2007年11月19日月曜日

かたつむり,身体の軸

週末土日は,電気関係学会関西支部連合大会(神戸大学)に参加.
1セッションの座長を務める.

学会に参加した時の常で,
帰宅の途は反省の時間となる.
別に今回の座長の進行や
研究室の学生の発表に関する反省ではない.
日頃の私の研究生活の至らなさを,
他の研究者の発表を見て
いつも思い知らされるのである.

なぜあの発想に至らなかったのか?
なぜあのような水も漏らさぬような検討ができないのか?

確かにいろいろと理由はある.
しかし愚痴っていても始まらない.
研究をやる価値はある.
ならば「精神一到,何事か成らざらん」である.
躊躇している暇はない.

"かたつむり
富士に登らば登るべし
精神一統なにごとかならざらん"

とは,私の好きな山岡鉄舟の歌である.

さて,とはいえここしばらくずっと忙しかった.
デスクワークばかりで,身体を動かす時間がなかった.
こうなると,どうも身体の軸が歪んでくるような気がする.

身体の中の軸?
もちろん仮想的な軸である.
ある理想的な状態に身体が(実は心も)なっているときに
身体の中で「実感できる」軸なのである.

背骨とはちょっと違うような気がする.
たぶん身体の中を切ってみても,
その軸は認識されないだろう.
しかし,身体的感覚においてそれは実感できる.
身体の中を確かに貫く軸がある.

身体が理想的な状態にあるためには,
心が身体を動かす限り,
心も理想的な状態になければならない.
(そうでなければ身体は心の悪影響を受けてしまう)
この状態を私が稽古している武道においては,
「統一体」と呼んでいる.
この状態をもって日常生活万般にあたることが,
肝要であるとしている.

残念ながら,私も常にその状態ができているとは言えない.
そこで合氣道の稽古を通じて,
歪んだ軸を矯正する,
あるいは見失ったその軸を再確認するのだ.

今日は,いつもとは別の教室のお邪魔して
とにかく身体を動かそう.
汗をかけば,まずはストレスが激減する.

今日は師走並みに寒い.
道着だけでは道場は寒いだろうなぁと躊躇する.
しかしこの怠惰な心を切り捨てて,
今日は稽古に飛び込もう.
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあるだろう.
(ちょっと違う気もする)

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