2007年10月3日水曜日

無愛想では通用しない

私は自慢ではないけれど,顔のつくりが不細工である.
それに少々無愛想なのかもしれないと思っている.

顔のつくりについては,
遺伝なのでどうしようもないのだけれど,
もう少し,愛想は良くしても良いかと思っている.
でもちょっと無愛想くらいで十分とも思っているのだ.

本日,あるミーティングで表情に関する話が出た.
日本においては,感情を顔をあらわさないことを
美徳とする風潮があった.
その一方で(いや,だからこそ),言葉に出さなくても
相手の表情を読んで相手の心を察するということが
求められてきた.
そうした文化がいまだに意外と強く残っている.

私も無意識のうちにそうした文化の影響を受けている.
それほどおかしくなければ笑わないし,
腹の中は煮えくりかえっていても顔には出さない.
(いや出さないようにしているだけかも)
そのように知らず知らずのうちに育ってきた.

それを思い知ったのは,何年か前にフランス マルセイユで
開かれた学会でのバンケットでのこと.
国際学会でのバンケットにおいては,
それぞれのお国柄にあった出し物が用意されていることが多い.
例えば,日本で開催された場合には,琴や和太鼓の演奏などが,
バンケットで披露される.
それを見て海外の方はヤンヤヤンヤと喝采を贈るわけである.

そのマルセイユでは,当時町で一番最先端のプレイスポットだったという
倉庫を改造したアミューズメント施設でバンケットが開催された.
倉庫の中の町で,大道芸人が技を披露していたり,
露店のようなところでゲームを楽しんだりする,という趣向である.

私はそもそも騒がしいのが嫌いである.
たとえば,日本でのパーティでも,ビンゴ大会とかが始まると,
もう耳をふさいで会場の外へ逃れてしまう位である.
もっとゆっくり酒と会話を楽しませてくれ,と思う.

この時のマルセイユの出し物も,私にはうんざりだった.
でも全然嫌な顔はしていなかったと思う.
それなりに異文化の香りがして物珍しかったし.

多々あるゲームのなかのひとつにペタンクみたいなものがあり,
それに無理やり参加させられた.
まぁ,そこそこの点数をとって,少し私はニコリとした.
(というか,私にとってはそれはそれで
十分な笑顔だったと思うのだけれど)

しかし,となりにいた外国人は私に向かって,

「面白くないのか?もっと楽しめよ!」

みたいなことをいってきた.私は,

「十分楽しんでるさ」

と答えたのだけれど,向こうは全然そうは思わない.
私の肩を強くたたいて,さぁ,もっとやれ,もっとやれ,と
前に出させるのだ.
これには本当に辟易した.
もうほっといてくれ!と言いたくなった.

つまりは,西洋人からみると私の顔は表情に乏しく,
無感動で,全然楽しんでいないように見えるらしいのだ.

そう思うと,それまでの海外旅行においても,
こちらは十分楽しんでいるのに,
同行する西洋人が不安そうに
私の顔を見ていることがあったように思う.
あぁ,そうだったのか.
あれは,私の表情が少なくて心配していたのか.
ようやく合点がいった.

以来,海外では私が喜ぶときには,
ずいぶんとオーバーアクション気味に態度で示すようになった.

気づいてみると,海外慣れしている先生方や研究者は,
こうした大きめのアクションをして,海外の方と会話している.
それが相手に安心を与え,
結局のところ信頼を得ることにつながっているのだ.

西洋人は表情を読み取る感度が悪く,私たちは相手に
フィードバックする信号レベルを上げなければならない,
などと書くと怒られるだろうか.
でもそれが私の偽らざる実感なのである.
そしてやっぱり日本では無愛想くらいで十分だと思っているのだ.
(いや,でも愛想はいい方です,ほんとに)

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