2009年1月30日金曜日

日本のマイクログリッドはどうなる

今日は,また別の電気学会の調査専門委員会
「新しい配電システムを構築するパワーエレクトロニクス
技術調査専門委員会」に参加した.
東京ガスのマイクログリッドの研究設備を
見学させていただく.

東京ガスも,エネルギー供給会社としての
責務を果たすために,未来を見据えた研究を進めている.
ガスだけではなく,総合的なエネルギーの
マネージメントを考えている.
将来は,自然エネルギーを最大限利用しつつ,
電気・熱の併給による高効率なシステムを
構築するのが不可欠となる.
これからますますエネルギー問題は注目されることになるだろう.
こうした堅実な研究が実を結ぶに違いないと思う.

NEDOの国内でのマイクログリッドの大きなプロジェクトは
昨年で一応の区切りをつけている.
八戸の水を電気でかえすプロジェクト,
仙台の品質別電力供給プロジェクト,
愛地球博・中部臨空都市マイクログリッド,
そして京丹後のバーチャルなマイクログリッドプロジェクト.
日本はこの分野で,世界のトップクラスの実証研究を行ってきた.
太陽光,蓄電池,そしてパワーエレクトロニクス.
日本の得意分野をインテグレートしたこうしたシステムは,
世界のトップを取れる可能性がある.
(いや,すでにトップクラスの成果を挙げている)

しかし,次に続くプロジェクトが国内に無い.
現在は,メガソーラーなどのプロジェクトが進められているが,
マイクログリッドと名のつく大型プロジェクトは無くなってしまった.
残念である.

確かにマイクログリッドに関する基本的な技術は確立された.
しかし,経済的な問題が残されているし,
技術的にも研究すべきことは,まだまだあるのではないか.
せめて一箇所でもいいから,国が共同実験設備として,
どこかの場所を提供し続けてくれないものかと思う.

せっかく現在,日本は世界に誇れるポジションにあるのに,
今後みすみす海外のプロジェクトが最新の成果を出すのを
指をくわえてみていなければならないのである.
それが残念で悔しいのである.

2009年1月29日木曜日

街路樹の下,マイルスを聴く

今日は午後から電気学会の調査専門委員会のひとつ,
「地球環境問題に対応する最新のパワー半導体
スイッチング技術調査専門委員会」に参加する.
アメリカの政策を見るまでもなく,地球環境問題に対する
技術開発はこれからもずっと注力されていくことだろう.
パワーエレクトロニクスがやれることは,
まだまだ沢山ある,ということを痛感.

さて,夜になって大学に戻る途中,
北千里駅から大学に向かう坂道を,
デジタルメディアプレーヤを聴きながら歩く.
(ちょっと安全上問題があるけれど)
曲は,

Miles Davis,"Bitches Brew."

照明に照らされて街路樹の枝がつくる影が
やけに生々しく感じる.
曲が曲だけに,街ゆく人のなかで
自分が別の世界にいるような気がした.
夜の寒さの中,素敵な体験だった.

先日,テレビ番組で面白いクイズをやっていた.
映像を見て,異なる音がかぶせられているのを
当てるというものである.
たとえば,ビンのふたを開ける映像に
ブタの鳴き声をかぶせる.
しかし,ちょっと聞いただけでは,
それがビンのふたをちょうど開ける音のように
聞こえてしまうのである.
そんな人間の錯覚を題材にしたクイズだった.
大根を切る音など,10問あり,
私はだいたい当てることができたのだが,
興味深いクイズであった.
専門家のコメントによれば,
感覚の7割は視覚によって支配され,
間違った音を聞いても,
それを本当の音と判断してしまうのだという.
それだけ聴覚は視覚によって
影響を受けるということなのだろう.

夜の街を,マイルスを聴きながら歩いて,
このクイズを思い出していた.
視覚によって人間の感覚が影響をうけるならば,
こうして街を歩いて音楽を聴くときには,
そのときの何を見ているかによって,
音楽の受け止め方が変わるのではないか.
この街路樹の影がまだらに落ちる道を
歩いている私が聴いているこのBitches Brewは,
いましか体験することができない音楽なのではないか.
そんなことを考えていたのである.

ステレオセットの前で聴くことだけが
音楽の楽しみ方ではなくなったのだ.
ポータブルなプレーヤは,
全く新しい音楽の聴き方を提供してくれている.

2009年1月28日水曜日

「人生意気に感ず」はもう通用しない

昨日のニュースを見ていたら,
横浜の理数系専門の高校が来年から
開講することになり,すごい人気なんだそうである.
競争率が5倍以上とか...(うらやましい)

理工系が人気がないと言われて久しいけれど,
まだそうした人たちがいるということに救われる...

しかし,現実はかなり厳しい.
このニュースに関連して北海道のはこだて未来大学の
先生がインタビューをうけていらっしゃったのだけれど,
特に工学部の危機を訴えられていた.
確実に志望者は減り,学力が落ちているのだという.
これでは日本の行く末が案じられる.
私もそのことは感じている.
その先生は日常生活から家庭でも科学に関心をもつような
啓蒙の努力が必要なのだと話されていた.

家族の食卓で科学技術が話題になるなんてことになったら,
本当にすばらしいことなのだけれど,
しかし,それだけで工学部の希望者は
増えるのだろうかと疑ってしまう.

結局のところ,科学者や技術者に対する社会的待遇が悪い,
いや,はっきりいってしまえば,
給料も低いし,社会的にも尊敬の度合いが少ない,ということが
根本の原因なのだと思う.

今の学生(小,中,高校生も含めて)の価値観というのは,
いかに楽をして生活を楽しむかということに
重きを置いているように思う.
(もちろんそうでないひともいるだろうけど,
平均的に見て,ということである)

給料は高ければ高いほどいいけど,
つらい目はあいたくないから,ほどほどの給料がもらえればいい.
そのための努力は最低限のものとしたい.
というのが,最近の若い人たちの考え方なのではないだろうか.
(とうとう,私も「最近の若い人」という言い回しを使うように
なってしまったが...)

だから,大学の単位の取得もギリギリで行うことが,
良いこととされている.すくなくとも,周りからクレバーだと思われる.
彼らにとっては,「大学を卒業したという資格」が
一番大切なのであり,「知識,教養を身につける」ということは
重要視されていないのである(一体なんのための大学?)
もしも楽をしてそうしたものが身につくのであれば,
彼らも興味をもってくれるだろうけど,
残念ながら世の中はそうではないのだ.

社会に出てもそうした考え方の若者が多いと聞く.
つらい目にはあいたくないのだ.
そう考えると,以前放映されていた
TV番組「プロジェクトX」などは
理工系はこんなに大変ですよという宣伝だから,
若い人たちが敬遠しはじめるのもわかる.
(私なんて感動してみていたのだけれど...
たぶん若い人たちも感動はするのだろうけど,
自分はそうはなりたくないと思うのだろう)

どうせ理工系の勉強をするならば,
そして成績優秀でちょっと目先の利くものならば,
生涯安心な医者になりたいと思うのは
彼らにとっては当然の選択なのである.
それも,つらそうな外科や小児科,産婦人科を避けて.

理学部は,まだ数学や物理を純粋に
愛する人がいるから,その人たちがなんとか
なっているような気がする.
平均がさがったとしても,こうした分野は
ひとりの天才が世界を変えるのだから,
それでいいのかもしれない.

では,工学部はどうか?
大学時代は実験とレポートに追われ
暗い生活(あくまでもイメージです),
会社に入っても給料は低いし,
社会的にも尊敬はあまりされない.
これではやっぱり敬遠される.

工学には,工学の素晴らしさがある.
それをわかってもらえれば...という話も良く聞かれる.
しかし,それが通用するのは私のような
バブルぎりぎりの世代くらいまでなのではないだろうか.
現在の若者には根性論,理想論は通用しない
素晴らしくったって,
生活がつらければその道には進まないのである.

文系に比べ理工系の生涯賃金が平均として
5000万円低い,というリサーチ結果には
(なんと大阪大学の教授の研究!)
本当にめげる.
5000万円といえば,家が一軒建つのである.

私は正直,理工系の職業の平均賃金が上がれば
すべて解決するのではないかと思う.
たしかにこの不況下においては大変だろうけれど,
科学技術で日本が立国するのであれば,
社会としてそうした努力をすべきだと思う.

よく,文系の人が,
「理工系は好きなことをやってお金がもらえるんだから,
多少給料が低くたっていいじゃない」というようなことを
言っているのを聞くのだけれど,本当に腹が立つ.
(う~ん,この話はまた次の機会に)

私が転職するときに,お世話になった,
書家でもある合氣道のI先生より

「人生意気に感ず」

という書をいただいた.
私はそのとき大変感激したのだけれど,
今の若者にはどうもそれが通用しないようなのである.

2009年1月27日火曜日

芸術家に関する雑談

1月27日.
今日は,モーツァルトの誕生日なんだそうである.
彼の曲をなにか聴いてみようかと思う.

モーツァルトといえば,映画「アマデウス」のイメージが強く,
どうも変人という感じがするが,
実際はもっと普通の人だったに違いないと思う.
ただ悪妻と放蕩な生活のせいで,
お金に苦労して曲を書いていたのは間違いないらしい.

お金に苦労したといえば,賭博中毒者のドストエフスキーもそうで,
やはり芸術家は破天荒な人生を送る人が多いのだろうか.
どうも数多くの芸術家について
いろいろなエピソードが残っているのをみると,
凡人とはどこかが違うのだろう.

近代の音楽家であっても,面白い話はたくさんある.
フルトヴェングラーが愛人をたくさん作り子供の認知問題で苦労したとか,
トスカニーニは怒ると譜面台を壊したり,指揮棒を折ったり,
果てはコンサートマスターの指を指揮棒で突き刺したり,と
大変な癇癪持ちであったとか,枚挙にいとまがない.

最近読んだ話では,名ピアニストのルービンシュタインの自伝に
載っているというものが面白かった(私は原典は未読).
ルービンシュタインがイタリアからくる恋人をパリで待っているときに,
ロシアの著名な作曲家ストラヴィンスキーから悲痛な電話がかかってきて
いますぐ来てほしいという.どうも「不能」になったということ.
そこで,ルービンシュタインはストラヴィンスキーを売春宿に連れて行き,
恋人の迎えには自分の代わりに同じく作曲家のシマノフスキを行かせたのだという.
しばらくして,ストラヴィンスキーは上機嫌で売春宿をあとにしたが,
ルービンシュタインは恋人にはふられてしまった.
なぜならシマノフスキは同性愛者で,ルービンシュタインもそうだと
思われてしまったからだそう...

なんとも彼らが紡ぎだす芸術作品からは想像もできない話である.
まぁ,そうした人間の幅があるから作品が面白くなるのかもしれないが,
こうした話を聞くと,複雑な気分になってしまうのである.

2009年1月26日月曜日

いつも初めてであるかのように

うぅ,寒い...
今朝は,私の住んでいるところには雪が積もった.
およそ数センチといったところだろうか.
子供たちは大喜び.
一方で私は,またももひきを取り出す(笑).

先週の金,土曜日は,大阪工業大学で開かれた
電気学会の半導体電力変換研究会に参加した.
考えさせられることが多く,
今週からまた頑張ろうという気持になった.
しかし,明るい気分にさせてくれたのは,
参加していた学生たちの元気さである.

研究会には多数の学生たちが参加し,発表していた.
彼らにとってみれば,数少ない体験であるので
緊張したことだろう(そうでない学生もいたけれど(笑)).
その一生懸命さに,こちらのやる気もまた湧き上がる.
私も昔はそうだったのだろうか.
今でも発表前は緊張するのだけれど,
学生のころの初々しさというものは全然なくなってしまった.
なにかそうしたものが欠けてしまった....反省.

私にとっては知り尽くした内容でも,
聞いている人たちは初めてなのだ.
演奏者が何度も演奏して手垢のついたような曲であっても,
聴衆にはそれが初めて演奏されるように
聴こえなければならない,と言っている.

いつも新たな気持ちで物事に向かう.
そうしてことができたら,毎日は楽しくて仕方ないだろうなぁと思う.

2009年1月22日木曜日

賭博中毒者ドストエフスキーに惹かれる

今年は,ロシア文学に挑戦してみようと思っている.
トルストイに惹かれ始めて,彼の作品を読み始めたとは
書いたけれど,その他の小説家の作品も
ぜひ読んでみたいと思う.

そのひとりが,ドストエフスキー.
最近,「カラマーゾフの兄弟」の新訳が出て,
それが数十万部のベストセラーになったことが話題になった.

村上春樹や金原ひとみなどが絶賛していることもあって,
いつかは読んでみたいと思っていたけれど,
文庫で5冊!
読もうと決心するだけでも,ずいぶんと勇気がいる分量である.

しかし,最近ドストエフスキーのエピソードを読んで,
トルストイ同様,またまた強く惹かれるようになった.

彼は,ひどい賭博中毒者だったらしい.
借金を重ねて,「罪と罰」という作品も出版社への借金だったとか.
ある日,彼は死の床に伏している妻を残して,
20歳近くも年下の女と旅行に出かけ,また賭博に熱中する.
賭博には破れ,女にはふられ,そして妻は病死する.
「賭博者」という作品も,借金を返すために,
どうも26~27日くらいのやっつけ仕事で書いたものらしい.
しかし,主人公が賭博におぼれていく様は
非常にリアリティがあるとか(笑).
そして,このときの速記者の女性と結婚するのである.
...ロシアという国はこうしたツワモノが多いのだろうか.
それとも小説家という職業の性なのか.

こうした性格の人間が書いた小説とはどのようなものだろう?
興味が湧いてくる.
チェーホフなんて作家も,レイ・カーヴァーの作品を読むと
非常に読んでみたくなってしまった.
とにかく,今年はロシア文学にチャレンジするのだ.

2009年1月21日水曜日

Changeがなければ

昨晩深夜には,とうとうオバマ氏が大統領に就任した.
その就任式のテレビ中継を
私も眠い目をこすりながら見ていた.
たぶんこれは歴史的な瞬間だったのだろう.
その意味については,よくわかっていない私が
いま述べることはないし,今後もずっと世界の
話題となりつづけていくのだろう.

ところで私は,その番組を見て,
全世界で一体どれだけの人が,
このアメリカ大統領の就任式の
この生中継を見ているのだろう,と考えていた.

そもそもなぜ生中継で見る必要があるのだろうか.
(私のように眠気と闘いながら見る必要はあるのだろうか)
この歴史的瞬間をライブで見ることに
どんな意味があるのだろうか,と思っていた.

答えはいまだよくわからないが,
たぶん何が起こるかわからない,ということが
人間にとって非常に魅力的なのだから,ということは
言えるのだと思う.

ライブというものはなにが起こるかわからない.
たとえプログラム通り進行されるとしても,
予期せぬ出来事が発生する可能性がゼロではない.
そうした可能性が私たちをひきつけるのだろう.

例えば,就任式の録画を見るとする.
就任式はとどこおりなく終了していることは,
録画を見る時点でわかってしまっている.
たとえニュースを見なくても,世間が騒いでいなければ,
式の無事の終了を察知することができるのだ.
"どんな素晴らしいことを言うのだろうか?"
"とんでもないことを言うのではないか?"
そうした期待は霧散し,
このとき,就任式の魅力は半減する.

もっとわかりやすい例をあげれば,
サッカーや野球の試合中継.
結果がわかってから,試合の録画を見るのでは,
その魅力は半減どころか,1/10以下になり,
たぶんビデオだったら早送りしてしまうだろう.

人間は結果を知っていることについては,
あからさまに興味を失ってしまう.
これは,私たちの周りの日常生活においても同じである.
人間は,常に何が起こるかわからない可能性がなければ,
(その可能性はたとえ小さいにしても)
この毎日に耐えることができないのではないかと思う.

たとえ毎日をルーティーンのように過ごしていても,
なにかが起こる可能性はどこかにある.
またその可能性を大きくするための努力を
私たちは行うことができる.
その可能性があるからこそ,
なんとか毎日を過ごしていけるのだと思う.

つまりは,人間は何かが起こること,
変化が生じることを信じていなければ,
前向きに生きていくことはできない.
だから"Change"というオバマ氏の言葉に,
みな心を動かされたのだろう.

そんなことを考えながら,
大統領就任演説の途中で
私は眠りに落ちてしまったのである.



2009年1月20日火曜日

トルストイ

少し前のこと,息子の読書の宿題につきあって,
近くの公立図書館に行った.
そのときに見つけたのが

トルストイ,「イワンのばか」

有名な小説(?)なのでタイトルは知っていたのだけれど,
実は読んだことはなかった.
(まぁ,ほとんど小説など読まない
人間だったのだから仕方がない)
早速借りて,息子に先駆けて目を通すことに.
子供向けの民話かと思いきや,これがなかなか面白い.

トルストイは,誰にでもわかりやすいように,
こうした民話を平易な言葉で書いたというが,
和訳もわかりやすいせいか(私が読んだのは
あすなろ書房,北御門 二郎 訳のもの)
スラスラと読める.

しかし,書いてある内容は考えさせるところが多く,
子供になんてとてもわからないと思う.
そして長い.
とても短編とは呼べない.
この作品のもつ意味については,
また別に機会をあらためて書きたいと思う.

実は,私が一番感銘をうけたのは,
巻末の年表とともに記されていた
トルストイの最期である.
彼は権力と富を離れ,農夫に代表されるような
本来の人間的な生活の素晴らしさを作品の中で説いていた.
しかし,実際の彼の生活は,ほおっておけば
ますます増大していく莫大な富と,
広大な土地を所有していた.
もちろん,彼の行動はその思想に即した人道的なものだったが,
彼はいわゆる大富豪だったのである.
多くのトルストイ的な生活を営んでいた人々が彼の家を訪問するたびに,
その人々の失望を目の当たりにするのを
彼は耐えられなかったようである.
彼を批判する手紙もたびたび届いて,
そのたびに,彼はより厳しい自己批判の
回答を書いていたということである.
はぁ,とため息がでる.
自分を批判し続けねばなければならなかった,
なんと,かわいそうなトルストイ.

彼は何度もその富を処分しようとしたらしいのだけれど,
周囲の反対にあって,それもできなかったらしい.
そのことについて,彼はかなり悩んでいて,
結局,最後には82歳のときに家出をしてしまう.
そしてその旅先で肺炎にかかり家を後にしてから
1週間後に死んでしまうのである.
本当に悲しい最期である.
これが平和主義者,人道主義者として尊敬を集めた人の最期なのか.
彼はその最期を幸福に迎えることができたのだろうか.

このエピソードを知って私は俄然トルストイに興味が湧いてきた.
まずは,彼の宗教的信念を表したと言われる
民話集を読んでみようと思っている.
すでに別の作品「人はなんで生きているか」は読了した.
感想については,これもまた機会をあらためて.

2009年1月19日月曜日

パブリック・アクセプタンス(PA)の重要性

先週の金曜日は,岐阜の土岐市にある
核融合科学研究所(NIFS)に出張してきた.

やはり土岐市は肌寒く感じられたが,
その分,空気も少し澄んでいたような気がする.

久しぶりに訪れるNIFSなのだが,
バスの時間の関係で,急な坂の下にある
バス停(小谷口)から15分くらい歩かねばならなかった.
これがかなりきつくて,日曜日には
(翌日の土曜日ではないところがミソ)
ふくらはぎが筋肉痛でつらかったくらいである.
真夏にこの坂を上っていたら,途中で倒れるかもしれない.
冬の寒い時期で良かった.
それでも会議室に到着したときには
汗がどっと噴き出ていたけれど.

いくつかの打ち合わせが終了して,
ヘリカル型核融合試験装置であるLHDを見学する.
核融合が巨大科学・工学研究であることが実感される.
ヘリカル(らせん)状のプラズマ真空容器やコイルは,
真空断熱容器であるクライオスタットの内部に格納され,
目にすることはできないどころか,
そのクライオスタットでさえ,周辺の加熱や計測の装置によって
少し垣間見える程度である.
金属の構造材とケーブルが集合している先に,
プラズマを閉じ込める本体がある.
最先端の技術の結晶であることが,詳細はしらなくとも,
この装置の目の前に立つだけで実感させられる.

今回のNIFSに来て感じたことは,
外部との交流を以前に比べ,さらに重視しているということである.

まず,NIFSからの帰りのバスが非常に混雑していたことに驚いた.
これは,同日分光計測関係の研究会が開かれていたためらしい.
私の見知った方にもお会いした.
また,私が参加した研究会では,超伝導コイルをご専門にされている
H教授にもお会いした.
外部から人を多く招き,交流を進めていこうという意図が強く感じられた.
これはNIFSが共同研究施設であるという役割を
しっかりと果たしていこうという表れなのだろう.
そうした方向性は素晴らしいと思う.

次に,子ども向けの科学実験装置を並べたスペースに驚いた.
昨年の10月に創設されたらしい.
それまでは,ちょっとした休憩スペースでしかなかったところに,
光や音,波などの実験装置が置かれたいた.
子供たちに科学により興味をもってもらうための試みであるという.
装置自体は簡単なものが多かったけれど,
工夫も感じられて,大人の私たちが見ても十分に楽しめた.
特に私が興味を持ったのは,黒い画用紙で筒を作り,
そこにスリットを作って,グレーチングシートを通して
光源を見ることによって光が分かれて見える簡易分光器である.
これがなかなかきれいで,構造の簡単さもあって,
ぜひ自宅でも作ってみたいと思った.
子供たちも,たぶん興味を持ってくれるものと思う.
その他のスペースには地区の婦人会の方々の
NIFS見学のレポートなども展示されていて,
地域の方々との交流を大事にしていることがよくわかる.

核融合研究の内容について,外部の人
(専門家も一般の人も含めて)に
広報していこうとする姿勢は
今後もますます重要になっていくことと思われる.
ただ専門家が集まって,閉じた世界で研究を進めていけばよい,
という時代はもう終わっている.
外部に対して情報を公開し
社会に対して説明責任を果たすだけでなく,
科学技術について親しみを
もってもらえるような努力を欠かしては,
この先,いつか社会から科学技術は疎外されて,
研究は制限され,人材は涸れ,
最後には日本が世界から取り残されていくことになってしまうだろう.

これは単に研究所だけの話ではない.
私たち大学においても,
注力していかなければならない分野であることは間違いない.

#NIFSの活動などは,
から知ることができます.
また,下記ページでは現在の様子(制御室のライブ)などを
見ることができます.


2009年1月15日木曜日

寒さを楽しむ

今朝は大阪でも雪がちらついていて,
(もちろん兵庫の山の方にある自宅の付近は
雪がうっすらと積もるほどであったけれど)
ずいぶんと寒い.
冬本番という気がする.

こうなってくると私のような軟弱者は大変困る.
この寒さに耐えられないのである.
とにかく厚着をしてしまう.

こうみえても私は新潟の出身で,
寒さには慣れているはずであった.
しかし,新潟を離れてすでに20年以上.
すっかり寒さに弱くなった.
人間は環境に順応する動物である(笑).

学生時代は,「ももひき」など穿く人を軽蔑していたものだが,
今は少し寒いとそれが恋しくなるようになってしまった.
最近は,水分を吸収して発熱するような機能性下着も
あったりして,これも実はすでに愛用していたりする.
すっかりオヤジなのである.

今年はダイエットをしなければならない.
夜分に大学構内を歩こうなどと思ったりもしたのだが,
夜の冷え込みのつらさに,
今年になってまだ一度も歩いていない.
体重も正月に増えたままの値である.

なんとかこの寒さに打ち勝たねば.
昔は,修行で真冬に水の中に入ったり,
寒稽古もしたくらいなのだ.

いや,そもそも寒さと闘おうとすることが
間違っているかもしれない.
寒さが気持ち良く感じるようにするには
どうすればよいのだろう.
寒さを楽しむ.
そんな方策をさがしてみよう.

2009年1月14日水曜日

大学に入って何をするのか

気づいてみると,今週末はセンター試験.
受験生のみなさん,頑張ってください.

受験生のみなさんは,
なにをもって志望大学を決定されるのでしょうか.
もちろん,偏差値などが考慮されていることでしょう.
自宅に近い場所にあるとか,素敵なキャンパスだとか,
そういったことも意外に重要なファクタなのかもしれません.
しかし,やはり私は,一番大切なのは大学に入って何をするのか,
ということだと思います.

そんなこと考える余裕は今はないかもしれません.
けれどもう一度,受験勉強は何のためにしているのか,
それを見つめ直してはいかがでしょうか.

大学入学以前に,自分が将来何になるのかなんて
決めている人は本当に一部だと思います.
私も大学に入る前に,自分の将来は何をしようなんて,
全然決めてはいませんでした.
もちろん,今こんな職業に自分がついているなんて,
思いもしませんでした.
でも,奨学金のための公募論文のテーマが
「私は大学に入って何をするか」というものだったので,
私も一応高校時代に考えてみたのです.

当時,高校生がこのテーマについて考えるには,
入手できる情報が少なすぎました.
今のようにインターネットもありませんでしたし,
若い人向けの仕事の紹介本もありませんでした.
図書館にも通いましたが,いまひとつピンときません.
考えて考えた末にたどり着いた結論が,
「大学は,自分がなにをするか考える場所である」
というものでした.
結局,将来を決断することからうまく逃れたわけですが,
今となっては,この答えはなかなか良いものだったと思います.

大学は,自分は将来何をしていくべきなのか,
それを考える場所なのだと思います.
そのために,いろいろと勉強するわけです.
進路について後悔しない決断をするために,
そして社会で活躍するために,
幅広い教養を身につけるのです.
それが理工系大学であってもです.
パワーエレクトロニクスのような工学なんて
実学だ,と思われるかもしれませんが,
私は立派に教養の学問だと思っています.
教養は,哲学や美術だけにあるわけではありません.

大学を卒業したら就職をされることと思います.
卒業生を見ていると,就職先を決定するのに
要する時間なんて,本当に短いようです.
でもそれでよいのだと思います.
後悔しない決心ができさえすれば,
期間の短さなんて関係がないのです.
ただその決心ができるために,
大学で4年間,あるいは6年間(あるいは9年間)
準備をするのだと思います.
その準備にふさわしい大学こそ,
選ぶべき志望校なのです.

大学に入ってからその志を忘れてしまう人も
少なくありません.
いつのまにか,なにかによって
スポイルされてしまう人がいます.
そうした人をみると何のために大学に入ったのか,
そして何のためにつらい受験勉強を頑張ったのか,
残念に思います.
そうした人たちを思って,この記事を書きました.

若いころを思い出して,
少し気恥かしい文章になってしまったかもしれません.


2009年1月13日火曜日

円周率が3ということ

受験のシーズンである.
「ゆとり教育世代」が入学するようになって,
何年目になるのだろうか.
彼らが悪いわけではないのに,
なにか社会的に白い眼で
見られているような気がする.

私は,どちらかというと
詰め込み教育重視派である.
正確に言うと,創造性を促す教育も
詰め込み教育も両方大切だ,という立場である.
でも,詰め込み教育を悪ものにする人が多いので,
それの擁護派にまわっている.

なぜなら社会で用いられる知識,技術は
私が学生だった20年前に比べ,
格段の進歩を遂げているのに,
(これについては異論は少ないだろう)
大学に入ってくる学生の知識が
20年前に比べて後退しているなんて,
ちょっと考えれば矛盾しているに決まっている.

もちろん創造性を促す教育も
大切なのは間違いない.
しかし,息子の小学校の授業などを聞いてみると,
なんか違和感を感じる.
先生もご苦労されているし,
生徒もそれでどれだけの教養が身につくのだろうか.
どちらもかわいそうな気がする.

結局,知識はもっと勉強してほしいし,
創造性は勉強への興味をより持たせるようにして
育ててほしい.
欲張りだけれど,そうでなければこの先
やっていけないような気がする.

ふと,ゆとり教育で話題になった
円周率pi(パイ)がおよそ3である,
という近似がどういうことか考えてみた.
(実際にそう習った生徒は少ないらしいけど)

どのくらいおおざっぱなのか考えてみると,
円の周長とそれに内接する6角形の
周長が等しいと考えるほどなのである.
それってかなりひどくないかと思う.
タイヤは転がるけれど,
6角形の断面をもつ鉛筆は転がらないのである.
誰がそんなことを言い出したのだろう?

まぁ,そのことに気づいた学生は
自分で勉強すればいいということなのだけれど,
それではますます理工系へのハードルが
高くなってしまうのではなかったのだろうか.

とはいってもしょうがない.
ゆとり教育の揺り戻しもあるということだし,
今後の展開に期待しましょう.

2009年1月9日金曜日

ライブの感動

今年は,生の演奏に触れる機会を
多く持ちたいと思う.

コンサートなどに行くと
「やっぱりライブはいいよなぁ」と
いつも実感するのだけれど,
なかなかその機会がない.

私は,クラシックの演奏会に
もっともっと出かけていきたいのだけれど,
結婚してからは,チケット代の高さや,
休日に家族を残して私だけ演奏会に行くというのも
気が引けて,ずいぶんと足が遠のいてしまった.

ライブというのは独特で,
客席との一体感がそこにある.
演奏者たちも観客からなにかを感じて,
演奏に熱が入る.
もちろんそれを受けて私たちも感動する.
その相乗効果が良い演奏会を生む.

その目に見えない何か,
集中力なのか,迫力なのかわからないけど,
またそれが集団心理に起因するものなのか,
本能的なものなのかわからないけれど,
それが作用して,
ライブを素晴らしくしているのは間違いなさそうだ.

だから演奏自体がどうだったかといわれると,
それは冷静には判断が難しい.
その演奏会が録音されて,あとでCDになって聴いても
その熱さがズバリ伝わる演奏もあるし,
逆にあまりパッとしないものもある.

演奏の良さはCDに入りきらない,などという
評論家もいるけれど,
結局のところ,コンサートにおいては
演奏自体だけではない情報のやりとりによって
私たちは感動するのだと思う.
目から入ってくる映像や,
身体で感じる音圧,会場の雰囲気,
そうしたものが感動を引き起こす.

こうした話は,私たちが人にもつ印象が,
その人が話す内容ではなく,
非言語的な情報,たとえば声の強弱,高低,
リズム,あるいは視線の送り方,身体の姿勢,
そういったものでほとんど決定されるという
心理学の報告によく似ている.

逆に言うと,CDを聴くだけで感動する,
という演奏は,相当に素晴らしいことになる.
もちろん,ライブの名盤も多々あるのだけれど.

私はたまに思うことがある.
話を聴いているときはわかった気になるけれど,
あとから考えると全然わかっていない,というような
講義をしているのではないか,と.
実際,学生からアンケートをとると
そのような回答があったりするので,
反省している.
(興味をもって聴いてくれているだけでもありがたいけれど)

私が目指すべきものは,ライブで盛り上がり,
あとで録音で聴いても素晴らしい演奏であるような講義である.

2009年1月8日木曜日

海外の作品を読もう

昨日は都合により,ブログの更新は
できませんでした.
今年もこういうことが少なからず
あると思いますが,あしからず...

さて,今年の目標は多読であるとしたけれど,
最近特に海外の作品に目が向いている.

いろいろな科学や社会の解説本もそうだし,
もちろん小説もそうだ.
ただし原典ではなく,和訳を読む.
(たまに,英語の科学の本なども読みますが)

なぜ海外の作品に目がいくかというと,
そこには,和訳される段階で一度
セレクションが行われているからである.
そもそも面白い作品でなければ,
あるいは重要な作品でなければ,
和訳はされないのである.
すなわち,和訳されている作品は,
それなりに定評のあるものばかりということである.

イチローはTVドラマは
評判の良いものだけをレンタル屋さんで
借りてみるのだそうである.
面白くないものを借りて時間をつぶすということが
もったいないそうだ.
その気持ちが最近よくわかるようになってきた.

今年もたくさん読もうと思っている小説については
特に最近海外のものが
面白く感じられるようになっていて,
たとえば,レイモンド・カーヴァーなどが
私のお気に入りである.

小説ともなると,訳者の感性がフィルタとなって,
いろいろ問題もあるのだろうが,
それが逆に魅力となっている部分もある.

また,訳者をセレクターとして考えて,
たとえば柴田元幸が訳した作品であれば
面白いに違いない,ということで
新しい作家に触れる機会も多くなった.
最近はこうした訳者フォロワーなどという読者も多いと聞く.

もちろん逆に自分の感性に合わない
文体を持つ訳者もいて,
昨年読み始めた「私をはなさないで」(カズオ・イシグロ)は
それが理由で全然ページが進んでいない.
もしかして原作からそうした文体なのかもしれないが...
(原作にもいつか触れてみよう,と思うのも
海外作品の魅力のひとつかもしれない.
ただ最近全集が新潮社から出た
ガルシア・マルケスなどは原作はスペイン語あたりだろうから,
和訳でなければとても読めない)

小説に限らずいろいろな分野で,
また種々の国々のいろんな作品がどんどん訳されている.
これらをどしどし読んでゆこうというのが今年の目標である.





2009年1月6日火曜日

多読への再トライ

新年にあたり,今年の目標を.

仕事については,いろいろあるので省略.
とにかく精進いたします.

さて,それではその他の目標の中から一つ.

まずは,とにかく本を多く読むことである

昨年もこの目標を立てたのだけれど,
途中で挫折してしまった.
結局昨年読んだ本は30冊は
いかなかったような気がする.
平均して1週間に1冊も読んでいない.
目標をあげたわりに少ない.
悲しい...

最近気づいたのだけれど,
私は本を読むのが実は遅いらしい.
雑誌を購入しても1冊を読むのに
ずいぶん時間をかけている.
専門書などであれば,
ある程度スピードを飛ばして読めるのだけれど,
小説となると俄然ペースが落ちてしまう.

中には途中から読み進めたくなくなるような小説もある.
それは内容が面白くないから読みたくなくなるものあるし,
文体が,リズムが,私の身体に合わないから
読みたくなくなるものもある.

そうした本は時間の無駄だから
読まずに捨ててもいいかとも思うのだけれど,
お金を払って購入した本だったりすると,
やっぱりもったいなくて読んでしまう(貧乏根性!).
もうこうなると,遅遅として
全然ページが進まなくなってしまうのである.

しかし,ごくたまに内容が面白過ぎて
読み進めるのをためらってしまう小説もある.
今,その状態にあるのが夏目漱石「こころ」である.
この場合,「面白過ぎて」というわけではなく,
「悲しい結末にたどり着きたくない」からというのが正しい.
この小説は,最初に「先生」と呼ばれる人の
悲しい結末が暗示されている.
そして,その最期にむかって小説は淡々と
「私」の視線で語られていく.
それがもうつらくなってきてしまったのである.
だから読み始めて数か月経つのに,
まだ3分の1くらいしか読んでいない.

実は,夏目漱石の小説を読むのは
今回が初めて(!)なのだけれど
(学生たちには,教養を身につけろと言いながら,
恥ずかしい限りである),
その語り口の良さに,どんどん引き込まれている.
どうもこの小説の文体は私に合っているらしい.
読み進めたいのに,ためらってしまう.
でもこの先の展開が気になって仕方がない...
そんな矛盾した状態なのである.


しかし夏目漱石をこれまで読んでいなかったことは
逆にいえば幸いである.
この歳になって,こうした面白い小説に
初めて出会えるのだから.

今年はとにかくいろいろな本を読んでみたい.
またこのブログでもご紹介することがあるだろう.

2009年1月5日月曜日

お正月,仕事始め

ずいぶんと暖かい仕事始めの日となっている.
やっぱり職場に向かうのは,いつもより少し
ハードルが上がっているから,
こうした穏やかな朝でホッとしている.
(寒かったら,早起きもつらかったろうな...)

今年ももう4日が過ぎてしまったけれど,
まずは,お正月について考える.
「一年の計は元旦にあり」という通り,
年のはじめには,やはり目標を立てたい.

お正月について,ずいぶん前に合氣道の先生より伺った話.

自然から見れば,元日といっても
他の日と特段変わりがあるわけではない.
ではなぜ,正月があるのか.
人間は意志が弱く,一日を漫然と過ごしがちである.
そこで,区切りをつけて,一年に一回,
年が改まる正月を機に,目標を立てるのである.

区切りをつけなければ,正月も他の日と同じ.
この心を新たにする機会こそが正月の意味ということである.
そこで先生は,良かったことも悪かったことも忘れようと
お話しされていた.
良かったことも忘れるのが大切.
過去にとらわれず,新しい一年としてまた始めることが
肝心なのである.

という昔の話を思い出して,
今年の目標を考えてみる.
それはおいおい,また記事にする機会もあるでしょう.
とにかく,心を新たにして,
また一年を始めましょう.

あけましておめでとうございます.
今年もよろしくお願いいたします.