2009年11月30日月曜日

無刀流「無敵」ということ

山岡鉄舟という人が幕末から明治の時代にいた.
意外に知名度は低いけれど.
私も学生時代,江戸城無血開城に活躍した人くらいに
しか知らなかったけれど,実は一刀流の正統伝承者であって,
無刀流の創始者でもあった.
彼はその時代に有数の武道家であったのである.
(有名な書家でもあり,政治家でもあった)

彼が残した文章は少ないらしいけれど,
武道や修養に関するものがいくつかあって,
それらは非常に平易に書かれていて読みやすいが,
しかし,考えさせられることは多いものになっている.

たとえば彼は「無敵」ということについて,
それは,「優劣がない」こととしている.
自分より優れているものと立ち合えば,
心が自在に働かなくなり,手足が縮んで動けなくなるが,
自分より劣っているものと立ち合えば,
心はのびのびとして,自分の力を発揮できる,
というのでは,「無敵」ではないというのである.
優劣に関係なく,スルスルとただ行けばよいというのだ.

これは仕事の進め方にもいえる.
仕事の重さ,軽さによって,私の心の状態は変わり,
それによって,発揮できる能力は制限されてしまっている.
その内容に関わらず,スラスラと進めることができれば
どれだけ素晴らしいことか.

これは山岡鉄舟が言ったわけではないけれど,
昔からよく言われる例えに,
畳の上に敷いた一尺幅の板の上を歩くことは容易だが,
千尋の谷に渡された一尺幅の橋を進むことは難しい,
というものがある.
どちらも同じ一尺幅の上を歩けばよいのだけれど,
その歩みの重さは違うのである.
しかし,どちらも同じ幅の板の上を歩くことには変わりがないと
見切ることができたならば,スラスラと歩み進むことはできるだろう.

これは自分の心の状態が,武道でいえば敵を作り,
仕事でいえば障碍を作っているということである.
このことをのり越えることができたならば,
修行もずいぶんと進むことであろう.

無刀流ではその極意を「心外無刀」と称する.
心の外に刀は無いのである.
そうしたことに気づくまでに,私はずいぶんと時間がかかってしまった.
(もちろん会得したわけではないが)

もう少し山岡鉄舟について記事をみようかと思っている.

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