2007年7月31日火曜日

宇宙論が苦手

正直に言う.
私は宇宙論がからっきしダメである.
理工系のはしくれとして職を得ているけれども,
ダメなものはダメなのである.

正確に言うと興味がない.
まぁ,勉強すれば面白いのかもしれないが,
とても勉強する気になれない.

超ひも理論?
なぜ素粒子に色の名前をつける?
宇宙がインフレーションして膨張した?

全然物理的イメージが湧かない私は,
やっぱり宇宙には向いていないのだろう.

昔(学生時代),ホーキングの宇宙論が大ブームになった.
私はアマノジャクで,流行しているものには手を出さない主義.
そのときも理工系の学生としては興味があったのだけれど,
ホーキングの本も読まず,雑誌「Newton」も読まず,
ちょっとモンモンとしていた.

ある日電車に乗っていると,ワンレン,ボディコン(死語!)の
女子大生が話しているのが聞こえた.

「宇宙の始まりであるビッグバンの前は,
虚数の時間軸があってね...」

もう強烈な文化的衝撃だった.
いまでもその時のショックは覚えている.
こんな女の子が虚数の時間の話をしているなんて!
(いまだに虚数の時間軸とは何なのかわからないのだけれど)

以来,もう絶対宇宙論には手を出さないと決めた.
たぶん彼女が本当の宇宙論がわかっていないことの可能性の方が高いだろう.
しかし,どこにでもいそうな女の子が
宇宙論を得意げに喋っているその姿は,
自分を省みるに十分なものだった.
私はあぁはなりたくない.

それがトラウマとなったのか,
宇宙論にはほとんど興味が湧かなくなった.
理工系の人に宇宙論が好きな方は多いのだが,
そのお話にお付き合いすることはできない.
またその人がどこまで理解しているのだろうと,
ついつい疑ってしまうのである.
ごめんなさい.

しかし,宇宙論はダメな私だけれど,
実はSFは大好きなのである(笑).
宇宙論への嫌悪は,
単に自分がそれを理解できないことへの
不満の裏返しだったりするかもしれない.

2007年7月30日月曜日

細心の注意を怠らない

選挙の結果のニュースに交じって,
ひとつ気になるニュースがあった.

あの「プロレスの神様」カール・ゴッチ氏が亡くなったそうである.
82歳.
もうそんな年だったのかと,
いや自分がずいぶんと年をとってしまったことに気づく.

私はプロレスファンというわけではないけれど,
ゴッチの名前くらいは知っている.
ジャーマンスープレックスの名手.
ドラゴンスープレックスホールドの創始者.
ずいぶんと職人気質の頑固なおじいさんだったらしい.

彼はコーチとしてこそ日本では有名であった.
猪木,藤波,藤原,佐山,前田,木戸,越仲...
もう綺羅星のごとくスターレスラーを育てている.
その指導は本当に厳しいものだったらしいが,
多くの生徒たちに慕われ続けていた.

そして勝負師としても一部でその強さは知られていた.
彼は徹底的に勝負にこだわった.
レスリングはチェスのような頭脳戦だと語っていたのだという.
彼は勝負における細かいことの積み重ねの重要さを知っていたのだと思う.

そんな彼の話で心に残っているものがある.
彼は彼は,くつひもを締めるのに20分をかけたのだという.
くつひもの締め具合ががその日の試合を左右することがある.
それを彼は身をもって知っていた.
どんなに強くても,細心の注意を怠らない.
プロフェッショナルだったのだ.

彼の弟子である藤原喜明がノートに書き留めたという言葉も素晴らしい.

「石屋はハンマーを磨き,大工はノミを磨く.
 君は身体を鍛えろ.なぜならば君はレスラーだからだ」
(うろおぼえ)

では,私は何を磨くべきか.




#彼は愛妻家でもあった.
しかし彼の奥さんは,確か少数民族の出身で,
彼女しか話せない方言などがあったそうである.
奥さんに先立たれてゴッチ氏はずいぶんと
元気をなくしていたという話は伝わっていた.
リングの上での雄々しさを知っているだけに悲しい話である.

2007年7月27日金曜日

テストの嘆かわしい話

以前,学生時代にお世話になったF先生に伺った話.

F先生は期末試験のためにある問題を作られたそうである.
ある大問の中に小問が三問含まれていた.

1問目は,基礎的な知識を問う問題.
2問目は,1問目を発展させた問題.
そして3問目は,少し難しい問題.

当然,F先生は問1, 2, 3の順で正答率が下がるものと思っていた.
しかし採点してみてびっくり.
最も正解率の高かった問題は3問目だったのである.

F先生がその理由を調べてみると,
実は3問目はよく似た例題が教科書中にあり,
学生たちはとにかくその問題の解き方だけを覚えていたということらしい.

問題の解き方とは,単に式の立て方にすぎない.
問題の本質的なことには触れず,とにかく解き方を覚える.
そうした勉強法で良いのかと,F先生はずいぶん嘆かれていた.

これは高校までの勉強方法に原因があるのではないかと思う.
受験勉強においては,問題の解き方を覚えることに重点が置かれる.
問題の本質などあまり問題にしない.
とにかく短時間で正確に解くことが要求されるのだ.
問題の裏にあるものなどを考えることは無駄,
いや受験においては害があるとさえ思われているのだ.
自然,受験勉強は機械的なものになっていく.

大学に入ってからも同じである.
学生たちのアンケートでは,
もっと演習をやってほしいと多く要望がでる.
もちろん,より理解を深めるためという目的もあるかと思うが,
それだけであれば,教科書内にも十分例題は載っている.
じっくりと解けば,理解できるように教科書はできている.
では,なんのために演習を要求するのか?
それは講義中に行われた演習と同様の問題が試験に出題される可能性が高いからという理由が多分にあるのではないかと思う.
それさえやっておけば点数の向上が期待できる.

とにかく楽をして単位を稼ぐことを考える学生が多い.
まぁ,仕方がないといえば仕方がないのだけれど,
それではいったい何のために勉強しているのかと不思議に思う.
学校に来る時間がもったいなくないのだろうか.

大学での勉強は,公式を覚えればよいというものではない.
実社会においてはそんな公式で解ける問題は他人に任せておけばよい.
公式の裏にある物理的な意味,電気的な意味,
そうしたことに考えが至らなければ大学で講義を受ける意味などないのではないか.

自分の興味がある分野だけはやるというのだろうか.
あるいは時期が来たら勉強を本気でやるというのだろうか.
どちらもあまり社会が欲しがらない人材であろう.

いろいろな分野の基礎的な勉強をし,
いま,ここから努力している学生を社会は求めているのだ.

こうした話になるといつもぼやいてしまうようだ.
ちょっと反省.

2007年7月26日木曜日

カムイ 非情の教え

新しい理論を考えた.
新しい制御法を提案した.
新しいシミュレーションを行った.

こうしたときに大事なのは,
その理論や制御法,シミュレーションの限界を知ること
である.

その理論が成り立つ範囲はどこまでか.

制御法が有効なのはどういう条件の時か.
無効になるのはどういう時か.

シミュレーション結果が正しいのはどういう条件下か.
その近似が成り立たなくなるのはどういうときか.

こうしたことを考えることは,非常に大切だ.

このことを学生に話すとき,いつもある漫画のエピソードを紹介する.
それは,

白土三平,「カムイ伝」

である.私が生まれる前から連載が始まり,
40年以上たった今でも未完の大作である.
「カムイ伝」において,忍者,侍,百姓,非人たちを通して
描かれた社会的な問題は,今もなお生々しく感じられる.
学生のみなさんで読んだことのある人は少ないだろうけれど,
ぜひおススメの漫画である.

さて,その忍者カムイには必殺技がいくつかあるのだが,
その一つが「飯綱落とし」と呼ばれる技である.
これはプロレスでいうバックドロップとかジャーマンスープレックスに
類似した技で,相手の背面に抱きつき相手を頭から地面,
あるいは木の幹などに叩きつける技である.
忍者だから木から木へと飛び移ったりしているうちに,
相手の背後にまわりこみ,そのまま地面にまっさかさま.
相手の頭をクッションに自分は助かるという絶技である.

あるとき「むささび姉弟」がカムイを追っていた.
まず弟とカムイが対決.
カムイの飯綱落としにより弟は木の幹に頭を叩きつけられ,
知能に障害をきたしてしまう...
姉は弟の敵をとるために飯綱落としを破る技を思いつき
カムイに挑む.
(姉は本当は知能障害になってしまった弟の面倒をみたかったのだが,
忍者の長に対決を迫られ,泣く泣く対決,というストーリー)

姉が思いついた飯綱落としを破る方法は
カムイが背面に回ったときに,自分の身体を前から刀で貫いて
そのままカムイも串刺しにするという壮絶な技.
しかし,カムイにはその技も通用しなかった.
カムイは着物の下に鎖かたびらを着ていたのだ.
驚く姉に,カムイは

「忍者というものは技を編み出した時に,
自分の技を破る技も考えるものだ」
(セリフうろ覚え)

と悲しく言う.
なんたる非情な教え.
姉はカムイの教えを活かすこともなく絶命する...

と,ここまでずいぶん長くなってしまったが,
カムイ同様,私たち研究者・技術者も何か方法を思いついた時には
その限界についても同時に思いをめぐらすべきなのである.
そのことを言いたかった.

抵抗がR,インダクタンスがL,キャパシタンスがC
単純に表わされる電気回路の計算も,
あくまでも実回路素子がこれらの集中定数で近似できる範囲でしか成り立たない.
電圧・電流が高周波になれば回路は,また違った様相を示すことになる.
そうした限界を知ることが研究者として非常に重要なのだと思う.
そのことをこのカムイのエピソードは教えてくれる.
漫画だって,いろいろ教訓があるのだ.

このエピソードを読んで以来,
私はなにかアイデアを思いつくと,
いつもこのカムイの教えを思い出すのだ.


#ちなみに殺された姉の死体の前を
弟はヘラヘラと笑いながら歩き去っていくのである.
カムイ伝は本当に救いのない話ばかりなのである.

2007年7月25日水曜日

Anything worth doing is worth overdoing.

最近,気になっている言葉である.

"What is worth doing is worth overdoing."

"If it's worth doing, it's worth overdoing."

表現は少しずつ違うが,同じことをいっている.
アメリカの慣用句なのだろうか.

「やる価値のあるものは,やりすぎるだけの価値もある」

その通り.
世の中は,やりすぎる価値のあるものにあふれている.
(仕事中毒になれとは言っていません)

2007年7月24日火曜日

「学生時代,勉強しなかった」はもう通用しない

大学での試験期間が始まった.
試験勉強で寝不足な学生たちが朝から登校してくる.
なかなか元気な姿の学生は見かけない.
しかし,これが終われば夏休みなのだ.
あと少しじゃないか.
努力を怠らず,やっていこう!

私も大学時代試験期間は,
もちろん単位取得にやっきになっていた.
いま思うと懐かしい.
幾晩も一夜漬けを繰り返し...

という感じで,だいたい私くらいから上の年代の人は,
大学時代にどれだけ勉強しなかったかを自慢したがる傾向がある.
(そうでなくて,必死に勉強したという人もいるにはいるけれど,
数はずいぶん少ないような気がする)

バイトや部活で大学の講義に出ていなかったとか,
一夜漬けで試験をやり過ごしてきただとか,
そんな話を自慢げに話してしまう.

しかし,現在においてはそんな話は成り立たない.
今の世の中,とにかく勉強した者勝ちである.
基礎学力の低下,就職後の現場の厳しさ,
社会的状況の先行き不安.
こうした中で大学時代に自分の力を蓄えずに,
いつ蓄えるというのだろう.

働いてから勉強することがどれだけ大変なことか.
みな働いてから勉強するのだから
今勉強しなくてもいい,などとはとてもいえない.
つらくても働きながら勉強していける人だけが,
現場で活躍しつづけるのである.
その助走として大学時代の教養・研究は非常に大切なのだ.

数年前,電力関係の企業の重要な地位にある方の講演を聴いた.
やはり,

「私は学生時代,全然勉強しなかった.
今の会社に入ったのも,
指導教授が『君の顔は電力むきだ』と言われたからだ」

などという話を学生にされていた.
現在の成功も,それが一因となっているという感じで話されており,
正直呆れてしまった.
一体,この企業には危機感があるのだろうか.
弱電の企業の重役でそんな話を学生に向けてする人はいない.
私たちのバブルのころならばともかく,
現在のこの厳しい状況でそんなことをいう余裕などないのだ.

大学ではとにかく基礎学力を身につけてほしい.
そう企業は願っているはずである.
研究だってそうである.
大学時代と同じテーマの研究を
企業においても継続する人は少ないだろうが,
卒業研究を通して,研究の勘どころを身につけるということを
企業は期待しているのである.

大学に入れば遊べる,楽できる,
そんな時代はもう何十年も昔の話であると認識すべきである.
大学では,よりハードに,より深く学問をする.
どれだけ遊んだかではなく,どれだけ教養を身につけたかを競う.
ようやく,そういう当たり前の時代になったのである.

大学時代はサナギの時期である.
栄養を蓄え,社会に出て蝶の羽を広げる.
羽の大きさ,美しさは,
どれだけ大学で基礎学力を身につけたかによる.

2007年7月23日月曜日

春のない日本なんて

暑くなってきた.
今日で西日本は梅雨明けを迎えたのだろうか.
これから始まる酷暑を思うとちょっとゲンナリする.

大阪に来て4年目.
暑さにはずいぶん慣れてきたつもりだが,
やはり夏が来ればあらためて「暑い」と思う.

数年前,大阪では気温が30度を越えた日が
年間100日程度あったという.
「大阪は熱帯だ」
とそのニュースを聞いて思った.

水の都とは呼ばれるけれど
(実は誰が呼んでいるのか私は知らないけど)
その正体はコンクリートジャングルである.

大学のある吹田はまだ緑が多いのでマシだという.
しかし,正直エアコンなしではやっていられない.
(電力に携わる者として省エネは心がけてはおりますが)
実は私は兵庫の山奥に住んでいるので,
家に帰れば大阪よりは気温が2~3度低いような気がする.
それでもずいぶん過ごしやすい.

やはりこの気温の上昇は人間の活動によるものなのだろう.
ヒートアイランド現象というやつか.
なんとかならないものかと,
ハンカチで汗をふきふきアスファルトに落ちた自分の影をみる.
影がいやに黒いような気がする.

研究室の中国からの留学生に大阪の夏は暑いかと尋ねてみたら,
中国の故郷よりはマシだという.
彼女の故郷では4,5月から30度を超える日があるのだという.
中国での環境問題は日本よりずいぶん深刻らしい.

「日本は美しい.春があるから.
私の故郷はもう春という季節がほとんどありません」

と言っていた.
春がない日本なんて想像できない.

とはいえ,この数年は秋が
はっきりしなくなってきたような気がする.
山の紅葉もぼんやりと終わっている.
暑さがずっと続くせいだ.

やはりこのままでは,大阪から春がなくなる日も
そう遠い話ではないような気がする.
そう思うとますます夏が暑く感じられる.

2007年7月20日金曜日

詰め込み教育も大切だ

最近,どこでも聞く「基礎学力の低下」という話.
確かに実感としてある.

企業としても大変困っているようで,
大学にもなんとかしてくれとお話が来る.
(先日の研修においてもこの話題があった)

しかし,困っているのは皆同じで,
大学では,ゆとり教育世代,
すなわち教科学習3割減で育ってきた学生たちを迎えており,
今後どうなることかと戦々恐々としている次第である.

実は,私たちが大学に入学した時(20年以上前!)にも,
学力の低下はよく言われていた.
それまでは,例えばベクトル解析は高校で
基礎を学んでいたとのことだったけど,
私たちは,その教育を受けていなかった.
大学1年から電磁気学を学んだのだけれど,
divもrotもわからない私たちには,
マクスウェルの方程式などちんぷんかんぷん.
大学も講義と並行してベクトル解析の演習を行ってくれてはいたけど,
ベクトル解析の基礎が理解できるようになったのは,
半年も経ったあとであった.

その時の大学教員のみなさんの嘆きといったら,
本当に見ているこちらがかわいそうに思うくらいだった.
(私たちが原因だったのだけれど)

そして現在.
円周率を3で学んだ生徒たちが入学してきた.
ベクトル解析なんて,どういう内容か想像もつかないだろう.
だが,学生たちは横をみればみなそういう教育を受けてきているので,
危機感が薄いようだ.
しかし,これはかなり深刻な問題である.

20年前でさえ,学力低下にみな頭を抱えていたのである.
さて,20年前と比べ現在の技術の最先端はどこまで進んだだろうか.
ポケベルしかなかった時代なのである.インターネットなんてなかった.
今は携帯電話,インターネットが生活に不可欠となり,
それを支える技術は飛躍的に向上している.

大学の入試問題は学習内容に対応して易しくなったのかもしれないが,
社会はそうはならない.
科学技術は,ただ先に進むばかりである.

大学に入学してくる学生たちの学力は3割減.
社会の最先端は10倍以上進んでしまった.
このギャップを学生たちが社会に出るまでに
大学が埋めろと言われても非常に困難なことなのである.

昔の教員は頭を抱えるだけで済んだかもしれないが,
現在の教員はどうすればよいのか.
手をあげて逃げることはできないのである.

ゆとり教育の主旨はすばらしいと思うのだが,
現実問題,この社会の進展に従って勉強しなければならないことは
日々等比級数的に増加しているのである.
なのに学習量を減らすというのはもってのほかのことだと思う.
詰め込み教育はある時期,やはり必要なのではないかと思う.

もちろんゆとり教育の目指すところのように,
「考える」という習慣も大切だ.
しかし,その習慣は勉強が面白いと思ってからの話ではないだろうか.
勉強はやっぱりはじめはつらいのである.
そのつらさをある程度越えたところに
初めて面白さを感じる領域がある.
そこまではやはり努力しなければならないのではないだろうか.
逆に簡単に面白さがわかるようなものは,
もともとその奥行きが浅いものでしかない.

しかし,楽して効率的に稼ぐことを最大の目標とし,
お金というフラットな尺度でしか物事を測れないようになった若者たちには,
その実らないかもしれない努力を行う志は持てなくなってしまったのかもしれない.
もしそうならば,それが一番の問題だ.
面白くなければ,そこに創意工夫は生まれないし,
なによりも自主的に先に進もうという意欲がなくなるからだ.

いろいろな方面にこの話題は広がっていく.
やっぱりこの問題は根が深いのだろう.

2007年7月19日木曜日

あじさいの花言葉は

花の名前をいえる人は素敵だ。
その人の人生には潤いがあるような気がする。

私はといえば,ほとんどの花・植物の名前をいえない。
ひまわり,チューリップ,バラくらいなものか。
それでも,バラの種類を尋ねられたら,
スイートキャンディくらいしか思いつかない。
(ホントにそんなバラあるのかどうかも知らないが)

花の名前がいえる人は豊かな人生を送っているような感じがするのは,
花の名前なんて日常生活ではほとんど必要ないのに,
それを知る余裕をもった人だと思われるからだろう。
(そう思うのは私だけだろうか)

昔,「花の子ルンルン」というアニメがあった。
主人公のルンルンが事件を解決して次の場所に旅立つと,
その思い出にセルジュさんという若者が花の種を置いていく。
そしてナレーションでその花言葉が紹介されるという毎回の終わり方だった。
そのセルジュさんに憧れる。
優しいセルジュさんに私はなりたかった。

あじさいは,私が花言葉を知っている数少ない花である。
先日六甲山へ行ったときも,あじさいが大変きれいに
道端をかざっていた。
あじさいはちょっと"気"が強い感じがして,
庭に植えるのは気がひけるのだけれど,
こうして自然の中に咲いているあじさいはやはり素敵だ。

あじさいの花言葉は「移り気」である。
実はあじさいの花の色は,木が生えている土壌が
酸性かアルカリ性かによる。
土壌の質によって花の色が変わっていくので,
こんな花言葉になったのだろうか。

六甲にしおらしく咲いているあじさいの花を見ながら車を運転していて,
「移り気」の花言葉を思い出した。
そして女性を連想したのは,過去の苦い経験によるのかもしれない(笑)。

2007年7月18日水曜日

もう学生を大目に見ない

先日の若手教員のFD(Faculty Development)でも話題になったのだが,学生たちの卒業についてはもっとシビアになるべきだという意見の先生が多かった.
みなさん,いろいろと思うところがあるらしい.

日本の大学はやはり甘いと思う.
研究努力が足りない学生がいても,なんとか卒業させてきたというのが実情である.
これには憤懣やるせない教員が多い.
私もそうした学生はきっぱりと落とせば良いと思う.

確かに,就職が決まっているなどとごねる学生がいる.
しかし,努力しなかったのはその学生が悪い.
学生の親の顔も思い浮かぶのだが,
その学生のためにも,また大学の名誉のためにも,
落すべきであると思う.

そもそもアメリカなどでは,大学に入学して一年目にして単位が足りないものは学校を辞めさせられる.
その割合はなんと2~3割に上るという.
しかし,「その学生のために」,という判断である.
その後も学生を続けても卒業できなければ,その学生にとって悲劇である.
だから卒業できる可能性がない学生は,早期にやめさせるのである.

大学院への進学もそうである.
教員がこの学生の能力は足りない,と思ったら進学させない.
特に博士課程には進学させない.
とはいっても,アメリカの修士課程は講義だけで研究をあまりしない.
研究は博士課程からなのだ.
したがって研究能力がないと判断した学生には進学させない.

アメリカの博士課程は論文を何本書けば修了できるというものではない.
論文の本数ではない.
審査ではその人自身の研究能力が評価される.
だから外部から審査員を招いて,非常に厳しい面接試験を行う.
その面接試験に合格できる可能性があるものだけが
博士課程に進学を許されるのだ.

研究室に入っても,教授が細かく指示を与えてくれることなどない.
みな自分でアイデアを試し,教授と議論していく.
受動的な学生などいないのだ.

ドイツの研究室帰りの友人に聞いた話では,
学生と教授との打ち合わせは年間わずか2回だったそうである.
しかし,それでも研究の成果があがっていなければ卒業はできない.
それが普通なのである.

それに比べて日本の研究室はサービス満点である.
教員がいろいろとやってくれる.
教授はいろいろと指示を出してくれる.
怠けていても大目に見てくれる.
そうされるのが普通だと学生は思っている.
これを変えるべきだと私は思う.

そもそも教職というのはサービス業ではない.
顧客があるとしたら,それは決して学生ではなく
社会そのものである.
学生に媚びたサービスをするのではない.

小澤征爾の師である桐朋学園の齋藤秀雄先生は,
レッスンに1分でも遅れてきたものは,
教室に入れなかったという.
それが普通で,それが学ぶ者が守るべきマナーである.
私が学ぶ武道においても,礼儀を守れないものは,学ぶ資格がない.

そのように,大学においても学ぶ者が守るべきマナーを守らせ,
厳格に,しかし公平に教育・研究を行うべきなのではないか.

全入時代となり,大学卒が当たり前になってしまった現在ではあるけれど,だからこそ学生に迎合する大学になるのはやめるべきである.
むしろ最も厳しい大学となるべきではないかと思う.
それが大学のブランドを向上させることになるのだと思うのだ.
その出身であることを一生誇れるような大学であるべきである.

(こんなこと書いていると,いろいろ言われそう...
あくまでも個人的意見です)

2007年7月17日火曜日

企業が大学に求める教育

先週末は,FDということで,若手教員の研修に参加してきた.

研修では,企業の講師の方2名を招いて,
企業が大学にもとめる人材,教育についてご講演いただいた.

残念ながら私は,都合のため2番目のご講演の後半しか
拝聴することができなかった.
しかし,それでも企業の方々が大学に期待するものについては,
ずいぶんと理解できたと思う.

企業でも新人の教育にはずいぶん頭を悩ましている.
ここ最近の新人の,基礎学力,基礎技術力,実践力等の不足に加え,
企業自体もその体力をなくし,教育に手を回せなくなってきている.

そこで,企業は大学と協力して,実践力を養う教育プログラムに注目し始めており,事実国からの予算でそうしたプログラムを立ち上げている大学もあるようだ.

基礎技術力とはなにか,と講師の方に質問したら,
モノを作るために必要な技術,たとえば品質管理,コストを考慮したエンジニアリングのようなものとのお答えいただいた.

しかし,私はそれらは大学でもともと教育してこなかったものではないのかと思う.
QA,QCといった品質管理の方法は学問としては確かに一部大学で教授されてはきたものの,それを多くの学生に実践的に学ばせる必要があるのだろうか.
ただでさえ,基礎学力が不足しているといわれ,講義しなければならないことも山ほどある.
それなのに,新たに教育する必要があるのだろうか.
従来は,品質管理の手法,プロジェクトマネージメントは就職してから身につけるものであったのではないか.
それが,企業における教育に手が回らなくなった結果,大学にしわ寄せしようとしているのではないかと思うのである.

プロジェクト志向型の教育も,学生たちの意欲を高めるには有効であると思う.
ただし,プロジェクト終了後その意欲が継続しないという問題点は指摘されてはいるようだが.

確かに従来とは時代がかわった.
大学でもそうしたことを考慮しなければならないことは本当だろう.
それで大学も対応しなければならないのはよくわかるのだけれど,企業ももう少し頑張ってほしいと思わずにはいられない.

2007年7月13日金曜日

7/13

出張で不在です.

2007年7月12日木曜日

趣味はCreativeでなければならない?

趣味は何ですか?

と尋ねられたら,何を趣味と答えるか.
なかなか難しい問題である.
特に面接試験などにおいては,
どのような趣味があるかという点で,
印象が良くなったり,
相手に覚えてもらったりする.
(相手を忘れないようにするために,
逆にこのような質問をすることもある)

最もよくある答えは

読書,音楽鑑賞

ではないだろうか.
私もそうだったりする.
(他にもあるけれど)

しかし,これではありきたりすぎて,
相手によく覚えてもらうという目的を
達することは難しいだろう.

しかしそれ以上に,私が学生時代,指導教官であるS先生に
教えていただいたことを思い出す.

「趣味とはCreativeなものを指すのであって,
単に読書や音楽鑑賞ではだめだよ」


確かに,単に音楽をBGMのように流し聴いて,
それを趣味と呼ぶには,ちょっと自主性が足りないなと思った.
しかし,読書や音楽鑑賞はれっきとした趣味であり,
また私の生活の中にも大きなウエイトを占めている.
どのような解決法があるのか,ずっと考えてきた.

最近になって,評論を書けば良いのではないかと
思い当たった.
単に,本を読みっぱなし,音楽を聴きっぱなし,ではもったいない.
そのときに感じたこと,思ったことを書き残せば,
そこに主体性が生まれ,
ひとつの立派な趣味になりうるのではないかと思ったのである.

ただし,小学生の感想文レベルでは面白くない.
他人の目を意識し,なにかを与える文章を
書くように努力していってはどうだろう.
(この「何かを与える」ということを作家の村上春樹は,
読者の心の位置を少しでも移動させる,という風に
表していたような気がする)
すなわち評論のレベルまで高められるようにしたら
良いのではないかと思う.

これまではこうした文章を書いたとしても,
それはあくまでも個人的な覚書程度にすぎなかった.
しかし,現代にはブログというものがある.
なんらかの形で他人の目に触れる機会がある.
それは大きな差である.
コメントがもらえたらうれしいのではないだろうか.
あるいは同好の士と意見が交換できたら,
楽しいのではないだろうか.
現代は,そうした機会が誰にでも持てる
すばらしい時代になりつつある.

趣味は何ですかと聞かれて,
読書と音楽鑑賞です.と答える.
その上で,自分のブログを紹介する.
ブログの内容は自分を知ってもらうには
もってこいのツールである.
(逆効果もあるかもしれないが)

Creativityを感じる趣味を持つ.
やっぱり素敵な感じがする.

2007年7月11日水曜日

どのような生徒が素晴らしいのか。

面接試験の話も一休みして,
ちょっと考えてみたことを今日は記事に。

どのような生徒が望ましいのだろう。
いろいろと考えるべきことが多いが,
まずは手始めに,アスリートの世界について考えてみる。

1980年代,天才アスリートの名を欲しいままにした
カール・ルイス
彼が天才である所以を彼のコーチであったトム・テレツ(だったかな)が
以下のように話している。

1. コーチが指導する内容を瞬時に理解できること
2. その指導に従ってすぐに改善できること
3. それを機械のように正確に何度も繰り返すことができること


「理解」,「実行」,「継続」。

アスリートと研究者・技術者とは少し異なるかもしれないが,
上記3つのポイントは,日常生活全般において,
重要なものなのではないかと思う。

カール・ルイスの天才には及ばないが,
学ぶことにおいて努力すべきことには変わりがない。

2007年7月10日火曜日

面接試験心得5: 結論先行主義で答える

さて,プレゼンにおいては,学会発表などの
発表自体はそれほど難しくない。
なぜなら,練習すればするほど上達するからである。
立ち位置,間の取り方,ポインタの使い方など,
3回も練習すれば自分のものにできるだろう。
(いってみれば演劇の舞台稽古である)

しかし,練習だけではうまくいきにくいのが,
質疑応答である。
面接試験においては,これが一大事となってくる。
これだって,まぁ練習がものをいうのだけれど,
想定外の質問が来ることだってある。
それに対して気の利いた答えを,
余裕をもって答えることが
要求されるのである。

*ちなみに私が以前所属していた研究所では,
昇進試験の面接のために,想定質問を100問
用意して練習するとの話を聞いたことがある。
そこまでやってもうまくいかないこともありうるのだから,
本当に大変なことである。

回答そのものは,自分の考えを述べるのだから,
内容についてはここでは触れない。
しかし,その答え方は重要である。

面接試験や学会発表においては,
質疑応答の時間は限られている。
質問者は,発表者にダラダラと
答えられることが堪えられないのだ。
時間だけが浪費されていく。

短時間で的確に相手の質問に
過不足なく答えることが大切
なのである。
そこで,テクニックとしては,

結論先行主義で答える

ということである。
ある質問に対して,「Aである」という意見を述べる場合に,

「~は***で,~は***であり,
そのため,***であるので,
私はAだと思います:

などと答えられると,質問者はイライラとし始める。
結論までの時間が長いのは許されないのだ。
したがって,

「私はAだと思います。
なぜなら,それは,~は***で,~であるからです。」

くらいで答えられるのが良い。
私も,以前所属していた研究所では,

回答は一文で。そしてその理由や付随説明を3行くらいで述べろ

と教わった。
新聞も,TVのニュース原稿も,結論先行主義である。
リーダと呼ばれる概要を簡潔に述べる部分があって,
そのあとに詳細な説明が付随していく。

聴衆者・読者は結論がわからず読み進めていくのは,
まるで行く先を知らされずに導かれていくようで,
不安になってしまうのだ。
だから,はじめに行く先,すなわち結論を提示する。
それから説明を付け加えていくのが良い。

レポートにおいても結論先行主義は守られるべきである。
特に段落やセクションのはじめの文章は重要で,
読者の行き先を提示する必要がある。
結論先行主義は応用先が広いのだ。

しかし,それが好ましくない場合もある。
たとえば,クライアントへの提案。
はじめから結論を示してしまうと,
プレゼンが進めば進むほど,盛り上がりが少なく,
結果として印象の悪いものとなってしまう。
(プレゼンは印象良くメッセージを伝えることが
目的であることを思い出そう)
小説でも最初に結末がわかっていては面白くない。
こうした場合は,盛り上がりを配分させて,
劇的なクライマックス(結論)に至るのが良い。

結論先行主義は,あくまでも
技術・研究・仕事関係の文章や,
質疑応答での話である。

だが,結論先行主義でパキパキと答える自分を
想像してみよう。
たぶん,ずいぶんと賢そうに思えるはずである。
質問者へのアイコンタクトと礼儀を忘れず,
結論先行主義で対応することができたら,
きっと成功は間違いない。
(もちろん,その前に答える内容だけれど)

2007年7月9日月曜日

面接試験心得4: 目を見てはいけない

プレゼンにおいて,意外に大切なのがアイコンタクトである。
発表者は,聴衆を無視して好きなところを
見続けて話していてはいけないのである。

したがって,スライドが映されたスクリーンを
ずっと見続けて話したり,
黒板だけを見続けて話したり,
まして原稿を手に持ってそれを読んでいたりしては
全くだめなのである。

会場の聴衆,あるいは面接官それぞれに目線を送り,

「あなた方にお話しさせていただいています」

とメッセージを伝えなければならない
のである。
だから,ときどきは会場全体に目線を移したり,
あるいは面接官の方々の顔をぐるりと見たりする必要がある。
(もちろん,余裕をもった(でも不遜ではない)顔つきで)

たとえ聴衆が見えなくても,
(会場が暗かったりすると壇上から見えにくい時がある)
そこにいるものと仮定して,気遣いをする必要がある。

さて,人と話をするときにはどこを見て話せと習ってきただろうか。
多くの人は,「人の目を見て話せ」と教わったのではないだろうか。
しかし,私は

「人の目を見てはいけない」

と言いたい。
「目を見て話せ」と教わるのは,
アイコンタクトが大切だという教えなのだと思うが,
実際,相手の目を見て話してみればすぐにわかる。
非常に不愉快なのだ。

目には心の動きが現れる。
それをじっと見るということは,
相手の心をじっと見つめるということである。
だから,じっと目を見て話すのは,
尋問する場合とか,叱る場合とか,
強い立場のものが弱い立場のものに対するときなのである。
(私はそうした行為は嫌いだが)
例外として,恋人たちが目を見つめあうこともあるけど,
それは相手が何を考えているのか,
お互い探り合って安心しようとするからかもしれない。

私の稽古している武道においては,
相手の目を見てはいけない,と教わる。
氣力の強い人に,氣が吸収されてしまうからである。

結局,人間的な強さが大きい人と
じっと目を見つめあって話すことはできないのだ。

就職における面接試験においては,
対する面接官はだいたい人事のプロなどが同席することが多い。
現場でも部長クラスとなる。
そうなるとそうした対人力の強さは,学生の比ではない。
したがって,学生は面接官の氣に呑まれ,
しどろもどろの回答をしてしまうことになる。

では,どこを見て話せば良いのか。
「鼻のあたりをぼんやりと見ろ」
私の稽古している武道では教わる。
やはり「目を見て話せ」というのが常識になっているのだから,
そうしないと失礼に思われてしまう。
だから,鼻のあたりを見るのである。

武道でなければ視線を外すことも少しならば許されるので,
目を見ても,適宜視線を外して会話を続けることは
OKなのかもしれない。
(しかし,その短時間のアイコンタクトで
相手に呑まれてしまう可能性はある)

プレゼンにおいて,アイコンタクトは
相手にちゃんと話を聞いていますよ,
話しさせていただいていますよ,
というメッセージを送るための重要な手段である。
必ずアイコンタクトをしながら発表しよう。

しかし,目を見つめてしまうと,
相手の氣に呑まれてしまう可能性もある。
だからぼんやりと鼻のあたりを見つめて,
相手にメッセージを送ろう。

相手に自分が見られている,と考えるのではなくて,
自分が相手を見ている,と考えるだけでも
心にずいぶんと余裕ができる
ものでもある。
(この教えも武道で教わったことの受け売りだけど)

2007年7月6日金曜日

面接試験心得3: 話し方を磨く

プレゼンの印象を高めるのに,
重要なのは話し方である。

まず,声の大きさ
プレゼンにおいて声が小さいのは本当に良くない。
(小さい声が好ましい場合も
ごく稀にあるけれど)

もちろん狭い空間で大きすぎる声も良くない。
つまりは,その空間に応じた声の出し方が必要なのである。

会場に入ったら,まずその広さを確かめよう
マイクがない場合は,
一番遠くの人に声がまっすぐに届くように
自分の声の大きさを調整しよう。
(この「まっすぐ届く」とイメージすることが大切なのである)
最初の一声で,一番遠くの人の注意がこちらに向いたら,
声の大きさの調節はOKである。

マイクを使う場合も,スピーカの音量と
マイクと口との距離,そうしたものを考慮しながら
声の大きさを調整する必要がある。

次に声の質
くぐもった声,キンキンとした声は
なるべく避けるようにする。
(自分の声質もあるので,調整には限界もあるが)

マイクを使った時に多いのは,
まるでクラブ歌手のような甘い声を使ってしまうこと。
会場から失笑がもれる。

話し方の速さも大切である。
丁寧に説明したいとこは,ゆっくりと大きく,
フレーズ,フレーズを大事に話す。
一方,少し感情的なところを強調したいときは,
少し早めに話してもいい。
声の大きさ,話す速さで,印象をコントロールする。

はきはきとした滑舌の良さも必要だ。
語尾が小さくなる話し方の人も多いが,
文章の最後まではっきりと話そう。
自分の話したいことを明確に伝える努力は必要だ。

ただし,あまりに立て板に水で,
スラスラと話しすぎると逆効果の場合もある。
意外に朴訥に,ポツリポツリと話した方が
相手の心に言葉が届くこともあるのだ。

相手の反応を見ながら自分の話し方を変える必要がある。
これをCalibrationという

この辺になるとかなりコミュニケーションの
テクニックになってくる。

そして,リズム
意外に注意しない人も多いが,リズムは大切である。
抑揚,緩急,そして間(休止)。
これらがリズムとなって,心地よい話し方になる。
リズムが一番大切ではないかと私は思っているくらいである。

落語家の話し方は本当に参考になることが多い。
よく言われることだが,講演の名手と呼ばれた
小林秀雄は,古今亭志ん生にそっくりな話し方だったという。
(小林秀雄は彼を真似て練習したらしい)

素晴らしい話し手は,
まるで美しい音楽を聴いたかのような印象を与えるものである。

プレゼンの目的は印象を良くすること。
そして聴覚情報が,相手に与える影響の40%も占めるということを
理解すれば,話し方を練習することの重要性もおのずとわかるものである。

私もまだまだ精進,精進。
(昨年の大学の吹田祭で,桂文珍さんの落語を聴いたが,
会場の全員を惹きつける話術に本当に感激した。
話の方は,もちろん涙が出るほど笑ったけど)

2007年7月5日木曜日

面接試験心得2:プレゼンは印象第一

プレゼンは印象第一,という話。

もちろんプレゼンは,あくまでも内容が一番重要なのは間違いない。
重要な提案・報告をいかに効果的に行うかという話を進める。

プレゼンは,結局,
いかに印象よく相手に提案・報告を伝えるか,ということが目的
となる。
この「いかに印象よく」というところが大事で,
発表資料を見やすくしたり,
聞き手の理解を促すようなストーリー展開にしたり,
そうした工夫が重要となってくる。

プレゼンの練習(発表練習)を行うのも,
つまりは印象よく(ここには相手の理解を促すということも含む),
報告するためなのである。
(内容だけで良いのであれば,資料さえしっかり作れば,
発表が小さな声で,つっかえつっかえ行われても
問題ないはずである)

では,印象は何で決まるのか?

有名なメラビアンの報告というものがある。
心理学者メラビアンの報告によれば,
話し手が聞き手に与える影響の多きさは,

言語情報:7%, 視覚情報:55%, 聴覚情報:38%

だという。つまり言語情報ではなく非言語情報によって,
人は大きく影響を受けるというものである。

(原著をあたっていないのに紹介するのは,
研究者のはしくれとして少し気が引けるのだけれど,
真偽は別にして,確かにそのように実感されるし,
また大変有名な話なので,ここで紹介した)

これによれば,印象は,話している内容そのものよりも,
資料の視覚効果(見やすさ,理解しやすさ)や
発表者の話し方,声質などによって大きく左右されるということになる。

だからみんな発表練習を行うのだ。
発表練習はいかに発表の印象を良くするか,
その目的のために行われるにすぎないのだ。

印象を良くする。
この視点で見れば自然やるべきことはわかってくる。

たとえばファッション。
面接を受ける場・発表する場の状況を考えなければならない。

面接試験であれば,だいたいの場合
リクルートスーツなどが無難である。
しかし,もしかしてファッション関係の面接であれば,
それなりのおしゃれが必要になるかもしれない。

学会発表でも,学会によってずいぶん雰囲気が違う。
スーツ着用の学会もあるし,
アロハシャツに短パンといういでたちでもOKの学会もある。

先進国の指導者が集まるサミットにおいても,
指導者たちの服装がその開催される状況によって,
変わっていることを見てもわかるとおり,
要はTPOが大切なのである。

あと基本的なところとしては,

- 靴はきれいに磨いておこう。
- 髪型も清潔感があるものにしよう。
- ネールアートもほどほどがいいかも知れない。
- 白いワイシャツの下に柄物のTシャツを着るのはやめよう。
->透けて見えてかなりかっこ悪い(学生にはなぜか多い)。
- ワイシャツの袖のボタンはしっかり留めよう。
- ネクタイもまっすぐに。

...細かいことを言い出したらきりがない。
(しかし,できていない人も多い…)

つまりは,聞き手,面接官に良い印象を与えるという視点で
自分のファッションを見直してみよう。
(聞き手,面接官の視点を持つためにはそれなりの社会性が必要だが)
すべては印象の良いプレゼンのためである。

今後も,印象の良いプレゼンとはどのようなものなのか,
私の思うところを,ときどき記事にしていきたいと思う。

2007年7月4日水曜日

面接試験心得1: プレゼン力は重要だ!

就職活動もピークを過ぎてからこうした話題もなんですが,
面接試験やプレゼン(presentation)に関して思うことを,
このブログでいくつか書いていきたいと思います。

まず,「プレゼンは重要だ!」という話。

面接試験に限らず,仕事においては,
クライアントの前で,
上司の前で,
あるいは多くの聴衆の前で,
プレゼンを行わなければならないことがある。

このプレゼンの結果如何で,
自分の評価が決まったり,
あるいは仕事が取れたり取れなかったりするのだから,
それはそれは重要なのである。

民主党の代表に,管氏を破って前原氏が選出されたときも,
最後の最後で,彼の演説が素晴らしかったからだという。
プレゼンは人の心を動かすのだ。
その効果の大きさは次の米国大統領選挙においても
実感されることだろう。

政治家や会社の営業部だけの話ではない。
これまで一番縁遠かった研究者でさえ,
昔はアイデアとデータだけで勝負できたものが,
最近はプレゼンの良し悪しによって,
プロジェクトに予算がついたりつかなったりするのだから,
この能力は必要不可欠なものになりつつある。

まぁ折角の素晴らしい研究(提案)も,
プレゼンが悪かったら採用されない
と思えば,
しぶしぶでもこの能力を磨くしかない。
(逆にソコソコの研究でも見栄えだけは良くなる)

だが,こうした能力を磨く機会があまりに少ない。
大学でプレゼンだけを教える講義は残念ながら大阪大学にはない。
小・中・高とどの課程においても,
ディベート技術と同様,
専門科目として教えることは少ないのではないだろうか。

資料の作り方,アニメーションの効果的な使い方,
ストーリーの作り方,話し方,
そして質疑応答の対応法。
こうしたことはこれまで個人のノウハウとしてしか
得られてこなかったのではないだろうか。

私は幸いにして以前所属していた研究所で
いろいろと勉強する機会があった。
上司に厳しく指導いただいたこともあるし,
他の先輩・後輩のみなさんのプレゼンをみて勉強したこともある。
それで少ないけれど幾ばくかのノウハウは得たように思う。

けれど,大学では,研究室においてさえ,
それをきっちり指導・勉強することは少ない。
せいぜい学会前の発表練習程度だろう。
そうした機会の少なさが,
面接試験の弱さにもつながっているのだと思われる。

結局のところ,プレゼン力は自分で勉強するしかないのが現状である。
これだけプレゼン力が重要だという世の中で。


とにかく,初回の記事として,今回言いたかったのは,

・プレゼンの良し悪しは非常に重大な結果の差を生む

・プレゼン力は結局自分の力で磨くしかない


ということである。
結局,プレゼンから逃げることはできないのだから
覚悟を決めて,自分の能力のBrush Upに取り掛かろう。

(ときどき,この話題で記事を書いていこうと思います)

2007年7月3日火曜日

Life Hackの始まりは

Life Hackという,
仕事に関するちょっとした工夫をするという
Movementについて以前紹介した。

学生のみなさんに,まず身につけて欲しい技術。
それは,ブラインド・タッチ(ブラインド・タイピング)である。

これができない人も多い。
しかし,学生のみなさんはこれからどれだけの時間を
キーボードの前に座って過ごすことになるのだろうかと考えて欲しい。
40年近く,仕事の場でもプライベートの場でも
キーボードの前に座り続けることになるのだ。
(via Voiceなどの技術が発展するかもしれないけれど)

ブラインド・タッチができるかできないかということは,
ちょっとした違いにしか思えないかもしれない。
しかし,その少しの積み重ねが積分されて,
最終的に(40年後に)どれだけの差を生みだすかということを
想像するとぞっとしないだろうか?

昔からタイピングの練習ソフトも数多い。
定番の「北斗の拳」とか「あしたのジョー」とか。
私の記憶に残っているのは,「恐怖新聞」だけれども。
(打ち込むワードは,"守護霊"とか"ポルターガイスト"とかだった)

とにかく,ブラインド・タッチは必須の技術である。
たぶんフリーの練習ソフトもあるのではないだろうか。
Hackの始めとして,トライしてみたらいかがでしょうか?

2007年7月2日月曜日

実は体育会系は苦手

体育会系出身の学生は心遣いができ,
就職に有利,という記事を書いたけど,
実のところ,私は体育会系は苦手である。

あの封建的な雰囲気,
先輩たちの無謀な要求と後輩たちの蔭口。
体育系だというだけで
学内を肩で風切って歩いているような気がする。
(すみません,イメージで語ってます)

先日も体育館の近くでミーティングをやっているサークルがあり,
キャプテンと思われる人が,重々しく訓辞をし,
他の人が後ろに手を組んで不動の姿勢で聞いていた。
もう見た感じからして拒否してしまう…

そうした雰囲気だったら,
やっぱり体育会系は苦手なのである。
実際は,もっと汗と涙にあふれた
素晴らしい部活動なのだろうけど。

こんなことを書いておいて,申し訳ないのだけれど,
私も実は学生時代(9年間!),体育会合氣道部に所属していた。
主将も務めたりもしていた。
(たしかくじ引きかなんかで決まったような気がするけど)

だから私は,部がそうした体育会系の雰囲気にならないように努力した。
以前からこの部はそうした雰囲気があまりなく,
リベラルな感じで,とても居心地がよかったので,
大したことはしていないのだけれど。

まずは武道をやっているとありがちな,
肩で風切って,座れば胸を張って座るような,
そんな態度は軽蔑される。
言葉遣いも,「オスッ」などの言葉は全く使わず,
みな普通である。
(ちなみに私はこの押忍という言葉が大嫌いである)
立居振舞は荒々しくなく,
とても武道を稽古しているようには見えないことが理想である。

先輩と後輩との関係も,まぁいろいろあるけれど,
リスペクトを忘れない。
敬語などの問題もあるけれど,それを強制的には指導しない。
そもそも敬語などは尊敬の念から自発的に使うものであって,
それを口に出して人に強制するところからおかしくなってしまう。
そっと,謙虚に扱うべき話なのだ。
そうした謙虚さを身につけるからこそ,
就職にも有利になるのだと思う。

そもそも礼儀作法というものは,
自分の身を守るために従うものである。
もちろん,もともとは相手のことを思いやって,
その結果生まれる行動なのだが,
その思いやりの結果であるべき行動が
非礼・無礼・失礼であった場合,
大変な問題になることがある。

武士の時代。
礼儀作法を間違えることは,最悪の場合生死の問題につながるものであった。

忠臣蔵においても吉良が浅野に嘘の礼儀作法を教え,
浅野にひどく恥をかかせたことになっている。

あるいは,日常においても
武士が刀を腰から外して座る場合,
その刀を自分の左右のどちらに置くか,
そしてその時刃の向きをどちらにするか,
そうしたことで,その武士の相手に対する心が知れることになる。
(抜刀のしにくさの順に相手に対して礼を尽くしている)

現代でも,箸の置き方一つで,
相手に大変失礼にあたることもある。
ある世界ではそれだけで抗争の種になることもある。

そうした誤ちをなくすために不文律で成り立ってきたのが
礼儀作法なのである。
その定めれらた範囲内で過不足なく行えば,
自分の身が守られるのだ。

しかし本来礼儀作法は相手への尊敬の念から自発的に行われるべきものである。
そうしたことを学ぶのに体育会系は適しているのであろうと思うのであって,
決して体育会系をすべて礼賛しているわけではない。
そう,体育会系出身の私は思っているのである。

#最も体育会系的な部活。それは意外に吹奏楽部ではないかと思うのだけど…