2009年5月29日金曜日

「慈眼温容」

今日は午前中から頭痛がひどい.
昼には頭痛薬を飲んだのだけれど,
あまり効果はないようだ.
風邪なのか,疲労なのか.

頭痛のひとつの原因というわけではないだろうけれど,
昨晩鏡をみて気付いた.
いつのまにか眉間にしわが寄っている.
しわを寄せようとして寄せているわけではないので,
無意識のうちに眉間にしわが寄っているように
なってしまっていたのだ.
少しショック.

「慈眼温容」とは私がご指導いただいている合氣道のO先生が,
その先生であるT先生から色紙に書いていただいた言葉である.
O先生は,以前はたいへん厳しい方で,
T先生に,
「普通は,『春風を以って人に接し,秋霜を以って自らを粛む』と
いうけれど,O君の場合は,
『秋霜を以って自らを粛み,秋霜を以って人にも接す』だな」と
言われるほどだったそう.
その頃のO先生のトレードマークが眉間のしわで,
それを直すために,わざわざT先生が色紙に書いて
渡してくださったのだという.
O先生は毎日その「慈眼温容」の色紙をみて,
眉間のしわを解くようにしていた,とお話を伺ったことがある.

そんな話を知っていたにも関わらず,
自分の眉間には深く溝が刻まれていたわけで,
本当になんのために稽古をしていたのかと
反省することしきりなのである.

眉間にしわを寄せると,単に目つき,
顔つきが悪くなるだけではない.
心と身体はひとつだから,心も偏って凝り固まりやすい.
偏狭になってしまう.
また当然身体も悪影響をうけて,
身体をリラックスして遣うことできなくなる.

以前,千代の富士は立ち合いの際に
眉間にしわを寄せて,相手を睨みつけていた.
ウルフといわれたゆえんである.
これでは,大成しまいとT先生は思っていらしたそうであるが,
あるときからパタリと睨みつけるのをやめたのに
気づかれたのだという.
それ以後取り口は素晴らしいものになり,
名横綱の道を歩んだということなのだが,
後日T先生が千代の富士にお会いした機会に,
なぜ睨みつけるのをやめたのかと尋ねたところ,
実はT先生の本を読んだからだった,という話なのである.

まぁ,そんな大横綱の話はともかく,
こんな私だって,眉間にしわを寄せていては
良いことはないのは同じなのである.
気付いたからには今日から気をつけよう.
「慈眼温容」な人への道はまだまだ遠い.


2009年5月28日木曜日

毎日練習すること

体調がすぐれなかったので,
ダイエットのために始めた運動も
少しお休みしている.
今日か明日から復活せねば...

スポーツでは,毎日練習しなければならない,
という人がいる.
中高生時代には,野球部やサッカー部の
友達にもそういうことを言う人が多かった.
一日休むと,それを取り戻すのに3日かかるとか.

実は,トレーニングで筋肉をつけるという話から行くと,
これはあまり当てはまらない.
筋肉をつけるためには,逆に休息が必要なのである.
まずトレーニングによって筋肉に負荷をかけて筋繊維を壊す.
そしてそれが修復される場合に,
壊される以前の能力を越える筋肉がつくのだという.
これを超回復とよぶ.
これがトレーニングの基本的な考え方である.
(20年ほど前に仕入れた知識だから古いかもしれないが)

だから毎日同じ部位を鍛えるのは良くない.
負荷をかけすぎると筋肉は逆に萎縮してしまう.
だから1日胸を鍛えたら,
筋肉が回復するまで1日以上休むようにする.
プロのトレーニングをしている人などは,
毎日トレーニングをしているように見えるけれど,
鍛えている部位は日々変えているのである.
今日は胸,明日は足腰,という風に.

だから,毎日練習しなければならない,
というのは筋肉のためではないのだ.
しかし,多くの人が毎日練習することの重要性を説く.
それには別の理由があるはずである.

私はその理由のひとつは,
感覚のフィードバックによる修正のためだと思う.

例えば,野球でバットを扱う技術,
ボールを投げる技術,
サッカーならばボールを扱う技術.
そういった非常に高度な技術を
要求されるスポーツにおいては,
筋肉による力というよりも,
身体を正確に制御する能力が大切である.
そしてそれは五感によって体感される
感覚によって制御されている.

一方,人間は毎日身体の調子が変わっていく.
それにあわせて,身体の制御も微妙に
変えていかなければならない.
体感される情報によって,自分の動作を
修正するというフィードバックが必要なのである.

毎日練習するならば,このフィードバックによる
修正量は少なくて済む.
それは負担が少ない.
しかし,2日も3日も休んだらどうだろう.
フィードバックによる修正量は大きくなって,
一日で可能な自分の制御の能力を越えてしまう可能性も
出てくるのではないだろうか.
結局,また時間をかけて所望の身体操作が
できるように練習をすることになる.
(しかし,元の動作が復元できるとは限らない)
これが,一日休めば遅れを取り戻すのに3日かかる,
という言葉の意味ではないだろうか.

武道の稽古においても,1週間に1日だけ集中して
70分練習するよりも,1日10分でもいいから,
毎日稽古を継続する方がよいという話をよく聞く.
これは,武道が力ではなく,技術であることを
示していると思われる.

以前に読んだ本に,作家のよしもとばななさんが,
一日休むとそれだけ筆力が落ちるみたいな発言を
されていたと書いてあった.
トップの作家ともなると,そういうこともあるかもしれない.
あるいは,よしもとばななさんは,自分の身体的感覚に
強く依存した物書きであるのかもしれない.

毎日練習することが,スポーツ,武道に限らず,
種々の分野で技術的能力の維持と向上には大切なようである.
まぁ,継続することによって一番に
鍛えられるのは,精神力かもしれないと思うのだけれど.


2009年5月27日水曜日

リフレッシュ充電

昨日までなぜかはわからないけれど,
ずいぶんとしんどく,
仕事の処理が遅くなっていたように思う.

昨晩の帰宅時の運転も
集中力が低下しているのが
自分でもはっきり感じられるほどだった.

そんなときの解決法は,まずはとにかく
睡眠をたっぷりとることである.
まぁ,たっぷりとはいえないけれど,
今日は6時間は寝た.
ずいぶんと身体も頭もすっきりとしている.
やっぱりこうでなくっちゃ,と思う.

睡眠時間が不足していくと,
どこか潜在意識下で負荷が脳に
かかるような気がする.
日常生活は送ることができるのだけれど,
なにかパフォーマンスがダウンしている.
それは話している言葉や
書いている文章(このブログとか)などに
精彩がなくなることに現れる.
そして,ついにはミスを犯すことになる.

ちょうどコンピュータで,
バックグラウンドで走っているジョブの
処理が滞るのに似ている.
いつか表で走っているジョブにも
影響を及ぼしてしまう...

身体と頭には休息という名の充電期間が必要らしい.
そしてこれは,電力機器でエネルギー貯蔵装置として
使用する二次電池の運用に似ている.
電力を蓄積したり放出したりする二次電池は,
充電量の調整を行うために,定期的に
リフレッシュ充電を行う.
大事なときに電池が機能するために,
やはりその充電期間は必要なのである.

人間の頭脳と身体は,やっぱり
電気機械に似ているらしい.

2009年5月26日火曜日

昼間の「誰そ彼」時

昨日はキャンパス内でマスクをつけている人を
多く見かけたけれど,今日は明らかに激減.
学食の学生たちが集まっているのを見ても,
マスク姿は数えるほどしかいない.
日本人の傾向としてあるのかもしれないけれど,
のど元過ぎれば熱さわすれる,
つまり,もうすっかり警戒心が低下しているようである.
過剰に反応するのも良くないけれど,
たった数日でここまで無防備になるかと思うと,
それはそれで考えさせられる.

マスクは予防にはならないというけれど,
少なくともかかっている人からの感染を
防ぐことには有効なのだという.
私は体調はまだ大丈夫だけれど,
いつ感染するかわからない.
もしかして,今も感染しているのかもしれないのである.
その場合,人にうつさないという目的のために,
私はマスクをするのである.
それが責任だと思う.

しかし,マスクをして困るのは,
誰が誰だか認識しにくいということである.
キャンパスを歩いていて,
会釈をされても,誰だかぱっと見,わからない.
近くに寄って注意してみて,
初めてだれそれと認識できる.
マスクは人を得体のしれない人に変えるのである.

そう思って,私は妖怪の話を思い出した.
その昔,夕暮れ時の薄暗い中,
得体のしれない人に声をかけるときには,
「もし,もし」と二度繰り返した.
妖怪は同じ言葉を二度繰り返すことができないと
信じられていたから,
自分は妖怪ではありませんよ,と,
まず情報を発信しているわけである.

マスクをかけていると,人は得体が知れなくなる.
その意味で,それは,妖怪と変わりがなくなる.
だから今の状況では,声をかけあわないと
誰が誰だかわかりにくい.
たとえ昼間でも「たそかれ」ときと同じなのである.

2009年5月25日月曜日

押さば押せ,引かば押せ

今回の相撲,夏場所は珍しく結果が気になっていた.
やはり優勝争いが熾烈だと面白い.
私としてはヒールの朝青龍を応援していたのだが,
(どこまでも私は悪役を応援するのである)
結局,日馬富士の優勝.
彼の人柄もあってか,喜んでいる人も多いようだ.

私は知らなかったのだけれど,
彼はモンゴル出身なのだという.
それにしては,変化技が少ない力士で
(今場所は稀勢の里で変化していたけれど)
日本の力士だと思っていた.
といっても,相撲にずっと注目しているわけでもないので
専門家のようなことはいえないのだけれど.l

「押さば押せ,引かば押せ」というくらい
相撲というのは力技だと思われているけれど,
実は非常に技術が精緻である.
(格闘技の原点といわれるだけはある)

実は私の稽古している合氣道では,
実際の相撲取りが稽古に来ていたこともあって,
内弟子経験者の師範の方々は非常に相撲が巧い.
(と,私なんかが巧いというのは僭越なのだが)

どのくらい巧いかというと,
まずお互い仕切りの姿勢から立ち上がり,
師範にぶつかっていくのだけれど,
全然力のぶつかりを感じさせない.

そのうち胸を合わされたり,
まわし(道着なので帯)をとられてしまうと
こちらが全く力を出すことができなくなる.
どうも巧く力の方向や,タイミングを外されているらしい.
そして,そのうちに上からベタっと潰されたり,
身体を浮かされてしまう.
全く歯が立たず,まるで大人と子供の相撲である.

初めて師範と相撲の練習をしたときは,
単純だと思っていた相撲の技術が
これほどまでに精妙なのだと思い知って,
本当に驚いた.

師範に,
「全然相手になりません...」
というと,
「プロを相手にしているからね」
とのお答え.
まぁ,そんなものだろうと思う.

実際に道場に足を運んで,平幕から小結まで
昇進した力士もいらっしゃったというから,
内弟子の方々もそれは工夫されたことだろうと思う.

しかし,技術は技術として素晴らしいと思うのだけれど,
優勝争いに残るような力士たちを見て思うのは,
やはり相撲は力であるということである.
彼らは秀逸な技術はもちろん修得しているのだろうけれど,
それを越えるところで,やはり力の有無,身体の大小が
勝負を分けているように思えるのである.

そしてそれは相撲の美学,暗黙の束縛が一因となっていると思う.
つまり,相撲では小技で勝つのは美しくないという思想に
あると思うのである.

横綱相撲といえば相手にまっすぐぶつかって,
電車道で押し出すというのが美しいという.
しかし,それを技術のみで行おうとすると,
達人級の修練が必要になるだろう.
(だって,相手もプロなんだし)
そして,そうした技術のみを磨く稽古に重点をおいて,
力士たちは毎日稽古をしていないのではないだろうか.
結局,技術+力の合わせ技で,
最短距離で強くなろうと思うだろう.

聞くところによれば,日馬富士はもっとも
軽量級の力士なのだそうである.
彼がまともにぶつかって相手を押し出して勝つという
取り口で勝つには,たいへんな技術と努力が必要だろう.
たとえば,非常に体勢を低くして相手に
あたっていくというような技術.
しかし,それに比して足腰の負担が重くなることは想像に難くない.
結局,彼の力士生命が短くなるのではないかと心配してしまう.

彼の昨日の優勝を受けて,横綱審議会では,
彼の綱取りは難しいとの意見が多かったのだという.
特に,変化して勝つという取り口があったのが許せないらしい.
それは日馬富士にこの先,さらに過酷な道を進め
と言っているに等しい.
私だったら,頭と身体を柔軟にして勝ちを得るのも
いいのではないかと思うのだけれど,
相撲の美学がそれを許してくれないのである.

モンゴル出身の力士が強いのは,
身体だけでなく頭が柔軟で,
いろいろな対応が可能であるからだと思っている.
美学なんて固定観念は不要である.

精妙な技術と柔軟な対応.
日本の相撲にもたぶん昔はあったに違いない.
それがいつの間にか固まってしまって
失われてしまったのではないだろうか.

とにかく柔軟な日本人力士も
出てきてほしいものである.
その復活があれば,
日本人横綱の誕生もまたあるだろう.


2009年5月22日金曜日

離れていても

今日は,来月関東に引っ越すという
後輩のK君がわざわざあいさつに私を
尋ねてきてくれた.
一緒にランチを食べる.

彼とは大学時代の合氣道部の先輩,
後輩の関係なのだけれど,
今日,年齢を訊くと私と9歳も
違うのだという.
もっと歳は近いと思っていたのだけれど,
彼が1年生で入部してきたときに,
私はすでに博士課程3年生だったらしい.
彼は大人っぽく見えるから,
(とはいえ,もう30を過ぎた大人なのだから
当たり前なのだけれど)
私が勝手に年齢が近いと思っていたという
ことらしい.

まぁ,9年間も部活に顔を出していると,
後輩が100人近くできることになる.
すべての後輩を覚えていることなんて
とてもできない.
(先輩も覚えなくてはならないし...)

もちろん顔を見ればわかるのだけれど,
名前はすっかり忘れてしまう.
学年に至っては,誰が誰と同期だったかなんて,
自分の上下2~3年くらいの学年しか認識できない.
どうも私は名前と年齢を覚えるのは苦手なのだ.

しかし,こうしてわざわざ尋ねてきてくれるのは
本当にうれしい.
彼は5年とちょっと関西にいたそうだけれど
(私と同じ時期に関西に来た)
彼とあったのはほんの2~3回しかない.
けれども,ちゃんとつながりはあったような気がする.
これが同じ部活で汗を流した,という仲間の
良さだろう.
少し話すだけで,すぐにあの頃の親しさが
戻ってくる.
それがうれしい.
今は,お互い働いて,立場もずいぶん違うけれど,
その共通した文化背景というべき,部活の経験こそ,
私たちの宝なのだなぁとしみじみ思う.
離れていても,お互いがその宝をじっと抱いている.
そして,またいつか会うときには,
すぐに心を開くことができるのである..

K君のますますの活躍を心から祈っています.

2009年5月21日木曜日

非対称な男

私がジャケットを着ると,
だいたい右の袖口からはワイシャツの袖が長く見え,
左の袖口ではほとんど見えないようになる.

私は,右の腕が長くて,左が短い?
というわけではなくて,これは
私の肩の高さが,右の方が左に比べ
ずいぶんと下になっていることに起因する.
右肩がぐっと下がっているのだ.

裸になって背中を見ると
肩甲骨の位置自体が右の方が下になっている.
そのため,昔から側湾症を疑われていた.

自分では,右腕を酷使しすぎたために,
右肩が下がってしまったのだと思っている.
中高生の頃,いつも右手で学校の道具がつまった
スポーツバッグを持っていた.
教科書と道着と弁当で本当に重かった.
右腕はずいぶんと鍛えられたけれど,
そのために肩が下がってしまったのではないか.
そんな風に思っているのである.

一般には片側の腕ばかりを使うと,
そちらの肩が下がるとか,あるいは,
上がるとか言われる.
結局どちらになるのかよくわからないけれど,
私の周囲では下がる人が多いようである.

しかし,ややこしいのだけれど私の場合いつも右だけが
下がっているとは限らないようである.
まぁ,だいたいのところ右肩下がり
(あんまりいい表現ではないなぁ)
なのだけれど,ときには左肩が
下がっているときもある.
どうも内臓の調子が関係しているらしい.
胃なのか肝臓なのか,
そのどちらかが弱っていると,
どうも左肩が下がる.
というよりも右肩が上がって,内臓への
負担を減らそうとしているのかな,と思う.
とにかく,肩の高さは体調のバロメータなのである.

肩がかしがっているなんて,
武道的にはあまりほめられたものではない.
どちらの側も均等に違いなく使えるのが
いいに決まっている.
私の身体は,たぶんなにかしらの
操作法の制約を受けているにちがいない.

指導をいただいている先生には,
直せ,といわれている.
常に気をつけていれば,いずれかは
直るのだと.
ときどきは直しているのだけれど,
ふと気づくと右腕の袖口から
シャツが長く出ているのである.

いかん,いかん.
潜在意識に直すことをたたきこむようにしよう.

2009年5月20日水曜日

街に繰り出す中高生に思う

このブログでは,あまり社会のことなどについて
話はしないのだけれども,
今日はインフルエンザについて書く.

ニュースを見ていると,学校が休みになった
中高生たちが街に遊びに出ているのが
問題になっているという.

私は短気だから,こうした中高生をみると
腹が立つ.
なんのための休校なのか,
その意味を考えずに,
ただ家にいると暇だから,
という理由で遊びに出る.
どうしてそんなに思慮が浅いのかと思う.

確かに今回のインフルエンザは弱毒性だから,
自分たちがかかったとしても,
大した影響はないかもしれない.
しかし,糖尿病やぜんそくを患っている人,
妊婦や高齢者にとっては,生命の危険性が
あるのだということを認識してはどうだろうか.

私は今回の大阪,兵庫の休校措置は
当然のもので,よかったと思っている.
その結果,感染の広がりは遅れたと思われるし,
(数値シミュレーションで学校を休校にすることは
感染の拡大を遅らせるのに非常に有効であることが
示されているという)
その間に,今回のインフルエンザは弱毒性であることが
明らかになってきたし,地方自治体としても,
鳥インフルエンザ同様の対策をしていると
対応が間に合わなくなってしまうという予測ができ,
国に陳情することができた.

もしこれが,一斉に感染が広まっていて,
もっと多数の人が指定病院に殺到していたら,
と思うとぞっとする.
パニックが起こっていたとしても不思議はない.
今回のこの時間が稼げたことで,
私たちの心の準備もできたことは大きいと思う.

インフルエンザがどのようなものかわからない状態では,
全県的な休校はやむをえない措置なのだ.
この判断ができた知事は,良かったと思う.
そして,国に対応を要求していることもいい.
今回のインフルエンザに対しては,
危機管理能力が発揮されたといってよいと思う.

今後も継続的な措置は必要であることは間違いないが,
この初期の段階の一週間は非常に大切である.
なのにである.
街に繰り出している中高生は何を考えているのか.
自分たちが感染の担い手となって,
別の人を生命の危険にさらす可能性があることにまで
思いが至っているのか.

もちろん,経済活動も大切なので,
どこかで妥協しなければならず,
その意味で,社会人はたとえインフルエンザ拡大の
可能性があろうとも,仕事をしなければならない.
しかし,学生たちはそうした責務は少ないはずである.
まずは家で待機すべきだと思う.
というよりも,親はそうしたことをちゃんと子供に
指導するべきだと思う.
結局彼らは子供なのだ.

2009年5月19日火曜日

May sickness

インフルエンザの影響で,スーパーマーケットが
たいへんなことになっているらしい.
うちの奥さんから聞いた話では,
マスクはもちろんのこと,手洗い用液体せっけんや,
レトルト食品,果てはパンを焼くための強力粉までが
陳列棚から姿を消しているらしい.

学生のみなさんには,マスクは買いたいけれど,
どこにも売っていなくて,仕方なく,
していないという人も多い.
確かにどこの店も売り切れだものなぁ.
(もちろん大学生協も)
田舎から宅配便で送ってもらうという人もいた.
とにかくたいへんな状況である.

今回のインフルエンザは基本的には弱毒性という
ことだけれど,妊婦や小児,高齢者では
重篤な症状になることもあるという.
そして,ぜんそくや糖尿病を患っている人も
合併症になるという可能性があるというので,
気をつけないといけないらしい.

実は,私が学生たちに心配しているのは,
この合併症である.
インフルエンザと何を併発するのかというと,
「五月病」である.

ゴールデンウィークも終了し,
そろそろ学業に本腰を入れなければならないこの時期,
いきなり1週間の休講である.
勉学や研究へのモチベーションを失いやすいのでは
ないだろうか.

就職活動が終わって燃え尽き,五月病になる人もいる.
そして,何もなくても五月病になる人がいる(新入生とか).
彼らにとって,この五月の後半は,学業や研究を
軌道に乗せるために重要な時期ではないだろうかと思う.

なのに,休みである.
小学生のわが子たちには,学校から宿題が届いた.
大学生は自由きままである(まぁ,大人なんだから).

せめて今はゆっくりと休養をとって,
長編小説などを読んでみてはどうだろうか.
(決して教科書を読めとはいわない)
私だったら,音楽聴きまくり,
小説読みまくり,DVD見まくりで,
一週間あっという間に過ぎてしまうだろう.
五月病なんて全然関係ない.
(私は,もともと山に籠って隠遁するのが
夢であるくらいなので,
ひとりになるのは全然苦にならない)

学生のみなさんには,来る休み明けの講義に
リフレッシュした気分で臨んでほしいものである.

2009年5月18日月曜日

インフルエンザ禍

インフルエンザ禍である.
兵庫,大阪で感染が進展していたことが
次々と発覚し,こうした地域の
小・中学校,塾や保育所などの多くは
一週間程度の休校となった.

私が住んでいる町も
まさに感染者が続々と確認されている
地域に挟まれているので,
当然のことながら,そうした措置が取られている.

おかげで子供たちは大喜び.
そして一週間,子供たちをどこにも連れて行けず,
家の中で面倒をみなければならなくなった
親たちはゲンナリとした.
(保育所に子供を預けて働いている方々の
ご苦労はたいへんなものだろうと思う)

とうとう大学も休校措置となった.
ここで勘違いされるのは,休校すると
教員や職員も学校を休むのではないかということである.
残念ながらそうではない.
講義はないけれど,通常業務は継続している.
大阪大学では,研究室は通常通りの営業である.
ただみんなマスクをしているけれど.

夏休みや春休みもそうだけれど,
教員には休みがない.
本当のことをいえば,大学にうつって,年間の休日数が
前の職場に比べて激減した.
お盆と正月の数日くらいのものか.
だからこんな弱毒性のインフルエンザくらいでは,
休むべき理由にはならないのである.

しかし,業務的にはずいぶんと前から影響が出ている.
私は予定がないけれど,蔓延国とされる
アメリカやカナダ,メキシコへの渡航は
学長命令で中止されている.
このために,学会に参加できなくなった先生方は多い.

そしてとうとう,日本も蔓延国のひとつとなってしまった.
国内の学会などへの参加も熟慮するようにとのことだが,
この分だと学会の開催自体が危うくなるだろう...

そして,次に問題になるのは,
いつ大学を再開するかということである.
この分だと,感染はずいぶんと広域に
広がっているようである.
それが一週間や10日くらいで収まるものなのだろうか.
大学としては,講義の時間を確保するために,
早々に再開したいところだけれど,
こればかりは社会的な責任もあるので,
おいそれとは簡単に再開できないことだろう.
大学が再開してことで,感染が広がったりしたら,
責任がとれなくなるだろうし...
かといって国や地方自治体が
判断してくれるわけでもないだろうなぁ.
大学執行部の方々はたいへん悩まれることだろう.

とはいっても,私にできることは限られている.
とにもかくにも,自身は感染予防に心を配り,
あとは成り行きを見守るだけである.

#先週の月曜日も金曜日も,
会議のあと梅田でお酒を飲んでいた.
もうそうしたことは自粛しよう...

2009年5月14日木曜日

企業が面接試験でみることは

昨日は,学会関係の会議があって,
中央電気倶楽部に行く.
会議後は同じ委員の方々と
夕食をともにする機会があった.

いろいろな話を伺うことができ,
たいへん勉強になったのだけれど
(こうした懇親会は非常に有用な
情報収集の機会なのだ),
盛り上がった話題のひとつが
やはり旬の学生たちの就職活動.
学生たちを吟味する立場の方々の
本当のところを聞くことができた.

あるメーカの方がおっしゃっていたのだけれど,
やはり面接試験が占めるウェイトはどうしても
大きくなるとのことである.

そこで私は,実力はあるけれど
口ベタだから面接試験で落とされてしまう
学生がかわいそうだということをいうと,
以下のようにご意見をいただいた.

「グループ面接などでやはり発言を
しないのはまずい.
それでは評価はゼロである.

間違ったことを言うことを恐れてはいけない.
うまく話せないということを恐れてはいけない.
とにかく発言して自分をアピールすることが
大切なのである.

話している内容については
それほど重きを置かない.
たとえ間違ったことを話していたとしても,
それが堂々と自分の意見を言う,
あるいは一生懸命自分の考えを伝えようとする,
そうした学生に高得点をつける.

誰も修士1年くらいの学生に
正しい回答など求めはしない.
なぜなら自分が修士1年だった頃,
研究を正しく理解していたなんて,
とても思えないから.

だから,たとえば学部4年生が
博士課程の学生と一緒に面接試験を受けたとしても,
話す内容が幼稚だからなどという理由で,
発言を控える必要はまったくない.
大きな声で,しっかりと話せ.
一生懸命自分を伝えようとする努力,
相手に聴いてもらおうとする姿勢こそ,
試験官が見ているところなのだ.

だから面接の練習なんて長時間は必要がない.
このことを知るためには,
ほんの10分間のレクチャーさえあればいいのだ.
その10分が試験の合否を決めてしまう.
それを大学の先生は学生たちに伝えてほしい」

ということで,このブログで紹介した.
口ベタの学生には福音となる話だろう.
そして企業が求める人材の姿がわかってくる.
もう細かくはいわない.
まだ就職活動にがんばっている学生も多いだろう.
この記事が,そうした学生たちに少しでも役に立てばと思う.

#他にもいろいろ面白い話を聞いたのだけれど,
それはまた次の機会に...

2009年5月13日水曜日

十段の境地

以前,合氣道九段の先生に伺ったお話.

初段というのは,技を10回行って
そのうち1回が成功するレベル,
二段というのは,同じく技を10回行って
そのうち2回が成功するレベルといえる.
したがって,十段というのは,
10回行って失敗がない境地まで
到達しているレベルをいうのだという.

非常に求めているレベルは高いけれど,
面白いお話である.

その九段の先生が十段の先生に
あるときにお尋ねしたそうである.

「先生は,技を行って失敗することがありません.
それはどうしてなのですか」

十段の先生答えて曰く,

「技がかかることが分かってから
相手を投げているのだから失敗はないのだよ」

すなわち十段の先生は,技を行うときは
必ず技がかかる状態になってから行っているである.
...なるほど,と思うけれど
とてもその境地は遠い.

孫子に曰く,勝ちには以下の3種類があるという.

戦って勝つのが勝ちの下.
勝ってから戦うのが勝ちの中.
戦わずして勝つのが勝ちの上である.

合氣道の目指すところは,
争わずして勝つことだから,
勝ちの上の重要性を十段の先生は
いつも説かれていたけれど,
技を行う場合でも,勝ちの中を得ていたことになる.

孫子は,勝負は廟算して決まるとも述べているけれど,
技をかける以前に勝ちは決定しているのである.

この話を思い出すと武道の深遠さを思うと同時に,
自らの未熟さを思い知るのだけれど,
だからこそ稽古していく面白さがあるのだと思う.



2009年5月12日火曜日

新規まき直し計画,20%ルール再び

1日のうち20%の時間を
自分のために使う.
以前にもそうした目標を立てたのだが,
いつのまにか,このルールを
守らなくなってしまった.
(いや,いつこのルールを守っただろうか?)

現在,個人的に
「ニューディール政策」を実行中である.
別に経済的な話ではなく,
生活の「新規まき直し」ということで,
いろいろと反省中なのである.

そのひとつの柱として
このルールを黄金のものとして,
遵守するように努めよう.

必要なのは,ストイックなトップアスリートのような
厳格な(生活習慣の)トレーニングである.
生活には柔軟性も必要だが,
厳格さがなければ軸が定まらない.

新規まき直しで,軸を定める.
生活にも,身体にも,
そして心にも.

2009年5月11日月曜日

おみくじ

週末は家族で,地元の多田神社にお参りしてきた.
そういえば,今年はいろいろゴタゴタしていて,
新年のお参りさえ行っていなかったということで,
今頃詣でることになったのである.

多田神社は,源満仲他,頼光など5名の源氏が
祭られていて,そのために,「清和源氏発祥の地」と
されている(らしい).
私は日本史,世界史ともに(もっというと地理も),
からっきしなので,それがどのくらい重要なことなのか,
よくわからないのだけれど,
源頼光といえば大江山の酒呑童子退治の話で有名だから,
少しは親しみが持てる.

境内には貴乃花,曙両横綱が植えた木と
その碑があるので,そちらの方がむしろ気になる.
(両横綱が,源満仲の何かの1000年記を記念して
境内で土俵入りをされたのだという.
大阪場所で貴乃花が優勝した二日後に行われたので,
たいへんな人の出だったと,神職の方が話していた)

とはいっても家族の楽しみは
ここで引く「おみくじ」である.
そういえば,この数年はいつもここで引いている.
家族で見せ合って楽しむのである.
今年は私は「吉」だった.
まぁ,良しとしよう.

おみくじには,いろいろなことが書いてある.
「案ずるより産むが易し」だとか,
「失せもの見つからず」とか,
それらを天の声と思って,日々また精進するのである.

おみくじを信じるのか,といわれると困ってしまうが,
基本的にはあまり信じていないような気がする.
でも,そこに並んでいる言葉は,
自分を顧みるにはちょうど良いものばかりである.
すなわち,自分の生活態度を顧みるブレインストーミングの
キーワードとしては,なかなかに有用であると思っているのである.

昔の人は,辻に立って,通りすがりの人の会話を聞いて,
天の声としたという.
辻占とか,橋占とかいうものである.
それが実際に神の声かどうかは別にして,
なにか考えを始める際のランダムな入力であるとは
考えられないだろうか.

人間は考えを始めるときに,
なにもないところから発想をしていくのは難しい.
なんでもいいから,とにかく入力があって,
そこから連想が始まり,
考えがまとまっていくのではないだろうか.
「おみくじ」や「辻占」は,その思考をはじめるための
ランダムインプットなのではないだろうか.

それらは昔からの市井の人々の
ひとつの知恵なのだろうと思う.


2009年5月8日金曜日

Bach is Back!

GW中に上京したけれど,残念ながら
参加できなかったのが,ラ・フォル・ジュルネ・ジャポン
(「熱狂の日」音楽祭2009).
東京有楽町,国際フォーラム近辺で開催された
クラシックコンサートのお祭りである.
(金沢でも開かれていたのだけれど)

今年で5年目?
毎年テーマのアーティストがいる.
(いや,いない年もあったかな)
ベートーベンやモーツァルト,
昨年はシューベルトだった.

関連したコンサートが朝から晩まで
いくつも開催され,
街中でもいろいろなイベントが開かれる.
今年は71万人の参加者があったのだという.
どこにそんなクラシックファンがいるのかと
思うくらいの話である.
(一度も参加したことないのだけれど)

今年のテーマは,バッハ(もちろん大バッハ)である.

”Bach is Back!"

というのが合言葉らしい.

"Bach"は,"バック"と発音する
海外の人が多いから,これはシャレになっている(と思う).
(以前,オーストラリアの人と話していたときに
「作曲家ではバックが好きだな」と言っていて,
それがバッハであることに気づくまでずいぶんと
時間がかかったことを覚えている)

私もバッハは,大好きである.
なんでもいいなぁ,器楽曲も声楽曲も.
GW中に家族で車で出かけたのだけれど,
渋滞の中で聴いていたのが,
ブランデンブルク協奏曲1~6.
(ヴィンシャーマン,ドイツ・バッハ・ゾリステン)
イライラ感も少しは解消されていたかも.

なにか気づくとバッハが聴きたくなる.
バッハの音楽はなにか結晶を思わせる.
器楽曲はもちろんのこと,
声楽曲であっても,
混ざりけのない純粋さを感じる.
うちの奥さんは数学的と評していたけど,
確かにその美しさは数学的だ.

こうして書いているだけで,
また彼の楽曲が聴きたくなってくる.
彼が生きていた当時は,
あまり彼は人気のない作曲家だったらしいし,
その死後しばらくは顧みられることもなかったらしい.
(メンデルスゾーンが彼の作品を復活させるまでは)

それがどうだろう,現代のこの人気は.
21世紀の私たちにこれほどまでに愛聴されるとは
彼は思いもしなかっただろうなぁ.
しかし,ここまで世界に広まってしまったら,
あと100年は聴かれ続けるに違いない.
その数学的な魅力のあるかぎり.


2009年5月7日木曜日

ガッツが足りない

この連休中,友人のTさんとIさんの結婚式が
挙げられるとのことで,一日上京してきた.
Tさん,Iさんともに,以前の職場の同期であり,
お似合いのふたりだと心より思う.
本当におめでとうございます.

私は人前式というものに初めて出席したのだけれど,
多くの親族,友人たちに見守られる
暖かい雰囲気の中で,結婚を誓いあうふたりを見て,
こうした形式も素敵だなと思った.
私も証人のひとりとなったことだし.
(結婚式の証人もWitnessと呼ぶらしい.
我々は「目撃者」なのである)

披露宴では主賓である東京大学名誉教授の
宮健三先生のご祝辞があった.
(彼は宮研究室出身の俊英である)

そこで話されたのは,人が不可能と思うような困難に
立ち向かうことが研究開発に携わるものの務めであり,
それに必要なのはガッツであるということ.

「ガッツ」
久しぶりにこの言葉を聞いた.
どこかのウルトラ警備隊の名称だったかな.
そういえば,最近「ガッツ」を口にする人が少ない.

一方,今は「スマート」流行りである.
電力分野ではスマートグリッド,
材料分野ではスマートマテリアル,
国の戦略であってもスマートパワーなどと言われる.
要は,高機能を指すのであろうが,
「スマート」という言葉には,
「カッコよく」という意味が含まれる.
そして,どこか「楽をして」というニュアンスが
含まれているのではないだろうか.

研究開発は,「スマート化」は目的になるけれど,
スマートに物事を進めるだけでは
突破できない壁があると思う.
これに立ち向かうのが,それに携わる私たちの仕事だし,
それには「スマート」の反対の「泥臭さ」が伴う.
そして,それに必要なのが「ガッツ」なのである.

「ガッツ」(Guts)の本来の意味は「腸」である.
内臓で感じるがごとく,すなわち
日本流に言えば腹を据えて物事に立ち向かう
ということである.

私にもGutsは不足しているようだ.
石にかじりついても成し遂げようとする気概,
最近忘れていたように思う.
この少し懐かしく感じる言葉をお土産に
私は東京から帰ってきた.
(もちろん素敵な引き出物もいただきました)
今日から,Gutsで仕事するのである.

#ちなみに,英語で「虫の知らせ」は
Gut Feelingsというらしい.
内臓で感じる,腹で感じるという感覚は
世界共通である.

2009年5月2日土曜日

酒は恋に似ている

最近は安い居酒屋でしか酒を飲まないから,
Barになんて全然立ち寄ったこともないけれど,
それでもときどき強いカクテルか,
香りの高いウィスキーが無性に飲みたくなる.
Barのあの足の高い椅子に座って,
ゆっくりと時間を過ごしたい.
もちろん,女の子と一緒ではなく,
独りゆっくりと.

"Alcohol is like love.
The first kiss is magic,
the second is intimate,
the thrid is routine.
After that you take the girl's clothes off."
("The Long Goodbye")

R. Chandlerの小説の中のセリフである.
3杯目よりあとの話は別にして,
最初の2杯の酒の美味さは
確かに恋のときめきに似ている.
(って,私は恋にそんな風に
ときめいたことはないような気がするけど)

そんな珠玉の2杯を味わうために,
あのBarの暗い扉をくぐりにいきたいなぁと
思うのである.


2009年5月1日金曜日

身体を鍛えよう

「monkey business Vol.5 対話号」に村上春樹氏の
ロングインタビューが載っている.
そして,小説には体力が必要だということを述べている.

彼は,フルマラソンやトライアスロンに出場するくらい
自分の体力を維持していて(もう60歳になるというのに),
長編の小説を書くときは,一日に何時間と決めて
集中して原稿に向かうらしい.

小説家は,不摂生が当たり前と思っていたけれど,
彼は,一般のサラリーマンよりも厳しい,
修道院的な生活を送って作品を著しているらしい.

彼は,年齢を感じていて,
残された時間を有効に使うべきだという考えから,
もう無駄なことはしないといっている.
有効に使うべき,という考えというよりも,
そうしなければ申し訳がない,というような
義務感なのだと話している.

プロフェッショナルである.
このインタビューを読んでいて,
自分を深く反省した.
そして,あらためて体力の維持の重要性を感じた.
いまだ風邪で本調子ではないのだけど,
まずは体力が回復したら,ダイエットをしよう.

最近,私も体力が自分の精神状態,
脳の活動に大きな影響を与えていることを実感している.
昔は,脳の中身も筋肉で動いていると
笑われていたくらいだし.

なにはともあれ,健康第一である.