2010年11月30日火曜日

陳腐な歌詞に辟易とする

実は先週金曜日は,茨城県那珂市の
核融合研究所に行ったのだけれど,
その話はまた次の機会に.

そして昨日は研究室のイベントで,
嵐山に紅葉狩りにいったのだけれど,
これもまた次の機会に.
写真をUPできたら,記事書きます.

そして,仕事が遅れております.
ご迷惑をおかけしている皆様には,
もうしばらくお待ちをお願いいたします.



ということで,今日は他愛の無い話を.


最近,本当にヒット曲というものを聴かなくなった.
中高生の頃は,洋楽邦楽を問わず,
いろんな音楽を聴いていた.
松田聖子も,菊池桃子も,
ボンジョビも,バンヘーレンも,
そして,マイケルジャクソンも.

しかし,今はほとんど聴かない.
もちろん,良い音楽ならば聴きたいと思う.
けれども,現在は聴いた後に
時間の無駄だったとがっかりする音楽が
多すぎる.
これは,私の感性が時代から取り残されている
ばかりとはかぎるまい.

ちょっと前までは,車を運転するときには
FM局をよくつけていた.
最近のヒット曲がヘビロテで流れる.
それで良いときもあった.
しかし,今ではせっかくの時間なのだから,
良い音楽を聴きたいと思う.

そこで失敗が少ないのが,
まず,クラシック音楽.
これはいい.外れが少ない.
自然,聴く頻度が高くなる.

次に聴くのが,クラシックなロックやポップス.
70年代,80年代,90年代と
生き残ってきた音楽はやはりいい.
私が良く聴くFM局は,FM Cocoro.
45歳以上のリスナーを対象とした音楽局と
いうだけあって,古いヒット曲,名曲が多い.
しかし,古いと言っても,80,90年代の曲は
やっぱり良いし,ロックがロックらしかった時代の
曲は,安心する(笑)

あとは,私が好きなアーティストの曲.
佐野元春とか,スガシカオとか.
聴いていて,良い曲だと思う.
セールスが悪くても,彼らしか作れない曲を,
歌えない曲を,歌っている.
それがいい.

最近の曲でまずダメだと思うのは,
ポップスやロックであっても,
歌詞がまるで演歌のようだということ.
プロの作詞家の作品は,さすがに
そういうことは少ないのだけれど,
バンドとか,適当なシンガーソングライターだと,
陳腐な言葉の羅列に辟易とする.

例えば,
「夢」,「希望」,「愛」などの言葉に,
「永遠」,「はかない」,「明日」などの
お決まりのワードが続く.
これを,思い入れたっぷりに歌うのだから,
気持ち悪くなる.
なんて単純な言葉の羅列.

宇多田ヒカルもそうした歌詞が嫌いだと言っていた.
佐野元春も,スガシカオも.

もちろん,それが狙いの歌もあるだろう.
ウルフルズとか.

そして,昔で言えば,森高千里のセンス.
筋肉少女隊の大槻ケンヂが絶賛していたけれど,
なんというか,普通の言葉なのだけれど,
使い方が一風変わっていた.
そうした曲ならばいいと思う.

もしもこの記事を読んでいただいた人が
いたならば,少し注意して聴いて欲しいと思う.
なんと世の中に陳腐な歌詞があふれていることか,と
呆れることだろう.

陳腐な文章にも吐き気がするが,
陳腐な歌にも吐き気がする.
メロディーや編曲までも浅い曲なぞ
もうぐったりする.

と,いろいろ書いてきたけれど,
結局のところ,個人の趣味次第なのだから,
ご容赦を...
たぶん私がオジサンになったということで.

2010年11月25日木曜日

簡単にモノを捨て,簡単に伝統を断ち切る若者たち

久しぶりに,最近の若者たちを見て思うこと.
シリーズ第3弾である.

(3) 自分の尺度で,容易にモノを捨て,
伝統を断ち切る

モノを捨てることが悪いのではない.
ただ熟慮無く,自分に不必要になったモノを
ポンポンと捨てる人が多い.

たとえば,家具など.
まだ使えるモノでも,自分が使わなければ
すぐに捨てる.
まぁ,それを薦める本もあるくらいだから,
良いといえば,良いのだけれど,
あまりにももったいなくはないか.

たとえば,研究室にある回路も
まだ部品を取り外せば使えるけれど,
それが面倒くさくて,捨ててしまう.
短い配線などもジャンパ線として便利なのに,
躊躇無く捨てる.
もう少し考えて欲しいと思う.

同様に,過去から続いている行事などを
面倒くさいからということで,
つまりは自分の尺度で,やめてしまう.
過去に続けてきた人たちの苦労など
あまり考えもしない.

ずいぶん前の話になるのだけれど
(最近の若者ではないか...)
大学の合氣道部で伝統的に続いている
「追い出し会」という荒稽古がある.
卒業予定の部員が,45分間,
OBも含めた部員全員から
攻撃を受け,それをさばき続ける稽古である.
受ける方は当然かなりしんどく,
かなりのダメージを受ける.
(稽古後はふらふらである)

しかし,それが(その時点で)20年以上
続いてきたのはそれなりの理由がある.
また,継続してきた過去の先輩方の
努力も考えなければならない.

しかし,その年の幹部は,
これを危険だからという理由で
安易にやめようとしたのである.
これを聞いて,当然師範やOBは激怒した.
やめようというのであれば,
幹部は過去のOBの皆さんに許可を
もらってこい,と言った.
伝統とはそれだけの重みがあるのである.
それが,その年の幹部の一存だけで
中断を決められるものではないのである.

これは過去の話だけれど,
現在の学生たちを見ても,
面倒くさいから,という理由で
すぐにやめようとする.
そういう安易さが,腹を立てさせるのである.

もちろん,過去から続く悪しき伝統もあるだろう.
それらは速やかに断ち切らねばならない.
しかし,伝統という慣性は,悪しきものでも
働いているのである.
その慣性を考えて対処しなければ,
あちらこちらで問題の原因となってしまう.

もしも私が会社の上司だったら,
そうした若者を採用したくない.
なぜならば,会社では過去からの継続に
よって業務が行われているのであり,
それを配属された一社員の所存で,
やめたり,書類を捨てたりされては困るからである.
職というものをよく考えれば,
適切に行動できるはずである.

つまりは,現在の若者は,
モノにあふれた時代に育ち,
面倒くさい他人からの押しつけが
いやでいやでたまらないということなのだろう.
でも社会はそんなことでは動いていないのである.

次回は,こうした若者たちの根底にある,
「自分の気持ち第一主義」について
考えて(愚痴をこぼして)みたいと思う.

シリーズ:「最近の若者たちは...」

(1) 将来に大きな希望を持っていない若者たち
(2) 最適解・最短距離を求める若者たち

2010年11月24日水曜日

薄型テレビ購入狂騒曲

エコポイントが半減するということで,
にわかに電気店が人出で一杯になっている.
特に薄型テレビは,例年の6倍売れているというから,
半年分の売り上げがこの11月までに
さばけるということか.

昨日のニュースを見ていると,
テレビ購入の受付だけで,200人待ちと
言われた人などもいて
(大阪のヨドバシらしいけれど)
結局,テレビは購入できない状況もある.
まさに狂騒曲といった感じである.

実は,私もテレビ購入を画策していたひとりで,
(なぜならいくら家電量販店でもなかなか
エコポイントの17000円や23000円などは
値引きしないから)
忙しい中にも夕方遅くに電気店に行ったりして,
状況を調べていた.

日曜日に,近くの量販店に行ってみると,
欲しいと思っていた37,40,42インチのテレビは
軒並み納期が12月下旬から来年1月だという.

政府は,補助の財源があと半年継続できる程度だとの
見通しで動いているようだが,
テレビが通常の6倍売れている状況を見ると,
とても来年2月,3月までは補助が続くまいと思う.
そう思うと,1月でも補助が打ち切られてしまう可能性が高い.
12月下旬も怪しいか...
(結局エコポイントは,申し込んだ順なのだし)

と思うと,その危険性を犯してまで
テレビを購入する必要は無いように思っていた.
(ブラウン管テレビはまだまだ映っているし).

しかし,昨日ある別のスーパーの中に出店している
量販店を訪れてみると,なんといろいろとまだ製品が
残っているのだという.
ちゃんと値引きもされている.
聞いてみれば,納期も明日から可能ですという.
ということで,一度はあきらめたテレビでしたが,
昨日購入してしまいました.
納期は週末.
申請を即座にしなければ...

電機メーカ,家電量販店などは
これから年末にかけてずいぶんと
売り上げが伸びているのだろうなぁ.
うらやましい.
(エアコンだって相当品薄である)

ただこうした政策は,
補助が切れたときの反動が大きく,
経済学的には,長期の視点で見て
マイナスなことが多いという.
たぶんテレビも来年になるとぐっと
価格が下がるだろうし...
(今は価格的には高い)
家電市場が来年冷え込まなければ良いのだけれど.

2010年11月20日土曜日

パワーエレクトロニクス学会第25回専門講習会: モータの最先端

今日は,パワーエレクトロニクス学会第25回専門講習会
開催された.

テーマはモータ.
最近,レアアースをはじめとして,
話題となっている.

HEV,EVで求められるモータの性能とはなにか?
(HEV:ハイブリッド電気自動車,EV:電気自動車)

レアアースで何が中国の独占で問題となっているか,
(ネオジウムではない,ジスプロシウム)

近年家電で進むモータの技術革新とはなにか?

油圧機械でのハイブリッドとは?

などの基礎から最先端までの話を聞くことができた.
勉強になったことはもちろんだが,
なにかモータが身近になったような気がする.

モータは,1888年,かのニコラ・テスラが
二相交流発電機で特許を取って以来,
120年の歴史がある.
しかし,古くて新しい.
そのことにあらためて目を見開かされた
今日の講演だった.
講師の方々に深謝.

80名を越える参加者を得て,
講習会は盛況だった.
とりあえず,安心.

来年のテーマは何になるか,
今から楽しみ....

2010年11月19日金曜日

エントリーシートの陳腐な表現に吐きたくなった

研究室に転がっていた
就活の本を手に取ってみた.
「エントリーシートの書き方」に関わる本で,
中身をみると,これでもかというくらいの文例が
ぎっしりと挙げられている.

その内容を見ていて,
だんだん吐き気がするほど腹が立ってきた.
結局,こんな本をみてエントリーシートを書いて,
なにがわかるというのか.

エントリーシートの本質的な議論は
また別の機会に譲ることにして
(別の機会って一体いつだ?)
今回呆れたのは,その文例でしばしば
見受けられる「陳腐な表現」である.

本に出ていた具体的な例を挙げるのは
ここでは避けるけれど,
「陳腐な表現」というのは,ときどき
目にする,こういった表現である.

「衝撃が走った」
「心の琴線に触れた」
「一気呵成にたたみ込む」

こうした表現は,自分で書くと
たいへんな違和感を感じるので,
私はたぶん使わない.
(「たぶん」というのは,どこかで
使っている可能性もあるから)
なにか嫌な感じがする.

なぜ嫌なのか,と考えてみると,
こうした表現はあまりにも定型化しているからこそ
その裏側にある心理状態を表していないと
感じるからだと思う.
そうした定型表現を使うことによって,
使った人は安心できるのだろう.
また,素直にそれらの表現を受け入れることができる
読者もいるのだろう.
でも,私は違うのである.

とはいえ,私ももう悲しくなるくらい嫌になる文章を
書くことがある.
たとえば,学会誌に載るような国際会議や
見学会の報告記事.

「活発な議論が交わされた」
「会場の熱気が伝わる」

などの陳腐な表現に頼らざるをえないのである.
他に言葉が見つからない...
まぁ,こうした記事で大切なのは,
場所,日時,人数などの情報であって,
上記のようなどうでもよい表現は,
読者には実際問題,無視されるのだけれど,
それでも書いていて悲しくなった.
もっとまともな文章を書きたい...

エントリーシートを何枚も読まなければならない
企業の人事には決してなりたくない.
私だったら,腹を立てて一日で倒れてしまうだろう.

そして一方で,陳腐な表現から離れた
文章を書きたい.
「筆舌に尽くせない」事柄を
平易な表現で書きたい.
いつかそんな文章が書けるようになれるだろうか.

2010年11月18日木曜日

学会に参加してみよう

イェーイ,全然仕事が終わらないぜ!
もう慢性的だから,張り切って行こう!

本日は,電気学会 「マトリックスコンバータの
普及に向けた技術課題と導入効果調査専門委員会」の
皆様が伊瀬研究室を見学にいらした.
実はトラブルもあって,見学は
満足していただけたかどうか不安である...

こうした調査専門委員会の活動は,
電気学会の場合,技術報告書という形でまとめられる.
これが,その時期,その時期のトレンドを
うまくとらえているから,参考資料としては
大変に役に立つ.

特に,注目すべき論文や報告などが
リストとしてまとめられることになるから,
参考文献リストとしても,非常に重宝する.

しかし,こうした活動はほとんどはボランタリーで
行われているのである.
交通費はもちろん手弁当であるし,
原稿の執筆についても全く報酬は無い.
あくまでも学会活動を通した分野への
無償の貢献という形で行われるのである.
(会場費などは学会から補助がでるけど)
まぁ,学会の存在理由からして,
それで構わないのだけれど,
こうしたボランティアによって
学会の活動が維持され,ある分野の
技術や研究が盛んになる.
そしてひいては社会の貢献しているのである.

もちろん,企業の方には,参加することによって,
情報を収集できるというメリットがあるだろう.
(もちろん,私たち学校関係者もそうだが)
しかし,遠くを見れば,ちゃんと社会に
貢献している事実があるからこそ,
ここまで学会は存続しているのである.
(電気学会は創設120年以上)
これまでのそうした貢献を思うと,
大変に有り難く,そして現在の私たちの
責任の大きさを思う...

学会は誰にでも門戸を開いている.
ぜひ学生の皆さんも,この活動に
参加してみませんか?

2010年11月17日水曜日

老人らしい老人になる

う~ん,忙しい.
どーなっているんだか.
神様は私に試練をお与えになっている.

さて,先日ある方と話していたのだけれど,
最近は,お年寄りらしいお年寄りを
見かけない,ということが話題になった.

一昔前は,老人といえば,
腰が曲がって,みるからにお年寄りと
いった風だったけれど,
このごろは,元気そうな方ばかりで,
年齢がどのくらいなのか,
ちょっと見,よくわからない人が増えてきている.

体力的に若さを保つことは素晴らしく,
いつまでも長生きして欲しいとは思うのだけれど,
私は,老人らしい老人になりたいと思う.

この話は,小林秀雄の講演集を収めたCD
(確か第4巻の「現代思想について」,新潮社)に
含まれていたと思うのだけれど,
歳をとっても若者に媚びたような,
そんな考えをしている老人にはならず,
歳をとったら歳をとったなりの考え方の違いを
身につけた老人にならなければならない,と
私も思うのである.

小林秀雄の講演では,ユングがアフリカで出会った
老人の話が紹介されている.
ユングは,見るからに老人らしい老人に
遭遇したらしい.
老人は,智恵と思慮の象徴である.
ユングが感心したくらいだから,
たぶんそんな雰囲気に溢れていたのだろう.

小林秀雄は一方で,「隠居」の話を出す.
これは英語には無い言葉で,
田舎ではなく,
(Country Gentlemanではない)
市井の中に身を沈め,
隠居として,長屋の人たちにバカにされ,
あるときは尊敬されて生きていく.
これを陸沈というらしい.
私もそうした生き方に憧れる.

芸術家の横尾忠則も「隠居宣言」という本
(平凡社新書)を書いている.
彼も小林秀雄のこの講演の録音を聞いて,
隠居しようと思い立ったそうである.
彼の最近の行動を見ると,思うがまま,
自由自在であり,私はうらやましくてしょうがない.

老人らしい老人になるのはよいが,
今はまだ早い.
亡くなった父は私に,よく,

「枯れるな」

と言っていた.
枯淡の境地は,80歳を越えてからでよい.

以前,薬師寺の安田前管主のご講演で,
人生は120年で考えるのがよい,という話を聞いた.
30歳までが春,60歳までは働き盛りの夏,
そして90歳までは人生の収穫時期の秋,
120歳までは静かに過ごす冬.
そのような考え方でいけば,60歳を過ぎて,
人生の収穫時期をいかに迎えるか.
そのための準備をそれまでに十分できているか.
そんなことを考えながら,
立派な老人への道を歩んでいきたいと思う.

目標は,池波正太郎の「剣客商売」
秋山小兵衛かな.
まずはとりあえず,「立派なオジサン」になることが
近々の目標なのだけれど.

2010年11月15日月曜日

ミステリーとは:「葉桜の季節に君を想うということ」

小説を読むようになって,
やっぱり当たり外れが怖いので,
どうしても名作と呼ばれるものを読むことが多い.
自然,古典作品が多くなる.

それはそれでいいのだけれど,
最近のものはどうなっているのか,
ちょっと気になることもある.
またジャンルもいろいろ
手を広げてみたい気もしたりする.

そこで最近読んだのは,
ミステリーと呼ばれる分野で一冊.

「葉桜の季節に君を想うということ」(歌野晶午)

これは,ある新潟の地方局のFM番組で
紹介されていて,それで興味を持って
手に取ってみたものである.

(ちなみに,FM局はport FM,
番組名は「Night i」(日曜夜9:00~11:00).
DJは,松本愛という方で,
これが一度聴いたら忘れられない
すてきな番組であった.
いつかこの話もあらためてしたい)

それで早速読んでみた.
確かに,テンポよく書かれていて,
あっという間に読み終えてしまった.

2004年度のミステリの賞を総なめしたという
だけあって,私のようなミステリ初心者は,
作者に全くもってだまされた.

「なるほど!あれはそうことだったのか」

と思わされる作品になっている.
それなりに,事件の謎解きがいくつか
ちりばめられて,良くできた推理モノであるとも
いえるだろう.

しかし,しかし,なのである.
正直,私にとってはいまひとつ物足りなかった.
ミステリとしての内容については,
全く申し分ない.
しかし,人物の心情の掘り下げが
足りない気がする.
せつなさや,やるせなさがもっと欲しい.
読み終えた後に,ずいぶん感心はしたのだけれど,
感動は少なかった.
これがミステリというものなのか...

現在はミステリというジャンルが非常に人気がある.
(個人的には「ミステリ」という定義も
よく理解できていないのだけれど)
多くの人が,このような謎解きや,
どんでん返しを期待して読んでいるのだろうか.
私はもう少し,人間の心情のドロドロとした小説が
読みたいな.
でも,「ルームメイト」(今邑彩)という作品も
紹介されていたから,
もしも時間があれば試してみようかな,と思っている.


#全然話が変わるけれど,私のもっている手帳
「ほぼ日手帳ウィークス」によれば,
1867年の今日(11/15)に,坂本竜馬と中岡慎太郎が
暗殺されたことになっている.
昨日のNHKテレビでは「あと3ヶ月のことじゃった」と
言っていたのだけれど...
彼らは私が生まれるちょうど100年前に殺されている.

2010年11月12日金曜日

AKB48を覚えられない

先日の深夜,NHKテレビを見ると,
AKB48の特集番組が放送されていた.
昨今たいへん話題のアイドルグループというので,
どんなものだろうとしばらく見てみた.

そのうち目が回り始めた.
大勢の女子アイドルたちが
舞台をところ狭しと踊りまくっていて,
ゆっくりと見ているどころではないのだ.

少しは顔と名前が一致するよう,
なんとか判別しようとするのだけれど,
これが全く要領を得ない.
全然覚えられないし,区別もつかない.

私が高校生時代,おニャン子クラブという
グループがあって,それはそれは大変人気があった.
(AKBと同様,全盛期は40名を越えていたのではないか)
可愛さでいうと,今のアイドルに比べると
いまひとつな感は否めないが,
庶民派ということで,親しみやすかった.
そして歌も踊りも大変下手で,
よくもあれで人気があったのだと今は思う.

そのおニャン子では,各人の立ち位置というのは
決まっていて,歌っている場所を一致させれば,
だいたい名前と顔を覚えることができた.
(そのうえ各女の子には会員番号なる番号が
つけられていて覚えやすかった)
それがこのAKB48は,次から次へと
歌う位置が変わるだけでなく,メインも
変わっていく.
...もう,全くわからない状態になる.

考えてみれば,現在,私はほとんど若い女の子の
区別がつかなくなってきている.
学生の名前と顔も怪しいくらいである.
これはオヤジの証拠というべきか,
それとも単なる老化というべきか.
それがAKB48の女の子たちを判別しようとするのが
そもそもの間違いなのだろう.

(昔,サンデーズの石川ひとみと倉田まり子の区別が
つかないといっていたオジサンを笑ったことがあるが,
今の私は佐々木希と北川景子の区別もつかない...)

AKB48のプロデューサーは,秋元康氏だという.
おニャン子クラブと同じである.
彼に相変わらず翻弄され続けている自分は
やはり成長していないということなのだろう.

夜中に電話のベルが鳴る

現在,夜中の0:00前だというのに,
突然机の上の電話が鳴った.

あわてて受話器をとると,
切れていた...
怖い.

まさか,先日見たビデオが
呪いのビデオとか....

「リング」(鈴木光司著)という小説を読んだときのことを
思い出した.
とにかく怖いという噂を聞いて,
早速購入して読んだのだった.

怖い,ということはなかったけれど,
確かに面白かった.
結構,厚い小説だったけれど,
2日くらいで読んだっけ.

前の職場に居た頃で,
寮の隣の同僚にその話をしたら,
本の虫であるその友人は
やはりすぐに購入して読んだのだという.
それも一晩で.

あれほど面白いホラー小説には
あれからお目にかかっていないなぁ.
映画やテレビにもなったけれど,
小説には小説の面白さがある.
まだ読んでいないという人には
ぜひおすすめの小説なのである.

2010年11月10日水曜日

考える内臓

お腹を壊した.
今朝,4時に目が覚めて,
1時間くらいトイレに出たり入ったり.

仕事が山積みのこの状態で,
腹に力が入らないのは本当につらい.

しかし,内臓というのは
人間の身体に大きな影響を与えるということを
ほとほと思い知らされる.

健康なとき,内臓は
身体の中に存在していることさえ
忘れてしまう.

しかし,一度このように痛み出すと,
常にその存在を気にせずにはいられない.
まるで「幸せ」のようだと誰かが言っていた.
失ったときに初めてその有り難さがわかるということか.

人は内臓で考える,とも聞いたことがある.
私たちが思うより,私たちは
内臓に支配されているのだろう.
内臓の具合次第で,思考も変わるし,
ホルモンの分泌状態も変わる.
心身の能力に大きく影響を与えているはずだ.
身近なところでは腹が減ると,
怒りやすくなるとか.

まずはこの腹を治さない限りは,
仕事が思うように捗らない.
第二の脳である内臓がうまく働かなければ,
きっと良い考えも思い浮かばないに違いない.

2010年11月9日火曜日

「ノルウェイの森」を読んだ頃

父が倒れたのは,4年半前にさかのぼる.
(というか,ずっと前から身体は悪かったのだが)
緊急手術を行って,術後はずっと父は
ICU(集中治療室)にいた.
そして私たち家族はずっとICUの近くの控え室にいた.
10日くらいそこにいただろうか.

ICUだから,次々と緊急を要する患者が運ばれてくる.
病院の前に救急車が着くたびに,
ストレッチャーが救急医療センターに入ってくる.
患者は手術室に慌ただしく運ばれ,
その家族はうなだれて私たちのいる控え室にやってきた.
もちろんそうした家族の表情はみな固く,
声をあげて涙を流している人を何人も見た.

ICUから出て行くには二通りある.
少し回復して一般病棟に移る場合と,
エレベータから遺体搬送車へ運び込まれる場合とである.

後者の場合である患者の家族を
私はいくつもその控え室で見た.
なんと世の中は無常なのかと思った.
そして自分の家族がいつかそのような状況になるかも
しれないと恐れた.
それほど,その場所は生と死が隣接していた.

4年半前は,父は生還した.
リハビリを経て,自宅に戻って外出も
できるほどになった.
(ずいぶん身体は不自由になったけれども)

しかし今回は,父は戻らない人となった.
ほんのちょっとの分かれ道なのだと思う.

4年半前,控え室でなにもしないで
待っているのがつらくて,小説を読むようになった.
そのときに初めて村上春樹の作品を手にした.
「ノルウェイの森」もそのときに初めて読んだ.

「死は生の対極にあるのではなく,
我々の生のうちに潜んでいるのだ」


という言葉がひどく身にしみたことを
今でも良く覚えている.

2010年11月8日月曜日

人の不在の悲しみが心を侵食していく

全くの私事なのだけれど,父が先日亡くなった.
以前から体調はひどく悪かったのだけれど,
また手術が必要となって,その後の回復までの
体力がなかった.

結局忌引きを含めて10日間くらいお休みをいただいた.
関係各位には本当にご迷惑をおかけいたしました.

お陰様で,父の最期を看取ることができた.
眼前において人が息を引き取るところを見たのは
今回が初めてである.
人の最期というものは,本当に突然に,
そしてあっけなく訪れるのだということを,
思い知ることになった.

人の存在がこの世から無くなる瞬間は,
なにも特別なものではなかった.
ただそのときはどこからかやってきて,
その存在を引き連れてどこかに去ってしまうのだ.
本当に自然に.

そしてそれは毎日のいつのときでも
存在している瞬間なのだ.
こうしているときも,どこかで誰かが
この世を去っている.

もちろん私たちの心には記憶という「慣性」があって,
すくなくとも私がこの世に存在している間は,
父は,記憶の中に存在する情報として存在し続ける.
しかし,それも数十年のうちに風化していくのだろう.

しばらくは,それらの生々しい記憶のおかげで,
父の不在を実感することはできないだろう.
しかし,心の中に染みのような小さな黒い穴が
開いたのは確かで,
それが時間とともにじわじわと
広がっていくことを私は恐れている.
私の心も悲しみに侵食されていくのだろうか.