2010年2月25日木曜日

憂鬱な採点

この時期は,卒業論文,修士論文,
その他に数々の報告書ということで,
ずいぶん忙しいのだけれど,
講義の期末試験の採点も
かなり気が重い.

もちろん,学生のみなさんが
良い点を取ってくれるのであれば,
心も軽く採点できるであろうが,
現実はあまりにも非情だ.
単位を落とす学生のみなさんも
そうかもしれないが,
採点をするこちらの心身も
ボロボロとなるのだ.
悲しすぎる...
私の半年の講義の成果が
この有様なんて...と
思う講義もしばしばあるのである.

最近は年々学力が下がっているのは
残念ながら確実のようだけれど,
(こんなこと言ってごめんなさい)
今年の受講者の特に目立ったのは
計算ミスが多いということである.

試験では電卓の持ち込みを不可としている.
したがって,手計算で問題を解かなければ
ならないが,そこは問題を作るコチラの方も
工夫して,小数点が難しくならないよう,
あるいは平方根がちゃんと開けるような
値に設定してある.

しかし,しかしである.
本当に簡単な計算も間違っているのである.
例えば,
32/ (200)^2という計算.
32÷40000 = 8.0 x 10^-4
とすぐに解けそうなものだけれど,
これが解けない学生が複数人
(決して少なくない人数)いた.

あるいは,cos x = 0.8の場合の
sin x の値の計算.
こんなの高校生時代から目にしているだろうけど,
答えは sin x = sqrt(1- (cos x)^2 ) = 0.6である.
計算するまでもない.
しかし,これも解けないという学生が複数いた.

基本的な計算が出来ないというのは
知識以前の問題である.
彼らは手を動かして勉強をしていないのだろう.
本当に悲しくなる.

基本知識である回路理論でさえも
理解出来ていない学生が多い.
この電気系でこの先,どうする気なのだろう?

今年は点数をつけるときにほとほと困った.
合格者の割合が...

とにかく,原因は私の講義の能力・努力不足なのだろう.
また来年度は工夫をしなければ...
しかし,大学生なんだから,中高生みたいに
手取り足取り教える必要はないと思うんだけれどなぁ.
教員は塾同様にそうして教えてくれるのが当たり前だと
思っている学生が多くて本当に困るのである.

2010年2月24日水曜日

電気学会関西支部講習会「スマートグリッド」

先週の金曜日は,中央電気倶楽部で開催された
電気学会関西支部主催の講習会に参加した.
テーマは「スマートグリッド」.

通常は,30~40名程度の参加者なのに,
当日はなんと170名.
急遽,会場も大ホールに変更されて,
講習会は非常に盛況であった.

「スマートグリッド」という言葉は
今,集客力抜群である.
「スマートグリッドに適用される電力変換器」
「スマートグリッドとスマートメータ」
「スマートグリッドとEMI」...など,
「スマートグリッド」という言葉さえつければ,
人が集まってくる.

「スマートグリッド」といえば,なにかビジネス
チャンスが転がっているように思えるのだろうか.

では「スマートグリッド」の定義とはなんなのだろうか.
実は,正式な定義はないようである.
また,日本やアメリカでの捉え方もずいぶんと異なっているようだ.

当日の講演では,「スマートグリッド」というのは
実態がなく,あくまでも予算獲得上の言葉である.
という話があった.
一時期の「ナノテク」と同じ部類のものなのだと.

確かに「スマートグリッド」の専門家というのは
見当たらないようである.
学問として成立していないのだ.
というよりも,いろいろな分野を横断する言葉であって,
一分野の専門家だけでは論ずることが出来ないものなのだろう.

しかし,それでもなにか定義をしようとするならば,
電力的に見ると,通信技術を活用して,既存電力設備および
導入される分散電源を効率的に運用しようとする技術で
あるらしいとは,ぼんやりといえるのではないだろうか.

通信技術というのがミソで,もうICTでは食べていけなくなった
アメリカの情報通信業界が,今度は家ひとつひとつにIPを
割り振ってビジネスをしよう,と乗り出したのが
「スマートグリッド」だという話もあるくらいである.
確かに「スマートグリッド」というのは,電力業界から出た話では
なさそうである.
有名になったのは,アメリカ,オバマ大統領の政策に
挙げられてからだけれども,そうした概念は電力分野では
ずっと以前からあって,「いまさら」という印象を持ったものである.
ただ,それが情報通信業界からのプッシュで表舞台に立った,
というのは,もっともらしい話ではある.

家々にIPを割り振るということで,話題になっている技術が
「スマートメータ」であり,これは電力の使用量等の情報を
リアルタイムで系統の制御系に送り,
より柔軟な使用を可能にする目的の装置である.
アメリカでは,電力需要と供給のバランスから電力の価格が
変動することもあるから(市場価格として決定される),
電力が高いときには自動的に電力の使用を控え,
安いときに自動的に洗濯機や食器洗い乾燥機などを
動作させるようにすれば,消費者は電気料金にメリットが生まれるし,
電力会社も,電力ピーク抑制においてメリットがある.
こうしてフレキシブルに電力の使用や融通を制御することによって
あらたなビジネスを生み出そうというのである.

しかし,当日の講演で関西電力の「新計量システム」の開発について
紹介があったが,日本ではすでにこうした多機能なメータについては
すでに開発が進められていて,現在すでに20万件を越える顧客に
設置されているのだという.
電気料金を決定するための家庭における使用電力量だけでなく,
将来は30分毎の電力,電圧,電流値などの情報も収集することで,
より効率的な電気の使用を顧客に提案することや,
電力品質の向上に資する情報を得ることができるという話だった.
また,すでに遠隔操作でブレーカをオン・オフできるようになっている.
ここらへんの事情から,日本の電力会社は,
アメリカでいうところのスマートグリッドの技術は既に開発済みで
いまさら騒ぐ必要が無い,とよく言っていることが理解される.

しかし,スマートグリッドが必要ないとは決して言っておらず,
将来,お天気任せで発電量が変動する太陽光発電や風力発電の
大量導入が進んだ場合に,それらが電力系統に悪影響を与えないための
技術としては,必要になるとの見解は一致しているようである.

いまさら,大騒ぎする必要はないけれど,
ひとつには将来の分散電源導入のため,
そして海外での市場を確保するためのスタンダードを日本が得るために,
スマートグリッドの研究開発は日本も行うべきである,とのことである.

なるほど.
やっぱり「スマートグリッド」には人が集まるわけなのである.

2010年2月23日火曜日

ひどい咳

風邪である.
この忙しい季節に風邪である.
それも鼻水と咳に悩まされるひどい風邪である.
ずいぶんと長い間,苦しんでいる.

先週から特に忙しい.
学部4年生や修士2年生が,卒業論文,
修士論文を仕上げる追い込みの時期であるのは
もちろんのこと,
先週金曜日は,中央電気倶楽部で
電気学会関西支部主催の「スマートグリッド」に
関する講習会に参加.
土曜日は,修士論文発表会の練習.
月曜日は,修士論文発表会・試問であった.
ゆっくりと休めたのは日曜日くらい.
身体は,鉛のように重かったのだけれど.

とにかく咳がひどい.
胸の奥に響く咳だ.
咳をするたびに胸が痛くなる.
そして夜になると止まらない.
昨晩も咳止めの薬を飲んでから
床に就いたのだけれど,
咳が止まらず,根付くのに2時間,
眠りについてからも1時間おきくらいに
咳のために目が覚めた.
今朝はもうぐったりとしていた.

先週は鼻づまりがひどかった.
花粉症かとも思ったけれど,
確かに症状が少し違う.
もう少し楽な感じ.
しかし,目にも影響がでてしまって,
一日中涙目で,まるで泣きはらしたように
まぶたは腫れ,目は真っ赤となってしまった.
鼻炎用の薬を飲んで,ようやく症状が
収まったかと思ったら,強い咳なのである.

熱は無いから仕事はできるが,
やっぱり頭痛はするし,身体はだるいし,
仕事の能率がどうしても悪くなる.

2週間くらい前から変な頭痛がしていたから,
そのころからもう病に侵されていたのだろう.

今日も早めに帰って,ゆっくりと睡眠をとることにしよう.
なんとか立て直さなければ.

講習会の話などは,もう少し身体が回復してから
記事に書きたい.

私が病で休んでいても,世の中は猛スピードで動いている.
ブログに残しておきたいことは山ほど起こっているのだ.

2010年2月18日木曜日

剣客商売,秋山小兵衛の生き方に憧れる

藤田まことさんがお亡くなりになったそうである.
本当に残念...

実は(というかバレバレですが),私は
時代劇の大ファンで,「必殺シリーズ」なんかは
中学生のころからよく父と見ていたものである.

藤田まことといえば,もちろん「必殺仕事人」の
中村主水役が当たり役だけれど,
近年は落ち着いた役柄が本当に似合っていて,
なんというか,人生の深みを感じさせる演技に
惚れ惚れしていたものである.

大河ドラマ「武蔵」の柳生石舟斎の役も,
新「椿三十郎」の軟禁された家老の役も,
それはそれは素晴らしかったけれど,
私の中では,彼の最も重要な役といえば
剣客商売」の秋山小兵衛にとどめをさす.

もともと池波正太郎の「剣客商売」シリーズの
小説が大好きで,全巻一応揃っている.
(うちの奥さんにも誕生日プレゼントに何冊か,
いただきました)

酸いも甘いも知り尽くした老剣客 秋山小兵衛の
人物の面白さ,奥深さを演じるのに,
藤田まことは本当にぴったりだった.
彼もこの役は自分のものだと言っていただけのことはある.

秋山小兵衛の生き方は,まさに私の憧れそのもので,
人生の艱難を知り尽くしても卑屈にならず
飄々と過ごしていく.
まさに「飄々」というよりほかがない生き方である.

老いても色気を失わない.
決して枯れ木にならない.
人生で楽しむべきものを知っている.
そうしたオジサン,オジイサンに私は30歳半ばを越えた頃から
憧れ続けているのだ.

藤田まことさんも,彼の生き方に憧れ続けていたに違いない.
そして,それはほぼ藤田さんの手中に
収まりつつあったのかもしれない.
そうでなければ,あの演技は実現しなかっただろう.

先日,「剣客商売」のスペシャル番組があった.
新聞の評に,藤田まこと演じる秋山小兵衛と,
中村梅雀演じるとの道場破りの浪人との語りのシーン,
それを見るだけでも,この番組を見る価値があると書かれていた.
きっとそうなのだろう.
それだけのものが出せる役者だったのだ.

また今度「剣客商売」を読み直してみよう.
あの洒脱な秋山小兵衛の生き方に習ってみるためにも.

2010年2月17日水曜日

壊れてしまったラジオ

はじめてトランジスタラジオを買った時のことは
いまでもよく覚えている.
小学6年生の最後の春だった.

ソニーの銀色のトランジスタラジオ.
当時としては画期的な,デジタルPLLシンセサイザーによる
チューニング方式.
だから,ダイヤルと周波数メモリがついていなかった.
ただボタンだけ.
AM,FM各7局をメモリすることができて,
暗闇の中でもチューニングを合わせることができた.
暗い中で光るLEDの蛍のような淡い光と
ピピピというデジタル音がとてつもなくカッコ良く思えた.
銀色のアルミケースと,そのずしりとした重量が
ラジオの高級感を醸し出していた.

このラジオは,自分の貯金で,そして自分で選んで
購入した最初のものではなかったろうか.
中学生になったら「基礎英語」を聞いて
英語の勉強をするという目的で
(その目的はほとんど果たされなかったけれど)
自分のそれまでお年玉などで貯めた貯金をはたいて
買ったのである.

自分のお金だから,入念に品選びをした.
何度も電気屋に足を運び,カタログを貰って,
逐一そのスペックを確かめた.
(今でもこれは変わっていない)
その頃は,今の「オープン価格」と違って,
カタログに価格もちゃんと記載されていたから,
自分の貯金額とにらめっこして,ようやくそのラジオに
決めたのである.

当初の予定より安く購入できたのを覚えている.
その差額で妹になにかを買ってあげたのだ.
いつもだったら,そんなことはしないだろうに,
その日はラジオを購入できた高揚感に浸されて
いたのだろう.

その日から,布団の中でも握りしめて
ラジオを聴くようになった.
高校卒業までの6年間,そのラジオとともに
勉強してきたといってもいい.

残念ながら,聴いていたのは,
NHK第2の英語の教育番組ではなく,
ミスDJリクエストパレードとか,
吉田照美のテルテルワイドとか,
三宅裕司のヤングパラダイスとか,
松宮一彦のサーフ&スノーとか,
所ジョージの足かけ二日大進撃とか,
ヤングタウンとか,そういった番組ばかりだった.
もちろん,ビートたけし,中島みゆき,鶴光の
オールナイトニッポンも聴いていた.
私の「ながら勉強」の友だったのだ.

大学時代,帰省した際にに,
そのラジオのスイッチを久しぶりに入れてみた.
...壊れてしまっていた.
「壊れかけのラジオ」ではないけれど,
本当に悲しかった.
ラジオというのは骨董品ではなく,
電子部品の寿命からどうしても動かなくなる時がやってくる.
電子工業製品の悲しさである.

そういえば,現代の子供達はラジオを聴くことなんて
あるのだろうか.
身近にラジオがないことも電気系の学科に人気がない
理由のひとつにあるのかもしれない.
私たちが子供の頃は,ラジオ工作に憧れたものだけれど.
さすがに五球スーパーなどと真空管の時代ではなかったけれど,
トランジスタを用いたラジオの製作のための雑誌などが
いくつかあった(「初歩のラジオ」とか「ラジオの製作」とか).
電子工作なんて,いまや全然流行らない...
もっとなんとかしなくっちゃ.

実はラジオについて思い出したのは,
昨日,The Knackのボーカルが亡くなったという記事を
読んだからである.
"My Sharona"という彼らの大ヒット曲は今でも
色あせていない(でも,一発屋だった).
当時(1980年頃?)この曲は,ラジオでよく流れていたのだ.
あのとき聴いていた銀色のトランジスタラジオ.
なにかずいぶんと大切な思い出のような気がする.

#とはいえ,”My Sharona”で一番に思い出すのは,
日本のバンド,ユニコーン(と,たぶん
ジュンスカイウォーカーズ?)がテレビで行った演奏.
みんなノリノリで演奏していて,カッコよかった...

2010年2月16日火曜日

チョコレートは神からの贈り物

やっぱりいつのまにか過ぎていたバレンタインデー.
一応,うちの奥さんからは高級チョコレートを
いただいた.感謝.

チョコレートは実は大好きで,
仕事の合間にもちょくちょく食べている.
チョコレートはどうも人々に夢を与える食べ物のようで,
映画「チャーリーとチョコレート工場」をあげるまでもなく,
子どもだけでなく大人も夢中になっている.

芸術家の創作意欲もそそるようで,
以前も東京ミッドタウンの21_21 Design Sightに
第一回(!)企画展だった深澤直人が監督する
「チョコレート」という現代アートの展覧会を観に行って,
大変面白かった.

液状のチョコレートの中で
半裸の男女が抱き合う映像などは
確かに至福なのかもしれない,などと思った.
すべてがチョコレートに関係した作品で,
出てくる時にはすっかり多幸感に包まれていた.
(と同時に空腹感にも苛まれたけれど)

ジュネーブに出張に行ったときには,
Stettlerという専門店まで足を運んだ.
同僚とチョコレートを買い,ホテルでビールと味わった.
皇太子妃が皇太子に贈られたチョコということで,
高級感あふれる店内を期待したのだけれど,
その皇太子妃のお話が載っている日本の
女性雑誌の切り抜きが飾られていて,
少しがっかりしたのを覚えている.

しかし,チョコレートについては,
あの甘み,苦味,色,口触り,
いろんなことについていくつも語ることができる.

なぜこんなにも幸福感が味わえるのか.
それはチョコレートは神様が人間に
教えた食べ物だからなのである.

美しい羽毛をもち,蛇の形をした
アステカの神,ケツァルコアトルが
人間に初めて紹介したことになっている.

やっぱり...
とても人間の仕業とは思えないものね.

(写真はケツァルコアトル@グリコピア神戸)



2010年2月15日月曜日

潜在意識のレベルまで変えないと

いつのまにかバンクーバーオリンピックが始まって,
いつのまにか上村選手の競技も終わっていた.
あぁ,知らぬ間に.(というか,それは私だけか)

上村選手は本当に残念でした.
4大会も連続して,日本のモーグル界を,いや
ウィンタースポーツ全般を引っ張って来てくれた,
彼女の功績は讃えられるべきであると思います.

しかし,本番で実力を出すことは
本当に難しいということを改めて思い知らされる
結果となっている.

もちろん会場のコンディション,体調などの影響も
あると思うけれど,日本選手団の不調を見ると,
やっぱりメンタルな要因が大きいのだろうと
思わざるを得ない.

こうした一流の選手たちは,一般の私たちに比べて,
当然メンタリティが高く,試合慣れしているはずである.
それでも,この結果なのである.
一流選手であっても,なのである.

一般に,スポーツ選手は催眠術にかかりやすいと言われる.
それは,彼らは常に自分に暗示をかけているからである.
自分の勝利の場面をなんどもなんども
イメージすることにより,精神的な負荷を
下げ,失敗の可能性を低くする.
こうしたイメージトレーニングは当然のことながら
行われている.
しかし,そのトレーニングは本当に彼らの
潜在意識まで届いているのだろうか.

私が稽古している合氣道では,
この潜在意識を変える方法まで指導がされる.
(中村天風先生の自己暗示法である)
3ヶ月くらいすれば効果が出てくると言われている.

しかし,私はそれでもまだ「浅い」と考えている.
本当に変わるためには,生活の仕方を変え,
長年の心がけが必要なのである.
生まれついた性格を変えるくらいの努力が.
それは相当大変なことに違いない.

しかし,それを無理なく行う方法がある.
それが「文化」である.
各国の文化に私たちは無意識に染まって生きている.
生まれついた国に根づいている文化は,
心の奥深くからその国の人々に影響を与えている.
楽観的な国柄,競争的な国柄,そうしたものが
その国の文化なのである.
そうした文化に育つ人たちは,
オリンピックのような舞台で有利であるに違いない.

この論理でいくと,日本のようなネクラ文化では
こうした大舞台に弱い,という結論になりそうだが,
私はそういいたいわけではなく,
選手たちはたぶんもっともっと,
日常生活の思考方法から指導を受け,
変化させていく努力が必要なのではないかと思うのである.
潜在意識から変わるような...
もっとその重要性を考えるべきなのだと思う.
もちろん,それは「洗脳」と呼ばれるものであっては
いけないけれど.

ふりかえって,私はイメージトレーニングさえ満足ではない.
反省...

2010年2月12日金曜日

さらば,のだめ.

やっぱり2月になるとなかなか忙しいなぁ.
まぁ,いろいろとあるわけですが,
息抜きもそれはそれで必要なわけで.
今日はマンガの話.

この数年,クラシック業界がそれまでになく
盛り上がっていたのだけれど,
そのひとつのそして大きな要因は,

「のだめカンタービレ」(二ノ宮知子)

であったに違いない.
クラシック業界は「のだめ」にどれだけ感謝したら
いいのだろうか.
もしも,このマンガが無ければ,
この世の中,クラシック業界はもっともっと
大変なことになっていただろう.
(そうでなくても,関西のオーケストラの財政は
火の車らしいけれど)

もちろん,テレビドラマも素晴らしくて
映画化もされているのでご存知の方も多いだろう.
(あのテレビドラマは決して原作に負けていない.
非常に稀有なドラマである)

実は昨年連載がとうとう終了してしまっていて,
先日,最終巻23巻を私も読み終えたのである.
最後は意外とあっさりした終わり方だったけれど,
それはそれでよかったのかもしれないとも思う.

作者はいろいろと体調を崩したりしていたようだし,
考えることがたぶんあったのだろうと思う.
こうした人気漫画は作者がやめたくても
編集部がやめさせてくれないことが多々あるけれど,
(そんなマンガ,数え切れないほどあるよね)
今回は作者の希望通りとなったのだろう.
やめさせてあげた編集部も偉いと思う.

しかし,本当に面白かったなぁ.
音楽関係の人に聞くと,多くの人があの通りだ,という.
そんな業界なのだろうか.
アーティストはやっぱり変な人が多い?
そんな疑問に答えてくれるのが,

「ボクたちクラシックつながり
ーピアニストが読む音楽マンガー」(青柳いづみこ,文春新書).

文筆家でピアニストの青柳いづみこさんが
近年のクラシックを題材にしたマンガを読み解いて,
一般人が想像もつかないクラシック業界を紹介してくれる.

結局,「のだめ」どおりなのだという.
やっぱり変人,いやすごい人が多いのだ.
青柳さんには「ピアニストがみたピアニスト」という
これもまた大変興味深い著書があって,
そこに紹介されているリヒテルのエピソードなどを読むと,
本当に天才という人間がいるのだということを思い知らされる.

こうしてクラシックへの興味が深まるということが
「のだめ」のもたらした素晴らしさなのだ.
CDショップに行っても,「のだめ」関係のディスクが
一番目立つところに飾ってある.
(この前までは,クライバーンコンクール優勝者の辻井伸行さんと
「1Q84」関係のシンフォニエッタが目立っていたのだけれど)
一体どれだけの若者が,クラシック音楽に興味を
持ってくれたのだろうか.
業界の人は,「のだめ」作者の二宮さんに足をむけて
寝ることはできないだろう.
(私も感謝である.クラシックファンが増えなければ,
CDショップのクラシックコーナーがどんどん狭くなってしまうのだ)

「のだめ」効果でコンサートへ足を運ぶ人も増えたらしい.
マナーが悪い人も増えたというけれど,まぁ,それはこれから
マナーを身につけていただければいいわけで,
とにかく間口を広げてくれたのだ.

そんな「のだめ」ももう終わり.
番外編も予定されているというけれど,たいへん寂しくなる.
次はどのマンガを読めばいいのだろう.
はぁ,とため息をつくのである.

#マナーが悪いというのは別に「のだめ」のせいではない.
今日もNHK-FMでN響の演奏会の生中継をやっていたけれど,
ビシュコフ指揮のマーラー5番が終わるや否や,「ブラボー!」の声.
「ブラボー野郎」と呼ばれる忌み嫌われるヤツである.
もう少し余韻に浸ればいいのに.
(たとえ盛り上がる5番であってもだ)
そんなヤツは「のだめ」ブームの前からいる.

まぁ,「のだめ」のテレビドラマみたいに,
演奏会で頭を振りながら音楽を聴く人はいなかったけれど(笑)

2010年2月10日水曜日

ポニョはワルキューレ?

先日,子どもたちが録画していた
「崖の上のポニョ」を見ていた.

私がちらりと画面を見ると,
青い波なのか,魚なのか,
よくわからないものが街に押し寄せる
シーンが映し出されている.
それらの上を女の子(たぶんポニョ)が
走っているシーンだった.
いや,なかなかに手に汗を握るシーンだ.

しかし,そこで流れている音楽に気づいた.
それは,なんともまぁ,ワーグナーのあの有名曲,
「ワルキューレの騎行」のパロディのような曲なのだ.
たぶん久石譲の手によるものだろうと思うのだけれど,
あまりにパロディ化しているので,驚いた.
久石譲も手を抜いたのかな(笑)と思った.

しかし,ポニョの名前を知ってなるほどと思った.
ポニョの名前は,ブリュンヒルデ.
ワーグナーのあの楽劇「ニュルンベルクの指環」の
ヒロインと同じ名前なのである.

「ニュルンベルクの指環」というのは,
ワーグナーの代表作に位置づけられる
4部から構成されている楽劇(オペラ)で,
上演するのに4日間を要するという大作である.

ブリュンヒルデは第2部から第4部にかけて登場する
主人公のひとりで,ワルキューレと呼ばれる戦の女神の
姉妹の長女という設定である.
ちなみにワルキューレというのは,
戦場の空に天馬に乗って飛び交う女神で,
勇敢に戦って死んだ勇士の魂を天上に導く役目をする.

ワーグナーの楽劇の中では,最高神ヴォータンの
長女であるが,人間の英雄ジークフリートと愛を誓いあい,
彼に裏切られて,彼に復讐し,
そして神々の黄昏(ワルハラ城の炎上)をみるという役となっている.

これがポニョの話となにか関係があるのか?
まぁ,ブリュンヒルデについてはいろいろな話があり,
ここで紹介したのは,あくまでもワーグナーが書いた脚本による
ものなので,他の伝説に基づいていてもおかしくはないのだけれど.

しかし,いずれにしろ,ポニョが疾走するシーンで,
「ワルキューレの騎行」に似た音楽が流れるのは,
製作者の意図であることは間違いない.

しかし,「ワルキューレの騎行」には私はあまり良い印象がない.
それはひとえに,フランシス・F・コッポラの映画
「地獄の黙示録」のせいである.

ベトコン村の焼き討ちのシーン.
朝焼けの中,ヘリコプターの飛行隊が
ナパーム弾を続きざまに村に投下していく.

「朝に嗅ぐナパーム弾の臭いは最高だ」

まさに戦争の狂気の描写.
そこで流れるこの曲は,悲しいくらいに
映像にピッタリとあっていて,
この曲のイメージを私に固定してしまった.

この曲を聞いて私が思い浮かべるのは,
天馬に乗って空を駆け巡る戦乙女の姿ではなく,
ヘリコプターの編隊とガソリンの臭いなのである.

だから,私はこの曲を好んで聴かない.
いまでは1年に1回聴くか,聴かないかである.

昔,UWFというプロレス団体の組長こと藤原喜明という
プロレスラーの入場行進曲がなぜかこの曲だった.
藤原喜明のサブミッションアーツには当時憧れていたけれど,
入場曲が流れても,「地獄の黙示録」が思い出されて,
あまり盛り上がらなかったなぁ.

「ポニョ」の映画をみたら,
この曲の印象が変わるのかもしれない.
いくぶんハッピーな印象に.

今は,やはりこの曲を聴くとなると
少し気分が重くなるのである.

#ちなみに,アニメ「超時空要塞マクロス」に出てくる
変形する戦闘機ヴァルキリーとは,このワルキューレの
英語名であるはずである.
実は,私はマクロスを全く観たことがないのだけれど.

2010年2月9日火曜日

「後の先」が有利ということ

「後の先」という武道の言葉がある.
敵に対して先を読んで先手をとる方が
一般的には有利なのだが,
(これを「先の先」といったりする)
武道の場合はそうであるとは限らず,
高級な戦術であればあるほど,
「後の先」が重要視される.

つまりは,相手に応じて勝つということであり,
相手の攻撃を受けなければならず
(あるいは攻撃をさせないように抑えねばならず)
非常に高度な技術が必要であることが
すぐに予想される.

しかし,実際そうなのだろうか.
確かに相手の攻撃を受けるのであれば,
「後の先」は大変難しい技術だが,
相手の攻撃がわかるのであれば,
それで勝ちを得るのはいとたやすいこと
なのではないかと思う.
「後の先」の方が有利ということも
ありうると思うのだ.

最近,ニュースで面白い記事を読んだ.
西部劇の映画などで,正義のヒーローは
悪役の方が先に拳銃を抜くけれど,
それよりも早く相手を倒すというところが
見せどころである.
それが科学的に実証されたというのである.

バーミンガム大学の研究グループが
Proceedings of the Royal Societyに
発表したらしいのだけれど,
二人でボタンの早押しをする決闘ゲームを
行わせたところ,あとからボタンを押す人の方が,
行動が平均21ms速かったのだという.
つまり自発的に行動をするよりも,
反射的に行動する方が,速く動けるということである.

拳銃の打ち合いでも,もしかすると
映画のようにあとから拳銃を抜く方が速いのかも
しれないけれど,これが素手による格闘,
あるいは剣による立会であれば,
「後出し」の方が非常に有利になる.

例えば剣であれば,間合いは一般に
「一足一刀」である.
(一足踏み出せば剣が届くという距離)
相手は自分を斬るために間合いを詰める必要がある.
つまりその分だけ攻撃を受ける人は
時間的な余裕があるのである.
その上,上記のように速く動けるというのであれば,
受け太刀の方が有利になる可能性は高くなるのである.

以前にも書いたかもしれないけれど,
自発的な行動を起こす前には,人は1秒以上も前から
脳内にその行動の予兆を示す変化が現れるのだという.
それを,攻撃しようとする本人よりも早く認識し,
(本人の顕在意識がそれを気づくのはずいぶんと後である)
それに反射的に動くことができたとしたら,
さらに受け太刀の方が有利になるのである.

まぁ,相手の心を知ることが最も難しいわけで,
一刀流でいうところの「水月移写」のように,
受動的に感知するのだろうと思うのだけれど,
全然感得できていない...

まるで,波一つない池の面のように,

「雁来たりなば雁を映じ,月来りなば,月を映ず」

のように相手のことが自分の心に映し出されるように
ならなければならない.
そうした明鏡止水の心はまだまだ遠いなぁ.

2010年2月8日月曜日

リソースの不足が

JALの航空機で火を噴いたやら,
新幹線のパンタグラフのネジが
締め忘れられていたやら,
工学的に印象の悪いニュースが続いた.

それに輪をかけてトヨタのリコールの話.
特に運輸関係は安全が第一だから,
こうした話は十分に世間を不安にさせる.

この原因はなにかと考えると,
やはり不況というのが悪影響を与えていると
私は思っている.

以前の職場でもそうだったけれど,
予算が削られていくと,まず人が少なくなっていく.
それを作業の効率化で補おうとしていくのだけれど
(たとえばマニュアルを整備して,熟練でない人でも
その作業を担当できるようにする),
現場に蔓延する焦燥感・余裕の無さ感は,
徐々に作業現場の雰囲気を侵食していくのである.

作業は効率化されても,KYと呼ばれる
危険予知の効率はそれに比例して
向上することはないのではないか.
もちろんマニュアルの安全チェック項目の充実,
現場でもKY活動(危険予知活動)の奨励などで,
それはずいぶんと向上されるだろう.
しかし,効率化された作業の仕事量の増加率は
それを上回ってしまうのがよくあることなのだ.

心理的にも,余裕がなくなると危険予知の感覚が
働かなくなる.
次はこれ,その次はこれ,と余裕なくギッチリと
詰め込まれた作業予定(その作業工程にはきっちりと
締め切り期限がある)を見て,
心の余裕を感じられる人はずいぶんと少ないだろう.

その一方で経費削減を迫られていると,
今回作業時間を10%削減できたら,次回からは
その90%の時間が作業時間として見積もられる.
どんどん現場の首がしまっていくワケである.
(まじめにやればやるほど悲惨な状況になる.
しかし,まじめにやらなければ仕事が来なくなる)

また仕事を強制されているという印象が強くなると,
仕事への集中力は確実に減少する.
余裕があれば,自分の工夫も加えられるし,
ある程度自発的に働いているという感覚が得られる.
この「強制的」と「自発的」は大きな違いを生むのである.
(特に,安全管理の面において)

人と金,そして時間のリソースの不足が
こうして事故を招いていく.
1つの重大な事故の背景には29の軽微な事故があり,
その背景には300の異常があるという
ハインリッヒの法則を例に出すまでもなく,
ヒヤリハット(ヒヤッとしたり,ハッとしたりする事象)は
日常的に増加しているのではないだろうか.

そうならないようにするのが管理者の役目なのだが,
いまの社会状況で余裕のある工程管理というのは
難しいのだろうなぁ.

人間というものはミスを犯す動物であることを前提に,
なにはともあれ余裕を確保すること,
そして作業者に自発的に仕事をしているという感覚を
維持させること.
この二つを,この厳しい状況下で実現させることを
企業は求められているのだ.

そうでなければ,まだこうした技術的な不祥事の問題は
続くに違いないのである.

2010年2月5日金曜日

Royale with Cheese

ふと思いついたのだけれど,
クエンティン・タランティーノの傑作
「パルプ・フィクション Pulp Fiction」の中で,
ジョン・トラボルタとサミュエル・L・ジャクソンが
車の中でパリのマクドナルドの話をしていたシーン.

T: 「パリではマクドナルドでビールが買えるんだ.

フランスでは,Quarter ponder with cheeseを
なんて呼ぶか知ってるか?」

J: 「いや」

T:「Royale with Cheeseっていうんだ」

って言って,ケラケラ笑うみたいな話.
そう,あのシーンで話題になっていたのは,
いまでは日本でも売られているクォーターパウンダーのこと
だったのだ.

実は昨日,マクドナルドのNYバーガーのCMを見て
突然思いついた.
これまで,ピンと来ていなかったのだ.
(アメリカに行っていたときにはクォーターパウンダーは
当然食べていたのだけれど)
ようやく約15年の時を経て,頭の中で一致した.

まぁ,特に意味はないのだけれど,
一種のアハ体験だったので書いてみました.
ハンバーガー好きということで.

#映画ではその後,Big Macの呼び方について
話が及び,le Big Macと呼ぶんだみたいなことで
会話が盛り上がっていたような記憶がある.
また,観たくなってきた!

#日本では,ANGUS THIRD POUNDER
売らないらしい.
まぁ,それほど美味しくはなかったけれど...

学生時代の終り

卒業がかかっている修士(博士前期課程)2年生や
学部4年生は,現在研究の追い込み真っ只中である.
だれもが通る道なのだ.
その通過儀礼を越えればそこには社会の大海がある.
あと少し.
そうすれば冒険者になれる.

卒業式をもって学生生活に終りをつげるのだけれど,
しかし,その日が本当に学生時代の終りなのかと
私は思う.

学生時代とそうでない時代との違いは
どこにあるのだろうか.
それは,自分が社会に出て行く覚悟をきめているか,
いないかの差ではないだろうか.

社会に出て行くということは,これから自分で
すべての責任をとるということである.
もう甘えは許されない人生を送る,ということである.

そうした覚悟を決めるとき,
すなわち甘い学生時代に決別する時は,
卒業式よりもずっと前ではないだろうかと
私は思うのである.

私にとっては,それは卒業論文(博士論文)を書き始めるより
少し前のことだったように思う.
論文を書くためにPCの前に座っている頃には
もうすっかり観念していた.
覚悟を決めて書き始めていたのである.

現在必死に研究を仕上げようとしている彼らは,
すでに覚悟を決めているのではないだろうか.
おそらく,年末くらいにその時期は訪れていたのではないか.
彼らの学生時代はすでに終わっているのである.

卒業旅行は,その決別した学生時代への
郷愁をもって行われる.
(私は行ったことがないけれど)
だから,「卒業」旅行なのだ.
学生時代はとうに終わっている.

もう彼らの顔つきには責任ある人間としての
表情が見え始めている気がする.
彼らはすでに社会人としての始まりの中にいるのだ.

2010年2月4日木曜日

視力検査とおなじ

先週の金曜日,土曜日は京田辺の同志社大学で開催された
電気学会半導体電力変換研究会に参加した.
今回は,研究会開催のお手伝いの役でもあったということもあり,
残念ながらすべての発表を聞くことはできなかったのだけれど,
それでも,いくつかは聞くことができていろいろと考えることがあった.
やはりINPUTのために研究会には参加すべきである.

さて,金曜日の夜は懇親会が開かれて,
いろいろな方々とお話することができ,
楽しい時間を過ごすことができた.

最近の業界の動向や学会の活動に関する話はもちろん,
学生たちの参加もあったので,就職状況や修士論文の
進捗情報などについてもわいわいと話していた.

そこで教員同士が話していると,
どうしても指導している学生の話になる.
私なんてすぐに愚痴を言ってしまいそうだけれど,
そこはお話する方々は紳士だから,
なかなかに示唆に富んだ言葉を耳にすることが多い.

その懇親会でN大学のI先生にお伺いしたのは,
学生の指導に関わるお話.

「視力検査と同じなんですよね.
ついつい" C "の欠けている20%の部分ばかりに
目がいってしまう.
残りの80%はできているのにですよね.

学生についても,ついつい至らないところに
目がいってしまうのだけれど,よくやっている部分も
ずいぶんあるんですよね」

なるほど.
視力検査の記号にひっかけて
お話するところがうまいなぁと思うのだけれど,
確かに人を見る際に,ついつい減点法を使ってしまう.
つまりは欠点ばかりに目がいってしまうのである.

私が稽古している武道では,演武を採点する必要が
ある場合には(競技大会の審判など),
加点法でやりなさい,との指導がある.
なにができていないか,ではなく,
なにができているか,というところに注目する.
それが人を指導するものの考え方だというのである.

そうした指導は道場では受けているのだけれど,
日常においてはついつい忘れてしまう.
また,(試験の採点もそうだけれど)評価は
減点法の方が楽なのである.
しかし,やっぱり教育というのは,
楽してはいけないのだなぁ.
気をつけよう...


2010年2月3日水曜日

青春は遠くにありて思うもの

まぁ,ほんとに忙しかったこと.
先週から今日までかなり大変だった.
午前中でなんとか一山越えて,
こうしてやっとブログも書けるというところなのです.
ずいぶん更新をさぼってしまった.

更新が滞ってる間にも,もちろん
いろいろなことがあったわけで,
少しずつまた書いていこうと思います.

先週28日木曜日には,大学時代の友人と
一緒にランチを食べる機会があった.
彼は大阪大学の別の研究室に用事があって,
そのついでに(笑),私のところにも
寄ってくれたのである.

彼に会うのは20年ぶりくらいだろうか.
ともにランチを食べながら,お互いの近況や
知り合いの情報を交換する.
(というか,私は専ら情報をいただくばかりだったけど)

みんな,活躍しているという話を聞くと,
こちらも元気になる.
私も頑張らねば,と思う.

しかし,こうしたオジサン同士となれば,
昔を懐かしむ話も自然と多くなる.
彼はこのブログのスキーの記事を読んでくれたそうで,
大学時代のスキーの話題になった.
彼はスキーの腕前が素晴らしく,
それはそれはゲレンデの貴公子だったわけである.

久しぶりにスキーの長さの話題などをして,
あのころの記憶がよみがえった.
そういえば,私も220cmくらいの板を履いていたんだっけ.
私の腕前は彼の10%程度だったけれど,
アフタースキーはあまり負けていなかったように思う(笑).

いま思うと,あの頃はキラキラとしていたなぁ.
当時の自分は毎日を過ごすのに一生懸命で,
あまり余裕などなかったけれど,こうして歳をとって
振り返ってみると,やはりキラキラした時代なのである.
やっぱり,青春時代だったのだ.

そういえば,彼が尋ねてきてくれた木曜日の朝は,
靄がうすく広がっていた中を,車で通勤した.
カーステレオからは,セザール・フランクのヴァイオリン・ソナタ.
なんてロマンチック...

以前にも書いたけれど,この曲は気恥ずかしくなるくらい
メロウで美しいのである.
私のこの曲の印象は,「青春への賛歌」.
フランクは60歳を過ぎてこの作品を作曲している.
やはり振り返って見るからこそ青春は輝くのではないのだろうか.

もちろん,現在の毎日が輝いていないわけではない.
それなりに,それなりの色で輝いている.
しかし,青春時代のあのキラキラとした特別な輝きは,
もう二度と帰ってこない気がする.
そしてその素晴らしさには,輝きの中にいるときには気付かず,
ずいぶんと遠く離れて初めて気づくのである.

青春は遠くにありて思うもの.

である(今日はやけにオジサンの話だった)