2010年5月12日水曜日

社会の感情が反映されすぎる恐ろしい状況


このブログでは社会的な話は
あまりしないということにしているのだけれど,
(大した見識もないし)
ただ昨日のガス湯沸かし器の
メーカーに対する裁判所の判決については,
少し思うことがある.

私の感覚では,今回のガス湯沸かし器の事件は,
第一義的な責任は改造した業者にあるのであって,
製品自体には(改造しやすいという問題はあったにせよ),
基本的には問題がなく,その責任を
企業のトップが負わなければならないというのは
ちょっとひどいのではないかと思う.

もちろんそれを知っていて対応をとらなかったというから,
そこに道義的な責任はあるし,社会的にもメーカーは
適切に対応しなければならなかったはずで,
そこは批判されても仕方がないと思う.
私もその責任は問われるべきだと思う.

けれど,製品に問題がなく,修理業者が行った
不正改造の法的責任を,オリジナルの製造者が負わなければならない,
ということになってしまったら,今後の工業製品に対する
考え方は大きく変わってしまうことになるのではないか.
自社の製品を誰かが不正改造して事故を起こしてしまったら,
その会社のトップは刑事罰を受けなければならないのである.

たとえば,車.
違法な改造車がこれだけ走っているのだから,
オリジナルの車の製造者の責任が問われることになる.
明らかに改造されることを想定しているような製品であれば,
それは製造者に責任もあるだろうが,
通常は改造することを想定していないのに,
その改造の責任を製造者をとらなければならない,
ということになったら,一体メーカはどうしたらよいのか.
製品が出せなくなってしまう.

今回の裁判所の判断には,法の専門家にも首を捻る人が
多いのだという.
そして,ニュースを聞く限り,その判断には
社会の感情が反映されているのだとか.

このことを私は最も危惧するのである.

「もんじゅ」の件でも述べた通り,
社会感情を反映して,検察や警察の行動,
そして裁判所の判断が左右されるという状況は,
大変恐ろしいものではないのかと思うのである.

社会的に反感が高まっているから,
そこにケリをつけるために,誰かを悪者に
仕立てなければならない.
そのように法の機関が動いてしまう.
そんなことが許されるのだろうか.

こうした状況では,マスコミの煽りも
非常に責任が重いのだと思う.
原子力に関する記事でもそうなのだが,
ある事実を報道するのにも,
非常に悪意をもって行っている.
そして,それがそのように行っているのを
巧妙に隠している.
ある新聞社では,いかに自分たちの責任なく,
だれかを悪く書けばよいかというマニュアルも
あるのだという.

マスコミは,視聴率や販売部数をふやすために,
事件を民衆にわかりやすい
正義と悪との単純な2元的な対立構造に落とし込んで
報道しようとする.
そのために,誰かが悪者にまつりあげられる.
それは社会を煽っている.
そして煽られた社会的反感がが大きくなると,
それを治めるために,誰かが犠牲になる.
そんな状況に社会はあるのではないか,と思うのである.

また厳罰化すればこうした事故はなくなるか,
ということも明らかではないだろう.
禁酒法ができてアメリカ人は酒を飲まなくなったか,と
考えてみれば,裏社会で皆飲むようになっただけだし,
派遣禁止法で,フリータの人が正社員に採用されるようになったか
といわれれば,皆解雇されたにすぎない.
そうした規制は,状況をさらに複雑化するのであって,
本来は規制をなるべく少ない状況にして,
解決法を探るべきだったのではないだろうか.

今回の判決による厳罰でも同様で,
厳罰化されると,社会から,今回のような事故が減るのではなく,
むしろ報告するのがためらわれ,会社が改善することを
損なう状況になるのではないかと思うのである.

とにかく社会感情が,法的判断に反映されすぎるのは
問題ではないかと思う.
これは大変恐ろしい状況なのではないかと
私は昨日ニュースを聞いて思ったのである.

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