2008年12月31日水曜日

紅白歌合戦

この数年,紅白歌合戦を大晦日に見ることができている.
これはひとえに,この時期新潟に帰省しているからに過ぎない.

学生時代は,私は東京に住んでいて,
蕎麦屋の親戚のところに年末は泊り込みで
手伝いに行っていた.
もちろん年越しそばのためである.
だから紅白歌合戦は,
店の客席のテレビに流れているのを少し見るか,
近所に出前に行ったときに,
家の玄関から聞こえてくるのを少し聞くくらいであった.
私は9年も大学にいたから,その間ほとんど
紅白歌合戦は見ていなかったことになる.

では,どうしても見たかったかと思うと,
やっぱりそうでもない.
見たからといってどうにかなるわけでもないし,
見なかったからといって年明けから話題に
ついていけないわけでもない.
ようするに,テレビがついているから見ているだけである.

この数年も全くその通りだ.
でも,大晦日のテレビ番組が面白くないから,
という消極的理由も大きいとも思う.
各テレビ局は紅白の裏番組ということで手を抜いているのだろうか.
他局にも見たいと思うものが少ない.
だから仕方なく見ているという人が意外に多いのではないかと思う.

ただ,紅白歌合戦はテレビというものについて考えさせる.
インターネットが普及して,
誰もがオンデマンドで番組を見る時代になって,
テレビの存在意義はどんどんと薄れている.
おのおの好きな時間に,ひとりでPCの画面を見つめている.
そんな光景が普通になりつつある.

そこで失われていくものは,
「共通体験」ということではないかと思う.
多くの人たちが同じ時間,同じ番組を
じっと目を凝らして見るという体験.
それは意外に大切なものなのではないか.
「あのとき,あれを見てた?」
「そうそう,私もあれを見ていたよ」
そんな会話が,他人との共通のバックグラウンドを
確認するのに大事じゃないかと思うのだ.

ジャイアンツの槙原が阪神のクリーンアップに
3連続バックスクリーンにホームランを打ちこまれたときのこと.
サッカーワールドカップ予選のドーハの悲劇.
高橋尚子がトップでテープを切ったオリンピック.

私の世代であれば,こうしたスポーツの
名場面というのがそれにあたる.
私のより前の世代であれば,
国民的ドラマやバラエティ番組となるのだろう.
そのときに同じ画面を見つめていた.
その体験が人と人との距離をぐっと近くする.
そしてやはり同時性というものが大切なのではないかと思う.
人間は時間を共有するということに
思いのほか重きを置く.
そしてテレビはそうした体験を人々に供給する重要な装置であった.

テレビを見なくなった若者は,
将来こうした話をしないのだろうか.
ネットの動画を見て,それで話が盛り上がるのだろうか.
それとも彼らはもうそうした「共通体験」は必要ないのだろうか.

紅白歌合戦は,かろうじて今もそうした共通体験を
提供する数少ない番組のひとつである.
そう考えてみるとこうして紅白歌合戦を見ることも
それなりに意味があるのではないかと思うのである.

みなさん,良いお年を.

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