2008年6月4日水曜日

大学院教育の意味

昨日,博士前期課程(修士課程)の学生と話していて,
講義内容が格段に難しくなっているという話を聞いた.
私も,それはそうだよね,という相槌を打っておいた.
全くそうなのである.

学部時代の勉強とは異なり,
大学院になると,それまでの勉強内容を基礎とした
応用の段階に進む.
例えば,制御などの話になっても,
線形代数の知識はあるものとして進む.
大学1,2年の頃の知識を忘れていると
ついていくのに苦労する.

私にも経験がある.
やはり大学院の講義内容のギャップというのは
非常に大きい.

それでも,ようやく実学を学んでいるという
実感も湧いてくる.
私も研究室に配属され,研究をするようになって初めて,
いろいろなことを実用的に勉強するようになった.
「実用的に」というのは,自分の研究に実際使う,
ということである.

例えば学部時代に勉強したベクトル解析の知識が,
実際の電磁界の解析において役に立つ.
そこで初めて意味を実感できた.
核融合のトカマク装置では,軸対称の座標系が
扱われるが,これが円筒座標系でも球座標系でもなく,
擬トロイダル座標系というもので,
デカルト座標ではない系での微分や積分に
ずいぶん苦労した.
ヤコビアンや計量テンソルなどを勉強しなおしたのも
この頃である(いまだにあまり自信はないけど).

しかし,実際に必要となって勉強すると,
ずいぶんとその身に付き方が異なる.
これが大学院に入ってからの勉強の醍醐味である.

だからといって,自分の研究に関係ない分野は
研究しなくてもよいかというと決してそうではない.
幅広い分野の知識は将来の自分のスキルのための蓄えである.
たとえ,微分を計算する際に
イプシロン-デルタ法を使用しなくても,
その意味を理解しておくことが教養であり,
それが大学教育の意味であると思う.

工学者として恥ずかしくない教養を身につけることが
大学院教育の目的ではないかと思う.
大阪大学の修士の学生はたいへん苦労しているようだけれど,
いつかはきっと役に立つ(かもしれない)ので,
決して手を抜かずに,頑張ってほしいと思う.
(講義だけでなく研究も頑張ってほしいけど)

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