2010年1月19日火曜日

東側の音楽家たち

1月8日に指揮者のオトマール・スウィトナー氏が
亡くなったとの記事を新聞で読んだ.
N響の名誉指揮者だというけれど,
残念ながら実演に触れたこともないし,
TVでその演奏会も見たこともない.

しかし,彼の残したブラームスの交響曲の
なぜか2,3,4番(シュターツカペレ・ベルリン,
確かドイツ・シャルプラッテン?)の録音だけを持っていて,
(1番はなぜ買わなかったのだろう?)
一時期,良く聴き込んでいたので,
このニュースを聴いて悲しくなった.

東ドイツで活躍したということで,彼は
ザンデルリングと同様に渋いドイツ音楽を聴かせてくれる.
しかし,スウィトナー氏のブラームスは渋いながらも
音が柔らかく感じられるのだ.
優しいブラームス.
それが一時期の私の心情にあっていたのか,
2番,4番を良く聴いた覚えがある.

旧東ドイツと言うのは,ずいぶんとひどい社会だったというけれど,
(密告社会とか)
芸術という面では,実は大変に素晴らしかったのではないかと
彼の指揮による演奏を聴くと思うのである.

というか,そうした芸術くらいしか東ドイツの国民の心を
癒すものがなかったから,
オーケストラの団員たちも,その自分たちの役割を
十分に理解して,大変な努力をしていたのかもしれない.

ソビエトにおけるショスタコーヴィチのように,
皮肉と鎮魂によって政府に対抗した人もいるけれど,
(もちろん表向きはちがった)
暗い世の中だからこそ純粋に音楽に打ち込んだ人も
いるのではないかと思うのである.
(もちろんショスタコーヴィチも純粋に
音楽にうち込んだわけではあるけれど)

開放以前のソビエトや東ドイツ,
東欧の国々の音楽家による
素晴らしい演奏の過去の録音を耳にするたびに,
なにか複雑な気持ちがしてしまう.
なにが芸術にとって良いのか.
そうした音楽は幸せなのか.
素直に音楽の美しさに甘えられないのである.

しかし,そうした東側の芸術家たちも
今では数少なくなってしまった.
なにか違うものが彼らにはあるのだろうけれど,
それらは失われゆく運命にある.

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