2007年7月20日金曜日

詰め込み教育も大切だ

最近,どこでも聞く「基礎学力の低下」という話.
確かに実感としてある.

企業としても大変困っているようで,
大学にもなんとかしてくれとお話が来る.
(先日の研修においてもこの話題があった)

しかし,困っているのは皆同じで,
大学では,ゆとり教育世代,
すなわち教科学習3割減で育ってきた学生たちを迎えており,
今後どうなることかと戦々恐々としている次第である.

実は,私たちが大学に入学した時(20年以上前!)にも,
学力の低下はよく言われていた.
それまでは,例えばベクトル解析は高校で
基礎を学んでいたとのことだったけど,
私たちは,その教育を受けていなかった.
大学1年から電磁気学を学んだのだけれど,
divもrotもわからない私たちには,
マクスウェルの方程式などちんぷんかんぷん.
大学も講義と並行してベクトル解析の演習を行ってくれてはいたけど,
ベクトル解析の基礎が理解できるようになったのは,
半年も経ったあとであった.

その時の大学教員のみなさんの嘆きといったら,
本当に見ているこちらがかわいそうに思うくらいだった.
(私たちが原因だったのだけれど)

そして現在.
円周率を3で学んだ生徒たちが入学してきた.
ベクトル解析なんて,どういう内容か想像もつかないだろう.
だが,学生たちは横をみればみなそういう教育を受けてきているので,
危機感が薄いようだ.
しかし,これはかなり深刻な問題である.

20年前でさえ,学力低下にみな頭を抱えていたのである.
さて,20年前と比べ現在の技術の最先端はどこまで進んだだろうか.
ポケベルしかなかった時代なのである.インターネットなんてなかった.
今は携帯電話,インターネットが生活に不可欠となり,
それを支える技術は飛躍的に向上している.

大学の入試問題は学習内容に対応して易しくなったのかもしれないが,
社会はそうはならない.
科学技術は,ただ先に進むばかりである.

大学に入学してくる学生たちの学力は3割減.
社会の最先端は10倍以上進んでしまった.
このギャップを学生たちが社会に出るまでに
大学が埋めろと言われても非常に困難なことなのである.

昔の教員は頭を抱えるだけで済んだかもしれないが,
現在の教員はどうすればよいのか.
手をあげて逃げることはできないのである.

ゆとり教育の主旨はすばらしいと思うのだが,
現実問題,この社会の進展に従って勉強しなければならないことは
日々等比級数的に増加しているのである.
なのに学習量を減らすというのはもってのほかのことだと思う.
詰め込み教育はある時期,やはり必要なのではないかと思う.

もちろんゆとり教育の目指すところのように,
「考える」という習慣も大切だ.
しかし,その習慣は勉強が面白いと思ってからの話ではないだろうか.
勉強はやっぱりはじめはつらいのである.
そのつらさをある程度越えたところに
初めて面白さを感じる領域がある.
そこまではやはり努力しなければならないのではないだろうか.
逆に簡単に面白さがわかるようなものは,
もともとその奥行きが浅いものでしかない.

しかし,楽して効率的に稼ぐことを最大の目標とし,
お金というフラットな尺度でしか物事を測れないようになった若者たちには,
その実らないかもしれない努力を行う志は持てなくなってしまったのかもしれない.
もしそうならば,それが一番の問題だ.
面白くなければ,そこに創意工夫は生まれないし,
なによりも自主的に先に進もうという意欲がなくなるからだ.

いろいろな方面にこの話題は広がっていく.
やっぱりこの問題は根が深いのだろう.

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