2007年9月30日日曜日

哲学者,思想家の説明力に驚嘆する

普段このブログは平日更新を心がけているのだけれど,
今日は特別に更新。

「私の身体は頭がいい」 (内田 樹,文春文庫) を読了。
(息子の運動会の"場所取り"の待ち時間で読んだのだけど)

内田樹氏は,フランス哲学の教授にして,
合気道家でもある思想家(?)である。
神戸女学院大学にお勤めとのことで,
ずいぶんと近いところに居られるのだということは,
最近になって初めて知った。

少し前から,氏(とか呼んでいいのかな。やっぱり先生と呼ぶべきかも)の
ブログにはたびたびお邪魔し,
その記事の明快な論理性に惹かれている。
その内田氏が武道について著された本が文庫本化されたので,
内田ワールドへの手始めとして読んだのである。

氏は合気道の修行者であり,
身体性への考察が非常に面白い。
また合気道という武道の特殊性についても
はっきりと認識され,それについても素晴らしい説明をされている。

そして,この著書の中で氏は武道の第一の目的は,
「生き延びること」であると述べられている。
そのために,「敵」という概念には,
危害を加える人間に限らず,
天災や病気のウィルスも含まれる。
そして,この「敵」 (主体ー他者)の二元論からの脱却を目指すことこそ
武道の目的なのだと喝破されている。

...昨日,私も偶然にも「武道の目的」について
ブログの記事を書き,それは"survive"することだと述べた。
その目的はほぼ一致している。
これについては驚き,正直うれしかった。
武道というものは武技に限らない総合的なシステムであるという私の考えは,
それほど遠くないのであると勇気付けられた。
(というか,武道修行者ならばみなそう思うのだろうか?)

しかし,ショックだったのは,その説明力の素晴らしさである。
哲学者,思想家というものは,ここまでクリアに論理をすすめ,
読者に(なるべく)正確に自分の考えを伝えることができるものなのか。
そうしたことに感動し,その一方で自分の論理展開の幼稚さを恥じた。
それがショックだったのだ。

もちろん,工学的な論文というものにはよりクリアな論理展開が求められる。
あいまいさは許されない。
それが介入しないために私たちは数式とデータを用いるのだ。
(時々,データの解釈には問題が生じることもあろうが)
しかし,それはあくまでも事実の描写であり,
理論,仮説の説明である。

こう考えると,工学的な理論,仮説というのは,
人間の考えに比べるとずいぶんと単純なものであるということに気づく。
いや,理論,仮説というものは万人に理解されうるべきものでなければならず,
基本的に単純であることが求められるのだ。

一方で,人間の思考というものはその発生時点からして複合的である。
あるひとつの単純な論理だけが初めから生まれてくるということは
ほとんどないのではないか。
多岐にわたる複合的な思索の結果として,単純な結論に至る。
そうしたものなのだろうと思う。

したがって,その結論に至る過程を誰にとっても理解してもらえるように
説明することは,その決して順序立てて想起されたのではない思索を
系統的に解きほぐし,そこに論理性を持たせるようにしなければならない。
理工学の論文とは難しさが違う。
それができるのが哲学者,思想家なのであろう。
そうでなければ,思索のプロとは呼ばれない。

しかし,いま,この私の考えを説明しようとするだけでも,
自分の未熟さに悲しくなる。
どうやったら自分の考えをより精度良く伝えることができるのだろうか。
いや,それ以前に,自分の考えをより精密に構築していけるのだろうか。
そうした力を私は身につけていきたい。

このブログは,短時間に書きつけているのが常であるが,
少しでもこの説明力を磨こうと思う。

氏の文章を読んで,ちょっとショックだったので,
今日は特別にブログを更新した。
それほど衝撃的だったのだ。

2007年9月28日金曜日

武道の目的とは?

もう武道を修行し始めて24年にもなろうとしている.
残念ながら未だ至らず,人に自慢できるものではなく,
下手の横好きといった具合で,
ほそぼそと道場通いを継続している程度なのではあるが.

しかし,私の人生に「武道」が占める割合はすこぶる大きい.
武道の存在なくして,今の私はありえない.
そんなところまで深く入り込んでしまっている.

なぜこれほどまでに武道にひかれるのか.
これから少し考えていきたい.

ということで今回は,まず武道の目的は何か.
考え始めるとなかなか難しいのかもしれないが,
私は単純に「Surviveすること」と考えている.

Surviveするということは,
「敵」というものと戦って負けないということであり,
不利な状況においても生き延びようとすることであり,
そうした不利な状況に陥らぬよう危険を察知することである.

ここらへんは,誰もが武道からイメージしやすいことだろうけれど,
この他には,
周囲の人たち・状況に適応すること,
自分の能力のすべてを開発し使用する技術を磨くこと,
などが含まれる.
これらは,ちょっと武道という言葉からはイメージしにくいかもしれない.
だが,Surviveする,という目的のために,
(これらは日常生活をおくる上でも)
非常に有用なことである.

これらの目的が通常言われるスポーツとは異なることが理解できるだろう.
武道というのは,単に武技を学ぶだけが目的ではないのである.
身体的・精神的に統合された非常に高度なシステムなのである.

中学校の体育に武道が採用されたからといって,
これらを教えることはたぶん相当に難しい.

しかし,だからこそ一生をかけて学ぶ価値がある.
そして一度はまったら,
もうその魅力から逃げだすことができなくなるのである.

2007年9月27日木曜日

プロジェクトXは工学にとって福音となったのか

工学離れが深刻である.
文科省の調査によれば,この10年で
工学系志願者の数がほぼ半減したのだという.
一方,医学,薬学は増加し,
看護,医療,保健などの分野は倍増している.

これは高校生が不透明なこの世の中で,
資格などに魅力を感じているからだと推測されている.
また工学は分野が多岐にわたりすぎており,
高校生からは内容がよく見えないといった理由もあるのだという.

内容が分かりやすい建築工学科など
デザイン系は工学系のなかでも健闘している.
一方,電気や機械といった古くある分野は,
かなり苦戦しているのが現状である.

ちょっと以前のことになるがNHKのTV放映で
「プロジェクトX ~挑戦者たち~」という番組があった.
私も最初のころは,その面白さに
毎週欠かさず見ていたものである.

このころ,よく言われていたのが,
この番組によって
理工系離れに歯止めがかかるのではないか,
というもの.

私もそれを期待していた.
それでもこの工学離れ.
どうしてなのだろうと思っていたのだけれど,
数年前,ある予備校の方からのお話で納得した.

その方のお話によれば,
プロジェクトXは確かに素晴らしい.
感動する.
しかし,親は子供たちにあのような苦労をさせたくない,
と思うのだそうである.
だから理数系の科目の成績が良いと
医薬系への進学を勧めるのだという...
(おなじ医学でも苦労が予想される
産婦人科,小児科などの人気がないのは,
周知のとおりである)

なんとあの福音とも思えたプロジェクトXは,
実は工学離れを加速させていた
のである!

親からして子供に楽をさせようと考えている.
確かに理工系は,つらいこともある.
それでもやはり面白い分野なのだと思うのだ.
日本人はとくに,ものづくりに向いている国民性なのだと思う.
しかし,苦労が報われていない,という印象も否めない.
マネーゲームで巨額の富を稼いでいる人たちを横目で見ながら,
ひたすら地道に工夫を重ねている人たちは
やはり報われていないような気がする.

では,理工系離れを止めるにはどうすればいいか.
簡単である.
私はなんども言っている.
理工系の給料を今の倍にすればいいのだ.
健全な苦労が報われる健全な社会になればいい.

ものづくり国家というスローガンを挙げている日本なのだから,
もっと工学者が優遇されてもいい.
私はずっとそう思っている.

2007年9月26日水曜日

温泉で英気を養う (電力システム研究交流会)

月曜日,火曜日と仙台の作並温泉に出張し,
電力システム研究交流会に参加してきた.

電力システム研究交流会とは,大阪大学の2研究室の他,
北海道大学,茨城大学,横浜国立大学の合計5つの
電力システムを研究している研究室を中心として開かれている
学生たちの交流を目的とした会である.

もともとは,FRIENDS (Flexible, Reliable and Intelligent Electric eNergy Delivery System)という高機能な電力システムの研究会が母体であった.
FRIENDSというのは...と,今回は説明は割愛して(笑),
毎年幹事校を決めて,全国のあちらこちらで夏休み中に開かれる.

昨年は大阪大学の私の所属する研究室が幹事で,
青山高原の風力発電所の近くの榊原温泉で開催された.
今年は,横浜国立大学が幹事となって仙台の作並温泉で開かれたのである.(横浜国立大学の皆様,ありがとうございました)

初日は,各研究室が毎年定められるテーマについて発表する.
今年のテーマは「電力・エネルギー問題を解決する21世紀の革新的技術」であった.
学生たちは,自由な発想にて発表を行う.

そして,教員が発言を禁じられているのが,
この交流会の特徴である.
途中,なんども口を出したくなる.
「そうじゃないよ!」
でもぐっと教員は言葉を飲み込んで耐えるのである.
学生たちは先生方の目を気にせず,
言いたい放題できる,それがこの交流会の良いところなのである.

とはいえ,ちょっと常識的な議論が多かったかな,と不満に思う.
もっとざっくばらんに,なにが有力なエネルギー源なのか,
私たち研究者は(大風呂敷を広げて)地球を救うために何をすればよいのか,
そんな議論があってもよかったのではないかと思うのだ.

みな電力・エネルギーを専門としているために,
逆に発想が縛られているような感じがした.
といっても,私もいいアイデアがあるわけでもなく,
だから若い皆さんに期待するのだけれど.

夜は懇親会.
学生,教員たちの交流がメインである.
学生たちは,各研究室で余興を準備し,
披露し,そしてスベっていった(笑).

しかし,ごめんなさい.
私はずいぶんと体調が悪くて,
あまりお酒も飲めなかった.
懇親会の前に,温泉にもつかり,
身体を温めてはみたものの,どうもいけなかった.
湯の中においても,あまりリラックスできなかったのである.
毛穴が開き,頭から湯気が出る,という状態には至らなかった.

風邪気味だったのだろうか.
飛行機の中も,電車の中も,バスの中も,
眠くって,眠くって,仕方がなかった.
懇親会も,最後の方は頭痛がひどくなり,
どうにもできない.
そして,一次会でダウン.
そのまま寝床でぐったりと横になったのだった.

こういう交流会では,ある意味二次会の飲み会がメインである.
それを逃すとは...
夜に弱い私ではあるけれど,少しは参加したかった.
ずいぶんと申し訳ない気持ちでいっぱいだった.

翌日もどうもいけない.
朝6時に温泉に出かけてなんとか復活を試みるが,
露天の岩風呂が女子専用時間となっており,
大浴場でガマン.
やっぱり本調子ではなかった.

朝食後,岩風呂に再トライ.
となりを流れる渓流の水面が,
岩風呂の天井にキラキラと光を反射させているのを見ているうちに,
ようやく身体の緊張がほぐれていく.
う~ん,心が身体に及ぼす影響の大きさよ.
たった10分間の入浴ではあったけれどようやく復調の兆しが見えた.

二日目の午前中は学生からの各々の研究の発表.
昨晩の懇親会で打ち解けたのか,思いのほか質問が出る.
若い人たちも捨てたものではない.

午後は,仙台で行われているNEDOの委託事業,
「品質別電力供給システム」の実証研究のサイトを見学させてもらう.
学生たちにとっては,動いているガスエンジン発電機や燃料電池を,
直接見学することが,大変良い経験になったのだと期待したい.
教科書からは感じ取れない,実物の迫力がそこにある.
こうした迫力は,記憶としてはすぐに薄れてしまうのかもしれないが,
記憶の底でじっと影響を及ぼし続けるのだと思う.
次に「燃料電池」というタームをみるときには,
実物を見る前に想起されるイメージとは
異なるものが想起されるはずである.
やはりモノは見て,そのリアリティを感じるべきなのである.

そんなことを思いながら,午後にはすっかりと私の体調も回復した.
伊丹空港からの帰宅途中,
中秋の素晴らしい月を見ながら,
今回の出張によって,ずいぶんと健康になったなぁと
ちょっと申し訳ない気持ちになっていたのである.

うん,でも作並温泉は良かった.

2007年9月21日金曜日

9/25

不在です.

実践こそ工学

私が好きなBruce Leeが好きだった言葉に,

Knowing is not enough; we must apply.
Willing is not enough; we must do.


というものがある.
もとはゲーテの詩が出典らしい.
哲学に傾倒していた彼らしい.

知るだけでは十分ではない.
やはり実践が伴わなければいけないのだ.

孔子は思想家であったけれども,
すぐれた実践者でもあった.
残念ながらその機会にはほとんど恵まれなかったけれど.
しかし,その弟子のひとりである子路は
すぐれた治世を行ったといわれている.

私が好きな王陽明は,
知行合一
を命題とし,事上磨錬をモットーとした.

また私が好きな思想家のひとりである墨子は,
優れたengineerであったという.

実践なくして知識はその用をなさない.
知識の実践こそが工学であると思う.

しかし,実学だからといって
目前の問題だけにとらわれていてはいけない.
工学とは,単なる技術ではなく,
大きな視野をもった学問であるべきだとも思うのである.

2007年9月20日木曜日

工学者であること

工学とは,科学技術にお金をかけたものである.

確か私の恩師のS教授から伺った言葉である.
理学では,コストを度外視しても,その結果,
宇宙の真理に近づく成果が得られれば,
それで良しとされる.

一方,工学では常にコストが重視される.
コストさえかければ出来てしまうことも多い.
(いくらコストをかけても出来ないものも多いが)
例えば耐震構造.
お金さえかければ,非常に大きな地震が来ても
耐えうる建物は実現可能だろう.
免震だってできる.
しかし,それでは現実的ではない.
つまりはコストが見合わないということである.
実際には,地震の確立や大きさなどを
適切に評価し,最小のコストでそれをクリアできるよう,
設計がなされる.
それが工学である.

工学者を育てるには金がかかる.

これは前職場の研究者の方から聞いた言葉.
工学ではコストが重視されるのだから,
コストの感覚,リソース管理のセンスが必要となる.
それを得るためには,ある程度の金を使わなければならない.
そういう意味である.

しかし,だからこそ工学者のセンスというのは
非常に信頼されてきたのだと思う.
以前,講演で聞いた話なのだけれど,
一度日本に進出しようとして失敗したハンバーガチェーンの
マネージャは,MBAよりもエンジニアのセンスを信頼する,
と話していたそうだ.

確かに工学者は,つねに工程表を意識している.
コスト,時間,人のリソースの管理を行っている.
最小のeffortで最大のoutcomeを得るように動く.
それがまさに工学の考え方である.

S教授は次のようにも言っていた.

古代においては,
理学はphyrosophyに分類されており,
工学はartに分類されていた.
(だから理学博士はPh.Dであり,
artificialは,人工的という意味なのだ)

私たちは工学者であることに誇りを持ちたい.

2007年9月19日水曜日

私の言葉は女っぽい?

大阪に来てよりたまに言われるのが,
私の話し方が女っぽく感じる,というもの.

もちろん,一部の方が用いる「おねえ」言葉を使っているわけではない.
私は,いわゆる標準語に近い話し方をしている(と思っている)のだが,
それが気に障る人がときどきいるらしい.
講義の際にも気になるという話を聞いたことがある.
どうも大阪の人は私の言葉遣いに違和感を感じるらしい.
(地方出身の学生はあまりそういうことを言わない)

確かに私なども,初めて大阪に来たときには,
大人から子供まで,誰でも私にケンカを売っているのかと
思った覚えがある.
やはり大阪弁はけたたましく感じられる.

茨城県で務めていた時もそうだった.
地元の人に,言葉遣いが優しすぎて,
女っぽく感じるなどといわれた.
茨城弁というのも高音がきつい堅い感じの言葉なのである.

ただ,私もそう言われても困ってしまうのである.
無理やりに下手な大阪弁を話したところで,
ますます違和感を感じてしまうことだろう.

確かに土地土地の方言には,きつい口調として感じられるものもある.
いわゆる標準語(東京弁とは異なるものだと思っているが)は,
こうした角を取り,誰にでも優しく聞こえる言葉遣いとして
成立してきたのではないだろうか.

私自身は新潟の出身である.
では新潟弁はないのか,といわれると,ちゃんとある.
ただ,私はそれがうまくしゃべれないのである.

小さいころ新潟市から長岡市に引っ越したことに
その原因があるのではないかと自分では思っている.
同じ新潟でも,その地方によって方言が大きく異なるのだ.
幼いころに二つの異なる方言に触れた結果,
どちらも話せないということになった.
今となっては,少しさびしく思う.

生粋の新潟人である母が話しているのを聞いていても,
ときどき理解不能な言葉がある.
新潟弁も大阪弁,茨城弁に負けず劣らずDeepなのである.

私はもう新潟を離れて20年以上になる.
自分にとって新潟弁がずいぶん遠くなってしまったのを感じる.
(とはいえ,新潟市内でもめっきり方言の濃度が
薄くなってきたようだけれど)

方言というのは,その土地に根ざした文化のひとつである.
それが私にはないというのがさびしい.
それが根付いた土地においては私はいつになっても
異邦人なのかもしれないとときどき思う.

とはいえ,自分が関西弁を話している姿は
全く想像できないのだけれど.

2007年9月18日火曜日

マイクログリッドは世界を救うか?

先週は電気学会 電力・エネルギー部門大会に参加するため,
青森 八戸に行ってきた.
大阪とはちがって,ずいぶんと涼しく,
会場のエアコンが迷惑に思えるほどであった.

いろいろな発表・講演を聴き,また旧友にも会って,
非常に刺激を受けた.
やはり学会に参加することは重要だと思った.

最終日,私は八戸のマイクログリッドの見学ツアーに参加した.
マイクログリッドというのは,
既存の電力系統とルーズにカップリングをしながら(時には自立する),
分散電源等に支えられた局所的でインテリジェントな電力システムである.
(実はいまだに定義というものがはっきりしていないのだ)

八戸には,八戸市,三菱総研,三菱電機がNEDOから受託した実証研究,
「八戸市 水の流れを電気で返すプロジェクト」
が本年度いっぱいまで行われている.
これは,太陽光発電,風力発電,バイオマス発電と蓄電池を組み合わせ,
これらを適切に制御することによって,その地域内の負荷(市庁舎,学校等)に
安定した電力と熱の供給をしようとしているものである.

実証しようとしているのは,まず技術.
連系されている東北電力の系統に影響を与えないように制御するのである.
実は太陽光発電,風力発電は,天候任せでその発電出力が変化する.
一方で,負荷(われわれが使っている電力)も,時刻に応じて変化する.
それらをバランスさせなければならないのである.
もし,発電量が負荷を上回ってしまったら,周波数が上がってしまう.
あるいは系統の電圧が高くなってしまうなどの問題が発生してしまう.
もし発電量が足りなくなってしまったらその逆の問題が発生してしまう.

つねに電力の世界においては,
発電と負荷がバランスしていなければならないのである.
電力会社は実はこのための制御をそれぞれの系統で行っている.
それを自然エネルギーという制御が難しいものを相手に,
小さな系統で安定な電力供給を実現しようというのが
マイクログリッドなのである.

もちろん,電気を貯める技術もある.
たとえば蓄電池.
電気が余っているときは電気をため,
足りないとこは電池から電力を出す.
しかし,コストがかなり高く,大容量のものは難しい.
とても系統の電力を支えようというわけにはいかないのが現状だ.

いま,世界では太陽光発電,風力発電などの自然エネルギーの導入が
強くすすめられている.
しかし,それらの発電出力はお天気まかせ,風まかせなのである.
その問題を解決しようというのがマイクログリッドなのである.
大きくいえば,マイクログリッドは世界のエネルギー問題を救うための
有力な一方策なのである.

八戸のプロジェクトを訪れたのはこれで2度目.
一度目は,稼働前の設備を見学したのだった.
今回はすでに運転実績があり,
そのデータは,本当に価値あるものだと思う.

このサイトの技術的な問題はほぼ解決されているのではないだろうか.
もちろん,経済性,効率の問題は大きく立ちはだかっている.
しかし基本技術が確立されたのは大きい.

今後もマイクログリッドや分散電源,新エネルギーについては
このブログで触れていくことになるだろう.
こうしたものが抱えている問題点とその解決策などが
紹介できればと思っている.

2007年9月10日月曜日

9/11~9/14

不在です.

データ捏造問題について

先日参加した研究会において,データの捏造問題が話題になった.

データの捏造をふせぐには,
コミュニティーの厳しい相互レビュー,チェックが必要だということなのだが,
果たして本当にそうなのかという話が出た.

すなわち厳しすぎる環境が,
データの捏造を強要することもあるのではないか,
という意見であった.

この意見にはいろいろと反論が出て,
やはりデータの捏造を防ぐためには,
厳しい相互チェックが必要なのだということになったのだが,
私は,周囲のプレッシャーがデータを捏造するということも
ありうるのかなぁと初めて思い至ったのであった.

私が関係している分野は,
電気工学,パワーエレクトロニクスである.
電気回路の世界というのは,
実は数値シミュレーション(回路解析ソフトウェア)で,
かなりの精度で動作が解析できてしまう.
実験結果と比較しても,
どちらがシミュレーション結果なのか,
わからないくらいなのである.

また,論文では,その回路トポロジー(構成)と
制御法について具体的に明らかにするため,
シミュレーションによって
誰でもそれを比較的簡単に確認することができる.
(というか,ほとんどシミュレーションをしなくても
おおよその動作が推測できてしまうものである)
すなわち,誰でも検証できるということなる.
この辺が化学や生物学,実験物理学などと違うところである.

だからデータの捏造のしようがない.
その辺りが,私が捏造問題に疎い理由なのだろう.
したがって,周囲の状況に強要されて
データを捏造するなどということなど,
全く思いもよらなかったのである.

しかし,捏造する人の良心の呵責といったら,
推し量るこちらがかわいそうになるくらい
つらいものだろうと思う.

捏造したデータは素晴らしい結果で,
その結果,引用の回数が非常に多くなる.
その業績が賞賛される一方で,
だれも追試験ができず疑念が持たれるようになる.
誰も再現できない唯一のデータとなるのだから
ますます引用の回数が増えていく.
引用回数が多い論文は捏造を疑えとまで
言われているらしいのである.
その結果,内部告発や再査読を経て
データ捏造と認められてしまう.
学界からは追放される.
いままでの賞賛は侮蔑へと瞬時に変わってしまう.
本当に悲しい結果である.

電気回路を相手にしている私などは,
データの捏造のしようがないのだけれど,
似たようなことはどこにでもあるのではないかと思う.
気づかぬうちに,おかしなデータを取得している可能性だってある.
数値シミュレーションにいたっては,条件を間違ってしまえば
あり得ない結果が導かれることもある.
こうしたことを常に忘れず,どこにでもある落とし穴に
十分気をつけなければならない,と強く思うのである.

2007年9月7日金曜日

武道の学校体育への必修化について

このブログでは政治的・行政的な話はしたくないのだけど,
中教審がまとめた学習指導要領を改定する素案というものに,
中学授業において武道を必修化するとの
内容があったということを聞いて
一応武道を稽古するものとして私の考えをまとめておく.

私は基本的に武道必修化の必要性はないのではないかと思う.
「伝統と文化の尊重」との方針のもと出されたアイデアだろうと
推測されるが,本当にそうなるのだろうか.
「伝統と文化の尊重」を目的として武道の必修化をするならば,
それが達成されるかどうかははなはだ疑問である.

そもそも,必修化しようとしている「武道」とは,
現在,競技スポーツ化された柔道や剣道なのではないだろうか.
単純に競技のルールや技などを週に1度学ぶことになるのであれば,
それは他のスポーツを行うことと全く変わりがないと思う.

そもそも武道とスポーツとの違いとはなんなのだろうか.
私は実は明快に答えることが未だできないでいる.

Sportの語源は気晴らしであるという.
そう考えると人の生死を問題とする武道とは大きく異なる気がする.

しかし,現在のスポーツのトップアスリートたちには
それこそ生命をかけてその競技に賭けている人たちがいる.
その練習量,真剣さは決して武道修行者に劣るものではない.
むしろ一般的にはずっと苛酷な状況下にあったりする.

武道は常在戦場の心で24時間修行するものであり,
試合に向けてコンディショニングを整えるスポーツとは異なるのだ,
という人もいる.しかし,プロ野球選手などはどうだろう.
ストイックに節制し,つねに最高の状態に自分があるように努力している.
武道だけが不断の努力を行っているわけではないのだ.

こうした観点では,武道修行者よりもむしろスポーツアスリートの方が
ずっと厳しい状況に自分を置いているような気がする.

それでは武道とスポーツの違いは何なのか.
それはやはり伝統と文化のバックグラウンドの違いというべきなのだろう.

武道は日本の侍文化の思想・哲学が結実したものである.
単なる格闘術ではないのだ.
もちろんスポーツにも文化的背景はある.
だから,武道との違いは,その文化的背景の有無ではなく,
その背景が日本の侍文化であることなのだろうと思うのである.
これが最近の私の認識である.
(「侍文化」というのが適当であるかどうかはまだ検討が必要だと思うが)

では,武道が武道たるゆえんのその「思想・哲学」が
学校教育の週に1時間くらいの授業で学ぶことができるのだろうか.
それは非常に困難であるといわざるを得ない.
武道の特色は,そうした思想・哲学を
実践の中で学ぶことにある.
いや,実践しなければ武道とは呼べないのである.

それを中学校の授業で伝えることができるのだろうか.
それを有効に伝えることができる教師がどれだけいるのだろうか.
そうしたことを鑑みると,この武道の必修化による
「伝統と文化の尊重」という目的の達成は,甚だ疑問なのである.

(町道場に通う修行者も確かに道場での稽古は
週に1回程度で短時間である.
しかし,彼らは強いモチベーションをもって,
道場外でも24時間稽古している(はずな)のである.
それを中学生に同様に行えというのであろうか)

道場に集まって,少々の礼法と技を学ぶだけでは,
それを武道と呼ぶことはできないのである.
中途半端で終わってしまうことを私は危惧する.
むしろ生徒たちがより興味をもつことができるスポーツ種目を
真剣に楽しむことを教えた方が,
ずっと教育として効果があるのではないかと思うのである.


#柔剣道もすぐれた指導者につけば,スポーツ競技とは異なる
武道としての柔道・剣道の修行が可能だと思います.
決して柔剣道がスポーツだと決めつけているわけではありません.

2007年9月5日水曜日

9/6

不在です.

去年とは違うところにいる

イチロー選手が今年も200安打を達成した.
7年連続である.
この7年間で安打は1500本以上打っていることになるのだろう.
私は野球はやらないのだけれど,
相当にものすごいことなのだろうと思う.

そのイチローの200安打達成後のインタビューでの発言である.

----去年は「自分の弱さしか見えてこない」と語っていましたが.

「今年は感じていません。去年とは違うところにいると思う」


というようなやり取りである(詳細は正確ではないと思うけど).

本当に頭が下がる.
私はイチローのようなストイックさを感じさせる人は大好きで,
また彼の発言は素晴らしいとつねづね思っているのだけれど,
今回のこの言葉には,ただただ感心するばかりである.
彼をますます尊敬するようになった.

昨年ももちろん200安打を達成したのだが,
そこで知った自分の弱さを今年は克服したということである.
自分で目標を立てて,それを着実に実現している.
実に素晴らしい.
そうやって黙々と努力し,実現していく強い人,
そういう人に私は憧れる.

そしてはっきりと去年とは違うと言える自信.
うらやましく思う.
昨年の自分と比べてみて,私はどれだけ変わったといえるだろうか.
それを自信をもって言えるほどの努力をしただろうか.

彼の才能の素晴らしさには到底及ばないけれど,
その姿勢だけは見習えるのではないか.
来年の自分,いや明日の自分でもいい.
何らかの進展があるように毎日を過ごしたいものである.

2007年9月4日火曜日

核融合炉の夢 (1)

先週の金曜日は,核融合科学研究所(NIFS)に出張してきた.
将来のヘリカル型炉の概念設計に関する研究会である.
私は,実は核融合に昔関連した研究開発を行っていたのである
(というか今もだけど.ただそれがメインではなくなった).

核融合は夢の発電である.
核融合発電には大きく分けて2種類ある.
ひとつは磁場閉じ込め核融合,ふたつめは慣性閉じ込め核融合である.

核融合反応を実現するためには,燃料である重水素や三重水素を,
非常に高温にして,一定時間保持しなければならない.

ガスである重水素や三重水素をどんどん加熱していくと,
ついには原子が電子と原子核に分かれる.
この状態をプラズマと呼ぶ.

プラズマ状態になると原子核はイオンとなっていて,
プラスの電荷をもっている.
プラスの電荷とプラスの電荷をもつ原子核同士をぶつけて
融合させるのが核融合反応である.

プラスとプラスは反発しあう.
だから原子核同士をぶつけるためには
それらを非常に高速に加速しなければならない.
加速といえば,加速器をもちいて粒子を加速すればいいのだけれど,
それではエネルギー収支的に発電炉として成り立たない.

そこで,バルクの(大きな体積を持つ)プラズマに電流を流したり,
ビームを打ち込んだり,電磁波を入れたりして,加熱していく.
(つまりは,多数の電子,原子核を一斉に加速している).

どこまで加熱するかというと,一般には1億度以上必要といわれている.
太陽の表面温度が6000度といわれているから,
それよりもずっと高温である.
当然地球上に,そんな高温なプラズマを入れておく容器は存在しない.
最も高い融点をもつタングステンでも3500度もあれば溶けてしまう.

そこで地球上に閉じ込めておくために,
磁場で真空中に浮かせて,どこにも触れないようにして維持する,
すなわち磁場で作った容れ物に燃料(プラズマ)を閉じ込めるのが
磁場閉じ込め核融合である.

一方慣性閉じ込めについては,説明がややこしい.

と,気づくとまるで核融合の講義のようだ.
ということで今日はここまで.
またいつか気が向いたら,この話の続きをします.

2007年9月3日月曜日

「境界」に存在するモノを嫌悪する

先日,帰宅してTVをつけてみると,
「爆笑問題のニッポンの教養」(NHK総合)が放送されていた.
見ると,大阪大学工学研究科の石黒浩先生の研究が紹介されている.
石黒先生は,愛知万博でも展示されていたアンドロイドを作成した
ロボット・アンドロイドの研究の第一人者である.
(他分野にほとほと疎い私であるが,
さすがに同じ大学の先生ということで,
名前は存じあげている)
これまでに製作されたアンドロイドが紹介されるとともに面白い話題が続き,
ついつい最後まで番組を見てしまうこととなった.

アンドロイドというのは人間に酷似したロボットのことである(らしい).
シリコンの人工皮膚を持ち,微妙な表情,しぐさまでが再現されている.
(生き人形といわれる人形製作の分野があるのだけど,
ここでは美術品ではなく実用品という印象を受けた)

しかし,人間に近ければ近くなるほど,
人間との違和感を埋めるのが大変になるという.
この問題は「不気味の谷」と呼ばれるらしい.

人間はある程度人の行動を予測しているものである.
話の内容やしぐさなどは予測していなければ
迅速な対応が可能とならない.

ロボットが人間とそれほど類似していない場合,
人間はロボットの単純な行動を見て予測し,安心し,
そして足りない部分は補ってしまう.
ASIMOなどのロボットの動作にかわいらしさを感じたり,
感情に似たものを感じたりするのは,
人間側が補っているからだと思われる.

一方,ロボットがある程度以上人間に近づいてしまうと,
その微妙なしぐさにおいて,私たちの予想を裏切ることになる.
アンドロイドは見かけはほとんど人間なので,
もう私たちの脳はアンドロイドの行動を擬人化して補おうとしない.
むしろ人間だと思って対応する.
そのときに,アンドロイドは私たちの予想を裏切りつづけることにある.
それが違和感を増長させるのではないだろうかと思うのである.

人間に近づきすぎて,
その人間とモノとの「境界」に存在するようになると,
人間はそれを嫌悪する.
この考えは,私に鷲田清一先生(大阪大学の学長である)の
「ちぐはぐな身体 ーファッションって何?」という著書の記述を思い出させた.

この本は,ファッションが意味するものについての思索を
身体性という観点から進め,若い人たちに紹介している本だが,
人間は「境界」に存在するものに不安を感じ,
それらを嫌悪するものだ
という考えが述べられている.

たとえば人間の排泄物,吐瀉物,垢,フケ.
これらは,ちょっと前までは人間の体内に存在したものであり,
そのときに汚いとは感じない.
それが身体の外に出された途端に汚いと嫌悪されるのである.
これらのモノはやはり身体の内と外の「境界」に存在するものなのである.

社会的にも「境界」に存在するものは
やはり激しく嫌悪されることが多いように思う.
こうした人間の性質は,民族問題,宗教問題,差別,
それらにも深く関わっている気がする.


ということで,ふたりの大阪大学の先生の研究について思いを巡らせ,
あらためて大阪大学の懐の広さを実感した次第.

しかし,私もその末席を汚しているだけに,精進いたそうと思う.
この末席が「境界」となって,嫌悪されないように努力しなければ...