2009年7月30日木曜日

江戸時代の夜に見えるもの,聞こえるもの

夜,帰宅時に中央環状線を車で走っていると,
もちろん道の両脇には町が広がっているのだけれど,
池田を抜けると遠くの方に家の明かりが
集まっているのが見える.
そして黒い山影があって,その輪郭がぼんやりと
光って見える.
その向こうにも町があるのだ.

こうしてふと周りを見まわしてみると,
当然のことなのだけれど,
光と音であふれている.
現代の私たちの生活には,
どこかに必ず人工的な光と音がある.

では江戸時代はどうだったのだろうと考える.
夜は提灯や行燈のほのかな明かりしかなかったろうから,
ずいぶんと暗かったに違いない.
一体なにが見えていたのだろうか.
そして音に至っては,自動車の走る音なんて
どこにも聞こえないだろうから,
ずいぶんと遠くの音も耳にできたに違いない.

夜の暗さは,生命の根源的な恐怖をもたらす.
特に新月の夜などの恐ろしさを考えると,
いったいどのように過ごしていたのだろうかと
不思議に思うくらいである.

山の方から,なにかしらの動物の声が聞こえ,
川があれば,重い流れの音が聞こえる.
人もいまよりもずっとまばらにしか
住んでいなかっただろうから,
他人の生活も遠くに感じられたに違いない.

そのような世界がどのようなものだったろう.
すでに私たちはそれらをうまく想像できないように
なってしまった.
もしも人里離れた山奥に住めば,
そして電気もガスも使わない生活をおくれば,
そうした生活を体験できるのかもしれない.
けれど,そうなったとしても,
この山の向こうには人家の煌々とした明かりがあり,
電化された便利な暮らしがあることをすでに
知っているがために,どこかに安心感があるだろう.
その頼るところもなかった時代の人々の心の中が,
いったいどのようなものであったか,
大変に興味があるのである.

村上春樹の小説に,
以前は,世界の闇と心の闇はつながっていた,
というようなことが書いてあったと思うのだけれど,
そんな時代の人々の心は,もう2度と
経験できないものなのかもしれない.

2009年7月29日水曜日

「小川未明 童話集」と怪談

ときどき何かが無性に食べたくなるように,
突然にどうしても読みたくなる物語がある.
私にとって,そうした物語のひとつが,
「小川未明 童話集」である.

新潮社から出ている文庫本を
以前から所有していたのだけれど,
最近どうも手元に見つからなかった.
きっとどこかの引き出しの奥にでも
隠れているのだろう.

しかし,昨日,どうしても彼の作品が
読みたくなってしまった.
こうなってくるともう抑えが効かない.
仕方がないので生協にいって,
一冊購入してしまう.
そして昨晩,収められている童話のうち,
何話かを貪るように読んだ.
なにもかもをさておいて,
一心に読んだのである.

彼の作品は相変わらず
もの哀しさと切なさを含んでいて,
心に擦り傷をつけるような
そんな読後感に十分に満足した.

小川未明という人は,
どうしてこのように美しく,湿度をたたえた
抒情性に満ちた作品が書けたのだろうと
不思議に思う.
戦争中から戦後に書かれたであろう
作品たちであろうに.

彼の作品がもつ湿り気は,
日本人の感性そのものなのだと私は思う.
「赤いろうそくと人魚」は彼の代表作で,
哀しさと美しさにあふれた物語なのだけれど,
それは怪談といってもいいくらいの
恐ろしさも兼ね備えている.
そう,実に怪談そのものなのだ.

私は最近思うのだけれど,
怪談にこそ日本の特質が
集約されているような気がする.
陰湿な出来事,因縁,非論理性.
これらが絶妙に調和されている.
そんな怪談こそが日本の美しさを
映し出しているように思うのである.

そして,小川未明の作品は,
それらを十分に備えたものになっている.
さらに,せつなさ,はかなさがそこに加わる.

「金の輪」という物語は,長さでいえば
4ページ程度の非常に短い作品であるけれど,
彼の作品のそうした美点が抽出され,
純粋に結晶化したような佳作であると思う.
読んだ後,そっと胸に残るせつなさを
ただじっとかみしめるだけ.
そんな,私にとって宝物のような作品なのである.
今回もこの作品を読んで,
ようやく飢餓感が癒された.

童話集ということで大人は敬遠してしまいがちだけれど,
こんな素敵な物語を知らずにすますなんて
なんてもったいないことだ,と思う.
ひとつひとつは本当に短い物語なのだから,
ちょっとした時間にぜひ目を通してもらいたいと思う.
たぶんその魅力のとりことなって,
すぐに次の作品が読みたくなるに違いない.
そして,彼の作品は怪談であるという私の意見に
同意していただけるに違いないのである.



2009年7月28日火曜日

正常化バイアス

北九州,西日本の豪雨の被害は
大変なものになっている.
心よりお見舞い申し上げます.

昨晩,ラジオのニュースで聞いたのだけれど,
人間は災害に対し,もともと逃げ遅れやすい
性質を持っているのだという.
これを正常化バイアスとか正常化の偏見とか呼ぶ.

私たちはついつい,
洪水警報や突風警報などが発令されていても,
ここはまだまだ大丈夫だと思ったり,
火災報知機が鳴っても,
誤動作かな,と思ったりしてしまう.
この心の働きを正常化バイアスと呼ぶのだという.

これは,私たちの日常生活において,
過剰な心理的ストレスから身を守るための
本能らしいのだけれど,
ときどきこのために避難が遅れてしまうという
結果になることがある.
だから災害時には,地域で声をかけあって
避難するタイミングが遅れないようにするなどの
工夫が必要だと言われている.

私はこの話を聞いて,なるほど,
この正常化バイアスというものは,
生きていくのに不可欠であると思った.
この「自分だけは大丈夫」と思いがちな偏向が
なければ,この悲惨なニュースにあふれた毎日を
とても過ごしていくことはできないだろうからである.

交通事故,病気,殺人事件など,
新聞紙上を騒がすニュースは,
どこかで他人事のような気がしている.
しかし,そうでなければ,
それをいちいち自分のものとして(家族のものとして)
真剣に受け止めてしまうのならば,
すぐに心が参ってしまうだろう.
確かにこの心理的な偏向がなければ,
生きていけないに違いないのである.

では,人間はつねにそうしたバイアスで
行動するかというと,その逆もある.
集団心理が働いて,過剰に反応し,
パニックに陥ることもあるのである.

ある時は反応が不足し,
ある時は過剰になる.
なんとも人間の心理状態は不安定なものである.
なにか効果的な安定化制御はあるのだろうか.

2009年7月27日月曜日

天神様は梅なのか

大阪で天神祭が行われたそうである.
そういえば,大阪大学も船渡御の際に,
船を出すとかで,乗る人を募集していたような気がする.

とにかくひどい人ごみだということで,
全然興味がなかったのだけれど,
ニュースで大阪天満宮の梅の神紋を見て,
あぁ,これは天神様のお祭りなのだと
ようやく思いが至った.

天神様といえば菅原道真であって,
漫画「陰陽師」などではたたり神として登場する
学問で有名な神様である.

東風吹かば 匂いをこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ

の歌が有名で,梅がシンボルとなっている.
彼が流された先の大宰府にも飛梅伝説で有名な
梅の木があったりする.

だから彼は梅が好きだったと想像してしまうのだが,
一生のうちに彼が読んだ歌には,
梅に関するものよりも菊に関するものの方が多いらしい.
たしか幸田露伴の随筆集に書いてあった.
梅の神紋ももしかして後世の人が
勝手につけたものかもしれない.

梅というのはそれほど日本の神話には
桃に比べて,あまり大きな役割を
果たしていないのではないかと思われるし,
まぁ,梅の神紋ももともとは梅というよりも
五ボウ星と同じ魔除けの意味を持っていたともいわれる.

まぁ,いずれにしろ,
現代となっては天神様といえば
梅になってしまったわけで,
これではあの世の菅原道真も,
好きな菊の花も楽しめまい,と
少しかわいそうに思うのである.



2009年7月24日金曜日

ベニーユキーデのポジティブシンキング

ベニー・ユキーデといえば,私が高校生になって
空手を始めた頃,スーパースターの一人だった,
フルコンタクト空手(当時はマーシャルアーツと
呼ばれていたけれど,
まぁ,キックボクシングだったかな)の選手で,
華麗な後ろ飛び回し蹴り(ローリングソバット)が
印象的だった.
その高速に繰り出される技から,
"The JET"ユキーデとか「怪鳥」とか
呼ばれていた強い選手だった.

彼はジャッキー・チェンの映画にも出演していて,
「スパルタンX」(だったかな)では,
非常に素晴らしいアクションシーンを披露している.
(空手道部の同期のM君が,それに感化されて,
道場でその真似ばかりをしていた)
彼は,このように俳優もやっていたけれど,
本当に技術的にも優れた選手と評判だった.

私も少し憧れていた.
まぁ,彼のトレードマークの赤いパンタロンを
履こうとは思わなかったけれど.

彼は「実戦フルコンタクトカラテ」という技術書も
著していて,当時立ち読みだけれど私も
目を通したりしていた.

確かこの本だったと思うのだけれど,
彼はこんな風に書いていた.

”コップに半分の水が入っている.
そこで「半分しか入っていない」と考えるか,
「半分も入っている」と考えるか,
そうしたところから戦いは始まるのだ"
(詳細,全く忘れてしまっています...)

すなわち,ポジティブに思考することの重要性を
述べている.
コップの話も,ポジティブシンキングの話も
現在では当たり前に聞かれるようになったけれど,
1980年代前半で,戦いの場でこうしたことの
重要性をはっきりと述べているのは大変珍しかった.
(私の稽古している心身統一合氣道では,
もっと前からこうした教えがあったようだけれど)

しかし,格闘技の世界だからこそ,
心理状態が自分のパフォーマンスに
大きく影響するということを,
ユキーデは身をもって実感していたに
違いないのである.
現在流行している安易なポジティブシンキングとは
その重みが全く違う.

できると思ってやることが大切なのである.
やる前から,失敗することを心配していれば,
本来の能力を発揮できない.
ポジティブに状況をとらえて,
その中で最大のパフォーマンスを発揮する.
これがいつでもどこでもできなければ,
戦いに勝利することはできないのである.

できると思って始める.
その前に十分に廟算しなければならないが,
始めるからには,必ずできると信じて実行する.
失敗のことは,失敗してから考えればよい.

このように私ももう20年以上教えを受けてきたのだけれど,
まだまだ未熟なことを日々実感している.

今日,ふと,できると思って行うことの重要さを考えて,
ベニー・ユキーデを思い出したのである.
(自分でもどういう思考パターンなのかとあきれるけれど)
彼は今何をしているのだろうか?

2009年7月23日木曜日

空白の必要性

最近の私の文章を読んでみると,
ずいぶんとひどいものになっている.
まぁ,もともとひどいのだけれど,
いつもに増して内容に飛躍があったり,
使っている言葉がヘンだったりする.

昨日も高校生の見学の案内をしていて
思ったのだけれど,考えたことが
すらすらと話せない.
結局のところ,最近,脳が疲れていたのだろう.
なにか飽和してしまった感がある.
健全な思考には,脳に空白が必要なのである.

なにかを受け入れるためには,
まずはその器を空にしなければならない.

中村天風先生がインドにおいて,
聖人カリアッパ師について修行を始めた時に,
水で一杯に満たした器をもってこさせ,
そこに湯をそそげと言った.
天風先生が,それでは湯がこぼれる,と言ったら,
カリアッパ師は,それをもって天風先生の
考え方を改めさせた.
すなわち,先入観や自分勝手な考え方を捨てない限り,
師の教えを受け入れることができない.
まずは,それを捨てなさい.ということである.

私が思うに,先入観でなくとも,
思考が健全に働くためには,
空白が必要なのである.

ではどのように空白を作るのか.

まずはゆっくり寝ることだ.
ゆっくり眠ることによって,
脳のどこかで発生している
いくつかの無限ループを終了させなければならない.

ということで,今日は早めに帰宅して,
ゆっくりと睡眠をとろうと思う.

2009年7月22日水曜日

日蝕で太陽電池発電量は減少するか

目が痛い.
どうも日蝕を肉眼で見ていたために,
ちょっと痛めたらしい.

残念ながら今日は曇り空で,
日蝕観察には不向きな天気だったけれど,
その代わり,雲を通して欠けた太陽を
肉眼で見ることができた.

しかし,いくら雲を通して光は散乱されると
いっても,やはり太陽光線は強かったらしい.
目は確かにダメージを受けている.
今もディスプレイを見ていると,涙目になってくる.
どうも晴れた日にスキーをしたときになる
「雪目」の症状に近い気がする.
(今日は私と似たような症状の人,
日本中にいるかもしれませんね)

ところで,今日は,松山南高校のみなさんが見学にいらした.
せっかく日蝕の日の見学なのだから,ということで,
私の属する伊瀬研究室で行っている太陽光発電の研究と,
尾崎研究室の有機薄膜タイプの太陽光発電用結晶の研究を
ご紹介するというツアーが組まれたのである.

私は,太陽電池から出てくる電力は,
お天気任せの不安定な直流で,
それを交流にしなければ家庭で使用できない.
だから交流を直流に変換する半導体電力変換装置,
すなわちパワーエレクトロニクスの話をした.
また変動する電力を電池やキャパシタなどの電力貯蔵装置を
使用することによって安定して供給できるというお話をした.

どうかなぁ.
わかっていただけたかなぁ...ちょっと不安.
しかし,松山南高校のみなさんは
積極的に質問をされていて,
素晴らしいと思いました.
いいなぁ,そういうクラスの雰囲気は大切だと思います.

今日がもし晴れていたならば,太陽電池の発電電力量が,
日蝕とともに減少するようなデータが取得できたはずなのだけれど,
残念...朝からずっと曇っていたので,
晴れの日,2.5kW程度発電できるパネルからは,
200~400W程度の電力しかとれませんでした.

もうこんな機会は当分ないのだろうなぁ.
太陽電池のデータの取得については残念だったけれど,
とりあえず欠けた太陽は見ることができた.
(ピークの11:00頃は太陽が見える2Fの
渡り廊下に人が一杯でていた)

古代のロマンに思いを馳せる,といっていたけれど,
古代の人は,もしかすると曇っていたので
日蝕には気付かなかったかもしれないなぁ.
少なくとも私が古代に生きていたら,
ぼんやりと一日を過ごしていたに違いない.

2009年7月21日火曜日

日蝕と麒麟

明日はなんとか晴れてほしい.
私はどうしても日蝕が見たいのである.

以前に日蝕を見たのはずいぶん昔のこと.
黒い下敷きを通して,ほんの少しだけ欠けた
オレンジの小さな太陽を見た覚えがある.
(下敷きで太陽を見るのは,目に悪いそうなので,
もうしませんけれど)

今回,私の住んでいる大阪では
なんと80%も太陽が欠けるのだという.
なんともワクワクするではないですか.

古代中国では,日蝕は
竜が太陽を飲み込むために起こると
いわれていたという話を聞いたことがある.
凶兆なのである.

なんの予備知識もなく,太陽が陰っていくのを
ただ黙ってみるしかなかった古代の人々は,
いったいどれだけ恐怖に怯えたことだろう.

余談だけれど,国会解散が本日行われて,
明日日蝕を迎えることになる.
これが古代中国であったら,
どのように人々は考えたことだろう.

日蝕は,単なる天体ショーとしても十分に興味深いのだけれど,
そうした古代のロマンも感じさせてくれるのが
こうして周期的に訪れる天体のイベントの良さである.
(たとえば,ハレーすい星とか)

古代の人々の考えに思いを馳せて,
明日の日蝕を迎えたいのである.
やっぱりなにかワクワクするではないですか.

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凶兆ばかりだとイヤな感じなので,瑞兆の話も少し.
古代中国において,
聖帝の時代に生まれるといわれた
めでたい動物が麒麟である.
孔子が麒麟の死体を見て涙を流したという話が
伝わっている.
もちろん首の長いキリンのことではない.
(麒麟の死体はやはり凶兆なのです.
この辺の話は諸星大二郎の漫画なんかにも
出てきますね)

で,近い将来,麒麟が現れるといったら言い過ぎか.
来年,もしかするとキリンとサントリーが一緒になるという
話が現実のものとなれば,ひとつの大きなキリンが誕生する.
それを瑞兆とこじつけてみたくなる.
(私は別にキリンの特別な応援者ではないですが...
むしろ,サントリーが行ってきた文化事業がどうなるか心配.
たとえば六本木のサントリーホールとか...)

不況は多分に人々のマインドの問題だといわれる.
明るい話題でみんなが盛り上がればいいのだから,
こうしたバカ話も少しは役に立つだろうか.
(いや立たないだろう,~反語)


2009年7月17日金曜日

身体全体で考える

稽古が恋しい.
最近身体を動かす時間がとれず,
感覚が鈍ってきているような感じがする.

内臓が身体の状態に,
そして心の状態に大きな影響を与えているのは
日頃の生活で実感するところだけれど,
筋肉だって,そうだと思う.

筋肉だって,脳から神経が
届いて動いているわけであり,
皮膚に存在する感覚器からの信号は
脳にフィードバックされているのだ.

人間の意識・感覚を司る器官ということで,
すぐに脳を思い浮かべてしまうけれど,
ある意味では,身体全体が脳なのである.
筋肉そのもので考えることはできないけれど,
筋肉の状態は,脳の処理に大きな影響を与えるから,
やはり思考システムの一部なのである.
身体全体で思考するという視点があっても
いいと思う.

そう考えると,昔のSF小説で「キャプテン・フューチャー」の
サイモン博士などは脳だけの存在だったけれど,
一体どんな思考をするのだろう.
あるいは「銀河鉄道999」に登場する機械化人間は
どのような感情をもつのだろう.
彼らは,身体全体で思考するということが
できないはずなのだから.

こう考えると,筋肉や内臓を
常に良い状態に保つということは,
日頃の思考を明哲なものにするためには
不可欠であると思われる.
またその一方で,不調がある場合に,
通常と異なる発想が生まれる可能性もあるだろう.

身体も脳の一部であるという考えは,
いろいろな観点を提供してくれる.

#まずは稽古に行きたい...

2009年7月16日木曜日

偏る靴のかかとの減り方

最近,靴底を見てがっかりした.
左のかかとの部分だけが,右に比べて
ひどくすり減っている.
私の歩き方がいかにゆがんでいるかということを
示す証左である.

大学時代は,均等にすり減っていたから,
近年,歩き方がおかしくなってきたのだろう.
非常に恥ずかしいことである.

幕末の剣豪 山岡鉄舟は,玄関におかれた
下駄の歯のすり減り方をみれば,
相手の実力が計れるといっていたそうである.
(どこで聞いた話だったか...)

本当にそう言っていたかどうかは別にして,
歩き方に偏りがあるのは修正すべきである.
身体の軸がゆがんでいるということなのだろう.
日常生活の姿勢から見直してみよう.

今の私が山岡鉄舟の家を訪ねていったら,
たぶん門前払いをくうのだろう.

2009年7月15日水曜日

ブログはやはり他人のために書きたい

いや~ん,全然仕事が終わんない.
時間がほとんど取れない.
ぁぁぁぁぁ,神様....

という状態ではあるけれど,とりあえずブログは書いておこう.

ブログに書くネタに困るなんて話をたまに聞くけれど,
私の場合,そんなことは全くない.
質の高い文章を書くということにこだわらなければ,
(もともとそんなの書けないけれど)
このように駄文を連ねて構わないのならば,
何を書いたらよいのかわからない,ということは
ほとんどないのである.
まぁ,書こうと思うことがありすぎて,何を書こうかと
迷うことはあるけれど.

私にとってブログは独り言をいう場所になっていて,
他人に読んでもらうためのものでは
なくなっているのかもしれない.

これではまずいと実は思っている.
ブログは一応他人の目を気にして書くべきものだと思っている.

毎日の生活の中で,何を見ても何かを思うのだけれど,
自分の視点が他人にとって何か資することがあるかもしれないと
思って書くべきなのだと思う.
そんな大そうなことを思って書いているのか,
ということを言われるとつらいのだけれど,
私はそうでありたいと思っているのである.
そうでなければ,他人の日記をのぞくだけのことになってしまう.
それにどんな意味があるというのだろうか.

他人の心の位置を少しでも動かすことができるような
文章がいつか書けたらとは思っているのだけれど...

今日は最近めっきり愚痴ばかりになってきたブログの内容を
反省して書きました.





2009年7月14日火曜日

「大工と鬼六」と「トム・ティット・トッド」

先日,各地で似たような怪談,都市伝説が
採取されるという話で思い出したのだけれど,
昔話・伝承が世界で共通するということもある.

例えば,白鳥は,人の最期に関連した
イメージをもつというのは,
日本武尊の話で日本人にはなじみであるけれど,
西洋の方でもイソップ物語に,白鳥は最期の時に
もっとも美しい声で鳴くとあるように,
死に際に関連したイメージは共通であるようだ.
(最後に作曲した曲,歌った曲などを
「スワン・ソング」などと呼ぶ)
どうも東南アジアの方でも鳥と死後の世界というのは
強い関連があるらしく,この辺りは
人類共通のイメージなのかもしれない.

一方,そうとばかりは言えないこともある.
「大工と鬼六」という昔話をご存じだろうか.

大工の代わりに鬼が流れの急な川に橋をかける.
その代償として,大工の目玉を要求する.
しかし,鬼の名前を当てたら許してやるという条件を与える.
とうとう橋はかけられて大工は逃げ出す.
そして逃げた先の森で,子供(鬼の子供?)の不思議な唄が
聞こえてきて,そこで「鬼六」という名前を知る,という話である.

実はこの話は西洋の「トム・ティット・トッド」にそっくりである.
この話は,子鬼が王妃のかわりに一か月の間に,
王様に要求された大量の糸巻をするが,
その代わり王妃を妻にしようとする.
やはり,名前を当てたら許してやるという条件は同じで,
王様が森の中で,子鬼が歌っている唄(名前が含まれている)を
耳にして,その話を王妃にしたことによって,
王妃は救われるというお話.

その他にも同型の話がいくつか
ヨーロッパで採取されているらしい.
最初知った時には,これはすごいことだと思った.
遠く離れた日本とヨーロッパで,
こんなにも似たような話が見つかるなんて.
これはやはり人間には元型というものがあるのだろうか,
なんて,少し思ったりした.

しかし,よくよく調べてみると,
「大工と鬼六」というのはある作家が書いた物語であり,
どうもその作家は西洋の昔話を参考にしたらしいのである.
下敷きになったのは,北欧に伝わる同型の話らしく,
直接「トム・ティット・トッド」ではないのだけれど,
その話を読んだ作家が翻案して書いたということらしい.
それが柳田国男の本に紹介されて,
あっというまに日本国中に広まったのである.

この真相を知ったとき,少しがっかりしたけれど,
人間はそうそう単純じゃないよなぁ,と少しホッともした.

こうした他の話を翻案することは,
昔話の分野ではよくあることらしい.
「手なし娘」も同様に,日本とヨーロッパで
似たような話があるけれど,
これもヨーロッパの話が書きなおされたということらしい.
それはそれで面白いなぁと思う.
イソップ物語だって,どれだけ昔から
日本に紹介されているだろうか?
そしてそれが日本に根付いたというところに
人類共通の特性があるのだと思う.

やっぱり面白いなぁ.
いつかゆっくり考えてみたいなぁ,と
老後の楽しみにとっておくのである.


2009年7月13日月曜日

「これが最後だ」と思うことの弊害

昨日はとうとう仕事ができず,
今日から涙目で締切が近い仕事をしている(涙).
こうなってくると,自然焦ってきて
眉間にしわが寄ってくる.
精神的に余裕が無くなってくる.
これではいかんと,気づくたびに心を落ち着かせるのだけれど,
またいつのまにか肩に力が入っている状態に.
なんとまぁ,自分の心の修行の至らなさよ...

眉間にしわが寄っている状態は,実は
無意識に自分のパフォーマンスを制限しているのだ.
それは,精神的にも(頭脳も),身体的にも.
だから常に心を静かに,「慈眼温容」でいなければならない.
眉と眉の間は穏やかにしていよう.
顔の表情をコントロールすることによって,
精神状態を変えることも可能なのである.
仁王はいつまでたっても門番ということなのだ.

身体だけではない.
ちょっとした思考が人間のパフォーマンスに
影響を与える,ということに気づく人は意外に少ない.

たとえば「時間が足りない」と思えば,心が焦り
ひどいときには精神が集中できなくなって,
全然実力を発揮できない,なんてことがよくあるので,
それが悪いことだと思う人は多いことだろう.

しかし,「これが最後だ」と思うのはどうだろうか.
「これが最後」と思うことで,むしろパフォーマンスが
あがると思っている人が多いのではないだろうか.
実は,逆のことが多いのである.
特にトップアスリートの世界では,リラックスしているときが
もっとも能力を発揮できるように訓練されているから,
少しでもこのような特別な思いは負の効果を与えるのだ.

このことを思うと,カルガリーオリンピックでの
スピードスケート選手 黒岩彰選手について思いだす.
彼はこのオリンピックを最後とする決意で競技に臨み,
500メートルで銅メダルを獲得したのだけれど,
そのときの解説者は
「彼が「これが最後だ」と思ったばかりに銅になった」と
大変悔しがっていた.
そのころはまだまだメンタルコントロールの理解が不十分で,
「これが最後だ」と思うことが良いという根性論が
根強かったのだろうか.
黒岩選手のようなトップアスリートでも,
そうした思念にとらわれてパフォーマンスを落としてしまうのである.

省みて,こうして忙しく仕事をこなしていても,
平常と変わらないように作業を進めるのが
もっともパフォーマンスを上げる秘訣なのだろうと思う.
締切はあるけれど,それで焦ることは,
ますます状況を悪くするのである.
平然と事に当たる.
これを学ぶために武道を稽古しているのだけれど,
未熟を恥じることしきりである.


この歌を忘れずに,いつも涼しい目元でいたいものである.

2009年7月11日土曜日

怖い話

めまいがするほど忙しかった.
ようやく週末である.
仕方がないので,こうして大学で仕事をする.
家族にうしろめたさを感じる.
そしてこうした日に限って,天気がいいんだよなぁ.
あとで散歩に万博公園でも行ってこようかな.
芝生の上で本を読むのも悪くない.
(いけるかどうかは仕事次第だけど)

最近,カバンの中に入っている本のひとつは,
「新耳袋 第二夜」.
やっぱり怪談が好きなのである.

新耳袋は1冊に100個の短い怪談が
おさめられているシリーズで,
第十夜まである.
ちょっとした息抜きに読むのに丁度いいのである.
(さっきは,梅田の交差点で向こうから歩いてくる
美人の肩に,男の首だけが乗っているという話を読んだ)

基本的に人から聞いた話をまとめた,ということらしい.
だからストーリー的に凝ったものはない.
こんな不思議なことがあった,という事実を
並べるかたちでまとめられている.
これが逆に深くその背景を考えさせる理由になっている.
それがこの本を面白くしている.

この場合,幽霊がいるかいないかなんて
それが問題ではないのである.
(科学的に考えればいないに決まっているのだけれど)

なぜその怪談を怖いと思うのか.
その怪談がなぜ成立してきたのか.
そうしたことが私は気になる.
もちろん怖くも感じるのだけれど,
その怖さだけでなく,
怪談の背景に興味がわくのである.

例えば,その怪談が都市伝説である場合には,
その成立した背景がなにかしらあるはずである.
(心霊現象があったにしても,誰もそのことに
興味を持たなければ都市伝説にはならないからである)

そして興味深いことに同型の怪談や都市伝説が
日本のあちこちに限らず,世界のあちこちで
採取されることが多い.
そのことに私は強く惹かれるのである.

例えば,皿屋敷の怪談.
お菊という女中が皿を壊してしまい,
それをとがめられて殺され,死体を井戸に捨てられる.
その後,井戸からは「一枚~,二枚~,...」と
皿を数える声が夜な夜な聞こえるという...との
有名な話である.

これには,番町皿屋敷もあるし,播州皿屋敷もある.
その他,日本のあちらこちらで同型の話があるようである.
播州の話は,姫路城に「お菊の井戸」が残っていて
(私も見たことがある)
播州皿屋敷が元になっているのではないかということである.
(姫路城の話は,お家乗っ取りの話と横恋慕の話がからんだ
ものになっているけれど.
お菊は城主の毒殺を阻止したりして,
ずいぶんと勇敢な女性だったらしい)

しかし,日本各地に同型の話が採取されるというのが,
興味深い.播州の話が元になったとしても,
それが各地に広がり,そこに根付くというプロセスには
なにかしらの背景があったはずである.
そこに私は惹かれる.

怪談そのものも,誰もが幽霊がいたらいいなぁ,という
期待を暗に持っているからこそ,ここまで人気があるのでは
ないかと思うのである.
オカルトというものは,何度も否定されても
いつの間にか,またブームが起こるのだけれど,
これもどこかに,超能力があったらいい,とか
予言ができたらいい,とか,そうした思いが私たちの心の
中にあるからではないかと思うのである.
そのように思わずにはいられない人間の
心の働きにこそ私は強く興味を覚えるのである.
(ある人は,否定されても否定されても
またいつの間にか復活するようなこうした話を
「神話」と呼んでいる.
もとはユングなのだろうか?
「狼少女はいなかった」という本でもこのような「神話」が
話題となっている.この話はまた別の機会に)

とはいえ,そうしたことをゆっくりと考えることが
できるようになるのはいつのことだろう?
まずは仕事を進めなければ...
仕事が完了しない,それこそが私にとっては
怖い話なのである.

2009年7月7日火曜日

クラシック音楽ファン道の始まり

本日は大学時代の先輩である
東京工業大学 O先生が大阪大学で
ゼミを開くという用でいらっしゃったので,
一緒にランチを楽しむことができた.

O先生は同じ研究室の学年がひとつ上の
先輩で,在学中いや卒業後もいろいろと
お世話になっている.

あれやこれやで,お世話になっているのだけれど,
例えば,現在私がクラシック音楽を聴き始めるように
なったのも,O先生のおかげである.
(それと,T先生のおふたりのおかげ)

以前にも記事に書いたけれど,
「ゲーデル・エッシャー・バッハ」という本から
バッハに興味を持って,買ったCDが
グールドの「ゴルドベルク変奏曲」(2回目の録音).
その後,カラヤン指揮のベートーベンの第九のCDを
購入したのだけれど,何から聴き始めたらいいのか,
いろいろ迷っていた.

そんなときにO先生とT先生が,手ほどきをしてくれたのである.
初心者には,標題音楽がわかりやすくていいだろう,
ということでお二人が私に貸してくれたのが,
ベルリオーズの「幻想交響曲」のCD 7枚(枚数は今でも覚えている).
ミュンシュ,クリュイタンス,カラヤン(だったかな)など
とにかく聴き比べてみた.
これが最初はハードルが高かった.
だって,一曲聴くのに約1時間かかるのだから...
その上,この曲はボリュームが満点で,
一度聴くとすっかりと満腹感を味わえるのである.

作曲家ベルリオーズが,恋に破れ,アヘンを吸った芸術家の
幻想を題材にしたもので,最後の方は,ドロドロの展開である.
夢の中で彼女を殺した芸術家は断頭台へと行進をする.
そして,処刑の場面.
ギロチンで首が落ちて転がるような描写がある.
その後は,ワルプルギスの夜の夢.
魔女や亡霊などと一緒にサバトで踊るのである.
グレゴリオ聖歌の「怒りの日」が主題となって,
狂乱の状態のまま,曲は終結.
壮絶な展開なのである.

最後まで聴くともうへとへと.
それを最初から7枚比べて聴いたのである.
(さすがに1週間くらいかかったと思うけれど)
そして,少し面白みが分かったような気がした.

その後もおふたりから,チャイコフスキーの第5交響曲や,
ラフマニノフ,ベートーベン等,とにかく名曲の録音を
たくさんお貸ししていただいた.
ずいぶんそれで興味を持つようになった.

そして極めつけは,O先生には演奏会に何度も
誘っていただいたことである.
サントリーホールに初めて入った時のドキドキ感は
わすれられないなぁ...
朝比奈のブルックナーとかコバケンのチャイコとか.
そうした経験が今も私をクラシック音楽に引きつけているのだろう.

今日,O先生と話をしていて,
そうした学生時代はもう20年も前になることに気づいて,
自分の歳を実感した.
クラシック音楽を聴き始めて,
もう少しで20年になろうとしているのだ.

生演奏を聴く機会はめっきり無くなってしまったけれど,
いつまでもクラシック音楽には興味を持っていきたいと思う.
いまでは,生活に不可欠なものとなっているのだ.
こうした世界に目を開いていただいたO先生,T先生には
心から感謝したいと思う.

2009年7月6日月曜日

核融合とSMES

先週の金曜日は,まず電力工学の講義をする.
テーマは「核融合」.

私が「核融合」を?といわれても仕方がない.
しかし,6年前までは核融合研究の周辺にいたのだから,
そこは大目に見てもらおう.

核融合は,私が学生の頃も夢の発電だったけれど,
現在もまだ夢のままである.
しかし,学生の頃にまだ概念設計段階だった
国際熱核融合炉ITERは,すでにフランス
カダラッシュの建設中である.
ちゃんと研究は進展しているのだ.

口の悪い研究者は,核融合研究は,
新幹線に翼をつけて飛べと言っているようなものだ,
などといっているが,核融合炉の性能指標である
核融合三重積(温度,密度,閉じ込め時間)で見れば,
2年でトランジスタ集積率が倍になるという
ムーアの法則と同じ速度で進展してきている.
半導体集積回路の輝かしい進展と同じなのである.
(まぁ,この比較をしたからといって,
どうなるわけではないのだけれど)

核融合の講義をして救われる気持がするのは,
学生たちの興味がいまだに失われていないことである.
学生たちも核融合の話を聞きたがっている.
このことを実感できるだけで嬉しくなってしまう.
核融合はいまだ魅力的な研究分野であり続けているのである.

午前中の講義を終えて,そのまま東京霞が関ビルへ向かう.
超電導エネルギー貯蔵研究会に参加するためである.
超電導エネルギー貯蔵は,極低温に冷却すると
抵抗がゼロになるという性質の物質を使ってコイルを作り,
そこに電流を流すことによって,磁気エネルギー(=1/2 L I^2)の形で
電力を貯蔵しようというものである.
通称SMES(Superconducting Magnetic Energy Storage,
スメスと発音)研究会とよばれるこの会は,
1986年の超電導フィーバーの頃にその歴史をさかのぼる.
それまで,4.2K(-269℃)まで冷却してやっと
超電導状態が得られた物質しか見つかっていなかったけれど,
77K(-196℃)程度でも超電導状態になるという物質が
発見されたのである.
私はたぶん大学1年生だったと思うけれど,
その頃の大騒ぎは良く覚えている.
これからは電力はロスなく送れる,
世界は変わるのかなと思ったものである.

あれから20年以上が過ぎた.
SMESはすでに実用化されてはいるのだけれど,
普及はあまりしていない.
世界も変わっていない.
超電導材の価格と冷却装置までを含めたランニングコストが
ネックとなっている.
しかし,高温超電導線材がもっと安価に量産できるようになれば,
ぐっとその用途は広がるだろう.
それはすぐ近い将来のことと期待している.
(ちなみに,ヱヴァンゲリオン・序というアニメ映画にも
SMESは登場していた.ただし,スメスではなく,
「エス・エム・イー・エス」と呼ばれていたけれど.
どこで出てくるのか,興味のある人は探してみてください)

年に1回のこのSMES研究発表会における今年の招待講演が,
核融合科学研究所前所長の本島先生による
核融合の講演だった.
大変興味深いご講演で,その内容については,
また機会をあらためて記事としたい.

金曜日は,超電導と核融合の話題に
あふれた一日だった.
SMES研究会の懇親会では
懐かしい先生,先輩方にいろいろお会いして,
少しお酒を飲みすぎてしまった.
これら二つの分野の話が
やっぱり私も好きらしい.


2009年7月2日木曜日

朝から美しい音楽を聴く: 「チチェスター詩篇」(バーンスタイン)

今朝はなにかしら清冽な音楽が聴きたくて,
一枚,CD棚から取り出した.

「チチェスター詩篇」(L. バーンスタイン)

バーンスタインは,指揮者としてとても有名だったけれど,
実は自分は作曲家でありたいと思っていたのだという.
たぶん,指揮はその場かぎりのライブの芸術だけれど,
曲は後世にずっと残る可能性があるからだろう.
(この辺,カラヤンとは違う.
まあ,カラヤンはその代わり自分の演奏自体を
後世に残そうとしたのだけれど)

彼のもっとも有名な作品は,ミュージカルの
「ウエストサイド・ストーリー」だろう.
私も大好きである.
ホセ・カレーラスやキリ・テ・カナワなどの
オペラ界のトップを集めて
バーンスタイン自身の手によって録音されたCDは
私のお気に入りのひとつである.

この録音にはメイキングビデオがあって,
そこでは彼のこの曲の解説などが聞ける.
例えば,「この部分はチャイコフスキーの白鳥の湖からパクった」
なんて,笑いながら話していて,たいへん興味深い.
オーケストラは実は寄せ集めなのだけれど,
演奏は素晴らしいと私は思っている.

ビデオでは,バーンスタインに何度も歌を指導され,
カレーラスがナーバスになるところなども収録されていて,
創造芸術に携わる人たちの厳しさも実感できるものとなっている.
まぁ,もっとも印象的なのはバーンスタインというお爺さんの
カッコよさなんだけれど...
ビデオを観てからたぶん10年以上も経っているから,
今度DVDでも探してみようかと思う.

さて,「チチェスター詩篇」は「ウエストサイド」と違って
美しく敬虔な宗教合唱曲である.
第1曲は,非常に華やかな音楽であるけど,
第2曲は一転して,子供の独唱による,
とにかく美しい音楽である.
聴いていると,ため息がでるほど.
こんな音楽もバーンスタインは書いていたのかと感動する.
(第3曲ももちろん素敵だ)

10年以上も前になるだろうか.
プリンストン大学を訪れる機会があって,
アルバカーキで開催された学会からの移動の週末に,
秋のニューヨークの街を学生時代ご指導いただいていたS先生や,
お世話になっているM先生,学生のみなさんと歩いていた.

途中,大きな教会があってミサが執り行われていた.
ミサは公開されていて誰でも自由に入ることができるというので,
おずおずと教会の中に入ると,
確かに映画で見るような木製の椅子が並んでいた.
そして美しいステンドグラスから差し込む光の中で,
そこに腰かけて祈っている人たちがいた.

不信心な私は少し居心地悪く感じていたけれど,
しばらくして一緒にいたM先生が
「チチェスター詩篇だ」とおっしゃった.
(M先生は,非常にクラシック音楽にお詳しい)
そこで私はやっと背後に流れていた音楽に気づく.
実はその時はチチェスター詩篇の音楽を知らなかったのだけれど,
伽藍の広い空間にうすく響くその曲は,
本当に天から降ってくるように聞こえた.
そして,バーンスタインという現代の作曲家の作品が,
ミサの中で使用されているということに大変感動した.

帰国してCDを早速購入した.
(バーンスタイン指揮,イスラエル・フィル)
それを今朝も聴いてきたのである.
朝からこの天上の音楽にうっとりする.
それで少し救われたような心持ちになる.
そしてまた今日も頑張れる.

2009年7月1日水曜日

「ティファニーで朝食を」

昨日は諸事情のため,記事をエントリできなかった.
そんなこんなで毎日いろいろ起こるわけです...

さて,週末篠山のチルドレンミュージアムの
木陰の芝生の上で広げていた本が,
「ティファニーで朝食を」
言わずとしれたカポーティの名作である.
村上春樹の訳で読む.

いまさら読んでいるのかということなかれ.
最近小説を読み始めた私は,
周回遅れで他の人たちを追っているのだ.
逆にいえば,まだまだこうした作品を読んで,
ドキドキするチャンスが残されているともいえる.
そんな変な自慢はできる.
(いや,個人の読書量を上回る名作が
世界には山ほどあるのだけれど)

さて,「ティファニーで朝食を」といえば,
O.ヘップバーンの映画が有名なのだけれど,
幸か不幸か,私はそちらも未経験である.
ムーンリバーを窓にもたれて歌っている
ヘップバーンのシーンを見たことがあるけれど,
内容は全然知らなかった.

それが今回読んでみて,たいへんに楽しめた.
とにかくヒロインのホリー・ゴライトリーの魅力に尽きる.
天真爛漫というか,夢想家というか,
(一方で,人物には辛辣な批評をするけど)
とにかくはちゃめちゃな女の子で,
周囲の男はその無邪気な振る舞いに
いつのまにか無意識のうちに恋をしてしまう.
そして,彼女がいなくなって初めて
その喪失感の大きさを感じてしまう,
そんな素敵な女性として描かれている.

語り手である小説家のタマゴも,
思いっきり彼女に振り回されて,
そして淡い恋心を抱き,
少し心痛む別れを経験する.
そんな青春のほろ苦さがこの小説には描かれている.

この歳になってこうした小説を読むのも悪くない.
オジサンにとってみれば,ひとつのおとぎ話なのだ.
年老いた酒場の主人やホリーの夫も出てくるけれど,
哀れな彼らにこそ,自分を重ねてしまうところが出る.
これを若い頃に読んだらまた違った感想なのだろうけど.

映画は異なる結末なのだという.
また,カポーティはヘップバーンがホリーを演じたことで,
作品を台無しにされたと思っていたというけれど,
やはりそれでも観てみたい.
映画の方も周回遅れで
いろいろ観はじめようと思っているのである.

#作品中,名前の無い猫が出てくる.
村上春樹の名前の無い猫(あとで,いわしという名前になるが)は
この作品へのオマージュなのかも.