2007年12月28日金曜日

20%からはじまる

今日で仕事納めである.
(一応.仕事が終われば)

今年一年の反省を少ししてみる.
というか,今年一年に限らないのだけれど,
ここ最近,自分の研究の時間が確保できていない.
この点を非常に反省すべきである.

いろいろな仕事にかまけて
研究時間が不足している.
来年は,なんとか研究時間を確保することが目標である.

とはいえ,仕事が減るわけではない.
ということは,時間確保のためには,
知的生産性を向上する必要がある.

生産性の向上というと,
このブログでもたびたび話題にしている
ライフハックがあげられる.
しかしライフハックは,どちらかというと
Tips的な内容となる.
もちろん,それはそれで大切で,
非常に効果が高いのだけれど,
もっとコンセプチュアルに生産性を上げる
努力をしていきたい.

有名な話に,グーグルの社員は20%の時間を
自分の研究のために使うのだという.
20%といえば,1週間を5日労働とすれば,
丸一日をそれに充てるということだ.
これはかなりの割合である.

とても20%とはいかないけれど,
なんとか1日2時間を自分の時間に充てるようにしようと思う.
努力するのではなく,そう決めて,
それに合わせて仕事を進めることにする.
そう,ここに決意する.

その他,
- 睡眠時間を6時間以上確保する
- 集中力をあげるために体力をつける
- 合氣道の稽古を欠かさない
- 散歩をする
- 読書を1ヵ月4冊を目標に進める

と仕事の生産性を上げるための努力をしていきたいと思う.

人間の能力は総合的なものである.
知的生産性を高めるためには,
健康で,体力をつけることが最も効率が良いと思う.
だから上記の目標をあげた.

まずはリソースの20%を自分のために使う.
この20%から来年を始めようと思っている.
なにか今年とは別の結果が生まれるだろうか.
実行あるのみである.

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今年はこれが最後のエントリーかもしれません.
仕事始めは1/4です.
次回更新は1/4の予定ですが,
もしかするとそれまでに不定期に更新するかもしれません.

それでは,みなさん,良いお年を.

2007年12月27日木曜日

物語の必要性

古来の哲人たちの中には,
自ら教えを著すことなく,
弟子たちやその後の追随者がその教えを
書物に残した場合が多くある.

不完全な言葉によって教えを説いても,
誤解が広がるだけと考えたからかもしれない.

そこで弟子たちは,師の教えを物語として残した.
この点が重要なのだと思う.

人は,人の言葉だけでは理解を
共有することができない.
田口ランディさんの著書に,
「人は人とわかりあえない,ということのみ
わかりあえる」といった意味の言葉があったが,
確かにそうかもしれないと思う.
所詮,違う脳,違う感覚器,違う身体をもつ
個体なのだ.
同じ考えをもつことなどありえない.
だから言葉だけで理解を共有することは本当に難しいだろう.

それでも教えを残す必要があった.
だから弟子たちは短い言葉で伝えることをしなかった.
その教えが説かれた背景,状況などを細かく,
そして時には脚色をして物語として伝えた.
より正確に教えを伝えるために.

たとえば,もしも電気工学がシンプルな4つの方程式,
すなわちマクスウェルの方程式だけで
理解しろ,といわれたらどうだろう.
(すみません,例えがぐっと専門的な話になって)

確かにこの世界の電磁現象は,
マクスウェルの4つの方程式だけで記述できるかもしれないが,
それで終わりというわけではない.
4つの方程式は,電磁気学のいうなれば"骨"であって,
さまざまな事象に現れる"血肉"が付いているわけではない.
しかし,この血肉こそが,電磁気学を面白くし,
私たちに学問の喜びを与えるものなのである.

だから私たちは電磁現象を理解するために,
さまざまな事象についてマクスウェルの方程式を適用する.
学生たちは理解のために,適用例,例題,演習問題を必要とする.
それで,現象の複雑さ,学問の面白さを理解する.

大切な教えの理解には,物語(ストーリー)を必要とする.
そこに含まれる意味が深ければ深いほど,
そこには精密なストーリーとそのバリエーションを必要とする.
それは,哲学であっても工学であっても変わらない.

2007年12月26日水曜日

まるで詰将棋のように緻密な論理で

昨日,今日と2日連続で
私は朝から夕方まで研究室の学生の
研究の中間発表を聴いている.
明日は午前中で終わる予定だけれど,
一日7時間くらいヒアリングしている.

研究室の学生は30人以上いるから,
全部の学生の研究の進捗状況をヒアリングをするのは,
結構しんどいのだ.
でもみんな頑張っている.
それで私も頑張って理解しようとするのだけれど,
正直夕方になるとフラフラである.

昨日,今日の学生諸君の発表を聴いて思ったのだけれど,
どうも相手に理解してもらおう,
説得しようとする努力が足りないのではないか.
それは基本的なスキルの不足なのかもしれないけれど,
もっと本質的な心がけの問題のような気がする.

プレゼンテーションでも,会話でも,
コミュニケーションの目的は,相手に理解してもらうこと,
あるいは説得することである.
それができていなければ,
そのコミュニケーションは失敗なのである.

まず自分の考えや研究の結論を,
相手が理解してくれるように資料を準備すること.
そうした資料の準備は,ちょうどチェスか
詰将棋のようなものだと思えばいい.

条件,証拠を示しながらあるシチュエーション
あるいは結論に相手を追い込む.
そのためには,ひとつひとつ障害をクリアしていく.
まるで城の外堀,中堀,内堀と順に埋めて,
本丸を攻めるようにである.

たとえば電気関係の発表であるならば,

自分の研究の目的,その分野における位置づけ,
研究の前提となっている条件,
検討したシステム構成,回路,パラメータ条件,
そしてそれらの妥当性.
シミュレーション条件,実験条件,
その結果の妥当性と評価,考察.
そして結論(最初に結論を持ってくるのもアリである).

なぜその結論に至ったかを説明するのに,
反駁の余地もないよう,
緻密に論理を構築する.
まるでエラリー・クイーンの推理小説のように.

弱点は素直に認める.
逆に指摘されたことについて意見交換や
議論をすることによってより建設的な結論を導く.
そして最後に,将来の計画を示す.

そうしたことができれば,まずは合格であろう.

いかにロジックを組み立て,マテリアルを集めるか.

自分がわかっていても
相手がわかってくれるかどうかはわからない.
たとえ指導教員であっても,
わからないものはわからないのだ.
やはり肝心なところを省略してはならない.

自分が他人になったつもりで,
自分の説明を聴いてみよう.
それで誰かを説得できるだろうか.
なにか不足していないだろうか.
自問してみよう.
(まぁ,これができれば一人前なのだけれど)

とにかくコミュニケーションの成否は
あくまでも相手にどのような影響を与えたか
という結果によってのみ決定する.
自己満足であってはならない.

もう一度,プレゼンテーションをする
意味を考えてみてはどうだろうか.



(と小言はいっても,さすがと思わせるところも
端々にみられた.君たちのポテンシャルは感じる.
あとは各自の精進あるのみ!)

2007年12月25日火曜日

ものいわぬ哲人たち

Merry Christmas!
みなさん,よいクリスマスをお過ごしですか?

私の家の子どもたちも今日は
イエス・キリストの誕生日だということを
なんとなく理解しているようだ.
とりあえず,ただプレゼントをもらえる日では
ないということはわかっているようで,
なぜか少し役割を果たした気になっている.
(私はキリスト教徒ではないのだけれど)

イエスの話で思いついたのだけれど,
聖書というのは,イエスの死後にその弟子たちによって
編纂されたものだという.
イエス自身がその教えを書いたものではない.
成立を追っていくと,もっとも古いのは
マルコ,マタイあたりではなかったかな.
とにかく何十年も経って書かれたものである.
(と,聖書研究ではされている)
それだけ長い間教えが伝えられてきたことが素晴らしい.

ブッダもそうである.
彼の言葉とされている書物も彼自身が書いたものではない.
数々の聖典,経典も彼らの弟子,
あるいはずっと後世の教団によって作成されたものである.
だからそのときどきの時代の思想が
反映されているといわれている.

孔子もそうだ.
彼自身が論語をまとめたわけではない.
やはり弟子たちである.
私の好きな王陽明の伝習録も
また弟子がまとめたものである.

そういえばソクラテスの弁明もプラトンの手による.
(裁判の記録なのだけど)
ソクラテス自身は自分の考えを著していないようだ.
プラトンの対話集として,彼の思想が残されている.

こうやってみてみると,古来の哲人たちは,
自分自身の手で書物をあらわすことをしなかった.

このことには,実は重要な意味があるように思われる.
すなわち,最も大切なことは言葉では伝えることができない,
という至極当然のことがここに示されている.
哲人たちは,不完全な言葉により
教えが誤って伝わることを恐れたのだろう.

そして,弟子たちも,それを伝えるために,
言葉ではなくストーリーを必要とした.
何かを正確に伝えようとすると,
それは,どうしてもストーリーが必要になる.
ちょうど科学技術論文で論理を展開するように.

しかし,ある人(人間ではない人もいるけど)の教えが
何十年間,何百年間と伝わり,
それが時代を経た人たちに編纂されるって,
本当に奇跡的なことではないだろうか.

何十年,何百年後に読まれるもの.
20世紀にそうしたものがあるとしたら,
それはアインシュタインの論文などなのだろうか,と
思ったりもする.

この21世紀に偉大な哲人は現れるのだろうか.

2007年12月21日金曜日

先入観を越えて説明する

昨日は,魅力ある大学院教育イニシアチブ
先端通信エキスパート養成プログラムの
一環として行われたコミュニケーションスキルに関する
講習会に参加した.

都合によりすべてに参加することは
できなかったのだけれど,
最初の「説明力」を磨く演習には参加することができた.

演習課題は,配られた紙に書かれた複雑な図形を,
言葉だけでいかに正確に,限られた時間内で説明し,
他の人に描いてもらうか,というもの.
グループに分かれ,ゲーム形式で
何人の人が正確に図を描けていたかを得点として
競い合う.

参加している学生は工学系なので,
座標や幾何学的知識を駆使して,
説明に工夫をして説明していた.
思いのほか,複雑な図形も正確に
他人に伝えることができており,
驚いたほどである.

しかし,こうした説明を聴いていると,
まだまだ不十分であると感じた.
他人が描く姿をはっきりとイメージできていない.
自分が図形を描くとしたら,
形,位置や大きさ,色などを
どの順番で思う浮かべていくだろうか.
位置だけ先に説明されても,
何を描くかを知らされていなければ,
人間は何も思い浮かべることができない.
そこら辺が理解できているか,
イメージできているかが,
勝敗を決めていたように思う.

こうした説明において,
大きな障害の一つが先入観である.
(この点について講師であるI先生も
強調して教えておられた)
今回の演習であれば,
自分はすでに図形を見て知っている.
だから,自分にとって当り前のことについて
説明を省きやすくなってしまう.

もちろん,今回の演習だけに言えることではない.
人に説明するときは,
常にこうした先入観を排するような
工夫をしなければならない.

特に,学会や論文などによる発表では,
ついつい自分の中では自明であることを,
説明し忘れてしまう.
その結果,一番肝心なことが聴衆に,
あるいは読者に伝わっていない,という結果に
終わってしまうこともよく見受けられる.

自分にとっての常識が,
他の人にとっても自明であることとは
限らないのである.

私も昔国際学会で失敗したことがある.
ランク分けを丸,バツ,三角の記号で表したのだけれど,
後で,それぞれの記号はどういう意味だったのかと
尋ねられた.
丸が優れている,というのは,
世界のどの国でも通用する概念ではなかったのだ.
そのときは,このことを思い知って,
非常に落ち込んだものである.

ということで,今回の講習も
こうしたことに改めて気づく
良い機会となった.

参加した学生たちも何かを得てくれていたとしたらうれしい.

2007年12月20日木曜日

サンタのプレゼント希望はテルミン

昨日は電気系教職員の懇親会があり,
夕方は飲んでいた.
これで二日連続である.
今週は,あと土曜日まで毎日が飲み会なのである.
五日連続.
二日目だというのにこの疲れである.
自分の老いを感じざるを得ない.
(もうずいぶん前から感じているけど)

昨日,懇親会に出席するために参加できなかったのだけれど,
吹田キャンパス内の別会場では,
「テルミンの夕べ」なる催しが開かれていた.
もしも懇親会がなければ必ず参加してであろうに.
残念至極である.

「テルミン」を知らない人もいるだろうから,
ここで説明しておくと,楽器なのである.
ロシアのテルミン博士が発明した世界初の電子楽器なのである.
昔,テルミン博士のドキュメンタリー映画もあったらしいから,
それをご覧になった方もいるかもしれない.

楽器といっても鍵盤も弦もない.
ただアンテナが2種類突き出ているだけである.
そして演奏者は楽器に触れない.
アンテナに手を近付けたり遠ざけたりすることで,
音程と音量を調節するのだ.

非常に不思議な音がする.
SF映画や怪奇映画の効果音にもってこい.

しかし,もちろんちゃんと演奏もできる.
テルミンのソナタがあるかどうかは知らないが,
協奏曲はあるのだという.
(その演奏法は非常に難しいとのこと)

私はメシアンの交響曲で使用されている電子楽器が
テルミンだとばかり思って勘違いしていたので知っていた.
(メシアンの方はオンドマルトノが正解)

しかし,なんとか演奏してみたいと思っていたら,
実は最近の「大人の科学」という雑誌の付録で
ミニ・テルミンがついていた.
欲しい.
そういったら,うちの奥さんに直ちに却下されてしまった.
う~ん,でも欲しい.

私にもサンタクロースが来てくれないかと
切に思ったりする.

2007年12月19日水曜日

考えることを要求する工学

昨日,ある企業の方とお話しする機会があった.
エネルギーに関わる企業の方たちで,
最近のエネルギー問題,CO2排出問題など,
いろいろな話題が出た.

まず,研究者・技術者がこうした問題に対して
何ができるかということ.
電力蓄積技術や省エネ技術の開発など,
人類がとりうるオプションの幅を広げることが,
研究者・技術者の役割と私は考えているが,
最近,その限界も感じ始めている.

もちろん鋭意努力することには,
なんのためらいもないけれど,
インバータの効率が1%上がったところで,
世界ではどれだけのCO2が低減できるのだろうか.
インバータ化率の高い日本であれば,
原発数基くらいの省電力になるのかもしれないが,
インバータ化が進んでいない国がほとんどを占める
世界を考えると,その効果は限定的になるのだろうと思う.

では,世界を救うためにはどうすればよいのか.

世界を救うのは研究者・技術者ではなく,
偉大な政治家,哲学者,宗教家なのかもしれないとも思う.

だが研究者・技術者としても,
もっとやるべきことはあるのではないかと思う.
情報発信と選択肢の提供だけではなく,
もっと人々の生活に影響を与えるような
ソフトあるいはハードの開発ができないものか.
人々が便利に・安全に暮らすためだけの技術だけでなく,
もっと人々に考えることを要求するようなことが
できないものであろうか.

ちょっと危険な感じもするけれど,
もう少し工学の可能性について考えてみてはどうだろうか.

とはいえ,現状できることは目の前の研究開発である.
たとえその研究者としての努力が
"ハチドリの一滴"だとしても,
やはりやらなければならない.
そのことは重々承知しているのだけれど.

2007年12月18日火曜日

心をゆたに

昼食を食べる暇も無いくらいに忙しい.
(いつも昼食を食べつつ
ブログ記事を書いているのだけれど)
師走とはよくいったもの,
本当に忙しい.

こうした加速する忙しさの中で思い出す歌がある.

事にふれ 身はいかさまに くだくとも
心はゆたに なすよしもがな


これは,これは、昭憲皇太后、
すなわち明治天皇の皇后の御歌である。
以前,明治神宮を参拝した際にひいたおみくじに
書かれていた歌なのである.
明治神宮のおみくじには,
明治天皇と皇后の歌が書かれているらしい.

"心をゆたに"
この言葉を思い出して,そっと肩の力を抜く.

忙しくなると,心の中の空白が無くなっていく.
気持ちに余裕は無くなるし,
良いアイデアも浮かばなくなってくる.

心を動かすためには空白が必要なのだ.
タイルパズルと同じだ.
何かを動かすためには,
まず何かを動かして
スペースを作らなければならない.

"心をゆたに"
まず何かを動かす.
そうすれば次が動くのだ.

2007年12月17日月曜日

選択のルールと自由

私も(少し前に)40歳になった.
「不惑」の歳である.

もちろん,全然「惑わず」などということはなく,
今も人生を迷い続けているわけだが,
これまでいくつかの岐路に立ったとき,
どちらを選ぶか,ことに関しては,
ひとつのルールがある.それは,

「難しい方を選ぶ」

ということである.
簡単なことと難しいことがあったら,
難しい方を選べ,ということである.

これは,学生時代の恩師S先生から
伺った言葉だったかもしれない.
難しい方を選べば,あとで後悔が少なくなる.

「若者は安全株を買ってはいけない」

という言葉もどこかで読んだ覚えがある.
私は既に若者でなくなってずいぶん経つけれど,
いまだにこの言葉を選択のよりどころとしている.

なぜ突然こんな話を書いたかというと,
最近,村上春樹の「東京奇譚集」が文庫化されたので,
購入して読み終えたのである.
その中の「偶然の旅人」という短編の中で主人公が
どうしたらいいのかわからなくなってしまったときに
しがみつくルールとして,

「かたちあるものと、かたちのないものと、
どちらかをえらばなくちゃならないとしたら、
かたちのないものを選べ」


と話す箇所が妙に心に残ったのだ.

人生は選択の連続である.
映画「マトリックス」でも選択(Choice)の重要性が
繰り返し表現されている.

行くに易い道を選ぶこともできるし,
長く険しい道を選ぶこともできる.
いずれにしろ,どちらの道を選ぶのかを決定するまでは,
その自由は自分のうちにある.
それって,ずいぶん素晴らしいことなのではないかと
最近あらためて思う.
大人になるということは,
この自由を手に入れるということなのかもしれない.

選択に迷うときは,本当に困ってしまうのだけれど,
それは私がもつ自由の表れのひとつなのである.
ただ,そう思えるのは,
その選択を終えてしばらく経ってのことで,
悩んでいるときにはそんな余裕はない.

これからもずっと人生の選択は続き,
優柔不断は私は悩み続けるのだと観念している.
「不惑」の40歳を過ぎても,それは変わらない.

2007年12月14日金曜日

泉岳寺詣でと忠臣蔵

今日は12月14日.
忠臣蔵討ち入りの日とされている.
(もちろん,本来は旧暦なのだけれど)

大学時代,私が所属していた研究室では,
なぜかこの日になると,
赤穂浪士の墓所がある東京高輪の泉岳寺に詣でて,
その後ボーリング大会,飲み会,と進む行事があった.
なぜこの行事が始まったのか,よくわからない.
たぶんS先生の思いつきが始まりだったのだろうと思う.

この日の泉岳寺は大変な混雑となる.
そして線香の煙で境内は真っ白だ.
ゴツゴツ人にぶつかりながらゆっくりと境内・墓所をめぐり,
外へ出てくるとコートが線香臭くなっている.
そうした思い出だけが残っている.

忠臣蔵といわれても正直あまりピンとこない.
NHKの大河ドラマも見ていなかったし,
これまでにそれを題材にした映画も見たことがない.
(なぜか忠臣蔵と言えば流れるあの有名な音楽だけは
すぐに思い出すことができるのだけれど)

暗号で「山」,「川」と合言葉を使ったとされるのだったっけ.
山鹿流陣太鼓が聞こえて討ち入りを知るというくだりも脚色だとか,
四谷怪談も忠臣蔵からみの話だとか,
そうした要らぬ知識はあるけれど,実際どうだったのかがよくわからない.
今度勉強してみようかは思っている.
しかし,その悲しい結末を知っているために,
どうも気が進まないのが正直なところである.

とはいえ,実は,私はNHKラジオで浪曲をたまに聞くのだけれど,
忠臣蔵をテーマにしたものは,やはり面白い.
昔から日本で人気があるのもうなづける.
まずは,堀部安兵衛あたりから手をつけてみようかな.
高田馬場の決闘なんて,面白そうだし.

2007年12月13日木曜日

管理するプロジェクトで忘れてはいけないこと

昨日は,紫翠会の例会とその忘年会に出席する.
紫翠会というのは,関西の大学と企業の情報交換を目的として
開催されている研究会で,昨日は第811回目の例会であった.

ほぼ毎月の開催だから,1年で11回.
すなわち70年以上の歴史があるということだ.
昭和6年から始まって,戦時中も休むことなく継続されているという
非常に歴史ある会なのである.
(唯一,休会となったのは5.15事件(いや,2.26事件だったかな?)
のときだけだということである)

昨日の講演は,会社内の情報セキュリティマネジメントに関するものだった.
印象に残ったことが2つあった.

ひとつは,管理するために決定されたことを
100%実行するためには,時間がかかるといこと.

これは,情報漏洩防止のために各人のPCについて,
チェックを行うことを管理する部署が定めた.
しかし,これをすべての社員が実行するまでに
非常に時間がかかったのだという.
ただし,9割の社員の実行を確認するまでには,
さほど時間はかからなかったのだという.
残りの1割(病欠とか海外派遣などの事情も含めて)の
社員において実行を確認するまでに,
なんと1年を要したのだという.
100%の完全実行がどれだけ難しいかということを示している.
よく簡単に「徹底する」というが,
その遂行に関わる困難性は想像をはるかに越える.

ふたつめに印象に残ったことは,
管理するルールを決める際に
「守れるルールを作る」ということを念頭において
作成された言う話.
作ったルールを守るということは当然なのだが,
ルールは作っても守られないことが多い.
それは,ルールが最初から守られないように
作られているからに他ならない.

誰もが守るルールとは,
守るという行動を起こすためのハードルが低いということであり,
そうした行動においても効果が十分に得られるような
ルールを作成する,ということが
最も重要であるということではないだろうか.

昨日のこの二つの話は,
何かを管理するということについて
重要な示唆を与えている.
忘れないようにしたいものである.

2007年12月12日水曜日

時間の長さではなく物事の濃密さが

長い月日も回数で考えると
ぐっと短く感じられるという話を
昨日書いた.

こう考えると,大学の講義などは
半年の開講期間ではあるけれど,
講義数で数えれば,たった14回でしかない.
(試験を含めれば15回)

私のような先生と半年間付き合うと思うと,
ゲンナリする学生もいると思うが,
回数で言えば14回.
なんとか我慢して講義に
出席してきて欲しいものである.

しかし,少ない講義回数においても,
強烈な印象を残す先生もいらっしゃる.
そう考えて,私がすぐに思い出すのは,
大学時代の江頭淳夫先生である.

江頭淳夫先生は,「江藤淳」という文芸評論家であり,
当時,東京工業大学で
「日本文学概論」(うろ覚え)という講義を担当されていた.

内容は,「雨月物語」などをテキストに,
日本文学の歴史と成り立ちなどに関する講義だった.
朗々と語られる解釈はとても素晴らしく,私などは
これをきっかけに初めて古典を
生々しい感触を持って読むことができるようになった.

加えて講義の合間の雑談がとてつもなく面白かった.
辛口の文芸評論家らしく,歯に衣着せぬ批評を
火を噴くようにして語られていた.

例えば,島崎藤村の「夜明け前」などは
全く時代考証がなっておらず,
あんなのは文学とはいえない,だとか,
当時連載されていた井上靖の「孔子」については,
井上もあんなのを書くようになってはおしまいだ,
みたいなことを平気でおっしゃっていた.

私は実は,先生が著名な文芸評論家であることを
講義を受けている頃は全く知らなかったので,
この先生は,恐れも知らぬ意見を言う人だと,
本当に驚いたものである.

江頭先生の講義は,こうしたエピソードもあってか,
先生のかくしゃくとした姿勢とともに
今でもときどき思い出す.

考えてみれば,江頭先生の講義も
14回に満たなかったに違いない.
それでも先生の講義は覚えている.

やはり大事なのは時間の長さではない.
それぞれの物事の濃密さが,
心に深く足跡を残すのだ.

2007年12月11日火曜日

月日を回数で考える

時間の経過というものは,わかっているようで,
なかなか実感できていないのではないだろうか.

特に,数か月,数年,何十年という時間の流れを思うとき,
それが自分にとってどれだけの意味をもつのか,
そうしたことに思いを巡らすことは難しい.

今年も年末の帰省のための切符を取った.
故郷の両親に会うためである.
両親といっても,40歳を越えた息子がいるくらいだから,
もう60歳半ばをとうに過ぎている.
親不孝な私は1年に一回くらいしか帰省しない.

そこで以前ふと考えてみた.
年に一回しか帰省しないとすると,
あと20年両親が生きていたとしても,
両親に会える回数はたった20回である.
たとえ年に2回帰省したとしても
たかだか40回しか会うことができない.

高校時代までは一緒に暮らしていたのだから,
毎日顔を合わせていた.
その回数は本当に生きてきた日数分だけあるだろう.
しかし,大学に進学し故郷を離れてから,
一体何回両親と会っただろうか.

故郷を離れてから既に22年が過ぎようとしているが,
両親に会った回数はたぶん50回程度ではないだろうか.
自分が過ごしてきた20年以上の年月に比べて,
あまりに少ない気がする.
こう考えると自然と帰省の機会が貴重なものに思えてくる.

定期的に会うことができる人には,
次も会えるという安心感を持ってしまう.
もちろんそれが普通で,毎回涙の別れというわけにもいかない.
しかし本当は,「次」は無いのかも知れないのである.

次も会うことができると期待して別れるが,
未来は,そうはならないかもしれない.

「さようなら」の語源は
「左様であるならば」であるという(諸説あり).

これは江戸時代のように今よりもずっと不確定性が高かった時代では,
次に会えるかどうかはわからなかった.そこで,

「次会えるかどうかもわかりませんが,
左様であるならば,またお会いしましょう」

という意味も含まれていたのだという.
(先日,NHK教育ラジオの講座で聞いた話)

次があるかどうかもわからない.
そして,次があったとしても,
回数で数えれば,長い年月もぐっと短く貴重に感じられる.

時間の積分の大きさが重要なのではない.
そこに離散的に含まれたイベントの回数が大切なのだ.

2007年12月10日月曜日

卒業生の成長に驚く

金曜日には,研究室の卒業生が遊びに来た.
リクルート活動かと尋ねると,そうでもないという.
それでもいろいろと就職の話をしていく.
そうした時期が既に始まっている.

彼は着慣れないスーツを着ていたけれど
(会社でもスーツはあまり着ていないらしい)
そしてちょっと見,全然変わっていないように見えたけど,
ちょっと話しただけで,彼の成長ぶりは良く分かった.
相手の論点を即時に理解し,適切な回答を行う.
うむ,うむ.職場で鍛えられているな,と感心する.

彼は,意識的にそうした能力を磨こうと
していたわけではないのかもしれない.
しかし,職場の人たちとコミュニケーションをとることによって
(それはほとんど目上の人とのものになるだろう)
彼は無意識的ではあるかもしれないが,
そうした能力を獲得してきたと思われる.

現代の仕事はほとんどがグループで行われる.
コミュニケーション力なくして仕事はできない.
ジェネレーションギャップがあったとしても,
相手の意図することを理解し,その先に行動する.
こうしたことができてこそ「社会人としての大人」なのである.

学生時代,少し彼に感じた頼りなさは影をひそめ,
地に足がついている感じがする.
こうした印象が彼に今後もプラスに働いていくだろうことは,
容易に想像できる.
この獲得した能力は隠すことはできない.
敏感な人には,すぐに察知されるのである.

しかし,環境が変わるということの大きさを改めて知る.
適応力にすぐれた若者は,別人のように成長を遂げる.
まさに,「男子三日会わざれば刮目して見よ」である.

教育とは,そうした環境を整えることこそが
目的なのかもしれない,とも思う.

2007年12月7日金曜日

知識がある方が楽しめる

今朝,通勤途中に車のラジオをつけると,
ベートーベンの交響曲第9番の第3楽章が流れていた.
あぁ,もうすっかり世の中は歳末シーズンである.
(昨日は山下達郎の「クリスマス・イブ」で
クリスマスシーズンを実感していたのだけれど)

良く知られる話だけれど,
年末にこれだけ第九を演奏するのは
世界でも日本だけである.
ヨーロッパなどでは,本当に聴く機会が少ない
あるいは特別な時にしか演奏されない曲なのだという.
なぜって,合唱団も入れた大所帯で
演奏しなければならないから.

なぜ第九が年末に演奏されるようになったのかという話も有名で,
あるオーケストラ(現在のN響)が年越しのモチ代を稼ぐために,
演奏への参加人数も多く(チケットが多く売れる),
人入りが良かったこの曲を年末の題目にしたのだということである.
(確か私の記憶では,このころのN響のコンマスは黒柳徹子さんの
お父さんだったと,黒柳さんが話されていた)

以来,年末に第九を演奏するオケが多くなり,
私が東京に住んでいたころは,在京オケが十数個もあったので,
12月になると,プロ・アマ合わせて東京近郊では,
毎日のように第九がどこかで演奏されている状態であった.

規模も大きくなり,1万人の第九なんて企画ももう何年も続いている.
第九を聴くならば規模が大きい日本が一番いい,
という話もあるくらいである.

というわけで,車内で天上の音楽とも言われる
緩徐楽章に耳を澄ましていて思ったのが,
あぁ,私も楽譜が読めたらなぁ,ということである.
楽譜が読めたら,もっと面白く聴けるだろうと思う.

どこで,どんな工夫がしてあるのか,
ベートーベンの意図はどのようなものだったのか,
演奏者はなにを意図しているのか,
などがわかるようになったら,どんなに素敵だろう.

何かをより楽しむためには知識があった方がいい.
武道の演武においてもそうである.
どういう意味がその技・動作に含まれているのか,
やはりバックグラウンドとなる知識がなければ,
理解することは難しい.

研究においてもそうである.
学会の発表を聞いていても,
その発表の裏にある技術,苦労を推測できる方が,
いろいろと勉強になる.

知識が,面白さ・興味を倍増させてくれるのだ.

確かに音楽などは,細かい知識がなくても十分楽しめる.
あるいは先入観がある方がむしろ悪いということもある.
しかし,それでも本当の楽しみを知るためには,
やはり勉強が必要なのだろうと私は思う.
知識がある方が,楽しみが深みを増す.

放送されていた第九は,第4楽章で
異常な加速をして,オケもついてこれない演奏だった.
フルトベングラー・バイロイト祝祭管弦楽団による
至高の第九と呼ばれる演奏であった.

曲が終わったあと溜息をつく.
この演奏は聴くとちょっと疲れる.
私のお気に入りの演奏は,
セル・クリーブランド管の録音だったりする.

2007年12月6日木曜日

神戸ルミナリエは省エネに役立っている?

今朝,通勤途中の車の中で,
山下達郎の「クリスマス・イブ」をラジオで聴いた.
神戸では,ルミナリエも始まったという.
あぁ,もうすっかり世の中はクリスマス・シーズンである.

我が家でも小さな小さなクリスマスツリーを飾った.
ピカピカと点滅する電球をみて,
その消費電力を思う(笑).

ニュースで聞いた話だけれど,
パリでシャンゼリゼ通りのライトアップが始まったけれど,
今年はすべてリニューアル.
照明の数は2倍に増やしたのだけれど,
消費電力は30%減ったのだという.
その理由はLEDの採用.
LEDの消費電力は(同じ光量を得るという条件で)
白熱球に比べ,約1/10.
寿命はほぼ半永久的だから,
多少初期コストがかかっても,
十分にペイできるということだろう.

LEDは今後も用途が拡大していくだろう.
信号も,車のバックライトもずいぶんとLED化された.
ここで青色ダイオードの発明の素晴らしさを思う.
ダイオードに光の三原色が揃い,その用途は一気に広がった.
その省エネ効果と寿命の長さを考えると,
やはりノーベル賞並の発明なのだろうと思う.

さて,神戸ルミナリエはどうだろう.
残念ながら照明がLEDだという話は聞かない.
おそらく相当量の電力を消費しているのだろう.
電力会社が別途,一時的な回線を引いているとも聞いている.
しかし,その開催される意味を考えたら,
そんな消費電力などの問題について
あれこれいうのは野暮な話なのだろう.

今年の電気関連学会 関西支部大会の懇親会で
照明学会の会長のあいさつで,こんな話があった.

「ルミナリエの照明について電力うんぬんと
苦情を言われる方も多い.
確かに,電力的には問題がある.
しかし,ルミナリエは200万人もの方が
足を運んでくださる催しなのです.

そしてこう考えてはいかがでしょうか.
その200万人の人がルミナリエに来ていた時間は,
家庭内の電灯は消えている.
つまり省エネになっているということです」

もちろん,ちょっとした笑い話になっているわけだが,
ひょっとしたら,本当にその効果はあるかもしれない,と
思わせるところが,さすが学会会長である.

そんなことを考えながら(いやすっかり忘れて),
ぜひあの光の下を歩いてみたいものである.
(実は,一度も行ったことがない)

2007年12月5日水曜日

次世代パワー半導体素子が開くパワエレの未来

昨日は,東京 品川で開かれた
パワー半導体素子に関するセミナーに参加してきた.

参加費がそこそこ高かったので,
参加者が200名以上いたことに驚いた.
パワー半導体素子への業界の関心は高いのだ.

パワー半導体素子というのは,
情報通信などに用いられる半導体とは異なり,
主に電力の制御,すなわちモータ駆動や家電の電源,
電力系統への応用などに用いられる
制御可能なパワー(電力)が大きい素子である.

素子としては,パワートランジスタ,サイリスタ,
MOSFET,GTO,IGBT,IGCT,IEGTなどがある.
この応用を研究するのがパワーエレクトロニクス(パワエレ)であり,
私もこの分野に従事している.

パワエレ機器は,
電力を交流から直流に変換したり,
電圧や電流の大きさを制御したり,
周波数を変換したりする.

直流から交流に変換する回路をインバータといい,
電力をうまく制御し電気機器や回路の効率を向上させることから
省エネには不可欠の技術である.
もちろんCO2削減にも大いに役立つ.
例えば,太陽光発電や風力発電,燃料電池など
新エネルギーだってパワエレ技術がなければ
うまく使うことはできないのだ.

皆さんの身近にある携帯電話の充電器や
ノートPCのアダプタなども交流から低圧の直流に変換する
パワエレ機器なのである(ちょっと見,黒い箱でしかないけど).

エアコン,IHクッキングヒータ,掃除機,冷蔵庫,
炊飯器,蛍光灯,テレビなど,
とにかくありとあらゆる家電に使用されている.
もちろん電気鉄道もそうだし,最近では自動車にも
非常に多くのパワエレ機器が積まれている.
私たちの生活はパワエレ機器なくしては成り立たないところまで来ている.

だから市場としても大変魅力的で,
自動車分野のパワエレの需要が10%/年程度の
高成長率で伸びているのは当然として,
それを上回る民生分野(つまり家電など)の成長率が
その用途の裾野の広さを示している.
これらの市場をメーカは見逃すはずはないのだ.

パワエレの歴史はまだ短いが
(トランジスタが発明されて60年も経っていない!),
ここまで世界に普及し,非常に多くの研究がなされてきた.
まだまだ研究することは山ほどある.

しかし,残念なことに効率向上という面では,
なかなか革新的な技術が開発されていないという現状がある.
それは基本的には回路の効率が,使用される素子の性能によって
決まってしまうというところに問題がある.
特に使用するパワー半導体素子の損失の大きさや,
スイッチングするときの周波数など,
素子の性能によって効率が制限されているのだ.

現在,パワー半導体素子はシリコンSiを用いた素子が大部分である.
しかし,その性能はSiの物性から予測される限界値に
すでに達しようとしている.
そこで,新しい材料を用いた素子に注目が集まっているのだ.

昨日のセミナーでもSiCやGaNといった次世代素子の話題が多かった.
もしこれらの素子が実現されれば,
変換器(回路)のエネルギー変換効率は99%に
肉薄するだろうと言われている.
そしてそれらの素子が低価格となり,普及するようになったら
またパワエレの世界は変わるのは間違いない.

電気機器はさらに小さく,制御はさらに高速に,
そして損失はほとんどないような回路が実現されるにちがいない.
もしインバータの効率が1%も向上したら,
この日本にあるインバータの数,容量を考えれば,
すぐに原発何基分かの電力が節約できることが計算できるだろう.
それほどインパクトがある話なのだ.

SiC素子などはかなり実用が近い段階まで
来ているように感じられた.
一方で,省エネ・CO2削減という観点から
パワエレ技術への期待も高まっている.
次世代パワー半導体素子が
次の技術革命を起こすのもそう遠くはないと感じている.

2007年12月3日月曜日

12/4

不在です.

効率の良い計算機のプログラミングとは

先日は,プログラミングの大前提は
計算速度の向上とメモリの節約であるとの話を書いた.

しかし,現在のプログラミングはそれだけではいけない.
それよりも大事なもの.
それがメンテナンス性である.

すなわち,誰が見ても,そのプログラム構造が容易に理解でき,
変更が容易に行えるようにプログラミングは
されていなければならない.

あるクライアントに,ソフトウェアを納めることとする.
数年後,プログラムに変更の必要があったとき,
再び自分がその仕事を行うとは限らない.

自分の部下や後輩,
あるいは全く別の会社のプログラマーが
行うことになるかもしれない.
そのときにプログラムが理解できない,では
まずいのである.
あるいはバグが生じやすい複雑な構造は,
望ましくないのである.

そこで,見た目にも機能的にも美しいプログラムを
書く必要が出てくる.
すなわち,メンテナンス性の良さが一番
プログラミングに要求されるスキルとなってくる.

そこで,何十枚,何百枚にもおよぶ状態遷移フロー図や,
プログラム本文の何十倍の量にもなるコメント文が,
必要となってくるのだ.

だから昔とは当然プログラミングの手法は変わってきている.
例えば,メモリの割り当ても,現在のように十分に大きなメモリが
使用できるのであれば,複雑なアロケーションはせずに,
単純に割り当てる方が,ずっとシンプルなプログラムになる.

確かに,個人においてもこれらのスキルは不可欠である.
私が3か月前に作成したプログラムがあっても,
コメントなしにはとても理解することができない.
自分が書いたものでさえ,この状態なのである.
まして他人が書くプログラムにいたっては...

(最近私は,一週間後の私は別人だと思っている.
その別人である私に向けてメモを残すようにしている)

効率の良いプログラミングは,
メモリの節約や計算速度の向上から,
メンテナンスの容易さにずいぶんとシフトしてきている.
すなわち総合的な作業量が最小化されるように,
効率化されていく.

今後は,スーパーコンピュータなどの特殊な用途だけに
メモリと速度向上のスキルは特化していくのだろう.