2009年2月28日土曜日

約束を守ること

人との約束を守る.
これは人として最低限のルールである.
しかし,原稿の締め切りなど,
時として(どうにもならず)守れないこともある.
そのときには,そのことによって与えてしまった
多大な迷惑について謝るしかないのだけれど,
謝るのは,他人に対してだけでよいのだろうかと
少し考えた.

約束というのは,他人とばかり結ぶものではない.
むしろ自分に対しての約束の方が多いのではないだろうか.
たとえば,朝早起きをする,とか,
ダイエットをする,とか,
こうした決心は,実は自分自身との約束である.

そして残念ながら自分との約束は
往々にして破られることが多い.
先にあげた決心も,三日坊主となることを
しばしば経験している.

人との約束を破ることによって
私たちは信頼を失ってしまう.
約束を破り続けたら,
たぶん誰も私と約束を結んでくれないだろう.

では自分との約束を破ることによって
何が失われるだろうか.
やはりそれは自分に対する信頼である.
決心を覆すたびに,
自分自身に対する信頼をなくしてしまうのである.

自分との約束を破り続けてきた結果,
現在の自分への信頼が失われてしまったのだ.
だから,ダイエットをする,と決心しても,
心のどこかで「また失敗する」と思ってしまっている.
結局,私自身とも本当の約束を結ばなくなってしまうのである.
現在の自分に対する評価は,
こうした積み重ねによって定まっている.

では,信頼を取り戻すためにはどうすればよいか.
仕事術の名著 "Getting Things Done"には
以下のように書かれている.

1. 約束を守る
2. 約束をしない
3. 約束を変更する

1.ができれば問題はない.
だが,できるものは実行するのが当然だ.
もう一度,その約束の重さを考えてみよう.

2. も実は重要だ.
つまりはできない約束はしないということである.
これも他人の信頼を得るために不可欠なことである.
自分に対する約束について考えてみると,
少し自分に甘くなりそうな気がする.
しかし,それでも自分を裏切ることよりは
ましなような気がする.
少なくとも約束を守らなければならない,という
ストレスと,果たせなかったという罪悪感からは
解放される.

結局,実際的には3.ということになるが,
約束の変更が繰り返されれは
それは約束ではなくなってしまう.
実行がなければ,約束をする意味がない.
しかし,相手の了解が得られれば,
自分もストレスから解放される.
これは約束を軽く見なすことを意味するのではなく,
むしろ約束をすることの意味を
深く見直すことに他ならない.

自分に対する約束も
他人との約束同様に守るようにしたい.
そう思ったのである.

(ということで,いろいろな締め切りに原稿が間に合うように頑張ります)


2009年2月26日木曜日

大学入試,前期日程

昨日から大学の入試が始まっていたらしい.
私のころは二次試験と呼んでいたけれど,
今は前期日程,後期日程と呼ぶらしい.

センター試験と違って,
二次試験は,ずいぶんと難しい.
今朝,新聞に京都大学や神戸大学,そして大阪大学の
入試問題の一部が掲載されていたけれど,
私だって到底満点をとることができないだろう.
どころか,何点とれるのか少々不安なくらいである.
これらを高校を卒業したばかりの学生たちが
解くのだから本当に恐れ入る.
入試というのは,功罪いろいろあるのはわかるけれど,
この内容をみると,本当に選抜しているという気がする.

私が大学の二次試験を受けたときのことを思い出す.
前日は会場である大学を下見に行って,
そのあとまず原宿へ行って家族への
お土産を買っていたような気がする.
そして親戚の家に泊まらせていただいて
翌日お弁当を作ってもらって出かけていったのである.
(その節は,本当にお世話になりました)

どんな問題が出たかなんて全然覚えていない.
ただ数学の問題が配られたあと,
透かし読みができないかと,
じっと表紙を見ていたのを覚えている.
今思い出したのだけれど,数学の最初の問題は
整数問題だったような気がする.
解けたかどうかは全く定かではない.
たぶん解けなかったのだろうと思う.
「大学への数学」など読んでいても
整数問題は本当に苦手だったし.

すべての試験が終了した際には,
「これは間違いなく落ちた」と思った.
新潟に帰る新幹線の中で
ずいぶん落ち込んでいたのを覚えている.
どの予備校に行くべきかなんかを考えていた.
全然自信なんてなかった.

今回大学を受験した学生たちにも
結構,私のように不安な人がいるのではないだろうか.
もうあんな思いはしたくないなぁ.
ああしたつらい思いに耐えることができたのは
若かったからではないかと,思ったりする.

2009年2月25日水曜日

楽しかったと思えるならば

昨日は,卒業研究の発表会.
そのあと研究室の打ち上げの飲み会だった.
学生のみなさんもほっとするけれど,
教員もほっとするのである.
(これから教員は報告書の山が待っているのだけれど)

これで研究室から旅立っていく学生たちがいる.
昨晩はもう酔っ払っていて,
あまりうまく話せなかったけれど,
みなさんと過ごしたこの2年間,3年間は
楽しかった.少なくとも私は.
みなさんも楽しかったと思えるならばうれしい.
研究は基本的に楽しいものである(はずである).
そうした楽しかったという思い出が残るならば,
大学時代は,もうそれで十分という気がする.

仕事をすれば,楽しいことばかりではないかもしれない.
でも,そのときはこの大学での研究を思い出してほしいと思う.
楽しく研究していたことを思い出せれば,
なんとか頑張っていけるかもしれない.

2009年2月23日月曜日

自分の立ち位置を知る

今日は,私が所属するところの
修士論文発表会であった.
朝9:30~17:30まで,20人を優に越える
学生のみなさんのプレゼンテーションを聴く.

さすがに修士2年ともなると,
学会での発表経験も豊富なためか,
プレゼンがうまい.
プレゼンの技術は年々向上しているのではないかと思う.

私の頃はOHPを用いた発表だったから,
まず透明なTransperancyに白黒の印刷を
(当時高価だった)レーザープリンタでしてから,
OHP用のカラーペンで重要な箇所に
アンダーラインを引く,というくらいが関の山だった.
(以前の職場の上司の時代は掛図だったそうだけれども)

それがいまではパワーポイントなどを用いて
アニメーションを効果的に取り入れて行われている.
確かに,視覚的に説明されると
理解が容易になることが多い.
そうしたテクニックを学生たちが
苦もなく使いこなしているのをみると
時代の移り変わりを感じざるを得ない...
あぁ,わが学生時代は遠くなりにけり.

さて,この発表会は試問も兼ねているから,
学生たちは発表の後,教員たちからの
質問やコメントに対応しなければならない.
発表は,ちょっと回数をこなして練習さえすれば
上手になるけれど,
この質疑応答は日頃の勉強の量がモノをいう.
やっぱり一夜漬けでは,種々多様な質問に
対応できないのである.
(まぁ,それを教員はCheckするのだけれど)

今日の発表を見ていて思ったのは,
学生たちは目の前のこと
(計算モデルや実験回路など)については
それなりに説明できるのだけれど,
そもそもの研究の背景などの質問をされると
突然シドロモドロになってしまうこと.
自分の研究の展望が見えていないようである.

目の前につきつけられた問題だけを解いていくだけならば,
先生から宿題を与えられているのと
大差ないのではないだろうか.
研究というのは,教科書の例題を解くことではない.
どんなに小さな課題であっても,
社会に貢献することを目的として行われるものなのだ.
だから,この「そもそも論」というのが
非常に大切なのだ.

どういう社会背景があって,
そこではどのような問題,課題があって,
それをどのように解決しようとしているか.
そうした研究の立ち位置を
わかっていなければ,
どのような方向にこの先進んでいったらよいのか,
決められないのである.

これは研究のモチベーションである.
そして,自分の立ち位置を知ることは,
研究だけではなく,
自分の進路を決めるためにも
おそらく不可欠なことなのではないか,
と思うのである.


2009年2月20日金曜日

講義の反省

ようやく私が担当している分の期末試験や
レポートの採点が終了した.
今期は5つの講義,演習にまたがって採点している.
(複数の教員で担当している講義も含む)

採点の結果,今回はずいぶんとメゲた.
全然思ったような平均点になっていない.
悲しいかな,大きく下回っているのである.
採点を進めるにつれ,つらくなってくる.
この項目もあの項目も,
学生たちには伝わっていなかったのかと
がっかりしてしまう.

昨年度と大きく講義内容を変えているわけではない.
多少内容の変更(だいたいは改善と思って
行っているのだけれど)はあるけれど,
講義している項目は変わらないのだから,
そうそう大きく変わりようもない.
教え方は少しずつでも改善していると
思っていたのだが...
どうも年々平均点が下がっているようである.

私の講義に至らないところが多々あるのは認めよう.
しかし,それでも教科書をちょっと読めば
理解できるような基本的な知識でさえ,
身についていないのはどういうことだろう.
本気で勉強していないという証拠ではないだろうか.
そして答案用紙に「発電気」の文字を
見つけたときには,涙がでそうになった.

それなりに勉強したと思われる人は
答案をみればすぐにわかる.
要はやったか,やらないかということなのだ.

これまで講義は,集まった学生たちは,
基本的に勉強しようとする
モチベーションをもっている集合であるということを
前提に行ってきた.
しかし,現在はそうとも言い切れないらしい.
まずは,勉強しようという気を起こさせるようなところから
講義を組み立てていかなければならないようである.

私の学生時代には,講義室に先生が入ってこられても,
学生の方には向き合わず,
手にノートを持ちながら,ずっと黒板に向かって
数式を書き続けて,それで終わるような講義もしばしば見受けられた.
それでも学生たちは一生懸命板書をノートに写し,
勉強したものである.
それにくらべ現在は,たいへん教員たちが
努力していると思うのだが...

いや,こうした過剰な努力が学生たちのやる気を
逆にそいでいる可能性もあるのかもしれない.
教員がサービス業であってはならないのだ.
意外に学生たちを突き放した講義,
そうしたものの方が良いかもしれない.
(いや,そんなことをいったら
学生たちは講義を選んでくれないだろうなぁ)

2009年2月19日木曜日

バッハ弓による無伴奏ヴァイオリン曲集

昨晩,帰宅するときに車中で
バッハの「無伴奏バイオリンのパルティータ」を聴いた.
こうして忙しい毎日が続くと無性にバッハが聴きたくなる.
特に「無伴奏バイオリンのソナタとパルティータ」
夜分に聴くことが多い.
バッハの音楽の中でも特にこの曲は,
雑味がなく最も純粋なものであるように思う.
無伴奏チェロに比べ,緊張感があって,
氷のような怜悧さを感じる.
数学的といってもいいかもしれない.
暗い道を車を飛ばして聴くにはぴったりの曲である.
(そんなにスピードは出しませんが)

愛聴盤は,ギドン・クレーメルの旧録音の
パルティータ集なのだけれど,
最近なぜか手元に見つからない.
(たぶんどこかの物陰に隠れているのだろう)
そこで,昨日はルドルフ・ゲーラーの録音を聴いた.
これが実は珍しいバッハ弓による演奏なのである.

バッハ弓というのはcurved bowとも呼ばれるように,
湾曲している弓らしい(実物は見たことがない).
これを使うと,演奏のどこが変わるのかというと,
たとえば有名なパルティータ2番のシャコンヌ.
この冒頭などでアルペジオで弾かれる音が,
一斉に和音として弾かれるのである.
昨晩も,わかってはいるのだけれど,
この部分で,はっとさせられた.
やっぱり聴きなれた曲と違うとびっくりする.

このバッハ弓というのは,分散して弾かれる和音をこうして
ピアノのように一斉に鳴らすことを目的として製作されたらしい.
発明者はかのシュバイツァー博士.
ノーベル平和賞受賞者であるシュバイツァー博士は
バッハの研究者としても著名であった.
(もちろんオルガニストとしても)
彼は,バッハ作曲当時の演奏法について研究し,
湾曲したバッハ弓を作ったのだという.
(彼にしてみれば,それは発明ではなく復元ということになるだろうが,
現在の研究では,どうもバッハ弓は使用されていなかった
可能性が高いらしい)

残念ながら個人的には,バッハ弓を用いた演奏よりも,
通常のものの方が濁りがなくて好きなのだが,
一聴の価値はある録音だと思う.

しかし,今朝は結局クレーメルの新録音の
「無伴奏バイオリンのパルティータ」を取り出してきて
通勤中に流していた.
クレーメルのこの録音は,旧録音に比べて
ずいぶん人間味が感じられる暖かい音楽になっている.
休止の美しさに吸い込まれそうになる.
この透徹した印象を与える音楽を聴くことによって
私はまた今日も頑張ろうという活力を得たのである.


2009年2月18日水曜日

なぜ人は腰痛になるか

昨日は,実は私用があって早めに帰宅した.
夜,風呂から上がってきてテレビを見ると,
腰痛の話をやっていた.
そのテレビ番組によれば(福島医大のデータ?),
腰痛の85%はストレス,すなわち
精神的なものによるのだという.
家族はみな驚いていた.

実はそうした話は昔からあって,
私は以前よりいろいろと情報を集めている.
精神的なストレスが腰痛の原因になるという説も,
意外に信奉者が多いようなのである.

ヘルニアになると確かに神経を圧迫する箇所が発見されるが,
それが必ずしも痛みの原因になるとは限らないのである.
例えば足のしびれなどがあるようであれば,
それは確かに神経の圧迫が懸念される.
しかし一方で,そうではない腰痛も多々存在するらしい.
神経を圧迫するような箇所があったとしても
痛みを伴うとは限らないようなのである.

実は昨年私は背中が非常に痛くて,
眠ることもできなかったので,整形外科に行ったことがある.
早速頸椎あたりのレントゲン写真を撮影して診断.
医者が説明してくれるとおり,
確かに神経が圧迫されていそうな部分があった.
しかし,どうしてもそれが突然そうなったようには
思えなかったのである.
昨日まで痛くなかったのに,どうして今日から痛くなるのか.
それが疑問で,まずは痛み止めをもらって
しばらく様子を見ることになった.
そのときは鍼灸に(生まれて初めて)行って,
すぐに痛みから解放されたのだけれど,
たぶん今も私の頸椎の軟骨は一部つぶれて
神経を圧迫していることだろう.
しかし,痛みは全然ない.
そんなものかと思う.

腰痛に対する心療的な治療法に関する有名な本として,
「サーノ博士のヒーリングバックペイン」
がある.
もうずいぶん前に(7,8年前位?),
心が身体に及ぼす影響を調べていて,この本を購入したのである.
この本には,ストレスが腰痛の原因になる例と
そのストレスを解消することによって腰痛を治療した例が
いくつも紹介されている.

一昔前は,ストレスでなる病気といえば胃潰瘍だった.
しかし,現在では胃潰瘍の治療法は進展し,
ストレスから逃げ込む病気としては役不足になった.
そこで今度は腰痛になるということが増えているということらしい.

腰痛といえば,小説家である夏木静子の治療の経験談である
「腰痛放浪記 椅子がこわい」
という本も忘れられない.
彼女は3年ほど,ひどいときは立ち上がることもできないほどの
ひどい腰痛に悩まされていた.
そこで,整形外科をはじめとして,整体,鍼灸,
その他のいろいろな治療法を試していった体験がつづられている.
やはり原因がはっきりしないと言われて,
次こそは,次こそはと思い,新しい治療法にすがりついていくのだけれど,
最後には半分あきらめているような感じであった.
それでも,腰痛でも執筆を続けるための工夫や,
好きでやめられない囲碁については,眼への負担を減らすために
緑の碁石をつくったとか,いろいろ面白い話もつづられている.
(一時は自殺も考えるくらい深刻だったらしいけど)

彼女は最終的に奇跡的に腰痛が完治するのであるが,
その治療法がすごい.
彼女を救ったのは,「断食療法」だったのである.
結局のところ,作家であることのストレスからくる
心因性の腰痛であったということである.

もちろん,私はすべての腰痛が心因性であるというつもりはない.
最初は外科的な原因を疑って,整形外科等に通う必要があると思う.
しかし,原因がはっきりしない腰痛が多いというのも事実らしい.
腰痛の慢性化などがある場合には
心因性を疑うことも必要なのではないかと思うのである.

私は幸いにして腰痛に悩まされることは少なく,
こうした本は,単に心が身体に及ぼす事例として
興味を持って読むだけである.
そして,人間というシステムがいかに複雑で
厄介なものかということに,考えを巡らせているのである.

2009年2月16日月曜日

花粉の季節のはじまり

昨日から首の筋が張って頭痛がひどい.
鼻水もでているので風邪かと思ったけれど,
どうも花粉症らしい.
またこの季節がやってきた.

気づけば目もかゆい.
兵庫の山奥に引っ越してからは
ずいぶんと花粉症の症状も緩和されて,
昔に比べれば随分と楽になったのだけれど
この花粉症の季節の始まりのころだけは,
やはりちょっとめげる.

しかし,本当に花粉症は突然その症状が現れるものだと,
感心してしまう.
土曜日には,全然問題なかった.
日曜日になって,起きてみて窓を開けてみると
急に鼻水が出てきた.
また朝から頭痛に悩まされ,
寝違えたのかと思っていた.
それほど,花粉症だと思い当たらなかったのである.

まぁ,私も花粉症歴10年位になるので,
もうあまり驚かないといえば驚かないのだけれど,
昨日まで花粉症などまだまだ先の話だと思っていたのに,
もうこの調子である.
あぁ,なんと人の身体の精妙なことよ.
花粉が空気中を漂うだけで,私の身体は
土曜日までとは全然違う反応をするのである.

花粉という本当に微小な物質の入力で,
人間の身体というシステムには,大きな影響が及ぼされてしまう.
この世の中,こんなに複雑であるのに,こんなに感度が高いシステム,
そうそうないのではないかと思う.

こうしたことには感動するけれど,
クシャン,クシャンと,くしゃみをしながら
仕事をしなければならないのはやっぱりつらい.
少量の花粉でこうなってしまうのだから,
少量の薬で,完治できないものだろうか.
花粉症の特効薬を心待ちにしているのである.




2009年2月13日金曜日

過去問をくださいと言われたこと

大学は期末試験シーズン真っ盛りである.
とりあえず私が担当している講義の試験は
(レポート課題を除いて)全て終了したので,
少しほっとしている.
あとは採点をして成績をつけるだけである.
ただ今の時期は卒業論文,修士論文の
追い込みと重なってモーレツに忙しい.
まぁ,とにかくやるしかないのだけれど.

さて,先日ひとりの学生が私を訪ねてきた.
試験シーズンということで勉強でわからないところを
質問しに来たのかと思えばさにあらず.

「先生,過去問をください」 と一言.

もう私は呆れて笑うしかなかった.
どうなっているのだろう.
過去問は,講義の教員が用意してあげるものなのだろうか?

そもそも過去問なんて,単位を取るためのひとつの方便である.
だから当然,教員が過去問を与えて,
過去の出題傾向はこうだから,勉強しておくように,
などというはずもない.
もしも,過去に出題された問題を
勉強するポイントとして強調するならば,
講義の中で,演習問題として受講者全員に
解説するものである.
過去問などは,学生がこっそりと準備するものなのだ.
少なくとも私が学生の時はそうだった.

それがいつのまにか堂々と教員に
過去問をくれというようになってしまったらしい.
なにかが変わってしまっている.
教員が学生に対し,そうしたサービスをすることが
当たり前だと思うような風潮が広がっている.

確かに現在の学生は,小学校から
(いや,もしかすると幼稚園,保育園から),
目の前にすべて必要なものを与えられて,
単にそれを行えばよいように育てられてきたのかもしれない.
誰かがこれを「マクドナルド世代」と呼んでいた.
つまり,「~はいかがですか」,「~はいかがですか」と
サービスを提供されるのに慣れきってしまっていて,
それが当然だと思っている世代なのだ.

もちろん,私は断った.
学生は,非常に不満そうな顔をした.
「どこの教員が,これは過去問ですよ,といって
学生にあげるものか」と言ったら,
「そうやってもらえる先生もいます」と答えた.

教育方針の違いなのだろうか.
私にはそれは信じられないことなのだが,
とにかく私は過去問をあげることはできないと答え,
学生はしぶしぶ帰って行った.

教員は,ひとりでも多くの学生に単位を取得して欲しいと
思ってはいるけれど,それは当然講義の内容を理解した
証としてである.
現在の学生の考え方は,どうも本末転倒の人が多いように思う.
楽して単位だけを取得しようと考えている.
卒業するということが重要で,本来の目的である
学問するということはなるべく避けようとしている.

ではなんのための大学なのか.

2009年2月12日木曜日

駅弁は好きじゃない

2月9,10日と外に出かけており,
更新しませんでした.すみません.
(なぜ謝るのかも不思議だけれど)

今週はどうも体調がすぐれず,
2日間の外出でバテバテだったのだけれど,
11日の休日でなんとか回復.
ビバ,休日!

さて,9日は東京にある会議で出張だった.
行きはN700系の新幹線.
やはり快適で,新大阪から品川までの約2時間半,
資料読みにしっかり費やすことができた.
アクティブ制振装置のおかげなのか,本当に揺れが少ない.
乗り物に弱い私には強い味方である.
この2.5時間の仕事時間は貴重である.

帰りは残念ながらN700系ではない700系の新幹線.
どうも揺れる...
最初はPCを広げていたのだけれど,
結局キーボードを打つのをあきらめてしまった.
あぁ,乗り物酔い体質が悲しい.

ということで,帰りの新幹線の楽しみは夕食だった.
電車の旅の楽しみといえば,駅弁という人も多いと思うけど,
実は私はあまり駅弁は好きではない.
まずいというわけではないけれど,
値段の割には美味しくないような気がする.

新幹線をよく利用し始めたときは駅弁をいろいろ
試してはみたのだけれど,どうも飽きてしまう.
幕の内弁当などの和風詰め合わせがお気に入りだったけれど,
それも飽きてしまった.
そしてなにより値段が高い気がする.
だから最近ではコンビニ弁当を購入してから
新幹線に乗っていた(涙ぐましい節約術...).

しかし,今回は時間もなかったので東京駅で弁当を購入.
といっても普通の駅弁ではなく,ハゲ天の天丼,650円を購入した.
これが久しぶりのヒット.
そこそこの値段の割に,ちゃんとしたえび天や
野菜天が乗っていて非常に満足した.
最近は胃も小さくなったせいか,量的にも十分である.
このくらいのクオリティを650円で提供できるのである.
このような弁当を見つけると本当にうれしい.
東京出張の楽しみがまた一つできた.

ここでビールを一杯といきたいところだったけれど,
アルコールは乗り物酔いがひどくなりそうで,
私はあまり新幹線では飲まない.
やっぱり乗り物酔い体質が悲しい.

乗物に弱いのは子供のころからなのだけれど,
なんとかできないものかとこの歳になって思う.




2009年2月7日土曜日

S先生の還暦祝賀会

今日は(といっても夜が明けたらだけど)
私が学生時代にご指導いただいていた
S先生の還暦お祝いパーティーである.

私は,とにかく学生時代からずっと
お世話になりっぱなしなので,
なにがあっても駆けつけなければならないはずなのだけれど,
家庭の事情でどうしても欠席せざるを得なかった.
本当に残念である.
S先生には本当に申しわけない.

しかし,S先生からは沢山のいろいろなことを
学ばさせていただいた.
いや,今もお会いするたびに
刺激を受けているのだから,これからもずっと
勉強させていただくのだろう.

S先生の魅力は,ひとことでいうと
そのカリスマ性だと思う.
もちろん,数々の業績は素晴らしいのは当然なのだけれど,
なんといってもみんなを惹きつける雰囲気がある.
学生たちはS先生のおっしゃることにいつのまにか
引き込まれて,研究に集中することになってしまう.
S先生が話される研究のアイデアが
すごく魅力的に感じてしまうのだ.
もちろん,すべてが実るアイデアというわけではないけれど,
私も含めて,学生たちはやってやろうという気にさせられてしまう.
それがカリスマ性ということなのだろう.

私の前の職場というのは,S先生が大学にいらっしゃる前に
勤めていらっしゃった研究所なのだけれど,
そこでS先生と一緒に働いていた
私の上司のひとり(先生と同い年くらい?)が,
「S先生のカリスマ性にはかなわないんだよなぁ」と
しみじみ話していたのを今でも思い出す.
その上司もその職場で(いや核融合の世界で)
超人的な働きをされていたから,
その一言が非常に印象深く残っている.

大学の教員は教育者でもあるから,
専業の研究者に比べ,学生たちを惹きつける魅力が
必要であると思う.
そして,S先生はそれをお持ちである.



会には70名以上の卒業生が集まるという.
私がS研究室に配属されたのは19年前.
その1年前にS研究室ができたということだったから,
ちょうど20周年ということなのかな.
とにかく今日はみんなと昔話に盛り上がることができない,
それが残念で仕方がない.

2009年2月4日水曜日

電球型蛍光灯の普及に思う

白熱電球がどんどん電球型蛍光灯に
代えられているという.
消費電力はずっと減るから省エネに
ずいぶん貢献するだろう.
(照明は家庭内の消費電力の20%程度を占める)

電球型蛍光灯が市場に出たのは
ずいぶんと昔だったような気がする.
それが最近になって,ぐっと普及し始めたというのは,
寿命が長く価格が安くなったという理由に他ならない.

たしかに昔のタイプに比べれば,今のものは
ずっとスマートになったし,
スイッチを入れてずいぶん早く点灯するようになった.
色も,白々しいものだけではなく,
自然光に近いものも発売されている.
こうした機能的な進歩はあったことは認める.

しかし,もっとも重要なポイントは,
価格は確かに高いけれども,
寿命は白熱電球にくらべ長いし,
消費電力も低減される.
だから長い目で見るとお得である.
という理由が成り立つようになってきたからではないか.
そしてそれを消費者が理解するように
なってきたからではないか,と思うのである.

環境にやさしいから,というだけでは,
幅広い普及にはつながらない.
やはりコストなのだ.
世界への普及を考えれば,
コスト低減は不可欠である.

日本は「エコ」という付加価値で
商品が売れる特殊市場である.
しかし,世界はそうではない.
安い製品が売れるのだ.

実は,先日の電気学会の委員会においても
この話題が少し出た.
ものづくりの現場の人は,当たり前だけれど
このことをよくわかっている.

インバータエアコンだって,
これだけ普及しているの日本などの
数少ない国だけなのだ.
アメリカや欧州での普及率はずいぶんと低い.
(それだけ未開拓の市場があると考えることも
できるけれど)

高機能化も大切だけれども,
コスト低減も大切.
大学にいるとそうした要求の厳しさを
あまり感じることがないのだけれど,
世の中を変えるにはやはりカネが
一番手っ取り早いのだとつくづく思ったのである.


2009年2月3日火曜日

節分の豆まき

今朝,巻き寿司の種類は何がいい?と
うちの奥さんに尋ねられた.
そうか,今日は節分で恵方巻きの話かとようやく気づく.
子供たちは今日は豆まきをするのだろう.
毎年,私が鬼の面(といってもお菓子についている
紙のものだけれど)をかぶって,豆を当てられる役だったけれど,
ちょっと今年は難しい.
うちの奥さんがかぶってくれるのだろうか?

鬼は鬼門の方角に集まるという.
鬼門といえば東北,「丑寅(うしとら)」の方角である.
だから鬼には牛の角が生えていて,
虎のパンツを履いているということだ.

桃太郎では,反対の南西に位置する
戌,申,酉が大活躍するということらしい.
(ヒツジはどこに行った?)

そもそも鬼なんて実態のないもので,
幽霊だって鬼である.
べつに牛と虎のキメラだけが鬼でない.
厄災だって,疫病だって,鬼の仕業である.
そうした異界からくるものを
人間たちは選ぶことはできなかった.
なぜなら福だって異界から訪れるものだから.

だからせめて豆を巻いて
福を呼び,鬼を祓うことを祈るのだ.

しかし,恵方巻きやイワシの頭の話については
全然わからない.
面白い話があるのだろうか.
また機会があったら調べてみよう.
(って,いつその機会がくる?)



2009年2月2日月曜日

自分の頭が信じられなくなる

最近,自分でもやばいなぁと思っているのは,
睡眠不足が続くと,自分でしゃべっている内容が,
頭の中で思っていることと違っているという状況が,
しばしばあるということである.

先日も,ある会話で京都にある大学が話題と
なっていたのだけれど,私の頭の中では
「立命館大学」とはっきり思っていたのだけれど,
人には「立教大学」と話していた.
しばらく経って初めて気づいて赤面した.
本当に困る.

自分の頭を信用できなくなることは,
本当に恐ろしい結果を招きそうである.
そのうち,自分が自分であることも疑い始めたりして...

結局,
十分な睡眠時間,
ストレスの低減,
過不足のない仕事量,
こういったものをコントロールすることによって,
たぶんこうしたおかしな状況は解決できるのだろう.

まずは寝ることである.
そうすれば,私の頭脳も少しはクロックアップするに違いない.