けども,悲しみの愛を見せろ」(本谷有希子)を読んだ。
(いや,なかなかギラギラした小説で,面白かった)
内容は,だいたい次の通り。

過疎がすすむ,しみったれた田舎に,
両親の交通事故をきっかけに,
東京から女優志望の姉が帰ってくる。
姉は「自分は特別だ」と思いこんでいる人間で,
妹や兄はそれに振り回されてきた。
そして,姉の帰省を始まりとして,
彼らは「本当の自分」に対峙しなければならなくなる。

この中で,最後に「自分が特別でない」ということを
悟り,絶望してしまった姉は何をしたか。
…世を呪うのである。
それほど自分と対峙するのはつらい。

でも,繰り返すけれど,
それからしか始まらないことがある。
まずは等身大の自分を見つめなおすこと。

「脚下照顧」
(決して履物を揃えろという意味ではない)

そこで初めて自分に足りないものを補うための努力が始まるのだ。
それこそ本当の自己実現なのではないか。
いいかげん,「本当の自分探し」という夢から覚めるべきなのだ。

大学生という年頃は,
現実に直面しはじめなければならない
そうした時期でもある。

(と書いてみて,私も相変わらずガキなのだと恥じるのだけれど)

2007年6月15日金曜日

6/15

出張で不在。

2007年6月14日木曜日

理工系出身者は出世できないのか

理工系の生涯賃金が文系に比べ平均5000万円低いという話の続き。

3月に参加した教育シンポジウムの発表において,
理工系出身の社長の割合が,他の先進国に比べ
非常に低いという話があった。

理工系出身の社長が少ない,といことは
会社役員に理工系出身者が少ないということに通じる。
もっというと理工系出身者は出世しづらい?
だから生涯賃金に格差がでているのではないだろうか。

実は,日本のGDPに製造業が占める割合はおよそ2割。
残り8割を支えているのは製造業ではないらしい。
(「ものづくり国家」などといっても所詮この程度なのである)
だから理工系出身の社長が少ないのは
仕方がないのだろうか。

しかし,ドイツ,フランスなどにおいては
理工系出身の社長の割合は日本に比べずっと多い。
中国なんて理工系天国である。
この差に日本の理工系出身者の特徴があるのではないだろうか。

先日あるホームページで,
「こんな上司にはこう対応しよう」という
趣旨の記事を見た。その中のひとつに

「技術出身の上司が細かいことを言って困る」

というシチュエーションが挙げられていた。
なぜ「技術出身の」という形容詞がついているのか。
そこに腹が立った。

つまりは,世間的には理工系出身者は
どうも社会的に問題があると見られがちだという事実を
示しているのではないだろうか。

実際,そうした事例が多かったからこそ
こうしたイメージが定着したのだと思う。

だが私は工学的なセンスを非常に信頼している。
会社でプロジェクトを管理できるのは
工学的センスの持ち主だけだ。
(文系出身者にももちろんこのセンスを持つ人がいる)
時間とモノ,人などのリソースを適切に分配し,
リスクを考慮しながら,コスト・時間で最適な進め方をする。
「細かい」というのも特長のひとつでもあるのだ。

だが,やはり何かが足りない人が多いという印象は実は私も持っている。
積極的に経営に参加せず,
自分の分野だけに集中したいという志向を持つ人が確かに多い。
そういう人もあってもちろんいい。
一生現場で第一線で活躍する。
そうした人生も素晴らしい。

でもそうした人だけではないはずだ。
生涯一技術者でありたくても,
マネージメントに参画しなければならなくなる方が普通だ。
その時点で文系出身者と競争し,負けてしまう。
上に立った時にマネージメントのスキルが不足しているのだろうか。
それとも経営のノウハウが足りないのだろうか。
私はそういう経験がないのでわからないのだが,
正直悔しい気がする。
やはり理工系には何かが不足してしまうのだろうか…

しかし,考えてみてほしい。
ソニーの井深大も
ホンダの本田宗一郎も,
そしてアップルのジョブスも,
マイクロソフトのゲイツも
グーグルの創業者も
みんな理工系出身ではないだろうか。
決して理工系だから社長になれないというわけではない。
たぶん理工系出身者には何かの努力が足りないことが多い,
それだけのことなのだろう。
それに気づいた人がたぶん出世しているのだ。

2007年6月13日水曜日

勤労は美徳か

昨日,「勤労は美徳」というフレーズを書いてから
少し考えてみた。
果たして本当に勤労は美徳なのだろうか?

私にとっては勤労は美徳である。
なぜなら私が働くのは,パンのみのためでなく,
マズローのいうところの自己実現欲求の一手段としてだからである。

仕事を通じて社会貢献をする
それも目的である。
私たちは社会と関わりをもたずして生きていくことはできない。
関わりをもつということは,
社会に対して何らかの働きかけをする。
その最もEffectiveな手段が仕事という認識である。

自己実現が仕事を通じてできない人もいるかもしれない。
そういう人たちにとっては,仕事は生活の糧を得るための,
そして仕事外で自己実現をするための資金を得るための,
一手段でしかないかもしれない。

そういう考え方のもとでは,自分の労働力は
会社や社会というシステムに取り込まれていると感じ,
仕事に生きがいなど感じることはできないだろう。
「勤労は美徳」などというフレーズも
自分たちの労働力を取り込むためのうまい言葉にすぎないと感じるだろう。

現代は自己実現の手段が仕事に限らないのかもしれない。
社会への働きかけも仕事を通じなくてもできるのかもしれない。

しかし生きがいのない仕事の現場では,
責任感の喪失が起こらないのだろうか。
楽しむことのできない現場は苦痛でしかない。
仕事への創意工夫も生まれないだろう。

だが生きがいを感じられない職種というのもあるだろうと思う。
そういう仕事に就くということは本当に不幸である。
仕方がなく,という状況もあるのだろう。
そういう人たちに対して,こうした安易な言い方は申し訳ないと思った。

だから私はこのように言い直すことにした。
「勤労は美徳である。
ただし,勤労を通じて自己実現欲求が満たされる場合に限って」

2007年6月12日火曜日

努力せずしてどうする

「目標が達成されなくても、努力している姿勢が好きなんで。
(中略)
達成したから偉いわけでもなく、できなかったからダメなわけでもない」

先日ついに夢のメジャーリーグ(ML)デビューを果たした
桑田投手の言葉である。

実は桑田,清原は私と同学年で(たぶん今年度40歳),
彼らがPL学園として甲子園で大活躍をしているころから
彼らのファンなのである(当然私は巨人ファン)。

特に桑田投手は,少しダークヒーローのイメージもあって(すみません),
大好きな選手なのだ。
以前巨人のキャッチャーの山倉選手が,
球を受けていて一番すごいと思ったのは江川投手でなく,
桑田投手だとコメントしていたのをよく覚えている。
こうして幾多の苦難を乗り越え,
とにもかくにもMLのグラウンドに立つことができたのだから,
本当に素晴らしいと思う。
同世代としてもうれしいし,励まされる。

冒頭の言葉は,彼の野球に対する姿勢を表している。
結果ではなく努力するということが,彼にとっては大切なことなのだ。
今回の結果は,その努力に対する野球の神様からのプレゼントでしかない。
達成できても,できなくても,どちらでも良い,と彼は言っている。
もちろん,彼のその努力があってこそのこの結果なのだけれど。

残念ながら社会に出ると努力だけではどうにもならないことが多い。
しかし,何かを達成するためには努力することが必要条件なのは間違いがない。

現代の若者には,どうも楽してそこそこ稼げればいい,
などという価値観が広がっているようだが,
はっきりといえば,そんな甘いことはほとんどない。
一生懸命努力してなんとかやっていくか,
それとも少しでも手を抜いてしまい取り残されていくか。
その両極端しか今の世の中許されていないような気がする。

現在は,その努力する場さえ
十分に与えられるかどうかという厳しい状況だ。

そんな世の中なのに,小学生のアンケートでは,
5人に1人が「がんばりたくない」と答えたそうである。
努力することは美徳という時代はどこにいったのだろう。
「勤労は美徳」という価値観は,
もはや廃れてしまったかもしれない。
馬鹿にする人すらいる。

しかし,努力しないでなんの楽しみがあるのだろうかと思う。
たとえば練習をしないで(あるいは適当にして)
参加するスポーツは楽しいのだろうか。
本当の楽しみを知るためには,
それ相当の努力が必要なのではないだろうか。
努力なしでも得ることができる楽しみなど底が浅い。

勤労も研究もつらいけど楽しみでもあってほしい。
そしてその楽しみを知るために,
学生の皆さんにも努力してほしい。
桑田投手の活躍はそうした人たちの
背中を少し後押ししてくれるはずだ。

2007年6月8日金曜日

6/11

出張で不在。

理工系の生涯賃金は文系より平均5000万円安い

3月の教育シンポジウムで聞いた話。
毎日新聞の方の発表によれば,
理工系の生涯賃金は文系より平均5000万円安いらしい。
私はかなりがっかりした。
(まぁ私はメーカよりもずっと安い給料なのだけど)

どうしてこんなことになっているのだろう。
これでは理工系ばなれが進むのも仕方がない。
高校生だけでなく,大学生だって,
いや社会人だって理工系就職を考えてしまう。

どうもこの記事が毎日新聞の一面に掲載されたらしい。
だれが調査したのだ,と思ったら,
実は大阪大学の研究室が調査した結果らしい。
工学科長もこの件については
その教授に確認したというのだから,
結構ちゃんとした調査結果ということなのだろう。


調査をした教授からは,
働く年数を考慮すれば,文系・理工系も
ほぼ同じだなどという説明があったらしいが,
そんなことは関係がない。
5000万円といえば家が一軒建つ金額だ。
子供にかける教育費だって変わってくる。
ひどい話だと思う。

発表者の方がこういっていた。

「先生方はこの結果が気に入らないと思います。
私も,仕事は『やりがい』も考慮に入れるべきで,
単にお金で比較できるものではない,と思っています」


…???
そんなこと思う人がいるのだろうか?
少なくとも私はこの結果にかなりがっかりしている。
しかし,それよりも「やりがい」という言葉で
所得格差を認めようとするその考え方が気に入らない

シンポジウムでも近くにいた若手の先生方とかなり憤慨していた。

文系の人がよく言う,

「好きなことをやっているんだからいいじゃないか」

この言葉を聞くと私は怒りで髪の毛が逆立つ。

じゃぁ,文系の人たちはそれほど非人間的な仕事をしているのかと問いたい。
そんなに変わらないはずではないか。
理工系の仕事だってかなりしんどくてつらい。
どこが違うというのか。
私はそんなことをいう人をいつも問い詰める。

バブルのころ,ある雑誌に
各業界の部長クラスの生涯賃金の比較の記事が載った。

銀行:7億5~8千万円程度
電機メーカ:3億5~8千万円程度
重工:3億円程度

今でもその金額ははっきりと覚えている。
それほど衝撃的だった。
銀行とメーカでは2倍以上異なるのだ。
5000万円程度の話ではない。

モノづくり国家を目指すと宣言しているこの国では,
実は技術が安く買いたたかれているのではないか。

理工系が我慢しているのではないか。

なぜこれほどまでに差がでるのか。
この問題については,適宜このブログで
いろいろ考えていきたいと思う。

2007年6月7日木曜日

誰かと繋がっていなければならないという不安

電車に乗れば携帯電話を開く学生たち。
私はつくづく今の時代に学生でなくてよかったと思う。
携帯のメールに縛られている彼らを見ていると,
なにか本末転倒のような気がして,
かわいそうに思えてくる。

メールの返答までの時間で友情が測れるのだろうか。
相手の反応を気にして,なるべく早く返答を出そうとする。

友達とつながっているという安心を求めて
メールをやりとりしていたはずなのに,
メールをやりとりすることに強迫されて,
疎外されてしまう不安を常に抱いている。

そんな友人関係などやめてしまえばいいと思うのだが,
それでも誰かとつながっていたいと思うのだから,
若い人にとっての友人関係は,どこか苛酷である。

ミクシ疲れなどもこの文脈で語られることだろう。
足跡を残す,コメントを残す,
そうしたことで関係の深さを測ろうとする。
コメントを残さなければ失礼だなどと非難される。
なんと窮屈な関係なのだろう。

昔,ポケベル(!)を学生たちが持ち始めたころでさえ,
私はもううんざりしていた。
誰が好き好んで24時間連絡を取り合いたいと思うのだろうと
ばかばかしく思っていた。

携帯電話もずっと持ちたくなかった。
さすがにそのうち持たざるを得なくなったけど。
しかし,くだらぬ人間関係を維持するために
そうしたツールを使いたくない。

携帯メールもメッセンジャーもミクシも
もうどうでもいいと開き直ってみてはどうだろうか。
そんなことで人間関係の深さを測ろうとする人たちと
友人であり続けることにどれだけの意味があるのだろうか。

独りって結構素晴らしいものだ。
メールの頻度が少なくてもちゃんと友人もできるし。

2007年6月6日水曜日

クールビズとネクタイ

クールビズは結局定着したのだろうか。
今朝もラジオで軽装の話をしていた。
まぁ,私は年中カジュアルデーみたいなものだから,
ネクタイなどめったに締めないので,
関係ないと言えば関係ないのだけれど。

それでもネクタイの業界はずいぶんと
打撃を受けているのではないかと思う。
省エネを実現するために泣く業界もやはりあるものだ。

私がネクタイを初めて締めたのは高校3年生のとき。
何かの面接で急きょ上京することになり,
ブレザーなどを購入して臨んだのだったような気がする。
詳しくは覚えていない。
ただ,ネクタイの締め方がわからず,
苦労したのを覚えている。
ちょうど父は出張で不在で,母に聞いてもわからなかった。
仕方がないので,本屋に立ち読みにいき,
そこで覚えたのだった。

プレーンノット,セミウィンザーノット,ウィンザーノット。
そのとき覚えたネクタイの締め方は今でも忘れていない。
(って,当たり前?)
やはり大人に近づいた気がしたものだ。

実は,私は鏡を見てネクタイを締めるのが苦手で
いつも見ないで絞めている。
その後,ノットやディンプルを確認するのに見るくらいである。
締める時に鏡を見ると,左右どちらかわからなくなってしまうのだ。
複雑な締め方は最初からあきらめている。

幸い,ネクタイの柄や太さは時代によって変わるけれど,
長さとその締め方だけは変わっていない。
だから高校時代に得た知識でなんとか間に合っている。
ネクタイをほとんど締めない私だけど,
それでもネクタイを締めた人の姿は素敵だなと思う。

先日Brooks Brothersの店に入ったのだけど,
色とりどりのネクタイが多く並んでいた。
クレストやストライプのデザインをみて,
たまには素敵なネクタイを結んで
洒落てみるのもいいなと思った。
夏に涼しく締めてみせるのは難しいだろうけれど。

2007年6月5日火曜日

ダ・ヴィンチのノート

ダ・ヴィンチのノートは,理系心をくすぐる。
精緻なデッサンと絶妙なレイアウト。
見るからに,その才能を感じさせる。
ひとつの芸術作品といってもいいかも知れない。

指揮者でもあった作曲家のストラビンスキーは(だったかな),
音楽の良し悪しは,「まず筆跡だ」といったそうである。
楽譜がきれいに書いてあることが,良い音楽の条件であるとのこと。
悪筆で書かれた楽譜(もちろん自筆譜)に傑作はないのだという。

ダ・ヴィンチのノートも,
そういう文脈で語ることができるのではないか。
デッサンの素晴らしさは画家という職業柄
素晴らしいのは当然かもしれないけれど,
思考の軌跡がわかるように図と書き込みが配置されている。
文章は何が書いてあるのか私には理解できないけれど,
思わずじっと見つめてしまう,そんなノートである。
何度見直すことがあっても飽きることがないだろう。

ダ・ヴィンチのノートを見て感じるのは
Visualizationという能力の大切さである。
抽象的なアイデアを形に表すということ。
これこそが研究者,特に工学者に必要な能力ではないだろうか。
形而上学的な考えを形而下である図・モデルに示すには,
それなりの省略化,あるいは不足を補って詳細化という
プロセスを経なければならない。
このプロセスが,そのアイデアの深化を促す。

このことに気づいたからには,
これから図はもっときれいに・丁寧に描こうと思う。

たとえちょっとしたポンチ絵であっても,
大事なところは押さえて,その部分の主旨は
正確に伝わるように描く。
大事なものとそうでないものを取捨選択し,
要点を押さえて描く。
これこそがアイデアを錬るという作業に
他ならないのではないだろうか。

2007年6月4日月曜日

ダ・ヴィンチの芸術と科学

映画「ダ・ヴィンチ・コード」の話題は
もうすっかりなくなったけど,
「受胎告知」が来日していることもあり,
まだ世間ではレオナルド・ダ・ヴィンチブームが続いているようだ。

ダ・ヴィンチについて実は私はよく知らないのだけれど,
どうも理系心をくすぐる感じがする。

「受胎告知」も遠近法などダ・ヴィンチが
科学的な分析をつくした技法が使われているという話だし,
残された彼の手稿をみると,
ほとんど理系のノートそのままである。
しかし,彼が科学的・工学的な背景をもっていたとしても,
彼の作品は人文的に万人の心を打つ。
それが素晴らしく思える。

つまり,理系心をくすぐる理由は,
科学的な分析・手法を徹底することにより,
人の心を感動させる芸術の域に達することが
できるのではないかと思わせるからなのではないかと思う。

しかし,実際はその逆ではないかと思う。
彼は,芸術を極めるために,
解剖学や工学といった科学的手法を
徹底的に追求していた。

つまり,科学を追求してそこに至ったのではなく,
芸術を追求したからこそ,
科学(医学・工学)という技術・哲学を
用いざるを得なかったのではないかと思うのである。

ダ・ヴィンチは絵を最高の芸術に位置づけていたという。
至高の絵を描くために,科学をツールとして用いたのだ。
科学は決して目的ではなかった。
これは大事なことなのではないかと思う。

総合的な知性によって彼の芸術は支えられている。
単なる専門家との違いがここにある。
(彼の時代は,芸術と科学は未分明だったかもしれないけど)

目的がはじめにある。
工学もその目的達成の一手段に過ぎない。
そうした認識の違いが研究の成果において
意外に大きな差を生むのではないのかと思う。