2010年5月6日木曜日

「もんじゅ」の運転再開

高速増殖炉「もんじゅ」の運転が
再開されたそうである.
あまりこうした社会的な話題を,
このブログでは取り上げないのだけれど,
今日は少し思うところがあったので,
記事を書いてみる.

「もんじゅ」が冷却系のナトリウム漏れを起こして
運転を停止したのが1995年のこと.
私が日本原子力研究所に入所したのが
1996年のことだから,当然話題になっていた.

まず私が思ったのは,ナトリウム漏れは「事故」ではなく,
「事象」でしかないということ.それも国際的な基準では,
最悪の7に対して,最低レベルの1.
そもそもが,「事故」と呼ぶのは不適切なのである.

どうしてそのような事象であったのに,
その後,14年間の運転停止に至らねばならなかったのか,
その対応のまずさを十分に反省する必要はあると思う.
証拠を提出しなかったことなどが,社会の不信感を拡大し,
今でも,なお原子力行政へのアレルギーとして残っている.

しかし,14年も運転を止める必要はなかったのではないか.
そう私は思うのである.
14年も経てば,技術的にはずいぶんと遅れたものになる.
もちろん,その他にあれだけの設備はないので,
今運転を再開しても,価値のあるデータが
種々取得できることは間違いない.
しかし,だからこそ早期の運転再開が
必要ではなかったのかと思う.
この14年間に技術的になにか革新があったわけではない.
なにか社会的なネガティブな感情の冷却のためだけに
あったような気がする.
なんて勿体無いと思うのだ.

もっと社会は冷静に,技術のもたらす
メリット,デメリットを議論すべきではないのだろうか.
感情に走りすぎて,結局のところデメリットを
増やしているような気がする.

科学者,技術者は,
もっと社会に対しての説明責任を果たせ,
といわれるかもしれない.
努力不足は認めるとしても,
感情的に否定しようとする人たちを説得しようとするのは,
大変骨が折れることは違いない.
それらの人たちを,大多数納得させてからでなければ
先に進めないというのは,科学技術の発展という面からみて,
それは良い状況なのだろうか.

そうした正解のない状況において,
決断するのが政治であるのに,
社会の反発を恐れて,どうも腰砕けである.
結局,ポピュリズムに流されているような気がするのである.
そしてそれを煽っているマスコミがいる.

実は,「もんじゅ」の話で触れたかったのはこの点で,
もっと社会は物事に対して冷静に議論をすべきではないか,
といいたいのである.

「事業仕分け」もしかりである.
最近では,「逮捕」や「裁判」の結果にも
社会の感情が反映されているような気がする.
これは大変恐ろしい状況ではないのだろうか.

いつだったか,原子力の安全性に問題があると,
裁判所が判断を下したことがあった.
専門家は,問題ないといったのに.
裁判官はどのようにして専門家の知見を越える
判断ができたのだろうと,疑問に思った.
専門家の知見を反映しないで,裁判が行われる,
という事実にどうして皆恐怖しないのだろう?

「科学技術」の原理や成果は残念ながら,すべての人に
理解できるものではない.
だからこそ,専門家がいて,政治家がいる.
しかし,それをすぐに「善悪」の二分法に落し込み,
悪者探しをして,いじめて満足するように
仕向けるマスコミがいる.

もっとデータを吟味して議論してはどうだろう.
「科学技術」であるならば,データを立脚点として
話を始めればいい.
公正なデータが明確に示していても
それを否定するというのであれば,
そうして人は議論の場から排除されるべきではないだろうか.

話がまとまらなくなってしまったので,
ここで終わるけれど,
14年間,もんじゅの維持のために,
毎年100~200億円要していたということを
どれだけの人が知っているだろうか.
社会の感情の冷却期間としてだけに
それだけの税金を費やしてきたとするならば,
それはあまりにもひどい話である.

本当に技術的に不要であるならば,
たとえこれまでもんじゅに9000億円を費やしてきたとしても,
炉を停止すべきなのである.
もしも,その技術が将来のために必要であるとしたならば,
なんとしてでも,もっと早期に運転を再開すべきだったのである.

14年を経なければ再開出来なかった
もんじゅの話は,現在の日本の社会の問題点を
顕しているような気がするのである.

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