2007年7月18日水曜日

もう学生を大目に見ない

先日の若手教員のFD(Faculty Development)でも話題になったのだが,学生たちの卒業についてはもっとシビアになるべきだという意見の先生が多かった.
みなさん,いろいろと思うところがあるらしい.

日本の大学はやはり甘いと思う.
研究努力が足りない学生がいても,なんとか卒業させてきたというのが実情である.
これには憤懣やるせない教員が多い.
私もそうした学生はきっぱりと落とせば良いと思う.

確かに,就職が決まっているなどとごねる学生がいる.
しかし,努力しなかったのはその学生が悪い.
学生の親の顔も思い浮かぶのだが,
その学生のためにも,また大学の名誉のためにも,
落すべきであると思う.

そもそもアメリカなどでは,大学に入学して一年目にして単位が足りないものは学校を辞めさせられる.
その割合はなんと2~3割に上るという.
しかし,「その学生のために」,という判断である.
その後も学生を続けても卒業できなければ,その学生にとって悲劇である.
だから卒業できる可能性がない学生は,早期にやめさせるのである.

大学院への進学もそうである.
教員がこの学生の能力は足りない,と思ったら進学させない.
特に博士課程には進学させない.
とはいっても,アメリカの修士課程は講義だけで研究をあまりしない.
研究は博士課程からなのだ.
したがって研究能力がないと判断した学生には進学させない.

アメリカの博士課程は論文を何本書けば修了できるというものではない.
論文の本数ではない.
審査ではその人自身の研究能力が評価される.
だから外部から審査員を招いて,非常に厳しい面接試験を行う.
その面接試験に合格できる可能性があるものだけが
博士課程に進学を許されるのだ.

研究室に入っても,教授が細かく指示を与えてくれることなどない.
みな自分でアイデアを試し,教授と議論していく.
受動的な学生などいないのだ.

ドイツの研究室帰りの友人に聞いた話では,
学生と教授との打ち合わせは年間わずか2回だったそうである.
しかし,それでも研究の成果があがっていなければ卒業はできない.
それが普通なのである.

それに比べて日本の研究室はサービス満点である.
教員がいろいろとやってくれる.
教授はいろいろと指示を出してくれる.
怠けていても大目に見てくれる.
そうされるのが普通だと学生は思っている.
これを変えるべきだと私は思う.

そもそも教職というのはサービス業ではない.
顧客があるとしたら,それは決して学生ではなく
社会そのものである.
学生に媚びたサービスをするのではない.

小澤征爾の師である桐朋学園の齋藤秀雄先生は,
レッスンに1分でも遅れてきたものは,
教室に入れなかったという.
それが普通で,それが学ぶ者が守るべきマナーである.
私が学ぶ武道においても,礼儀を守れないものは,学ぶ資格がない.

そのように,大学においても学ぶ者が守るべきマナーを守らせ,
厳格に,しかし公平に教育・研究を行うべきなのではないか.

全入時代となり,大学卒が当たり前になってしまった現在ではあるけれど,だからこそ学生に迎合する大学になるのはやめるべきである.
むしろ最も厳しい大学となるべきではないかと思う.
それが大学のブランドを向上させることになるのだと思うのだ.
その出身であることを一生誇れるような大学であるべきである.

(こんなこと書いていると,いろいろ言われそう...
あくまでも個人的意見です)

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