2011年1月31日月曜日

The Rite: エクソシストとの対話,島村奈津

最近,全く映画館に足を運ぶことができず,
専ら観るのは海外出張の飛行機の中,という
映画ファンにあるまじき生活を送っているけれど,
私はいまだに自分が映画ファンであると思っている.

そんな私が最近注目している映画が

"The Rite"

アメリカで現在公開している映画である.
監督は,ミカエル・ハフストローム(って読むのか?)
主演は,アンソニー・ホプキンス.

"rite"というのは,儀式.
この映画でいうのは,悪魔祓いの儀式であり,
アンソニー・ホプキンスは悪魔祓い師,
すなわちエクソシストの神父を演じている.
(ちなみに,ストラビンスキーの「春の祭典」は
"The rite of spring")

どうも事実をもとにした小説が原作とのことだが,
若い神父が,アンソニー・ホプキンス演じる神父に
ついて,エクソシストの儀式を学ぶとともに,
そこで体験する恐怖を描いた映画らしい.

「エクソシスト」というと,映画や小説の中だけの
話と勘違いされそうだけれど,
れっきとして,バチカンに認められているものだったりする.
現在は200名を越えるエクソシストがいるとか.
エクソシスト自体は,想像の話ではないのである.

そこでぜひ紹介したいのが,次の本.

「エクソシストとの対話」,島村奈津

21世紀国際ノンフィクション優秀賞受賞(1998)の傑作である.
決して,オカルトではなく,あくまでも
「ノンフィクション」である.
私は当時購入して,たいへん興味深く読んだ覚えがある.
今ももちろん手元に置いてあるが,
記憶が薄れ,内容の詳細はあいまいなところがある.
しかし,現代のエクソシズムを考えるにあたり,
参考になるところが多いのではないだろうか.

この本が書かれた当時は,「エクソシスト」はまだ
バチカンで公式に認められていなかったのではないだろうか.※注
しかし,聖人にも列席されようかというカンディド神父の
生涯をたずね,エクソシストとしての足跡を追ううちに,
「悪魔祓い」の意味について深く考えさせられる.

同書には,心理学者の見解もあわせて
インタビューとしてまとめられており,
それがまた興味深い.
「悪魔祓い」の儀式とは,それもまた
心理療法のひとつとしてあり得るような
話だったと思う.

イタリアにおいても,悪魔憑きとなるのは,
決して教育レベルが低い地方に多いのでもなく,
信仰が強い地方に多いのでもない.
本当に普通の人が,自分や家族を
「悪魔憑き」と考えるということ自体が
驚くべきことだとしている.
そうした場合,確かにエクソシストは
効果があるのかもしれないとも思う.

カンディド神父は,映画「エクソシスト」の
モデルになったひとりだといわれているのだけれど,
映画会社が公開前に,神父に映画を観てもらって
感想を求めたところ,
首が反対に回ったりするところなどの他は,
映画は良くできている,と言ったのだとか.

"The Rite"がどのような映画であるか,
非常に楽しみだけれど,
単なるホラー映画で終わらなければいいな,と思う.
エクソシズムの意味を考えて,
背中がゾクゾクするような.

「エクソシストとの対話」も力作なので,
ぜひ興味のある方には読んでいただきたい本なのである.
あくまでも「ノンフィクション」だけれども.

#島村奈津はスローフード運動を日本に紹介した人でもある.
私はこのことを知ったとき,ずいぶんと意外な感じがした.

※注: 1990年代にはすでに200名以上のエクソシストが
バチカンにいたらしい.ここに訂正しておく(2011.02.10)

2011年1月28日金曜日

鶏肋,鶏肋

生協で鶏肉を食べていて
(とり天ぶっかけうどん,なるもの)
ふと,「鶏肋,鶏肋」とつぶやきを思い出した.
なんの脈絡もなく,ふと思いついたのだけれど,
久しぶりにこの言葉について考えてみたので,
少し話を.

「鶏肋(けいろく)」というのは,
鶏のあばら骨(肋骨)のことで,この部位は
食べるに肉は少ないが,
味は良くて,ダシなどをとるのに
使用される.
転じて,「大して重要ではないけれど,
捨てるには惜しい」という意味で使われる.
(でも,使っている人を見たことがないけど)

これには,三国志のヒーローのひとり,
曹操のエピソードがあって,
たしか横山光輝版の「三国志」にも描かれていたと
思うのだけれど,詳細は忘れていたので,
少しウェブで調べてみた.

漢中に陣取った劉備を曹操が攻めあぐねていて,
あるとき,曹操は食べていた鶏の料理の肋骨をみて,
「鶏肋,鶏肋」とつぶやいていたのを
有能な部下のひとりである楊修が聞きつけ,
その後,撤退の準備をし始めた.
すなわち,楊修は,
「丞相(曹操)は漢中は捨てるには惜しけれど
それほど重要というわけでもない,
まるで鶏肋のようだと考えている.
よって撤退をだろう」と推測したらしい.

横山版三国志では,このあと
自分の本心を言い当てられた曹操が激怒して
楊修を殺したことになっている.
実際にも楊修は処刑されたらしいが,
その理由は不明らしい.

この話を聞いて思うのは,
才能も,適切に使わなければ
自分の身を滅ぼすということ.
鶏肋が原因だとは思わないが,
いずれにしろ曹操のもとで処刑されたのだから,
楊修にはなんらかの配慮が欠けていたのだろう.

そんなことをなぜかうどんを食べながら思った.
そして,まぁ自分にはそんな才もないから,
心配する必要もないか,とも思って
苦笑いしたのである.

2011年1月27日木曜日

スマートハウスへの遠く長き道

昨日は,パナソニックの方の
宅内エネルギーマネージメントシステムの
ご講演を聴く機会があった.

宅内エネルギーマネージメントシステムというのは,
HEMS(Home Energy Management System)のことである.
簡単にいうと家庭内の電力消費機器(つまり家電)を
IT技術を駆使することによって,
より効率的に電力を使おう,というシステムである.

たとえば人がいなかったらエアコンの出力を減らすとか,
電力を使いすぎる傾向があれば,
家のシステムが警告を出すとか,
アメリカだったら電力料金がリアルタイムで変わることが
あるので,料金が安いときに洗濯機を回すとか,
そんな便利で効率的な使い方ができるようになる.
(もちろん,自宅外から通信でON/OFF制御することも)

さらに太陽光発電や宅内に充電池,
あるいは電気自動車の充電設備などが導入されて
いたりすると,その制御法は複雑になっていく.
最も購入電力を少なくするにはどう制御したら良いのか?
こうした課題を解決していこうというのがHEMSであり,
日本でもあちらこちらで実証試験が
行われていたりする.

もちろん,これは,はやりのスマートグリッドの
一要素となるわけで,
HEMS(スマートハウス)がまとめた情報は,
上位の地域コミュニティのEMS(CEMS)に
挙げられ(スマートメータとか使って),
さらに上位のスマートグリッドの制御単位によって
熱なども含めた総合的なエネルギーマネージメントが
行われることになる.

スマートグリッドという言葉が話題になり始めた頃,
パワーエレクトロニクスの研究者,技術者は
「何をいまさら」という感想を持ったものが多い.
系統と宅内を結ぶ双方向の電力変換器をはじめとして,
高機能な分散電源(太陽光発電とか燃料電池とか)の
パワーコンディショナとか,蓄電池用の直流変換器とか,
そんな要素技術など,これまでさんざんに研究開発
されてきている.

では,なぜスマートハウスが実現できていないのか.
それは,私の思うに,機器間の通信システム,
EMSの制御アルゴリズム,電力会社との取り合い,などが
障害となっているからだと思う.
この中で技術的な問題は制御アルゴリズムくらいなもので,
結局は社会的な要素,通信の規格とか
電力会社との責任分担などの問題が大きいと思う.

一方,個々の要素である機器の問題は,ずばりコストくらいなものであり,
実現しようと思えば,お金はかかるが実現できるはずである.
コストもいつかは下がってくれるだろう.

結局,当面の問題は,共通規格をどうするかということだろう.
たとえば,家電機器間で通信を行う場合,
エアコンとテレビとIH調理器がそれぞれ違う手段,
規格(プロトコル)を持っていたならば,
HEMSは制御することが困難となる.

通信手段だって,無線か有線か.
無線だったら,ZigBeeか,Z-waveか,IEEE802の何なのか,
はたまた,Bluetoothなのか.
有線だったとしても,LANのブルーケーブルなのか,PLCなのか.
それだって,全然決まっていない.

今後それを,誰が,どうやって,いつ決めるのか?
国際的な委員会や,各国の規格委員会がいろいろと
議論しているようだけれど,各国,各メーカの思惑が
入り乱れて,たいへんな様相を呈しているようである.

しかし,世の中がスマートハウスを実現する方向で
進んでいくのは間違いない.
その流れに先行するタイミングで,
こうした規格は決められていかなければならない.
それが遅れては,市場は混乱し,ユーザは
乱立する独自規格に戸惑い,結局のところ
スマートハウスの実現が遠のいていく.

一体どのように決着がつくのであろうか.
ただ,これは研究者,技術者の手を離れた
問題となってきている.
データや理論で決まらないのだから,
これは本当に困る.

2011年1月26日水曜日

美しく清々しいブルックナー交響曲第5番

ブルックナーの交響曲といえば,
長大でメロディーが美しいとはあまりいえないから,
敬遠する人も多いのだけれど,
私は意外に好き,いやかなり好きなのである.
といっても,交響曲をすべて聴いたわけではなく,
聴いたことがあるのは3番以降なのだけれど.
(0番から2番は聴いたことがない)

最もポピュラーなのは4番なのだと思うけれど,
私は3,5,7,8,9番が好きである.
最も好きなのは9番で,何枚か(10枚くらい?)CDも
所有しているけれど,聴くのに覚悟がいる曲である.
最後の第3楽章で少し救いの光が見えるけれど,
それまではとてもとても厳しい音楽で,
聴き終わった後にぐったりとしてしまう.
(もちろん,素晴らしい余韻には浸れる)

8番は同様に心地よい疲労感が得られる
素晴らしい曲なのだけれど,ちょっと長い.
いや,ずいぶんと長い.
それがあの重大な音の厚みでやられるのだから,
聴いている時は楽しいのだけれど,
やっぱり疲れる.

7番が一番メロディーが美しい.
第1楽章,第2楽章の美しさは際立っている.
これを教会のような残響時間が長い会場で
聴いたならばどんなに素敵だろうと思う.
(CD録音では音のでディテイルが失われて
あまり良くはないと思うけれど)
第3楽章のスケルツオも耳に残る.
ショルティがどこかのインタビューで答えていたけれど,
7番の演奏会に出かけて,
この第3楽章のあまりの反復の多さに
辟易し居眠りをしてしまったらしい.
しかし,目が覚めたのに,また同じメロディーが
演奏されていて,たいへん呆れたとか.
確かに念を押しすぎのような構成である.
ただ7番は第4楽章が軽すぎる.
この楽章で,この交響曲の魅力は台無しになっていると
私は思っている.
もう少し,重大で華々しい終わり方であったならば...
そう思うと残念至極なのである.

で,3番.
3番は初期の交響曲だけれど,
改訂に改訂を重ねて,最終版の完成は
たぶん晩年のころではなかったかな.
第1楽章の深遠な雰囲気もいいけれど,
私はなんといっても第4楽章が好き.
あの加速感がたまらない.
世界が輝き始める気がする.

ということで,やっと今日の本題の
第5番交響曲.
昨晩,帰宅する際に車の中で聴いた.
クリストフ・フォン・ドボナーニ&クリーブランド管による録音.
第一楽章.
まるで目前にそびえ立つ高山のような
大きさを感じさせる.めまいがするくらいに.
そしてその峰には雪がつもっているような
清々しささえ感じる.
なんという高潔な音楽.

ドボナーニのこの録音は,
この曲の美点にぴったりの清々しい響きの演奏になっている.
彼の曲の途中途中でテンポを加速するのはいただけないが,
(せっかくの曲の安定感を損なっている)
その欠点を補って余りある美しさがこの演奏にはある.

第5番は所有しているCDの枚数は少なく,この他に
ヨッフム&アムステルダム・コンセルトヘボウ
ヴァント&ベルリン・フィル
の計3枚だろうか.
なかでもこのドボナーニの演奏は
重々しさを脱却した端正な美しさがある.
(その分,軽いという人もいるだろうけれど)
実は,この3枚の中でこのCDが一番手を伸ばす回数が少ない.
このCDを聴いたのは何年ぶりのことだろう.
少なくても関西に来てからは聴いた覚えがない.
この曲には今まで重厚さを求めてきたからだろう.

でも,昨日耳にして自分の不明を恥じた.
この清々しさはクセになる.
これから時々プレーヤーに乗る一枚になるのは間違いない.
私の耳も歳と共に変わってきているのだろうか.

2011年1月25日火曜日

Zoneに入るためには睡眠時間が重要だ

睡眠時間を6時間はとろうと決意したのに,
もう今日からダメそう...

老化のせいか,頭の働きが悪くなってきたので,
やっぱり睡眠時間はちゃんととろうかと思っていたのに...

集中力は体力である.
そう思うのだけれど,睡眠時間が充足しているか
どうかも大きく関係している.

体力があれば,無理矢理
意識をねじまげて仕事に集中することが
できるような気がするけれど,
"Zone"に入ることが少ないような気がする.

"Zone"に入るためには,無意識の状態が
大事なような気がする.
無意識というのは,ここでは潜在意識と
同様に考えていて,無意識は顕在意識から
影響を与えることはできるけれど,
基本的に制御が難しい.
それを暗示やら自己催眠やらで
誘導するわけなのだけれど,
無意識にストレスがかかっている状態では,
Zoneは遠い.
無意識こそリラックスさせることが大切なのである.
手っ取り早いのは,睡眠をたっぷりとることである.
身体に負担をかけないことが肝要だ.

ということで,睡眠時間をたっぷりとろう.
そして,頭脳のクロックをアップしよう.
そう思っていたのに...
今日はもう帰ろう.........

2011年1月24日月曜日

学会の歴史は夜つくられる,か?

先週の金曜日,土曜日は,神戸ユニティ(学園都市駅)で
開催された,電気学会半導体変換研究会(SPC)に参加.
パワーエレクトロニクス学会とも共催であるので,
受付などの裏方もしなければならなかったのだが,
担当していただいた神戸高専のM先生の周到な準備により,
私もほとんど研究会の方に参加することが出来た.
心より御礼申し上げます.

関西で一年に一回開催されるこのSPC研究会は,
神戸,大阪,京都と年ごとに開催場所が変わり,
昨年は京都の同志社大学,今年は神戸となっている.

このSPCは毎年参加者が多くて,
今年は50件を越える発表があった.
この分野が活況であることを示しているのかな...
内容も,回路や制御の基本的な研究から,
新しいモータやその制御,
電気自動車を見据えた充電回路や
非接触給電に関する研究,
そして新エネルギー,分散電源のための研究など,
時代を反映していてたいへん面白い.
またいろいろと考えることがあり,
次回に活かしたいと思う.

金曜日の夜には,懇親会が開かれた.
通常,こうした研究会のあとの懇親会は
立食パーティが多いのだけれど,
なんと今回は座敷で40名程度の参加者が
座布団に座っての鍋パーティだった.
これが好評で,片手にビール瓶を持って,
席から席へと渡り歩き,大いに
懇親を深めていただいたようである.
(ご提案していただいたM先生,
どうも有難うございました)

歴史は夜つくられる」というけれど,
学会や研究活動もこうした夜の活動によって
実はいくぶんかは進められているのでは
ないかと思う.
飲み会の席のホラ話がいつのまにか
次の研究のネタになっていたり,
学会の新しい活動になっていたりする.

最近の若い人は,こうした懇親会を敬遠する
傾向があるように見受けられるけれど,
このくらいの規模であるならば,
いろいろとじっくりとお話ができて,
得るものが大きいのではないかと思う.
特に学生は就職活動もちゃっかりしていたようだし.

昼の活動も夜の活動も大切なのである.
元電気学会会長の仁田先生は,
昼の活動は有効電力,
夜の活動は無効電力,
どちらも電力の安定供給には必要です,
と話されていたっけ.
たしかに,と思うのである.

2011年1月20日木曜日

完璧主義者は仕事を先延ばしする

完璧主義な人は,仕事を先延ばしにする.
そんな風に私は思う.

仕事を始めたら最後,
その完成度にこだわり,きっちりと
細部まで仕上げてしまう.
(神は細部に宿るのだ!)
自分がそれを行う,ということは,
その仕事に自分という刻印を押すことであり,
それは妥協を許さないことであるべきだと思っている.
そうした態度で仕事を成し遂げる.
それは完璧主義者なのだろう.

しかし,仕事は楽かといえば,
決してそうではない.
やはり適当に仕事をこなすより,
はるかに労力が大きくなる.
時間もそれなりにかかってしまう.
完璧主義者は,やはり疲労するのだ.
(好きな仕事ならば,そうではないかもしれないが,
そんな仕事は5%にも満たないのが世の常である)

そうなると,完璧主義者は
仕事を始める前に,すでに自分が費やす労力と
時間を大きさにゲンナリとし始めてしまう.
仕事に取りかかったら,彼のポリシーとして
全力を尽くさずにいられないから,
仕事を始めることをためらってしまうのである.
(だって,苦労するのは目に見えてるし)

その結果,仕事を先延ばしにしてしまう.
仕事に誠実だからこそ,優秀だからこそ,
仕事を始めることに腰が重くなり,
ついつい先延ばしにしてしまうのだ.
なんという悲劇.
真面目なばっかりに,仕事が進まず,
先延ばしにされた仕事は
ますます彼を憂鬱にさせる.
まさに負のスパイラルである.

私が完璧主義だというつもりはないが,
私も以前は同様の傾向があった.
しかし,いまではずいぶんといい加減になった.
(歳をとったからだろうか)
だから,その分,先延ばしの仕事は減ったように思う.

まずは仕事にとりかかる.
中途半端で,一旦中止しておいてもよい.
とにかく仕事にとりかかることが,
心のハードルを低くするのだ.
それには,中途半端な結果で中止していても良いと
考えるマインドの転換が必要だ.

一方,逆に,仕事を始めれば,たとえその仕事を
休止していても,頭は働き続けるものである.
そのトリガーを頭脳に与えることが重要なのだ.

仕事を一気に完璧にやり遂げる,という
欲求を抑えて,とりあえず仕事を始めるということ,
そうしたことを心がけ始めてから,
冒頭に書いたようなことはずいぶんと少なくなった,
(まぁ,今でも気が重い仕事は
先延ばしにしやすいのだけど)

案ずるより産むが易し.
完璧主義者が陥る「先延ばし」の罠から
遠ざかろう.
仕事に取りかかるための
心のハードルをとにかく低くしてみよう.

歳をとるということは,
ある意味,いいかげんになっていくということだけれど,
ちょっとは良い面もあるものだ.

2011年1月19日水曜日

自分にしかできない仕事はあるのか

この前,新潟に帰郷したとき,
ある若い女性が仕事を辞めた話を聞いた.

あるとき,会社の上司にコピーをとれと言われ,
その女性は,

「そのコピーは誰にでもできる仕事ですか」

と尋ねたらしい.

「私は私にしかできない仕事をやりたい」

と言ったという.
上司は当然,

「コピーなど誰にだってできる仕事だ.
つべこべ言わず早くとってこい」

と言ったらしいのだけれど,
それでその女性はカチンと来て
仕事を辞めたのだという.

「やれやれ」(村上春樹風)
私はこれは最近の「本当の自分探し」のブームの悪影響かと思う.
私がよくいう「自分の気持ち第一主義」の弊害である.
「ナンバーワンよりオンリーワン」などと喧伝されているが,
実際のところどうなのだろう.
オンリーワンとはどんなことを意味しているのだろうか.
そしてそれは,会社の現場でありうることなのだろうか.

そもそも「自分にしかできない仕事」は
そうそう簡単に見つかるのだろうか.
私の仕事だって,私が倒れれば,
来週には誰かが私の代わりに教壇に立って
講義をするだろうし,諸々の雑務も複数人に
分担されることだろう.
全然,私である必要がない.
(研究についてはそうでないと願いたいが)

もちろん,作家や芸術家は,
「自分にしかできない仕事」であろうけれど,
そうでない普通の,ほとんどの仕事は
「換えがきく」ものなのである.
それなのに,自分にしかできない仕事を
夢見ている.

もしもそうした仕事があるとしたならば,
職場で頑張って,その人にしかできない
仕事を自ら作り出すしかないだろう.
「見つける」のではなく,「作り出す」方が,
よっぽと実現の可能性がある.

しかし,それには自分にそれができるまで,
仕事を頑張らなければならない.
少なくとも,まずは与えられた仕事をこなせなければ.

もしかすると一生,自分にしかできない仕事は
見つけられない,あるいは作り出せないかもしれない.
それでも一生懸命やるのが仕事なのでは
ないだろうか.

自分の気持ち第一主義で,
自分が特別であると信じることも
時には必要ではあるかもしれないけれど,
現実にはそうでもないことに
早々に気づくべきである

「オンリーワン」で,「特別」な人に
なるためには,それ相応の代価を
支払わなければならないことを忘れている.
そしてそれは自分でなるものではなく,
他人が認めることなのだ.

2011年1月18日火曜日

体力の衰えとつきあう

体力の衰えを感じる.
最近,運動不足がたたっているためか,
脚力がめっきり落ちている.
階段でつまづきそうになる.

また,衰えが来ているのは脚だけではないらしい.
昨日,少し(といっても5~6本程度)突きの
練習をしただけで,今日は腕と背中が痛い.
なんとナマクラになってしまったことか.

昔のように,体力全開で運動するということは
もう考えられない.
翌日,動けなくなることだろう.
それが怖くて動けない...

これから,こうして歳をとり衰えていく自分の身体と
つきあっていくことになるのだろう.
自分で持っている分のリソースしか使えないのだ.
それは仕方がない.

しかし,その衰えを遅くすることはできるはずだ.
その点,武道を稽古していて良かったと思う.
真の武道は歳をとるにつれ
(正しい稽古を続けていれば)
技は熟練していくはずである.
体力もそれなりに維持できるはずである.
そうした武道を選んでいて良かったと
つくづく思う.

スポーツであれば,歳をとってから
行えるものは限られてくる.
バスケット,ラグビー,サッカーなんて,
とても歳をとってからできる気がしない.

武道だって,歳をとればできないって?
歳をとって技までも衰えていくのであれば,
それは武道とは言えないのではないだろうか.
筋肉のヨロイをつけて,その筋力によってのみ
技が成立していたのならば,それは
「武術」とはいえないのではないだろうか.

私は,本当に最低レベルの技量しかないけれど,
それでも希望をもって稽古を続けることができる.
そうした見本を身をもって示していただいている
先生方に心より感謝したいと思うのである.

2011年1月17日月曜日

CDの売り上げの落ち込みを知っていることが,大学入学に関係するのだろうか

センター試験が終わった.
受験された方,そして運営(準備,監督など)に関わった皆様,
ご苦労様でした.

さて,昨日,新聞に掲載されていた
「現代社会」の問題を見ていると,
出題者もたいへんだなぁ,とつくづく思う.

今年の問題のひとつに,
最近のCDのシングルやアルバムの売れ行きが
落ちている話題が取り上げられていて,
データを見ながら,適当でない記述を
4つのうちから1つ選ぶというものがあった.

いや,苦労しているなぁ.
現代社会ともなれば,時事の問題を取り込まなければ
ならないというプレッシャーがあり,
しかし,まだ論点が定まっていないようなことを
出題してはいけない,という束縛がある.

したがって,今回のように事実から
答えを導き出すような苦肉の策が取られるのだけれど,
いったいこの問題が解けたとして,
どんな学力が計られているというのだろうか.
表に示されたデータから,正しい事実を読み取る力は
もちろん試されているけれど,
CDの売り上げが落ちている問題について
知っているということが,「一般常識」として以外で,
大学に入学するために必要なのだろうか.
ちょっと疑問である...

同じく出題された著作権の問題については,
これからの社会でたいへん重要なことだから,
それは良いと思うのだけれど...

しかし,問題作成者の苦労も思いやられるのだけに,
「はぁ~」とため息をつきたくなる.
こうした問題を解かなければならない学生の
気持ちになっても,「はぁ~」である.

「現代社会」というのはそもそも,
どういったことを学ぶ目的の教科だったのか,
そこらへんから,もう一度調べてみたいと思う.

#企業への入社試験にはもってこいの
問題だと思うのだけれど

2011年1月13日木曜日

サービスされることが当然だと思っているマクドナルド世代

今の若い人たちを見て思うこと
第4弾です.

(4)サービスされることが当然だと思っている
マクドナルド世代

最近の学生に多く見られる傾向として,
先生が周りの環境を整えてくれるまで
動かない,ということが多くなっている.
自ら周りの諸事を調整して研究をしていこう,
という人が少ない気がする.

たとえば,研究でいうと回路のシミュレーション.
いろいろ自分で試して,失敗して解決していこう,
というのではなく,周りから,「こんな回路で」とか,
「こんな制御方法で」とか,指示されないと
自分で動かない.
自分は,与えられた条件を選択して,
ちょろちょろっと計算を走らせるだけ.
そんな人が増えている.

ある人は,こうした若者たちを
マクドナルド世代」と呼んでいる.
メニューを指し示されて,
「これはどうですか?これはどうですか?」と
尋ねられ,自分はその中から選択するだけ.

まさに,このマクドナルドのオーダの状況が
研究や仕事の現場でも起きているのである.
環境を整えるのは,教員や上司の役目.
自分は与えられた環境・条件の中で
言われたことをこなしていけばよい.
そう考えている(あるいは無意識で行っている)
人が多いように思える.

先日も,あるメーカの人とお話ししていて,
やっぱり同様の意見を伺った.
最近の新人は,「段取り」ができない,と
嘆いていらっしゃった.
上司が段取りをほとんど整えてあげないと
動けない.そんな人が増えているのだという.

もちろん,そんな人は現場では使い物にならない.
社会人に必要なのは段取り力・調整力なのだ.

それで大学に苦情がくるわけなのだけれど,
そんなこと言われても,大学も困っているのである.

確かに考えてみると,受験のための勉強は,
特に塾や予備校では,すべてメニューをそろっていて,
自分はそれを解くだけ,というパターンで
行われてきた.
それが彼らにとっては自然なのである.
(無意識にそれが当然だと思っているのかもしれない)

しかし,目覚めて欲しい.
そんな状況は特殊なのであり,
自分で道を切り拓いていかなければならないのが,
実社会なのである.

ガルシアへの手紙」という話を一読することをオススメする.
社会が必要とするのは,そこに登場するローワンのような
若者なのだ.すべてを自分で切り拓いて,
成功を手にするそうした若者が.



#私も反省しなければならないことが多いけれど...

シリーズ:「最近の若者たちは...」

(1) 将来に大きな希望を持っていない若者たち
(2) 最適解・最短距離を求める若者たち
(3)簡単にモノを捨て,簡単に伝統を断ち切る若者たち

2011年1月12日水曜日

プロフェッショナルたる矜持

私も武道を稽古している,といっても
もちろんそれで飯を食っているわけではなく,
あくまでもアマチュアである.

とても自分は,プロ,すなわち職業武道家になんて
なれそうもないと思う.

もちろん,私も下手の横好きではあるけれど,
ちょっとは長めに稽古をしているから,
私よりも稽古期間が短いプロの人もいる.
しかし,私はやっぱりその人には敵わないと
思うのである.


その決定的な差は心構えにあると思う.


職業武道家は,もちろんその技量が
卓越したものでなければならない.
この点で,私はもちろん未熟なこと甚だしい.
しかし,学び,稽古する厳しさが,
プロには必要となるのである.

私の先生は,たとえば剣の構える動作を
ひとつとっても,常人の何倍も稽古を行う.
私は,正眼に構える動作を稽古したとしても
たかだか1日に100回程度だろう.
(それだって,そのくらいするかどうかは
甚だ疑問だけれど)
しかし,私の先生は,1クールが500回とか
1000回のオーダで,何クールも
練習するのである.
図抜けた技量とは,そうした研鑽から
生まれるのだと心底敬服した思い出がある.
人を圧倒する実力をもつということは,
やっぱりたいへんなことなのだ.

もちろん,アマチュアの良さもあると
私は思っている.
まずは,技がまだ未熟であれば,
「まだ未熟です」と他の人に弁解が容易にきく.
これが人からお金をとって教えているのであれば,
そうは簡単に弁解できない.
こうした甘さがプロとアマの差となるのだけれど,
私はやっぱり無理して教えることはできないのだ.

次に,道場・教室経営を考えなくて済み,
自分の技の研鑽だけに集中できる.
(もちろん,他の人と一緒に学びあうことによって,
研鑽されるのだけれど)
会員数に悩む必要もないし,
地域への配慮もなくていい.
一番たいへんな「安全管理」の問題も軽い.

結局,アマチュアには逃げ道があり,
プロにはそれがない.
その背水の陣の心構えこそが,
プロとアマを峻別する分水嶺であり,
長年の技量の差となって現れてくるのだろうと思う.

もちろん,これは武道の話だけではない.
どの分野においてもプロフェッショナルになろうとするならば,
その心構えが必要なのだろう.
妥協を決して許さない背水の陣の心構え.
それこそが,プロたる矜持なのだと思う.

2011年1月7日金曜日

松田聖子,再発見

(昨日はQueenで,今日は松田聖子か,と
お思いの方も多いと思いますが)

松田聖子がいい.
やはり昔の動画を見てそう思った.
特にデビューからの2~3年の
松田聖子に強く惹かれる.

たとえば,「チェリーブラッサム」
定評有る歌唱力もそうなのだけれど,
高音の伸びがいい.
まだ余裕があって聞いていて
気持ちが良くなるのである.

残念ながら,その後,
歌いすぎのためか,この高音の伸びは
失われてしまうのだが...
もちろん,それを補ってあまりある
歌唱力はどんどん磨かれていくのだけれど,
この時期のこの声質は何にも代え難い.
だから私はデビュー後,2~3年までの
松田聖子に惹かれるのである.
(産休から復活した頃のアルバム「Supreme」では
また一時的に高音が復活するのだけど)

実のところ,当時私は松田聖子があまり
好きではなく,たぶんデビューは1980年だったと
思うけれど(私が中学入学した頃),
松田聖子よりは河合奈保子の方が好きだったし,
なによりも「ぶりッ子」というのが嫌いだったのだ.

しかし,一回目の引退前までの
松田聖子のシングル曲であれば,
8割方は口ずさめるのではないか.
嫌いと言いながら,自分がそこまで影響を
受けていたことに今更ながら驚く.

特に初期のアルバムの収録曲でも,
口ずさめる歌がなんと多いことか.
(たとえば,「SQUALL」とか「Sailing」とか,
「いちご畑でつかまえて」とか...
しかし,次々に出てくるな...(笑))
松田聖子に提供された歌には
名曲が多いとあらためて思う.
メロディーがはっきりしていて,
すぐに覚えて鼻歌で歌えるのである.
(とはいえ,それは40代のオジサンにとっての
名曲であって,今の若者には古いのだろうけど)

そして驚いたのが,意外にかわいいこと.
大人っぽくなった松田聖子の印象だけが
強いけれど,デビュー当時は,本当に初々しいし,
かわいくて,見ていて楽しくなる.
もう自分の子供にしたいくらい(笑).

とにかく,食わず嫌いであった自分の不明を
30年経った今,恥じるのである.
若い人にも見てもらって,ぜひ感想を
聞きたいものだと,オジサンは思ったのである.

2011年1月6日木曜日

Queen,フレディ・マーキュリーに鳥肌が立つ

先日,クイーンの1985年に行われた
Live Aidでのライブの動画を見る機会があった.
(学生の皆さんに,"Live Aid"と言っても
知っている人がほとんどいないが.悲しい...)

そこでは,フレディ・マーキュリーが圧倒的なオーラを
もって,会場をわしづかみにしていた.
”ボヘミアン・ラプソディー”から始まって
曲が”レディオ・ガガ”につながっていくころには,
会場は熱狂の渦に.
フレディが拳を挙げれば,それに応じて
観客も手を挙げる.
レディオ・ガガでは,あのプロモーションビデオ,
そのままの光景が再現されていた.

その後,"Crazy Little Thing Called Love"などが
歌われた後で,怒濤の"We Will Rock You",
"We Are The Champions"のメドレーへ.
観客が一緒に歌っている.
しかし,その中でもフレディの声が立ち上がってくるのだ.
あらためてフレディ・マーキュリーの力を
カリスマ性を実感するのである.

クイーンは良かったなぁ...
実はこのころ(私は高校生だった)は,
すでにクイーンの人気は下火になっていたけど.
今,このようなバンドはあまり耳にしない...

今年はクイーンの結成40周年なのだと
ラジオで言っていた.
今年はクイーンの曲を耳にすることが多いかもしれない.

#しかし,フレディのランニングシャツにジーンズのスタイル,
懐かしいなぁ.「ストップ!!ひばりくん!」を思い出すのは私だけ?
あと,「マカロニほうれん荘」も(笑)

2011年1月5日水曜日

今の時代にあう音楽:P. ヒンデミット,ピアノソナタ集,G. グールド

昨日の交礼会のあと,ある先生と
最近聴いている音楽は何か,という
話題になった.

私が最近はまっていたのは,

ヒンデミットのピアノソナタ集

グレン・グールドによる録音である.

昨年くらいから,私は,
ヒンデミット,ブゾーニ,レーガーなど
19世紀から20世紀にかけての作曲家に
強く惹かれる.
もちろん,ショスタコーヴィチやマーラーだって
その時代の人なのだけれど,
少し人気が外れた(笑)作曲家の
音楽を強く聴きたく思うのである.

ヒンデミットのピアノソナタは,
無調というべきなのか,いや
メロディーがひねくれて提示され,
それが解決されないまま,また次のフレーズに
つながっていく.
なんともすっきりせず,しかし
聴き続けてしまう,面白い音楽である.

それでも第3番の最後の楽章なんて
ちゃんとしたフーガだし(ちょっとズレているが...)
そこらへんは19世紀に生まれたという
時代背景をひきずっている.
シェーンベルクなどのウィーン楽派とは
また違うテイストだし.

このピアノソナタ集を聴いて,
ますますヒンデミットの他の曲も聴きたくなってきた.
今の時代にちょうどあっているような気がする.
(そう思うのは私だけ?)
聴いたことがないかたにはぜひオススメしたい曲なのである.

ちなみに,このグレン・グールドのレコードは
グラミー賞を受賞している.
ただし,演奏というよりも,レコードに添えられた
彼のヒンデミットに対する批評の文章に与えられたようだが.

2011年1月4日火曜日

時代が違うのだよ,時代が.

本日から出勤.
年始恒例の「交礼会」と呼ばれる
電気系職員が集まって新年の挨拶を交わす
会に参加する.

毎年,交礼会では,名誉教授の方々や
専攻長の挨拶があり,
本日のお話もたいへん面白かった.
(参考になるという意味で)

その中で,専攻長が

「私が電気系に入学した昭和50年頃は,
今思えば一番いい時代で...」

というお話をされていた.
確かにその時代は,「電気」や「通信」という言葉が
夢を持って語られ,理想を抱いて学生たちが
入学してきたのだろうと思う.

それから35年が過ぎ,電気や通信といった
工学分野は良い意味でも悪い意味でも
成熟してしまった...
それとともに,学生のみなさんも電気工学に
夢を見なくなってしまったように思う.
いや,電気工学だけではない,
工学分野全般に,そして科学技術に
夢を抱いていないのではないだろうか.

いつの頃からか電気工学の夢は
本当に小さくなってしまったのだろうか?

私はもちろんそんなことは無いと考える.
今だって,電気工学を通じて,
世界に貢献できる仕事は山のようにある.
いや電気工学こそ,この時代において(工学的に)
世界を変えることができる分野だと信じている.

しかし,今の時代,中高生のみなさんに
それをわかってもらうのは難しいことも
重々承知している.
鉄腕アトムも機動戦士ガンダムも
今,子供たちに科学技術の夢を十分に与えることは
できないだろうことも.

しかし,それでも私たちは
努力していかなければならない.
私たちにできることはまだまだあるはずである.
時代が変わったからといって,
不平不満をいうことは私は大嫌いなのである.

そんなことを考えていたら,
15年くらい前(?)のプロレスの状況を思い出した.
そのとき,プロレスの若手は,プロレスの
不人気を嘆き,行き詰まりを感じていた.
しかし,過去の黄金時代を築き上げた
アントニオ猪木などから,
頑張れ,おまえたちはふがいない,などの
檄は飛び続けていた.
そしてとうとう若手たちの不満は爆発した.

「猪木さんたちのころと今は違う.
あの頃ゴールデンタイムでプロレスが中継されていた.
人気も状況も,時代が変わったんです!」

当然,猪木は大激怒.
時代のせいにするな,と叫んでいた.
実は私もそのTV放送をみて,同じことを思っていた.
時代が悪いといって,何が変わるのだろうか.
時代は変わってしまったのだ.
それはもうとりかえしがつかない.
新しい時代に即した活動をしていかなければ
ならないのだ.

「時代が違うのだよ,時代が」
と私はTVに向かってつぶやいていた(と思う).

以前と同じ気持ちで,昔と同じことをやっていては,
悲惨な結果になることは目に見えている.
私たちは変わらなければならないのだ.
不平不満など言ったってなにも益はない.
与えられた環境に応じて
私たちのマインドを変えていくしかないのだ.
そして,もしも可能であれば
その環境を変えることも可能となるだろう...

「それはバブルだったから」とか,
「僕たちは,ゆとり世代だから」などという言い訳を
聞くと腹が立ってくる.
私たちが変わるしかないのだ.

そんなことを思いながら,専攻長の話を聞いていた.
学生たちに夢を与えることが大切だという.
私はどんな夢を学生のみなさんに
抱いてもらえるようにできるだろうか.
いや,私の夢はなんだろうか.
今年は新春からいろいろと考えることが多いのである.

2011年1月2日日曜日

アイビーで行こう

年末,研究室の学生と話していて
ずいぶんとがっかりしたことに,
私のファッション知識がひどく時代遅れだ,と
思い知らされたことがある.

私は現在,着ているものは,
ユニクロかトップバリューという,
ずいぶんと安価なブランドなのだけれど,
(いやいや,それで十分なのです)
それでも昔はファッション雑誌などを読んで,
いろいろとオシャレをしようと思っていたのだった.
(今はそうした面影は微塵も感じられないかもしれないけれど)

その頃,といっても私が高校生時代だろうか.
私が夢中になったのは「メンズクラブ」だった.
その頃は「ホットドッグプレス」や「メンズノンノ」などが
話題になっていたけれど,私はどうもあのような
着崩したスタイルが好きになれず,
参考にしたのはメンズクラブで紹介されている
アイビー,そしてアメリカントラディショナルである.

その「アイビー」なのだけれど,
私が年末,研究室の学生にその話をしたけれど,
全然知らないという.
オックスフォード地のボタンダウンシャツ,
そしてレジメンタルのタイにカーキのチノパン.
そういったファッションは今は廃れてしまったのだろうか?

いやいや,ブランドで言えば,
ブルックスブラザーズ,J-Press,VANなど
知っているメーカも数多いはず.
でも,現在の若者は「アイビー」という言葉を知らないのだ.

はぁ...(ため息)
メンズクラブの名物記事に「街アイ」というものがあった.
現在も掲載されているのか知らないけれど,
「街アイ」というのは,「街のアイビーリーガーズ」の略で
街行くオシャレな人を写真で撮って紹介する,という
連載である.
今もそうした特集があちらこちらの雑誌にあるけれど,
そうしたものの先駆けなのである.
(私も少しそこに載るのを夢見たことも会ったけれど...(笑))

アメリカのアイビーリーグと呼ばれる大学
(ハーバードとか,イエールとか,コロンビアとか,
8大学くらいあったかな)の学生たちが身につけていた
ファッションをアイビーと呼び,それが日本でも流行したのである.

1960年代にも流行したそうだけれど,
私が知っているのは1980年代の流行.
そのころはヘビーデューティーが流行っていて,
ダウンベストなどを着るのがファッションだった頃だった.

少しカジュアルだけれど,着崩さない.
今だって,アイビーにこだわっている人だって多くいる.
例えば,菅原文太.
彼はメンズクラブのモデルでもあったから,
今でもその着こなしはかっこいい.
小奇麗さがスマートである.
ああしたおじさんに私はなりたいのである.

ユニクロというのは,アイビーにはよく似合う.
廉価であるけれど,きっちりとしたファッションにも通用する.
おじさんはまだまだアイビーでいくのである.

私が可もなく不可もないファッションをしていても,
笑わないように.
精一杯のおしゃれなのかもしれないのだから.

2011年1月1日土曜日

明けましておめでとうございます

明けましておめでとうございます.
今年もブログに,いろいろと個人的な
考えを記事にしていく予定です.
もしも,このブログを読んでいただいている方が
いるならば,今年もよろしくお願いいたします.

今年はいろいろと考えることがあるのですが,
まぁ,それはオイオイと記事にしていきたいと思います.

それでも,大まかに言うと,

1.家族のことを大切にする
2.4月に仕事の転換期があるので,
それに応じて,自分の好きな通り仕事を進めるようにする
3.稽古に精進する
4.人にたくさん会う
5.いろいろなところに行く
6.沢山の本を読む
7.素敵な音楽に親しむ

その他,いろいろ考えています.

2.の仕事の進め方については,今年こそ20%ルールを
徹底することを考えています.

3.稽古は,身体のことではなくて,
そろそろ心のことを主眼として稽古したいものです.
人間は心が身体を支配しているということを
ますます実感できるようになってきました.
武道とは心を制御することにより勝ちを得るものだと
(不敗となることだと)少しずつわかってきたのです.
いつかこのことについても記事を書きたいと思います.

6.読書について.
昨年読んだ本は39冊だったようです.
これは「読書メーター」というサイトを使って自分の
読書記録をとっているからで,こうしたサイトを
利用することをどなたにもおすすめいたします.
昨年読んだ本の中にも,みなさんにオススメできるものを
ご紹介したいと思います.

今年はいろいろと変わるタイミングの年のようです.
今年もお付き合いいただければ有り難く...