2010年5月31日月曜日

英語さえ理解できたら

海外からのお客様が来て,
昼食がヨコ飯になることがある.
金曜日もそうだった.
英語は全然得意じゃないのだけれど,
とにかくコミュニケーションが取れるように頑張る.
なんとか意志の疎通はできたいたようだ.

なんどもこのブログにも書いているけれど,
やっぱり英語は大事である.
最近のインターネットの普及をみても,
やはり英語が不可欠なことを痛感する.
英語が理解できれば,日本語だけの知識世界が
何十倍にも大きくなるだろう.
自分がどれだけ大きな世界に生きているか.
日本語世界は所詮,井の中の蛙の世界なのだ.

残念ながら,英語が現在の世界の標準語である事実は
動かしようがなく,私たちはある程度それに
従わなければならない.
英語の論文を読み,英語の論文を書く.
かなりのデスアドバンテイジではあるけれど,
自分の国と異なる文化を読み解いていくという
楽しみはある.
また,英語以外を母国語としている海外の方々と
コミュニケーションを取ることができる.
そう考えると,英語を勉強する楽しみもあるというものだ.

最近,車の中でよく流しているラジオ局のCOCOLOでは,
夜に「ウルフマンジャック ショー」を流している.
もちろん,DJウルフマンジャックは既に亡くなっていないから,
これは当時の録音をデジタルリマスタリングして,
再放送しているということでなのだけれど.
この放送を聴いていると,彼のおしゃべりがすべて理解できたら
どんなに楽しいことだろう,と思う.

また,最近話題になっているハーバード大学の
マイケル・ザンデルの講義 "JUSTICE with Michael Sandel"が
英語でそのまま理解できたらどんなに嬉しいだろう.
あの討論に参加してみたくなる.

もちろん,ハリウッド映画だってそうだ.
字幕でなくて,英語ネイティブの人たちと一緒のタイミングで,
笑いたい,と思う.

つまりは,こうやって英語を学習しようとするモチベーションを
高めていけば,英語を勉強するのが嫌だというハードルを
下げることができるのだろう,と思う.
心理的なハードルを下げることがまずは大切だ.

そもそも英語は簡単なはずなのだ.
そうでなければ,世界の標準になるはずがない.
イギリスやアメリカでは子供だって英語を話している.
私たちに話せないはずはない.

ということで自分を鼓舞して,また頑張ることにしよう...

2010年5月27日木曜日

20年後にLADY GAGAを聴くのだろうか

このブログにはクラシック音楽の話題が多いけれど,
私は別にクラシックばかりを聴いているわけでもない.
適当にいろんな分野の音楽を聴いている.

もちろん,最近の音楽も耳にしているわけで,
ロックもポップスもヒップホップも聴くことがある.
(とはいえ,CDを購入するのはクラシックが
ほとんどなのだけれど)

しかし,そうした音楽を聴いていて思うのは,
こうした音楽が一体いつまで残っているだろうか,
ということなのである.

もちろんLADY GAGAだって素敵だと思うのだけれど
最近聴いて,すごくいいなぁと思ったのは
Olivia Newton-johnの"Xanadu"だったのである.
オリビアの伸びのある声と
きれいなメロディラインがホッとさせてくれる.
でも"Physical"だってもう30年も前のヒットなのだ.
(ちょうど私も中二病だったのか,
洋楽を聴くようになったばかりで,特に印象に残っている)
それが今でも良いと思えるのは,
やはり曲自体が持っている力なのだろう.
美しいメロディをもつ曲は何年経っても
色褪せない.EverGreenなのである.

最近,よく聴くようになったラジオ局はFM COCOLOである(大阪).
このラジオ局がユニークなのは,Over 45,
つまり45歳以上をリスナーのターゲットとしていることである.
(私はまだその年齢ではないけれど)
70年代,80年代に活躍したアーティスト中心の
選曲となっているのだ.
(当時のアーティストたちの最近の曲なども多い.Sadeとか)
聴いていて気持ちが楽になる.
そうした楽曲に安心してしまう自分が
すっかりオヤジなのだと再認識させられたわけで,
それはそれで複雑なのだけれど...

この前,雑誌Rockin' Onの活字が大きくなったという
記事の見出しをちらりと見た.
ロックファンというのは,若い人だけでなく
私よりも上の年代も多いのだろう.
(そもそも現代はロックは流行っていなくて
若い人が少ない?)
ロックも高年齢化が進んでいるのである.

---
今の若い人達は,20~30年後にLADY GAGAとか
聴くのだろうか?
生活の中で,ふと今流行の曲を思い出すことがあるのだろうか.
"Xanadu"を聴いてあまりに感動したので,
そんなことを思ったのである.

#最近ハマリそうなのがThe Beach Boys.
美しいだけでなく,凝った音楽になっているのが面白い.

2010年5月26日水曜日

書類の電子化って素晴らしい

以前勤めていた職場から,
私の資料が入ったダンボールが届いたのは,
2ヶ月前のこと.
それからずっと机の下,足元に置いてあったのだけれど,
今日ようやくそれを片付けた.

片付け方は簡単.
不必要なものは捨てて,
(3.5インチフロッピーとか)
必要な書類は電子化したのである.
ダンボールの中身はあっという間にカラになり,
足元はずいぶんとすっきりとした.

いやぁ,電子化って素晴らしい.
その有難味がよくわかる.

まずは収納スペースが不要だ.
私のファイルキャビネットや本棚は
長年たまった資料で溢れ始めている.
うまく整理をするためには10%の余分スペースが
必要だとされているが,それが無くなりつつある.
(いや,もうすっかり無い)
電子化はそれを解決してくれる.

また,うまくファイルに,タグに相当する名前を付ければ,
検索も簡単になる.
「えっと...あれはどこに行った?」とあたふた探す必要もなくなる.
PCの中にあれば,Google Desktopなどで検索すれば良いのだ.

問題は,(1)電子化する手間と,(2)バックアップ,(3)携帯性だろう.

(1)については,机上にスキャナがあれば最高だけれど,
残念ながらその購入資金も,机上のスペースも無い.
しかし,現在はコピー機が賢くて,pdf化をサッと行ってくれる
スキャナ機能がついている.
個人用のスキャナーと違って読み込みが早いぶん,
その手間は少ない(実は私の席はコピー機に近いのだ).
そのちょっととの手間さえ惜しまなければ問題ないと思われる.

(2)については,定期的にバックアップを取ってはいるけれど,
基本的なルールが確立していない.
なにか良いバックアップツールを探そう.
研究室には,バックアップ用のネットストレージもある.
これをうまく使うことを考えることにする.

(3)が頭が痛い.
紙のファイルであれば,さっと持ち出すことができるが,
これがPCの中のファイルだというとちょっと困る.
USBにコピーして,かつ読むためにNOTE PCを
立ち上げなければならない.
この問題のために,当分は,電子化するのは
持ち出すことが少ない資料(特に過去のもの)に
限られることになるだろう.
これを解決するようになるには,
Webからアクセスできるウェブストレージが発達し,
iPadのような閲覧に適して,持ち運びに便利な端末の
普及が必要になるだろう.
それは近い将来のことなのか,
まだ私にはよく分からないけれど.

とにかく過去の資料については,
順次電子化していくことに今日決めた(笑).
あとはバックアップのルールを確立することだ.
思えば,学術論文も多くは電子化されていて
ウェブ閲覧で済むようになった.
論文は電子化で十分である.

そのうち,市販されている本も(もちろん教科書も),
電子化されていくのだろう.

そうなると本棚を眺めて,
本を選ぶということができなくなるのかな.
それはそれで少し寂しい...
いや,また誰かが同じようなことを危惧して,
それを解決する手段を提供してくれるはず.
(本のデータを背表紙風にして分野ごとにディスプレイ上に並べる,
あるいはシャフルして並べるなど,アイデアなんていくらでも
出てくるのだろう)

書類電子化の道は明るいだろう.
よーし,これから整理するゾ!

#雑誌や本をpdf化する(もちろん,個人使用目的に限るけど)ことを
「自炊する」というらしい.
全然知らなかった.
まぁ,今頃電子化しようなどと言っている時点で,
私は時代遅れなのかもしれないけれど.

2010年5月25日火曜日

「ゲゲゲ」をみて,マンガ文化を思う

今朝,NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」をちらりと見た.
私は,ほとんど9割方見ていないのだけれど,
実は結構面白く,気になっている.

なんというか,ストーリー展開が落ち着いているし,
出てくる俳優のみなさんもしっかりしている.
安心してみていられるドラマなのである.
初回は視聴率が低いと新聞に出ていたけれど,
なんとか持ち直して欲しいと思う.

さて,今朝の話では,水木しげるがいくつかの
出版社に漫画を持ち込むのだけれど,
妖怪漫画じゃ売れない,と断られていた.
すでに「墓場鬼太郎」は出版され,
「鬼太郎物語」も巻を重ねていたというのにである.
ちなみに,売り込みしていた漫画は
「河童の三平」だったが...
つまり,当時はアクションものが全盛で,
鬼太郎のような妖怪漫画は全然売れず,
出版社としても引き受けることができない,という
時代だったのである.
昭和37年(らしい)という時代が,
鬼太郎を読むには早すぎた,ということなのである.

このドラマを見て,現代はいかにマンガに寛容な
時代になったのかと思った.
今のマンガは,極論をすればストーリーがなくても
平気である.
題材も,恋愛,恐怖,アクション,政治となんでもあり.
それらを享受できる私たちはなんて幸せなのだろう.

ここまで日本の読者が育ってきた,ということなのだろう.
日本のマンガは,大変に深い.
単純なアメリカン・コミックとは大きくその内容を画する.
最近は,マンガは世界に誇る日本の文化だということが
一般に認められてきたけれど,
昨日,今日のドラマでも,漫画なんか書いているヤツはダメだ,
という話が出ていた.
50年前はそうだったのである.
50年をかけて,今の読者の土壌ができてきた.
この長大な時間によるマンガ文化の発酵と,
それを支えてきた(無名・有名関わらず)漫画家と読者の努力に,
頭が下がるのである.

#私が最近読んでいるのは,「結界師」,「バガボンド」.
今更ながら「20世紀少年」(あと21世紀少年2巻を残す),
「のだめカンタービレ」.
マンガでなくアニメとして「鋼の錬金術師」というあたりか.

2010年5月24日月曜日

AM2波によるステレオ放送

昨日の関西はひどい雨だった.
今朝もまだ雨は続いていて,
私の自宅がある地方では大雨警報のため,
小学校が休校となった.
子どもたちの喜ぶ顔と,
うちの奥さんのうんざりとした顔が思い浮かぶ.
可哀想に...

さて,叩きつける雨でフロントガラスの向こうが
よく見えなかった通勤時,
またまたNHK-FMを聴いていると,
少し気になる話が出ていた.

ある投稿者の話なのだけれど,
AM放送でステレオをずいぶん前に聴いた,
というのである.
現在では,AMでもステレオ放送が可能だが,
昔は違った.
しかし,その人は,2台のラジオをそれぞれ右と左に
おいて音楽を聴いたというのである.
モノラル放送ならば,同じ音がスピーカから出るはずだから,
ステレオ感覚はないはず.と思って
そのまま番組を聴いていたのだけれどそうではないらしい.

なんとNHKラジオ第一と第二で,左右別々の音を放送して,
受信者は,一台のラジオを第一に,もう一台を
第二にチューニングすることによってステレオ放送を
楽しめたというのである.
事実は確認していないが,どうも試験的にそうした放送が
されていたことがあったらしい.
すごい発想である.
そしてそれを試すNHKもスゴイ.
ラジオ1台で聴いていた受信者は,右か左かに
偏った音楽が聞こえていたはずである.
2台で聴くわずかな人たちのために,
他の人たちが不利益を被っていたのである.

この試験放送からの発展形としては,
1台のラジオに二つのチューナーを装備して,
それぞれを片側ずつのスピーカに接続するということが
考えられただろう.
しかし,ラジオが少し割高になるのと,チューニングが大変だ.
やっぱり無理かな...と思う.

たぶんFM放送が始まって,この2波方式は
中止されたのだと思うが,
その後始まった1波にyほるAMのステレオ放送も
今はどうなっているのか,私は知らない.
まだ続いているのかな...

現在では,RadikoのインターネットによるAM・FM放送との
同時放送が始まっている.
AMでさえ,FMと同程度の音質である.
もう昔の苦労はいらないのである.

しかし,このRadiko.
もっと便利にならないものかと思うのだけれど...
(地域の制限の廃止,NHKの参加を希望)

2010年5月21日金曜日

「放課後」は無かった

「放課後」という言葉を聞いて,
そういえば自分はその過ごし方といえば,
部活動しかなかったことに気づいた.

学生に,学校が終わったら何をしている,と
尋ねると「適当に過ごす」と答える人が結構多い.
確かに部やサークル活動に参加していなければ,
その過ごし方は自由気ままなはずである.
しかし,私はその経験がないから,
一体何をしたらよいのか想像できないのである.

小学生の頃,放課後は「ポートボールクラブ」と
「ミニバスケットクラブ」で費やした.
もちろん,補欠だったけれど,
とにかく続けることが大切だと思って,
全然うまくならなかったけれど,6年の最後まで
頑張った.

中学生の頃,集団スポーツに嫌気がさして,
個人競技の「水泳部」に所属.
中学生だけれど1日3~4kmは泳いでいた.
冬でも筋トレや週末市が開いている
市営プールの特別講習に参加していた.
(新潟だったから,帰りは髪が凍った)
もちろん,タイムは非常に悪くて,
専門のフリーも,ときどき中距離で大会に出場した
平泳ぎも,全然ダメだった.
しかし,他人を気にすることなく,
とりあえずは自分のタイムを伸ばすことが目的だから,
比較的気楽に,打ち込むことができた.
もう集団競技には戻れないと思ったのもこの頃.

高校生の頃,道着を着た先輩の女子部員の人たちに
憧れて(笑),やはり個人競技の「空手道部」に所属.
とにかく毎日練習した.
週末も市営のトレセンに出かけて,筋トレと
サンドバッグトレーニングをしたりしていた.
高校生くらいになると放課後は街に繰り出して,
ウダウダ過ごすことも覚える頃だけれど,
私に限っては全くそんなことはなかった.
稽古一筋.
自分が強くなることを信じて,毎日練習していた.
(もちろん,全然強くならなかったけれど)

そして大学生の頃.
今度は「合氣道部」に所属.
それから卒業するまでの9年間.
足繁く学校の道場に通う.
放課後は全くない.
それどころか,週に2~3回,
始発電車に乗って本部道場での朝稽古にも参加.
空いている時間は稽古に費やすか,
飲みに行くのが基本で,
放課後をどうやって過ごすかということを
考える必要がなかった.

そして就職.
結局,放課後をまったりと過ごす,
という時間は私にはなかった.
大人になって,「放課後」という言葉に
なにかしらの憧れを感じてしまうのも,
自分にはそうした体験がないからなのだろうと思う.

こうした過去を全然後悔する気はないけれど,
他人が過ごしてきた「放課後」を想像できない
申し訳なさのようなものはある.

でも一体,「放課後」はどのように過ごしたらよいのだろう?

2010年5月20日木曜日

メールがロストしていることに気づかないという恐怖

4月の下旬の週末に,少し学校のメールサーバの
調子が悪くて,メールが届かなかった可能性があるとの
注意が後日メールで流れていた.

その時はあまり気にも留めていなかったのだけれど,
以前にSummaryを投稿したある国際学会の
Accept / Rejectの通知が,予定されていた日にちに
なっても届いていないことに気づいた.

通知が遅れることなんてよくあることだからと,
しばらく放っておいたのだけれど,
学会のWebページ上にもなんの説明もないし,
予定の日にちよりも10日も遅れているということで,
一緒に(別のSummaryを)投稿した助教のK先生が
学会の委員会に問い合わせてみた.
すると学会からAcceptのメールが届いた.

それでは,私も,ということで,
同様に問い合せるとすぐにAcceptのメールが届いた.
(Acceptでホッとした)
実は学会の通知が届いていないということも,
K先生に言われて初めて気づいたのである.
(すっかり忘れていた...)
もしかして誰も周りにいなかったら,
今もまだ気付いていなかったかもしれない.

つまり,それらのメールは最初に述べた
サーバがダウンしていた期間に
送られていたということらしいのである.

よく考えてみると,これは恐ろしいことである.
Acceptされた場合,Summaryの後に,
Proceedingに掲載される予稿を
提出しなければならないのだけれど,
その締切を過ぎてから,突然学会から
「まだ提出されていません」などとメールが
届くような事態になったら,目も当てられない.
今回は,K先生のおかげで事なきを得たけれど.

大事な連絡が,サーバの不調で
手元に届いていなかった,ということが,
実は今までにも起きていなかったとは限らない.
そうした事実に恐怖したのである.

重要なメールでは,やはり相手に
届いているかどうかを確認する必要があるのだ.
今回,それをあらためて感じたのである.

さて,ここで業務連絡.
4月23~25日の期間に私にあてて
重要なメールを送られた方は,
あらためて送り直していただけますか.
お手数をおかけいたしますが,
よろしくお願いいたします.

2010年5月19日水曜日

Windows7とワイド画面ディスプレイの相性が良い

PCを変えて1ヶ月くらい.
Windows7もなかなか使い勝手が
良くなってきたが,
最近,その効用の大きさを実感しているのが,
ワイド画面のディスプレイである.

なにがうれしいって,ウィンドウを画面に
2枚開いて,並行して作業が進められることである.
例えば,左側にPDFファイルの文書を開いて,
右側でそれを参考に文章を作成するとか.
非常に効率が良い.

また,この使い方にWindows7が適していて,
Windows7では,ひとつのウィンドウをつかんで
右側の端まで持っていくと,右半分一杯に
ウィンドウが設定されて開く.
もう一つのウィンドウを左側に持っていけば
左半分一面に開くように設定される.
画面の半分・半分にウィンドウサイズを
細かく設定する必要はないのである.
因みに全画面に広げたいときは,
上端にウィンドウを持っていけばよい.
このような少しのTIPSが私の仕事効率を
改善している(内容はともかくストレスは
軽減出来ている).

ワイド画面とWindows7の相性は
大変良いのである.

#もうひとつおまけでいうと,
ひとつのウィンドウをつまんで
画面上で振ると,他のウィンドウが閉じる.
これも知っておくと便利.
(Windowsキー) + D で全部閉じてから
1枚開くよりは早いかもしれない.
(そうでないかもしれないけど)

2010年5月18日火曜日

Bach,フーガの技法によるCosmos

心のなかにcosmosが欲しくなると,
バッハが聴きたくなる.
彼の純粋・数学的な作品を聴くと
chaos状態の脳内に秩序が
立ち現れてくるようである.

最近,聴く頻度が高い録音が,

J.S. バッハ
「フーガの技法」
ピエール ロラン・エマール (2008)

である.
専門家によれば(そしてエマールのインタビューの
内容などによれば),この作品は非常に
難解なのだそうで,確かにグレン・グールドが残した
オルガン演奏による録音(抜粋)を聴いても,
ちょっとわからないなぁ,というのが感想だった.

それがこの録音を聴いて,
なんと心が通った演奏なのだろうと思った.
それでいて重くない.
(演奏者の思い込みが入った演奏は
バッハには不向きだと思う)
だから私の要求するcosmosは
十分に立ち上がる.
数学的ではあるが音楽の楽しさに溢れている,
そんな演奏である.

エマールという人は,現代音楽の演奏で有名で,
私も以前からぜひ聴いてみたいと思っていた
ピアニストである.
近年は来日もしており(もちろん,私はコンサートには
行けはしていないが),日本でもずいぶんと
人気が高まっているのではないだろうか.

この録音を聴いて,現代音楽のスペシャリストだからといって,
古典がダメだというわけではない
ピアニストだということがわかった.
いや,現代音楽の通暁しているからこそ,
このようなバッハが弾けるというべきか.
よく考えられているのだろうけれど,
それを感じさせない演奏である.
先に紹介したキース・ジャレットのゴルトベルクと同様,
バッハへの尊敬に溢れている.

先日は,夜寝る前に聴いてみた.
静かすぎず,派手すぎず,
深まる夜にぴったりの曲である.
楽譜は難解この上ないそうだけれど,
それを感じさせない名盤なのだと思う.

#グールドのピアノによるこの曲の録音は未聴.
いつか聴きたいものである.

2010年5月17日月曜日

親の恩は

久しぶりに親と電話で話をした.
この歳になると,ただそれだけでも有り難く感じる.
親孝行しなければならないと思っていても,
親不孝ばかりである.

親から受けた恩をいつか返そうと思いつつも,
それが果たせない.
しかし,親は子供から恩を返してもらうことを
あてにしてるだろうか.
私はしない.

ふと,親の恩は自分の子供に返すものではないか,
と思いついた.
親から受けた恩,すなわち教育,しつけについて
具体的な事柄はほとんど忘れている.
しかし,それは確かに私の身体の中に残されている.
私の考え方,所作,振る舞いの中に
親からの教えは生かされている.
それをわが子に伝えていくことが,
一番の親孝行なのではないだろうか.

そう思いついてから,子供を教育することが,
親への孝行だと思えるようになって,
子供との付き合い方がずいぶんと変わるような気がしている.

子供を教育しながら,
自分が親に受けた恩を思う.
自然と親に頭が下がってくるのである.

2010年5月14日金曜日

スターの中のスター,ジョン・トラボルタ

私は映画マニアとは言えないけれど,
映画が好きである.
残念ながら結婚してからというもの,
あまり映画館に足を運ぶ機会がない.
家庭でDVDを借りてみる余裕もない.
したがって,映画を観るのは
一年に一回くらい,それも海外出張の
飛行機の中でというくらいである.
(学生時代は毎月2本くらいは観ていたのに)

好きな俳優は山ほどいるけど,
その中で特別なのが,ジョン・トラボルタである.
最近,彼が出演している映画
「パリより愛をこめて」(From Paris with Love)
CMがテレビでよく流れている.
彼ももう56歳.
この映画ではアクションで活躍しているらしい.
頑張っているなぁ...

トラボルタがなぜ特別に好きかというと,
まさにスターの中のスターというオーラを
身に纏った人だからである.

以前,NHK BSで,番組"Inside the Actors Studio"に
トラボルタが出演し,インタビューを受けているのを見た.
(「ジョン・トラボルタ自らを語る」とかいう番組名だったかな)
彼が画面に出ているだけでキラキラしている.
甘いまなざし,優しい微笑.
言っては悪いけれど,頭が悪そうなステレオタイプなハンサム,
といった外見なのだけれど(ヘタすりゃ,三流役者),
なにかが違う雰囲気が漂っている.
そこが彼がスターである所以なのだ.

彼のスター性はどこからくるのか.
私は,彼が彼自身をスターだと思い込んでいるところに
その原因があるのだと思う.
自分がスターであるという一点から,
仕事への厳しいモラル,ユーモアのある会話,
エレガントな振る舞い,そうしたものを培ってきたのでは
ないかと思うのである.

だから,彼が実際にスターでなければ,
失笑を買うだけなのだろうけど,
彼は押しも押されぬハリウッドスターなのである.
だからこそ認められている.
その思い込みが許されている.
そうした特殊な人物,というのが私の想像である.

彼は,「サタデーナイトフィーバー」でブレークして,
グリース」まで出演映画はヒットしたが,
その後は役に恵まれていなかった.
そして彼が復活したのが「パルプ・フィクション」.
これは良かったなぁ.
少しとぼけた殺し屋役で,本当にカッコよかった.

「パルプ・フィクション」といえば,こんな逸話がある.
1984年,「パルプ・フィクション」でアカデミー賞主演男優賞に
ノミネートされていた彼は,最後にトム・ハンクス
(「フォレスト・ガンプ」)の名前が呼ばれるまで,
自分が受賞すると信じて疑っていなかったのだという.
彼は,スターなのだ.

とにかく,彼はそれから復活し,
そしてまた凋落しつつある.

彼の映画を多く観ているわけではないけれど,
私のオススメ映画は,

"Get Shorty"
"Be Cool"

の2本."Be Cool"は,"Get Shorty"の続編となっている.
これらの中で,トラボルタは
チリ・パーマーという,もう最高のハマリ役を演じている.
"Get Shorty"は,映画マニアの借金の取り立て屋
チリ・パーマーがハリウッドに借金の取り立てに行って,
いつの間にか映画製作の仕事に関わって
しまうというコメディ.
"Be Cool"は今度はショービズの世界で活躍するという
コメディ.
どちらもマニアネタ満載で,クスリと笑わされるところが多い.
チリ・パーマーのカッコ良さと,オトボケさが非常に魅力的.
また,Be Coolの相手役はユマ・サーマンでこれまた嬉しい.
ズバリ,オススメなのである.

さて,「ジョン・トラボルタ自らを語る」では,
最後に俳優学校の学生たちからの質問を受ける
コーナーがあった.
会場のひとりの女の子が,トラボルタと一緒に
踊りたいという.
さすがトラボルタ,嫌な顔ひとつせず,引き受けた.
テレビを観ていた私は,サタデーナイトフィーバーか
グリースのダンスシーンを思い浮かべたのだが,
二人が踊ったのは,パルプ・フィクションの中で
ユマ・サーマンと向い合って踊った,
あのダンスだったのである.
トラボルタは指をピースにして目の前を横切らせ
女の子に向かってニヤリと微笑んでいた.
...やっぱり彼はスターの中のスターなのである.

2010年5月13日木曜日

私たちに必要な政治力とは

イギリスの新首相と副首相のニュースを見る.
どちらも43歳だそうである.
いやぁ,本当に若いなぁと思う.
私とひとつしか違わない.
それで国を背負う仕事をしようというのだから,
その勇気と元気に頭が下がる.

政治家に必要とされる資質のひとつは,
「これ」という正解のない状況で,
もっとも確実な,あるいは皆に有益な
判断を下すということだと思う.

方程式を解いて求めることができるならば,
あるいは実験をして十分なデータを集めることが
できるのならば,研究者,技術者であっても
国政を行うことができるはずである.

しかし,政治で扱われる問題は,
そうした単純に解けるものは少ないと思われる.
どんなに単純な判断であっても,
利益をうけるものと,不利益をうけるものがいるから,
問題の最適解を求めるといっても,
なにが最適なのか,それを定義することがそもそも
難しいのだ.

また結果の成否の判断も難しい.
ある時点でAかBかの決断を迫られ,
Aという判断を行ったとする.
次の時点で,Aを採択した方が
Bを採択した場合よりも優れていたか,
という評価が難しいのである.
なぜならばBを採択した結果が
どうなっていたのか,その予測が
非常に難しいからである.

そうした予測が困難な状況において,
とりあえず最悪でない選択ができる人を
私たちは信頼する.
政治家とは,そうした人であるべきだと思う.

と考えてみると,私たちの人生においても,
こうした結果の良否を評価することができない
判断の連続である.
では私たちはどうしているか,というと,
自分が行った判断が最悪ではなかった,
(できるだけ最善であったと)と
思えるように努力するのである.
逆に言うと,それしかできない.

政治ももしかして同じなのではないかと思う.
政治家がある時点で行った判断が
最悪ではなかったと思えるように
国民が努力する必要があるのかもしれない.
そして,国民が喜んで努力してくれる状況をつくること,
それが政治家の政治力なのかもしれない.

ならば私たち個人個人においても
その政治力は必要なのだと思うのである.

2010年5月12日水曜日

社会の感情が反映されすぎる恐ろしい状況


このブログでは社会的な話は
あまりしないということにしているのだけれど,
(大した見識もないし)
ただ昨日のガス湯沸かし器の
メーカーに対する裁判所の判決については,
少し思うことがある.

私の感覚では,今回のガス湯沸かし器の事件は,
第一義的な責任は改造した業者にあるのであって,
製品自体には(改造しやすいという問題はあったにせよ),
基本的には問題がなく,その責任を
企業のトップが負わなければならないというのは
ちょっとひどいのではないかと思う.

もちろんそれを知っていて対応をとらなかったというから,
そこに道義的な責任はあるし,社会的にもメーカーは
適切に対応しなければならなかったはずで,
そこは批判されても仕方がないと思う.
私もその責任は問われるべきだと思う.

けれど,製品に問題がなく,修理業者が行った
不正改造の法的責任を,オリジナルの製造者が負わなければならない,
ということになってしまったら,今後の工業製品に対する
考え方は大きく変わってしまうことになるのではないか.
自社の製品を誰かが不正改造して事故を起こしてしまったら,
その会社のトップは刑事罰を受けなければならないのである.

たとえば,車.
違法な改造車がこれだけ走っているのだから,
オリジナルの車の製造者の責任が問われることになる.
明らかに改造されることを想定しているような製品であれば,
それは製造者に責任もあるだろうが,
通常は改造することを想定していないのに,
その改造の責任を製造者をとらなければならない,
ということになったら,一体メーカはどうしたらよいのか.
製品が出せなくなってしまう.

今回の裁判所の判断には,法の専門家にも首を捻る人が
多いのだという.
そして,ニュースを聞く限り,その判断には
社会の感情が反映されているのだとか.

このことを私は最も危惧するのである.

「もんじゅ」の件でも述べた通り,
社会感情を反映して,検察や警察の行動,
そして裁判所の判断が左右されるという状況は,
大変恐ろしいものではないのかと思うのである.

社会的に反感が高まっているから,
そこにケリをつけるために,誰かを悪者に
仕立てなければならない.
そのように法の機関が動いてしまう.
そんなことが許されるのだろうか.

こうした状況では,マスコミの煽りも
非常に責任が重いのだと思う.
原子力に関する記事でもそうなのだが,
ある事実を報道するのにも,
非常に悪意をもって行っている.
そして,それがそのように行っているのを
巧妙に隠している.
ある新聞社では,いかに自分たちの責任なく,
だれかを悪く書けばよいかというマニュアルも
あるのだという.

マスコミは,視聴率や販売部数をふやすために,
事件を民衆にわかりやすい
正義と悪との単純な2元的な対立構造に落とし込んで
報道しようとする.
そのために,誰かが悪者にまつりあげられる.
それは社会を煽っている.
そして煽られた社会的反感がが大きくなると,
それを治めるために,誰かが犠牲になる.
そんな状況に社会はあるのではないか,と思うのである.

また厳罰化すればこうした事故はなくなるか,
ということも明らかではないだろう.
禁酒法ができてアメリカ人は酒を飲まなくなったか,と
考えてみれば,裏社会で皆飲むようになっただけだし,
派遣禁止法で,フリータの人が正社員に採用されるようになったか
といわれれば,皆解雇されたにすぎない.
そうした規制は,状況をさらに複雑化するのであって,
本来は規制をなるべく少ない状況にして,
解決法を探るべきだったのではないだろうか.

今回の判決による厳罰でも同様で,
厳罰化されると,社会から,今回のような事故が減るのではなく,
むしろ報告するのがためらわれ,会社が改善することを
損なう状況になるのではないかと思うのである.

とにかく社会感情が,法的判断に反映されすぎるのは
問題ではないかと思う.
これは大変恐ろしい状況なのではないかと
私は昨日ニュースを聞いて思ったのである.

2010年5月11日火曜日

キース・ジャレットのゴルトベルク変奏曲

今朝,通勤の車中で聴いたのが
J.S.バッハのゴルトベルク変奏曲.
今日は,キース・ジャレットの演奏に
よるものを聴いた.

キース・ジャレットといえば,まずはジャスの
キーボード奏者として有名だから,
クラシック音楽の録音があることを
知らない人も多いにちがいない.
(そう思っているのは私だけ?)

このゴルトベルクの録音は,
ハープシコードによって演奏されている.
(このハープシコードは日本の職人の手による
ものらしい.実は録音場所も八ヶ岳の音楽堂だったりする)

ゴルトベルク変奏曲といえば,
なにはともあれ,グレン・グールドの手による
二つの録音が有名で,最初の録音のビビッドさと,
二度目の録音の深遠さが,
後を追う演奏者への呪縛となっていると思われるけど,
この録音はそうした呪縛から離れて,
非常に素直な,そして優雅な演奏となっている.

なんというか,演奏者の色があまりついていない.
純粋な,ジャケットの色である白というイメージ.
ジャズ奏者というと,即興演奏が持ち味だから
(キース・ジャレットのケルンコンサートとか)
「スゴイ」バッハを想像してしまうのだけれど,
全くそんなことはない.
装飾音も慎ましく,素直という言葉が一番しっくりとくる.
聴いているだけで,幸せになるような,
そんな演奏である.

また録音の素晴らしさか,ハープシコードの音が
本当に美しく,目の前で鳴っているような臨場感がある.
これは実は名盤なのである.

実際,私が一年で最もプレーヤーに載せる
回数の多いゴルトベルクのCDはこれである.
グールドは素晴らしいけれど,
ちょっと今までに多数回聴きすぎてしまった感がある.

また,たとえば武久源造の録音なんて,
収録された音の生々しさがあって,それはそれで
感動するのだけれど,演奏で表現されている
内容がちょっと深すぎる.
気楽に聴くことができない.
自然,聴く回数が減る.

その他,ヒューイット,高橋悠治,レオンハルト,
リヒター,スコット・ロスなどの録音も所有しているけれど,
やっぱりキース・ジャレットのCDを聴くことが多い.
飽きない,というのも優れた音楽のひとつの指標では
ないかと思う.
(同じ基準ではスコット・ロスの録音も捨てがたい)

彼のジャズの録音の良さは実は
よく理解できないのだけれど,
(「ケルンコンサート」を聴いてもピンとこなかった...)
この録音のバッハへのリスペクトは十分に感じられた.
そう,それこそがこの録音を名盤たらしめているのだと思う.

キース・ジャレットは90年代後半から,
慢性疲労症候群に悩まされ,演奏がほとんどできない
状態であったらしい.
それから,なんとか復活して現在は演奏活動を
精力的に展開しているという.
復活後,彼はクラシック音楽の録音は行ったのだろうか.
もしあるならばぜひ聴いてみたいと思う.


#1
キース・ジャレットの録音には,その他にも
バッハの平均律やフランス組曲の他,
ヘンデル,モーツァルトのp協奏曲,
そして,ショスタコまである.
どれも未聴である.
いつかゆっくりと楽しみたい...

#2
最近,「ゴルトベルク変奏曲 バッハ 音のよろこび」という
絵本を見つけた.
これがなかなかに秀作.
不眠症のカイザーリンク伯爵のために,
バッハの弟子のゴルトベルクがこの曲を演奏したという
エピソードが紹介されている.
こちらもぜひオススメ.

#3
そういえば,映画「羊たちの沈黙」の中で,
レクター博士がオリの中で聴いている曲が
「ゴルトベルク」だった.
レクター博士はハープシコードを弾くらしいけれど
(すみません.原作読んでいません)
映画ではピアノによる演奏だった.
あれはグールドらしい...

2010年5月10日月曜日

「氣と身体は等価」という考え方

(今回は個人的な話なのです.すみません)

最近,ずっと気になっていることの一つに,

「氣と身体は等価」

という考え方がある.
これは,中国武術などでもいわれることなのだが,
最近,この考え方を用いて技を行うことで,
いろいろと新しいことが見えてきた.
すなわち身体を動かすことと
氣を発することとのバランスを保つことによって,
技のクオリティが上がるということである.
良い心身の状態を保つことができるのである.

ただし,私が稽古している合氣道においては,
氣を発する,という概念はなく,
「氣を出す」ということだけである.
もうちょっというと,氣は出すものではなく,
出ているものであると教えられる.
(生きている限り出続ける)

実際に「氣」というものについては,
種々の議論がずいぶんと必要だと思われるが,
私には,それが物理的に存在するかどうかが
問題ではなくて,その考え方を「方便」として
技を行うことによって,新たな段階に到達できる
ということが重要なのである.
そうした考え方には,過去からの修行者たちの
稽古のノウハウが集積されている.
これらを謙虚に学ぶことで,技の階梯を
効率的に上がることができるのである.

この考え方を真面目に検討してみようと
思ったのが今年の春.
これまでは,やはりなにかしら納得できないものがあった.
ようやく私の中で,こうした考えに素直に
耳を傾ける土壌ができたということなのだろう.
ずいぶん長くかかってしまった.

まぁ,いい.
今後まだまだノビしろがあるかと思うと,
稽古にも精がでるというものである.

2010年5月7日金曜日

ダイエットを始めてみようかと

ふと気づくと,体重が72 kgあたりで
高止まりしている.
2年ほど前,66 kgあたりでしかなかった体重から
6 kg増加したことになる.

ふと,ダイエットをまた始めてみようかと思う.
結局のところ,体重W,摂取したカロリーPin
カロリーの吸収率a,運動によって消費するカロリーPout,
カロリーから体重への変換係数Cとして,

dW/dt=C(aPin - Pout)

という方程式で表されそうな気がするから,
Cを減らすか,aを減らすか,Pinを減らすか,
Poutを増やすしかない.

Cは人間の中の筋肉,脂肪などを生成する機能に
関係するだろうから,基本的に減らしたくはない.
(効率が悪い身体になる,ということだし)

aを減らすというのは,内臓からの栄養摂取の
効率を悪くするということで,これもなにか
不健康になりそうだからやめることにする.

Pinを減らす.これは,食べる量を減らせばいいのだから,
ダイエットの王道である.

Poutを増やす.結局のところ,運動しろ,ということ.

つまり,食べる量を減らして,運動量を増やせという,
当然の結論になる.

2年前,オタキング岡田氏のレコーディング・ダイエットで
私は65 kg程度まで減量できた.
このダイエット方法は,自分が食べたカロリーを
フィードバックして,トータルで一日の摂取カロリーを
少し低めの目標値に制御するという作業に他ならない.
(ただし,食品を選ぶことができるという自由度はある)

ひとつ,自分の身体を制御対象と考えて,
体重を制御してみることにしよう.
比例積分制御などではなく,
どうもBang Bang制御になりそうな気がするが...

ということで,今日から始めてみようかな.

#しかしなぜ,摂取した質量Min,排出した質量Mout
用いた次の式では,あまりダイエットしようとする気に
ならないのだろう...

dW = Min - Mout

たぶん,人は(質量のない)カスミだけを食べて
生きていくことはできないからなのだろう.

2010年5月6日木曜日

「もんじゅ」の運転再開

高速増殖炉「もんじゅ」の運転が
再開されたそうである.
あまりこうした社会的な話題を,
このブログでは取り上げないのだけれど,
今日は少し思うところがあったので,
記事を書いてみる.

「もんじゅ」が冷却系のナトリウム漏れを起こして
運転を停止したのが1995年のこと.
私が日本原子力研究所に入所したのが
1996年のことだから,当然話題になっていた.

まず私が思ったのは,ナトリウム漏れは「事故」ではなく,
「事象」でしかないということ.それも国際的な基準では,
最悪の7に対して,最低レベルの1.
そもそもが,「事故」と呼ぶのは不適切なのである.

どうしてそのような事象であったのに,
その後,14年間の運転停止に至らねばならなかったのか,
その対応のまずさを十分に反省する必要はあると思う.
証拠を提出しなかったことなどが,社会の不信感を拡大し,
今でも,なお原子力行政へのアレルギーとして残っている.

しかし,14年も運転を止める必要はなかったのではないか.
そう私は思うのである.
14年も経てば,技術的にはずいぶんと遅れたものになる.
もちろん,その他にあれだけの設備はないので,
今運転を再開しても,価値のあるデータが
種々取得できることは間違いない.
しかし,だからこそ早期の運転再開が
必要ではなかったのかと思う.
この14年間に技術的になにか革新があったわけではない.
なにか社会的なネガティブな感情の冷却のためだけに
あったような気がする.
なんて勿体無いと思うのだ.

もっと社会は冷静に,技術のもたらす
メリット,デメリットを議論すべきではないのだろうか.
感情に走りすぎて,結局のところデメリットを
増やしているような気がする.

科学者,技術者は,
もっと社会に対しての説明責任を果たせ,
といわれるかもしれない.
努力不足は認めるとしても,
感情的に否定しようとする人たちを説得しようとするのは,
大変骨が折れることは違いない.
それらの人たちを,大多数納得させてからでなければ
先に進めないというのは,科学技術の発展という面からみて,
それは良い状況なのだろうか.

そうした正解のない状況において,
決断するのが政治であるのに,
社会の反発を恐れて,どうも腰砕けである.
結局,ポピュリズムに流されているような気がするのである.
そしてそれを煽っているマスコミがいる.

実は,「もんじゅ」の話で触れたかったのはこの点で,
もっと社会は物事に対して冷静に議論をすべきではないか,
といいたいのである.

「事業仕分け」もしかりである.
最近では,「逮捕」や「裁判」の結果にも
社会の感情が反映されているような気がする.
これは大変恐ろしい状況ではないのだろうか.

いつだったか,原子力の安全性に問題があると,
裁判所が判断を下したことがあった.
専門家は,問題ないといったのに.
裁判官はどのようにして専門家の知見を越える
判断ができたのだろうと,疑問に思った.
専門家の知見を反映しないで,裁判が行われる,
という事実にどうして皆恐怖しないのだろう?

「科学技術」の原理や成果は残念ながら,すべての人に
理解できるものではない.
だからこそ,専門家がいて,政治家がいる.
しかし,それをすぐに「善悪」の二分法に落し込み,
悪者探しをして,いじめて満足するように
仕向けるマスコミがいる.

もっとデータを吟味して議論してはどうだろう.
「科学技術」であるならば,データを立脚点として
話を始めればいい.
公正なデータが明確に示していても
それを否定するというのであれば,
そうして人は議論の場から排除されるべきではないだろうか.

話がまとまらなくなってしまったので,
ここで終わるけれど,
14年間,もんじゅの維持のために,
毎年100~200億円要していたということを
どれだけの人が知っているだろうか.
社会の感情の冷却期間としてだけに
それだけの税金を費やしてきたとするならば,
それはあまりにもひどい話である.

本当に技術的に不要であるならば,
たとえこれまでもんじゅに9000億円を費やしてきたとしても,
炉を停止すべきなのである.
もしも,その技術が将来のために必要であるとしたならば,
なんとしてでも,もっと早期に運転を再開すべきだったのである.

14年を経なければ再開出来なかった
もんじゅの話は,現在の日本の社会の問題点を
顕しているような気がするのである.

2010年5月1日土曜日

内面の美は姿勢から

ゴールデンウィークに突入である.
私も明日からお休みである.
(今日までは,大学祭「いちょう祭」で出勤)

今週は稽古もできなかった.
身体がなまってしまう.
しかし,「身体がなまる」というのは
決して筋肉が落ちるということをいうのではない.
以前にも書いたが,稽古を継続するというのは,
感覚のズレをフィードバックして微調整するため
なのである.

イチローで言えば(と私が勝手に思っているだけだが),
バットを手に持つ感覚が
同じであるために,毎日ズレを修正する,
というような作業である.

私が稽古している合氣道の場合,
たぶんそれは姿勢なのだと思う.
生活の中で気を抜いていると,
姿勢がだんだん崩れていく.
身体の軸がブレていく.
これを稽古で修正するのである.

たぶん私の合氣道の先生が,日常生活の中でも
稽古をしているというのはこの意味なのだろうと思う.
別に四六時中合氣道の技を稽古しているわけではない.
心と体の遣い方,すなわち姿勢を気をつけているのだと
思うのである.
だから逆に言うとあまり技を稽古する必要がないのかも
しれない.

残念ながら私は稽古が必要なのである.
姿勢を矯正して良く作業が毎週のように必要だ.

最近,若い女の子をみると誰でも可愛く見えるのだけれど
(逆にいうと,区別がつかなくなってきた...
全くのオヤジの兆候である)
外見とは別に,美しいと思う方もいる.
もちろんそれは年齢に関係なく.
いやむしろ年齢を上手にとられている人なのだろう.
立ち居振る舞い,表情に美しさ,知性が現れている.
逆に外面だけ美しく着飾っていても,
少しの時間,一緒に過ごせば
すぐに化けの皮は剥がれてしまう.

"Beauty is only skin deep."

という言葉を思い出す.
まさにその通りなのである.
外面だけで決まるわけではない.
姿勢には,その人の心が現れるのだ.

この歳になると外見よりもやはりその中身に
興味を持つようになるようだ.

"Beauty is more than flesh."

こうした言葉は女性だけのものではない.
男ももっと内面の美に気を使うべきなのだと思う.
男らしさとは決してゴリラになることではない.
やはり知性,美しさがなければ.
まずは姿勢に気をつけよう....と自戒する.