2007年11月30日金曜日

計算機のコーディングについて

昨日の会議で,最近の学生たちは,
コンピュータの中身が良く分かっていないどころか,
コーディングの基礎も良く分かっていないのではないか,
という話題があった.

ある学生のプログラムで,
ループの各繰り返し毎に,
標準出力をさせる文を入れていたために,
非常に計算速度が遅くなっていた,
という話が,その元である.

入出力の回数を減らすというのは,
計算速度を上げるためのテクニックとしては,
ちょっと前までは不可欠なものだった.

しかし,現在の学生たちにおいては,
あまりにコンピュータのパフォーマンスが上がりすぎたために,
そういう基本的なことを失念している人が多いのだ.

メモリの使用法についても同様なことがいえる.
昔は,どれだけメモリを節約するか,
ということが大命題だった.

まぁ私も本格的にニーモニックでコーディングし,
64k程度のメモリに四苦八苦をしていたわけではないから,
それほど偉そうなことは言えないが,
それでも学生時代は,PC上で電磁界解析などをするときに,
メッシュの数をそれなりに制限しなければ,
すぐにメモリーオーバーのエラーが出て,
計算ができなかったものである.

計算速度の向上とメモリの節約.
それを常に頭において,コーディングしていたわけである.
PCのパフォーマンスが上がって,
そういう苦労をしなくて済むようになったわけだが,
その代り,基礎的なところでポカを
起こしやすくなっているような気がする.

技術のブラックスボックス化が,
基礎技術,中堅技術のドーナツ化を招いている.

これでいいわけがない.
なんとか手を打たなければならない時期に来ているのだろう.

別のセミナーで,スーパーコンピュータを
手作りするという話題が出た.
天文学や分子動力学のような多体問題の解析に特化した
計算機モジュールを並列化し,
計算の速度を向上させようというものである.
個々のモジュールは単純な計算だけを行えば良いので,
高速化を図ることができる.

もしこのような高速計算機を手作りで作ろうとしたら,
それはそれでずいぶん計算機の勉強になるだろうと思う.
当然,学生たちに計算機を作らせてみたらどうかという話になる.
そんな実習科目があってもいい.

2007年11月29日木曜日

散歩をすれば

昨日の夜,久しぶりに散歩をした.
といっても,帰宅前に学内を一周するだけなのだけれど.
それでも広いキャンパスなので30分くらいの行程となる.

歩くのはダイエットのためもあるけれど,
それ以上に散歩は気分転換のために重要である.
散歩をすると頭の働きが良くなる気がする.
(気がするだけかもしれないけれど)

脳というのは,やはり身体と密接な関係があるに違いない.
散歩をすることで全身の血流が良くなり,
気分が良くなるだけでなく,
脳の働きも活性化するのではないか.
そう思っている.

確かに散歩の間は,いろいろなことを考える.
結構,研究のことも考える.
いつも歩く道であるからこそ,
自然,考えに集中できるのだ.
(いま気づいてみると,結構危ない状態だけど)

身体を動かしながら,頭を動かす.
もちろん激しい運動では難しいであろうが,
適度な負荷による単純な運動は,
逆に集中を高めるような気がする.
つまり散歩はそのちょうど良い運動なのだ.

以前,ある空手の流派を開いた人が
山に篭って1万本くらい突きを繰り返す稽古をしていた際に,
意識はどんどんクリアになって哲学的思想に耽っていたという
話を聞いたことがある.
この単純な繰り返し動作ということが大切なのだと思う.

単純な繰り返しに脳はすぐに飽きてしまう.
そして新たな思索を始めようとする.
これが自動的に生じるというところが大事なような気がする.
脳が自発的に思考に対して開かれるため,
新たなアイデアが生まれるチャンスが多くなるのではないだろうか.

散歩中にアイデアがひらめく,
そんな話は山ほどある.
そうでなくとも散歩をすれば,
ずいぶんと気分が良くなって,また机の前に座ることができる.

最近は,忙しくて散歩する暇もなかったし,
身を切るような寒さがその意欲をくじくのだけれど,
また機会があるたびに歩こう,
そう昨晩,散歩の帰りに思ったのである.

2007年11月28日水曜日

学生時代に勉強すると生まれる良い結果

昨日,あるメーカの方々とお話しさせていただく機会があった.
そのメーカには,本年度卒業生がひとり就職している.
自然,その卒業生の話題になった.

その卒業生の働きぶりのお話をハラハラしながら
聞いていたのだけれど,ひとつなるほどと思うことがあった.

彼はパワーエレクトロニクス(パワエレ)を勉強していて,
パワエレに関連したメーカに入った.
いくら大学で研究していたからといっても,
企業の第一線では,即戦力というわけにはいかない.
現場は常に最先端をいっているのだ.
また,研究と違って一テーマだけに集中すればよいのではなく,
総合的な知識が要求される.
当然,「基礎学力の不足」などの不満がでるのかと思っていた.

しかし,意外にも彼は(彼に失礼だけど)好評であった.
それは,「どこまでを習っていて,どこからが習っていないか」を
はっきりと表明してくれるから,ということらしい.

この話に私はすっかり感心してしまった.
パワエレを勉強してきたからこそ,自分の現在の知識を把握でき,
自分に不足していることをはっきりと認識できる.
それは非常に重要なことだ.

それは仕事に対して能力がないと言っているのとは違う.
むしろ自分に自信があるからこそ,
ここまではわかるが,この先は勉強したことがない,
とはっきりと上司に言えるのだ.
それだけでもパワエレを学生時代一生懸命勉強した価値がある.

ぼんやりとしていて,わかっているのか,わかっていないのか,
それが判断できない部下はずいぶんと取扱いに困るのだろう.
学生時代,基礎をやるということはこうした利点もあるのだと,
あらためて認識した.
逆に自分の現時点での実力を推し量るには,
それなりの素養が必要ということだ.

もちろん,その卒業生の彼の評判がよかったのは,
上記の理由だけでなく,どの仕事も一生懸命に努力し,
夜遅くまで自発的に頑張っているからであることも,
忘れずに記しておきたい.

2007年11月27日火曜日

パワエレのマンガはないものか

パワーエレクトロニクス(パワエレ)の分野で,
人材が不足しているらしい.

電機メーカ等も最近景気が良くなってきて,
家電の分野でも,パワエレの知識を持つ人が
欲しくてたまらない他,
電力の分野でも,半導体変換器による電力制御の
重要性が高まると同時に,電力会社もまた設備投資を増やしており,
重電分野でも人が足りないという.
もちろん,太陽光発電,風力発電でもパワエレは不可欠だ.

そして自動車.
あと何十年後には,すべての車にモータが
積まれているだろうことに異論を唱える人は少ないだろう.
今は自動車メーカへのパワエレ技術者の流出が
問題になるくらいである.

どうしてこれで大学の電気系の人気が低いのか,
本当に残念でならない.
各メーカ,電力会社の社長あたりが,
これからの時代はパワエレだ!と
一言高校生向けに言ってくれればいいのに,と思う.

確かにパワエレは地味である.
回路自体は動かない.
もちろん,モータを駆動するから,
ハイブリッド自動車,電車,ロボットと
すべての心臓部に含まれているけれど,
残念ながらそれ自体は地味である.

オシロスコープなどで電流・電圧波形を見て
初めて動いていることがわかる代物である.
だから本当に注目を集めにくい.

子供むけにパワエレをテーマとしたマンガでも
誰か書いてくれないかと思う.

昔,「巨人の星」,「ドカベン」によって,
野球ブームがあった.
「タイガーマスク」,
「プロレススーパースター列伝」によって,
プロレスブームがあった.
「キャプテン翼」によって,サッカーブームが,
「スラムダンク」によって,バスケットブームが,
そして「空手バカ一代」によって格闘技ブームが,
それぞれ巻き起こった.

こうしてみるとマンガの影響力は非常に大きい.
スポーツだけではない.
「ヒカルの碁」で囲碁のブームが起こったし,
「動物のお医者さん」では獣医ブームが,
最近では「のだめカンタービレ」によって
クラシックブームが起こった.
別に激しい動きがあるテーマだけとは限らないはずだ.

はんだごてを片手に必殺技ですごい回路を作るとか,
新しいパワーデバイスを用いた超高性能の回路が
世界を救うとか,そうした夢を子供たちに与える
パワエレのマンガは描けないものか,
そう,つまらない想像をときどきする.

ロボコンはあっても,
パワエレコンは難しい.
やっぱり高校生たちは盛り上がらないだろうなぁ.

なんとか魅力あるパワエレにできないものか.
そうつねづね考えている.

2007年11月26日月曜日

ガリレオは准教授志望を増やすのか

最近は大学教員を目指す学生が少ない.
博士後期課程に進む学生の数はめっきり減っている.
博士課程の学生は研究室の実力向上に不可欠なので,
この博士課程の学生の減少は非常に困っている.

この原因としては(何度も書いてきてはいるが),
博士号を取得したからといって,
なにもメリットがないからである.
いや,むしろ就職先がない,生涯賃金が少なくなる,
企業から敬遠される,などのデメリットの方が多い.

特に私に関係が深い電力業界などは,
実質的に博士課程修了の学生を採用しないというところもある.
こうした業界の状況が,現在の大学の研究室に悪影響を及ぼし,
電気系の人気を悪くしているということを,
業界はもっと真摯に受け止めるべきであると思う.

教員である私たちも,将来の就職が不透明であるのに,
博士課程への進学を勧めにくいのだ.

大学の研究室にとっては,博士課程の学生の有無は非常に大きい.
ぜひ博士課程への進学が増えるように,
電力業界だけでなく,他のメーカも
博士課程修了後の学生の採用を積極的に行ってほしいものである.
そうした努力が,電気系の底の向上につながるのだと思う.

(電力業界は,電気系の人気が下がっている状況でも,
現在の学生たちの安定志向のおかげで,就職人気が高い.
だから真剣にこのことを考えてこなかったような気がする.
ようやく電気事業連合のパワーアカデミーなどの活動が
始まろうとしてはいるが)

一方で,大学教員の人気も相変わらず低い.
以前に学生たちになぜ大学教員になりたいと思わないのか,
と尋ねたことがある.

すると,
給料は高くなさそう(当たっている)なわりに,
いつも「忙しい,忙しい」といって,大変そうである.
その上,学生の相手をしなければならない...
との答え.

うっ,見抜かれている...

もちろん,大学教員には楽しいことも多々ある.
しかし,その楽しさが学生たちに伝わるようには,私は
働いてこなかったような気がする.
つまりは,私たち(いや私?)を見て,
大学教員に魅力を感じていなかったわけである.
この答えを聞いて,私もずいぶん反省した.

しかし,この大学教員の不人気にもちょっとした朗報がある.

最近,「ガリレオ」というTVドラマが大人気だそうである.
東野圭吾原作の探偵小説に基づいたドラマで,
主演は福山雅治,そして柴咲コウ.
ずいぶん視聴率がいいらしい.
私は残念ながら,ほんの少ししか観たことがないのだけれど.
(今日も見逃した.月曜9時からの放映である)

探偵小説とはいっても,主人公の職業は
なんと准教授.専門は物理学で,
天才だが奇人であるという設定らしい.

なんといっても福山演じる准教授がカッコイイとのこと.
これだ!と私はひそかにほくそ笑んでいる.

以前,木村拓哉主演の「HERO」というドラマのおかげで,
松たか子演じる担当事務官を志望する人が増えたらしい.
(さすがに検事の人気が上がったという話はなかったけれど)
同じく木村拓哉主演の「GOOD LUCK!!」では,
パイロットと整備士の人気が向上.
「ビューティフルライフ」では美容師人気が再燃.

一方,「カバチタレ」では行政書士が,
「やまとなでしこ」や「CAとお呼びっ!」では,スチュワーデスが,
そして「ナースのお仕事」では看護婦がそれぞれ人気向上した.

そして,今回の「ガリレオ」.
必ずや准教授の人気が高まるに違いない.
再来年あたりから多くの学生が突然博士課程に進学を希望する.
そんな夢みたいな話にならないものかと,淡い期待を抱いている.

まぁ,私と福山雅治演じる主人公の間には,同じ准教授といえど,
日本海溝よりも深いギャップがあるのだけれど(笑).

2007年11月22日木曜日

「サチる」に「ネグる」

業界用語というものがある.
それがいつの間にか広がって,
一般認識のもと使用されるようになった言葉も多い.

たとえば,「トリ」という言葉.
これは落語で最後に現れる芸人を言っていたものが,
いつのまにか最後を締めくくる人全般に
用いられるようになった.

あるいは,「ドタキャン」.
これも今では日常的に使用されている.

一方,理工学系の学会で良く用いられる
業界用語もある.

例えば「サチる」
これは,飽和する,増加率が減少する,
ということを意味する.
saturateを日本語っぽくいうところから
きている(と思う).
結構,よく耳にする.

また,「ネグる」
これは式の展開などにおいて,
ある項を省略するときなどに使う.
neglectする,を略したのだと思われる.
こちらもときどき耳にする.
なぜか,「オミットる」などとは言わない.

こうした言葉遣いは,
その業界から離れた人にとっては
奇異に感じる.

私も初めて学会に参加したときのことを思い出す.
大学4年生の冬,確か雪深い長岡技術科学大学で開催された
プラズマ・核融合学会だったと思う.

風邪を引き引き,それでも,なんとか自分の発表を終え,
他の講演を聴く余裕も出てきたときに,
いきなりこうした特殊用語のオンパレードに
面食らったのだ.

「ここでプラズマはリジッドに移動するものとし,
フラックスもフリーズされているとの仮定のもとですと,
この項はネグることができ...」

もうちんぷんかんぷん.
指導教官であるS先生に,
「日本語を使って欲しいです」などと
苦情を言っていたことを今でも覚えている.

一般的にこうした用語を用いるのは,
あまり品性よろしくない.
使うのを避けるべきである.
研究者たるもの,
できるだけ正確な表現を心がけるべきだ.
(ときどき「50%」を「ゴジュッパー」などと
発音しているひとがいるが,
これはちょっといただけない)

しかし,「サチる」という言葉を
「増加率がここで減少する」などと
正確に表現しようとすると,
実は違和感を感じてしまうのも事実なのである.

「サチる」というのは良く言ったもので,
それほど物理現象にぴったりなのである.

私が学会でこの言葉を使用することはないだろうが,
他人が使用してるのを聞いても
別に違和感を感じない.

いつか一般に浸透したら
使用してもいいかもしれないとも思う.
しかし,「サチる」,「ネグる」は
一般化しないのだろうなぁ.

こうしたことを考えてみると,
和洋に関わらず,次々と新しい言葉が生まれてくる
この日本語というものの可能性の大きさを
思わずにはいられない.

2007年11月21日水曜日

ゲンコツひとつですむならば

最近,自分の至らなさのためか,
腹がたつことが多い.

往々にして,腹がたつということは,
相手がどうするということではなく,
自分がどう感じるか,ということに依存する.

相手はその怒りのTriggerとなる行動を行うが,
それに対して怒るか否かは,
こちらの受け取り方による.

赤ん坊を怒ることはない.
それは赤ん坊だから分別がつかないということを
あらかじめ認識しているからである.

一方,人に対して腹が立つのは,
その人がそうした行為をすることが,
当然その人がすべき行動から外れているからである.
そしてその行動が私に悪影響を与えるからである.

相手に対して怒りをぶつけることで
相手が反省するならば良い.
しかし,ただ相手を怒ってところで,
相手の行動が変わるということは
本当に少ないのではないだろうか.
そして,その相手の年齢が高くなればなるほど
行動が変わる確率は低くなる.

ならばなぜ怒るのか.
結局は自己満足ではないのか.
相手に自分が不愉快だと伝えるだけならば,
怒る必要はない.
怒ることによって,効果が上がるとは限らない.
むしろ逆効果のことも多い.
じっと相手を諭すことが大切なのである.

しかし,私も未熟なために,
自分の怒りを適当に収めることができないのだ.
相手を怒っても仕方がない.
でも自分の感情も手に余る.
相手を諭す余裕もない.
こうして私はストレスをためることになるのだ.

あぁ,ゲンコツひとつでみなが幸せになるならば,
それはどんなに素晴らしい世界だろうか.
そう,頭が単純な私はいつも思うのである.

2007年11月20日火曜日

睡眠と意識のClock Up

強烈に眠たくなるときがある.
それが今日だった.

車を運転していても集中力がなくなる(危ない!).
キーボードを打っていてもミスタイプが目立つ.
そしてポカが多くなる.

今日のポカは,雑誌を洗濯機で洗ってしまう事態を招いた.
もちろん直接雑誌を洗ったわけではないけれど,
洗濯かごの中に雑誌を入れたままにしていたばかりに,
雑誌も稽古のための道着とともに洗われてしまったのである.

大失態.
洗われた雑誌は「coyote 10月号」.
大判の厚い雑誌が紙くずとなってしまった.
道着もちぎれた紙くずまみれ.
本当に情けない.
家族のみなさんがブーブー言いながら,
紙くずだらけの洗濯槽の中や,
紙くずだらけに灰色になってしまった道着を
綺麗にしてくれた.
本当に申し訳ない.

睡眠不足になると,いつもこうだ.
ポカが多くなる.
失敗だらけでみなに迷惑をかける.

こうしたときは眠るに限る.
長時間の睡眠は新しい自分にrenewalしてくれる.
頭脳がClock Upするのだ.
計算処理速度がぐっと上がるような気がするのだ.

脳はもともと並列処理を行うようにできているようだ.
脳の中には,いくつもの意識が存在しており,
それぞれが,おのおのの処理を行っているような気がする.
しかし,自分が意識できる意識はひとつだけで(顕在意識),
その意識を中心にあとはNetworkでつながれているような気がするのだ.

それぞれの意識の中で行われた計算結果は,
まるで液体の中を泡のように浮かび上がってくる.
その泡を捕まえることによって,
私たちの意識にアイデアや考えが生まれるのではないだろうか.
そんなモデルが私の実感としてある.

自分の顕在意識とは別に並列処理が行われている.
例えばキーボードを叩くという行為.
私はいちいちキーボードのキー位置を意識していない.
今では考えが浮かんだとおりに手が自動的に動く.
この「自動的に」ということが,実は他のサブ意識が,
私の指と手を制御しているのである.

この処理がうまく行われているために,
意識の中に空白のWorking Memoryのスペースを確保する.
これが眠るということの意味の一つであると思う.
この眠っている間に,起きている間に積もり積もった考えが整理される.
それらは圧縮されて脳の中に格納される.
そして空白のスペースが新たに生じるのである.
このスペースをうまく用いて,
各サブ意識の計算速度は向上するのである.

もちろん,それぞれの意識で働いているCPUの演算速度も向上するし,
その意識を結ぶネットワークの通信速度も向上する.
バスも太くなる.
こうしてアイデアの結合は強くなり,また新たな発想を生む.

つまり眠ることは,私にとって新しい発想のために不可欠なのである.
まずは,とにかく仕事を忘れて布団の中にもぐりこむ.
9時間以上は眠りたい.
そうすれば,朝には新しい自分になっているような気がする.
毎朝,私は生まれ変わっている,と思うことは
私の生活において重要な意味を持っている.


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それにしてもcoyoteがだめになってしまったことは,
返す返すも残念だ.
この号は,柴田元幸氏がポールオースターの作品
「CITY OF GLASS」の全訳が掲載されていたもので,
途中まで興味深く読んでいた.
まだ10%程度の読了率だった.
あぁ,結末が気になる.
単行本に収録されるのはいつのことか.
首を長くして待つことになりそうだ.

2007年11月19日月曜日

かたつむり,身体の軸

週末土日は,電気関係学会関西支部連合大会(神戸大学)に参加.
1セッションの座長を務める.

学会に参加した時の常で,
帰宅の途は反省の時間となる.
別に今回の座長の進行や
研究室の学生の発表に関する反省ではない.
日頃の私の研究生活の至らなさを,
他の研究者の発表を見て
いつも思い知らされるのである.

なぜあの発想に至らなかったのか?
なぜあのような水も漏らさぬような検討ができないのか?

確かにいろいろと理由はある.
しかし愚痴っていても始まらない.
研究をやる価値はある.
ならば「精神一到,何事か成らざらん」である.
躊躇している暇はない.

"かたつむり
富士に登らば登るべし
精神一統なにごとかならざらん"

とは,私の好きな山岡鉄舟の歌である.

さて,とはいえここしばらくずっと忙しかった.
デスクワークばかりで,身体を動かす時間がなかった.
こうなると,どうも身体の軸が歪んでくるような気がする.

身体の中の軸?
もちろん仮想的な軸である.
ある理想的な状態に身体が(実は心も)なっているときに
身体の中で「実感できる」軸なのである.

背骨とはちょっと違うような気がする.
たぶん身体の中を切ってみても,
その軸は認識されないだろう.
しかし,身体的感覚においてそれは実感できる.
身体の中を確かに貫く軸がある.

身体が理想的な状態にあるためには,
心が身体を動かす限り,
心も理想的な状態になければならない.
(そうでなければ身体は心の悪影響を受けてしまう)
この状態を私が稽古している武道においては,
「統一体」と呼んでいる.
この状態をもって日常生活万般にあたることが,
肝要であるとしている.

残念ながら,私も常にその状態ができているとは言えない.
そこで合氣道の稽古を通じて,
歪んだ軸を矯正する,
あるいは見失ったその軸を再確認するのだ.

今日は,いつもとは別の教室のお邪魔して
とにかく身体を動かそう.
汗をかけば,まずはストレスが激減する.

今日は師走並みに寒い.
道着だけでは道場は寒いだろうなぁと躊躇する.
しかしこの怠惰な心を切り捨てて,
今日は稽古に飛び込もう.
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるだろう.
(ちょっと違う気もする)

2007年11月16日金曜日

私は何歳で

朝の通勤時にはNHK-FMを聴くことが多い.
今日はメンデルスゾーンの特集だった.

バイオリンコンチェルト第3楽章を途中から聴く.
ハイフェッツのバイオリンが冴えまくっている演奏だった.
聴き飽きるくらいよく聴く曲だけれど,
こうしていい演奏だと知らず知らず聴き入ってしまう.
そしてやっぱり名曲なのだと納得する.

つづいてルター作曲のコラールが流れ,
そしてその曲が用いられている交響曲第5番「宗教改革」が流れた.

ラジオの解説を聞いて驚いたのは,
メンデルスゾーンがこれらの曲を作曲したのは
38歳に夭折するまでの短い間であったということである.

「成熟したころの作品で」などと解説されていはいたけれど,
私の年齢よりもずっと若い.
恐ろしい才能である.
私はもう少しで40歳になろうとしているが,
とても成熟などという言葉は使えない.
未熟も未熟,青二才のままである.

(余談ではあるが,今度「椿三十郎」がリメイクされたらしい.
作中,主人公が名前を訊かれ,
「椿,椿三十郎,もうそろそろ四十郎ですが」
などと答えるシーンがあるけれども,
まさに私もそうした年になった.
あぁ,あの渋さは私にはないなぁ.

「俺か・・・、俺の名前は、桑畑三十郎。
もうそろそろ四十郎だがな」(「用心棒」)

このセリフを言っても,
誰も吹き出さないような人物に
なりたいものである.)

昔には,早熟の天才が多くいたのかもしれない.
また若くして事を成し遂げた人物も多いような気がする.

昨日,11月15日は坂本竜馬の命日だった.
(実際,旧暦だと異なる日なのかもしれない)
彼も30歳を越えたくらいで亡くなっている.

40歳を目前にして,
私はこれまでの人生で何をしてきたのだろうと
問わずにはいられない.

上をみれば,とてつもない人たちがいて,
自分の至らなさを思い知らされる.
しかし,そうしたことは成長していく上で
非常に大切だと思う.

偏差値世代は自分の横だけを見て安心する傾向がある.
縦の流れをみれば,自分たちがいかに昔に比べ
なまっちょろいかを思い知る.
ゆとり世代の学生のみなさんは,
特に縦の視点を持つことが大切なのだと思う.

2007年11月15日木曜日

N700系に乗る

昨日は,東京に調査専門委員会出席のために出張.
「新しい配電システムを構築する
パワーエレクトロニクス技術調査専門委員会」の
第1回目の委員会であった.

メンバーには,Microgrid,品質別電力供給関係や
大学・電機メーカのほか,船舶関係の方もいて,
今後の展開が楽しみな委員会となった.

さて,東京への交通手段で新幹線に乗った.
客車に入ると,どうもすべてが新しい.
車両を区切る扉の上の電光掲示板も
2行表示で見やすくなっている.
座席も新品の雰囲気をにおわせていて,
心なしか広く感じる.

そして足元を見てみると,
なんとコンセントがあった!

そこではたと思いついた.
これはN700系と呼ばれる
のぞみの最新車両ではないのかと.
少し前までは始発ともう1本くらいしか
運行されていなかったかと思うけれど,
そういえば11月から増発されるという話があったっけ.

このN700系では,車両の左右の壁に,すべての列に1個ずつ
100V ACのコンセントが設けられているのだ.

早速,手持ちのPCをコンセントに接続しようとしたが,
その前に,一応容量を確かめた.
100V, 2A, 60Hz
とある.安心して接続する.
ただこれが足もとの床面ぎりぎりのところに
表示されていたので,本当に見にくかった.
まぁ,普通の人は確認しないだろうけど.

私は新幹線の中でNOTE PCを開くことは少ない.
実は画面を見ていると乗り物酔いを起こしてしまい,
気持ち悪くなって,PCを閉じることがしばしばなのだ.

しかし,このN700系.さすが最新だけあって,
揺れが少ないような気がする.
長い時間液晶画面を見ていても,
疲れがずいぶんと少なかった.
これならば快適.
(それほど仕事は進まなかったのだけれど)

あとは無線LANだけか.
一部の航空便ではLAN接続が可能なのだという.
これが新幹線で実現できれば,
ずいぶんと新幹線を選択する人が増えるだろう,とは
私のボス,伊瀬先生の言葉である.

確かに,行き帰りの2.5時間x2=5時間を
有効に使うことができれば,かなり嬉しい.
Disturbなく集中できるところが,新幹線移動の利点である.

ただ,そこまで仕事をする必要があるのか,
という気もしないでもないが,
現実問題,その方が仕事がはかどるのだから,
まぁ,良しとしよう.

残念ながら,帰りの新幹線はN700系ではなかった.
といっても車内で仕事などはまったくせず,
委員会の懇親会で飲んだビールに酔って,
ぐっすりと新大阪まで寝ただけのことだったのだけれど.


<一言>
上にも書いたとおり,新幹線の交流は60Hzなのである.
なぜ50Hzでなく,60Hzなのか.
50Hz区間も地上で60Hzに変換して配電されている.
この理由のひとつは,50Hz区間が短いからなのだが,
その他にもトランスなどでメリットがあるからなのだと思われる.
今度,詳しく調べてみようか.

2007年11月13日火曜日

11/14

不在です.

視認性のよい背表紙

以前から,視認性の悪さが脳の能力に
悪影響を及ぼすということに関心がある.

だから机の上はなるべくきれいにする.
視界に不要なものが入ると,
それが何かを一回一回脳は識別することとなり,
あまり認識されないけれど脳に
確実に負荷をかけている.

「それが何か」と思うだけならばまだ良い.
そのモノから派生するさまざまな出来事,仕事について
思いがめぐらされるようになると,
さらに脳への負荷は重くなる.
こうしたことを避けるために,
机の上は整理整頓しておくべきである.
(とりあえず頭がすっきりする)

さて,この視認性というのは
文字についても同様なことがいえると思う.
悪字で書かれたものは,
一見して,それを理解するのに時間がかかる.
このワンステップの手間が脳の働きを鈍らせる.
ときには大事なアイデアを逃すことにもなりかねない.
(何かをした際に,それ以前に考えていたことを
忘れてしまうことはしょっちゅう経験している)

私の文字は残念ながら美しいとはとても言えない.
資料を閉じる紙ファイルの背表紙に書かれた私の文字は,
やはり一見して判断がつかず,
目を凝らして内容を理解しなければならない.

これではいけないと常々思っていた.
そこでラベルライターが欲しいと思っていたのだ.
そしてとうとう個人用のラベルライターを購入することができた.

ラベルライターというのは意外に価格が高い.
本体も高いし,カートリッジも高い.
なかなか購入に踏み切れなかった.

以前より欲しかったのはPCに接続するタイプで,
マウスで文字列を選択して,ライターに送るだけで,
ラベルが作成できるというすぐれものだった.
しかし,かなり高価でとても手が出ない.

今回購入できたのは,
近くのスーパーマーケットが新装開店した際に
在庫処分品として売りに出された,
ひと世代前の型落ち品である.
定価9000円以上のものが3000円以下.
ラベルライターのキーを打って
入力しなければならないという手間があるけれど,
まずはこれで良しとする.

ラベルを作成してファイルの背表紙に貼ってみる.
美しい.
こうでなければならない.
頭の中も幾分すっきりするような気がする.

こうしたちょっとしたことが,
仕事の能率に影響しているような気がするのだ.
物事が整理されていくとうれしい.
それは脳が負荷から解放された喜びなのだろうと思う.

2007年11月12日月曜日

忙しさが加速する

師走も前だというのに,
忙しさが等比級数的に加速している.

締め切りの仕事は山ほどある.
あさっても東京出張で委員会.
今週末も学会.

われながら笑っちゃうね,この仕事の量は.
でも,誰も代わりをしてくれない.
これが個人営業のつらさである.

前の職場ではプロジェクトとして
グループで仕事を行っていた.
グループでの仕事のシェアがうまくいっていると,
たまに私が風邪などで倒れても,
なんとか仕事は進んでいたものである.
(ときには私がいない方が仕事が片付くことも...)
それがグループで行う仕事の良さである.

グループで仕事をうまく回すにはコツがいる.
そのひとつが情報の共有である.
仕事の透明性である.
言いかえると自分が今どのような仕事をしているかを,
他のメンバーが理解している必要がある.
そうなるように,常に意識して仕事を行う.
そうであれば,グループ内に信頼関係がありさえすれば(!),
仕事はなんとかしのげるだろう.

だが,それができないのが大学教員のつらさである.
私が休んでも,誰かが代わりに教壇に立ってくれることもなく,
担当する講義は休講となってしまう.
それでは,何十名も集まってくれた
学生のみなさんに申し訳が立たない.
幸いにして未だそのような事態を招いてはいないのだけれど.

自分の許容量を超える仕事があった場合,
私は電力システムでいうところの最終手段,
"負荷遮断"をとる.
すなわち,仕事に優先度をつけて,
優先度の低いものは締め切りを勝手に先延ばしにする.
(心の中では「ごめんなさい」と繰り返し言うことを
忘れない)
そして残された負荷に十分な電力を供給する,
すなわち自分のリソースを注力するのだ.

個人営業の自転車操業の場合,倒れることは許されない.
倒れる前に負荷をコントロールするのだ.
そうやってなんとか乗り切るしかない.

どうも私のキャパシティは年齢とともに減少しているのだろうか.
それとも負荷を切り捨てる図々しさが増してきただけなのだろうか.
先延ばしの仕事をお待ちの皆様,ごめんなさい.

そして師走に向けて,忙しさはますます加速していく.

2007年11月9日金曜日

注射と痛みの妄想

昨日はインフルエンザの予防接種で注射を打った.
今日は血液検査のために,針を腕に刺した.
一体全体,私は注射が嫌いである.

針の現実の痛さが問題なのではない.
妄想する痛さが嫌なのだ.

自分の皮膚に針が刺さっていく瞬間,
恐怖で身体がこわばる.
看護師さんが,"大丈夫ですか"と尋ねてくれるが,
答える余裕はない.
そんなことを訊くくらいなら早く終了してくれと願う.

針が刺さる寸前まで,いろいろな痛さを妄想する.

血管に突き刺さる針を想像する.
血管を突き抜けたらどうなるのだろう?
筋肉に突き刺さったら痛くないのか?
針が折れることはないのか?

どんどんと妄想が膨らんでいき,
その大きさにつぶされてしまう.

針が刺さってしまえば,こうした妄想は消えていくのだけれど,
それまでがいけない.

特に血を見ると,その妄想は輪をかけて広がる.
血が抜かれているのを見ると,気分が悪くなったりする.
一度,採血のときに貧血を起こして倒れたこともある.
以来,体調の悪いときはベッドに横になって,
採血をしてもらったりしているのだ.
男として情けない限りである...

高校時代,交通事故にあった.
事故のあと,自分の命があることを確認してほっとすると,
生暖かいものが顔を伝わるのがわかった.
手で顔を触ってみると手が鮮血で朱色に染まった.
それをみて貧血気味になり地面に座り込んでしまった.
それ以来,血が怖くなってしまったのかもしれない.

自分の血を見ても相当気分が悪くなるのだけれど,
他人の血を見るともっと背筋がぞっとする.
他人が血を流しているのをみると,
その痛みをやはり妄想してしまうのだ.

映画などでナイフで皮膚を切りつけられるシーンがある.
私はその痛みを想像する.
車に人が飛ばされるシーンを見る.
腰に鈍痛を想像し,いたたまれない気持ちになる.

実を言うと,妄想の発端は,血だけではない.
毎日報道される事故や火災のニュース.
これらも妄想の始まりとなる.
被害者の方が,最後にどのような痛みを感じていたのか,
想像してしまうのである.
そしてその無念さに思いを巡らせてしまう.

こうして過剰な反応をしてしまう私は,
毎日を結構"痛く"過ごしている.
Negativeな反応は心身によろしくないことはわかるのだけれど,
そうした痛みを想像することも忘れたくないと思う.

でも,注射くらいは恐れずに受けられるようになりたいと思う.

2007年11月8日木曜日

歓迎! スポーツ部

うちの研究室には所属学生たちによる
スポーツ部というものがあるらしい.
種目は限らず,とにかく研究室のみんなで
バレーボール,バスケット,バドミントンなどを
行うらしい.

良き哉,良き哉.
私はそうした活動が大好きである.
(私は運動音痴だけれど)
研究の合間に,ぜひストレスを発散してほしい.
学生同士の親睦も深まることだろう.

うちの研究室はメンバーが多いから
ソフトボール大会出場においても,
あまり苦労が無いらしい.
女子学生は応援に行っている.
...いいじゃないか.

試合は私は見たことがないのだけれど,
(いつも勤務時間内に行われており,
なかなか応援には行きにくい...)
結構な強さらしい.
この研究室は代々スポーツが得意な学生が
集まってくるようだ.

私がこの吹田キャンパスに来て驚いたのは,
学生たちの課外活動が少ないこと.
大学2年生で吹田キャンパスに移ってきて,
その後,部活動をしない学生たちが多い.
大変にもったいないと思う.
折角の学生時代の余暇をバイトだけに費やすなんて
もったいなさすぎる.

私も学生時代は毎日運動ばかりしていた.
独自にトレーニングセンターに行ったり,
部活にいったり,研究室のみんなでテニスをしたりしていた.

身体を単に動かすだけで,気分はずいぶんと良くなる.
まぁ,私が単細胞なだけかもしれないけれど.
(学生時代は,私の脳みそは筋肉で動くとまで言われていた)

何度もいうけれど,私は運動音痴である.
ただ好きなだけである.
しかし,そのおかげで運動が精神に与える効果を,
十分に認識することができた.
こうした身体性を認識できるだけでも,運動はその意味がある.
そして,現在もその認識は大いに役立っている.

ぜひ学生のみなさんには,
この機会に運動をして,自分の身体と対話できたらよいと思う.
私は集団競技は苦手なのだけれど,その良さもあるのだろう.

スポーツ部.
手を挙げて歓迎である.

2007年11月7日水曜日

手帳を買う

来年用の手帳を買う.
何も書かれていない新しい手帳を手に取ると,
なぜかうれしくなる.
来年が良い年になることを期待するからだろうか.

学生の頃,手帳なんて全然必要じゃなかった.
すべてのスケジュールは頭の中で管理することができた.
(もちろん,ときどきポカをしたけれど)

働き始めて,手帳が不可欠となった.
手帳はまずスケジュールを管理する.
ミーティングのダブルブッキングなどをしてしまうと,
顔面蒼白になる.
とにかくこうしたエラーを起こさないために,
スケジュールだけはしっかりと管理したい.

次にアイデアのネタ帳として使う.
とにかくすべてのアイデアを書きこんでいく.
だから私の手帳はフォーマットが固定されていない.
適宜好きなようにページを埋めていくだけである.
このアイデア帳を一冊にまとめておくということが
大切なのである.

私は,少し前まで電子手帳(PDA)を使用していた.
スケジュールが頻繁に変更されるため,
紙の手帳では予定の書き換えですぐに一杯になってしまうからだ.

PDAはずいぶんと重宝した.
PCの予定表とも同期できるし,
予定の変更も簡単だ.
メールの内容やデジタルのファイルを
すぐに持ち出すこともできる.

ただ私が使っていたPDAの電池がへたり,
新しいPDAを購入しようかという時に
選択肢があまりにも少なかった.
Palm関係のPDAが日本から次々と撤退したためだ.
私が愛用していたSONYのCLIEももう新規モデルは出ない.

今までのものを電池を交換して使用しようかと
思いもしたが,Vistaの導入や新しいソフトがPDA側に
あまり開発されていないということもあり,
しばらく紙の手帳に戻ったのである.

PDAは現在ではビジネスフォンに統合されつつある.
日本でも数機種が入手できるようになってきた.
もう少し期が熟したらそちらの方に移ろうかなとも思っている.
電話,手帳,カメラ.
ビジネスツールとしては最強であるからだ.

しかし,最近は紙の手帳の良さも再認識している.
手帳のスペースに絵を描く(電気回路図が多いけれど).
デザインを描く(どこかのデザインをメモるだけでけど).
こうした作業が次のアイデアの発火を促すことも多い.
このような目的のためには白い紙と色ボールペンが適しているようだ.

来年も紙手帳が主役である.
白い手帳は,なにか期待を持たせてくれる.
ここにどんな予定が書き込まれていくのだろう.

しかし,養老孟司氏は予定が決定している未来は,
未来ではないと話していたという.
スケジュールが埋まった手帳は,
もはや未来を示すものではなくなる.
だがそれは自分の仕事の履歴を示すものになる.
それは今年の手帳を見ても実感する.

2007年11月6日火曜日

私はあがり症だったりする

今日は朝から,ある研究に対するヒアリングがあった.
ほんの短時間のプレゼンで,
リラックスした雰囲気の中で行われたにも関わらず,
私はずいぶんと緊張していた.

一体全体,私はあがり症なのである.
これで良く教壇に立っているなと思うほど,
人前で話すのはドキドキする.

これまでのいろいろと緊張して失敗してきた.
そうした失敗の積み重ねが,
また更なる緊張を生む.

中学校卒業式で送辞を読んだ.
もう膝ががくがくして,前に座っていた学生が
指をさして笑っていたのを今でも覚えている.

日本青年館で合氣道部の演武をしたときに司会をした.
目がかすんで原稿が見えず.もうメタメタだった.
武道の修行を断念するかとまで思った.

結婚式の司会をやったときもそうだった.
舌をかみかみ,声は変に気取ってしまった.
今思い出しても顔が赤くなってしまう.

どうにもこうにも,
あがることからは逃げることはできない.
よく,あがり症の克服などと本やセミナーがあるけれど,
実際,本当にできるのだろうか.

でも私は依然として人前に立ち続けている.
これは,実は自分があがるのが好きだからかもしれない,と思っている.
自分が窮地に陥るのを意外に楽しんでいるのだ.
(究極のS,いやM?)

何か特別なことをするとき,
神経が過敏になり,血圧が上がる等の反応が起こるのは,
人間として当然のことなのである.
避けることはできない.
ならば,むしろ喜んでその状況を引き受けよう.

逆にもしも,なにをやってもドキドキしないのであれば,
どんなにつまらない毎日になるだろう.
恋人と会ってもドキドキしないし,
スポーツの試合でもドキドキしない.
これでは何を人生の楽しみとするのか,ということになる.

人間をシステムとしてみた場合,
環境からの刺激を受けて,その内部に反応が誘起される.
それは当然のこととして受け止めて,
そこで誘起される反応を観察し,
その信号レベルを把握するのが面白い.
過剰なレベルは困るけれど,
適切なレベルに制御できるならばどんなに素敵だろう.

人生には刺激が必要だ.
刺激を求めていけば,そこには何かしらの緊張を伴う.
あがるのは当然.
人生の楽しみのひとつなのだ.
まぁ,私が人前に立つのは
単なる話好きということもあるのだけれど.

2007年11月5日月曜日

日本人の英語のプレゼンは

先週末は,リーガロイヤルホテル大阪で開かれた
電力に関する国際シンポジウムCIGREに参加してきた.

CIGREに参加するのは今回が初めてなので,
どのようなものなのかずいぶん楽しみにしていた.

内容は,電力会社,重電メーカ,
ケーブルメーカなどを中心とした
最近の技術情報の交換がメインで,
プラクティカルな技術に関する報告が
いろいろと行われていた.
私が聞いても興味深い内容も多く,
なかなか楽しむことができた.

しかし,日本人のプレゼンを見て,
少し考えるところがあった.

第1に,発表時に発表原稿を読むのはいかがなものかと思う.
以前このブログにも書いたけれど,
発表においては,聴衆とのコミュニケーションが大切である.
アイコンタクトや会場の雰囲気を感じることは
良いプレゼンを行うために欠かしてはならないことである.
発表原稿を読み上げるだけのプレゼンでは,
これらの要素を切り捨てることになる.

発表内容に正確を期するために
原稿を読むのはわかるのだけれど,
やはり会場受けはかなり悪い.
心配であるならば原稿を覚えるまで
練習をして発表に臨むべきである.

第2に,質疑応答がうまくいくように努力すべきである.
英語での質疑応答は,非常にストレスフルである.
だいたい質問は早口だし,
ネイティブなイングリッシュ・スピーカであるとは限らない.
だから発音もアクセントもまちまちで,
質問の内容を把握するのも一苦労である.
(おまけに壇上であがっているし)

しかし,それでも相手の質問を理解しようと
しなければならない.
何を言っているかわからなくて四苦八苦していても,
チェアマンや会場の誰かが手を貸してくれることもある.
(ときには日本語に訳してくれたりする)
まずはそこまで頑張らなければならない.

次に,簡潔にその質問に答える努力をすべきである.
「未検討です」
「考えがありません」
「あとで話し合いましょう」
などと即答するのは最低である.

発表者は,発表内容については
少なくても会場の誰よりも詳しいはずである.
自信をもって発表内容については説明すればよい.
意見を求められたときには,
意見を堂々と述べればよい.
多少偏った意見でも,質疑応答の場では
言った者勝ちである(ちょっと言い過ぎかな)

第3に,自分の話す内容の論理・ストーリーを
はっきりさせるべきである.
日本人の発表は自分で行ったことを
すべて紹介するようなものがあったりする.
聴衆はどこに議論が向かっているのかわかりづらくなる.
論理性を明瞭に示すべきであると思う.
AだからB,BだからC,
したがって,AならばC,のような三段論法でOKなのだ.
逆に論理性が不十分であれば反論も当然起こる.

残念ながら論理性が不明瞭なために,
一体なにが言いたかったのかわからないプレゼンもある.
結論は何なのか.
それを説明するために,明瞭な論理構成とデータを示すことが
特に海外の会議におけるプレゼンには重要なのだ.

さらに論理性がはっきりしていれば,
多少英語に難があったとしても相手には理解してもらえる.
質疑応答であってもデータと仮説から導き出される結論について
英語は下手であっても丁寧に説明していけば,
とりあえずわかってもらえるのである.

ただし,この論理性という問題,
英語のプレゼンだけに限る問題ではない.
日本語においても全く同じことがいえる.
海外ではこうした論理の進め方に関する授業が存在する.
あるいは論文の書き方に関する講義がある.
残念ながら日本においてはこうした講義の必要性が
十分に認識されていないようである.
しかし,訓練されていないのだから仕方がない,
では済まないのである.
自分の弱点を認識したら,それを克服するよう努力をしよう.

その他,Breakのときに,ある大学の先生が
「英語の発音が良いと,おっ,聴こうかな,って思うよね」
とおっしゃっていた.
確かにその通り.そうなればかっこがいい.
しかし,それ以前の問題が山積しているのである.

ただ,ここで述べたことは残念ながら私にも反省すべき点が多い.
まさに「自分のことは棚にあげて」という話だ.
しかし,そうだからといって避けてはいられない.
これからも修行である.

2007年11月2日金曜日

モーツァルトは悪魔か

このブログの話題は,どうも堅苦しいものか,
学生への愚痴ばかりになりがちなので,
今日は珍しく音楽の話を.

私は音楽マニアではないけれど
音楽愛好家ではあると思っている.
どんなジャンルの音楽でも聴くけれど,
クラシックを聴く機会が多い.

先日も車を運転しているとNHKのFMから,
モーツァルトが聞こえてきた.

セレナーデ 第13番 ト長調 K.525

Eine kleine Nachtmusikの愛称で知られる
モーツァルト作曲の中でも最も有名なものだ.

実は私は有名曲というのは苦手である.
何度も聴いているために,新鮮味がなくあまり感動がない.
だから自分から進んで聴こうとは思わない.

たとえばベートーベンの運命とか
ブラームスの交響曲1番などは
聴くのは年に2,3度くらいのものである.
チャイコフスキーの交響曲5番などは
もう2~3年は聴いていないような気がする.

ということで,このモーツァルトの曲も,
ラジオから聞こえてこなければ,
耳にすることはなかったものである.

演奏は現代風の速いテンポで,
聴いていて気持ち良くはあまりならなかったけれど,
新鮮味が感じられて,聴き通すことができた.
(途中で嫌になる演奏も多い)

そこでこの曲を改めて聴いてみて思ったのは,
やはりモーツァルトはすごいということ.
こんな気楽そうな曲であっても,明るさの裏に
そこはかとなく悲しさやはかなさというものが感じられる.
まぁ,これは私だけが言っているのではないのだけれど,
本当にそう思う.
若い時にこれがかけたモーツァルトというのは
やはりずいぶんな才の持ち主なのだと感じる.

小林秀雄の「モオツァルト」に紹介されていた話だけれど,
(元ネタはロマン・ロランだったかな)
ゲーテは,それも晩年のゲーテは,
モーツァルトの曲は悪魔が姿を借りて書いていたに違いない,
と思っていたそうである.
それほど人間技ではない完成度と思っていたらしい.

確かに悪魔だったら書ける気がする...

しかし,モーツァルトというのは幼いころから見世物扱いされていて,
大きくなってからは(見世物としての価値がなくなって)
ずいぶんとつらい思いをしたらしいから,
そうした悲しい思いを隠して作曲をしていたと思うと
このような透明な悲しみを感じさせる曲を書いたとしても
おかしくはないような気がする.
十分に苦渋の人生を送っているのだ.

モーツァルトでは他にもいろいろ名曲があるのだけれど,
最近よく聴くのは,クラリネット五重奏曲かクラリネット協奏曲.
クラリネットの音色が秋に良く合う.

(追記)
久しぶりに,小林秀雄の「モオツァルト」を読んだら,
ゲーテの話のネタは,エッケルマンだった.
ここに訂正しておく.(2007.11.19)

2007年11月1日木曜日

二分法の思考からの脱却

どうも世の中,簡単なものいいが要求される.
ある物事をなるべく正確に伝えようとして,
多面的にいろいろと説明する.
そして,聞いてくれた人は最後にこんなことをいう.

「で,一言でいうとどうなんですか」

う~ん,参ったという感じである.
一言で言えないから,さまざまな言葉を尽くして
説明するというのに.
結局,その物事の複雑さ(それは往々にして魅力なのだが)を
わかってくれない.

自分の説明が悪いのだろうかとも思うのだが,
世の中にあふれるメディアからの情報は,
そう言われてみると,
どうも単純化の一途をたどっているような気がする.
複雑な思考を避けようとしているような風潮がある.

最近の”お笑いを見ていても,
短時間で笑うことができる音と形で表現したものが多い.
そんなに今の人は単純思考を好むのだろうか.

また議論もすべからく二分法で考えようとする.
賛成か,反対か.
許容か,拒否か.
善か悪か.
好きか嫌いか.
これではデジタルの0か1かと同じになってしまう.
常に対立軸が意識される.
一体,中間はどこにあるのだろうか.

議論が複雑であればあるほど,
単純に白黒つけることができないのは
みんな重々わかっている.
だから複雑な問題なのだ.

しかし,その複雑さを引き受けようとする
覚悟がなくなってきているような気がする.
複雑さを引き受けるということは,
自分の中で混沌を引き受けるということである.
自分の中に多面的な考え方を
育んでいこうとするものである.

そうした考えかたの多様性を育てることこそが,
人生を豊かにするのではないかと思う.

ちょっと陳腐な言い回しだったので,
大人になるということではないかと思う,
と言い直そう.

とにかく物事を単純化し,
二分法で括らない.
そうした態度こそが大人ではないだろうか.

そうすれば過剰な反応はしなくて済む.
いまはメディアが議論を単純化しすぎるために,
対立が激しくなってしまうのではないか.
思考が単一化の方向へ向かい,
意見が合わなければ憎しみあい,
逆ならば過剰に仲間意識をもつ.

そして仲間外れにされないように,
その組織はわかりやすい価値観,思想が
支配するようになる.

どうもあんまり良くはない.

世の中は複雑なんだから,
複雑のままでいいんじゃないの.
私はそう開き直っている.
その方が自分の考え方も柔軟になるような気がする.

解があるとは限らないんだから,
無理に解を求める必要もないんじゃないの.
断言することは思考を止めることだし.

みんないい加減さを許さなくなったら,
この世の中,ずいぶん住みにくくなると思うのだけれど.