2009年5月25日月曜日

押さば押せ,引かば押せ

今回の相撲,夏場所は珍しく結果が気になっていた.
やはり優勝争いが熾烈だと面白い.
私としてはヒールの朝青龍を応援していたのだが,
(どこまでも私は悪役を応援するのである)
結局,日馬富士の優勝.
彼の人柄もあってか,喜んでいる人も多いようだ.

私は知らなかったのだけれど,
彼はモンゴル出身なのだという.
それにしては,変化技が少ない力士で
(今場所は稀勢の里で変化していたけれど)
日本の力士だと思っていた.
といっても,相撲にずっと注目しているわけでもないので
専門家のようなことはいえないのだけれど.l

「押さば押せ,引かば押せ」というくらい
相撲というのは力技だと思われているけれど,
実は非常に技術が精緻である.
(格闘技の原点といわれるだけはある)

実は私の稽古している合氣道では,
実際の相撲取りが稽古に来ていたこともあって,
内弟子経験者の師範の方々は非常に相撲が巧い.
(と,私なんかが巧いというのは僭越なのだが)

どのくらい巧いかというと,
まずお互い仕切りの姿勢から立ち上がり,
師範にぶつかっていくのだけれど,
全然力のぶつかりを感じさせない.

そのうち胸を合わされたり,
まわし(道着なので帯)をとられてしまうと
こちらが全く力を出すことができなくなる.
どうも巧く力の方向や,タイミングを外されているらしい.
そして,そのうちに上からベタっと潰されたり,
身体を浮かされてしまう.
全く歯が立たず,まるで大人と子供の相撲である.

初めて師範と相撲の練習をしたときは,
単純だと思っていた相撲の技術が
これほどまでに精妙なのだと思い知って,
本当に驚いた.

師範に,
「全然相手になりません...」
というと,
「プロを相手にしているからね」
とのお答え.
まぁ,そんなものだろうと思う.

実際に道場に足を運んで,平幕から小結まで
昇進した力士もいらっしゃったというから,
内弟子の方々もそれは工夫されたことだろうと思う.

しかし,技術は技術として素晴らしいと思うのだけれど,
優勝争いに残るような力士たちを見て思うのは,
やはり相撲は力であるということである.
彼らは秀逸な技術はもちろん修得しているのだろうけれど,
それを越えるところで,やはり力の有無,身体の大小が
勝負を分けているように思えるのである.

そしてそれは相撲の美学,暗黙の束縛が一因となっていると思う.
つまり,相撲では小技で勝つのは美しくないという思想に
あると思うのである.

横綱相撲といえば相手にまっすぐぶつかって,
電車道で押し出すというのが美しいという.
しかし,それを技術のみで行おうとすると,
達人級の修練が必要になるだろう.
(だって,相手もプロなんだし)
そして,そうした技術のみを磨く稽古に重点をおいて,
力士たちは毎日稽古をしていないのではないだろうか.
結局,技術+力の合わせ技で,
最短距離で強くなろうと思うだろう.

聞くところによれば,日馬富士はもっとも
軽量級の力士なのだそうである.
彼がまともにぶつかって相手を押し出して勝つという
取り口で勝つには,たいへんな技術と努力が必要だろう.
たとえば,非常に体勢を低くして相手に
あたっていくというような技術.
しかし,それに比して足腰の負担が重くなることは想像に難くない.
結局,彼の力士生命が短くなるのではないかと心配してしまう.

彼の昨日の優勝を受けて,横綱審議会では,
彼の綱取りは難しいとの意見が多かったのだという.
特に,変化して勝つという取り口があったのが許せないらしい.
それは日馬富士にこの先,さらに過酷な道を進め
と言っているに等しい.
私だったら,頭と身体を柔軟にして勝ちを得るのも
いいのではないかと思うのだけれど,
相撲の美学がそれを許してくれないのである.

モンゴル出身の力士が強いのは,
身体だけでなく頭が柔軟で,
いろいろな対応が可能であるからだと思っている.
美学なんて固定観念は不要である.

精妙な技術と柔軟な対応.
日本の相撲にもたぶん昔はあったに違いない.
それがいつの間にか固まってしまって
失われてしまったのではないだろうか.

とにかく柔軟な日本人力士も
出てきてほしいものである.
その復活があれば,
日本人横綱の誕生もまたあるだろう.


0 件のコメント:

コメントを投稿

桜を見ると思い出す

桜が満開である。 研究室でも花見BBQが行われ、まさに「花より団子」 、学生はだれも桜など見ずにひたすら食べることに集中していたけれど、食べづかれた私は桜をぼんやりと見ていた。 学生の一人が 「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と梶井基次郎の文章 について話していたので、そうい...