2008年12月31日水曜日

紅白歌合戦

この数年,紅白歌合戦を大晦日に見ることができている.
これはひとえに,この時期新潟に帰省しているからに過ぎない.

学生時代は,私は東京に住んでいて,
蕎麦屋の親戚のところに年末は泊り込みで
手伝いに行っていた.
もちろん年越しそばのためである.
だから紅白歌合戦は,
店の客席のテレビに流れているのを少し見るか,
近所に出前に行ったときに,
家の玄関から聞こえてくるのを少し聞くくらいであった.
私は9年も大学にいたから,その間ほとんど
紅白歌合戦は見ていなかったことになる.

では,どうしても見たかったかと思うと,
やっぱりそうでもない.
見たからといってどうにかなるわけでもないし,
見なかったからといって年明けから話題に
ついていけないわけでもない.
ようするに,テレビがついているから見ているだけである.

この数年も全くその通りだ.
でも,大晦日のテレビ番組が面白くないから,
という消極的理由も大きいとも思う.
各テレビ局は紅白の裏番組ということで手を抜いているのだろうか.
他局にも見たいと思うものが少ない.
だから仕方なく見ているという人が意外に多いのではないかと思う.

ただ,紅白歌合戦はテレビというものについて考えさせる.
インターネットが普及して,
誰もがオンデマンドで番組を見る時代になって,
テレビの存在意義はどんどんと薄れている.
おのおの好きな時間に,ひとりでPCの画面を見つめている.
そんな光景が普通になりつつある.

そこで失われていくものは,
「共通体験」ということではないかと思う.
多くの人たちが同じ時間,同じ番組を
じっと目を凝らして見るという体験.
それは意外に大切なものなのではないか.
「あのとき,あれを見てた?」
「そうそう,私もあれを見ていたよ」
そんな会話が,他人との共通のバックグラウンドを
確認するのに大事じゃないかと思うのだ.

ジャイアンツの槙原が阪神のクリーンアップに
3連続バックスクリーンにホームランを打ちこまれたときのこと.
サッカーワールドカップ予選のドーハの悲劇.
高橋尚子がトップでテープを切ったオリンピック.

私の世代であれば,こうしたスポーツの
名場面というのがそれにあたる.
私のより前の世代であれば,
国民的ドラマやバラエティ番組となるのだろう.
そのときに同じ画面を見つめていた.
その体験が人と人との距離をぐっと近くする.
そしてやはり同時性というものが大切なのではないかと思う.
人間は時間を共有するということに
思いのほか重きを置く.
そしてテレビはそうした体験を人々に供給する重要な装置であった.

テレビを見なくなった若者は,
将来こうした話をしないのだろうか.
ネットの動画を見て,それで話が盛り上がるのだろうか.
それとも彼らはもうそうした「共通体験」は必要ないのだろうか.

紅白歌合戦は,かろうじて今もそうした共通体験を
提供する数少ない番組のひとつである.
そう考えてみるとこうして紅白歌合戦を見ることも
それなりに意味があるのではないかと思うのである.

みなさん,良いお年を.

結婚のススメ

新潟に帰省する前に,
予定していた年賀状を
一応すべて書き上げた.
年賀状を年内に書き上げるなんて,
ここ2,3年なかった快挙である.
思わずバンザイと叫んでしまう.
まぁ,ひとえにうちの奥さんの
叱咤激励によるものだのだけれど.

年賀状を書いていて思ったのは,
私の周囲には結構独身者が多いということ.
年若いのならば心配はしないのだけれど,
30代後半の男性が多くて,
他人のプライベートとはいえ,
ついつい気になってしまう.

彼らの中には,結婚はしたいのだけれど,
生活を変えることに不安があって
踏み切れない人も多いのではないかと想像する.
(もちろん彼女が本当にいない,という人も
いるのだろうけど...)
少し前に「結婚できない男」という
テレビドラマの傑作があったけれど,
一人暮らしの悠々自適さからみれば,
結婚生活の不自由さに気が引けるのも
わからないわけでもない.
確かに高額の買い物もできなくなるし,
ひとりふらりと映画を観にいくなんて
こともできなくなる.
子供ができれば,ひとりの週末なんて
到底望むことができない贅沢となる.

それでも私は言いたい.
結婚はやはりすべきだと思う.

しかし,結婚に過度の期待を抱くのは間違いだ.
以前読んだ河合隼雄と村上春樹の対談に,

「結婚は苦労をするためにするものであって,
決して幸せになるためにするものではない」


という河合の言葉を見つけて,全くその通り!と
思わずうなづいてしまった.

幸せになるために,と思って結婚するから
あとあと大変になるのだ.
他人と一緒に暮らすことになるのだから,
苦労が増えるのは当然のことである.
その苦労をすることに価値があるから,
それが人間の成長に大いに役に立つから,
人はわざわざ結婚をするのである.

確かに,家族を持つということの素晴らしさはある.
しかし,その素晴らしさは苦労を乗り越えるから
得られるものであって,最初から無償で
享受できるものではないと思う.
(私も結婚してまだ10年しか経っておらず
大きなことは言えないけれど.
...でも,言ってる?)

この苦労の覚悟を決めることが,
結婚をするということである.
ただし,私は「結婚は人生の墓場である」とか,
「年貢の納め時」とかいう言葉には同意できない.
むしろ「人生の出発点」である,といいたい.
独身のみなさんには,チャンスがあるならば
ぜひこのスタートラインに立って欲しいと思う.

こうしたことを言うのは,決して独身のみなさんを
この人生の長く険しい旅路に引き込もうなどという
不埒な思いからではなく(笑),
本心から,結婚の素晴らしさを
思うからであります.はい.

2008年12月30日火曜日

SMOKE

私は煙草を全く吸わない.
生まれてこの方,火のついた煙草を
くわえたことは一度もない.
(これについてはヘビースモーカーだった父に
深く感謝している)

もちろん仕事やプライベートでの付き合いでは
煙草を吸う人がいるので,
別にそれが嫌だとは思わないのだけれど,
煙草を吸う人は何が楽しいのかと実は心の中では思っている.

お金をつぎ込んでは,それがまさに煙となって消えていく.
それで残るものは,次の煙草への中毒と
自分の肺を始めとする内臓への害毒と
そして周囲の人たちの健康への甚大な影響である.

しかし,煙をくゆらす姿はどこか素敵だ.
映画のシーンで見ると,実にうまそうに吸っている.
またあの火をつけて口にくわえるまでの間が
人になにかを思わせる.
ついつい私も一本吸いたくなってしまう,
最近もそう思わせる映画を観た.

"SMOKE" (1995,Wayne Wang,日,独,米)

以前にも紹介したけれど,
これはポール・オースター

"オーギー・レンのクリスマス・ストーリー"

という短編をもとにいろいろな話を合わせて,
一本の映画にしたものである(彼は脚本も書いている).
恵比寿ガーデンシネマではロングランを続けたというが,
さもありなん,名画座で人気が出そうな
渋く,心温まる物語である.
(恵比寿ガーデンシネマ1周年記念で製作されたという)

劇的な展開はないけれど,
丁寧に描かれたいくつかの小さなエピソードを
積み重ねていく手法で映画は微妙に歩を進め,
人々に少しだけ変化が起きていく.
涙が出るような感動はないけれど,
観終わったあとじっと自分の中に残る暖かさを
大切にしたいような映画である.

内容については触れないけれど,
ハーヴェイ・カイテル演じるタバコ屋のオヤジが
とにかく魅力的だ.
あの顔でニヤリとされるとこちらの口元も思わず上がる.
彼がいなければこの映画の魅力の
80%は失われてしまうだろう.

またウィリアム・ハートの小説家ポールも素敵だ.
ポール・オースターは大の野球ファンで知られるが,
映画の中でもテレビの野球中継をわざわざ野球帽をかぶって
観戦するシーンがある.
本人もそうなのかなと想像してしまうところである.
また,この人の笑顔がいい.

そのほかにも魅力的な登場人物満載なのだけれど,
実はというか,やはりというか,大きな役割を与えられているのが
煙草,葉巻,そしてそれらの煙である.
登場人物は実にうまそうに吸っている.
煙草の先から立つ煙のゆらめき・はかなさが,
この映画のストーリーを暗示しているように思える.
あんな風にカッコよく吸えるのならば,
煙草も悪くないと思ってしまった.

クリスマスにもこの話を紹介したけれど,
クリスマスの話は最後にしか出てこず,
季節に関わらず楽しめるハートウォーミングな佳作である.
おススメの一本である.

#原文は確か村上春樹と柴田元幸による
「翻訳夜話」の中に載っていたはず.
二人による翻訳比べがされています.

#本年はこれが最後の更新かもしれません.
次は1月5日の予定です.
(気が向いたらまた書くかもしれませんが)

2008年12月26日金曜日

今朝,今年初めての雪を見た.
朝起きてみると家族が,雪が降っている,と
はしゃいでいた.
仕事納めの日が雪か,と思う.
なぜかどことなくうれしい.

いつもより空いているような気がする
通勤電車の中で聴いていたのが
ブラームスの"ドイツ・レクイエム"
(カラヤン,ウィーンフィル).
やわらかな朝の陽射しの中に舞う雪を車窓からみて,
一年の終わりには少し「空白」が欲しいなと思った.

ただずっと雪が舞うのを見ているだけのような
静かな時間.
そんな時間がこの一年の最後には
ふさわしいような気がする.


2008年12月25日木曜日

打ち合わせ会,大掃除,そして忘年会.

メリークリスマス!

みなさん,いかがクリスマスをお過ごしですか?
といっても,あと数十分しかないのだけれど.

月曜日から今日まで,
研究室の各学生は自分の研究の進捗状況を
研究室のみんなに発表するという会が
ずっと開かれていた.
これに向けて,みな頑張っていた.
ほとんど寝ていない人もいたし,
頑張って回路を製作し実験まで漕ぎ着けた人もいた.
ボロボロになっていた人もいたけど,
とにかくみな無事に報告を終えた.
ご苦労様でした.
しかし,まだまだ山の途中だ.
頂上目指して頑張っていこう!

今日は打ち合わせ会は午前中で終了し,
全員で研究室の大掃除.
私も本棚などをずいぶん片付けた.
こんなときしか,きれいにする機会がないから,
せいぜい頑張ってみる.
周囲がきれいになると
頭の中までスッキリした気分になるから不思議だ.
(この理由は考えたことがあるのだけど,
それはまた次の機会に)

そして,夕方から忘年会.
Generation Gapを大いに楽しむ.
なにを聞いても若い人とずれている.
それが楽しいのだけれど,
若い人は,何が楽しくて大学に来ているのか
さっぱりわからなくなってしまった.
大学生活にイベントをつくろうというのが,
来年の私の目標.
学生はもっと生活を楽しむべきである.

ということで,今日で今年の研究室の公式行事は終了.
学生のみなさんとはまた来年ということになる.
ときにはゆっくりと休むことも必要だ.
年末年始は,自分を振り返る良い機会だ.
実はこうした時間を持つことが結構大事だったりする.
年をとればとるほど,そうした時間が持てなくなる.
ときには,自分がこの先どうあるべきか,
考えてみることも大切なのかなと思う.
この41歳の私にとってもそれは大事なことなのだから.

学生たちにはもっと生活を楽しんで,
それから研究を楽しんで欲しいと思う.
そうでなければ,大学時代がもったいない.
私は大学時代に戻りたいとは思わないけれど,
大学時代は本当に楽しかったと思う.
あぁ,みんなそんな学生時代を送って欲しいと思う.
私も少しその手伝いをしたいと思うのである.

2008年12月24日水曜日

クリスマス・キャロル

クリスマス・イブである.
でも,相変わらず夜になっても研究室にいる.
まぁ,そんなもんです.

私は,クリスチャンではないのだけれど,
このクリスマスというものが結構好きだったりする.
なぜならば,いつもより多くの人が
他の人の幸せについて考えているような
気がするので.

残念ながらサンタクロースはいないのだけれど,
彼に託した子供たちと大人たちの夢は,
大変素敵なものだと思う.
そうした人の良心というものについては
信じることができる.
それは宗教に関係なく.

ということで,昔からクリスマスは
いろいろと楽しく過ごしてきたのだけれど,
この時期,読み返すことが多いのが,

「クリスマス・キャロル」 (C. ディケンズ).

原作も素晴らしいのだけれど,今回は映画をご紹介.
名作だけに,これまでに何作も映画やテレビ番組が
製作されているらしい.
私が持っているクリスマスキャロルのビデオは,
1950年代の白黒のアメリカ映画だったりするのだけれど,
BBC製作の1970年代のドラマが結構素晴らしかった.
正統派の演出である.
亡霊が結構怖くて,ちょっとドキドキしたりする.

その他,ディズニーもあるし(確かドナルドがスクルージ),
まだまだテレビドラマもあるようだ.

でも,一番のおススメは1970年のイギリス映画,
"Scrooge"かな.
これはミュージカル仕立てで,大変楽しい.
Tiny Timの歌声("Beautiful Day")もけなげで美しいし,
もちろんスクルージも,本当に憎々しくて(笑)素敵だ.
フィナーレで"Thank you very much!"と
街中の人たちが踊りながら,スクルージと行進する
シーンは思い出すだけでワクワクする.
この映画は,家庭で一度是非観てほしいと思う.
(日本語版があるかどうかはわからないけど)

その他,若者向けとしては,
"Scrooged!"( 邦題「三人のゴースト」)
という1988年のアメリカ映画がおススメ.
主人公がTV局の冷酷な若社長という設定で,
これをビル・マーレーが演じている.
("ゴーストバスターズ"とかに出演している喜劇役者.
最近では,"ロスト・イン・トランスレーション"という
映画で日本にも来ていたかな.まだ観てませんが)
やはり3人のゴーストがやってきて,過去,現在,未来を
見せられて,やがて奇跡につながるという
すばらしいハッピーエンド.
いろいろな人がカメオ出演しているので,
それも楽しい.
これは恋人のふたり向けなのかな...

とにかくクリスマス・キャロルは,
普遍的な人間の善悪を描いた名作で,
子供だけでなく大人もぜひ読んで欲しいのだ.
そしてたまには映画で世界を楽しむ.
なんて素敵なクリスマスなんだろう!

みなさん,素敵なクリスマスイブを!




###(オマケ)

このブログの元ネタである

"It's a wonderful life!"(邦題「素晴らしき哉,人生!」)も,

クリスマスが舞台の心温まる名作でおススメ.
そして,これを皮肉としているのが,
"Exosist 3" (1990).
これもいい.後味が悪いこと,太鼓判.

実は,今晩は
"Smoke"(1995)
を観たいと思っている.
これはポール・オースター原作の
"オーギー・レンのクリスマス・ストーリー"に基づいた映画とのこと.
うちの奥さん,ちゃんと借りてきてくれたかな...





2008年12月22日月曜日

パワエレ学会,若手研究発表会

先週の土曜日は,パワーエレクトロニクス学会の
若手研究発表会が開催された.

このブログでも何度か話題にしてきたように,
この会の特長は,単に学生を中心とした
ポスターによる研究発表だけでなく,
特別講演を含めたすべての会の運営を
各大学・企業から集まった若手幹事と呼ばれる
若手研究者,学生たちが行うことにある.

夏くらいから企画,構成が若手幹事会で議論されてきて,
それがとうとう実現されたのである.

特別講演会のテーマは,新エネルギー,省エネ.
やはり夏のころは原油高の問題が
話題になっていたためか,
学生の間でも将来に対するエネルギー対策に
関する講演を聴きたいということになり,
当日は,NEDOの方に国策としての省エネについて
ご講演いただいた.
こうしたテーマの決定も幹事会任せである.

また,後半はパネルディスカッションということで,
太陽光,風力,波力の各発電分野の専門家を含めた
方々で,いろいろな話題について話し合う.
このコーディネータも学生幹事が行うので,
最初はどうなることかと思ったのだけれど,
なんとかまとまっていたように思います.

懇親会もずいぶんと盛り上がった.
結局参加者が130名弱もあって,
大盛況のうちに会を終えることができた.

若手幹事のみなさん,本当にご苦労さまでした.
帰宅途中,リーダの学生が会の出来を
100点満点で100点以下の点数をつけていたけれど,
私の感想では120点くらいの出来だったと思います.

確かに,会が始まったときには,
各幹事も落ち着いていなくて,
見ているこちらがドキドキしたけれど,
そのうち,ずいぶんと進行もこなれてきて,
最後の方はかなり安心してみておりました.

そして,あらためて思ったのは,
学生に舵を持たせると,それなりに各人の能力を発揮して,
責任をもって会が実現できるのだということ.
ついつい,私たち,おじさんたちは過保護で心配してしまい,
いろいろと口や手を出してしまいがちなのだけれど,
(実際,自分たちでやる方が楽だし)
こうやって,企画を通して成長していく
若手の皆さんを見ていると,
それはそれで,良い機会だなと思う.
また,こうした機会は学会活動などの名目がなければ
彼らにも与えられないわけで,
その意味でもこのパワーエレクトロニクス学会は
たいへんユニークな活動を行っているのではないかと思う.

今回も,過去に幹事会を経験した社会人の参加があった.
こうしたOBを集めた企画もぜひ行いたいと,
声があがっている.
今年は残念ながら実現しなかったけれど,
幹事のみなさんの交流,つながりを見ていると,
ぜひ実現させたいものである.

#ところで,私は当日,3時間のポスターセッションと
駅から45分も歩いたことで(終バスが出てしまっていた!)
腰がすっかり痛くなってしまった.
学生のみなさんの元気さがしみじみうらやましく思いました.

2008年12月19日金曜日

マタイ受難曲

1週間ほど前,ヘンデルのメサイアを聞いた後,
なぜかバッハのマタイ受難曲が聴きたくなった.
全曲を聴きとおすと3時間半くらいかかるので,
抜粋版を聴いている.
ここ数日間,車の中で聴き続けている.

そうしていると,身の回りになぜか
マタイ受難曲の話題があふれてくる.
(といっても,私の心理状態が情報にバイアスを
かけているだけなのだろうけど)

昨日送られてきた,あるメールマガジンに掲載されていた話.
日本の著名な作曲家であった武満徹が,
亡くなる前日に,FMラジオから流れる
マタイ受難曲を,病室でひとり聴いていたのだという.

彼は新しい作曲を始めるときに,
マタイ受難曲の中のコラールや最終曲を
ピアノで弾いてから行うというほど
この曲には思い入れがあった.
亡くなる前日には不思議と雪が降ったためか
訪問客もなく,奥様もお嬢様もその日に限って
見舞いに行かず,
ひとり静かに全曲を聴きとおすことができたという.
(そのことをご家族は残された日記で知ったらしい)
それは本当に神からの恩寵であったと,
奥様がのちにどこかで書いておられたとのこと.

人生の終焉にふさわしい,
マタイ受難曲は,そんな純粋な音楽であることは間違いない.

歌手の鮫島有美子さんも無人島に
1曲だけ持っていくとしたらマタイ受難曲と答えていた.
また,作家の柳田邦夫氏もこのマタイ受難曲によって
次男の方の死による悲しみを癒されたと述べられている.

私はキリスト者ではないけれど,
バッハがこの曲に込めた想いというものは,
感じることができるような気がする.
それは確かに雪の降る静かな日にふさわしい
静謐さと優しさ,そして想いのつよさがある.
そして最終曲によってもたらされる浄化は,
聴いたものにしかわからない.
とにかく聴いたものにしかわからない.
音楽とはこうしたものかと思う.

バッハの最高傑作と言われるこの作品の私の愛聴盤は,
全曲を聴くときはカール・リヒターの1958年の録音.
抜粋版では,レオンハルトかガーディナー.
たまに,メンゲルベルク版.
次に購入するとしたら,鈴木秀美か,ポール・マクリーシュかな.

また,「マタイ受難曲」(礒山 雅,東京書籍)という
名著も忘れてはならない.





2008年12月18日木曜日

職場にはユーモアを

昨日,気合は精神的限界を超えるための
ものだと書いたのだけれど,
では,職場で限界を超えるためには
何が必要かと考えてみた.

私はずばり「笑いとユーモア」だと思う.

職場も大変な状況が続くと
雰囲気も幾分暗くなったり,
ギスギスものになってくる.
そうなると職場にいくことに
少しずつ抵抗を覚えるようになる.

そこでちょっとしたユーモアを
職場に取り入れる.
欧米では,ユーモアを取り入れることを
会社としてやっているところも多いと聞く.
例えば,その月に誕生日がある人をバカバカしく祝うとか,
水鉄砲で撃ち合う日とか,冗談を言い合う日とか,
そんな感じである.

ちょっとした笑いが職場の雰囲気を変えてくれる.
私も深刻な雰囲気が苦手なタイプである.
周囲が暗くなったりまじめすぎるようになったりすると
つい,くだらない話をしてしまう.
(もちろん,それなりの気遣いは必要だけど(笑))
とりあえず苦笑でもいいから,
みなの口元が緩み,ほっとする時間が必要だ.

人間がパフォーマンスを十分に発揮するためには,
緊張だけではなく,リラックスが必要である.
またユーモアによって心理的なハードルを
下げていくことが必要である.
それによって,ストレスが軽減できる.
全体としては,パフォーマンスがあがり,
いつしか,以前の限界を超えることができると思う.

雰囲気が良い職場には
ユーモアと笑いがあふれているはずである.
楽しく仕事ができれば,
いつの間にか,新しいステージに進んでいることだろう.

私ももっとユーモアに磨きをかけなければ...


2008年12月17日水曜日

気合と号令

合氣道は基本的に無声である.
氣合は発しない.
氣払いなどにおいて
特別な時に発するだけである.

しかし,多くの武術・武道で気合は
多用されている.
なぜ気合は必要なのだろう.

その理由のひとつは,
自分の限界を超えることが
挙げられると思う.

人間の身体には,精神的限界と
肉体的限界がある.
基本的には精神的限界が
肉体的限界を下回る.
なぜならば肉体的限界を超えるということは,
身体が壊れることを意味するから.
だからその限界まである程度の余裕をもって
精神的限界が存在する.

しかし,勝負の場においては,
ほんの少しの差が死命を分かつ時がある.
だから少しでもいいから精神的限界を超えて
パフォーマンスを発揮したいのである.

気合を出す瞬間,
その限界を超えることができるのではないだろうか.
精神的な爆発を起こすことによって,
肉体がその限界を超えることができる.
そのことを経験によって先人たちは
理解していたのではないのかと思うのである.

もちろん精神的限界とは
身体に及ぼすものだけではない.
気合を発することによって,
恐怖感,ためらいを克服する.
そうしたことも重要な気合の意味であろう.

他人の気合に乗るということもある.
この意味で,号令というのは非常に大切である.
号令をかける人たちが,
そのパフォーマンスをのびのびと発揮できるように,
時には,彼らの限界を超えるように,
導かなければならない.
だからこそ号令者は上のが担当するのだ.

気合とは,声だけが目的ではない.
そのことにもっと意識を向けて,
行うようにしたい.

#とはいっても,合氣道では,
ほとんど用いないのだけれど...

2008年12月16日火曜日

境界線に立つ

先週の土曜日は,合氣道の講習会に参加することができた.
実は,毎月第3土曜日位に開かれているのだけれど,
どうもその土曜日は仕事などで予定がつまることがおおく,
出席できたのは今回が今年初めてである.
(お恥ずかしい)

講師は,私が学生時代から存じ上げている本部のK師範.
また広島からもH師範がいらっしゃって,
このふたりを少人数で独占できることの幸せを感じた.

講習内容は濃くて濃くて,
とても,ここには記すことができないけれど,
今後の私の稽古,生活に大きな影響を及ぼしていくことでしょう.

合氣道であれ,別のことであれ,
最先端の人に会うということは,
大いに刺激を受けて自分が変化する良い機会である.
どこかのインタビューでヨーヨーマが,
こうしたことをEdge Effectと呼んでいた.
境界線に立つことで,いろいろな変化を受ける.

まずは境界線に立つことが大切だ.
日常において,いかに最先端まで突き進むか.
あるいはいかに異界に向き合うか.
こうした状況実現を一番たやすく可能とするのが,
最先端,一流の方々と会うことであろう.
そうした機会は素直に大事にしたいものである.

ただ,一月の合氣道講習会,
もう予定がつまっていて参加できないのだなぁ..
なかなか希望どおりにはならないものです.


2008年12月15日月曜日

電力系統の心臓部

今日は,博士前期課程1年の講義・実習に
お邪魔して,関西電力の中央給電指令所を
見学させていただいた.

最新の技術が集約されたコントロールルームで,
信頼度の高さが,正面の大きなディスプレイから
感じられるようなデザインだった.

このコントロールルームが関西電力の系統全体
(ひいては,関西電力以西の60Hzの系統全体)の
電力の需要と供給を制御しているのである.

電力の問題は,貯蔵が困難であるということ.
大規模な電力貯蔵は,いまのところ
揚水発電所でしか実現できていない.
それだって,系統全体の消費電力から見れば
ずいぶんと少ないのである.

貯蔵ができないということは,
系統全体で発電所で発電する電力量と
負荷で消費する電力量を常にバランスさせなければ
ならないということになる.

では,アンバランスが生じるとどうなるのか.
発電量が消費量を上回れば,
系統全体の周波数は高くなり,
その逆であれば周波数は低くなる.

そうなると系統の周波数は59.9Hzとか,
60.1Hzとか,60Hzから外れた値に変動してしまう.
どうも+/-0.2Hzくらいを越えて外れると,
いろいろな工場から電力会社に苦情がくるらしい.
したがって,電力会社は,少なくとも59.8Hz~60.2Hzくらいの
間に周波数を制御しなければならないことになる.
(実際は+/-0.1Hz程度にほとんど収まっているとのこと)

電力会社は,系統の発電量はもちろん把握できる.
しかし,負荷電力がどのくらいなのか,
電力会社は測定できないのである.
各顧客の電力計のデータを実時間で集計する
わけにいかないから(送配電系統における損失もあるし).

ではどうするか.
実は周波数を見て発電量を調整するのである.
周波数が高くなれば発電量を減少させ,
低くなれば発電量を増加させる.
それが電力会社の仕事のひとつなのである.

もちろん,実際には本日見学させていただいた
高度なシステムが制御しており,
発電量を増加するにしても,
もっとも経済性が高い発電所を使用したり(ELD),
あるいは応答が速い発電所を使用したり(AFC),
はたまた調整力を残すようにしたり,と
非常に複雑な制御をコンピュータの力を借りながら
実現している.

しかし,時には人間の判断によって,
発電量を直接制御する場合もあるという.
急激な負荷の増加時など,
通常時の制御則では間に合わないときには,
人間が発電量をキーボードから打ち込む.
そうした緊急の場合には
結局は人間の判断なのだ.
これは,

「主権者とは例外状況について決定するものをいう」

というある政治学者の言葉を思い出させる.

働いている現場を見学させていただいたが,
少人数で,こうした大役についている方々の
重責を思うと,とても自分では務められないのではないかと思う.

事故時の復旧訓練のためのシミュレータも
見学させていただき,
まさにここは電力系統の心臓部との印象を持った.

今後の不透明な電力需給状況を思えば,
電力会社の方々のご苦労はさらに重くなると推測されるけれど,
その方々が私たちの生活を支えているのである.
あとは全てをお願いするしかない.

2008年12月12日金曜日

日本の弓術

「武道とは何か」を紹介する
良い文献というのは,なかなかお目にかかれない.

多くの書物が,その武道修行者が
その内部から武道を論じたものになっており,
外部の人にわかりやすく,
しかしその深奥なる核心を
説明できているものとなると,
私も不勉強のためか,数が少ないように感じる.
だからいまだに「猫の妙術」などが
もてはやされるのだろうと思う.

数少ない,そうした書物のひとつに
「日本の弓術」(オイゲン・ヘリゲル,岩波文庫)
挙げられると思う.
昨日,韓国のアーチェリーの名人が紹介された
テレビ番組を見て思い出した.

この本はドイツから来日したひとりの哲学者の視点から,
彼が学んだ日本の弓術についての経験談である.
彼は東北大学で講師として招かれたが,
日本の文化に触れるということで,
自分は弓術を,奥さんは生け花を学んだらしい.
西洋の哲学者らしく,
弓術を論理的に理解しようと努力するが,
弓術の師範からは納得できる説明が得られない.
彼はフラストレーションがたまっていく.
その頃の経験を書物に表しているのだけど,
西洋的な合理主義と東洋的な神秘主義が
ぶつかりあっていて,大変面白い.

彼が就いた弓術の師範は,
近代の弓聖と呼ばれた阿波研造という人である.
ヘリゲルが論理的な説明を求めるのに対し,
自分と的が一体になれば,的を狙わなくても矢が当たる,とか,
意識的に矢を放つのではなく,そのときは自然に訪れるとか,
そんな話を師範はする.
それが全然ヘリゲルは理解できない.

結局,ヘリゲルは行き詰って,もうどうにもならないと
師範に弱音を吐いた.
すると師範は悲しそうな顔をして,
晩に自宅の道場に来るように言う.
ヘリゲルが夜分に道場を訪れると,
真っ暗な道場において,
師範は的の前に蚊取線香をただひとつ点け,
それに向かって2本の矢を静かに放った.
ヘリゲルが的を確かめてみると,
最初の一本は確かに的の真ん中を射抜いており,
次の矢は一本目の筈にあたって,
矢を引き裂いていたのだという.

これを見たヘリゲルは深く感銘を受けて,
その後精進し,帰国する時には
五段を授かったというお話.
このエピソードは大変印象的で,
武道とはなんたるかの一面を表していると思う.

弓術というのは,相手がいなくて
自分自身と向き合うことができる
素晴らしい武術であると思う.
ただ,学生の弓道部などで,
いたずらに矢声を張り上げているのを見ると,
その素晴らしさが本当に伝わっているのか,
かなり不安になるのだけど.

#大変薄い本ですが,ご一読をお勧めします.

2008年12月11日木曜日

弓の名人

今日は,電気系の教職員の交流会である
懇和会の総会,パーティーであった.
同じ電気系に属しているとはいえ,
日頃はあまり話し合うことがない人たちと
種々な会話を楽しむことができ,
有意義であった.
お腹一杯食べたし,
それなりに飲んだことだし.
(今日は,結構ウィスキーのロックを飲んだ)

帰宅してテレビを珍しくつけてみると,
韓国のアーチェリーの名人が紹介されていた.
その名人は,的に既にささった一本の矢にむけて
新たに矢を放ち,それを寸分もたがわず
最初の矢尻に当てたのである.

その技量に感嘆したが,
この映像で2つの話を思い出した.

ひとつは,中島敦の「名人伝」,
もうひとつは,オリゲン・ヘイゲルの「日本の弓術」である.

「名人伝」に描かれる弓術の名人も
的に向かって次々と矢を放つと,
その矢が前に放たれた矢尻を捕らえるために,
全ての矢が地に着くことはないというほどの腕をもっていた.

しかし,それで主人公は満足することはなく,
さらなる仙人のような名人を師として,
ついには弓矢を持たずにモノを射る技術である,
「不射の射」を会得するのである.

しかし,名人となった主人公は,
弓術から離れて暮らすようになり,
最後には弓矢という道具を認識することが
できないほどの境地に達する.

これをHappy Endとすべきか,
(老荘思想における真人の境地と捉えれば)
皮肉な結果とすべきか,
(いくぶん滑稽な結末と捉えれば)
それを判断するのは読者に委ねられるのだけれど,
中島敦の簡潔な漢文風の名文によって綴られたこの物語は,
私の心に強い印象を残している.
本当の名人の境地とは一体どのようなものなのだろうか?

もうひとつ思い出した話である「日本の弓術」についても,
実は語りたいことはいくつかあるのだけれど,
それはまた稿を改めてお話したい.

中島敦で私の好きな作品は,実は孔子と子路の関係を描いた
「弟子」なのであるけれど,これもまたいつか機会を改めて.

#作品名「名人伝」を「名人記」と誤記していましたので,
修正しました.「山月記」と混同しました...

2008年12月10日水曜日

Youtubeで宣伝を

新聞社の経営がたいへんなことになっているらしい.
たぶんテレビ局もそうだろう.
広告による収入が減っているのだと聞く.

確かにそうだ.
周囲の学生に聞いても,
新聞は読んでいない,
テレビは見ていない,という人が多い.
そういう人たちはインターネットが
情報収集の手段となっている.

私も新聞は読むけれど,
ずいぶんとテレビは見なくなった.
広告というのも,自然印象が薄くなる.
テレビのCMでも印象に残っているものは少ない.
そもそも見る時間も少ないのだから仕方がない.
(NHKを見ることが多いし)

こうなると,企業の側もいままでのように
広告枠を購入するということはないだろう.
だって,CMを見ないのだから,
その効果は少ないのは明らかである.
この不況下においては,
ますます企業は広告について考えることになるだろう.

新聞だってそうである.
新聞記事は,だいたいインターネットで済む.
昔は信頼できる,系統だてられた情報源として
活用していたけれど,
最近は社説も怪しいことが書いてあるし,
新聞記事の情報源もインターネットだったりする.
(データの信頼性もネットですぐに調べられるようになった)
私が熱心に読むのは週末の本の批評記事なのだけど,
それだって,信頼できるブロガーの記事を読む方が,
ずっとましなことが書いてあったりする.
(もちろん,素晴らしい批評もあって,
それを参考に本を購入していることも多いのだけど)

新聞内の広告は,よほどのことがなければ目にとめない.
ただ電車通勤ではなくなったので,
紙面の下にある週刊誌の広告だけはよく読む.
(記事のタイトルを見ているだけで面白い)

でも新聞は,近所のスーパーのチラシをもらうために
とっているという家庭も多いのではないだろうか.
こうして考えてみると,新聞の広告の前途も怪しそうである.

結局,新聞やテレビの広告は,今の状況が続くと
この先,あまり明るい未来はなさそうである.

一方,インターネットの広告というのはどうなのだろう.
YoutubeにCMの動画をUPすることによって,
効果はあるのだろうか.
私は意外に大学の宣伝をYoutubeでしたら
効果が高いのではないかと思っている.
高校生向けに.そして中学生向けに.

現在でも公開授業の様子を動画で紹介している大学はある.
講師のいろいろな工夫が見えて,参考にもなる.
進路に迷っている高校生たちには
良い判断材料にはなるだろう.

大学だけに限らずYoutubeで
もっといろいろな宣伝を行ったらどうかと思う.
たとえば学会とか,地域とか.
宣伝だけでなく,レクチャーなんかもいい.
パワーエレクトロニクスなどのTopicsでうまいことはできないだろうか.
現在,Power Electronicsで検索すると
インドのどこかの大学のパワエレの講義が
UPされているのが見つかったが,
初心者向けの動画はなさそうである.
なんとかうまく利用できないだろうか.
なんといっても掲載料は無料だし.

ただ,大学の宣伝はYoutubeだけでは足りないと思う.
それでは学費を負担する受験生の親に情報を届けることができない.
それはそれで別の手段が必要である.
そうなると,やっぱり新聞とかに頼ることになるのかもしれない.


2008年12月9日火曜日

ジョンレノンと,バカボンのパパと

昨日というか,現地時間で今日というか,
とにかく12月8日はジョン・レノンの殺害された日だった.
(もちろん真珠湾攻撃の日でもあるけど)

それは1980年というから,私はまだ中学1年生で,
洋楽もほとんど聴かない頃だった.
しかし,ビートルズの名前くらいは知っていたから,
彼の射殺のニュースは確かに印象に残っている.

高校生になって,誰もがそうであるように,
通過儀礼のようにビートルズの洗礼を受け,
ジョン・レノンの作品にもふれるようになって,
あぁ,こういう人だったのだと,
ずいぶんあとになって
その人の大きさを知ったのだった.

ジョン・レノンの話で好きだったのは,
彼が音楽活動をしばらく休止していた時に,
息子のショーンが友達の家で
"イエロー・サブマリン"を見てきて,
ジョン・レノンに,
「パパは本当にビートルズだったの?」と
尋ねたというもの.
それをきっかけに音楽活動を再開した,
という話だったのだけれど,
残念ながらこれは本当ではないらしい.

でも,そんな話を信じてしまうような
ジョン・レノンの人柄だったのだろうと思う.
彼の残したメッセージは,
今も宝石のように光っている.

彼が殺されたのは40歳だった.
私は,最近誕生日を迎えて41歳となった.
彼に比べ,私はこれまで何をしてきたのだろう.
そう思ってしまう.

そして,41歳と言えば,バカボンのパパである.

「41歳の春だから~♪」

ついつい口ずさんでしまう(笑).
そしてバカボンのパパが叫ぶ.

「これでいいのだ!」

達観である.素晴らしい.
私はとてもこのような
言葉を語ることはできない.

こんな41歳の私は,今後何ができるのだろう.
やっぱり,この時期,少し焦りを感じるのである.

2008年12月8日月曜日

春風に吹かれたように

私の好きな偉人のひとりに
山岡鉄舟がいる.

合氣道をご指導いただいている先生方が
一九会にゆかりの深いこともあって,
学生の頃は伝記なども読んでみた.

その業績はもちろん素晴らしいものだけれど,
私がもっとも好きなエピソードは,
山岡鉄舟は近くにいるだけで
ずいぶんと気持ちが良くなってしまうという
魅力をもつ人だったという話である.

鉄舟はときに厳格で怖いところもあったらしいけど,
そんな厳しい話をしていても,
近くにいるだけで弟子たちは
まるで春風に吹かれたように気持ちが良くなって
しまったらしい.

ふと,先日の合氣道部40周年記念祝賀会に参加し,
師範や先輩にお会いしたときに,
そんなことを思い出した.

そんな魅力をもつ人は確かにいるのである.

2008年12月5日金曜日

雨の日と月曜日は

基本的に雨は好きである.
どうも私の性格は浮ついているので,
(躁病ではないかと言われるくらいに.
実際は普通です.性格です)
自然と落ち着くことができる
しっとりとした雨の日は,
自分自身もほっとすることができる.
そんな内省的な一日は貴重である.

The Carpentersの歌に,
"Rainy Days and Mondays"という歌があるけれど,
どちらも私は全然鬱になんてならない.
むしろ雨の日は,気分が良いくらいである.
もともとクライ性格なのだろうと自分では思っている.
(月曜日の方は確かにしんどいと思うときがあるけれど)

私は一日中おしゃべりをしているように
思われがちだけど,
実際は一人でいるのもずいぶん好きである.
学生時代は,人と会わなくていい週末などは,
まる2日くらいは誰とも話をせずにいた.
駒沢公園で寝転んで本を読んだり,
酒を飲みながらビデオを見たり,
そんな時間が今ではとても素敵に思える.
もっとも学生時代は山に数か月くらい
籠って修行するのが夢だったから(笑),
もっと一人の時間が欲しかったのだけれど.

今は家族もいるから,
一人で過ごす時間は少ない.
それでも,一日のうち少しでもいいから
ひとりの時間を持ちたいと思う.
空白の時間こそ,最も貴重なものである.
ダライラマも言っていたと思う.
一日に,ひとりでいる時間を作れと.

こうして考えると,うちの奥さんには
大変申し訳なく感じる.
週末くらい,子どもの面倒をみなければ.

#ただ雨の日の渋滞は本当に困る.
今日は通勤時間がいつもよりも40分以上も長かった.


2008年12月4日木曜日

クラシック音楽ファンですが...

先日,このブログを読んでいただいている方から,
「クラシック音楽がお好きなんですか」と
尋ねられ,素直に「そうです」,と
答えることができなかった.
どうも気恥かしい.

私は,どんな音楽でもこだわりなく聴くのだけれど,
確かに所有しているCDの数は,
クラシックが圧倒的に多い.
でも,なにか「クラシック」というと
難しくて,お上品ぶっている
印象が少なからずある.
そんな風に思われるのが,ちょっと嫌なのである.

でも,私は,楽器は全然できないし,
楽譜も読めない.
単純に,ただ聴くだけのファンである.
だから,高尚ということでは全くない.

確かにクラシックというのは,
複雑な作曲技法が使われており,
それらを理解して曲を聴くことができたら
どんなに素晴らしいだろうかと思う.
作曲者の意図がより深く理解できるだろうに.

例えば,バッハのマタイ受難曲.
楽譜を見ると,バッハを表すB, A, C, Hの
音がちょうど十字架の中に埋め込まれているのだ
そうである.
そんなの単に聴いているだけからは,
全く想像もできない.
しかし,バッハがその曲に託した思いは
そうした話を知ることによって,
さらに身近に感じることができる.
やはり,楽譜は読めた方がよいのである.

でも私は,今後も楽譜を勉強しようなどとは
あまり思っていない.
(実は昔,いくつかの音楽理論の本を
購入したのだけれど,まともに読んではいない)
まぁ,そんなことをしなくても十分に曲を
楽しんでいると思っているから.

昨晩,車の中で聴いたヘンデルのメサイア.
ピノックの手による上品で清潔なこの演奏に,
心も軽くなり,うっとりとした.
今のところはそれで十分なのである.
楽譜を勉強するのは,また時間ができてから
ということにしよう(一体いつだ!).

しかし,理解が浅いという後ろめたさは残る.
それが,素直にクラシックファンですと
答えることができない,
ひとつの理由になっているのは確かである.
しかし,作曲者たちはそこまで聴衆に
理解してくれることを期待していたのだろうか.

2008年12月3日水曜日

上野にて

先週の土曜日の話.
東工大に向かう前に,上野に寄った.
フェルメール展かレオナール・フジタ(藤田嗣治)展が
目当てだったのだけれど,
会期終了も近い週末,土曜日の昼ごろとあっては,
ひどい混雑で,どちらの展示会もあきらめることになった.
どこかの小説の主人公ではないけれど,
「やれやれ」と一言いう(笑).

仕方がないので,精養軒で昼食をとる.
ここで夏目漱石の「こころ」を読みながら
(残念ながら,現在読んでいるのは「三四郎」ではなかった)
ゆっくりと休もうか,と思ったのだけれど,
大変な混雑にうんざり.
文豪ゆかりの地というのでクラシックな雰囲気を
期待したのだけれど,
まぁ,昼時なので仕方がないという感じ.
今度,また空いているときにゆっくりしよう.

さて,ランチもそこそこに上野公園を歩くことにする.
精養軒前にある寛永寺の
大仏(といっても今は顔だけ)とパゴタに驚く.
遠くから見るとパゴタは,高圧トランスのように見える.
屋根の水煙みたいなものが,まるでブッシングだ.
中には,薬師如来,日光,月光菩薩が祭られているのだけど,
どこか電気的な感じ(笑).
ビリビリとご利益あるかも.

不忍池の周りを歩くと,いろいろなものがあって面白い.
実は結構な観光名所なのかもしれない.
今回は,東照宮を観た.
上野に東照宮があるなんて初めて知ったのだけれど,
日光と同様,左甚五郎作の竜の彫物があったり,
また建築時は極彩色であったろう装飾があったりして,
やはりそれは東照宮なのである.
もちろん,祭られているのは家康なのだけど,
その他に,吉宗,慶喜も祭られている.
本堂の内部も見ることができ,
獅子の壁画や鳳凰の彫刻などを見ているうちに
あっという間に時間が過ぎてしまった.
300年以上も前の建物なのだけど,
むしろ装飾はモダンな感じがした.

公園をまた駅の方に歩いていくと,
地方の物産展が開かれていた.
新潟の中越地方のものだった.
あの地震以来,暗いニュースばかりが続いていたのだけれど,
来年のNHKの大河ドラマが長岡市ゆかりの直江兼続が
主人公だということで,催されたらしい.

実は私は,長岡市に3歳から小学校4年生まで
暮らしていたので,ついつい懐かしくて
ふらふらと近づいていってしまった.
私の両親の出身も長岡市周辺の町だから,
寺泊,与板などのテントにも親近感を覚える.
地酒が売られていて,喉がゴクリとなったけれど,
じっと我慢.
あぁ,でも飲みたかったなぁ.

直江兼続はよく知らないけれど,
同じく紹介されていた河井継之助と小林虎三郎ならば
知っている.
長岡市では小学校3~4年生で
ふたりのことは郷里の偉人として良く学ぶのだ.

河井継之助といえば,司馬遼太郎の「峠」でも有名な,
幕末の越後長岡に軍事中立国家の建設を
夢見た男である.
この話をすると長くなるので,それはまた次の機会に.

小林虎三郎は,河井が破れて長岡が貧困に
あえいでいるときに,支家から送られた百表の米を,
建設していた学校のための教材購入などにあて,
長岡の復興の基礎を作った人である.
これは「米百俵」の話として知られる.

この二人の紹介パンフレットを読んで気づいたのは,
小林は51歳で,河合は42歳で亡くなっているということ.
若くして逝っているが,ふたりは自分の本分を全うしている.
振り返って自分を思う.
私は何をしてきたのだろうか.
いつもこの時期,それを思い,少し焦るのである.



2008年12月2日火曜日

懐かしいモードが

先週の土曜日は,東京工業大学を訪れた.
私が大学時代所属していた
合氣道部の40周年記念演武会が目的である.

18歳のときに合氣道に出会った.
高校時代は空手をやっていたので,
大学の空手道部を訪ねてみると,
すでに新入生説明は終了していて,
「空手道部はどこですか」,と尋ねた相手が
合氣道部の先輩だったのである.
「まぁ,まぁ」とうまく言いくるめられて,
食事をおごってもらったのが運のつき.
部の見学をすることになって,
道着を着せられて,
受け身などを習って...
そして,そのまま部員となった.

3年間の現役活動ののち,
6年間(!) OBとして足繁く稽古に通った.
(後輩のみなさん,ご迷惑をおかけしました)
就職してからも,水戸,栃木,吹田と
なんとか稽古を続ける環境に恵まれている.
もう23年近く稽古していることになる.

演武会は現役の部員のみなさんが,
元気溌剌とした技を披露されていた.
特に1年生の技量の高さに驚いた.
まだたかだか半年しか稽古していないはずなのに,
まずは技の格好がついている.
私の頃と違って,優秀な部員ばかりなのだろう.

3年生の落ち着いた演武のあとは,
私が入学以来,ご指導いただいていた
O先生の演武 杖投げ が披露された.
3年生の主将が受けということもあって,
100%の出力というわけではないと思われたけれど,
それでも見ているこちらの姿勢が正しくなるような,
素晴らしい演武だった.
久しぶりに身体がゾクゾク,ワクワクする経験だった.

演武会の後は,目黒の香港園に会場を移して,
記念祝賀会.
O先生も今年還暦をお迎えになったそうで
(全然,そんな風には見えないけれど)
併せてお祝いをする.

100名程度の参加があったという.
さすが40周年.伝統を感じる.
名札をみると,私は第20代であった.
ちょうど半分である.
20年も昔のことになる.
会では,過去の写真がデジタル化され,
プロジェクタで紹介された.
恥ずかしながら「青い」私の姿も映し出された.
一緒に,私が1年生だったときに主将だった
H先輩と見ていたら,学生時代のような錯覚をした.
お互い,少し白髪が増えてしまったけれど,
顔を見合わせれば20年前に戻る.
頭の中に,あの頃のモードが立ち上がる.
なにか身体の中も変わってしまったようだ.

帰りの新幹線の中もずっとその余韻があった.
この記事を書いている今でさえまだ残っている.
あのときにまた私も少し変ったのであろう.
懐かしいモードが立ち上がり,
新しい私がまた始まっている.
(まぁ,単に稽古がやりたくなった
というだけかもしれないけれど)

2008年12月1日月曜日

転地療法

先週の金曜日は,日本原子力研究開発機構
核融合研究所に行く.
退職してからというもの,足を踏み入れたことがなかった.
約4年半ぶりの訪問である.

久しぶりに訪れる研究所は,
見た目は変わっていないようでいて,
その実,ずいぶんと雰囲気が変わっているように感じた.
昔からある建物はそのままなのだけれど,
中に居る人が変わっている.
いや,人が変わったのではなく,
その人たちの外見が変わったということなのだろう.

自分の顔は毎日見ている.
だから変化に気付きにくい.
研究所の一部の方々とは,委員会などでお会いしている.
だから,そうした人たちから感じる違和感は少ない.
しかし,本当に4年半ぶりにお会いした人々というのは,
変わっていないようでいて,
どこか別の人のような印象を持ってしまう.
外見のせいかもしれないけれど,
どこか中身も変わっているような,そんな気がするのは,
私の退職してしまったという立場のせいだろうか.
(しかし,本当に変わらない人というのもいることはいる)

日本の核融合のフラッグシップマシンである
JT-60の制御棟では,現在改造に向けた準備が
着々と進められていた.
そうした雰囲気が,どの部屋からも漂っている.
今回は,JT-60の電源・制御グループ,
超伝導グループのみなさんにご対応いただいた.
また,ITERの超伝導磁石グループの方にも
見学等でお世話になった.
本当にありがとうございました.

所内を歩いていると
これまで空き地だった敷地に,
新しいコイルの巻線棟の建設準備が進められていたり,
直線600 mを越える超伝導コイル導体の製作ラインの
整備が進められていたりするのを
目にすることが出来て,
JT-60改造に向けた推進力を感じた.

もちろん,実際に携わっている方々のご苦労は
大変なものなのだろうと想像されるけど,
しかし,前進することが大切なのだ.
前進する以外になにがあるのだろうか.

あちらこちらで,プロジェクト以外の
なかなか興味深いお話も聞けて,
大変勉強になった.
その一方で,私も頑張ろうという思いを
強くもつことになった.
私はもはや外部者となってしまったけれど,
プロジェクトのご成功を心よりお祈りしております.

その日の夕方は,前職場の同期の友人と
水戸の居酒屋で食事を一緒にした.
いやぁ,楽しかったなぁ.
仕事の話はほとんどしなかった(笑).

彼のHappy Newsをネタに,
思春期における経験の忘却の意味,とか,
過去の経験のリフレーミングと他人とのその共有の意味,とか,
なんだかわけのわからないことをずっと話していた.
やはり年代が一緒というのは,
思春期や学生時代の共通の時代背景を持つだけに,
話が通じやすい.
同じ年代に,同じ事柄を,違う場所で経験している.
それは実は大事なことなのだとしみじみ思う.

ホテルに帰ってゆっくりと寝た.
気づいてみると,あれほど悩まされていた咳が
ずいぶんと出なくなっている.
「転地療法」というべきか.
日常を離れることによって,
知らず知らずのうちに影響を受けている
社会・周囲の重力から解放されるということらしい.
治癒力がアップするのだろう.

今回の出張は,仕事にも健康にも有用な
転地療法となったらしい.


2008年11月27日木曜日

勾玉シンクロニシティ

こうした忙しいときに重宝するのが
オーディオブックである.
朝晩の通勤時間に聴くことができる.
といっても,それほど多く聴いているわけではないが,
小林秀雄の講演集については,
このブログでも何回か紹介してきた.

今月号の「新潮」は小林秀雄の講演集のCDが
ついており,なんと未発表音源が含まれているというので,
早速購入し,車中で聴いた.

付属のCDはこれまで発表されている講演集のCDから
編纂されてもいるのだけど,
「勾玉について」という30分ほどの
講演が未発表のものであった.
相変わらずの小林節で,聴いていて
ついつい引き込まれる.
昭和42年の講演会というから,すでに小林秀雄も64歳くらい.
円熟の語り口である.

この講演の中では,
勾玉を購入したこと,
美術と本当に向き合うためには
購入するのも一つの方法だということ,
美術とはある時代に頂点を極めて
あとは凋落していくものだということ,
などと興味深いことが多々述べられている.

勾玉とは石が曲がっているから
「まがたま」と呼ばれるわけではないと述べている.
どうも「あおい玉」という意味らしい.
そして勾玉が作られ始めた当初では,
翡翠による勾玉が主であったと紹介している.
古代の日本では「あおい」ものが
珍重されていたとのこと.
翡翠は青ではないので「あお」とは「碧」なのかと思うが,
勾玉を大量に生産するようになって,
材料は翡翠から,水晶や瑪瑙にかわり,
姿も堕落していったという話である.
美術は,ある時代に精神性が頂点に達したときから
あとは凋落していくものだと,
バイオリンを例にとって述べている.
厳しい.
小林秀雄は,美術や音楽,骨董などにも
造詣が深かったから,それらについても
同様の考えを持っていたのだろうか.
だとしたら,現代の美術に対する彼の思いは
どのようなものだったろうか.

そんなことをつらつら考えながらいると,
先日,幼い娘が石の店(Stone Shopとでもいうのだろうか)で
青い勾玉を一粒買ってきた.
全くの偶然である.
しかし,私の身近に人生で初めて
勾玉というものが存在することになった.

それは小さな小さなターコイズだから,
色は本当に青い.
姿も大量生産品という感じで,
残念ながら美しいとは言えない.
それでも見ていると,いろいろと印象が変わってくる.

小林秀雄は講演の中で,
勾玉というかたちは,
人類が初めて美というものを考えたときに
思い浮かべる形なのかもしれない,と述べているが,
確かに見る角度によって次々と印象が変わるこの形状は,
胎児のようでもあり,犬歯のようでもあり,
見ていて飽きない.
もしもこれがもっと美しい形をしていて,
よく磨かれていたならば,やはり身近においておきたいと
思うだろう.
「本居宣長」などは勾玉を握って
執筆していたのだという.

新潮の本誌には,茂木健一郎氏と小林秀雄の孫にあたる
白州信哉氏の対談が掲載されており,
小林秀雄の講演の裏話を知ることができる.
小林秀雄の意外な努力がうかがえて
ますます彼が身近になった.

(明日は不在で更新はたぶんありません)

2008年11月26日水曜日

集中力と咳

咳が治らない.
熱などの症状はほとんど治ったのだが,
咳だけが残っている.
咳が止まらなくて夜眠ることができない,
ということではないのだが,
昼間,ゴホン,ゴホンとやっていると,
周囲の人たちに迷惑がかかる.
大変申し訳なく思う.
一応,マスクなどしているのだけれど.

実は,うちの息子も咳がひどい.
しかし,先日息子を見ていて,
あらためて心と身体の密接な関係について
思うところがあった.

息子がテレビ番組を一生懸命見ていたのだが,
その30分の間はひとつも咳をしなかったのである.
そして,その番組が終了すると再び
ゴホン,ゴホンとやり始めた.
つまりは,心の状態如何によって,
咳が出たりでなかったりするのだ.

確かに私も熱心に何かに集中しているときには
咳が止まっているような気がする.
ということは,咳がひどいときは
気が抜けているときなのか...

以前に合氣道の稽古において,
他の後輩が演武をしているときに
見学している私が咳をいくつかしてしまったときがあった.
あとで師範に呼ばれてご指導を受けた.
今思うと,私の集中の度合いが低かったということを
ご注意されたのかと思う.

集中しているときには咳が止まるということはわかったが,
逆にどういうときに咳が出やすいのか,ということは
いまだよくわからない.
その状態さえ脱すれば,私のこの咳もいくぶん
おさまるのだろう.

本屋に通う

なんともまた忙しいモードに突入している.
う~ん,まだまだやれるゾ.
がんばっていきまっしょい.

さて,忙しくなると書店から足が遠のいてしまうけど,
そうなると本屋好きの虫がウズウズとし始める.
最近自分で思うのだけれど,
「本好き」ではなくて「本屋好き」なのだと思う.
(もちろん「本好き」だとも思っているけれど)

本屋なんて,どこも同じような商品が
並んでいるようなものだけれど,
その実は,その本のセレクトには
各書店で特色があるものである.

特に漫画本の品揃え.
(40歳を過ぎて漫画を読むのかといわれると
なかなか恥ずかしい)
私が好きな諸星大二郎とか星野之宜などの大判
(最近は文庫本も出ているけど)が
並んでいる書店というのはなかなかない.

あるいは,高橋葉介や高野文子.
こういった漫画家,そう,大人向けの漫画家.
そうした漫画は売れないのか,
あまり書店に置かれていないので,
私は大変寂しく思うのである.

だから,ふと旅先で飛び込んだ地方の書店に,
そうした本が並んでいるのを見ると,
「おっ,ここの本屋はなかなかやるナ」などと
感心したりしてしまう.

もちろん大型書店も,それはそれで大好きだ.
子供の頃のように立ち読みができないので,
中身を確認して購入するということができないのだけど,
それでも様々なタイトルが並んだ背表紙を眺めているだけで,
あっという間に時間が過ぎてしまう.
そしてなぜか満足感と幸福感を味わうことができる.

以前読んだ漫画家の新刊が出ているのを見つけたりすると,
ついつい手を伸ばしてしまう.
また全然知らない漫画家の本でも,
絵の雰囲気に惹かれてしまうこともある.
こうして新しい鉱脈を見つけることができる.
それも大型書店の良さである.

結局のところ,こうした鉱脈を見つけに
本屋に足を運んでいるのだと気づく.
毎週のように足を運ぶ書店であっても,
同じ書棚を目を皿のようにして長時間眺めている.
今週,新しい本が並んでいないか,
あの著者は新刊を出していないか,
それを確かめているのである.
そして時々,新たな鉱脈をみつけ,
その作家に連なる作品群を次々に掘り起こしていくことになる.

つまりは,飽きもせず本屋に通うということは
じっくりと鉱脈を探すことに他ならない.
しかし,その鉱脈から掘り出されるものは,
自分を変える可能性も持っているのだ.

2008年11月21日金曜日

博士は求められている

昨日は,遠くからお客様があって,
F先生と夕席をともにさせていただいた.
彼は,私が学生時代に隣の研究室に所属していて,
現在は,メーカに務め,第一線で活躍している人である.
(彼とF先生とは,あるプログラムのユーザグループを通した
メル友(!)だったとのこと)

これまで学会などで顔を合わせることはあったのだけれど,
ゆっくりと話す機会はなかった.
久しぶりに会うことが出来て
大変楽しい時間を過ごすことができた.

ここで盛り上がった話題のひとつが,
現在の博士課程卒業生の就職である.
いろいろと就職先がないとか,
逆に働いても仕事に融通が利かない,
などとあちらこちらで耳にする.
本当のところを彼に尋ねてみた.

彼の務めている会社では,
別に博士だからといって採用しないわけではない.
むしろ現在は博士卒の学生も求めているのだという.
やはり博士は,修士とは,課題の見つけ方,
取り組み方などが異なるということだ.

だからといって彼の会社でも
博士を多く採用できているわけではないらしい.
就職する際には,現在多くの会社で
ジョブマッチングというものが行われる.
一昔前のように,一括して会社に採用され,
研修を経たのち,どこに配属されるかよくわからない,
といったシステムではなく,
事前に自分が配属される部署と面接をして,
自分の希望する職種かどうかなどを
(採用する側から見れば,その人物を)
見定めるのである.
このジョブマッチングにおいて,
やはり博士課程で研究してきた分野と異なると,
博士卒の人は嫌がることがあるのだという.

F先生曰く,「新しい研究課題を見つけるような気持ちでないと」

私もそう思う.
博士卒の時点で自分の分野を限定するなんてもったいない.
以前にも書いたけれど,いろいろな分野の知識が
自分のポテンシャルを上げることになるのである.
また,私が前の職場で見てきた博士というのは,
いろいろなことができる人が多い.
専門バカという人も必要だと思うけど,
クロスオーバーな博士というのも大切だと思うのである.
就職先を自分の都合だけで選んでいたら,
それは就職難になってしまうだろうと思う.

彼の話を聞く限り,メーカだって博士に期待しているのだ.
確かに博士の価値は,日本では低い.
でも,その博士に期待してくれている人がいる.
だったらもっとトライしてみる人が増えてもいいと思う.

もちろん世界で活躍しようという人は
(あるいは世界に飛び出さざるを得ない人は)
博士を目指すべきだ.

昨日のメーカの第一線で活躍する彼の話を聞いて,
私は,大変心強く思った.
昨日はリクルートで来たわけではないのだけれど,
就職を希望する学生たちには,ぜひそうしたお話をしてほしい.
就職して10年以上の経験を踏まえた話は,
たぶん学生たちの心も打つことだろう.
リクルータとして,入社して2,3年の新人を寄こす
企業もあるのだけど,私はあまり効果的ではないと思う

まぁ,それはともかく,
久しぶりに彼とお会いできて大変うれしかった.
こうして訪ねてきてくれたことに深く感謝.

2008年11月20日木曜日

インフルエンザ

大阪ではインフルエンザがもう流行しているらしい.
私の息子の小学校でも,インフルエンザで
欠席している子供も多いという.
今年は流行が早い.

実は昨日,ようやくインフルエンザ接種をしたのだけれど,
当然抗体ができるのは12月も末頃だろうから,
これでは,今の流行には全然役に立たない.

その上,風邪気味の体調で接種したからか,
今日はすこぶる体調が悪い.
風邪がぶり返したようだ.
あぁ,インフルエンザにならなきゃいいけど...

---

インフルエンザと風邪は異なる病気だと知ったのは,
ずいぶんと大きくなってからである.
インフルエンザは風邪に比べれば,
症状も重く,感染力も強い.

一度,本当に倒れて起き上がれなくなったこともあった.
妻に病院まで連れて行ってもらって,
診断の結果,インフルエンザと判明した.
発症から48時間以内だったので
タミフルを処方してもらったのだけれど,
これが劇的に効く.
飲んで数時間もたつと,身体がずいぶんと楽になり,
起き上がれるようになっていた.
本当に素晴らしい薬だとそのときは思った.
(確かにあれだけ効き目があるならば,
人間の体に少しは悪影響もあるかもしれないと
思うくらいである)
しかし,インフルエンザで命を落とすということも
十分ありうることだとも思った.

現在のインフルエンザのように
本当に鳥インフルエンザが
人間に感染するようになったら,
どんなに大変なことになるだろうかと思う.
たぶん世の中はパニック状態になるのではないだろうか.

---

10年ほど前,FOXのテレビで「ミレニアム」という
かなりダークな番組を放送していた.
監督はクリス・カーターで,
これは「X-ファイル」に後継として,
(一部では)人気があった.
私はドロドロしたものが好きなので,
この番組の大ファンだった.
(まぁ,あまりに内容が暗過ぎたためか,
シーズン3で打ち切りとなってしまったのだけど)

このドラマは,テロやシリアルキラーなどを追う
捜査官の話なのだけれど,
最後で鳥インフルエンザ(だったかな?)の話が出てくる.
世界の人口削減のためのツールとして
使われるという設定だったように思う.
もう10年以上も前のことなので,
その時はあまり怖く思わなかったけれど,
最近の鳥インフルエンザをめぐる状況をみていると,
かなり怖いと感じるようになった.

---

その昔,スペイン人がインカ帝国に侵攻していったときに,
インカの人々の本当の敵は,スペイン人が持ち込んだ
インフルエンザ,天然痘などのウィルスだった.
免疫を持たない彼らはつぎつぎと感染し,
ほぼ全滅してしまったのだという.
それと同じ状況が鳥インフルエンザについても
言えるのかもしれない.
我々は鳥インフルエンザに対する免疫を持っていないのだから.

鳥インフルエンザの流行が判明したら,
学校や会社などは休みになるのだという.
そして2週間くらいは家から出ないようにすべきだという話である.
まずは2週間,家族が暮らしていける食物や生活必需品を
備えておかなければならない.

政府からはいろいろ情報が発信されているけれど,
私たちの対応は,それほど真剣さを持っていないような気がする.
(少なくとも,私の家族は)

ちょっと真面目に考えて
対策を考えてみようか,と思う.


2008年11月19日水曜日

冬到来,第九の季節

今朝は寒かった.
冬の到来を感じる.
一度治った風邪もぶり返しつつある.
復活は少し遠くなりそうである.

学校に向かう車中でNHKのFMから
流れてきた音楽は

ベートーベン,交響曲第9番

であった.
つくづく年末だなぁ,と思う.

演奏は,ゆったり構えたおおらかな演奏で,
ドラマティックにわざと盛り上げていこうという
感じがなく,なかなかに好印象.
最近はテンポが速めで,
フィナーレに向かって加速していくような
スタイルが多いから,たまにこうした演奏を聴くと
ほっとする.

毎年12月になれば,東京では毎週どこかのホールで
第九が演奏されるようになるが,
残念ながら私はたぶん1度しかこの曲の生演奏に触れたことがない.
(最近は記憶がずいぶんと曖昧である)
指揮者はたぶん佐渡裕 氏で,オケは日フィルだったように思う.
(あれ,新日フィルだったかな)
博士の学生時代,先輩に連れられて演奏会に行ったのだった.
その頃は,まだクラシックを聴き始めたころで,
ステージの上の人数の多さを見て,ドキドキしたものである.
佐渡氏の指揮は,式台の上でジャンプをする豪快さで,
思わず微笑んでしまうようなものだった.
汗もびっちょりという感じで,
とてもハートフルな演奏会だったように思う.

そして,第九というのは生演奏にかなうものはないのだろうと
そのときに思った.
特に合唱のボリュームが圧倒的なのだ.
海外では,合唱の人数がそれほど多くないと聞く.
日本のそれは世界に誇れるくらいのものらしい.
この曲は第1楽章から第3楽章までも,
かなりのスペクタクルなのだけれど,
(特に第1,第2楽章はすごい)
やはり第4楽章の合唱との兼ね合いの迫力が
なければ,この曲の魅力は半減してしまうのではないか.
生演奏に触れたときの圧倒的な印象は
ずいぶんと私のこの曲に対するイメージを変えてしまった.
またいつか第九を聴きにコンサートに足を運びたいものである.

ラジオの録音は,ベーム,ウィーンフィル,
歌手はギネス・ジョーンズ他のものだった.
このCDは所有しているのだけど,
演奏なんてどんな感じだったのかすっかり忘れてしまっていた.
でも,久しぶりに聴くこの曲はとても素敵だった.

この曲のCDは私は何枚くらい持っているのだろう.
最も有名なのは,もちろんフルトベングラーのものなのだけれど,
カラヤン,バーンスタイン,ジンマン,ブリュッヘンなども
持っていたような気がする.
しかし,私がその中で一番好きなのは,
実はセル&クリーブランド管のものだったりする.
セルの身だしなみを整えたような清潔な演奏は
何度聴いても飽きない.

2008年11月18日火曜日

三国志

最近は映画を全然といっていいほど観ていないのだけど,
気になる作品はいくつかある.

その一つがレッドクリフ.
三国志の赤壁の戦いの話なのだという.
製作費100億円の超大作で,今回のものはpart 1,
part 2も来年(?)公開されるらしい.
どんな感じで戦闘が描かれるのか,
大変興味がある.
私は三国志が好きなのだ.

日本人には三国志が好きな人が結構多い.
そして若い人たちも.
私が驚いたのは,若い学生たちが
本当によく武将の名前を知っていることである.

「僕は黄忠が大好きです」

などと平気で言う.
かなりマニアかと思った.

なぜそんなに知っているのかと聞いてみると,
どうもロールプレイングゲームの影響らしい.
そういえば,そんなPCのゲームがあったような...
私はゲームをほとんどしないので,
全然知らないのだけれど.

三国志は,学生時代に吉川英治の小説で読んだ.
しかし,その前に,NHKの人形劇で
とても好きになっていたのである.
今でもたまにTVで取り上げられるけど,
これはたいへんな名作だったと思う.

当時,私は中学生か高校生くらい.
それまでプリンプリン物語とか,笛吹童子,紅孔雀などの
人形劇が放送されていたのだけど,
あまり興味が持てなかった.
(いや,プリンプリン物語は見ていたかな...)
それが三国志になって,夢中になって観ていたように思う.
なんといってもあの川本喜八郎作の素晴らしい人形の魅力.
人間よりも情が深く感じられる.
そして,実力派の声優陣.
谷隼人,石橋蓮司,せんだみつお,森本レオ...
一言一言に一喜一憂したものである.

では,三国志の武将の中で,
誰が好きかと尋ねられたら,
私は迷わず劉備元徳と答える.
私はもともとダメ男が大好きなのだ.
こんなに甘い男はいない.
この大将の優柔不断さ,蒙昧さのために,
どれだけの優秀な武将たちが戦場に散っていったか...
しかし,それでもそれだけの人材を惹きつける
なにかをこの人は持っていたのである.
当人の武勇や知略などは,あまり話題になっていない.
とにかく人間的な魅力だけで生きた人なのであろう.
そこに魅力を感じる.
人が命をかけても仕えようとする魅力とは
どのようなものだろうか.
ずっと気になっている.

もちろん孔明も大好きで,
彼の天下三分の計がなければ,
三国志が生まれなかったわけなのだから,
彼に軸足を置いた映画ができるのも
もちろん納得なのだけど.

意外に若い人たちとの共通の話題である三国志.
中国に行った際にもこの話をしたら,
中国の方々も大変うれしそうな顔をしてくれた.
そしてまた映画でワールドワイドな話になる.
また,少し読んでみようかと思う.
(そんなヒマ全然ないけど)

#私のPCの上には,お菓子のおまけの
三国志の人形劇のフィギュア(!)が飾ってある.
残念ながら劉備はなく,趙雲,孔明,関羽,
そして曹操の4体である.
やっぱり白い顔の曹操が魅力的だ.

2008年11月17日月曜日

街路樹の紅葉に気づく

先週は結局,1週間のうち4日ほど
委員会か講習会に参加した.
土曜日はパワーエレクトロニクス学会の
新しいパワー半導体デバイスに関する講習会だった.
かなりの大盛況.
デバイスに関する関心は高い.

そういえば,先週の火曜日の
電気学会関西支部主催の講習会も大盛況.
そのときのテーマはバッテリだった.

バッテリとデバイス.
これらが,現在のパワエレ技術で注目されるトピックス
2つであることがよくわかる.

今,パワエレに要求されているのは,
省エネ・高効率化である.
その2つの要求に応えるためには,
電力貯蔵装置(つまりはバッテリ)と
低損失・高周波動作のスイッチ(つまりは次世代パワーデバイス)が
不可欠なのである.
当然,その業界の動向に耳目が集まるわけである.
(私もそのひとり)
なにか一つの素子やバッテリの技術革新が,
業界の常識を大きく塗り替えることもありうるのだ.

こうした革新的な技術に対して思うことはいろいろあるけど,
それはおいおいこのブログの中で書いていくこともあるだろう.

ということで,先週は大学の吹田キャンパスから
北千里駅までの道のりを何度も往復した.
駅まで続く長い坂道の両脇には,
色づいた木々が並んでいる.
私は全くといっていいほど植物の名前を知らないので,
それらの街路樹が何という名前なのかも知らないが,
その下を歩いていく人の中に,
立ち止ってデジカメや携帯電話で写真を撮っている人も多い.
確かに黄色や赤が緑の中にグラデーションを作っていて美しい.

しかし,私がそれに気づいたのは,
誰かが木々を見上げているのを見てからである.
それまで気付かなかった,
いや,それらを目にしていてもそのことについて考えなかった自分が
少し恥ずかしく思う.

革新的な技術を目を皿のようにして探し回るというのもいいが,
日常の中の変化に心を留めるという感覚も必要だ.
意外に見落としているものの中に
大切なものが見つかるのかもしれない.

2008年11月14日金曜日

調査専門委員会に出席

今日は,水曜日とはまた別の電気学会の
調査専門委員会に参加.
ソフトスイッチングや新しいパワーデバイスの適用による
回路の効率向上を図るパワーエレクトロニクス技術の
調査を行う委員会である.

今日が1回目.
2つの招待講演があった.
ひとつは,パワーエレクトロニクスが地球環境問題に
果たすべき役割に関するお話.
もうひとつは,SiC-MOSFETの開発状況の報告であった.

新しいデバイスであるSiC-MOSFETの市場投入が
待ち遠しい.
素子の定格的には,1400V,50A程度まできているとのことで,
すでに実用化段階にあると思われた.
しかし,やはりコストが高い.
これはウェハの生産コストが影響しているようだ.

実は,SiCウェハの世界シェアの9割は,
アメリカのクリー社によって占められている.
はっきりいってしまえば,彼らの言い値で価格が決定される.
価格を聞いて,私たちもずいぶんびっくりしてしまった.

では日本はどうなのか?という質問が出た.
まず,この数年ではSiCのデバイスについては
日本のメーカが世界のトップを走っているとのこと.
なかなか嬉しい話である.
ウェハについても,来年くらいには
日本のメーカも出荷を開始するとのこと.
ぜひ独占市場に風穴を開けていただきたいものである.

しかし,SiCは欠陥の少ない結晶の育成方法に難があり,
いまだに大量生産には課題がある.
この大量生産性から考えるとGaNの方が有利なのだという.
GaNの今後の動向が非常に気になるとの話だった.

と,ちょっと専門的な話になってしまったけれど,
こうした話を聞くことができるのが,こうした委員会に参加する
醍醐味である.
良い勉強の機会である.
また人的交流の場でもある.
今日は残念ながら懇親会は失礼させていただいたのだが,
(かなり後ろ髪ひかれたけれど)
次の機会はぜひ参加して,メーカや他大学の方々と
いろいろなお話をさせていただきたいと思うj.
こうして考えると学会活動は確かに,
日本の産業・研究を下支えしているようである.
技術的にも人材的にも.

2008年11月13日木曜日

風邪をひかなくなったのは

風邪はほとんど問題がないほど治癒した.
今回の回復力にはわれながら驚く.

最近,私は風邪をあまりひかなくなった.
以前は,頻繁に風邪をひいていて,
周囲からよくズル休みではないかと
思われていたほどである.
(ミウラ風邪とか呼ばれていたし)

しかし,この4年位はほとんど
風邪で倒れたことがない.
自分でもよくやっていると思う.

風邪をひかなくなった大きな理由のひとつは,
週末に子供たちと一緒に過ごす,
あるいは仕事で過ごすことが多くなったからだと
思っている.

以前の風邪をひくパターンは,
週末に何時間も寝だめをするとか,
深夜遅くまで酒を飲みながらビデオを鑑賞するとか,
そうした不規則な生活が
その引き金となっていたように思う.

結婚して,子どもができて,
日曜日を寝て過ごすことができなくなってしまった.
すなわち,週末になっても
気を抜くことができなくなったのである.
そのために,風邪をひかなくなってきたのではないかと
思っている.

そして,次の大きな理由は
身体が鈍感になったからではないかと思っている.
風邪を良くひいていたころは,身体を鍛えていた.
感覚も今に比べると鋭い.
環境の影響がすぐに体調にあらわれていたような
気がする(それは修行不足ということだけれど).

また,風邪というのは心身の偏りを治すものだという
整体の考え方でいくと,
その偏りを直そうという力が今よりもずっと強く
働いていたように思う.
現在,風邪をひかなくなったのは,
そうした原因となる偏りが少なくなったということではない.

逆に身体が鈍感になって,
修正力が働かなくなったのが本当の理由だろう.
歳をとった.
稽古不足,運動不足になった.
結局はそういうことだ.

では,心身に偏りがあるのに,風邪をひかない人はどうなるか.
風邪をひいたときに命にかかわる大病となってしまう,
あるいは別の病気が表れて大病をする,と言われる.

風邪をひかなくなって素直に喜べないのが
今の私である.




2008年11月12日水曜日

体調の信じられない回復

医者に行ったことにした暗示をかけた効果があったのか,
今日は昨日とうって変わって,風邪が回復している.
本当に心理的な効果が大きいのか,
それともぐっすりと睡眠をとったのが良かったのか,
とにかく復活しつつある.

昨日は,電気学会関西支部主催の講習会
「直流電気鉄道における電力貯蔵装置の適用例と
今後の展望」に参加していたのだけれど,
かなりつらかった.
頭痛や咳もひどかったのだけれど,
何がつらかったといえば,
強烈な眠気に耐えることであった.
昨日は鼻水がひどかったので,
鼻炎のための薬をのんだのだけど,
その直後から,まるで後頭部を殴られたような
眠気が襲ってきた.
この睡魔との闘いが一番きつかった.
しかし,それでも講習会はちゃんと聴いたし,
得るものは得た.

今朝起きてみると結構回復していたので,
午前中の講義もしっかりと終え,
すぐに電気学会の調査専門委員会へと出かける.
昨日と同じ,中央電気倶楽部である.
ここでは司会の役目も無事果たし,
また大学に帰ってきた.
今晩は大事をとって,委員の皆さんとの酒席は
失礼させていただいた.
今日はこのまま早めに帰宅して,
またまたたっぷりと睡眠をとり,
明日以降に万全の体制で臨む予定である.

しかし,我ながらここまで風邪が回復するとは
思ってもみなかった.
少しうれしい.
まだ若いのかも(笑).

ただ,この暗示と身体の関係については
いろいろと思うことがある.
また風邪をひくことと身体の感覚の鋭さとの
関連性も.
これらについては,また明日以降に書きたい.
今日はともかく早く帰って寝る.
これに限る.

2008年11月11日火曜日

本格的な風邪,心の持ちようで治す

いやどうも,風邪が本格的になってきた.
鼻水も頭痛もかなりひどいし,
関節まで痛くなってきた.
これは,かなりまずい.
今日の講義もマスクをして行う羽目に.
学生のみなさん,すみません.

風邪というのは,やはり心理的な影響が
大きいように思う.
いえいえ,仕事が嫌だからひくというわけではなく(笑),
「風邪をひいた」と自分でそれを確認することによって,
風邪の度合いがますますひどくなっていくような気がする.
本当は,風邪が進行することによって,
そのように感じるのかもしれないけれど,
実感的には,自分の心が先で,
身体があとから風邪になっていくような気がするのである.

この逆も良く経験する.
私は見てのとおり身体が子供のころから弱かったので,
よく風邪をひき,熱を出して寝込んだ.
親が,これはどうしようもないと医者に連れていくのだが,
病院に行って診てもらって帰ってくると,
症状は俄然良くなり,ケロっとしたりしている.
医者に診てもらい,薬を出してもらったことで,
子供は安心して,風邪が治ってしまうのである.
これこそ心の働きである.

こう考えると,今の私も,
あの医者に診察してもらったときのように,
安心さえすれば風邪が快方に向かう気がする.
自分に暗示をかけて,
子供のころ,病院に行って帰ってきた時のような
安堵感を得ることができればいいのだ.

昔,どこかのタレントが風邪をひかないコツは,
自分が風邪をひいたことを絶対に認めない,
と話していたことを覚えているけれど,
これも一理ある気がする.
ただし,風邪を否定することによって
逆に「風邪」を意識せざるを得ないのが
問題と思われるけれど.

心の持ち方を変えると,
ずいぶんと身体も楽になってきたような気がする.
風邪は心と体の偏りを直すために,
ひくものであるというのであれば,
その原因が取り除くことができたら,
もはや風邪である必要はない.
とにかく,今の風邪を治すことにしよう.

#風邪をひくと無性に腹が減る.
これは私だけなのかな?

2008年11月10日月曜日

異分野の交流の場としての連合大会

先週末は関西にも冬の寒さが訪れ,
紅葉もぐっと色づくスピードを加速するかと
山の木々に目を凝らす...なんて
そんな余裕のある週末を過ごしたかったけれど,
残念ながら仕事だった.
いや,学会なのでこれを仕事と呼ぶべきか.
とにかく出かける必要があった.

京都工繊大学において開催された
電気関係学会関西支部連合大会に
参加したのである.
朝早くからのセッションもあるので,
兵庫の山奥に住んでいる私は,
朝5:30頃に起きて7:00前には
出かけなければならない.
吐く息もすっかり白い.
朝の寒さが身にしみて,冬の到来を感じる.

「電気関係学会」というのは,
電気学会,電子情報通信学会,照明学会,
映像情報メディア学会,日本音響学会,
電気設備学会の6学会を指す.
これら各学会の関西支部が主催して,
毎年この時期に開催されているのだ.
(学会には,地方地方に支部が設置されている)

伊瀬先生のお話によれば,
第1回目の開催は昭和21年というから,
戦後1年目からの伝統ある大会ということになる.
その時は3学会(電気学会の他は知らない)で,
参加者は300人程度だったのだという.
たぶん,各学会でそれぞれ大会を開いても
集まる人は少数だったろうから,
連合大会という形が取られたのだと思われる.
しかし,それから60年以上が経って,
今回の参加者も900人程度はあったという.
地方大会としては非常に大きなものといっていい.

この異分野が連携して開催されるというところに
面白さがあるはずである.
私などは,通常電気学会くらいしか参加しないのだが,
照明学会などの発表で
「防犯のための照明の色」に関わる研究とか,
「調理空間における光環境の実態」などという
発表タイトルを見ると,ちょっと聴いてみたくなる.
これが大切である.
異なる学会の発表内容のほとんどは
残念ながら聴いても理解できないのだろうが,
意外とその考え方や検証の仕方など,
新しい研究のタネが見つかるかもしれない.
ヤジウマ根性の他に,そんな期待も確かにある.
(単に照明学会は女性研究者が多い,
ということで興味があるわけではありません!)

どの学会も電気に関連した分野とは言え,
他の学会のやっている中身はよくわからない.
まるで同じマンションには住んではいるけれど,
隣に住んでいる人が何をやっているかは不明,
というような状況なのである.
今回の大会は,その隣人の生活をのぞける,
貴重な機会なのだ.

しかし,現在の連合大会は少し分化が進み過ぎていて,
他分野の講演が聴きづらいプログラム構成になっている.
せっかく異分野の専門家が900人も集まっているのに,
もったいないことである.
もっともっと交流を深める会にできないだろうか.

実は,来年この大会は大阪大学で開催されることになっている.
学会のとりまとめ幹事も電気学会である.
そこでは,もっと異分野交流を進めるアイデアも
実現されるとのことである.
ということで私は,
来年のこの大会に,さらに期待をしているのである.
(とはいえ,幹事校としての
その準備の大変さを思うと気が重いのだけれど)

#寒い京都で私は,
すっかり風邪をひいてしまったようである...

2008年11月7日金曜日

MICHAEL CLAYTON

作家のマイケル・クライトンMichael Crichtonが亡くなったときいて,
映画のMICHAEL CLAYTONを思い出した.
たぶん英語で発音すると,
クライトンとクレイトン位の違いはあるのだろうが,
ついつい連想してしまった.

映画のMICHAEL CLAYTONの方は,
ジョージ・クルーニー主演の渋い渋い訴訟サスペンスである.
私はこれをギリシャ ロードス島からの帰りの飛行機の中で観た.
監督は,トニー・ギルロイ.
「ボーン・アイデンティティ」などの脚本で知られる.
そんなことはつゆ知らず,
眠い目をこすりこすり,暗い機中で見始めた.

最初から意味がわからない.
主人公のクレイトンは弁護士事務所に雇われている
トラブルのもみけし屋であるのだけれど,
彼がギャンブルをして,
車に乗って,
野原に馬がいて,
車が爆発して...

観ている者はどうなっているのだろうと思う.
導入の語りも思わせぶりな独白だ.
そして突然話は4日前に戻る.

このジョージ・クルーニー演じる主人公がいい.
私の好きな,借金まみれのにっちもさっちもいかない
状況のなかで喘いでいる優柔不断な男である.

そして,同僚が巻き込まれた巨大な訴訟の陰謀.
この同僚役の男優が本当にすばらしい.
ついに精神的におかしくなってしまうのだけれど,
その男の人生に救いが訪れたことが,
彼の演技から心に伝わる.
このころには,夢中になって画面を見つめていた.

ティルダ・スウィントン演じる企業の重役も素晴らしい.
脇の下には汗をかくし,お腹周りには肉がついているし,
なんというか,女の上司とはかくたるものという役作りが
こちらに伝わってくる.
(彼女はこれでオスカーを獲得したらしい)

だいたい話の流れが飲み込めるころになっても,
登場人物は皆,不安定な状況で,
観ているものも,落ち着かないまま映画はエンディングに近づく.

そして,このエンディング.
これがこの映画の一番の欠点だと私は思う.
正直,ちょっとがっかりした.
最後に,してやったり,ということになるのだけれど,
そんな結末は私は期待していなかった.
多くの観客は,それですっきりするのかもしれないが,
私は,レイモンド・カーヴァーの小説のように,
最後まで人生の苦渋を味わうような映画であってほしかった.
(まぁ,そんな映画を作ったら誰も見ないのかもしれないが)

しかし,全般的にこの映画は素晴らしかった.
一緒に観た"No Country for Old Man"とともに
深く印象に残った.
登場人物の魅力は,最後の欠点を補ってあまりあるほどである.
こうした映画が日本にも登場しないだろうかと
つくづく思う.

#この映画は残念ながら日本語の吹き替えで観た.
クルーニーの吹き替えの声が本当にひどかった.残念.
日本では「フィクサー」という題名だったそうである.


2008年11月6日木曜日

吹田祭,落語会

吹田祭では,毎年,落語会が開かれる.
学生落語ではない,プロの落語家の方々の会である.
桂一門の噺家の皆さんがやってきてくださるのだ.
そして,これが無料なのである.
本当にありがたい.
よく学園祭に,歌手やタレントを呼ぶけれど,
この落語会の方がずっと私にはうれしい.

私はこれが毎年楽しみで仕方がならない.
確か一昨年は,桂文珍さんがやってきた.
会場が一体となって,落語なのに
コンサートのようなグルーブ感があった.
話芸とは,ここまですごいのかと,
生で聴く落語に感動した覚えがある.

昨年は,仕事のために聴くことができなかったのだが,
今年は,しっかりと聴くことができた.
演目は,

桂春菜:「母恋いくらげ」
旭堂南海(講談):「山内一豊の妻」
桂小枝:「くっしゃみ講釈」

というラインアップ.

桂春菜さんは,一昨年は「七度狐」を聞いた
覚えがあるのだけれど,
今年の方がすこし良かったかなぁ.
古典落語を現代風にどうアレンジして話を進めるか,
ここらへんがポイントになるのだろう.
今回は,すれた小学生のバス旅行をからめての進行だった.
くらげや,いかや,たこのマネもなかなか素敵でした.
来年もまた楽しみにしております.

さて,旭堂南海さんは落語家ではなく講釈師.
お題は「山内一豊の妻」ということで,
あの有名な,妻・千代のお金で馬を買い,
信長の前で誉れをあげて,
その褒美にかんざしをもらうというお話をひとつ.
これが本当に良かった.
話が徐々に盛り上がっていくと,
会場もぐんぐんと引き込まれていくのがわかる.
大阪弁を話す馬などの登場でところどころに
笑いをちりばめ,聴いた後に爽快感が残った.
これぞ講談の醍醐味.というところだろう.
またいつかどこかで,ぜひ講談を生で聴いてみたいと思う.
(NHKラジオでも講談はときどき聴くことができるのだけれど,
あの盛り上がりはやはりライブじゃないとだめかな)

職業はレポータではなく落語家なんです,という
笑いから始めた桂小枝さんは,
枕がまず兄弟子やTVの共演者の裏話から.
大変面白かったのだけれど,ちょっと笑うネタとしては
卑怯かなとも思ったりもして.
でも,本当に面白かった.
それで若い人のつかみもバッチリだった.
古典落語のネタは,デートの最中講釈師に恥をかかされた男が,
復讐のために講談の最中に唐辛子を火鉢で焼いて,
講釈師にくしゃみをさせて恥をかかせてやろう,というお話.
主人公の男は,これが物忘れがひどい,ちょっと足りない男.
小枝さんは,こうした役が本当にうまいと感じた.
落語では,こうした少し足りない男が活躍する話が多いけれど,
そうした話においてこそ,
小枝さんの本領が発揮されるのではないだろうか.
ちょっと言葉の繰り返しが多いな,とも思ったのだけれど,
それがひとつのリズムを作り出していて,
それはそれでよかったのかもしれない.

とにかく,3つの演目どれも良かった.
これが大学で聞けるなんて...
幸せ感満腹である.
笑うことによってずいぶんと楽になることってある.
聞くところによると繁昌亭もずいぶんと人が入っているそうである.
この幸福感に一度味をしめたら,
やっぱりリピータになる人も多いのだろうなぁ.
私も,すっかり落語好きとなってしまったし.

#全然話はかわるけれど,
マイケル・クライトンが亡くなったそうである.
彼は,SF作家といっていいのだろうか.
ジュラシックパークなんて,子どもたちに大きな夢を与えてくれたなぁ.

2008年11月5日水曜日

苦い後味

相変わらず忙しいのだけれど,
それでも移動中の車内などで本を読んでいる.
先日読み終えたのは,

「象」(レイモンド・カーヴァー,村上春樹訳)

すっかりファンになってしまったカーヴァーの短編集である.

なぜこんなにもこの作家に惹かれるのか.

まずは,文体がいい.
これは村上氏の訳の影響もあるのだろうが,
修飾の少ない短文を積み重ねて,
淡々と物語が進んでいく作品が多い.
こうした簡潔な文章は私の中にリズムを生み出し,
すぐに物語の中に引き込まれてしまう.
それが気持ちがいいのである.

次に,登場人物がいい.
多くの作品で,もうどうしようもない現実に追い込まれた
中年男が登場する.
これが全然ヒーローでもなく,冷酷な悪党でもない.
どこにでもいる,弱い男なのである.
村上氏がいうところの「ズルズルとした状況」においても,
未来に希望がもてるような果断を行うこともない.
ただ,にっちもさっちもいかない状況に耐え忍ぶだけである.
「象」という作品では,最後に少し明るい描写があるのだけれど,
状況的には全く何も解決されない.
救いのない,あまりにも苦い現実.
だからこそ,リアリズムを感じることができる.
どうしたものか,そこに非常にシンパシーを感じてしまう.
私がそういう状況というわけではないのだけれど.

そして構成がいい.
単純なひとつの物語で終わるものにはなっていない.
いくつかのエピソードが複合的に積み重なって,
作品に広がりを与えている.
主たる話には関係のないエピソードにも,
なにかしらの意味があり,
それらが読後感に大きく影を落とす.
この重さがたまらなくいい.

この「象」という作品集は,生前,最後に
刊行されたものであるらしい.
最後に収録されている「使い走り」には,
カーヴァーがよく並び称されている(らしい)
チェーホフの最期が描かれている.
登場人物たちそれぞれの心情,
そしてやはり短文で描写されていく情景.
それらは静的ではあるけれど,
非常に緊張感をもって読ませるものになっている.
この作品を書いていたころは,カーヴァーは
癌による自分の死期を知っていたらしい.
闘病生活のなか,最後の力を振り絞ってまとめたということを
村上氏の「解題」を読んで知ったときには,
なるほど,それでと,納得したくらいである.

もちろん,他の作品も大変にすばらしい.
そしてどの作品も苦い後味を残す.
(「親密さ」の読後感など,どのように表せばよいのだろう)
だが私は,その苦さに中毒となり,
ますます彼の作品に惹かれてしまうのだ.
まだまだ彼の作品を読み続けていくことになるのだろう.

2008年11月4日火曜日

伝統の力

週末の3連休もなんだかんだと
忙しかった.
特に昨日は地元の祭りということで,
模擬店でやきそばを売っていた.
といっても,私は料理がからきしダメなので,
やきそばのソースを計量していただけなのだけど.
ただ,それでも目が回るように忙しく,
3時間飲まず食わずで働きっぱなしだったことも
あって,本当に疲れた.
おかげで晩のビールが美味しかったこと!

そして連休明けの今日は大学祭の「吹田祭」であった.
なんと今年は電気系教室創立100周年ということで,
記念講演会が開かれた.
たぶん200名以上はいたであろう聴衆を前に,
電気系の歴史と未来への期待を4名の先生方が講演された.

私も恥ずかしながら大阪大学電気系について
初めて知ることが多く,大変勉強になった.
とはいっても,その知識がもちろん陽に
すぐさま研究に役立つわけではないだろう.
しかし,自分の所属する組織のルーツを知るということは,
意外に大切なような気がする.

歴史を知ることでプライドを持つなどというものではないけれど,
綿々と受け継がれた歴史の中で,
それぞれの先生方の思いが今につながっている.
そのことが実感できた.
これが伝統というものなのだろう.

しばしば伝統というものは,
新しいものへの抵抗勢力として敵視される.
しかし,自分の足元を振り返れば,
その基盤はまぎれもなく,その伝統の上に
築かれたものであり,先輩方の業績は,
決して否定されるべきものではない.

伝統がある,ということはそれだけで財産なのだと思う.
私もその伝統に恥じないように,
努力はしたいと思っている.

2008年11月1日土曜日

妖怪が街を徘徊する

なんとか連休前にひとつ仕事を片付けることができた.
ちょっとほっとする.

そういえば今日はハロウィーンだったような...
それどころか今日から大学は大学祭 吹田祭だったような...
全然関係なく仕事をしていた.
いや昼間は,吹田祭にあわせて開催される
電気系教室創立百周年記念講演会についての
準備はしていたのだから,それなりに大学祭の
影響はうけているのだが.

さて,ハロウィーンと言えば,魔女やお化けが
万聖節を前に町に繰り出すという夜である.
それで仮装して出かけるということになったらしい.

日本で言うと,妖怪が町を闊歩するということだろうか.
日本では仮装する風習はなくても,
やはり昔は妖怪は日本の界隈を
歩きまわっているように思われていた.

夕方暗くなってきて,すれ違う人も誰だかわからなくなる.
誰だかわからない身元不明な人は,
昔の人にとっては妖怪に
等しかったということなのかもしれない.

夕方を「黄昏」と書いて,「たそがれ」とか
「かはたれ」などと呼ぶが,
もともとは「誰ぞ彼」とか「彼は誰」とか,
そういった言葉が語源であるらしい.
柳田国男の著作で読んだ覚えがある.
身近に妖怪がいると信じられていたのだろう.

電話で「もしもし」と呼びかける理由にも
面白い話がある.
実は,どうも妖怪は二度同じ言葉を
繰り返すことができないという話が
流布していたらしいのである.
電話というものが普及し始めたころ,
電話の向こうの人は,やっぱり身元が少し
怪しいひとであったに違いない.
そこで,自分は妖怪ではありませんよ,
ということを示すために,「もし」と
一回だけ問いかけるのではなく,
「もしもし」と2回問いかけたのだとか...
(これも柳田の著作で読んだんだっけ?)

とにかく,日本においても妖怪は
身近なものであったらしい.
ほんの百年も前のことである.
ハロウィーンはなくても
カッパ祭りとか,アマノジャクの祭りとか
なまはげとか,そういったものが
日本にもある.

ほんの百年くらい昔は,
異世界がもっと身近にあった.
これは世界共通のことなのかもしれない.

2008年10月30日木曜日

時間泥棒と忙しさの負のスパイラル

今日は名古屋へ出掛けた.
名古屋は案外に近い.
車中で仕事をしようにも
あっという間に到着してしまう.
この短時間でも仕事に集中できなければ...
まだまだ私のモバイル道は遠い.

昼間の新幹線だったのだけれど,
N700系だったこともあるのか,
PCを広げて仕事をしている乗客が目立つ.
素晴らしい,彼らは.
そう思う反面,ここまで仕事をしないと
だめなのか,とため息もついてしまう.

仕事環境が便利になればなるほど,
私たちの時間は仕事に食されていく.
仕事の効率が改善されて
生み出された新しい時間は,
また次の仕事のために費やされる.
忙しさが加速度的に増加していく負のスパイラル.
エンデの「モモ」に出てくる時間泥棒とは,
実は,このモバイル機器なのではないだろうか.

ノートPCを広げ仕事を進めることで,
私たちは幾分安心した気持になる.
「これで少しは仕事が進んだ」

しかし,実は意識に上がらない
もっと深いところで大きな損失を
生んでいるのかもしれない.

「君は3個のダイヤモンドを掘りあてて
そして4個のダイヤモンドをなくしてしまう 」
(佐野元春)

自分の時間は自分で確保しなければならない.
時間泥棒に取り上げられないように,
大事に守らなければならない.

2008年10月29日水曜日

疲れていると

最近,ちょっと疲れているらしく,
言動が思うようにならない.
ときどき何を話しているのか
自分でもわからなくなる時があるし(危ない?),
認識力もずいぶんと低下しているようだ.

学生時代,塾講師のバイトをした.
その塾では夏に10日ほどの合宿をする.
これが朝5:00頃から起きて勉強するのだから,
子供たちと私は,ずいぶんと身体に負担がかかる.

親元を離れ,山奥の民宿で合宿するのだから,
環境も,それはそれは素晴らしく,
朝の冷たい空気はおいしいし,
涼しい午前中のうちに勉強は終えてしまうのだから,
子供たちも最初のうちは集中力が高まっている.
昼からはずっと野外活動に終始するので,
気分も上々である.

しかし,3日もすると皆疲れが蓄積されてくる.
朝起きてラジオ体操をしても目が開かなくなってくる.
授業中にも居眠りをする子供も出る始末.
私は私で,毎晩塾長とたっぷり酒を飲んで
語らうものだから,身体も内臓も疲労困憊である.
そんなこんなで疲労が言動のあちらこちらに
あらわれてくるようになる.

そんなときに塾長から伺ったお話.
「子供たちが疲れているかどうかを知りたいときは,
ゴミ拾いをさせればよい.
疲れている子供は,たとえ目の前にゴミが落ちていても
気がつくことはないものだ」

そんなものかと思っていたけれど,
子供たちに掃除をさせると案の定,
目の前にゴミが落ちていても拾おうとしない.
私に言われて初めて気づく調子である.
それがあまりにも強い印象に残ったので,
今でも上記の塾長の話はよく覚えている.

そして今,その言葉をまた思い出している.
私もその状態にあるようだ.
目の前にある事柄が認識できない.
ポカをする.
話している事柄が論理的でなくなる.
ちぐはぐな話をする.
これではイカン!
まずはゆっくりと睡眠をとって休もうと思う.
寝ることはなによりも勝る栄養剤である.

帰宅のドライブも十二分に気をつけねば.
さてさて,今日は帰ることにいたしましょう.





2008年10月28日火曜日

~するときに限って

火曜日は朝1番から講義がある.
だから余裕をもって自宅を出発する.
...なのだが,今日は途中で事故があったらしく,
ひどい渋滞だった.
あまりに車が動かないので,講義に間に合わないかと
覚悟したくらいである.

なんとか講義10分前に到着して事なきを得たが,
そこで思うのは,
「なんで講義のある日に限って...」
ということである.
振り返ってみると,こうして運が悪いと思うことが
とにかく我が身に多い.日頃の行いの悪さか...(笑)

ちょっと冷静に考えてみると,
こうした運が悪い出来事いうのは,
ある確率で日常的に発生していて,
私に都合の悪い条件でそうした出来事が起こる場合に,
私の記憶に強く刻まれることになっているだけなのかもしれない.
そうしたバイアスがこうした考えの原因なのか?

いや,違う.
私の海外旅行のトラブル発生率(たとえばバッゲイジロストとか)は
明らかに人のものを上回っている.
最近は私はそうした星の下に生まれたのだと諦めているけれど...

しかし,「~するときに限って~」という考えは,
誰もが経験することなのではないだろうか.
ふと,マーフィーの法則ということを思い出した.

マーフィーの法則というのは,例えば,
ジャムをたっぷり塗った食パンをカーペットの上に落としてしまう.
このとき,ジャムが塗ってある面がカーペット側となる確率は,
カーペットの値段が高くなればなるほど高くなる,
などという他愛もないものである.
しかし,これは心理的なバイアスを示している.

こうした状況になることをマーフィーが現れると呼ぶ.
だから私たちは,マーフィーを事前に殺しておかなければならない.
先に述べたような法則が本当であるならば,
計画が重大であればあるほど,
コストが甚大であればあるほど,
マーフィーの出現を防がなければならないのだ.

科学的な根拠はないだろうが,
マーフィーの法則は私たちの感覚に非常になじむものであり,
彼が出現しないよう人事を尽くさなければならないと
教えてくれるものでもある.

ことわざもそうだが,
こうした人々の生活から生まれた言葉には
真理が隠されているのだと思う.


2008年10月27日月曜日

会話はリズムというけれど

先週末は結局仕事でつぶれてしまった.
土曜日は,午前から大学に来て仕事.
昼は,大阪工業大学に行って,
パワーエレクトロニクス学会若手幹事会に参加.
夜は,また大学に戻ってきて夜中まで仕事.
日曜は日曜で,家で仕事三昧だった.
なんとか仕事を終えるめどはついたけれど,
もう少しスマートに仕事は進めたいものである.

土曜日の若手幹事会.
相変わらず,学生のみなさんは頑張っている.
大学院,大学,高専の代表の学生たちが,
12月に開かれる研究会について
アイデアを絞っている.
はたからみていて,ずいぶんといい感じ.
もう少し,周囲を気にせず,
発言ができるといいのになぁ,とは思ったけれど,
それを練習できるのがこの場である.
さらに努力をしてほしいなぁ.

さてその日,会場の大阪工業大学にバスに乗って行く途中,
公園で街頭演説が行われているのを見た.
どこかの党首が来ていたらしい.
意外に聴衆は多く,警備もものものしかった.
スピーカから流れる演説を
少し耳にすることができたのだが,
さすがに話し方がうまい.
バスで通り過ぎる短時間のことなので,
話している内容はわからなかったけれど,
その話し方のリズム,間の取り方が,
耳を惹きつけるものになっていた.

このリズム・間というものは
文章に表すとずいぶんとその情報量が落ちてしまうので,
あまり話題にならないようだけれど,
(小説家では,文体とか作風とかの話題になるのかな)
会話や講演などにおいて,この二つの要素の影響は
非常に大きいことは間違いがない.

以前にプレゼンは印象が大事と記事に書いたけれど,
話しぶりというのがその印象の良し悪しを大きく左右する.
話を聞いていて,やっぱり気持ちの良くなるような
リズム,間というものがある.
そのプロというもののひとつが落語家であり,
また別のひとつが政治家ということなのだろう.

ただ,落語家は話している内容が大切だけれど,
政治家は内容は二の次である.まずは印象第一なのだ.
一生懸命である,みんなのために働いている,
親しみやすい,などなどの印象を聴衆に与えることができれば,
目的は達成されるのだ.
私が見た街頭演説は,その政治家の技術が
試される機会であるのだろう.
私もそのうまさにうならされたわけである.

でも,でもである.
政治の場合はやっぱりそれではいけないと思う.
印象だけで騙されてはいけない.
そこはしっかりと区別して聴く技術を
私たちも磨くべきである.

ただ,面接試験や講演などにおいては,
そうした会話の技術は大変重要である.
学ぶべきところは学んで,
自分のスキルアップにつなげよう.

2008年10月24日金曜日

移動するオフィス

昨日もブログの更新ができなかった.反省.
世の中で頑張っているブロガーの方々は
大変な努力をされているのだと
つくづく思う.
まぁ,このブログはストレスなくゆるゆると
やっていますので,時々の不更新は
お許しいただきたく.
(というか,このブログに読者などいるのだろうか?)

今日は東京に出張だった.
締め切りが迫っている書類を仕上げなければならないのに,
つらい状況である.
明日も学会活動で思うように時間が取れない.
ピンチである.
まぁ,やれるだけのことをやるしかないのだ.
こういうときに,私はあんまりテンパらないようだ.
鈍感というべきか.

この「鈍感さ」ということであれば,
私は人に自慢できると思っている.
それがいいことなのか,悪いことなのか,
よくわからないけれど,
少なくとも自分の心に過度の負荷をかけないことは
良いことだと思っている.

さて,今日の出張で思ったのは,
新幹線の乗車時間というのは,意外に仕事が進むということ.
以前に伊瀬先生が,2時間半外乱なく時間が過ごせるというのは,
それはそれで良い,とおっしゃっていたのだけれど,
私もそうだと思えるようになってきた.

ノートPCで仕事をするのはいいのだけれど,
私はどうも乗り物酔いがしてしまう.
東海道新幹線はそれなりに揺れるから,
画面を見つめていると,気持ち悪くなってしまう.
寝不足だったりすると,すぐに頭痛がしてくる.
どうも私の身体はモバイルに便利なようにはできていない.

しかし,今日の新幹線はN700系だった.
これが素晴らしいのだ.
旧来の新幹線に比較して,明らかに揺れが小さい.
いや,揺れの質が変わったというべきか.
アクティブなサスペンションが導入されたと聞いていたが,
そのおかげなのだろう.
長時間画面を見ていても,それほど疲れなくなってきた.
お陰で,往きの新幹線の中ではいくぶんか仕事を
進めることができた.
こうして考えてみると,確かにこの2時間半は貴重である.

ただ,帰りの新幹線は旧来型であった.
やっぱり酔ってしまう.
気分のせいかとも思ったが,
気持ちが悪くなることは避けられなかった.
う~ん,結局明日,頑張ることにした.
仕方がない.

東京への出張はなるべくN700系を使うことに決めている.
しかし,コンセントが使用できる窓側の席がなかなか
予約できないのが悩みのタネである.
窓側の席に座ることができれば,
2時間半コンセントにノートPCをつないで仕事ができるし,
疲れたときに目をあげれば,
車窓から堂々とした富士の姿を見ることができる,
そんな書斎,なかなか悪くはないと思うのだけれど...

2008年10月22日水曜日

できるだけ多くのインプットを

昨日は午後から,天王寺高校の
研究室見学の対応をする.
高校の行事で大学を見学するという
ことになっているらしい.
見学に来る高校生も大変だなぁ.
とはいえ,将来の進路の選択のひとつに
考えてもらえるのであれば,
どしどし来ていただきたい.
工学部は優秀な人材を求めています!

対応する研究室は順番で
回ってくるのだけれど,
今回は伊瀬研究室も担当のひとつとなって
(高校生は複数の研究室を見学する)
研究内容を説明した.
(前半は私,後半は伊瀬教授が対応)

見学してくれたのは高校1年生のみなさんということで,
電気に関する物理の授業も
まだ始まっていないかもしれない.
なので,新エネルギーとパワーエレクトロニクスに関する
身近なお話を少しした.

研究室に来ると実際の半導体素子(IGBTやMOSFET)も
手にとってみることができるし,
なによりも「研究をやっている」という雰囲気を
味わうことができる.
まぁ,先生の話が面白いかどうかは別にして...

昨日も,私が対応した高校生に,
「パワーエレクトロニクス」を知っていますか,
と尋ねてもひとりとして知っている人はいなかった.
「インバータ」という言葉もピンとこない.
結局,エアコンの中身や携帯電話の充電器,
ノートPCのアダプタの話をして,
パワーエレクトロニクスをなんとか理解してもらう.

そして研究室の学生たちが製作した回路装置を見学して,
彼らがどんな毎日を送っているのかをなにかしら
想像してもらえたようである.

先日,関西電力を訪問させていただいた時も
思ったのだが,すべては「知る」ことから始まると思う.
こうして研究室を一度見たことがあるというだけで,
電気に関する知識,技術に親しみが(少しかもしれないが)
湧いてくる.
その始めの一歩が大切なのだと思う.

そのはじめの些細な情報が頭に
インプットされているか否かで,
その後の展開が大きく違うこともあるのではないか.
少しでも知っていれば,考えること,アイデアは変わるだろう.

だから,高校生や学生のうちに
できるだけ多くの情報を頭にインプットするということは,
その後の選択肢を増やすということに大変役立つはずである.
(当然,今の私にとっても)

とにかくインプットをする
そうしなければ何も始まらない.
そして,とにかくアウトプットもする.
実は,そうしなければ始まらないことも多いのである.

2008年10月21日火曜日

自分の手を動かして

昨日は,大阪大学と京都大学の
電力関係の専攻の学生に向けて行っている講義に
今回は特別に参加させていただいて,
関西電力の研究所の施設を訪問させていただいた.

関西電力が所有する
送電系統のシミュレータAPSAを用いて
学生たちが実習を行うのだ.

APSAというのは,実際の系統を使って
実験をすることが難しい電力会社において,
同じ挙動を示すように,スケールダウンして,
抵抗やインダクタンス,負荷,発電機などを,
モデル化して接続したものである.
スケールダウンといっても,
大きな試験室いっぱいにラックが並べられている.
これによって,新規に系統に接続する装置の
制御や,過去に発生した異常現象の解明などが
可能となるのだ.

最近では,これらをすべてデジタルで実現することも
可能となりつつあるけれど,
このシュミレータは20年以上前に製作されたもので,
その多くがアナログ回路で構成されている.
そのため,モデルの変更などは容易ではないだろうけれど,
システムとしては非常に速い応答が得られ,
デジタルにおける計算時間による遅れの影響などを
考慮しなくてもよい特長がある.
ただ,負荷などの結線を変更するための
リレー盤などの大きさと
一面に配置されたリレーの数の多さをみると,
その管理維持の大変さを考えてしまう.

学生たちは,APSAに実際に触れることによって,
ずいぶんと積極的に演習を行っていたようだ.
やはり教科書の字面を眺めているだけとは,
大きく違う.

教科書で学んだ電圧の不安定現象などが,
スケールダウンしているとはいえ,
目の前の系統で発生するのである.
自分の手を動かして作業をするたびに,頭を使う.
講義の座学とは,そのあたりが大きく違う.

学生たちにもこうした実習は
おおむね好評だとの話を聞いた.
私は,こうした実習ができる環境にある
両大学の学生をうらやましく思う.
またこのような素晴らしい装置を
教育のために提供していただける関西電力殿の
志に感謝したい.

教員たちは,APSAとは別に,
同研究所で研究が進められている
SiC素子,インバータについても説明を伺った.
ここでは,高電圧用途のバイポーラ素子として,
SiCのGTOの開発をされている.
GTOの開発をしているのは,
世界でも,Cree社と関西電力とで構成される
このグループだけとのこと.
SiCといえば,みな自動車用途に目が行っているが,
大容量電力変換器への適用にむけた
こうした地道な研究努力ができるのも,
関西電力という大きな会社の特質であろう.
その結果には大いに期待しております.

ということで,昨日の見学も
「百聞は一見に如かず」との思いを
あらためて強く感じさせた.
学生たちに必要な教育とは何かと考える場合に,
多くの示唆を含んでいる.
学生たちの頭を自主的に働かせる.
そんな講義がいつもできたらいいのにと思う.
なにか良いアイデアはないものか.

2008年10月20日月曜日

ネットは「物知り」を殺す

今日は大学の2年生の歓迎会
(私が所属するコースと呼ばれるグループの)
だったので,少し酒を飲んでしまった.
若い人たちと飲むと,
うれしくなってついつい酒の量が多くなってしまう.
というか,酒の量は大したことはないのだけれど,
短時間に飲む酒の量が多くなって,
どうもうまくいかない.
ちょっと酔ってしまって,
キーボードを打っているこの手も
少しおぼつかなく,ミスタッチが多い...

今日は,いろいろと体験をしたのだけれど,
それは明日以降に記事にすることにしよう.
今日は,土曜日のお話をする.

土曜日は,パワーエレクトロニクス学会の研究会で
講演をした.まぁ,出来は65点くらいだろうか.
合格点はかろうじてクリアしたが,
情熱が伝わったか,眠っている人はいなかったか,
と反省すると,やっぱり点数は低くなる.
まぁいい.過ぎてしまったことは
取り返しがつかない.
反省だけはしっかりとして,
あとは次に頑張ることにしよう.

さて,学会の後は,学会の役員の方々と
盃を交わした.
年齢的には,近いと言えば近く,
離れていると言えば離れているような
3人で大阪梅田の居酒屋で飲んだ.

内容は...
ちょっとここには書けないかな...
面白かったのだけれど,
もしかすると書くことに問題があるかもしれないので,
詳細についてはここには書かない.

個人的には,いろいろ興味深く,
非常に勉強になったのだけれど,
その内容とは別に抱いた感情があるので,
それについて話したい.

私は,話の内容とは違うところで,
私はバブル時代の終焉をあらためて感じていたのである.
話している内容は非常に実際的で
興味深いものだったのだけれど,
それとは別に私の頭の中では
3人の年齢を考えてか,
バブル時代のあの雑学偏重時代は
すでに終了したのだなと
あらためて実感したのである.

雑学偏重主義とは,バブルの時代,
女の子に持てるためには,いろいろなトリビアルな知識が
必要とされた.
たとえば,バーボンを飲めばバーボンの蘊蓄を,
ワインを飲めばワインの蘊蓄を,
食事をすれば食材と調理法の蘊蓄を,
オペラを聴けばオペラの蘊蓄を,
語ることによって,女の子への面目が立っていたのである.

ワインを飲めば,それは産地はどこで,
それにはどのような歴史があり,
そしてどのような特徴で,
だからどのようにして飲むのが良い,
ということを,ひと通り知っていることが
男の子のモテる条件であった.

私もその時代の男の子だったので,
アッシー,メッシー,つなぐ君,
などの男たちと一緒で,
全く自分の魅力とは関係のない
雑学を頭に詰め込んでいた.
(正直に言うと,女の子にモテたい,
ということではなくて,
そうしたことを知っていることが,
時代の要求だったように思う)
一級蘊蓄士などという称号で呼ばれたりしていた.
それだけ,知識,それも隠れた知識,
というものが重宝された時代であった.

たとえばあの時代のブランド人気もそう.
なぜそのブランドが皆にもてはやされるようになったか,
その隠れた魅力(知識)を理解してこそ,
そのブランドの魅力を知るのである.l
そうしたブランドが,バブル時代に
必要だったのである.

そして現在.
土曜日に,学会の役員の2名の方々とで飲んでいた時に,
そうした時代がなぜか思い出されたのである.
3人がバブルを経験していたからかもしれない.
とにかく,あのころの自分を思い出した.
そして恥ずかしくなった.
確かに,あのころはそれが時代の要求だった.
しかし,その知識を身につけたからといって,
現代に何のメリットがあるのだろうか.

現代は,そうした知識は,
インターネットで検索すれば,
いやというほど得ることができる.
結局,だれでもほぼ無尽蔵の知識を
得ることができる立場になった.

では,現代において一級蘊蓄士と呼ばれることの
意味はあるのだろうか.

私は,そこに創造力の必要性を認識する.
上述したように,単なる知識であれば,
携帯電話からWikiを引けば,
ほとんど意味が足りるのではないだろうか.
しかし,必要とされるのは,
その知識を活かす智慧である.
創造力である.

インターネットは,単なる「物知り」の価値を
大幅に下落させたのである.
これからの世の中,
創造力が求められるのであろう.
バブルのモテる男の時代は終わったのだ.
単純な知識ではない,智慧.
それを時代は求めている.

そして,インターネットは罪である.
知識の価値を大きく下げてしまった.
単なる「物知り」にはもはや価値がない.
彼らは,ネットによって殺されたのである.
そして,インターネットは希望である.
新たな智慧の創造が期待できる.

もう雑学を披露する時代は
終わったのだな,と私は思い,
土曜日に,酒を飲んでいた.
そして時の流れを実感していたのである.

2008年10月17日金曜日

既聴感

「天高く,馬肥ゆる秋」の言葉が
ぴったりな晴天が続いている.
さわやかな風が吹いていて大変気持ちが良い.
こうしたちょっとしたことが,
人の心の状態を変えてくれるのだから不思議だ.

今朝,出勤の準備をしているときに
聞いていたのは,バッハの平均律の第1集.
リヒテルの演奏.
CDプレーヤでランダムモードで再生する.
いつもとは異なる順番で曲が演奏され,
はっとすることも多い.
CDのようなデジタル録音ならではの
聴き方である.
(レコードの時代はもちろん不可能)

ランダム再生だと印象が変わるということは,
曲の履歴も現在の心の状態に
影響するということである.
またまた心というシステムの複雑さに感心する.

そして今朝は,ランダム再生のはずなのに,
次に流れる曲があらかじめわかっていたような
体験をした.
頭の中でメロディが流れ,
その後スピーカからそのメロディが流れてきた.
既視感(デジャブ)ではなく,
既聴感というべきものか.

もちろん,私が超能力者というわけではなく,
脳の中の一部が,私の顕在意識よりも早く
曲を認識して,その後「私」が曲を認識したという
ことなのだろう.
基本的に脳の中は,小さなシステムが並列処理を
行っているというのだから.

この時間の隙間は武道においては,スキとなる.
相手が行動を起こすとき,
その行動を起こそうという思考が起こるよりも先に,
相手のどこかの部分でその「起こり」が
始まっている.
顕在意識の認識は,こうしたときには,
身体の反応よりも遅い.
ある調査研究によれば,そこには数百ミリ秒程度の差が
あるのだという.

したがって,相手の意識が攻撃しようと考えるよりも早く,
私はその「起こり」を認識し,
それに対応することが可能なのである.
そのとき,相手は自分の行動が
まるで読まれているかのごとく感じるのだ.
(私も私の武道の先生に同様な印象を抱くことがある)

もちろん,こちらもそれを「意識」すれば,
行動が遅れるから,「無意識」にそれに
対応できなければならない.
(一刀流にいうところの夢想剣が
それにあたるのだろうか)
そしてそれはどうも修練すれば,
人間に可能なことらしい.

そんな人間の心のシステムは
非常に面白い.
いろいろなところに死角が存在する.
意外に人間の心はスキだらけなのだ.

2008年10月16日木曜日

この人間という精緻なシステム

月曜日停電で,仕事ができなかった余波が,
いまだにデスクに及んでいる.
すべての仕事が,後ろ後ろにと
追いやられているような気がする.
(昨日もブログを更新できなかった)

こうした状況になると,
ついつい「やらねば」という
過剰な緊張状態となって,
自分のパフォーマンスに
悪影響を与えるようになることが多い.
テンパってしまって,
逆に仕事の進め方にブレーキをかけるのだ.

自分のパフォーマンスが最大に発揮されるのは
以前にも書いたが,適度なリラックスと
集中が共存した状態にあるときである.
(これを私が稽古している武道では,
「心身統一」と呼び,他では
「ゾーン」とか「フロー」とか呼ばれる)

今回のように,過度な緊張,使命感に
襲われるときは,私は,これで自分がテンパっても

「世界はなにもかわらない」

と思うことにしている.

人間の心の状態は,ほんの些細なことで,
非常に大きく変わってしまう.
例えば,彼女に一言でふられたとする.
物理的には世界はなにも変わっていない.
しかし,そのたった一言の情報が,
私の心というシステムに入力されただけで,
システムの状態は大きく変化し,
そのパフォーマンスが落ちてしまうのだ.

よく世界が一瞬で変わった,という話を聞くが,
変わったのは自分であって,世界は変わらないのである.
逆に言うと,自分の心の状態がどれだけ変わっても,
世界は変わらない.
世界は粛々としてその営みを変わらず続けるのである.

自分の心の状態は,環境の影響を受けるけれど,
基本的には独立に制御できるはずである.
そして,そのきっかけとなるのは,
ほんの些細な情報入力があればよいのである.

朝に少し音楽を聴くだけで,一日を気分よく
過ごすことができる.
これも少しの音声信号が耳から
入力されただけの結果である.

こうした少量の情報によって心の状態が変化し,
ひいては内臓の具合や,運動や頭脳のパフォーマンスにまで
影響を与えてしまう.
人間というのは,なんという精緻なシステムなのだろう,と
あらためて感心してしまう.

だから,非常に差し迫った状況であっても,
自分の心の状態によって,その状況は改善しないのだから,
最大のパフォーマンスが発揮できるよう,
リラックスしてその状況に臨むことが大切である.

この稽古の究極が武道であると私は思っている.

とはいえ,まだまだ修行不足.
この心と身体という精緻なシステムを
うまく制御することができない.

2008年10月14日火曜日

大失敗!

昨日は大きな失敗をしてしまった.

実は昨日,仕事をしようと朝,
大学に来たのだがどうも様子がおかしい.
いくら3連休の最後といえども,
人の姿があまりに少ない.
(大学は休日も結構人がいます.
特に研究室は.)

おかしい,おかしいと思いつつも
研究室に来る.
電灯はついていなかったので,
誰も部屋にはいないのかと思ったら,
留学生のR君がひとり.

「先生,テンキ無いよ」

という.
私は始め何のことかと思ったけれど,
「テンキ」とは「電気」のことで,
今日は停電だということにようやく
思い至ったのである.

なんということ.
昨日中に仕上げるはずの仕事が,
全然できない.
PCを立ち上げることができなければ,
資料を見ることさえできない.
唖然として,家に電話.
通勤時間片道1時間が無駄になってしまった...

土日に出勤すればよかったのだが,
子供たちの運動会が予定されていて,
土曜日は雨で順延.
出勤するタイミングを失ってしまった.
日曜日は運動会で,朝から夕方までフル回転.
結局,頼みの綱は月曜日だったのだけれど,
残念無念という結果になってしまった.

そういえば,月曜日は停電という
アナウンスがメールで届いていたような...
本当に大失敗である.

結局締切のある仕事が未だ終わらない.
今日は第1時限からずっと担当の講義もあって,
全然時間が取れなかった.
明日もキリキリ朝からやるしかない.
自分のチェックの甘さが原因である.
今回は,大反省...

2008年10月10日金曜日

てるてる坊主

昨日,家で「てるてる坊主」が
吊るされているのを見つけた.
明日は運動会ということで,
天気を心配した娘たちが作ったらしい.
ちょっとデッサンのずれた「へのへのもへじ」の
顔を見て,少しほっとしたような気分になった.
私が最後に作ったのは一体いつのことだろう.

てるてる坊主の起源は,
妖怪「日和坊」であると,
「画図百鬼夜行全画集」(鳥山石燕)には
書いてあったと思う.

この妖怪の画集が秀逸で,
水木しげるの漫画や,
私が幼いころにもっていた妖怪大図鑑などの
下絵になっている.
私たちが妖怪の名前を思うとき,
そこに出てくるイメージの多くは,
この画集にそのオリジナルが
求められるのではないかと思う.
(だって,本物は誰も見たことがないはずだから)

日和坊は晴れた日に現れるらしい.
たしか山の岩肌に現れた姿の絵だったと思うから,
ずいぶん大きいものと思われる.
(本によれば)これを祭ったものが
てるてる坊主ということらしい.

子供たちは妖怪が大好きである.
もちろん,ゲゲゲの鬼太郎も好きなのだが,
そうでなくても妖怪話は大好きである.
(私は実は妖怪話が得意である)
怖がっているのだけれど,
なぜか聞きたがる.
この辺に,日本で妖怪が愛されてきた理由が
隠されているように思う.

たぶん日和坊を見たことがある人は
いないと思うけれど,てるてる坊主として
その伝承は残っている.
私たちの日常生活に実は妖怪たちは
いつのまにか潜り込んでいるのである.
妖怪という形で現れた
人間の未知のものへの畏怖と好奇心は,
現代にあっても私たちの生活に
彩りを与えているようである.

#私が画集で好きだったのは,「影女」.
夜,だれもいないはずなのに,
障子に女の影がうつるという.
なんか情緒を感じませんか.

2008年10月9日木曜日

メロディの力とラップ

数日前に作曲家の福田和禾子さんの訃報にふれる.
66歳と聞いて驚いた.
もちろん若くして亡くなったということにもだが,
"北風小僧の寒太郎"などが流行ったのはたぶん
30年位前だろうから,
それからずっと第一線で活躍されていた,
ということに驚いたのである.

福田さんの名前を認識したのは,
やはり息子が生れて後である.
子供のための童謡集などのCDや
"おかあさんといっしょ"のDVDをみると,
やたらにこの人の作曲した歌が多い.

"赤鬼と青鬼のタンゴ"や"バナナのおやこ",
"そうだったらいいのにな"など,
(恥ずかしながら)うちの子供たちと一緒に歌える
素晴らしい歌が彼女の作品である.

これらの作品に共通しているのは,
ついつい口ずさんでしまう,
わかりやすく,それでいて飽きない
素敵なメロディにあふれているところ.
こうした魅力を持つ彼女の作品は,
これからもずっと童謡の定番として,
歌い継がれていくのだろう.
それは間違いない.
(たぶん,私もおじいさんになっても
"そうだったらいいのにな"などを
孫と一緒に歌っているはずなのである)

一方で考えたのはラップという音楽である.
ラップは時代を超えていく力があるのだろうか.
本質的にメロディを持たないこうした楽曲が,
数十年後も多くの人々の生活を
彩ることができるのだろうか.
私はそれは難しいと思う.

ラップが音楽シーンに登場してきた頃,
時代を代表するメロディメーカのひとりである
ビリー・ジョエルはラップを
強く否定していたことを思い出す.
人々が口ずさめない歌は結局エヴァーグリーンに
ならないのである.

今朝ラジオで,あるラップ歌手(?)の曲を聴いた.
エルガーの"威風堂々"のメロディラインに合わせて,
メッセージ色の強い歌詞がリズムよく,韻を踏んで
歌われていた.
聴いていて悪くないと思ったけれど,
結局のところ,それは"威風堂々"の
魅力なのではないかと考えが至った.
バッハの"G線上のアリア"にのせられたラップもあったし,
そういえば,松任谷由美の"アニバーサリー"に
ラップをかぶせた曲も昨晩聴いたような気がする.
Run DMCの"Walk this way"だって,
Aerosmithの名曲があってこそである.
つまりラップは,
名曲の素晴らしい旋律の魅力なしでは,
時を越え,距離を越えていくような力を
持てないのではないかと思うのである.

でも,ラップは感動を呼ばないものだとは思わない.
その場にいる聴衆は,そのグルーブ感に酔っているし,
そのメッセージも強い.
だから私は,ラップは音楽というよりも
むしろPoetry Readingに近いのではないかと思っている.
通常のPoetryよりも,
もっとアクティブに朗読される詩(lyrics).
それがラップのような気がする.

日本のラップの先駆者である
(そのことはあまり知られていないけれど)
佐野元春も,そういえばPoetry Readingに
力を入れていることに気づく.
(彼は詩人だ)

ラップや詩の朗読は,
基本的には個人的,あるいは小人数のためのものであり,
そこがメロディの力を持ってして大衆に浸透していく
音楽との違いなのかもしれない.
そして同じ理由で,旋律に乏しい(クラシックの)現代音楽は
Popularityを得られないのだろう.

2008年10月8日水曜日

継続力は体力だ

うぅ,昨日はブログの更新をさぼった.
忙しくて時間が取れなかったのである.
毎日欠かさずブログを更新している人の努力を思う.

さて結局,「継続力は体力だ」と思う.
集中力は体力だ,と一昨日書いたけれども,
それを継続するにもやはり体力が必要なのである.

体力といっても,この歳だし,
いまからウェイトトレーニングをしようという
ことではない.
疲れない,そして柔軟な身体作りが目的だ.

確かに,高校生,大学生の頃は,
ウェイトトレーニングに精を出していた.
意味もなく身体を鍛えることが好きだった.
何か目的をもって鍛えるのでは,
トレーニングは楽しむものでは
なくなるような気がしていた.
あの頃,トレーニングが終われば,
溶けにくいプロテインの粉末を
牛乳にまぜて,ダマになった粉のまずさを
味わいながら飲んでいた.
あまり筋肉はつかなかったけれど,
「鍛えている」という行為に酔っていたように思う.

いまさら,そんなことを繰り返す気もない.
いま必要なのは疲れにくい身体である.
そして病気をしない身体,けがをしない身体.
そうした受動的な体力こそが私の求めるものである.

イチローのすごいところは,
8年間200本のヒットを打ち続けるために,
ずっと打席に立っていることである.
けがをしない,病気をしない,
そうした表立っては目立たない努力こそが,
彼の業績を下支えしているのだ.

私はそうした体力が欲しい.
柔軟な,対応力のある身体.
それは高度に洗練された身体である.
知性をもつ身体といってもよいかもしれない.

そうした身体を得るための稽古であれば,
この歳から始めても決して遅くはないだろう.
そしてそれは一生続けることができる修行である.

2008年10月6日月曜日

集中力は体力だ

結局のところ,集中力は体力である.
この週末は仕事を家でしようと思っていたのだけれど,
風邪をひいたのか,頭痛がひどくあえなくダウン.
土日,ほとんど横になっていて,なんとか
今日からは復活したのだけれど,
おかげで仕事は山積しており,
今度は別の意味で頭が痛い.
とはいえ,今日は少し疲れがたまっていて,
集中力が落ちている.
これは早めに帰って,明日にかけた方が得策かもしれないと
少し弱気になる.

このブログでも何度も述べているが,
現在の仕事の状況では,
まとまった時間をとるというのは,
本当に難しい.
長時間をひとつの研究や仕事にゆっくり使うというのは
非常に贅沢なことになっている.
結局のところ細切れになった時間に
仕事を分散して行い,それを結合することによって
結果を得ようとしなければならない.
まるでファイルの分割と結合という感じ.

この細切れ時間にいかに集中できるか,
ということが,仕事の中身と量を決めることになる.
これがなかなか思うようにいかない.
元気がいいときはまだ短時間に集中できて,
まるで加速のいいアメ車のように,
すっきりと仕事が進む.
しかし,今日のように少しエンジンの調子が悪い時は,
いくらアクセルを吹かそうにも出力が上がらず
なかなか高速走行に移ることができない.

武道というのは,いかに状態が悪くても
それなりの成果を出すことの修行であるから,
(自分の体調が悪いからと言って,
かかってくる敵に手加減をしてくれとは
言えないのである)
これは私の修行不足としかいいようがない.
0%から100%に即座に出力を上げる訓練を
さらに行いたいと思う.

しかし,集中というのは「カリカリ」と
緊張することを指すのではない.
実は逆にリラックスすることこそが集中なのだ.
もちろん弛緩し過ぎてはいけないが,
緊張しすぎてもいけない.
その中道をいくのが集中力の高まった状態であり,
これを私が学んでいる武道においては,
心身統一の状態,リラックスしている状態と呼ぶ.
フローとかゾーンとか呼ばれる状態も
これに近いのではないかと思う.

身体も心もやわらかさを保ち,
自分の最大限の力を発揮する.
これこそが武道を学ぶひとつの意義である.

とはいえ,言うは易く行うは難し.
修行の道はまだまだ遠い...

2008年10月3日金曜日

BITTER LIFE

今週もあっという間に終わってしまった.
(いや仕事的には終わってはいないのだけれど)
こんな感じで年末まで走り続けなければならないのだろうか.
10月で,すでに忙しさは師走という印象である.

忙しいのでなかなか読書やDVD鑑賞の時間が
取れないのが残念である.
せっかくの秋の夜長をそうした趣味の時間で
ゆっくりと過ごしたいものである.
これって,ずいぶんな贅沢なのだろうか.

とはいえ,先週の土曜日に1冊の短編集を
読み終えるだけの時間を持つことができた.
実は息子の運動会の待ち時間に読んだのである.

運動会における私の役割は,
お弁当を家族で食べるための場所取りと,
息子が出場するときだけのビデオ撮影である.
弁当を食べる場所は,別にトラックの近くである
必要はないから(むしろ離れていた方が人口密度が
低くてうれしい),グラウンドの端の方に,
敷物と折り畳みテーブルと折り畳み椅子を並べて
場所を陣取った.
あくまでも他人に迷惑のかからないようにである.

一方,ビデオ撮影の時はとにかく息子に近づく.
事前に配布されたプログラムと
息子の演技の場所の資料を手に,
場内のアナウンスを聞きながら出番となれば
すごすごと良き撮影場所にビデオを持って乗り込んでいく.
どうせ息子を映すのも各競技せいぜい5分もかからない.
それだけの時間,じっとカメラを構えていればよいのだ.
残りの時間は,ゆっくりと陣取った場所で
お茶を飲み飲み,本を開いていれば良かった.
他の家族は昼食の時間に到着することになっていたので,
人が密集しているトラック周囲から一人離れて,
ディレクターチェアにゆったり涼しく座っていた.
我ながらなんと至福の時だろうと思った.

読んだ小説は,レイモンド・カーヴァー
「必要になったら電話をかけて」という短編集である.
これが大人の人生の苦味を感じさせる小説で,
心に深く染入った.

この本は,図書館に行った際にたまたま手に取ったもので,
まぁ村上春樹の訳で,以前に読んだ「翻訳夜話」にも
紹介されていた作家だったので,あまり気にせずに
借りたのだった.
そして,本も新書サイズでそれほど厚くなく,
運動会の時間つぶしにはもってこいと思っていたのだ.

しかし,読んでみるとこれが滋味あふれる内容である.
ミステリーでもなく,ファンタジーでもない.
強いて言えば,恋愛ものである.
しかし,恋愛といっても,恋愛の終焉であり,
夫婦が別れる話が多い.
ふたりはやり直そうとするけれど,
もはや取り返しがつかないところまで傷ついてしまっていて,
もう別れることによってしかその絶望の淵から戻れないのである.
この「すでに終わってしまった関係」というのが,
これらの作品集のひとつの主題になっている.

う~ん,大人の小説だ.
学生の頃だったら,ここまで感じいることはなかったに違いない.
苦い苦い人生の一局面を題材としており,
登場人物たちにハッピーエンドは訪れない.
しかし,それこそが現実であり,小説であっても,
それがこの世界を表しているということを
残念ではあるけれど再認識してしまう,そんな作品である.

実は,この短編集は作者が亡くなった後に見つかった
作品を集めたものであり,完璧主義者だった彼が発表しなかった
ものたちだから,彼の作品の中ではAクラスに入らないものだという.
そうしたことを訳者の村上春樹も最後の解題において述べている.

確かに,どうもそこかしこに不格好なところもある作品たちである.
しかし,そこから立ちあがってくる世界は非常に魅力的に感じられた.
それがレイモンド・カーヴァーの世界であるというのならば,
私は迷わず彼のファンになるだろう.

それを確かめるために,彼の生前に刊行された作品を
次に読みたいと思う.
幸いにして,この作品を最後にして彼の全集は,
村上春樹の訳によってすべて刊行されている.
(一部,なにかの台本が残っているらしいが)
それらの作品たちはたぶん私が読むのを
わくわくして待っているのである.
早くそれらを手に取ってあげたい.
そんな気持ちにさせてくれた,最近珍しい小説であった.


#当日,あまりのおもしろさに
小説を読むことに気を取られて
自分が陽に焼けていることに気付かなかった.
夕方風呂に入るときには,真っ赤になった首が
いたくお湯にしみてつらかった.

2008年10月2日木曜日

清原選手の引退に思う

問題.

「某国のある部族には雨乞いの踊りがあるという.
ある研究者が調査したところ,
この踊りによる降雨の確率は100%であったという.
なぜか?」

---
とうとう清原選手も引退してしまった.
桑田選手も引退してしまった今,
KK時代は終わってしまった.
私は「僕らのKK時代」が終わってしまったと言いたい.
何度も繰り返すけれど,
私は彼らと同学年なのである.
やっぱりどこか寂しい.

高校時代から二人はスターだったし,
そしてそれゆえに二人とも
波瀾万丈の野球人生を送った.
その活躍は,どこかで私を
元気づけていてくれたことは間違いがない.

しかし,40という歳まで野球を続けるということは
本当に大変なのだろうと思う.
私のような一般人でさえ,
40歳になれば日常生活でさえも,
体力の衰えを感じざるを得ないのだから,
一流しかいないプロ野球の厳しい世界では,
少しの衰えでさえも,自分のパフォーマンスの
大きな低下につながるのだろう.
それでもここまで頑張ったのだから,
その苦労の大きさを思う.

しかし,私はこの「続ける」という努力が好きである.
あきらめないで続けることができる工夫,
努力をすることこそが最も重要な気がする.

桑田選手も大けがをしてやめようと思った時も,
「まだやれることがあるんじゃないか」と思い直して
復帰したのだという.
清原選手も,これまでの野球人生で
何度もやめようと思ったのではないだろうか.
それでも選手を続けてきた彼の努力こそ,
称賛されるべきなのだろう.
(もちろん,華々しくスポットライトが
当たらない選手たちも同様に努力していて,
彼らも称賛されるべきなのだ)

あきらめないで努力し続けさえすれば
成功するとは限らないけれど,
成功するためには,それは不可欠な条件である.
「あきらめる」といことが負けであり,
「あきらめない限り敗北はない」のである.
(昔,どこかの武将が言っていたような気がする)

KKのふたりにはごくろうさまと言いたい.
彼らはここまでよくやった.
プロ野球選手として,十分に夢を与えてくれた.
あきらめないで努力を続けることの大切さを
身を持って示してくれた.

しかし,それでも私は彼らにまだ期待をする.
これからもきっと何かをやってくれるはずである.
これで彼らの人生が終わったわけではないのだ.
そして彼らは,これからもずっと
僕らのヒーローであり続けてほしいのだ.

----
冒頭の問題の解答.

「雨が降るまで踊り続けるから」

2008年10月1日水曜日

交響曲と小説

先に,グールドとカラヤンの共演した
ベートーベンのピアノ協奏曲3番の録音を紹介したけれど,
そのカップリング曲が,シベリウスの交響曲第5番である.

一昨日の夜,この曲を聴いていて
不意に交響曲と小説は同じなのだと感得した.
作者がそのとき何を表現したかったのか,
それを音で表したものが音楽であり,
文章で表したものが小説なのだ.
そんなことはもう普通に言われていて,
芸術としては当然のことなのだろうけれど,
それがようやく腑に落ちたというか,
小説と交響曲が私の中で同じレベルで
鑑賞できるようになったというか,
とにかく一段また認識が高次に進んだ気がする.

ステレオ録音でこの曲が聴きたくなって,
(グールドとの録音はモノラル)
別のカラヤン&BPOの録音(65年)によるCDを聴いてみた.
夜なのでスピーカーの音は絞らざるを得ないけれど,
それでも音と空間の広がりを感じた.
よくシベリウスの曲は北欧の自然を表している,
などと紹介されているけれど,
ひねくれものの私は,そんなのはシベリウスの
出身地がフィンランドであるという先入観によるものだと
これまで思っていた.
しかし,突如としてこの交響曲の魅力に目が開かれた
今の私にとっては,この曲から受ける印象は,
まさに透徹とした冬の夜空の広大さと
私たちを包み込む自然のあたたかさである.
結局のところ,そうなってしまった.

カラヤンのシベリウスの録音は,
比較的カラヤン色が少ないのではないだろうか.
聴いていて,自然と曲に集中していき,
鼻につくところがない.
聴いた後のすっきり感がたまらない.
カラヤンは,「シベリウスの曲を指揮するには
北欧の自然に触れなければならない」みたいなことを
言っていたと思うけれど,それを読んで
胡散臭さを感じていた私を少し反省.
ほんとうにそうなのかも.

そのときに交響曲と同じだと思った小説が,
レイモンド・カーヴァーの
「必要になったら電話をかけて」である.
先週の土曜日に読んだばかりなのだけれど,
またこの話は別の機会に.

とにかく,この日を境に曲の聴き方が
異なるようになってしまった.
今後,どの曲も感じ方が変わってしまったのだろうか.
そしてなぜ交響曲と小説は同じだと思ったのだろうか.
いつかゆっくり考えてみたい.

まぁ,しばらくはシベリウスの作品に
どっぷりと浸ってみたい.

2008年9月30日火曜日

百聞は一見に如かず (伊瀬研見学ツアー)

昨日は研究室全員でバスに乗り,
ふたつの施設の見学に行った.
ひとつはJHFC(大阪ガス)の水素ステーション,
もうひとつは関西電力のSVGである.
研究室では毎年このように全員で,
施設の見学に出かけるのが恒例なのである.
(昨年は,京都の仮想マイクログリッドを見学に
一昨年は,大阪ガスのガス博物館に行った)

さて,まず見学させていただいたのが,
水素ステーション.
これは,現在のガソリン車の代わりに
将来燃料電池車や水素エンジン車が
走るようになったときに,
現在のガソリンスタンドの代わりとなるものである.
全国で現在12か所設置されているとの話だけれど,
このステーションは街中(大阪城の近く.府警の隣)に
建設されているところが特徴である.

各水素ステーションでは,異なる水素製造法
(あるいは運搬法)などが試されているとのことだが,
この水素ステーションは,ステーション内で
都市ガスから水素を製造している.
製造能力は1時間に30立方メートル(ノルマル).
ディスペンサと呼ばれるガソリンスタンドの注油機と
同様の機会を用いて,燃料電池車に注ガス(?)する.
昨日は,わざわざ大阪府所有の燃料電池車に
ガスを充填するところも見せていただいた.
ガスの注入口は,家庭用ガスの口とおなじで,
カチッと音がするまで差し込めばそれでOK.
あとは,スイッチを入れるだけで350気圧まで
圧力を高めて水素ガスを充填してくれる.
思いのほか,簡単である.
コストや規制をはじめとして,まだいろいろな問題が
あるのだけれど,技術的には実証レベルにあることを
実感した.

将来,水素燃料電池車が街中を多数走る前には,
(現在は60台程度しか全国で走っていないらしいけど)
こうした水素ステーションがあちらこちらに
建設されていなければならないのである.
そうした時期は,一体いつになるのだろうと思う.

続いて,バスで向かったのが,
尼崎近くにある関西電力の変電所.
ここには,世界最大級(80MVA),
最先端の半導体素子による
無効電力補償装置(SVG,STATCOM)がある.
無効電力やSVGの話はちょっと専門的になるので
ここでは割愛するけれど,
要は,電力系統の電圧が不安定になるのを
防いでくれるありがたい装置なのである.
従来,火力発電所が近傍にあって,
その役目を果たしていたのだけれど,
老朽化に伴い閉鎖されたために,
(環境問題等,古い発電所は大変だ)
この装置が導入されたのである.

すでに稼働して4年近く.
当時最先端の大容量半導体GCTを用いて,
3レベルのインバータを,
さらに3重に多重化している.
...オッと,少し専門的になってきたので,
装置の話はこれくらいに.

しかし,付近の住宅の皆さんは,
このような装置が近くにあるなんて
思いもしないのだろうなぁと思った.
私たちは,電力会社は電気を売っていること
ばかりを思うのだけれど,
実はその電気を安定に供給するために,
送電・配電線網をはじめとして,
こうした巨大な設備も管理しているのである.
縁の下の力持ちと言われるゆえんである.
日本の電気料金は高い,高いと言われるけれど,
おかげで設備や技術は,世界一流のものをもっている.
日本の電力の品質は世界最高レベルである.

今回の見学で,学生の皆さんも
初めて見るものも多く,いろいろなことを
感じていたようだ.
まさに百聞は一見に如かず.
教科書の文字ばかりでは理解できないことが,
この見学で実感できたと思う.

伊瀬先生がこうした見学会を継続している意味をあらためて思う.

2008年9月29日月曜日

負ける覚悟

筋肉痛で足腰が痛い.
先週の土曜日は息子の運動会だった.
保護者参加の綱引き競技が原因らしい.

小学校の運動会も私が子供のころと,
ずいぶん様変わりしている.
噂では,徒競争で順番がつかないように
手をつないで走るとか,
人に声をかけることができない子供のために
借り物競争をやめるとか,
あるいは食べ物を大事にするということで
パン食い競争とか飴探し競争とかをやめるとか,
そうしたことを聞いていたので,
一体,どうしたものかと思っていたのだけれど,
息子の学校はまだ昔ながらの運動会という感じで,
少しほっとした.
それでも個人の徒競争は無くて,
グループに分かれてリレー競技しかなかった.
騎馬戦があったのはほっとしたけれど.

だいたいにして,
徒競争で手をつないで走るということなど,
私としては気持ち悪くて仕方がない.
そんなものは運動会とは呼べないのではないかと思う.
運動会はお遊戯大会ではないのだ.

私は子供のころからとにかく運動音痴で,
走るのはクラスで1番か2番に遅かった.
だから運動会は本当に嫌だった.
体育で運動会の練習が始まると,
学校に行くのも足取りが重かったことを覚えている.

もちろん,そのころの運動会は
競争がメインだから,徒競争の他にも,
いろいろな競技に参加した.
徒競争はまだいい.
自分がビリになれば済むことだから.
しかし,グループになって勝敗を競うとなると,
同じチームの仲間に申し訳なくて,申し訳なくて,
それが本当に嫌だったのである.

それでも運動会の日はやってくる.
結局のところ私が運動会で得たものは,
「負ける覚悟」というものではなかったろうかと思う.
勝つ可能性はほとんどなくても,
とにかく一生懸命やる.
負けるとわかっていても,
その覚悟を決めて必死にやる.
小中学校の運動会では良い思い出などほとんどないが,
スタート待ちの行列で胃が痛くなったあと,
覚悟を決めて走っていたことはよく覚えている.

こう考えると息子の小学校のリレー競技は
ある意味,残酷である.
私が参加するのだったら,やっぱり嫌だろうなぁと思う.
(私の頃は,リレーというのは花形競技で,
選手に選ばれるのは栄誉なことだったから,
私なんて,とてもとても...)
それでも子供たちは走っている.
その中で,私と同じ「負ける覚悟」を決めて
走っている子供たちがいることを思うと,
やっぱり胸が少し痛くなるのである.

2008年9月26日金曜日

「のだめ」とベト7

この1,2年,最も耳にしている交響曲は,
ベートーベンの7番(通称ベト7)ではないかと思う.
耳にするというのは,
私の場合それはほとんどがテレビであるけれど,
(今もウィンナのCMに使われている)
演奏会に取り上げられた回数もたぶん
ずばぬけて多いのではないだろうか.
たぶんそれは「のだめ」効果である.

1,2年ほど前に「のだめカンタービレ」という
テレビドラマが放映されていて,
これは私も観ていたのだけれど,
ずいぶんと良くできたコメディだった.
登場人物を演じている俳優の皆さんもずいぶんと
演奏を練習されたようで,演奏シーンも迫力があり,
全体としてたいへんクオリティの高い
音楽ドラマとなっていた.
そのテレビドラマのテーマ曲がベト7だったのである.

この曲は,クラシック愛好家にはもちろん有名なのだけど,
一般的には少し認知度が低かったから,
この人気は「のだめ」のおかげである.

ベト7だけではなく,ドラマでは
エンディングテーマのガーシュウィンの
ラプソディーインブルーの他にも,
ドラマ内で演奏された曲として,
モーツァルトの2台のピアノのためのソナタ,
オーボエ協奏曲,ストラヴィンスキーの
ペトルーシュカなどがあり,
ずいぶんと楽しく観ることができた.
このドラマでクラシックファンになった人も
多いのではないかと思う.

実際,クラシックのコンサートで,
若い人たちが増えたとの話もでていた.
(マナーが悪い人が多いということでも
評判になっていたけど.というか,
ロックコンサートのノリできていたんではなかろうか.
あるいはドラマのように,みんな身体を揺らして聴くとか(笑))
こうしてクラシック愛好者の人口が増えることは
私は大大大歓迎なのである.
なぜって,いろいろなクラシックの録音が
発売されることになるし,
(現在はクラシックのCDの売り上げはずいぶんと
厳しく,発売される種類も少なくなってしまった)
演奏会も数多く開かれることになるからである.
(あるオケが府からの助成金を減らされるという話も
なくなるだろう)
東京で毎年開催されているラ・フォルネ・ジュルネも
のべ100万人という人が参加したという.
CDの売り上げは相変わらず低いらしいけど,
このようにクラシックに興味を持つ人は
決して少なくないのだ.

そういった意味で,こうしたファンを掘り起こした
「のだめカンタービレ」は本当に素晴らしい.
実は私,恥ずかしながら今頃になって
原作のマンガの1~3巻を読む機会があったのである.
いやぁ,面白い.
夜中にひとりこっそりと読んでいたけれど,
笑い声を押し殺すのが大変だった.
そして驚いたのは,あのテレビドラマが,
原作の世界を大変よく再現できていたことである.
ところどころ設定は変わっているのだけれど,
伝えたいところはバッチリ伝わるものとなっている.
いやぁ,またドラマを観たくなってしまった.
そして原作の方もこの先,21巻まで読むのが楽しみである.

まだ「のだめ」を知らない人は
ぜひご一読をお勧めいたします.
(と今いっている私が,2年遅れという感じ.
でも,もちろん,放映当時もそれはそれで
盛り上がっていましたよ.
私を含めた周囲のオジサンにも
ファンが多かったようですし)

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