2008年10月30日木曜日

時間泥棒と忙しさの負のスパイラル

今日は名古屋へ出掛けた.
名古屋は案外に近い.
車中で仕事をしようにも
あっという間に到着してしまう.
この短時間でも仕事に集中できなければ...
まだまだ私のモバイル道は遠い.

昼間の新幹線だったのだけれど,
N700系だったこともあるのか,
PCを広げて仕事をしている乗客が目立つ.
素晴らしい,彼らは.
そう思う反面,ここまで仕事をしないと
だめなのか,とため息もついてしまう.

仕事環境が便利になればなるほど,
私たちの時間は仕事に食されていく.
仕事の効率が改善されて
生み出された新しい時間は,
また次の仕事のために費やされる.
忙しさが加速度的に増加していく負のスパイラル.
エンデの「モモ」に出てくる時間泥棒とは,
実は,このモバイル機器なのではないだろうか.

ノートPCを広げ仕事を進めることで,
私たちは幾分安心した気持になる.
「これで少しは仕事が進んだ」

しかし,実は意識に上がらない
もっと深いところで大きな損失を
生んでいるのかもしれない.

「君は3個のダイヤモンドを掘りあてて
そして4個のダイヤモンドをなくしてしまう 」
(佐野元春)

自分の時間は自分で確保しなければならない.
時間泥棒に取り上げられないように,
大事に守らなければならない.

2008年10月29日水曜日

疲れていると

最近,ちょっと疲れているらしく,
言動が思うようにならない.
ときどき何を話しているのか
自分でもわからなくなる時があるし(危ない?),
認識力もずいぶんと低下しているようだ.

学生時代,塾講師のバイトをした.
その塾では夏に10日ほどの合宿をする.
これが朝5:00頃から起きて勉強するのだから,
子供たちと私は,ずいぶんと身体に負担がかかる.

親元を離れ,山奥の民宿で合宿するのだから,
環境も,それはそれは素晴らしく,
朝の冷たい空気はおいしいし,
涼しい午前中のうちに勉強は終えてしまうのだから,
子供たちも最初のうちは集中力が高まっている.
昼からはずっと野外活動に終始するので,
気分も上々である.

しかし,3日もすると皆疲れが蓄積されてくる.
朝起きてラジオ体操をしても目が開かなくなってくる.
授業中にも居眠りをする子供も出る始末.
私は私で,毎晩塾長とたっぷり酒を飲んで
語らうものだから,身体も内臓も疲労困憊である.
そんなこんなで疲労が言動のあちらこちらに
あらわれてくるようになる.

そんなときに塾長から伺ったお話.
「子供たちが疲れているかどうかを知りたいときは,
ゴミ拾いをさせればよい.
疲れている子供は,たとえ目の前にゴミが落ちていても
気がつくことはないものだ」

そんなものかと思っていたけれど,
子供たちに掃除をさせると案の定,
目の前にゴミが落ちていても拾おうとしない.
私に言われて初めて気づく調子である.
それがあまりにも強い印象に残ったので,
今でも上記の塾長の話はよく覚えている.

そして今,その言葉をまた思い出している.
私もその状態にあるようだ.
目の前にある事柄が認識できない.
ポカをする.
話している事柄が論理的でなくなる.
ちぐはぐな話をする.
これではイカン!
まずはゆっくりと睡眠をとって休もうと思う.
寝ることはなによりも勝る栄養剤である.

帰宅のドライブも十二分に気をつけねば.
さてさて,今日は帰ることにいたしましょう.





2008年10月28日火曜日

~するときに限って

火曜日は朝1番から講義がある.
だから余裕をもって自宅を出発する.
...なのだが,今日は途中で事故があったらしく,
ひどい渋滞だった.
あまりに車が動かないので,講義に間に合わないかと
覚悟したくらいである.

なんとか講義10分前に到着して事なきを得たが,
そこで思うのは,
「なんで講義のある日に限って...」
ということである.
振り返ってみると,こうして運が悪いと思うことが
とにかく我が身に多い.日頃の行いの悪さか...(笑)

ちょっと冷静に考えてみると,
こうした運が悪い出来事いうのは,
ある確率で日常的に発生していて,
私に都合の悪い条件でそうした出来事が起こる場合に,
私の記憶に強く刻まれることになっているだけなのかもしれない.
そうしたバイアスがこうした考えの原因なのか?

いや,違う.
私の海外旅行のトラブル発生率(たとえばバッゲイジロストとか)は
明らかに人のものを上回っている.
最近は私はそうした星の下に生まれたのだと諦めているけれど...

しかし,「~するときに限って~」という考えは,
誰もが経験することなのではないだろうか.
ふと,マーフィーの法則ということを思い出した.

マーフィーの法則というのは,例えば,
ジャムをたっぷり塗った食パンをカーペットの上に落としてしまう.
このとき,ジャムが塗ってある面がカーペット側となる確率は,
カーペットの値段が高くなればなるほど高くなる,
などという他愛もないものである.
しかし,これは心理的なバイアスを示している.

こうした状況になることをマーフィーが現れると呼ぶ.
だから私たちは,マーフィーを事前に殺しておかなければならない.
先に述べたような法則が本当であるならば,
計画が重大であればあるほど,
コストが甚大であればあるほど,
マーフィーの出現を防がなければならないのだ.

科学的な根拠はないだろうが,
マーフィーの法則は私たちの感覚に非常になじむものであり,
彼が出現しないよう人事を尽くさなければならないと
教えてくれるものでもある.

ことわざもそうだが,
こうした人々の生活から生まれた言葉には
真理が隠されているのだと思う.


2008年10月27日月曜日

会話はリズムというけれど

先週末は結局仕事でつぶれてしまった.
土曜日は,午前から大学に来て仕事.
昼は,大阪工業大学に行って,
パワーエレクトロニクス学会若手幹事会に参加.
夜は,また大学に戻ってきて夜中まで仕事.
日曜は日曜で,家で仕事三昧だった.
なんとか仕事を終えるめどはついたけれど,
もう少しスマートに仕事は進めたいものである.

土曜日の若手幹事会.
相変わらず,学生のみなさんは頑張っている.
大学院,大学,高専の代表の学生たちが,
12月に開かれる研究会について
アイデアを絞っている.
はたからみていて,ずいぶんといい感じ.
もう少し,周囲を気にせず,
発言ができるといいのになぁ,とは思ったけれど,
それを練習できるのがこの場である.
さらに努力をしてほしいなぁ.

さてその日,会場の大阪工業大学にバスに乗って行く途中,
公園で街頭演説が行われているのを見た.
どこかの党首が来ていたらしい.
意外に聴衆は多く,警備もものものしかった.
スピーカから流れる演説を
少し耳にすることができたのだが,
さすがに話し方がうまい.
バスで通り過ぎる短時間のことなので,
話している内容はわからなかったけれど,
その話し方のリズム,間の取り方が,
耳を惹きつけるものになっていた.

このリズム・間というものは
文章に表すとずいぶんとその情報量が落ちてしまうので,
あまり話題にならないようだけれど,
(小説家では,文体とか作風とかの話題になるのかな)
会話や講演などにおいて,この二つの要素の影響は
非常に大きいことは間違いがない.

以前にプレゼンは印象が大事と記事に書いたけれど,
話しぶりというのがその印象の良し悪しを大きく左右する.
話を聞いていて,やっぱり気持ちの良くなるような
リズム,間というものがある.
そのプロというもののひとつが落語家であり,
また別のひとつが政治家ということなのだろう.

ただ,落語家は話している内容が大切だけれど,
政治家は内容は二の次である.まずは印象第一なのだ.
一生懸命である,みんなのために働いている,
親しみやすい,などなどの印象を聴衆に与えることができれば,
目的は達成されるのだ.
私が見た街頭演説は,その政治家の技術が
試される機会であるのだろう.
私もそのうまさにうならされたわけである.

でも,でもである.
政治の場合はやっぱりそれではいけないと思う.
印象だけで騙されてはいけない.
そこはしっかりと区別して聴く技術を
私たちも磨くべきである.

ただ,面接試験や講演などにおいては,
そうした会話の技術は大変重要である.
学ぶべきところは学んで,
自分のスキルアップにつなげよう.

2008年10月24日金曜日

移動するオフィス

昨日もブログの更新ができなかった.反省.
世の中で頑張っているブロガーの方々は
大変な努力をされているのだと
つくづく思う.
まぁ,このブログはストレスなくゆるゆると
やっていますので,時々の不更新は
お許しいただきたく.
(というか,このブログに読者などいるのだろうか?)

今日は東京に出張だった.
締め切りが迫っている書類を仕上げなければならないのに,
つらい状況である.
明日も学会活動で思うように時間が取れない.
ピンチである.
まぁ,やれるだけのことをやるしかないのだ.
こういうときに,私はあんまりテンパらないようだ.
鈍感というべきか.

この「鈍感さ」ということであれば,
私は人に自慢できると思っている.
それがいいことなのか,悪いことなのか,
よくわからないけれど,
少なくとも自分の心に過度の負荷をかけないことは
良いことだと思っている.

さて,今日の出張で思ったのは,
新幹線の乗車時間というのは,意外に仕事が進むということ.
以前に伊瀬先生が,2時間半外乱なく時間が過ごせるというのは,
それはそれで良い,とおっしゃっていたのだけれど,
私もそうだと思えるようになってきた.

ノートPCで仕事をするのはいいのだけれど,
私はどうも乗り物酔いがしてしまう.
東海道新幹線はそれなりに揺れるから,
画面を見つめていると,気持ち悪くなってしまう.
寝不足だったりすると,すぐに頭痛がしてくる.
どうも私の身体はモバイルに便利なようにはできていない.

しかし,今日の新幹線はN700系だった.
これが素晴らしいのだ.
旧来の新幹線に比較して,明らかに揺れが小さい.
いや,揺れの質が変わったというべきか.
アクティブなサスペンションが導入されたと聞いていたが,
そのおかげなのだろう.
長時間画面を見ていても,それほど疲れなくなってきた.
お陰で,往きの新幹線の中ではいくぶんか仕事を
進めることができた.
こうして考えてみると,確かにこの2時間半は貴重である.

ただ,帰りの新幹線は旧来型であった.
やっぱり酔ってしまう.
気分のせいかとも思ったが,
気持ちが悪くなることは避けられなかった.
う~ん,結局明日,頑張ることにした.
仕方がない.

東京への出張はなるべくN700系を使うことに決めている.
しかし,コンセントが使用できる窓側の席がなかなか
予約できないのが悩みのタネである.
窓側の席に座ることができれば,
2時間半コンセントにノートPCをつないで仕事ができるし,
疲れたときに目をあげれば,
車窓から堂々とした富士の姿を見ることができる,
そんな書斎,なかなか悪くはないと思うのだけれど...

2008年10月22日水曜日

できるだけ多くのインプットを

昨日は午後から,天王寺高校の
研究室見学の対応をする.
高校の行事で大学を見学するという
ことになっているらしい.
見学に来る高校生も大変だなぁ.
とはいえ,将来の進路の選択のひとつに
考えてもらえるのであれば,
どしどし来ていただきたい.
工学部は優秀な人材を求めています!

対応する研究室は順番で
回ってくるのだけれど,
今回は伊瀬研究室も担当のひとつとなって
(高校生は複数の研究室を見学する)
研究内容を説明した.
(前半は私,後半は伊瀬教授が対応)

見学してくれたのは高校1年生のみなさんということで,
電気に関する物理の授業も
まだ始まっていないかもしれない.
なので,新エネルギーとパワーエレクトロニクスに関する
身近なお話を少しした.

研究室に来ると実際の半導体素子(IGBTやMOSFET)も
手にとってみることができるし,
なによりも「研究をやっている」という雰囲気を
味わうことができる.
まぁ,先生の話が面白いかどうかは別にして...

昨日も,私が対応した高校生に,
「パワーエレクトロニクス」を知っていますか,
と尋ねてもひとりとして知っている人はいなかった.
「インバータ」という言葉もピンとこない.
結局,エアコンの中身や携帯電話の充電器,
ノートPCのアダプタの話をして,
パワーエレクトロニクスをなんとか理解してもらう.

そして研究室の学生たちが製作した回路装置を見学して,
彼らがどんな毎日を送っているのかをなにかしら
想像してもらえたようである.

先日,関西電力を訪問させていただいた時も
思ったのだが,すべては「知る」ことから始まると思う.
こうして研究室を一度見たことがあるというだけで,
電気に関する知識,技術に親しみが(少しかもしれないが)
湧いてくる.
その始めの一歩が大切なのだと思う.

そのはじめの些細な情報が頭に
インプットされているか否かで,
その後の展開が大きく違うこともあるのではないか.
少しでも知っていれば,考えること,アイデアは変わるだろう.

だから,高校生や学生のうちに
できるだけ多くの情報を頭にインプットするということは,
その後の選択肢を増やすということに大変役立つはずである.
(当然,今の私にとっても)

とにかくインプットをする
そうしなければ何も始まらない.
そして,とにかくアウトプットもする.
実は,そうしなければ始まらないことも多いのである.

2008年10月21日火曜日

自分の手を動かして

昨日は,大阪大学と京都大学の
電力関係の専攻の学生に向けて行っている講義に
今回は特別に参加させていただいて,
関西電力の研究所の施設を訪問させていただいた.

関西電力が所有する
送電系統のシミュレータAPSAを用いて
学生たちが実習を行うのだ.

APSAというのは,実際の系統を使って
実験をすることが難しい電力会社において,
同じ挙動を示すように,スケールダウンして,
抵抗やインダクタンス,負荷,発電機などを,
モデル化して接続したものである.
スケールダウンといっても,
大きな試験室いっぱいにラックが並べられている.
これによって,新規に系統に接続する装置の
制御や,過去に発生した異常現象の解明などが
可能となるのだ.

最近では,これらをすべてデジタルで実現することも
可能となりつつあるけれど,
このシュミレータは20年以上前に製作されたもので,
その多くがアナログ回路で構成されている.
そのため,モデルの変更などは容易ではないだろうけれど,
システムとしては非常に速い応答が得られ,
デジタルにおける計算時間による遅れの影響などを
考慮しなくてもよい特長がある.
ただ,負荷などの結線を変更するための
リレー盤などの大きさと
一面に配置されたリレーの数の多さをみると,
その管理維持の大変さを考えてしまう.

学生たちは,APSAに実際に触れることによって,
ずいぶんと積極的に演習を行っていたようだ.
やはり教科書の字面を眺めているだけとは,
大きく違う.

教科書で学んだ電圧の不安定現象などが,
スケールダウンしているとはいえ,
目の前の系統で発生するのである.
自分の手を動かして作業をするたびに,頭を使う.
講義の座学とは,そのあたりが大きく違う.

学生たちにもこうした実習は
おおむね好評だとの話を聞いた.
私は,こうした実習ができる環境にある
両大学の学生をうらやましく思う.
またこのような素晴らしい装置を
教育のために提供していただける関西電力殿の
志に感謝したい.

教員たちは,APSAとは別に,
同研究所で研究が進められている
SiC素子,インバータについても説明を伺った.
ここでは,高電圧用途のバイポーラ素子として,
SiCのGTOの開発をされている.
GTOの開発をしているのは,
世界でも,Cree社と関西電力とで構成される
このグループだけとのこと.
SiCといえば,みな自動車用途に目が行っているが,
大容量電力変換器への適用にむけた
こうした地道な研究努力ができるのも,
関西電力という大きな会社の特質であろう.
その結果には大いに期待しております.

ということで,昨日の見学も
「百聞は一見に如かず」との思いを
あらためて強く感じさせた.
学生たちに必要な教育とは何かと考える場合に,
多くの示唆を含んでいる.
学生たちの頭を自主的に働かせる.
そんな講義がいつもできたらいいのにと思う.
なにか良いアイデアはないものか.

2008年10月20日月曜日

ネットは「物知り」を殺す

今日は大学の2年生の歓迎会
(私が所属するコースと呼ばれるグループの)
だったので,少し酒を飲んでしまった.
若い人たちと飲むと,
うれしくなってついつい酒の量が多くなってしまう.
というか,酒の量は大したことはないのだけれど,
短時間に飲む酒の量が多くなって,
どうもうまくいかない.
ちょっと酔ってしまって,
キーボードを打っているこの手も
少しおぼつかなく,ミスタッチが多い...

今日は,いろいろと体験をしたのだけれど,
それは明日以降に記事にすることにしよう.
今日は,土曜日のお話をする.

土曜日は,パワーエレクトロニクス学会の研究会で
講演をした.まぁ,出来は65点くらいだろうか.
合格点はかろうじてクリアしたが,
情熱が伝わったか,眠っている人はいなかったか,
と反省すると,やっぱり点数は低くなる.
まぁいい.過ぎてしまったことは
取り返しがつかない.
反省だけはしっかりとして,
あとは次に頑張ることにしよう.

さて,学会の後は,学会の役員の方々と
盃を交わした.
年齢的には,近いと言えば近く,
離れていると言えば離れているような
3人で大阪梅田の居酒屋で飲んだ.

内容は...
ちょっとここには書けないかな...
面白かったのだけれど,
もしかすると書くことに問題があるかもしれないので,
詳細についてはここには書かない.

個人的には,いろいろ興味深く,
非常に勉強になったのだけれど,
その内容とは別に抱いた感情があるので,
それについて話したい.

私は,話の内容とは違うところで,
私はバブル時代の終焉をあらためて感じていたのである.
話している内容は非常に実際的で
興味深いものだったのだけれど,
それとは別に私の頭の中では
3人の年齢を考えてか,
バブル時代のあの雑学偏重時代は
すでに終了したのだなと
あらためて実感したのである.

雑学偏重主義とは,バブルの時代,
女の子に持てるためには,いろいろなトリビアルな知識が
必要とされた.
たとえば,バーボンを飲めばバーボンの蘊蓄を,
ワインを飲めばワインの蘊蓄を,
食事をすれば食材と調理法の蘊蓄を,
オペラを聴けばオペラの蘊蓄を,
語ることによって,女の子への面目が立っていたのである.

ワインを飲めば,それは産地はどこで,
それにはどのような歴史があり,
そしてどのような特徴で,
だからどのようにして飲むのが良い,
ということを,ひと通り知っていることが
男の子のモテる条件であった.

私もその時代の男の子だったので,
アッシー,メッシー,つなぐ君,
などの男たちと一緒で,
全く自分の魅力とは関係のない
雑学を頭に詰め込んでいた.
(正直に言うと,女の子にモテたい,
ということではなくて,
そうしたことを知っていることが,
時代の要求だったように思う)
一級蘊蓄士などという称号で呼ばれたりしていた.
それだけ,知識,それも隠れた知識,
というものが重宝された時代であった.

たとえばあの時代のブランド人気もそう.
なぜそのブランドが皆にもてはやされるようになったか,
その隠れた魅力(知識)を理解してこそ,
そのブランドの魅力を知るのである.l
そうしたブランドが,バブル時代に
必要だったのである.

そして現在.
土曜日に,学会の役員の2名の方々とで飲んでいた時に,
そうした時代がなぜか思い出されたのである.
3人がバブルを経験していたからかもしれない.
とにかく,あのころの自分を思い出した.
そして恥ずかしくなった.
確かに,あのころはそれが時代の要求だった.
しかし,その知識を身につけたからといって,
現代に何のメリットがあるのだろうか.

現代は,そうした知識は,
インターネットで検索すれば,
いやというほど得ることができる.
結局,だれでもほぼ無尽蔵の知識を
得ることができる立場になった.

では,現代において一級蘊蓄士と呼ばれることの
意味はあるのだろうか.

私は,そこに創造力の必要性を認識する.
上述したように,単なる知識であれば,
携帯電話からWikiを引けば,
ほとんど意味が足りるのではないだろうか.
しかし,必要とされるのは,
その知識を活かす智慧である.
創造力である.

インターネットは,単なる「物知り」の価値を
大幅に下落させたのである.
これからの世の中,
創造力が求められるのであろう.
バブルのモテる男の時代は終わったのだ.
単純な知識ではない,智慧.
それを時代は求めている.

そして,インターネットは罪である.
知識の価値を大きく下げてしまった.
単なる「物知り」にはもはや価値がない.
彼らは,ネットによって殺されたのである.
そして,インターネットは希望である.
新たな智慧の創造が期待できる.

もう雑学を披露する時代は
終わったのだな,と私は思い,
土曜日に,酒を飲んでいた.
そして時の流れを実感していたのである.

2008年10月17日金曜日

既聴感

「天高く,馬肥ゆる秋」の言葉が
ぴったりな晴天が続いている.
さわやかな風が吹いていて大変気持ちが良い.
こうしたちょっとしたことが,
人の心の状態を変えてくれるのだから不思議だ.

今朝,出勤の準備をしているときに
聞いていたのは,バッハの平均律の第1集.
リヒテルの演奏.
CDプレーヤでランダムモードで再生する.
いつもとは異なる順番で曲が演奏され,
はっとすることも多い.
CDのようなデジタル録音ならではの
聴き方である.
(レコードの時代はもちろん不可能)

ランダム再生だと印象が変わるということは,
曲の履歴も現在の心の状態に
影響するということである.
またまた心というシステムの複雑さに感心する.

そして今朝は,ランダム再生のはずなのに,
次に流れる曲があらかじめわかっていたような
体験をした.
頭の中でメロディが流れ,
その後スピーカからそのメロディが流れてきた.
既視感(デジャブ)ではなく,
既聴感というべきものか.

もちろん,私が超能力者というわけではなく,
脳の中の一部が,私の顕在意識よりも早く
曲を認識して,その後「私」が曲を認識したという
ことなのだろう.
基本的に脳の中は,小さなシステムが並列処理を
行っているというのだから.

この時間の隙間は武道においては,スキとなる.
相手が行動を起こすとき,
その行動を起こそうという思考が起こるよりも先に,
相手のどこかの部分でその「起こり」が
始まっている.
顕在意識の認識は,こうしたときには,
身体の反応よりも遅い.
ある調査研究によれば,そこには数百ミリ秒程度の差が
あるのだという.

したがって,相手の意識が攻撃しようと考えるよりも早く,
私はその「起こり」を認識し,
それに対応することが可能なのである.
そのとき,相手は自分の行動が
まるで読まれているかのごとく感じるのだ.
(私も私の武道の先生に同様な印象を抱くことがある)

もちろん,こちらもそれを「意識」すれば,
行動が遅れるから,「無意識」にそれに
対応できなければならない.
(一刀流にいうところの夢想剣が
それにあたるのだろうか)
そしてそれはどうも修練すれば,
人間に可能なことらしい.

そんな人間の心のシステムは
非常に面白い.
いろいろなところに死角が存在する.
意外に人間の心はスキだらけなのだ.

2008年10月16日木曜日

この人間という精緻なシステム

月曜日停電で,仕事ができなかった余波が,
いまだにデスクに及んでいる.
すべての仕事が,後ろ後ろにと
追いやられているような気がする.
(昨日もブログを更新できなかった)

こうした状況になると,
ついつい「やらねば」という
過剰な緊張状態となって,
自分のパフォーマンスに
悪影響を与えるようになることが多い.
テンパってしまって,
逆に仕事の進め方にブレーキをかけるのだ.

自分のパフォーマンスが最大に発揮されるのは
以前にも書いたが,適度なリラックスと
集中が共存した状態にあるときである.
(これを私が稽古している武道では,
「心身統一」と呼び,他では
「ゾーン」とか「フロー」とか呼ばれる)

今回のように,過度な緊張,使命感に
襲われるときは,私は,これで自分がテンパっても

「世界はなにもかわらない」

と思うことにしている.

人間の心の状態は,ほんの些細なことで,
非常に大きく変わってしまう.
例えば,彼女に一言でふられたとする.
物理的には世界はなにも変わっていない.
しかし,そのたった一言の情報が,
私の心というシステムに入力されただけで,
システムの状態は大きく変化し,
そのパフォーマンスが落ちてしまうのだ.

よく世界が一瞬で変わった,という話を聞くが,
変わったのは自分であって,世界は変わらないのである.
逆に言うと,自分の心の状態がどれだけ変わっても,
世界は変わらない.
世界は粛々としてその営みを変わらず続けるのである.

自分の心の状態は,環境の影響を受けるけれど,
基本的には独立に制御できるはずである.
そして,そのきっかけとなるのは,
ほんの些細な情報入力があればよいのである.

朝に少し音楽を聴くだけで,一日を気分よく
過ごすことができる.
これも少しの音声信号が耳から
入力されただけの結果である.

こうした少量の情報によって心の状態が変化し,
ひいては内臓の具合や,運動や頭脳のパフォーマンスにまで
影響を与えてしまう.
人間というのは,なんという精緻なシステムなのだろう,と
あらためて感心してしまう.

だから,非常に差し迫った状況であっても,
自分の心の状態によって,その状況は改善しないのだから,
最大のパフォーマンスが発揮できるよう,
リラックスしてその状況に臨むことが大切である.

この稽古の究極が武道であると私は思っている.

とはいえ,まだまだ修行不足.
この心と身体という精緻なシステムを
うまく制御することができない.

2008年10月14日火曜日

大失敗!

昨日は大きな失敗をしてしまった.

実は昨日,仕事をしようと朝,
大学に来たのだがどうも様子がおかしい.
いくら3連休の最後といえども,
人の姿があまりに少ない.
(大学は休日も結構人がいます.
特に研究室は.)

おかしい,おかしいと思いつつも
研究室に来る.
電灯はついていなかったので,
誰も部屋にはいないのかと思ったら,
留学生のR君がひとり.

「先生,テンキ無いよ」

という.
私は始め何のことかと思ったけれど,
「テンキ」とは「電気」のことで,
今日は停電だということにようやく
思い至ったのである.

なんということ.
昨日中に仕上げるはずの仕事が,
全然できない.
PCを立ち上げることができなければ,
資料を見ることさえできない.
唖然として,家に電話.
通勤時間片道1時間が無駄になってしまった...

土日に出勤すればよかったのだが,
子供たちの運動会が予定されていて,
土曜日は雨で順延.
出勤するタイミングを失ってしまった.
日曜日は運動会で,朝から夕方までフル回転.
結局,頼みの綱は月曜日だったのだけれど,
残念無念という結果になってしまった.

そういえば,月曜日は停電という
アナウンスがメールで届いていたような...
本当に大失敗である.

結局締切のある仕事が未だ終わらない.
今日は第1時限からずっと担当の講義もあって,
全然時間が取れなかった.
明日もキリキリ朝からやるしかない.
自分のチェックの甘さが原因である.
今回は,大反省...

2008年10月10日金曜日

てるてる坊主

昨日,家で「てるてる坊主」が
吊るされているのを見つけた.
明日は運動会ということで,
天気を心配した娘たちが作ったらしい.
ちょっとデッサンのずれた「へのへのもへじ」の
顔を見て,少しほっとしたような気分になった.
私が最後に作ったのは一体いつのことだろう.

てるてる坊主の起源は,
妖怪「日和坊」であると,
「画図百鬼夜行全画集」(鳥山石燕)には
書いてあったと思う.

この妖怪の画集が秀逸で,
水木しげるの漫画や,
私が幼いころにもっていた妖怪大図鑑などの
下絵になっている.
私たちが妖怪の名前を思うとき,
そこに出てくるイメージの多くは,
この画集にそのオリジナルが
求められるのではないかと思う.
(だって,本物は誰も見たことがないはずだから)

日和坊は晴れた日に現れるらしい.
たしか山の岩肌に現れた姿の絵だったと思うから,
ずいぶん大きいものと思われる.
(本によれば)これを祭ったものが
てるてる坊主ということらしい.

子供たちは妖怪が大好きである.
もちろん,ゲゲゲの鬼太郎も好きなのだが,
そうでなくても妖怪話は大好きである.
(私は実は妖怪話が得意である)
怖がっているのだけれど,
なぜか聞きたがる.
この辺に,日本で妖怪が愛されてきた理由が
隠されているように思う.

たぶん日和坊を見たことがある人は
いないと思うけれど,てるてる坊主として
その伝承は残っている.
私たちの日常生活に実は妖怪たちは
いつのまにか潜り込んでいるのである.
妖怪という形で現れた
人間の未知のものへの畏怖と好奇心は,
現代にあっても私たちの生活に
彩りを与えているようである.

#私が画集で好きだったのは,「影女」.
夜,だれもいないはずなのに,
障子に女の影がうつるという.
なんか情緒を感じませんか.

2008年10月9日木曜日

メロディの力とラップ

数日前に作曲家の福田和禾子さんの訃報にふれる.
66歳と聞いて驚いた.
もちろん若くして亡くなったということにもだが,
"北風小僧の寒太郎"などが流行ったのはたぶん
30年位前だろうから,
それからずっと第一線で活躍されていた,
ということに驚いたのである.

福田さんの名前を認識したのは,
やはり息子が生れて後である.
子供のための童謡集などのCDや
"おかあさんといっしょ"のDVDをみると,
やたらにこの人の作曲した歌が多い.

"赤鬼と青鬼のタンゴ"や"バナナのおやこ",
"そうだったらいいのにな"など,
(恥ずかしながら)うちの子供たちと一緒に歌える
素晴らしい歌が彼女の作品である.

これらの作品に共通しているのは,
ついつい口ずさんでしまう,
わかりやすく,それでいて飽きない
素敵なメロディにあふれているところ.
こうした魅力を持つ彼女の作品は,
これからもずっと童謡の定番として,
歌い継がれていくのだろう.
それは間違いない.
(たぶん,私もおじいさんになっても
"そうだったらいいのにな"などを
孫と一緒に歌っているはずなのである)

一方で考えたのはラップという音楽である.
ラップは時代を超えていく力があるのだろうか.
本質的にメロディを持たないこうした楽曲が,
数十年後も多くの人々の生活を
彩ることができるのだろうか.
私はそれは難しいと思う.

ラップが音楽シーンに登場してきた頃,
時代を代表するメロディメーカのひとりである
ビリー・ジョエルはラップを
強く否定していたことを思い出す.
人々が口ずさめない歌は結局エヴァーグリーンに
ならないのである.

今朝ラジオで,あるラップ歌手(?)の曲を聴いた.
エルガーの"威風堂々"のメロディラインに合わせて,
メッセージ色の強い歌詞がリズムよく,韻を踏んで
歌われていた.
聴いていて悪くないと思ったけれど,
結局のところ,それは"威風堂々"の
魅力なのではないかと考えが至った.
バッハの"G線上のアリア"にのせられたラップもあったし,
そういえば,松任谷由美の"アニバーサリー"に
ラップをかぶせた曲も昨晩聴いたような気がする.
Run DMCの"Walk this way"だって,
Aerosmithの名曲があってこそである.
つまりラップは,
名曲の素晴らしい旋律の魅力なしでは,
時を越え,距離を越えていくような力を
持てないのではないかと思うのである.

でも,ラップは感動を呼ばないものだとは思わない.
その場にいる聴衆は,そのグルーブ感に酔っているし,
そのメッセージも強い.
だから私は,ラップは音楽というよりも
むしろPoetry Readingに近いのではないかと思っている.
通常のPoetryよりも,
もっとアクティブに朗読される詩(lyrics).
それがラップのような気がする.

日本のラップの先駆者である
(そのことはあまり知られていないけれど)
佐野元春も,そういえばPoetry Readingに
力を入れていることに気づく.
(彼は詩人だ)

ラップや詩の朗読は,
基本的には個人的,あるいは小人数のためのものであり,
そこがメロディの力を持ってして大衆に浸透していく
音楽との違いなのかもしれない.
そして同じ理由で,旋律に乏しい(クラシックの)現代音楽は
Popularityを得られないのだろう.

2008年10月8日水曜日

継続力は体力だ

うぅ,昨日はブログの更新をさぼった.
忙しくて時間が取れなかったのである.
毎日欠かさずブログを更新している人の努力を思う.

さて結局,「継続力は体力だ」と思う.
集中力は体力だ,と一昨日書いたけれども,
それを継続するにもやはり体力が必要なのである.

体力といっても,この歳だし,
いまからウェイトトレーニングをしようという
ことではない.
疲れない,そして柔軟な身体作りが目的だ.

確かに,高校生,大学生の頃は,
ウェイトトレーニングに精を出していた.
意味もなく身体を鍛えることが好きだった.
何か目的をもって鍛えるのでは,
トレーニングは楽しむものでは
なくなるような気がしていた.
あの頃,トレーニングが終われば,
溶けにくいプロテインの粉末を
牛乳にまぜて,ダマになった粉のまずさを
味わいながら飲んでいた.
あまり筋肉はつかなかったけれど,
「鍛えている」という行為に酔っていたように思う.

いまさら,そんなことを繰り返す気もない.
いま必要なのは疲れにくい身体である.
そして病気をしない身体,けがをしない身体.
そうした受動的な体力こそが私の求めるものである.

イチローのすごいところは,
8年間200本のヒットを打ち続けるために,
ずっと打席に立っていることである.
けがをしない,病気をしない,
そうした表立っては目立たない努力こそが,
彼の業績を下支えしているのだ.

私はそうした体力が欲しい.
柔軟な,対応力のある身体.
それは高度に洗練された身体である.
知性をもつ身体といってもよいかもしれない.

そうした身体を得るための稽古であれば,
この歳から始めても決して遅くはないだろう.
そしてそれは一生続けることができる修行である.

2008年10月6日月曜日

集中力は体力だ

結局のところ,集中力は体力である.
この週末は仕事を家でしようと思っていたのだけれど,
風邪をひいたのか,頭痛がひどくあえなくダウン.
土日,ほとんど横になっていて,なんとか
今日からは復活したのだけれど,
おかげで仕事は山積しており,
今度は別の意味で頭が痛い.
とはいえ,今日は少し疲れがたまっていて,
集中力が落ちている.
これは早めに帰って,明日にかけた方が得策かもしれないと
少し弱気になる.

このブログでも何度も述べているが,
現在の仕事の状況では,
まとまった時間をとるというのは,
本当に難しい.
長時間をひとつの研究や仕事にゆっくり使うというのは
非常に贅沢なことになっている.
結局のところ細切れになった時間に
仕事を分散して行い,それを結合することによって
結果を得ようとしなければならない.
まるでファイルの分割と結合という感じ.

この細切れ時間にいかに集中できるか,
ということが,仕事の中身と量を決めることになる.
これがなかなか思うようにいかない.
元気がいいときはまだ短時間に集中できて,
まるで加速のいいアメ車のように,
すっきりと仕事が進む.
しかし,今日のように少しエンジンの調子が悪い時は,
いくらアクセルを吹かそうにも出力が上がらず
なかなか高速走行に移ることができない.

武道というのは,いかに状態が悪くても
それなりの成果を出すことの修行であるから,
(自分の体調が悪いからと言って,
かかってくる敵に手加減をしてくれとは
言えないのである)
これは私の修行不足としかいいようがない.
0%から100%に即座に出力を上げる訓練を
さらに行いたいと思う.

しかし,集中というのは「カリカリ」と
緊張することを指すのではない.
実は逆にリラックスすることこそが集中なのだ.
もちろん弛緩し過ぎてはいけないが,
緊張しすぎてもいけない.
その中道をいくのが集中力の高まった状態であり,
これを私が学んでいる武道においては,
心身統一の状態,リラックスしている状態と呼ぶ.
フローとかゾーンとか呼ばれる状態も
これに近いのではないかと思う.

身体も心もやわらかさを保ち,
自分の最大限の力を発揮する.
これこそが武道を学ぶひとつの意義である.

とはいえ,言うは易く行うは難し.
修行の道はまだまだ遠い...

2008年10月3日金曜日

BITTER LIFE

今週もあっという間に終わってしまった.
(いや仕事的には終わってはいないのだけれど)
こんな感じで年末まで走り続けなければならないのだろうか.
10月で,すでに忙しさは師走という印象である.

忙しいのでなかなか読書やDVD鑑賞の時間が
取れないのが残念である.
せっかくの秋の夜長をそうした趣味の時間で
ゆっくりと過ごしたいものである.
これって,ずいぶんな贅沢なのだろうか.

とはいえ,先週の土曜日に1冊の短編集を
読み終えるだけの時間を持つことができた.
実は息子の運動会の待ち時間に読んだのである.

運動会における私の役割は,
お弁当を家族で食べるための場所取りと,
息子が出場するときだけのビデオ撮影である.
弁当を食べる場所は,別にトラックの近くである
必要はないから(むしろ離れていた方が人口密度が
低くてうれしい),グラウンドの端の方に,
敷物と折り畳みテーブルと折り畳み椅子を並べて
場所を陣取った.
あくまでも他人に迷惑のかからないようにである.

一方,ビデオ撮影の時はとにかく息子に近づく.
事前に配布されたプログラムと
息子の演技の場所の資料を手に,
場内のアナウンスを聞きながら出番となれば
すごすごと良き撮影場所にビデオを持って乗り込んでいく.
どうせ息子を映すのも各競技せいぜい5分もかからない.
それだけの時間,じっとカメラを構えていればよいのだ.
残りの時間は,ゆっくりと陣取った場所で
お茶を飲み飲み,本を開いていれば良かった.
他の家族は昼食の時間に到着することになっていたので,
人が密集しているトラック周囲から一人離れて,
ディレクターチェアにゆったり涼しく座っていた.
我ながらなんと至福の時だろうと思った.

読んだ小説は,レイモンド・カーヴァー
「必要になったら電話をかけて」という短編集である.
これが大人の人生の苦味を感じさせる小説で,
心に深く染入った.

この本は,図書館に行った際にたまたま手に取ったもので,
まぁ村上春樹の訳で,以前に読んだ「翻訳夜話」にも
紹介されていた作家だったので,あまり気にせずに
借りたのだった.
そして,本も新書サイズでそれほど厚くなく,
運動会の時間つぶしにはもってこいと思っていたのだ.

しかし,読んでみるとこれが滋味あふれる内容である.
ミステリーでもなく,ファンタジーでもない.
強いて言えば,恋愛ものである.
しかし,恋愛といっても,恋愛の終焉であり,
夫婦が別れる話が多い.
ふたりはやり直そうとするけれど,
もはや取り返しがつかないところまで傷ついてしまっていて,
もう別れることによってしかその絶望の淵から戻れないのである.
この「すでに終わってしまった関係」というのが,
これらの作品集のひとつの主題になっている.

う~ん,大人の小説だ.
学生の頃だったら,ここまで感じいることはなかったに違いない.
苦い苦い人生の一局面を題材としており,
登場人物たちにハッピーエンドは訪れない.
しかし,それこそが現実であり,小説であっても,
それがこの世界を表しているということを
残念ではあるけれど再認識してしまう,そんな作品である.

実は,この短編集は作者が亡くなった後に見つかった
作品を集めたものであり,完璧主義者だった彼が発表しなかった
ものたちだから,彼の作品の中ではAクラスに入らないものだという.
そうしたことを訳者の村上春樹も最後の解題において述べている.

確かに,どうもそこかしこに不格好なところもある作品たちである.
しかし,そこから立ちあがってくる世界は非常に魅力的に感じられた.
それがレイモンド・カーヴァーの世界であるというのならば,
私は迷わず彼のファンになるだろう.

それを確かめるために,彼の生前に刊行された作品を
次に読みたいと思う.
幸いにして,この作品を最後にして彼の全集は,
村上春樹の訳によってすべて刊行されている.
(一部,なにかの台本が残っているらしいが)
それらの作品たちはたぶん私が読むのを
わくわくして待っているのである.
早くそれらを手に取ってあげたい.
そんな気持ちにさせてくれた,最近珍しい小説であった.


#当日,あまりのおもしろさに
小説を読むことに気を取られて
自分が陽に焼けていることに気付かなかった.
夕方風呂に入るときには,真っ赤になった首が
いたくお湯にしみてつらかった.

2008年10月2日木曜日

清原選手の引退に思う

問題.

「某国のある部族には雨乞いの踊りがあるという.
ある研究者が調査したところ,
この踊りによる降雨の確率は100%であったという.
なぜか?」

---
とうとう清原選手も引退してしまった.
桑田選手も引退してしまった今,
KK時代は終わってしまった.
私は「僕らのKK時代」が終わってしまったと言いたい.
何度も繰り返すけれど,
私は彼らと同学年なのである.
やっぱりどこか寂しい.

高校時代から二人はスターだったし,
そしてそれゆえに二人とも
波瀾万丈の野球人生を送った.
その活躍は,どこかで私を
元気づけていてくれたことは間違いがない.

しかし,40という歳まで野球を続けるということは
本当に大変なのだろうと思う.
私のような一般人でさえ,
40歳になれば日常生活でさえも,
体力の衰えを感じざるを得ないのだから,
一流しかいないプロ野球の厳しい世界では,
少しの衰えでさえも,自分のパフォーマンスの
大きな低下につながるのだろう.
それでもここまで頑張ったのだから,
その苦労の大きさを思う.

しかし,私はこの「続ける」という努力が好きである.
あきらめないで続けることができる工夫,
努力をすることこそが最も重要な気がする.

桑田選手も大けがをしてやめようと思った時も,
「まだやれることがあるんじゃないか」と思い直して
復帰したのだという.
清原選手も,これまでの野球人生で
何度もやめようと思ったのではないだろうか.
それでも選手を続けてきた彼の努力こそ,
称賛されるべきなのだろう.
(もちろん,華々しくスポットライトが
当たらない選手たちも同様に努力していて,
彼らも称賛されるべきなのだ)

あきらめないで努力し続けさえすれば
成功するとは限らないけれど,
成功するためには,それは不可欠な条件である.
「あきらめる」といことが負けであり,
「あきらめない限り敗北はない」のである.
(昔,どこかの武将が言っていたような気がする)

KKのふたりにはごくろうさまと言いたい.
彼らはここまでよくやった.
プロ野球選手として,十分に夢を与えてくれた.
あきらめないで努力を続けることの大切さを
身を持って示してくれた.

しかし,それでも私は彼らにまだ期待をする.
これからもきっと何かをやってくれるはずである.
これで彼らの人生が終わったわけではないのだ.
そして彼らは,これからもずっと
僕らのヒーローであり続けてほしいのだ.

----
冒頭の問題の解答.

「雨が降るまで踊り続けるから」

2008年10月1日水曜日

交響曲と小説

先に,グールドとカラヤンの共演した
ベートーベンのピアノ協奏曲3番の録音を紹介したけれど,
そのカップリング曲が,シベリウスの交響曲第5番である.

一昨日の夜,この曲を聴いていて
不意に交響曲と小説は同じなのだと感得した.
作者がそのとき何を表現したかったのか,
それを音で表したものが音楽であり,
文章で表したものが小説なのだ.
そんなことはもう普通に言われていて,
芸術としては当然のことなのだろうけれど,
それがようやく腑に落ちたというか,
小説と交響曲が私の中で同じレベルで
鑑賞できるようになったというか,
とにかく一段また認識が高次に進んだ気がする.

ステレオ録音でこの曲が聴きたくなって,
(グールドとの録音はモノラル)
別のカラヤン&BPOの録音(65年)によるCDを聴いてみた.
夜なのでスピーカーの音は絞らざるを得ないけれど,
それでも音と空間の広がりを感じた.
よくシベリウスの曲は北欧の自然を表している,
などと紹介されているけれど,
ひねくれものの私は,そんなのはシベリウスの
出身地がフィンランドであるという先入観によるものだと
これまで思っていた.
しかし,突如としてこの交響曲の魅力に目が開かれた
今の私にとっては,この曲から受ける印象は,
まさに透徹とした冬の夜空の広大さと
私たちを包み込む自然のあたたかさである.
結局のところ,そうなってしまった.

カラヤンのシベリウスの録音は,
比較的カラヤン色が少ないのではないだろうか.
聴いていて,自然と曲に集中していき,
鼻につくところがない.
聴いた後のすっきり感がたまらない.
カラヤンは,「シベリウスの曲を指揮するには
北欧の自然に触れなければならない」みたいなことを
言っていたと思うけれど,それを読んで
胡散臭さを感じていた私を少し反省.
ほんとうにそうなのかも.

そのときに交響曲と同じだと思った小説が,
レイモンド・カーヴァーの
「必要になったら電話をかけて」である.
先週の土曜日に読んだばかりなのだけれど,
またこの話は別の機会に.

とにかく,この日を境に曲の聴き方が
異なるようになってしまった.
今後,どの曲も感じ方が変わってしまったのだろうか.
そしてなぜ交響曲と小説は同じだと思ったのだろうか.
いつかゆっくり考えてみたい.

まぁ,しばらくはシベリウスの作品に
どっぷりと浸ってみたい.