2008年8月19日火曜日

心に寄り添うかたちで

昨日は,遠方より友人のTさんが来た.
いくつかのHappy Newsもあって,
昨晩はずいぶんと楽しく飲んだ.
ただ,少しばかり飲み過ぎたようである.
今日の朝は,少し身体がきつかった.
こんなときにも自分の歳を感じる.

さて,昨晩は,酔った勢いでいろいろと
楽しくおしゃべりをしていたのだけれど,
ドーキンスの著書 "The God Delusion"の
話題がでた.

まさに題名どおり,「神は幻想である」,
との話らしいのだけれど,
私はまだ読んでいない.
Tさんはすでに読んでいて,中身を少し紹介してくれた.
アメリカではベストセラーになったらしいし,
大学の生協にも和訳本が並んでいたのは
見て知っていたのだけれど.

ドーキンスは進化論の信奉者ということで,
真っ向から宗教を否定しているらしい.
そんな話で,また小林秀雄の講演を思い出した.

小林秀雄が紹介したのは,ある部族の話.
ある部族の3人の姉妹が川に行って,
真ん中の娘だけがワニに
食べられてしまったのだという.
(もとはユングの文献にある話らしい)

現代の私たちはこれを説明するときに,
「偶然」という言葉を用いる.
たまたま真ん中の娘が食べられたのは
「偶然」なのだと.

しかし,それを聞いて部族の人々は納得できるだろうか.
いや,それはできない.
部族の人々にとっては,
川の神が娘を召したのだと考えるのが
一番納得できるのである.
そうでなければ,他の娘が食べられなかったことが
説明できないではないか...

というようなことが紹介されていた.
そして,私は先日の落雷事故の話を思い出した.

ある工場で40人位で休憩時間を過ごし,
そのあと仕事場へと向かうところで,
雷が鳴り始めた.
そして,そのうちの3人が歩いているところに
雷が落ちたのだという.
ひとりの方が命を落とされ,
あとの二人は無事だったとのこと.

私はこのニュースを聞いて,
なんとその方は運が悪いことなのだろう,と思った.
3人並んで歩いていて,ひとりだけが亡くなり,
二人は生き残った.
この不条理どう考えたらよいのだろう.
そんなことを思った.
そして遺族の方々のことを思った.

遺族の方は,これは「偶然」だったのだと
あきらめることができたのだろうか.
やはり,そうは思えない.
天の神が彼を召したことの理由を
求めてしまうのではないだろうか.
そうとでも考えなければ,
遺族の方はどう納得できるというのだろうか.
「偶然」というだけでは
割り切ることはできないのだと思う.
ある未開の部族だから,
「偶然」では片付けられないのではない.
現代の私たちだって,
たぶん割り切ることができないのである.

こうした考えが世にはびこる
オカルト,エセ科学の温床になることは
十分に承知している.
けれども,すべてを「偶然」だと
片付けられるほど,
私たちは大人ではないのではないか.
(「偶然」で済ますことが大人であるとも
思えないけれど)

残された人々の心に寄り添う形で,
物事は説明されなければならない.
そこに私たちは物語を必要としているのである.
おそらく物語がなければ,
私たちは心の拠り所を失ってしまうのであろう.

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