2007年10月31日水曜日

10/31

不在です。

2007年10月30日火曜日

10/30

不在です.

2007年10月29日月曜日

昔と今はちがう

先週末は,先生方と三木市で合宿して研修.
どのようにしたらより良い教育,
そして運営ができるか,議論し合う.

みなさん,驚くほど学生のことを考えている.
私などは,とてもとても...
でもそんなことは言っていられないので,
いろいろな先生方のお話をうかがう.

話題のひとつの挙がったのは,
学生の気質が私たちのころとは大きく違う,ということ.
なぜここまで消極的なのだろう.
どうやったら講義内容に興味を持ってもらえるのだろう.
昔の自分を想定して考えても解は出ない.
残念ながらそこまで大きく離れている.

昔の授業ではこんな講義もあった.
教授が教室にやってきて板書をはじめる.
あとは黒板相手にずっと話して,
学生たちの方に向くのは最初と最後だけ.
そんな講義でも私たちはなんとか勉強したものである.

今,そんな講義をしたら誰も勉強してくれないだろう.
パワーポイントを多用した,アニメーションを交えた講義.
そんなものが当たり前となっている.
(私もそのような講義スタイルだ)
しかし,これが本当に学生たちにとって良いことなのだろうか.

ビジュアル世代の学生たちには,
そうした動画を利用した講義が効果的なのはよくわかる.
しかし,昔はその足りない部分を想像しなければいけなかった.
その努力が実は理解を促していたということもあったのではないか.
今は何となくわかった気持ちにはなれるかもしれないが,
真に理解できているかどうかは疑問である.

今の学生には,講義がテレビと同じようになっている.
興味があるならば,ぼーっと眺めている.
そうでなければ,居眠りをする.
テレビと同じように提供されるサービス次第で
見るか見ないかを決定する.
講義もサービス次第なのだ.
そしてテレビと同じように内容を忘れていく.
一時的な興味でしかない.

努力するという姿勢が講義には必要だ.
昔の学生は退屈な講義でもなんとか理解しようという気持ちがあった.
今の学生は退屈な講義は先生のせいだから,
理解しなくてもよい,というような考えを持っているようだ.

もちろん退屈な講義でなくなるよう,私たちは努力しており,
それは今回の合宿でもひしひしと感じられたのだが,
その努力が実らないはがゆさもまた強くなった.

どうにか学生たちと,
勉強するというその一点だけでも
わかりあえないか,と思う.

2007年10月26日金曜日

変わらない教科書,うれしさの反面...

私の担当している「電気機器」の講義の時間の前に,
同じ教室で「プラズマ」に関する講義が行われている.
二つの講義を共通して取っている学生も多いので,
机の上に置かれたテキストを目にする機会があった.
(プラズマの講義が電気機器の講義の前にあるために,
電気機器の講義を受講する学生の数も多いような気がする.
有難いことである)

見覚えのある紺色の表紙.

「プラズマ物理入門」
Francis F. Chen (著), 内田 岱二郎 (翻訳)

という本だった.
私も所有している.
とはいえ最近はすっかり開いたこともないので,
ずっと本棚に眠ったままであるけれど.
私も昔少しプラズマを勉強していたこともあるのだ.
(実は学生時代プラズマ核融合の研究をしていた)

うれしくなって学生からテキストを借り,
手にとってペラペラページをめくると,
まず,ソフトカバーになっていることに驚いた.
私が所有している本はハードカバーで,
いかにも教科書という体裁なのに.

しかし,内容はほとんど変わっていないようである.
そこでふと気付いたのだけれど,
内容がほとんど変わっていないというのは素晴らしい.
これは物理の教科書だからであろう.

工学の教科書というのはそうもいかない.
もちろん基礎的なところは変わりようがないけれど,
応用部分においては,技術の進展を
常に反映していかなければならない.
したがって,つねに新しい記述が必要となる.

担当する電気機器などは,
もうその原理は100年以上も変わっていないが,
その応用技術はパワーエレクトロニクスの進展を反映して,
ずいぶんと高度に変化している.
その部分は,やはり改めていかなければならない.

私が電気機器を学んだ教科書は
宮入庄太先生の著されたものであり,
今でももちろん愛用しているが,
後半の半導体変換器部分については,
サイリスタの呼称をSCRとしてあることや,
PWM制御についてはほとんど触れられていないなど,
やはりちょっと古めかしさを感じてしまう.
(ちょっと専門的な用語が出てきてしまい,ごめんなさい)

こうした工学ではなく物理の教科書というのは
ずっと使えるというのだから,
気づいてみると,これは素晴らしいことなのかもしれない.

よく物理学出身の人は応用力があって,
現場でも重宝されると聞くが,
意外にこうしたことと関連しているのかもと思う.

工学であってもやはり理論には精通していなければならない.

#余談だが,最近のTV番組「ガリレオ」第1回放映分で,
主人公の大学准教授がプラズマについて板書している
シーンがあった.
何気なく見ていると,プラズマがプラズマである条件が
数式で書かれてあった.
(特性長がデバイ長よりも十分に大きい,とか
デバイ長で定義される球体積内には
十分に多数の粒子が存在するとか,などの条件)
見ていて,思わず「ふふん」とにやけてしまった.

2007年10月25日木曜日

解法の探究を目指せ

文科省から全国学力テストの結果が公表され,
子供たちの応用力が不足している傾向があることが
指摘されている。

応用力の不足,
これは大学においても深刻な問題となっているので,
さもありなんと思う一方,
この病根は本当に深いと考えさせられる。

大学の講義において学生からよく要望されるのは,
演習問題を数多くやってくれというもの。
確かに演習問題をこなすことによって,理解が進む。

それは認める。
いや演習問題をこなさなければ,
なかなか理解できないのが現実だ。

ならば演習問題をやればよいではないか,
と学生たちは言うだろう。
私もやれば良いといっている。
ただし講義中ではなく,自宅で教科書の例題を解けばよい。
あるいは図書館等にある問題集を解けばよい。

講義内で期待しているのは,
講義で取り上げた演習問題が試験に出題されることである.
こうなると残念ながら問題の意味を
理解しようとする学生は少なくなってしまう.
多くの学生は,その形式の問題を簡単に解くための
解法を覚えようとするのである.

この解法というものが曲者である.
大学受験のまでの間,勉強といえば
暗記と解法を身につけることがメインとなってしまっている.
確かにセンター試験で出題される問題の膨大さを考えると,
いちいち問題の意味を考えるなどということはできない.
限られた時間内にあれだけの問題を解くためには,
やはり解法が必要なのである.

しかし,こんな解法は大学以降の勉強,研究,
あるいは企業においては全く役に立たない.
それが学生にはわからないのである.
(センター試験にはやはり問題がある)

学生たちは受験勉強の延長で,解法を求めようとする.
こうなると解法を用いずに考えなければならない問題が発生した時に,
応用が利かないということになる.
すなわち,全国学力テストの結果と同じである.
そもそも実社会の現場において発生する問題に解法はあるのだろうか.
少し考えてみればわかるだろうに.

学生のみなさんには解法を覚える人ではなく,
未解決の問題を解法を探求する人になってほしい.
それには根気強く科目に向き合う努力が必要である.
物事の本質を見極める努力が必要である.

その努力の先には,新たな解法と,
それを見つける新たな喜びがある.

2007年10月24日水曜日

学生は消費者ではない

現在,学生たちの間に蔓延している価値観が,
授業料を払っているのだから大学において
それなりのサービスが受けられる,というものである.
(卒業も当然のようにできると考えている!)

この考えはある意味正しい.
大学は教育・研究の場を提供するものであり,
授業料を払っている学生の皆さんは
それらを享受しているのだから.

しかし,大学に顧客というものがあるとすれば,
それは学生ではなく社会であるという話を
以前にもこのブログで書いたことがある.

大学は社会に対して大きな責任を
果たしていかなければならない.
この大学は多くの経営を税金によって
賄われているのだ.
授業料は全収入の1/7~1/10の程度しか
占めていないであろう.
そう考えれば,納税者である社会に対して,
大学の責務を果たすべき必要があるのは明らかだろう.

そもそも教育とはサービス業ではないと思う.
学生たちの満足度の向上のためには
もちろん十分な努力をすべきと思うが,
勉強とはもともと自発的に行うものである.
決してサービスを享受するだけの
受動的な行為ではない.

教職員と学生たちが同等に精進(あるいは切磋琢磨)をして,
作り上げていこうとするものが大学の教育ではないかと思う.

そこを理解できず,ただ教職員が提供するサービスを
受動的に受け入れていけばよいと考えている学生は,
勉強はもちろん積極的には行わないだろうし,
その他の大学における活動についても消極的となるだろう.

それでいて自分の満足度が低ければ,
サービスの提供者に平気で不平・不満をいう.
(もちろん私たちは建設的な意見に対しては,
謙虚に耳を傾けるべきだと思うけど)

自分が努力をしなければ,当然満足度が低くなるのが,
教育・勉強というものである.
努力をしないで不平不満を言うのは
そもそもが考え違いをしている.

大学に限らず,小・中・高等学校においても
クレーマとなる親,生徒が増えていると聞く.
その底辺には,自分たちが教育の場においても
消費者であるという勘違いが蔓延しているような気がする.

現代の子供たちはバブルを経験した親たちをもち,
子供の頃からお金を払えばサービスが受けられると思っている.
また,消費者が一番偉いような勘違いをしている.
この価値観を変えようとしても,
かなりその病根は深いと思われるのである.

2007年10月23日火曜日

大学へ何をしに来ているのか

学生は一体何をしに学校に来ているのだろうか,
という話題が先生方の集まりにおいて出た.

もちろん,勉強や研究を行うため,というのが
普通の回答であろう.
しかし,本当にそうだろうか?
単位を取ること(そして卒業すること)が目的で,
勉強をしに来ているのではないのではないか,
という危惧を先生方は持っていらっしゃるのである.

大学というところは,社会に出る以前に,
自分の能力を向上させるために,
実力をつけるために,
あるいはそれらのためのポテンシャルを蓄えるために,
来るところである.

しかし,現在ではただ単位を取得し,
卒業することが目的となってしまっており,
自分の実力をつけるために勉強しようという学生が
本当に少なくなっているような感じがする.

「興味がある科目は一生懸命勉強する」などと
答える学生がいるが,一つの科目でもいいから,
本当に一心不乱に勉強している学生が何人いるのだろうか.

先日のそのミーティングでも話に出たが,
一つでも一生懸命に勉強する学生は,
その周辺知識がいずれ必要となって,
結局のところ範囲をそれなりに広げて
勉強を熱心にするようになるものである.
そうした学生は良い.

問題なのは,ひとつの科目に対しても興味が持てず,
なにも努力をしない学生である.
興味が持てないというのは講義が面白くないからだ,
という批判もあるだろう.
その批判は甘んじて受けよう.
しかし,それでもである.
学生たちが真に自分の力をつける
という目的で勉強するならば,
多少講義に不満があっても,
主体的に取り組むのではないだろうか.
とにかくひとつの科目でも良い,
内容が分かり始めれば,その科目は面白くなるものである.
そうミーティングにおいて強く主張された先生が
いらっしゃって,私も全く同感であると思ったのである.
(講義への不満は直接先生に言えば良い)

結局のところ学生たちは楽がしたいだけで,
受験という目的がなくなった今では,
勉強へ駆り立てるものがなく,
自らの将来を展望することもなく
受動的に講義に来ているだけに過ぎないのだろうか?

では,出席は成績に考慮しないといったら,
学生たちは講義に来なくなるだろうか.
単位はテストで及第点さえとれば取得できるとしたら,
彼らは学校に来なくなるであろうか?

いや,そうではないだろう,と別の先生が発言された.
学生たちは,他にやることがないから大学に来るのである,
とそう喝破されていた.
ほんとに.
そうかもしれない.
彼らは学校に来なくなったとして,
その時間を有意義に過ごすことができるのだろうか.
あるいは有意義に過ごそうとする努力をするのだろうか.
それもかなり怪しい.

ただ大学に来て講義に顔を出し,
自分の横の友達の顔を見て安心する.
それでおわり.
そんな毎日だとしたら,本当にひどい大学生活だ.
あまりに受動的すぎる.
そんな受動的な4年間(あるいは6年間)が
どのような結果を生むのか,
いや現在生みつつあるのか,
そう思うと空恐ろしい気がする.

2007年10月22日月曜日

わが栄光の...今シーズンの終わり

私にとっての今シーズンが終了した.
セ・リーグのクライマックス・シリーズにて
わが栄光の巨人軍が,中日に惨敗し,
私の今シーズンが終了した.

私はわが栄光の巨人軍ファンである.
なかなかこの大阪の地においては肩身が狭い.
そして,なぜあんなチームを応援するのだと
非難されることが多い.
でも好きなものは好きなのである.

あの実力がありながら不本意な成績に
終わっていく強者の悲しみ.
なぜか裏目に出てしまう施策.
そして歯車がどこかでずれてしまい,
修正されることなく終わっていくはがゆさ.
これらがすべて巨人軍に存在する.

私は,巨人軍は日本球界のレアル・マドリッドなのだ,
と言い続けてきた.
あれだけのスター選手を集めていながら優勝できない.
そして,あのオーナーと綺羅星のごとく存在するスターOBの
プレッシャーと戦いながら,それでも健全なチーム運営を
しようと努力しつづける監督,スタッフ,そして選手たち.
とても涙なくしては見れないのである.
(現在の選手の名前などほんのわずかしか私は知らない)

プロというのは勝てばよいというものではない.
プロがプロたるゆえんは,やはりプレーの素晴らしさである.
高校野球のような野球をプロがして勝って面白いのだろうか.
それよりも,負けてもいいから華麗なプレーで
夢を見させてくれた方がどれだけ良いか.

しかし,最近の巨人軍がその夢を見させてくれているかどうか,
と言われると答えにつまってしまう.
だがこの数年の巨人軍は,上記の不遇な強者の悲しみを
見せてくれている.
そこには,そんじょそこらの小説よりもずっと深いドラマがある.

君は,今回のクライマックスシリーズにおける
あの悲愴な原監督の表情をみただろうか.
なんという悲痛さ.
なんという無念さ.
そうしたものが伝わってこないだろうか.
あれだけの選手のコマをそろえておきながら
なにかが足りなくて栄光にはたどり着けない.

これこそが人生なのである.
コツコツやっていく人生など,
自分のものだけで十分なのである.
われわれが望むものは
プロが人生をかけてみせてくれるドラマなのである.
そしてその悲愴なドラマが今の巨人軍にあるのだ.

とりあえず,今シーズンは終わった.
今は解脱した修行僧のような落合監督が率いる
中日を応援するしかない.

来年は,また巨人軍はどのようなドラマを
見せてくれるのだろうか?
ドラマがそこにある限り,
私は巨人のファンであり,
巨人軍は,「わが栄光の...」なのである.

2007年10月19日金曜日

実力があっても性格が悪い人と,性格が良くても実力のない人

昨日,先生方とのミーティングでの話題のひとつに,
企業の就職試験では学力は重視されず,
おもにコミュニケーション力の欠如によって,
学生たちが落とされている
ということがあった.

それでは,企業は大学に対して,
学生に学力をつけさせることを期待していないのか,
という議論になるのだが,それはひとまず脇に置いておいて,
ここでは,逆になぜそこまでコミュニケーション力が
重視されるか
,ということを考えてみたい.

ちょっと前,NHKの「サラリーマン NEO」という番組の中で
(放映が終わってしまって寂しい.シーズン3に期待)
ロッテ マリーンズ監督のボビー・バレンタイン氏に
質問をして答えてもらうというコーナー
「教えて Mr.バレンタイン」を見る機会があった.

その中で,

「実力があっても性格の悪い選手と,
性格が良くても実力が足りない選手,
監督だったらどちらを採用しますか?」


という質問があった.
私だったらどちらだろう,と思いながら
画面を見てバレンタイン監督の回答を待った.

「性格が良くても実力が足りない選手を採用します」

という答えに正直驚いた.
プロ野球という実力がすべてという世界だから,
実力のある選手を採用するというのではないかと
思っていたのだ.

彼はこう説明していた.

「実力があっても性格が悪ければチームとして問題が出る.
性格を直すのは難しいけれど,
チームとして選手の力を伸ばすことは比較的可能である.
だから性格が良い選手を採用するのです」
(詳細うろ覚え)

この説明は,企業の就職試験において
コミュニケーション力を重視するという理由に
全く当てはまるのではないか,と思った.

結局のところ,大学で行っている研究が,
直接企業の活動に資するということは少ない.
したがって,そこで得られた即戦力的な実力はあまり重視しない.

それよりも企業というチームに入ったのち,
その学生がどれだけ伸びるか,そのポテンシャルに注目する.
そして,そのポテンシャルを伸ばすことができるかどうかは,
その学生のコミュニケーション力に大きく依存する.
だからこそ,コミュニケーション力を重要視するのだ.

いくら即戦力の実力があっても,
その後に不安が残る.
コミュニケーション力が不足していれば,
入社後の指導やチーム作業に問題が生じるのだ.

ただし,バレンタイン氏はこうもいっていた.

「しかし,実力が不足している選手も
基礎力をもっていることが前提だけれどね」

結局,企業に対して果たすべき大学の役割は
ここにあるのではないだろうか.
研究室で行う専門的な研究も,結局のところ
研究のかんどころをつかむための手段でしかない.
(最先端の研究を題材に
概念と知識と技術を身につけるのである.
なんという贅沢な教育方法だろう)
将来の学生たちが実力を伸ばしていくことに
資するための基礎学力の養成
それが大学が社会に対して果たす責任のひとつである.
企業のみなさんが口を酸っぱくして
基礎学力,基礎学力というのもわかる.

しかし,現在の卒業生に基礎学力がついているかどうかは
はなはだ疑問である.
そもそも学生たちは基礎学力が必要だ,などとは
本心から思っていないのではないか.
一体この先,どうするつもりなのだろうと心配してしまう.

2007年10月18日木曜日

江原さんを疑ってみることも大切

学生がマスコミ情報を無批判に受け入れる傾向は
最近特に強くなってきているように感じられる.
疑うことをあまりしない.
いや,疑うことが面倒くさい,という感じである.

今はスピリチュアリズムが大ブームである.
私はこれを危惧している.
スピリチュアリズムというのは,
やはり非科学的なものであるのだが,
それが存在することについては私は否定はしない.
宗教だって歴史の中で大きな役割を果たしてきたわけだし.

しかし,テレビや雑誌などで取り上げられていることを
無批判に受け入れるという姿勢はいただけない.
なぜそれを本当だと思うのだろうか.
テレビや新聞が取り上げる情報が
すべて正しいとは限らないのではないだろうか.

江原さんの番組を先日目にすることがあった.

「う~ん,それはお母さんです」

とタレントの亡くなったお母さんが霊となって,
タレントの身に不思議な現象を起こしたのだと断言していた.

この世の中には不思議な現象があることは私は否定しない.
物理的か心理的かわからないけれど,
人間がそう感じる不思議なことってあるだろう.
しかし,その理由が霊であるということは
どうやったら調べられるのだろうか?
例えば上記の江原さんの断言について
真偽を確かめることができるのだろうか?
そうしたことを学生のみなさんには考えてほしいと思う.

結局のところ,江原さんの人柄を信じ,
結果,彼の言を信じるということではないだろうか.
しかし,彼の人柄というのもマスコミが編集の力で
作り上げたものかもしれないのだ.
もちろんそうでないかもしれない.
だが,そうした可能性があるということを
忘れてはいけないと思う.

また信頼できる人の言葉だからと言って,
すべてが正しいわけではないことも
覚えておく必要がある.

マスコミの報道というものは,
その真偽を確かめるのが非常に難しい.
ニュースであっても,疑ってみる必要はあるのだ.

そう思うと,そうした思考を
日頃から心がけてはどうだろう.
ときには教科書に書いてあることだって疑ったって良い.
ただその真偽を確認すればよいだけのことである.
(それは結構難しかったりする.
またデータがねつ造されている論文もあることだし)

そうした思考方法を科学的な態度の根本において
私たちは行動をする必要がある.
それが社会に対する私たち理工系であるものの
責任であると思う.

2007年10月17日水曜日

マスコミの情報は本当に正しいのか

学生たちが,世間に流布している情報を無批判に受け入れる傾向が強くなっているのではないかという危惧の話.

血液型性格判断を当り前のように話している学生たちを見ると,本当に大丈夫なのかと思ってしまう.どうも最近の学生たちは無批判になんでもかんでも情報を受け入れすぎなのではないだろうか.

情報ソースがテレビであればそれを信じてしまう.
あるいは新聞であれば信じる.
最近ではインターネット上の情報もそれに類する.
こうした情報には誤りが含まれている可能性があることを,
もっと日頃から気をつけるべきではないのだろうか.

例えばテレビ.
昔はどうだったのかはしらないが,
現在は視聴率第一主義で,番組を面白くするためならば
情報操作を行うことも厭わない姿勢は,
最近でもよく報じられている.

「あるある***」などは典型的な例だろう.
データがねつ造されて放映されていた.
情報バラエティー番組でなく,
ドキュメンタリーとして放送された番組であっても,
意図的な編集が行われていることが多い.
昔,某国営放送の番組において,
常温核融合に関してインタビューを受けた研究者が,
自分の意図していたこととは異なるような発言をしていたように
編修がされていたことに憤慨し,抗議していたことを覚えている.
結局は番組の方針にしたがって
意見を述べているように編集されてしまうのだ.

それがニュースであっても同様である.
ニュース番組でとりあげられた
あるトピックに対して,賛成と反対の意見を
それぞれの専門家が述べていたのが放映されていたとする.
視聴者は,どちらの意見もあるのだとはわかるけれど,
それがどれだけの割合を占めているのかは
知らされないことが多い.
確かに反対意見は存在するが,
その分野の専門家のほぼ99%が賛成なのかもしれないのだ.
その分野ではその専門家の意見は認められていなくても,
マスコミがこうして取り上げることによって
一般社会に影響を及ぼしはじめることがある.
そうなるとその分野の人たちは対応に
苦慮しなければならなくなるのである.
本当にマスコミはこうした悪影響に無責任なのである.

あるいはリアルタイムで飛び込んでくるニュースでも
誤報は数多い.
私は1999年9月に起きたJCO事故の際に,
その隣にある研究所(旧日本原子力研究所那珂研究所)に居たのだが,
そのときテレビから流れるニュースは
とても信じられない内容だったのを覚えている.

JCOの事業所の屋根が爆発で吹き飛んだ,
などと報道されていたのに驚いて,
窓から隣のJCO建屋を確かめたりしたものである.
CNNもひどい情報を流していた.
ああした情報で住民にパニックが起こっていたならば,
報道機関はどのような責任をとるつもりだったのだろう?

その後の新聞報道もひどかった.
科学技術的に誤った記事などは平気で書いていた.
それよりも酷かったのは,
明らかに悪意をもって記事を書いていたことである.

JCOの事故では付近にはほとんど影響がない放射能しか漏れなかった.
しかし,新聞では多大な放射能を受けると
重大な影響を人体に及ぼすというような
不安を増幅させるような話ばかりを書き,
実際の放射能は微小で,ほとんど影響が無いと
安心させるような記事は,ほとんどなかった.

(たとえば1シーベルトの被ばくについての話を書き,
記事の最後の行で,周辺住民の被ばく量は
30ミリシーベルトにも満たない,とちょっと書くだけだった.
1シーベルトは,JCOの作業員の被ばくレベルであったけれど,
周辺にはそのような高いレベルでの被ばくは起こらなかった.
周辺住民の被ばく量については,
原子力関係作業者の年間被ばく限度量である50ミリシーベルトを
下回っていたけれど,
公衆の被ばく限度量である1ミリシーベルトを越えてしまった住民は
100名以上にのぼった)

後日,周辺の農作物が風評被害を受けたとしてJCOを訴えたが,
私は訴訟先はマスコミも含むべきだったと思っている.
もともと新聞社によっては原子力に対しては
悪意をもった記事を社の方針として
書こうとしているところもあるから,
とても中立性を保っているとは思えない.
社内には,如何に断言をせずして(証拠を残さずして),
読者に悪印象を与えることができるか,という
マニュアルも存在しているという.
社会の公器と言われた新聞でさえもこんな感じなのである.

とにかく,情報の真偽というものは
自分で注意深く判断する必要がある.
そして,この情報社会においてはその能力を磨く以外に
対処のしようがない.
そうでなければインターネット上のデマなどに踊らされて,
大変な事態を招きかねないだろう.

ということで,
今回はいかにマスコミの情報は
操作されているかというお話でした.
この話題つづきます.

2007年10月16日火曜日

血液型性格判断を信じるのか?

私が嫌いな話題のひとつに血液型性格判断がある.

「君って何型?」

「A型」

「やっぱりね.几帳面だものなぁ」

というのが典型的な会話.
どうしてそうなのか,全く理解できない.

これが理工系の学生でも平気で話題に取り上げるのだから呆れてしまう.
彼らはどこに根拠を持っているのだろうか?
みんながいうから,マスコミが取り上げるから,
それを信じるというのだろうか?
全く科学的ではない.

韓国でも流行っているし...などという人もいる.
それは日本から伝わったものである.
中国においても流行っているのだという.
一方,欧米ではほとんどそんな話は通用しない.

血液型と性格の相関について述べられた論文については,
その科学性が否定されており,現在ではそれを取り上げることはない.
しかし,そうした話だけが流布され残っているのである.
それを科学的に証明した論文があるならば私に教えてほしい.

そもそも血液型で性格を4つにしか分けないということを
不思議に思わないのだろうか?
欧米でのB型,AB型の人が占める割合を知っているのだろうか?
本当に少ないのである.
あるいは,ネイティブアメリカンなどはほとんどがO型のはずである.
以前,このネイティブアメリカンはO型ばかりという話をしたら,

「あぁ,だからみんな大らかな性格なんだ」

などと真面目に感想を述べるのだから本当に呆れる.

冗談でみんな楽しんでいるのだからいいじゃないか,
などという人がいるが,
もしも会社で血液型で適性を判断され,
就職や配属に影響を与えているとしたら,
どうだろう.
ここまでいくと,明らかに人権侵害の疑いがある.

相関がないことも証明できていないではないか,
(否定もできていない)
などという話をする人もいるが,
いったいどういう料簡なのだろうと思う.

では実際にデータをとってみたらどうか,
という人もいるだろう.
しかし,これが厄介で,日本で調査をやれば,
たぶん相関があるという結果を得ることになるだろう.
たとえば,A型だから私は几帳面だ.
B型だからマイペース.
AB型だから個性的.
そんなふうに自分を判断してしまっている人が多いのだ.
それほど私たちの意識には血液型と性格の相関が
信じ込まされているのだ.

実際に調査をするならば,血液型性格判断の説が
ほとんど知られていない国で行うべきである.
あるいは,血液型の割合が日本と異なる国で
それぞれの性格の人が人口に占める割合などを
調査してみるなどという手法が必要である.
まぁ,すでにそれに準じた調査が行われ,
そこには相関がないと現在では
結論付けられているのだけれど.

とにかく,あまりに無批判にこうした説を
学生は受け入れすぎるのではないかと,
それを私は危惧している.
理工系の学生でさえこんな感じなのだから,
一般社会にいたっては...

そう思うとこの社会はかなり危ういことに気づく.

2007年10月15日月曜日

学食の味とノーベル賞

先週の土曜日は,大阪電気通信大学で
パワーエレクトロニクス学会の研究会が開催された.

昼食は大阪電気通信大学の食堂で,
メーカや他大学の委員の皆さんととることになった.
そこでみなさんが口々におっしゃっていたのが,
学生食堂(学食)の食事の美味しさである.
つまりは,自分たちが学生のころに比べて,
ずいぶんと学食の質が上がっているというのである.

もちろん,その場の全員が大阪電気通信大学の
卒業生であったというわけではない.
(いや,誰もいなかったかな)
でも,今から15~25年前というのは,
どこの大学の学食もたいして変わらず,
安かろう,まずかろう,というメニューだったのである.

それが現在.
どこの大学も学生たちへのサービスを重視し,
まずきれいで明るい雰囲気の学食を備えるようにしている.
そしてメニューも,一人暮らしの学生でも
バランスの良い食事が取れるように工夫されている.
確かに昔とは大きな違いだ.

私はあまり味に頓着しない方だし,
学生のころなどはお腹が膨れれば
それで良かったくらいだったのだけれど,
言われてみると,今の方がおいしい気がする.
そう思うと現在の学生は幸せなのだなとあらためて思う.

私の所属する大阪大学工学部の学食は
カフェテリア方式で,
焼き魚などもチョイスできるし,
サラダバーで生野菜も食べることができる.
なるほど,昔の学食とはずいぶん違う.

実はかくいう私も,昼も夕もこの学食で食べている.
平日の毎日食べているのだけれど,
飽きずに通っている.
これも意外にすごいことなのかもしれない.
(まぁ,頓着しないのは相変わらずなのだけれど)

私が学生時代,某有名T大学からノーベル賞受賞者が生まれないのは
学食のメシがまずいからなどと噂が立ったことがあった.
まずいかうまいか,本当はどうだったのかは知らないが,
(一度その学食で食べたけれど,すっかり忘れてしまった)
学食の質が上がるとノーベル賞が出るというのであれば,
現在の大学は,あちらこちらでノーベル賞級の
研究者を輩出しているはずである.
それくらい現在の学食は味が向上している.

2007年10月12日金曜日

子供たちは全く新しい感性で生きていく

運転をしていて,空を見上げると
関西空港から飛び立った飛行機が陽を受けて光っていた.

昔の人は,こんなものが空を飛ぶなんて
思ってもいなかっただろうなぁ.
もしみたらびっくりするだろうに.

と考えていたのだけれど,
私もこれまでの人生,
いろいろなモノに驚いてきたんだと気づいた.

例えば,携帯電話,写メール,iモード.
移動電話といえば,スーツケースに入ったものか,
ホルスタータイプのものしかなかった時代を
生きてきたものにとっては,
これらのものがポケベルに代わって登場してきたときには,
本当に驚いたものである.
現在では,昔のウルトラ警備隊が持っていた通信機に
匹敵するサイズと機能を持っている.
それはそれは驚くべき変革だったのである.

飛行機に私が驚かないのは,
生まれたときにはすでに飛行機が飛んでいたからにすぎない.
今の子供たちは生まれたときから携帯電話があり,
インターネットが普及している.
それを当然のものとして受けとめ,
上手に利用している.
驚く必要がない.

技術の発展とはこんなものなのかなと思う.
昔を知っているひと世代前の人間にとっては,
そのありがたみが実感できるけれども,
次の世代の人たちには,それが当り前の技術となっている.

いつまでも飛行機に驚いているわけにはいかないけれど,
そうしてありがたみが薄れていくのはさびしい思いがする.
しかし,これが技術の宿命かとも思う.

以前,ホンダの開発した二足歩行ロボット アシモの実物を
初めて目にしたとき,私はやはりずいぶんと興奮したのだけれど,
息子は全然驚いていなかった.
彼にとってみれば,テレビに出てくるロボットはすべて
二足歩行をしているのだから驚く理由がなかったのだ.

子供たちと私の感性はずいぶん違うのだなとそのとき実感した.

2007年10月11日木曜日

私にとっては4回目であっても

20世紀の偉大な指揮者であるフルトヴェングラーのアインザッツは,
指揮棒がブルブルと震えていたために,
楽団員に非常に緊張を与えていたのだという.
いつはじまるのか,そのタイミングが取りづらかったらしい.

だから彼の録音,たとえばベートーヴェンの第5番交響曲であっても,
その始まりは,どの録音についても印象が異なる.
演奏自体も,どの録音もかなり違うテンポで演奏されたりしていて,
そのたびにはっとさせられる.

彼は楽団員にこういっていたという.

「君たちはもう何万回と演奏した曲かもしれないが,
聴衆たちにとっては,それが初めて演奏されるように
聴こえなければならない」(詳細うろ覚え)

常に新鮮味を感じさせ,
感動を与える演奏でなければならないということだろう.

なぜこんな話をしたかというと,
本日今年で4年目となる講義の2回目があった.
最初の年の,私が持っていた一生懸命さが,
今は失われていないか,
そう不安に思ったのである.

やはり教員の熱意は学生たちにダイレクトに伝わる.
講義する内容は一緒ではあるけれど,
非言語的になにかが確実に学生たちに伝わっている.
それは熱意であったり,あるときはなまけ心かもしれない.

そうしたことを考えるとき,
私はフルトヴェングラーのこの話を思い出して,
また気合いを入れ直すのである.
私にとっては4年目の講義であっても,
学生のみなさんにとっては初めての講義なのである.
今日の講義も,この気合いが
みんなに伝わったのならば良いのだけれど.

いっそフルトヴェングラーをみならって,
一体何を話すかわからない講義にして,
学生たちの集中を促そうかな,とも考えるけれど,
そうなったら苦情・不満がでるだろうな,やっぱり.

2007年10月10日水曜日

一体だれが将来の核融合を支えるのか

昨日は東京においてJT-60SAに関する会議に参加してきた.
JT-60とは日本が世界に誇る核融合試験装置である.
(正確には臨界プラズマ試験装置.
人類が作り出した最高温度5.2億度のギネスレコードも持っている)

現在JT-60として常伝導のコイルを用いている装置を,
超伝導化改造し,JT-60SAとして
100秒程度の高性能プラズマの
長時間の放電を実現しよう,というものである.
(ちなみにSAは,Super Advancedとのこと)

ITERという国際協力によって建設が進められている
核融合実験炉のサテライトマシンとして,
7年後くらいから実験を行おうとしている.
ITERの建設が完了するのは少なくとも10年後だから,
それに先行して実験を行い,
ITERの実験に資するのもこの装置の目的でもある.

だから,実はこの装置は半分はヨーロッパの出資によって
建設されるのである.
半分はITERのための試験(BA,Broad Approach)としての性格を持ち,
このBA分についてはヨーロッパと半々の取り分.
そして残り半分は,日本の国内装置としての性格をもち,
これについては日本が主導的に試験を行うことになっている.

昨日の会合では,ヨーロッパとの国際協力に関わる多くの課題も
報告されていたのだが,私がもっとも深刻に思ったのは
人材不足の問題である.

このJT-60SAは核融合分野の
人材育成といった役割も期待されている.
しかし,JT-60SA計画を主体的に行う
日本原子力開発機構(JAEA)は,現在
新たなパーマネントな職員をなかなか増やせない状況にある.
つまりは新人が少ないのである.

現状では,任期付きの研究員が頑張っている.
文科省は,任期付きの職を増やし研究員の流動性を狙ったのだけど,
なかなかそうはなっていない.
そうしたキャリアパスは現在も確立したとは言い難い.
結局,残念ながらそうした道を選ぶには相当の覚悟がいる.

そうした道に,現在の安定志向の学生が進むであろうか.
核融合分野には当然博士の研究員が必要とされている.
しかし,そうした先の見えない道に進むことを覚悟して,
博士課程に進む学生がどれだけいると思っているのだろうか.

JAEAは,人材を育ててほしいと大学にいうけれど,
博士号を取得しても5年程度しか雇われず,
その先どうなるかわからない,といわれて,
そんな道を学生たちに勧めることができるだろうか.
少なくとも私は消極的である.

しかし,このままいけば核融合分野の人材不足は
深刻な状況になるのは間違いない.
7年後,JT-60SAの装置ができたときに実験で活躍しようとする若手は
だれもいないということになるのではないか.
そして,ITERが完成したとき,日本は世界を主導できる人材を
擁しているのだろうか.
一体誰が日本を背負うのか?
昨日,私は非常に暗澹たる思いをもって帰宅の途に就いたのである.

やはり,JAEAがパーマネントに職員を確保してもらわなければ
どうにもならないのではないかと思う.
任期制というのは,学生たちに全然魅力的ではないのである.
核融合科学研究所もそれほど研究者を
将来のために確保してくれる状況にはないようだ.

う~ん,私は核融合を応援したいのだけれど,
どうすれば良いのか良い案が思い浮かばない.
全くもって問題なのである.


#私も大学の任期付き職員なのだけど...

2007年10月8日月曜日

10/9

不在です。

2007年10月5日金曜日

暑いのか寒いのか,そして人の服装とヒステリシス

朝晩はずいぶんと涼しくなり,
すっかり秋めいてきた.
と思いきや,まだ日中の最高気温は25度を
平気で越え,まだまだ昼間は半袖シャツの方が
良いのではないかとも思える.
学内を見ても,まだTシャツ姿が多いことだし.

春と秋の季節で,町行く人の服装を比べてみると,
同じ気温であっても,
春には長袖の人が多く,
秋には半袖の人が多い.

春には冬の名残があり,
秋には夏の名残がある.
すなわち,人の服装は過去の履歴を引きずって,
気温に応じて即座に変化するわけではない.
これをヒステリシス特性という.
(箪笥の中身を変えるのに時間がかかるということかな)

昨日,磁性体のB-H曲線を講義していたときに
こんな話をした.
実は,このネタは私が学生時代に電磁気学の講義で
内藤喜之先生に習ったことの受け売りである.
(まぁ,知識の伝達とは多くの場合受け売りになるのだけれど)

私はもうすっかり歳なので,
この朝晩と昼の温度差に身体がついていけず,
風邪をひいてしまった.
喉と熱はもうおさまったのだけれど,
まだ,頭痛,鼻水,咳に悩まされている.
おかげで今週はどうも調子がでなかった.

やれやれ,歳を取るつれ自己管理が難しくなるようだ.
少々の風邪でもずいぶんしんどく感じるようだし.

2007年10月4日木曜日

他分野の学問で自分のポテンシャルを高める

大学に来て痛感したのは,
教員とは総合的な知識が要求されるということ.

単に自分の専門だけ研究し,
論文を書けばよいというものではない.
以前の研究所にいたころ,
視野が狭くならないようにと気をつけてはいたつもりだったが,
やはりそれなりにタコつぼ的な研究生活だったようだ.

自分の専門を深く掘り下げることも必要だが,
他分野の学問,研究も大いに参考になることが多い.
こうした間口を広くとっておくことが,
研究者としてのポテンシャルを高めることになるのだと思う.

しかし,最近の学生には自らその間口を
狭めている人が多いように思う.
博士課程の学生などには,自分の専門分野でなければ
発表を聴かない,あるいは議論に参加しない人も多いと聞く.

そうでなくても,修士課程や学部生であっても,
自分で間口を広げて,いろいろな学問を経験してみようという
気概をもった人が少なくなりつつあるようだ.

要は,楽して単位が取れれば良い,との考え方に尽きる.
しかし,自分の将来のポテンシャルをあげるためには,
大学での学問は非常に有益である.
専門以外に幅広く見聞を広げることができるからである.

専門などは自分が就職してから嫌というほど勉強させられる.
そもそも自分が現在やっている研究と就職してからの研究が
一致することなど,そうそうあり得ないのである.

と考えると,現時点で自分の研究はこれです,と線を引き,
他分野の知識を拒絶するなどという態度は,
決して賢いものとは言えないだろう.

大学時代は本当に恵まれている.
講義さえ出席すれば,第一線の知識を
やさしく教えてくれる先生がいる.
質問をすれば答えてくれる先生がいる.
この素晴らしい機会を逃してはいけない.

自分の専門ではないといって耳をふさぐのではなく,
他分野の講義にも積極的に参加しもっと耳目を広げて,
将来の自分のために投資してはどうだろうか.
して無駄になる勉強というものはそうそう無いものである.

2007年10月3日水曜日

無愛想では通用しない

私は自慢ではないけれど,顔のつくりが不細工である.
それに少々無愛想なのかもしれないと思っている.

顔のつくりについては,
遺伝なのでどうしようもないのだけれど,
もう少し,愛想は良くしても良いかと思っている.
でもちょっと無愛想くらいで十分とも思っているのだ.

本日,あるミーティングで表情に関する話が出た.
日本においては,感情を顔をあらわさないことを
美徳とする風潮があった.
その一方で(いや,だからこそ),言葉に出さなくても
相手の表情を読んで相手の心を察するということが
求められてきた.
そうした文化がいまだに意外と強く残っている.

私も無意識のうちにそうした文化の影響を受けている.
それほどおかしくなければ笑わないし,
腹の中は煮えくりかえっていても顔には出さない.
(いや出さないようにしているだけかも)
そのように知らず知らずのうちに育ってきた.

それを思い知ったのは,何年か前にフランス マルセイユで
開かれた学会でのバンケットでのこと.
国際学会でのバンケットにおいては,
それぞれのお国柄にあった出し物が用意されていることが多い.
例えば,日本で開催された場合には,琴や和太鼓の演奏などが,
バンケットで披露される.
それを見て海外の方はヤンヤヤンヤと喝采を贈るわけである.

そのマルセイユでは,当時町で一番最先端のプレイスポットだったという
倉庫を改造したアミューズメント施設でバンケットが開催された.
倉庫の中の町で,大道芸人が技を披露していたり,
露店のようなところでゲームを楽しんだりする,という趣向である.

私はそもそも騒がしいのが嫌いである.
たとえば,日本でのパーティでも,ビンゴ大会とかが始まると,
もう耳をふさいで会場の外へ逃れてしまう位である.
もっとゆっくり酒と会話を楽しませてくれ,と思う.

この時のマルセイユの出し物も,私にはうんざりだった.
でも全然嫌な顔はしていなかったと思う.
それなりに異文化の香りがして物珍しかったし.

多々あるゲームのなかのひとつにペタンクみたいなものがあり,
それに無理やり参加させられた.
まぁ,そこそこの点数をとって,少し私はニコリとした.
(というか,私にとってはそれはそれで
十分な笑顔だったと思うのだけれど)

しかし,となりにいた外国人は私に向かって,

「面白くないのか?もっと楽しめよ!」

みたいなことをいってきた.私は,

「十分楽しんでるさ」

と答えたのだけれど,向こうは全然そうは思わない.
私の肩を強くたたいて,さぁ,もっとやれ,もっとやれ,と
前に出させるのだ.
これには本当に辟易した.
もうほっといてくれ!と言いたくなった.

つまりは,西洋人からみると私の顔は表情に乏しく,
無感動で,全然楽しんでいないように見えるらしいのだ.

そう思うと,それまでの海外旅行においても,
こちらは十分楽しんでいるのに,
同行する西洋人が不安そうに
私の顔を見ていることがあったように思う.
あぁ,そうだったのか.
あれは,私の表情が少なくて心配していたのか.
ようやく合点がいった.

以来,海外では私が喜ぶときには,
ずいぶんとオーバーアクション気味に態度で示すようになった.

気づいてみると,海外慣れしている先生方や研究者は,
こうした大きめのアクションをして,海外の方と会話している.
それが相手に安心を与え,
結局のところ信頼を得ることにつながっているのだ.

西洋人は表情を読み取る感度が悪く,私たちは相手に
フィードバックする信号レベルを上げなければならない,
などと書くと怒られるだろうか.
でもそれが私の偽らざる実感なのである.
そしてやっぱり日本では無愛想くらいで十分だと思っているのだ.
(いや,でも愛想はいい方です,ほんとに)

2007年10月2日火曜日

多様性に恵まれた研究室

新学期が始まり,私たちの研究室にもNew comerがあった.
なんと5名.
これで私たちの研究室は,学生だけで32名,
スタッフを含めると36名の大所帯となる.

たぶん,この電気電子情報工学専攻の中でも
最大の陣容となることだろう.

さて,新人5名のうち,
社会人の博士課程の方と,
3年から飛び級できた学生が日本人である.

あとは,
フランスから1名,
中国から1名,
そして韓国から1名
という構成である.

これまでに,
インドネシアから1名
中国から1名
台湾から1名
ジンバブエから1名
韓国から1名
の学生が在籍しているから,
海外からの留学生はトータルで8名ということになる.

8 / 32というと25%になる.
私たちの研究室は,いながらにして
国際交流ができるという素晴らしい環境が整いつつある.
(もっと英会話が研究室内で飛び交うようになるといいのだけど)

そして,社会人ドクター,飛び級などの人もいて,
この研究室には,優れたDivesityが内包されるようになった.

優れたDiversityは,新しい発想のincubatorとなりうる.
この可能性が私たちの研究室の新たな魅力となりつつある.
こうした環境は欲しくても簡単には手に入らない.
ぜひ学生の皆さんはこの機会を十分に生かしてほしいと思う.

2007年10月1日月曜日

新学期の始まり ~ 教員に夏休みはない

今日から新学期が始まった.
では,いままで夏休みだったのか,と言われると,
実はそうなのである.
8月のお盆前から昨日までが,本学の夏休みであった.

こうした話をすると,大学は夏休みがあっていいですねぇと
良く言われるのだけれど,全くそうではない.
夏休みがあるのは,学生,それも学部学生だけである.

私たち教員は,ほとんど休みがない.
お盆に3日休んだだけである.
というのは,大学では8月頭まで講義があり,
まとまって学校を空けることができない.
したがって,学会や研究会は夏休みを狙って開催されることになる.
こうした学会や研究会をハシゴすることによって,
そしてさらに大学院の入試や編入学試験などもあって,
教員は夏休み,忙殺されるのである.

では講義が始まれば楽になるのかといえば,
もちろんそうではない.
講義の合間をぬって,出張や会議にでかけることになる.
講義も演習などがあってかなり大変なのである.
そのうえ,学生実験もこなさなければならない.

こうしてまた新学期も忙殺される.
もう大学に来て3年が過ぎ,
こうした状況にも慣れてきた.

あとは自分でどう時間をやりくりするか,というだけのことである.
長い時間をとることはできないので,
短い時間に集中し,それを組み合わせて仕事をこなす.
その技術をいま,身につけつつある.

なるほど教員というものは忙しい.
しかし,これが年末に向けて加速していくというのだから,
いまから体力をつけておくくらいしか対策がないのである.