2010年2月5日金曜日

学生時代の終り

卒業がかかっている修士(博士前期課程)2年生や
学部4年生は,現在研究の追い込み真っ只中である.
だれもが通る道なのだ.
その通過儀礼を越えればそこには社会の大海がある.
あと少し.
そうすれば冒険者になれる.

卒業式をもって学生生活に終りをつげるのだけれど,
しかし,その日が本当に学生時代の終りなのかと
私は思う.

学生時代とそうでない時代との違いは
どこにあるのだろうか.
それは,自分が社会に出て行く覚悟をきめているか,
いないかの差ではないだろうか.

社会に出て行くということは,これから自分で
すべての責任をとるということである.
もう甘えは許されない人生を送る,ということである.

そうした覚悟を決めるとき,
すなわち甘い学生時代に決別する時は,
卒業式よりもずっと前ではないだろうかと
私は思うのである.

私にとっては,それは卒業論文(博士論文)を書き始めるより
少し前のことだったように思う.
論文を書くためにPCの前に座っている頃には
もうすっかり観念していた.
覚悟を決めて書き始めていたのである.

現在必死に研究を仕上げようとしている彼らは,
すでに覚悟を決めているのではないだろうか.
おそらく,年末くらいにその時期は訪れていたのではないか.
彼らの学生時代はすでに終わっているのである.

卒業旅行は,その決別した学生時代への
郷愁をもって行われる.
(私は行ったことがないけれど)
だから,「卒業」旅行なのだ.
学生時代はとうに終わっている.

もう彼らの顔つきには責任ある人間としての
表情が見え始めている気がする.
彼らはすでに社会人としての始まりの中にいるのだ.

0 件のコメント:

コメントを投稿

言葉が世界を単純化することの副作用

 人間がこれだけの文明を持つに至った理由のひとつは「言葉」を用いることであることは間違いないと思う。「言葉」があれば正確なコミュニケーションができるし、それを表す文字があれば知識を記録として残すことも可能である。また言葉を使えば現実世界には存在しない抽象的な概念(たとえば「民主主...