2007年8月29日水曜日

8/30, 8/31

不在です.

謙虚さ,そしてHandwavingということ

先日,リサ・ランドールさんが来日した際の
講演に関するTV番組を見た.(NHK衛星)

リサ・ランドールという人は理論物理学の人で,
この宇宙を取り巻いて異次元の世界が
(番組では5次元の世界に言及していた)
あるという説を提案しているとのことである.

実は恥ずかしながら私は彼女を知らなかった.
ハーバード大学の理論物理学で初めて女性で教授になった人で,
「ワープする宇宙」という一般向けに彼女の理論を紹介した本は,
アメリカでベストセラーになったのだそう.
容姿の美しさもあいまって,大変話題な人なのだそうである.

以前にもこのブログで書いたとおり,
私は宇宙論というものを未だ生理的に受け付けない.
5次元の世界など,よほどの考察がなければ
存在するとは言えないのではないだろうか.
だが,(たぶんだけど)彼女の著書を読んで,
5次元の世界が存在すると簡単に言ってしまう,
あるいは信じてしまう,という多くの人たちの中に
私は含まれたくないのである.

しかし,興味はある(笑).
生協に原本が置いてあった.今度トライしてみよう...

さて,番組では茂木健一郎氏が対談を行っていた.
実は,私は茂木氏が結構好きなのである.
学術的にどのような研究をされているのかは
よく知らないのだけれど,
(その辺は,その分野の研究者にお任せして)
彼の著作はいろいろと示唆に富んでいる.
賛成できる部分も,できない部分も.

その彼がリサ・ランドールについて,
彼女の研究姿勢について非常に感心していた.
それは誰からの意見も謙虚に受け止めるという
Open Mindな態度である.

私もいろいろと学会に参加してきて,
いろいろな発表を見てきた.
確かに自分の意見が否定されると,激こうする人がいる.
謙虚に人の意見を聴くことができない.

データがあるからいいのだ.
こうだからいいのだ.
つい,そう言い切りたくなってしまう.

しかし,そこには自分の理論やデータへの
過信がないだろうかという
自らを省みる姿勢が必要なのではないだろうか.
あるいはたとえ正しくても,他の研究者からの意見によって
新たな視点を得ることはできないだろうか.
そのように考え,謙虚に他人の意見に耳を傾ける態度,
それが大切なのだと私も思う.

リサ・ランドールさんも,自分の理論の限界をよく認識しており,
そうした点への指摘については,素直に認め,
議論を進めるといった姿勢をお持ちだったということだ.

茂木氏は,この話に関わって
Handwavingという言葉について言及されていた.
物理学などで使われる言葉で,
それほど厳密に正しいというわけでもないのに,
データや仮定を我田引水的に使用して,
自分の提案を良しと主張することである.
強く主張する際のジェスチャーに由来する言葉らしい.
(正しいのかな,この理解で...)

とにかくそうした態度は研究者としては恥ずべき態度である.
一流の研究者は,Open Mindな人が多い.
自分の提案の限界を知ることは大変重要である.
それが謙虚さとして現れる.
そうしたことを忘れずにいたいと思う.

2007年8月28日火曜日

なんだ,世界も変わんないじゃん.

昨日から,韓国のMyongji Universityの
Han教授が研究室を来訪されている.
Power Electronicsに関するWork Shopを,
私が所属する研究室と合同で開いた.

向こうもこちらも,学生たちが英語で発表する.
昨日は夕食を一緒にしたのだけれど,
Communicationはもちろん英語である.
学生のみなさんにとっては(韓国の学生にとっても),
良い経験になったのではないかと思う.

こうして親密に話し合う機会というのは,
結構研究者にとっては大事なのだと思う.
ただ発表された論文を読むだけではわからないことがわかる.
それはもちろん技術的な話題もあるし,
もっと広く,若者の興味,性向などの話題もある.

こうして世界の研究者,学生たちも
同じような問題を抱え,
同じように悩んでいる,
そうしたことを実感することが
意外に大事なのではないかと思うのである.

私も初めて海外に出張に出かけたときは,学会ののち,
独りでItaly Padova, UK Oxfordの研究所を回ったのだった.
メタメタな英語で(今も変わらないけど)
なんとか技術的な話をして帰ってきて,
それで抱いた感想は,

「なんだ,世界の研究者たちも私とたいして変わらないじゃないか」

ということであった.
彼らもやはり同じような問題を抱え,頭を悩ませていた.
それでいて,日常生活で興味を持っていることもあまり変わらない.
赤いスポーツカーをブイブイと乗り回していたり,
レオタードでヨガをやっていたり.

Padovaの研究所に行った時には,いきなり年とった研究者に

"Do you know Nakata?"

と尋ねられたことを今でもよく覚えている.
「ナカタ」という研究者は知らないと答えると,
フットボールプレーヤの中田だという.
彼のユベントスとの開幕戦での2ゴールがすごかったぜ,
みたいな話だった.
(私がその研究所を訪問したのは1998年だった)

もうガチガチに技術・研究の話をするのかと思っていたので,
砂糖を山のようにいれたエスプレッソを飲みながらしたサッカー談議は,
拍子ぬけしたけれど,本当に楽しかった.

こうして,初めての海外出張は
私のその後の研究生活に少し自信を持たせてくれたのだった.

今回の韓国の学生たちの訪問が,
この研究室の学生への良い刺激になってくれればうれしい.
彼らは,国は違えど同じ課題に頭を悩ましている仲間だ.
ときには競争するけれど,やっぱり仲間なのだ.

とにかく多くの研究者と交流をする.
とかく研究者はタコつぼに入りやすいのだけれど,
世界にアンテナを開いておくことは
研究生活において大事なことなのだと思う.
(それは,研究生活にかぎらないか)

2007年8月27日月曜日

暑い大阪での学会ばかり

本日から明日まで,大阪大学にて
電気学会 基礎・材料・共通部門大会が開催されている.
私は発表もなく,本日,明日と別のミーティングに
参加する予定なので欠席である.

ふと気付いたのだけれど,今年の電気学会の部門大会は
なぜか大阪開催が多い.
大阪大学の基礎・材料・共通部門大会もそうだし,
先日大阪工業大学で開催された産業応用部門もそう.
そして,電子・情報・システム部門大会も大阪府立大学で開催される.
(ちなみに,電力・エネルギー部門大会は青森 八戸である)

げんきんなものだが,東京や大阪で開かれる学会では,
参加人数がたいてい少なくなる.
それはビジネスで訪れることが多いので,
地域自体に魅力が少ないためなのだろうと思われる.
沖縄や北海道だと参加人数が多いのである.
(やっぱり同じ学会だったらビルの谷間より,
自然が近い場所のほうがいいものなぁ)

それに大阪は暑い.
今年は特に酷暑である.
なぜ暑いところで学会を開くのか,と愚痴の一つもでてしまう.

産業応用部門大会も福井,名古屋,大阪と来て,来年は高知である.
また暑い西である.
ちょっとため息がでる.

今年の大阪は世界陸上も開かれている.
その選手たちを考えれば,
まぁ学会はエアコンが効いている部屋にいられるので,
不満はいえないか.

9月の八戸の学会は涼しそうでいい.
ただ今度は台風が心配になるのだけど.

2007年8月24日金曜日

会社はチームか個人か

昨日紹介したメーカの方とのお話の続き.

このブログでも何度も話題にしているが,
会社の現場では個人で働くということはほとんどない.
だいたいが課やプロジェクトに所属し,
そのグループのメンバーと協力して仕事を行う.
だからこそ,コミュニケーション能力が重要視されているのだ,
という話をしてきた.

だが,現代の若者はグループで働くということに慣れていない.
確かに,大学までの人生では部活動でサッカーや野球などをしない限り,
個々人で生きてきても問題がないことも多い.

そうした人たちは,自分の働いた能力に見合った分の報酬がなければ,
たいへんな不満を持ちやすい.
もちろん,それは当然のことである.
しかし,実際の会社において,
個々人の働きを正しく評価できることは可能なのだろうか?
グループで仕事を進めるという条件のもとでは,
個人の業績の評価は非常に難しいのではないか.

結局個人の努力はグループのため,会社のためなのである.
それが日本の社会のシステムなのである.
私はこれが悪いとはそれほど思っていない.

もしも正確に個人の業績を評価しようとしたら,
仕事の内容を完全分業化することが必要だ.
それは,もう単純作業か,
あるいはデザイナー,俳優などの個人の仕事しかできないだろう.

そのメーカの方は,サッカーと同じだとおっしゃっていた.
すなわち,個人の能力も大切だが,チームプレーも大切なのである.
ラグビーではないが,時にはOne for Allの考え方も必要なのである.

日本の現場においては,チーム力ということが重視されてきた.
確かに悪い面もあるが,これまでは比較的うまくいって
日本の技術力は支えられてきたのではないかと思う.
これが欧米や中国のように個人主義にシフトしていったとして,
日本はこれまでのように発展し続けることはできるだろうか.
日本のチーム力というのは,世界でもいまでも注目されている
一つの大きな特長なのだと思っている.

もちろん,悪い面も多々あることもわかっている.
単純な年功序列がいいとは私も思っていない.
しかし,完全な能力主義となり,
だれもが自分の仕事の責任しかとらない,という事態になったら,
日本の会社は成り立たなくなるのではないかと思う.
だれもがちょっと能力が上がれば,よりよい待遇を求め,
それが見田さんれなければ,他社へ移ってしまう.
そんな状況で人を育てるということが可能だろうか.
チーム力は発揮できるだろうか.

若い人が会社を辞める原因のひとつに,
自分の能力が評価されないという不満があるという.
確かに搾取されている若者も多い.
そうした若者は転職が可能であればそうすればよいと思う.
しかし,日本の現場ではチーム力も重視される.
そこでは,個人プレーだけが評価されるわけではない.
チームのために働くという覚悟も必要である.
そのことは忘れないようにしたい.

#何度も繰り返すが,グループでの仕事が嫌な人は,
大学教員になるというのもひとつの手である.
その代り,学生相手に苦労することになるけれども(笑).

2007年8月23日木曜日

モノづくりの現場からの警告

大阪工業大学で行われた電気学会 産業応用部門大会も無事に終了した.
学会という場では,いろいろな方と情報交換ができることがうれしい.
そこであるメーカの方から興味深い,しかし恐ろしいお話を聞くことができた.

それはモノづくりの現場からの警告である.
ここ数年,下請の部品工場から上がってくる製品に
不良品の割合が多くなってきているという.
明らかに部品のクオリティが下がっているということである.

ある製品において,部品に欠陥があれば致命的である.
現在もいろいろな製品が自主回収されている状況をみれば,
そうした欠陥がその企業に及ぼす影響は非常に大きいことは容易に想像がつく.

もちろん,そうした不良品は試験においてチェックされており,
製品に欠陥が生じないように十分配慮されているわけであるが.

原因について考えてみると,
まず現在は,昔のように品質にメーカ独自でマージンをもつという
余裕がなくなってきている,ということがあげられる.

10年ほど前,以前の職場で公差(許容できる誤差)をいくつにするかという話を
メーカとしたことがある.
このとき,公差5 mmとこちらが提示すると,メーカはちょっと渋い顔をした.
こちらはメーカの技術力を知っているから,
当然それは可能だと思い提示しているわけなので,そうした反応はちょっと意外だった.
そこで話を聞いてみると,公差5 mmといわれたら
3 mm程度で私たちは作るつもりでやっている.
しかし,3 mmとなるとちょっと難しいかな,と思うとのことだった.
メーカのなかであらかじめ2mmのマージンをとっているのだ.
日本のメーカとはそうした気概をもってモノを作ってきたように思う.

しかし,現在ではギリギリまでコストを削ることを強要されるために,
そこまでの余裕がもてない.
したがって,公差5 mmといわれたら,ギリギリ5 mmのものを作る.
誤差の偏差を考えるとやはり許容できない製品の数は増えることになる.
こうしたことが現場で起こっている.

次に問題なのは人不足である.
人不足にも2種類ある.
まずは,これまで会社を背負ってきたモーレツ社員たちのリタイア.
すなわち団塊世代の引退である.

モノづくりの現場においては,結局のところその技術の最後の部分を支えているのは,
個々人の知識であり,技術である.
それはハイテクの現代においても変わらない.
人が技術を支えている.

そして,これまでそれを支えてきた人たちが現場から去っていく.
核をなくした現場は急速にその力を失ってしまう.
これまでと同じことを継続するだけであればなんとかなるだろうが,
新しいことに対応できなくなってしまう.
結局力不足になってしまうのだ.
では,次世代の人材が育っていないのか,ということになる.
これがふたつめの人不足である.

プロというのは,高い倫理観を自分の職業に持っている人だと
私はつねづね思っているが,
そうした人が現場(だけではないけれど)から少なくなっているのだ.
仕事を任せることができない人が増えている.

仕事はそこそこ楽してそこそこ稼げれば良いという考えの人が
多くなってきているようだ.
だから,要求を厳しくしても,それにこたえることができない.
拒否する,逃げてしまう,そんな人たちが増えてきている.

冒頭の話にもどって,部品をつくってもらう工場に,
基準をもう少し挙げるよう頑張って欲しいといっても,
最近では,できないと即座に断られることも多いという.
それは技術力が低下しているからでもあるし,
従業員にそうした努力を強要できないということでもあるという.

団塊の世代の人たちが,継承者を育ててこなかったのか,ということになるが,
確かにそういう面もあるのかもしれないが,
現在の若者の気質などを見ても,その原因は実は現代の社会の在り方に
起因するものでもっと根が深いものではないかと,
私も,そのメーカの方も共通した認識を持っていた.

この5年間で本当に人が大きく変わっているのだという.
そのメーカの人事においても,その変わり方に驚き,
そして頭を痛めているそうである.

人材を送り出す側の大学としても,責任を強く感じる.
しかし,大学入学の時点ではすでに手遅れであるという危機感も強いのだ.
悲しいことに,学生の価値観を変えるというところまで
濃度の高い指導というのは難しいのが現状なのである.
しかし,ただこの状況を見ているだけというわけにはいかない.
なんとか解決方法を模索していかなければ
日本は大変なことになってしまう.

団塊の世代が支えた繁栄の上に私たちは胡坐をかいてはいないだろうか.
私たち自身でも次世代になんとかつながるように努力していかなければならない.
そう,そのメーカの方とあらためて確認しあったのである.

2007年8月21日火曜日

8/22

学会参加のため不在です.

世界に一つだけの電池

日曜日は,「夏休み子ども理科教室」というイベントをお手伝いしてきた.
昨日から,大阪工業大学で開催されている
電気学会 産業応用部門大会という学会における
夏休みの子供たち向けのイベントである.

子供たちは小学校4~6年生を対象とし,保護者の方の付き添いもあって,
参加者は,午前・午後の2回で約200名に上った.

内容は,電池工業会のキットによる乾電池の作成と
その乾電池を用いてコンデンサを充電して走らせる電気自動車の作成である.
最終的に,子供たちは3 mのコースのタイムレースに挑む.
そこはやっぱり手作りの電気自動車で,
うまく走るものもあったり,曲がってしまうものもあって,
子供たちの喜びの声と失望のため息が混じりあっていた.

このイベントは,子供たちの理科への興味をもってもらうために
毎年行っている.
確かに電池や自動車を作っているときの子供たちの真剣さ,
目の輝きは,大変に素晴らしい.
見ているこちらこそ,ものづくりの楽しさを再認識させられるほどである.

子供のころのちょっとした体験が将来を決めることも少なくない.
先生に絵を褒められた.
算数の問題が解けてうれしかった.
飼っていたうさぎが死んでしまった悲しかった,などなど.
子供のころに受けた印象は,
大人になってたとえそのことを忘れてしまっていても
実は人生に潜在的に影響を及ぼしているのではないか,と思う.

私自身は,自分の人生を決定的に変えたこと,といわれても
ピンと思いつかないけれど,顕在意識が忘れてしまっている経験が,
あるのかもしれないとも思う.
人との出会いも含めて.

そう考えると,
電池を作って豆電球が光ったこと,
そして自動車が走ったこと,
それらのことが参加してくれた子供たちの将来を
ちょっとは変えてくれるかもしれない.

そう思うと,「夏休み子ども理科教室」をお手伝いできて,
ちょっと嬉しかったりする.

ちなみにこの記事のタイトルは翌日の毎日新聞 大阪地方版にのった
「夏休み子ども理科教室」の新聞記事の見出しである.

(余談)
実は一番驚いたのは,電気自動車に使用されているコンデンサが
スーパーキャパシタと呼ばれる特別なものなのだけれど(4.7F, 2.5V),
5年前の価格が600円だったものが今年は60円だったのだということである.
5年でこのハイテク部品の価格が1/10になるなんて.
あらためて技術の進展の速さに舌を巻いた次第.

2007年8月17日金曜日

今夏の電力供給を心配する

とにかく暑い.
先日外を歩いたのだが,ペットボトル4本飲んでも
トイレにはいかなかった.
すなわちすべて汗になったのだろう.

汗をかいて塩分が欲しくなるという経験を久しぶりにした.
夕方,涼しいラーメン屋で食べたしょう油ラーメンの美味しかったこと.
思わずスープをすべて飲み干してしまった.

ところでこうも暑いと,職業柄(?)電力の供給力について心配してしまう.
特に今年は地震の影響で柏崎の原発が止まっているから尚更である.

東京電力のホームページによれば,本日の予想最大電力は5,700万kW.
10-11時の電力は5,542万kWというから,今日も何とか大丈夫なのだろう.
今年はまだ6,000万kWを越えた日がない.
今年の夏もこのまま乗り切れることを祈っている.

だいたいこうして暑さが続くときは,
電力供給は厳しいことは厳しいのだけれど,
記録更新ということはあまりないのだということを聞いたことがある.
本当に電力需要が伸びるときは,しばらくそれなりの暑さが続いたあと,
前日にくらべぐっと気温が上昇する日らしい.
確かにそういうときは,エアコンの効きを強くしたくなる気持ちがわかる.

これまでの東京電力の最大電力は平成13年の6,430万kWだという.
十分な設備余力があれば,今年の夏は大丈夫なのだろうが,
やはり原発の停止が痛いということだろう.
各電力会社だけでなく,大口の需要家の協力も得て,
毎日薄氷を踏む思いのことだろうと想像している.

最近でも発電設備が停止せざるを得ず,
電力供給が危ぶまれた年もあった.
確かその年は冷夏で,電力会社は助かったのだったと記憶している.

今年は記録的な酷暑である.
しかし,それでも電力会社は電力の安定供給をしなければならない.
それは電気事業法に定めれらているのである.
その義務を果たすために努力されている電力会社の人の苦労を思うと,
やっぱりエアコンの設定温度を少し上げようなどと思うのである.

2007年8月16日木曜日

中国の大学には,なぜ博士が多いのか

合肥工業大学の他に,浙江大学も訪問する機会を得た.
パワーエレクトロニクスを中心に研究している研究室を訪れた.

とにかくお金と人.リソースがそろっていることに気づく.
また中国の研究室というのは,企業との関係が密接で,
中国企業だけでなく,日本,ヨーロッパ,アメリカと
種々の国々の企業とも共同・委託研究を行っている.

関係が密接というのは,次のとおりである.

企業がある課題をもっていたとする.
すると企業は大学の研究室に研究を依頼する.
そこで大学の研究室はアイデアを出す.
それを企業と協力してプロトタイプとして実現する.
その結果をフィードバックして商品化が実現する.
こうして企業は利益を得ることとなり,
また大学に資金を提供することになる.
こうした正の循環が成立している.

大学は企業の研究開発部としての役割も果たしている.
これがすべてとなると研究室の運営上,問題があるかもしれないが,
多種の企業との協力関係,その上,国からのサポートも充実しているので,
大学の研究室は,十分自立を保っているようである.

やはり驚かされるのは,博士課程の学生,そしてポスドクが多いこと.
こうした人材が中国各地から集まってくる.
(ちなみに浙江大学は,北京大学,精華大学と並ぶ中国トップ3の大学である)

中国では,博士号を取得すれば給料はぐっと高くなる.
またポスドクで経験を積めば,さらに査定は高くなる.
そうしたキャリアパスがあるために,
彼らは一生懸命努力しているのだ.

一方,日本ではどうだろう.
博士課程に進むことは現状非常にリスクがある.
就職の口は少なく,給与で優遇されることもない.
したがって生涯賃金は下がるし,
下手をすると会社からうとまれる存在になってしまう.
よほどの変人しか博士課程に進学しないことになる.

日本でも,博士課程の地位を高める必要がある.
単純に言えば給料を上げるべきだ.
ひとつの手としては,中国やアメリカのように
修士課程では学生に研究をさせず,
講義だけ受ければ良いということにしてはどうか.

研究能力がある人材を得るためには博士課程修了者を
取るほかはないようにするのである.
中国・アメリカでは,だから博士課程修了者の地位が高くなるのだ.
日本もそれにならえば良いだろう.

博士課程の優遇.
そしてポスドクになれば優遇されるというキャリアパスの確保.
こうしたものが整わない限り,
日本の大学の研究室で,博士課程・ポスドクという人材の蓄積は
難しいのではないだろうか.

浙江大学の研究室で,一生懸命に研究している学生・ポスドクの姿を見て
日本の大学の研究室の行く末に非常に危機感を持ったのである.

2007年8月15日水曜日

God is in the details.

神は細部に宿る。

こういったのは,建築家のミース・ファン・デル・ローエである。
何事もそうである。

芸術作品だけでない,研究もそうである。
ひとつとして手を抜いてはいけない。

人間の在り方もそうである。
少しのことに,その人間の全てが現れてしまう。
ファッション,しぐさ,表情,話し方,考え方。
そのひとの在り方が出てしまう。

一事が万事なのである。

心したいものである。

2007年8月14日火曜日

中国の大学におけるリソースの集散

今回の中国の出張においては,
合肥工業大学と浙江大学を見学・訪問することができた。
そしてかなりの危機感をもって帰国した。
電気系の工学(特にパワーエレクトロニクス)においては,
中国の大学の研究室の方が実力があるような気がしたのである。

なぜ中国の大学の研究室には実力があるのか。
それはなんといってもリソースがそこに集中されているからである。
リソースというのは,資金,人材,である。

まず,資金。
今回訪問した大学は中国において重点拠点とされている。
そこに国から資金の集中が行われているのだ。

合肥工業大学では,研究室(というより研究所)の見学をした。
そこには,太陽光,風力発電を交えた
マイクログリッドのシステムが模擬系統を含め構成されており,
それらが一括して中央制御室から制御されている。
こんな設備を大学が所有していることがすごい。
日本と違い,国がプロジェクトとして集中的にここに資金を投下しているのだ。

同じく合肥工業大学では,他にも太陽光発電研究のための研究所があり,
いくつかの研究室から成り立っていた。
ひとつの建物がそれに当てられており,博士課程の学生だけでなく,
30名を越すポスドクが一部屋に集められ
(ひとりひとりの机などの研究スペースは
私の日本におけるものよりもずっと広かった)
集中的に研究に従事している。
彼らは国から雇用されているのだ。
エリートとして雇用されている。
しかし,彼らにかかるプレッシャーは非常に厳しいと
中国の教授は話していたけれど。

同大学では,他に風力発電模擬のための250kWのモータ/発電機などを
一研究室が開発・所有しているなど,非常に恵まれている。
それらを自分たちで開発しているところに実力の高さが伺える。

またあちらこちらで見かけた,
計測器をはじめとする試験設備も
高価なものが複数台ずつ揃っていた。
中国おそるべし。

資金は国のプロジェクトだけではなく,
企業との共同研究によってもずいぶん多くを得ているようである。
実際,大手の日本やEUの電機メーカの名前を大変多く見かけた。
彼らは中国の大学の実力に注目,期待をしているのだ。
(日本の大学には期待しないのに)
密接に企業と関わりをもつことによって,
最新の技術を入手し,さらに実力を伸ばす。
そうしたことが中国の研究所では行われている。
そして,彼らは企業の研究所と同等の活動をしているのである。

ここでキーとなるのが,人材である。
中国では,博士課程に進む学生の数が多い。
それは,社会が博士号の価値を認め,
学卒に比べ給料がずっと良いからである。
また,国だけでなく企業からも
多くの奨学金を得ることができる環境が整っている。
(日本企業も多くの奨学金を出している。
なぜ彼らは日本の大学に冷たいのか?)
そしてポスドクの数も多い。

研究室の実力を向上させるために必要なものは,人材である。
博士課程の学生が少ないということは致命的である。
ましてポスドクなど日本の研究室ではそうそう雇用することができない。
博士課程の学生,ポスドクなどがいなければ,
ほとんどの学生は3年で研究室をあとにすることになる。
そんな状況でどのように技術のノウハウを
研究室に蓄積することができるだろうか?

なぜ日本には博士課程学生やポスドクが少ないのか?
それは企業が冷遇するためである。
その原因については,過去にもこのブログで触れているので,
ここでは追求しない。

日本でこうした資金の集中はやりにくいのではないだろうか。
文科省のCOEがそれに対応するものなのかもしれないが,
実際,それが継続し,効果を挙げていくためには,
社会の方の受け皿も準備していかなければならない。
現在,それができているようには全く思えない。
COEのお陰で,全国で博士課程に進む人が増えたのだろうか?
ポスドクで一時的に雇用されたとしても,
その先が社会に用意されているのだろうか?

中国においてもこうした資金の集中から外れてしまった大学は
さぞかし苦境に立たされていることは想像に難くない。
中国においては国の方針は,
日本よりもずっと強い力を持つであろうから,
反対の声を上げることもできないのだろう。
中国におけるこうした大学の行く末は,
日本の大学の多くのものになるかもしれない。
その意味で,今後注目すべきであろう。

ただ,こうして資金と人材を集めることができない日本の大学の研究室は
非常に厳しい立場にあることを再認識した。
この先,世界に立ち遅れていくのではないかと危機感を強く持った。
どうすればよいのか,なんとか解決策を,大学,民間を問わず
パワーエレクトロニクス分野の人たちと考えていかなければならない。

2007年8月13日月曜日

分散電源は,中国を,世界を救えるか

中国に行ってきた。
分散電源に関するパワーエレクトロニクスのシンポジウムへの参加,
合肥工業大学の見学,
浙江大学の訪問,が目的である。

IEEE主催の分散電源に関するシンポジウムは今回が第1回目で,
それが中国で開かれたことに意味があると思う。

分散電源とは,新エネルギー(風力,太陽電池,燃料電池等)などに
関する発電システムであり,今後私たち将来のために必須の技術である。
一方,パワーエレクトロニクスはエネルギー応用,
産業応用に近い分野であり,
その分野でシンポジウムが開かれるということは,
いよいよ本格的な導入が近いのだと言える
(これまでとは異なり大量導入するためには,また技術が必要なのだ)。

中国というのは,現在電力不足である。
毎年,巨大な電力システムが増力されているのだが,まだ不足している。
最近では一年に増力された電力設備は,東京電力総容量に匹敵する。

東京電力というのは,実は世界最大級の電力会社なのであり,
たぶん民間会社であれば世界一だろう(ちょっと自信が無いけど)。
それがたった1年間で増えているのだ。
これがどういう意味を持つか,だいたいすぐに予想できる。
エネルギー不足,環境問題,燃料の高騰。
決して対岸の火事ではないことは,日本も既に実感している。

これを救うには,やはり新エネルギーの利用と効率の改善しかない。
だから分散電源とパワーエレクトロニクスなのだ。

中国では計画停電(あらかじめ停電が予定されている)が
数年前には当たり前に行われていた。
いつかそのようなことが世界のあちらこちらで,
もちろん日本でも行われることになるかもしれない。

そうならないように私たち研究者・技術者は努力している。
しかし,技術的進展はその需要の増加に追いついていない。
結局のところ,現在は人々の省エネ努力に頼るしかないのだ。

世界を救うのは,限界がある科学技術ではなく,
人々の心を変える偉大な哲学者の出現なのかもしれないと
思ったりもする出張帰りの私なのである。

2007年8月6日月曜日

8/7-8/11

出張で不在です.

音楽と環境の組合せを変えるモノ

今年前半で購入したもので,もっとも良かったと思うのは,
デジタルメディアプレイヤーである.

私などはカセットテープのウォークマン世代だから,
(猿がウォークマンを聴いていたCMが思い出される)
こんな小さな筺体に,1000曲だとか言われても,
全然実感が湧かない.

しかし,その軽さ・小ささには本当に驚く.
これだったらどこへでも持っていこうという気になる.
どこにいても音楽に触れられるという体験は,
思っていた以上に感動的で,
私と音楽の関わり方を変えてしまった.

陽だまりの中で,Stravinskyのペトルーシュカを聴いた時は
本当によかったなぁ.
明るい日差しの中で聴くと,音楽の彩りがより鮮やかに感じられて,
私のこの曲に対する印象を全くもって変えてしまった.

考えてみれば,音楽を聴く体験は非常に感覚的なものだから,
その時の環境の状態によって大きく影響を受けるのは必然なのかもしれない.
ステレオルームにこもって聴く,という環境ばかりではないのだ.
(コンサートホールの生演奏はまた違うのだけれど)

ある環境において,ある音楽を聴く.
音楽の印象は環境によって変わるのだから,
もっといろいろなところで,いろいろな音楽を聴いてみたいと思っている.

私のデジタルメディアプレイヤーは1GB.
それでもいろいろな音楽を持ち運べる.
クラシックだけではない,いろいろな音楽が入れてある.
外出した時に聴くたびに,また新たな印象を与えてくれる.
この機械は本当に素晴らしい.

2007年8月3日金曜日

話芸の粋にあこがれる

一時の熱気は去ったように思えるけれど,
落語のブームは静かに定着しつつあるようだ.
繁昌亭もずいぶんと人が入っているらしい.
落語の素晴らしさに目を向ける人が
ずいぶんと増えたことには間違いがないようだ.

実は私も最近,落語の素晴らしさについて良く考える.

以前私がいた職場の上司は,
水戸芸術館によく落語を聴きに行っていた.
水戸芸術館といえば,
あの吉田秀和氏が館長の有名なコンサートホールだから,
音楽も聴かずに(いや実際はその上司はクラシックファンで
良く音楽も聴きに行かれていたのだけれど)
なぜわざわざ落語なんかを...と当時は思っていた.

しかし,私も歳をとったのだろうか.
落語が好きになってしまった.
どうも落語の面白さがわかるには,
それなりの人生経験がいるらしい.

NHKラジオ第一で放送されている
「真打ち共演」や「上方演芸会」などは
良く車の運転中に耳にする.
話の内容が面白く,あまりの笑いでときに運転が危なくなるのだが(冗談です),なんといっても,その話術の素晴らしさに感心させられる.

最初囃子にのって噺家が舞台に登場した時は,
そろりそろりと話を進めていく.
会場とのコミュニケーションを図り,
噺家に興味を持ってもらうようにする.
そして徐々にアクセルを踏み,
会場をぐっと話に引き込んでいく.

その辺の呼吸といったらもうたまらない.
会場のお客さんが体を乗り出していくのが想像できるほどである.
会場は噺家の一挙手一投足に見入っている.

しかし,やはり話術には技量の差があるようだ.
ぱっと話に引き込まれてしまう噺家もいるけれど,
いつまでたってもノリが悪い噺家もいる.
内容が悪いわけではない.
どうも間が悪いのだ.
本当に良い噺家の話は,美しい音楽を聴くのに似ている.
間,緩急のリズム.
そうしたものが即興的に奏でられていく.


ところで,大阪大学でも,
毎年秋に開かれる吹田祭という大学祭には
噺家の方がいらっしゃってくださり,
無料で落語を聴くことができる.

実は昨年初めてこの落語会に行った.

演目は,

桂 春菜:七度きつね
桂 梅團治:寝床落語
桂 文珍: 二番煎じ

落語を生で聴くのは初めてだったのだけれど(講義室で聴くのだ),
あまりのおかしさに,涙を流しながら聴くことになった.
いやぁ,やっぱりライブは素晴らしい.
お客さんと一緒に雰囲気を作っていくということが良くわかる.
会場が熱気を帯びていく.

どの噺家さんもずいぶんと達者だったけれど
(プロに向かって失礼...)
やはり桂文珍さんの落語は非常に印象に残った.
なんというか間と緊張の具合が本当に心地よい.

ちょっとした冗談で会場を笑わせたあと,
ギュッと間を締めて会場が一気に緊張する.
次に文珍さんがなにをするのか,
注目が一身に集まる.

そんな緩急の自在さにすっかり参ってしまった.
文珍さんは落語界のスーパースターではあるけれど,
その通りの実力をお持ちなのだろう.それを垣間見ることができた.
これだったらお金を払って落語を観に行っても十分満足できる.
(当日はこれが無料で聴けたのだから本当に幸せであった)

文珍さんは,落語はジグソーパズルのようなもので,
足りないピースは客が思い思いに埋めていくものだ,と話されていた.

なるほど.

私も講義で学生たちに話しているけれど,
少しくらいはあの話術を身につけたいと思う.
(居眠りする学生が減るかな)
そしてジグソーパズルを提示して,
足りない部分を学生たちが各々考えてくれるような,
そんな講義をしてみたい.

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