2011年5月31日火曜日

芹沢銈介のうちわが欲しい

特に美術好きというわけではないけれど,
それでもいくらかの作品を観て,
美しいと思うことがある.

世の中には,絵画,陶器をはじめ,
多くの美術品があり,西洋,東洋に
さまざまなスタイルがあるけれど,
私は,「民芸」と呼ばれる分野が意外に好きである.

派手さはないけれど,実用の美がある.
もともとは無名の作者の作品で,
美術品としての用途など考えていなかっただろうけど,
道具としての使い勝手の良さが考えられた形,
そのうえで生活の中における余裕を感じさせる図柄や意匠.
意図せぬところに宿る美しさが好きなのである.
これは私が技術畑の人間なのだからかもしれない.

日本における民芸活動の作家のうち,
多くの人を,私は好きなのだけれど,
最近,心惹かれたのが,「芹沢銈介」の作品.
型絵染と呼ばれる独特の染色技法によって,
日本らしい美しさを,表現した染色家である.
(人間国宝にもなった)

彼の作品を見れば,その意匠の美しさがすぐにわかる.
華々しさはないけれど,心がほっとする暖かさがそこにある.
染め物だけでなく,絵本や本の装丁などの作品も美しい.
こうした美しさは,特に日本人に馴染み易いのではないかと思う.

また色使いがため息がでるほど美しい.
赤や緑を見てみても,どこにもけばけばしさがない.
どこか丸みを帯びた優しい色になっている.
そしてそれらがあやなす美しさは,
数学的なものから遠く離れたもののように思われる.
人の生活がそこに感じられる.
いつか自分でWebデザインをするならば,
彼の色使いを是非参考にしたいと思う.

今年の夏も暑そうである.
こうした色使いのものが身近にあれば
少しは涼しくなるだろうか.
そういうわけで,彼のデザインのうちわが欲しいのである.

2011年5月30日月曜日

「エクソシスト3」に思う.

「エクソシスト3」という映画はあまり話題にならないけれど,
私は,少なくともベスト10くらいには入る
ホラー映画ではないかと思っている.
私は学生時代にこの作品を観たのだけれど,
詳細はすっかり忘れてしまったが,
その後味の悪さが今でも心に残っている.

実は,このブログのタイトルも,
この映画に由来する.
もちろん,映画「素晴らしきかな,人生!」が元ネタだけど,
この「エクソシスト3」の中に,この映画のタイトルが,
皮肉として登場する.

内容は,「エクソシスト」で祓われた悪霊が,
別の人間に次々と移り変わり,
自分を祓った関係者を殺していくというもの.
「エクソシスト」で出てきたキンダーマン警部が,
殺人事件を追い,事の真相に迫る.
そして,悪魔と対決するという話である.

まったくスプラッタムービーではない.
ゾンビも出てこないし.
ただ心理的に非常に怖い.
殺人において,首を切断したあと,
意識がなくなるまでの時間,
首を立てて自分の胴体を見せるとか,
また別の殺人では,全身の血を抜いて
その血をコップに入れてテーブルの上に
並べたりするとか,
猟奇的な行為は本当に怖い.
観ているこちらが,その場面の裏を
想像してしまうから,さらに怖い.
一方で,画像は非常にアーティスティックで
悲惨な現場も一種美しく感じられるほどである.
だからこそ,強い印象を残す.

正直言うと,一度学生のときにビデオで観て以来,
この作品は観ていない.
なのに,どうして今日この話題か,というと,
この作品で悪魔は別の人に取り憑いて,
同じような犯行を繰り返す.
つまり,意識,記憶が別の身体に乗り変わるということである.

今日,ふと,私のこの身体と心も変わらないと思ったのである.

私の身体は,毎日の食物の摂取と排泄によって,
日々更新されている.
生物学的な話はよくわからないけれど,
人間の身体は数年もすれば,すっかりと新しいものに
置き換わっているのだ.
(以前,9年あれば,すべての細胞が入れ替わると
聞いたことがあるけど,真偽のほどはわからない)
しかし,この私の意識は連続性を保っており,
1年後の私も私である.
つまり,身体であるハードウェアは更新されているが
(バージョンアップだけとは限らないのがつらいが)
意識に相当するソフトウェアと記憶に相当するデータは
つぎつぎと新しい入れ物に移し替えられていくのである.
別の容器に移し変わるという点では,
「エクソシスト」の悪魔と同じである.

もちろん,意識は身体性なくては成立せず,
まったく別の身体に,あるいは同じ身体でも
時間的な連続性無しに移し替えることは
できないのだろうけれど,
こうした考えは,心が身体に宿るという宗教観に
親和性があり,人々に受け入れやすいと思われる.

一方で,一週間後の自分は他人だと思うようにして,
いろいろなメモや文章を残すようにしている.
わかっているつもりでも,一週間も経てば,
たとえキーワードをメモに残していたとしても,
全容を思い出すのは難しくなってしまう.
身体には連続性があっても,意識には欠落のような
不連続があるのだ.

意識が私なのか,身体が私なのか,
そしてどちらが連続して,どちらが不連続なのか,
なかなか単純にはいかない話なのである.
しかし,「エクソシスト」や「エクソシスト3」などを観ると
意識の転移が,映画だけの話にとどまらないことに気づく.
今日の「私」は,明日は別の入れ物に入っていると
考えても不思議ではないのかもしれない.

2011年5月26日木曜日

電力需給バランスが崩れるとなぜ周波数が変化するのか

本ブログのコメントに,

(電力)供給過多になるとなぜ、発電機の回転数が上がるのか

というご質問をいただいたので,
それについての回答を少し.
(すみません,コメントいただいていたのに
気づくのが遅れました)

発電機の回転数は,個々の発電ユニットで見れば,
発電機に入力される機械的入力と,
発電機から系統側に出力される電気的出力の
バランスによって決まります.

ここでいう「発電ユニット」とは,
電気機械である「発電機」と動力を発生する「原動機」とが
組み合わされたものを指すものとします.
たとえば,火力発電ユニットであれば,
タービンが原動機,同期発電機が発電機となり,
水力発電ユニットであれば,水車が原動機となります.

個々の発電機の回転数は,このタービンや水車から
発電機に伝えられる軸入力の大きさ(機械的入力)と
系統側に送られる電力(電気的出力)のバランスによって決まります.

すなわち,

(機械的入力)=(電気的出力)

の関係があるときは,回転数は変わりません.

もしも,電力供給過多の状況が生じたとします.
一基あたりに課せられる出力電力は,
相対的に小さくなります.
その結果,

(機械的入力) > (電気的出力)

ということになり,回転数は増加します.
すなわち系統全体では周波数が上昇します.

この状況はちょうど,自転車に乗っているときに
似ています.
平地を走っているときは,一定ペースで
ペダルをこぎ続けているときが,
入出力のバランスがとれている状態です.

次に,下り坂にさしかかったとします.
ペダルを漕ぐペースは速まりますよね.
これと同じです.
発電機の回転数が増加するわけです.

一方逆に,上り坂にきた状態が

(機械的入力) < (電気的出力)

の関係に相当します.
当然ペダルを漕ぐペースは遅くなります.
つまり,発電機の回転数は減少するわけです.

しかし,このように自転車で下り坂や上り坂に
さしかかった際には,私たちは当然
ペダルを漕ぐ力を増減して,ペースを調整します.
それと同じことを,原動機を制御して行おうとするわけです.
つまり,回転数が上がってきたら,原動機出力
(機械的入力)を下げ,逆に下がってきたら,
原動機出力を上げようとします.
この速度調整を行うものを調速機(ガバナ)と呼んでいます.
水車だったら,水量を調節し,
タービンだったら,蒸気量を調節する異なります.
ただし,この応答速度を超えるような電力需要の変化が
起こるようなことがあると,あるいは,その出力調整
範囲を超えるようなことなどがあると,
発電機の回転数が規定の50Hzや60Hzより,
ずれてしまうことになります.

実際には,発電機は系統に連系されており,
その系統の周波数に従って運転されています.
しかし,その系統の周波数ももとをたどれば,
複数の発電機が決めているのです.
系統全体でみても,結局,入力と出力の関係が成り立ち,
周波数はそのバランスで決定されることになります.

ということで,電力が供給過多になれば,
周波数は上昇し,不足すれば下降してしまい,
最終的には,そうした周波数に同期できない発電機から
解列される(系統から切り離される)ことになり,
停電につながる恐れがあるわけです.

実際のところ,もっと複雑な周波数制御が
行われていたり,ガバナ任せだけではない
出力調整が行われていたりしていますが,
だいたいの理由はこんな感じです.

電力会社の役割はこの電力需給のバランスを調整して,
周波数と電圧を調整することにあります.

2011年5月25日水曜日

正しい技は,何度行っても正しくなければならない

藤平光一先生が講習会の時にお話されていた逸話.
(藤平光一先生は,本当にお話が面白かったなぁ.
うろ覚えで書きますが...)

茶の道で有名な千利休が茶室を作っていたときのこと.
利休は,大工に対しすべてにおいてコマゴマと指示を出していた.
壁に花瓶をかけるための釘の位置についても,
「もう少し上だ」,やれ「もう少し右だ」,と指示が大変細かい.
ようやく「そこだ!」と位置を定めたのだという.

大工は少々腹を立てて,本当にわかっているのか,
利休を試そうと思ったらしい.
そこで,大工はわざと釘を落としてみた.
ただし,落とす前にこっそり,利休が指示した場所に
釘の先で印をつけておいた.

大工は,ゆっくり釘を拾い,また釘をさす位置をさがすふりをした.
わざと,印の付いた位置をよけて,ふらふらと
釘の先を定めないようにしていると,
利休は先程と同様,「もう少し上だ」,「もう少し左だ」と
細かく指示を出す.
そして,釘を落とす前に印をつけた位置に,
釘の先がきた瞬間,
「そこだ!」と利休は言ったのだという.

この話で藤平先生がおっしゃりたかったことはこうである.

正しい技というのは,何度行っても間違いがなく
そのとおりに行われるものである.
少しでも違っていては,それは正しくはない.
それは分かる人が見れば分かるものなのである.

ここで藤平先生がおっしゃるのは,技の形ではなく,
その技の理のことをおっしゃっていたのである.
そして,このことは,もちろん合氣道の技に限らない.
「正しい」ことは,何度行っても「正しい」のである.

こんなふうに藤平先生にうかがった話を思い出す.
私の毎日の生活の中に,その教えは活きていると信じたい.

2011年5月24日火曜日

ダイエットと英語

少し夏に向けて真面目にやろう,と思うこと,2つ.
ひとつは,ダイエット,もうひとつは,英語である.

ダイエットは,気をつけようとは思っているけれど,
これまで,なかなか本気になれなかった.
実は,岡田斗司夫氏提唱のダイエット法を
数年前に試し,ずいぶんと減量することが
できたのだけれど,以来いつしかストレスがたまるようになって,
甘いものに救いを求める日々が
続いてしまったために,またまたこんな身体になってしまった.

太って,運動不足になって,という負のスパイラルに陥ると,
なによりも集中力が落ちてしまう.
疲労がたまる.
そして仕事の能率が落ちる.
これが一番困る.
(もちろん,病気になるともっと困るのだけれど)

少し走り始めることも考えている.
と思ったら,先週土曜日に
ずっと履いてきたトレーニングシューズが
壊れてしまった(ソールがはげてしまった).
それで日曜日に,シューズを新調した.
ちょっと本気である(笑).
形から入る私にとって,まずはそうした準備が必要なのだ.
レコーディングダイエットとランニング.
これで,夏までに3~4kgは減量したい.

次は,ふたつめの目標の英語.
英語の方は,実は息子や娘たちのために
私が頑張ろうと思っているのである.
残念ながら私は英語が得意なわけではないのだけれど,
子供たちにはぜひ英語を頑張って欲しいと思っている.
そこで範を示すために,まず私がやるのである.

残念ながら,私は現在の日本の状況を見て,
将来を悲観しつつある.
今回の震災に対する反応を見ても,
それはますます強くなるばかりである.
もっとも嫌なのは,みんなで仲良く我慢していきましょう,
貧乏になっていきましょう,という空気である.
今までが贅沢すぎたのです.
これからは多くは求めない生活を送りましょう,
なんて言っているのが大嫌いなのである.
人間はどこまでも進むべきなのだ.
なぜ退行する必要がある?
問題があるならば,それを解決する
前向きの努力をしようと思わないのだろうか.

それでは,90年代,ゼロ年代は豊かだっただろうか?
そんなことは全然無いと思う.
そうした時代に育ってきた若い人たちを
本当にかわいそうに思う.
彼らは,このままシュリンクしていく日本の中で
一生を終えていくのだろうか.

アジアや南米などの国々がこれから栄えていく中で
日本は沈み行くのだろう.
それが嫌な人たちは,もっと世界に出て活躍するべきである.
日本人が才能が無いとは思わない.
ただ,英語が苦手な人が多いだけである.
語学こそが,世界に進出する日本人に対する
第一のハードルなのだと思う.

まずは英語である.
だからこそ,私は,私の子供たちには英語を
頑張ってもらいたいと思っている.
活躍したいと思えば,日本を飛び出して欲しい.
それでも日本にとどまりたいならば,それでもいい.
とにかく,世界に飛び出して行こうとする際に,
英語がネックにならないようにして欲しいと思うのだ.

私が英語を頑張っている姿を見せれば,
子供たちも興味をもってくれるかもしれない.
だからこそ,私はこれからも努力するのである.
単純に言えば,親バカなのだけれど.

夏に向けて,ここに目標を書いたわけだから,
有言実行あるのみである.
(不言実行というのは,私は嫌いだ)
まぁ,また経過をブログで報告することもあるでしょう.

2011年5月23日月曜日

カラヤンの指揮に人間の凄みを感じる

演奏が好きな音楽家は誰か,と聞かれると
本当に困ってしまうのだけれど,
単純に「好きな」音楽家と聞かれれば,
私はたぶんヘルベルト・フォン・カラヤンであろう.
ときどき好みは変わるので,断言はできないけれど,
ずっと上位3位以内に入っているような気がするから,
やっぱり好きなのだ.

カラヤンのどこが好きかと言われると,
説明が難しい.
音楽的には素晴らしい,と思う.
しかし,全面的に彼の音楽が好きかと言われると,
そうとも言えないのも事実.
彼のモーツァルトやマーラーの録音を聴いても
あまりいいとは思えないし,
晩年のベートーベンの交響曲の録音にも
あまり手が伸びない.
まぁ,R.シュトラウスやブラームス,
最晩年のブルックナーなどは大好きなのだけれど.

そんな私が,やっぱり彼のオーラを感じずに
いられなかったのが,彼の最晩年の映像となる
1987年のザルツブルク音楽祭のドキュメンタリー.
このときはワーグナーが演奏されて,
そのライブ録音のCDを私も持っているのだけれど,
そのときのカラヤンの指揮が本当に素晴らしい.
特に,ジェシー・ノーマンとの「トリスタンとイゾルデ 愛の死」
映像は彼の才能がやはり卓越したものだったのだろうと
思わずにはいられないものである.

単に映像を見ているだけなのに,
次第に彼の指揮から目が離せなくなる.
まるでこちらの心に直接働きかけてくるような指示.
彼の顔の表情や指の動きを追わずにはいられなくなる.

指揮ぶりに魅了されるといえば,カルロス・クライバーも
その一人だけれど,彼には天から与えられた才能が
ほとばしっているように感じられる.
(本当はそうではなかったという話もあるけれど)

しかし,カラヤンの指揮は,すべてを知り尽くしたような,
すべてが彼のコントロールのもとに進行していくような,
それでいて,不自然さを感じさせない,そんなひとつの
理想型があるように思われる.

このときすでにカラヤンは長時間立って
指揮をすることができなかったし,
昔のように目を閉じて指揮棒を持たないで
かっこつけて指揮することもなかった.
しかし,このおじいさん,そんなことをしなくても本当にかっこいい.
すべての音が,このおじいさんの指先から
発せられているような,そんな凄みがそこにある.
「魔法」と呼ぶほど軽くない.
もっと,もっと重く,深く,人生に根ざしたような力.
それを晩年のカラヤンは感じさせてくれる.

そう,つまり私がカラヤンを好きなのは,
どこまでも人間くさいからなのである.
そして,それでも,神に愛でられた人のみが行ける
ある境地まで到達しているからなのである.

指揮が終わったとき,彼は肩の力を抜いて
ほっと表情が柔らかくなる.
そこにたまらない魅力を感じるのである.
努力に努力を重ねた人間の最終形がそこにあるように.

2011年5月21日土曜日

藤平光一先生の思い出

私が稽古している合氣道の宗主である
藤平光一先生がお亡くなりになったとの
ニュースを聞く.
心よりご冥福をお祈りしたいと思います.

藤平光一先生にご指導をいただく機会は
そうそう多くなかったけれど,
それでも学生時代から少しばかり長く
稽古を続けているおかげで
何度も手を取り教えていただいた.
どれも素晴らしいご指導をいただいて,
良い思い出である.

ある講習会でのこと.
「三浦さん」と藤平先生に呼ばれて,
皆の前に出て一教の抑えについてご指導を受ける.
(すみません,このあと少し専門的になります)

一教の抑えというのは,
相手をうつ伏せにして片方の腕を伸ばし,
その腕の手首を極めて相手を動かなくするのが
最初に習う抑え(固め)の方法である.

しかし,その手首は実は極める必要はなく
(相手に痛みを与える必要はなく)
単に腕を上から両手で抑えるだけでも
相手を動かないようにすることができるのである.

そのかわりに少々の(どころではないけれど)
技術が必要となる.
まぁ,そこまでは理解できるのだけれど,
藤平先生にかけていただいた技は,
こちらが全く動けない,完璧なものだった.
いや,正確に言うと,
「動こうという氣が起きない」ので
動けないのである.

ここまで技というものは洗練されたものか,と
固められたまま,私は感動していたのだけれど,
そのうち藤平先生が,

「これで相手の氣を切ってしまえば...」

とおっしゃって,私の手のひらの上に
先生の親指だけをそっと置かれたのである.

つまり,私はうつ伏せで手のひらを上に向けた状態で
左腕を伸ばしていて,藤平先生はその手のひらの上に親指を
そっと置かれたのである.

当然私は動けるのかと思った...が,
それが全然動けない.
自分でも信じられなかったのだけれど,
藤平先生の親指一本で私は抑えられていたのである.

こんなことは,小説の世界でしかありえないと思っていた.
たとえ,誰かが私の目の前で
このような状態にされていたとしても,
私は信じることができなかっただろう.
けれど,他でもない,この私が抑えられたのである.
信じるしかなかった.
なんという合氣道の奥深さ.
涙が出るくらい感動した.

案の定,そのとき講習会に参加されていた
他の師範の先生方から,あとで
「どうなの?」といろいろ聞かれた.
私も興奮して説明して回ったのを覚えている.

あの体験がなければ,今の私の合氣道は
また違ったものになっていたと思う.
藤平先生にご指導を受けるたびに,
このような感動をいただいた.
先生の教えは私の体の中に埋め込まれ
いつか花開くことを待っていると信じている.

もうあのお優しいご指導を受けることができないかと思うと
本当に悲しい.

2011年5月19日木曜日

朝のピークに地下鉄を間引き運転するなんて!

今朝,ラジオを聞いていて驚いたのは,

「地下鉄間引き試算 10~20%節電ケース 大阪市交通局」

というニュース.
この試算では,朝のピーク時に間引き運転をすることを
想定していて,混雑率が通常140%程度であるところが,
170~200%になるのだという.

ちょっと意味がわからない.
万一,政府から要求があった場合を想定した,
ということなのだけれど,
電力が不足する昼間のピークならばまだしも,
全体の電力需要からみればそうでもない朝に
間引き運転をして,混雑によって通勤者を
いじめようというその意図がわからない.

いくらなんでも,政府もそんなおかしなことは要求しないと思う.
たぶん大阪市営地下鉄の電力を担当している人も
そんなこと考えていないだろうけれど,
まぁ,上の人から言われて,とりあえず計算したのだろう.
(記事にも,実際に間引き運転をするのは昼だろうと
関係者の話が載っているし)

いや,あらかじめこうした試算結果を示しておいて,
万一でも,地下鉄にそうした馬鹿な要求をするなよ,と
政府に対してあらかじめ予防線を張ったのかもしれない.

とにかく,昼間のピーク時にでもないのに,
10~20%の節電を行う必要は(おそらく)ないのである.

逆に,今年の夏の高校野球の開始時間を早めたのは
節電には効果があるだろう.
決勝戦などを午前中に行うことで,
昼間のピーク電力を低減するのは期待できる.
しかし,出場選手は本当に大変であろう.
たぶん,朝4時とか5時起きなのではないだろうか.
よほど前からそうした生活に慣れておかなければ,
連日の早起きで,体調を崩す選手が出てくるだろう.
かわいそうである...

今年の夏は,本当にどたばたした暑い夏になりそうである.
電力の安定供給こそ,この事態の処方箋だと思うのだけれど.

2011年5月18日水曜日

私の言葉遣いは,女っぽい?

昨日の「きつねそば」の話で思い出したのだけれど,
ついこの前も,私の話し方が気持ち悪いといわれた.
女っぽいとの理由らしい.
ずいぶん前にも,講義の感想のアンケートをとったら,
そのような意見があった.
これは大変困ったことである.

「女っぽい」といっても,別に私が「おねえ言葉」を
使っているわけではない.
私は,(たぶん)テレビで流れている「標準語」に
近い言葉使いをしていると思うのだけれど,
それが気にいらないらしい.

たとえば,
「そうなの?」
とか,
「そうじゃない?いいんじゃない」
みたいな言葉に特に反応する.
横浜弁みたいに「いいじゃん」なんていうと,
ぞっとするらしい.
やれやれ,である.

関西弁は確かにきついところもあって,
それに比べれば標準語は優しい感じがするけれど,
ここまで毎日テレビやラジオで耳にしているはずなのに,
そんな嫌悪感を持つ人がいるというのが不思議である.

逆に関西弁が嫌な関東人もいるのだろう.
私は別に気にしないのだけれど,
やっぱり初めて大阪に来たときに,
小さな子供まで,コテコテの大阪弁を話しているのを
聞いたときに,少なからず衝撃を受けたものである.
私にとってそれまで大阪弁は,
テレビのお笑い番組の中だけだったのだから.

遠い昔,東京に研修に来ていた大阪人が
トイレで,同じく九州から研修に来ていた人と
なにかトラブルがあって,
「アホ」みたいなことを言われたらしく,
九州人は起こって,大阪人を殴り殺したという
事件があったらしい.
関西弁だって,関東人からみれば,
(いや,九州人か)
そうした印象があるのだ.

一方,標準語に嫌悪感を示すのは,
関西だけではないらしい.
以前に住んでいた茨城県でも,
その隣りの栃木県でも,
私の言葉遣いが女々しくて
気持ち悪いと言われた.
茨城も栃木も,言葉がカタイ感じで,
確かにコワモテという印象である.

私は新潟市出身で,長岡市にも
住んでいたことがあるのだけれど,
新潟弁も長岡弁も残念ながら話すことができない.
それでも,東京に住んでいたときに,
友達と新潟のスキー場に出かけたことがあって,
そこのリフトのおじさんと話したのだけれど,
私以外の友達は誰もおじさんの話の内容を
理解できなかった.

そんな風に,少しならば聞いて理解することができるけれど,
それも一部だけに限られる.
私の母と祖母の話などは聞いていても
よくわからなかった.

全国的には,いくつも方言があって,
それはそれで構わないのだけれど,
(それは素晴らしいことだと思うのだけれど)
標準語に近い話し方をするだけで,
嫌われるのはたまらない.
もっと寛容になってもらいたいなぁ.

関西弁だって,広島や九州で話せば,
どのような印象になるのかはわからないのだし.



#もしかして,私の話し方が本当に
気持ち悪いという可能性もある.
気をつけよう...

2011年5月17日火曜日

きつねそば

昼食時,生協の食堂に行って,
「きつねそば」と注文して怪訝な顔をされた.
そういえば,大阪には「きつねそば」は
無いのだった.
大阪に来て6年が過ぎたが,まだ間違う.

関東で「きつねそば」といえば,
油揚入りのそばを言うが,
大阪では,それは「たぬきそば」である.

では,関東で「たぬきそば」といえば,
どうなるかというと,それは
天かす入りのそばを指す.

それでは,天かす入りのそばは
大阪ではなんと呼ばれているか.
これがよくわからない.
人によって,「天かす入り」といったり,
「ハイカラ」であったりする.
そして京都では「あんかけ」が出てきたりするらしい.
なんとも不可解なのである.

こうした違いを理解していないことが,
また「関東人だから」などと言われるもととなる.
全国的には,関東風の呼び名が多いと
思われるのだけど,
そんなことをいえば,なおさら馬鹿にされてしまう.
たかがそばの名前なのだけれど,なかなかに難しい.

2011年5月12日木曜日

Suffering is optional.

さすがに今週は,疲れがたまっていて
身体が悲鳴をあげているようだ.
今日は早く帰ることにしよう.

しかし,こうした苦痛もとらえ方次第.

「心頭滅却すれば火もまた涼し」

という言葉もあるけれど,
それは禅というひねくれた世界での話.

私が思い出すのは,
村上春樹の

「走ることについて語るときに
僕の語ること」(文春文庫)

の中に(とはいえ,「前書き」の中にだが)
紹介されていた言葉.

"Pain is inevitable. Suffering is optional."

これについては,村上春樹氏のコメントも
書かれているから私はあまり書かないけれど,
要は,世界は捉え方次第,ということかと思う.

脳内のマップの中で私たちは生きている.
マップの作り方は私たち次第なのである.
苦痛も疲労も,どう受け止めるかは,
私たちの心のあり方にかかっている.

ということで,今日は帰ろう(笑).

# 「走ることについて語るときに
僕の語ること」は,彼の敬愛する
R. カーヴァーの「愛について語るときに
我々の語ること」という作品をもじっているのだと
思うのだけど.

# 脳内の世界というと,最近公開された
"Sucker Punch"(邦題「エンジェル・ウォーズ」.
なんでこんなに題名になるのか不明だが)を
見てみたい気がする.
そういえば,「脳内ニューヨーク」も,
「マルコヴィッチの穴」も見ていない...

2011年5月11日水曜日

宴会はなぜ大皿料理なのか

昨日は,研究室に新しく加入した4年生の
歓迎会があり,梅田で飲んだ.

こうした飲み会,パーティー,コンパなどでは,
料理が大皿で出される.
まぁ,高級なところに行けば,
各自お膳がついたり,懐石だったりするだろうが,
私たちが通常酒を飲む場では,
大皿で料理が出たり,
あるいは,小皿で料理を頼んで,
各自取り分けて食べたりする.

実は,この大皿の料理をみなでシェアする,
ということが,こうした懇親を目的とした
飲み会の場合に,意味をもつのではないか,
と思った.

自分の箸をつかって料理をとる,ということは,
それなりの他人との接触(あからさまにいえば,
唾液の付着)を避けられない.
しかし,それを暗黙のうちに承知している,
ということが,そもそも「懇親」なのだ.

その最たるものが,「鍋」(あるいは「焼き肉」)である.
鍋に直か箸をするということになれば,
他人との接触は不可避である.
そんなことにこだわらず,鍋の中をつつく,
ということに,仲を深めるという意味があるのだ.

最近の学生には,そのように同じ鍋を
つつき合うことに嫌悪感をもつ人も
いるようだけれど(昨日,私の周りにはいなかったけれど),
ある程度の仲であれば,お互いにそれを許していく
必要があるのではないかと思うのである.

私は,こうしたことを大学時代の合氣道部において
学んだように思う.
そうしたことを教えていただいた先生には,
本当に感謝したいと思っている.

まぁ,言いたいことは,
酒の場で,ごちゃごちゃ細かいことはいわず,
楽しく飲め,ということなんだけど.
(とはいえ,最低限のマナーは守るべきで
それを破るとひどく先生に怒られたものである)

2011年5月10日火曜日

再生可能エネルギー導入のためのコストはどうなるのか

昨晩,車で帰宅する途中,
ラジオを聞いていると,
自然エネルギーに詳しいという専門家の人が
出演して話していた.

自然エネルギーがどれだけ不安定なものか
という話になるのかと思ったら,
あと10年で自然エネルギーを総発電量の
30%にすればよいなどと話しているのを聞いて,
ずっこけてしまった.
まぁ,NEDO並の目標ではあるけれど,
それで電力系統の安定が保てると
思っているのだろうか.
本当に自然エネルギーの専門家なのだろうか?

そもそも「自然エネルギー」と称しているのが不正確だ.
太陽,月,地熱の力を利用したものが
自然エネルギーだと言っていたけれど,
化石エネルギーだってもともとは太陽エネルギーである.
太陽や風力は再生可能エネルギーと呼ぶべきではないのか.

ドイツを引き合いに出していたけれど,
ドイツは原発を停止したためにどのような事態に
なっているのか,知らないわけではあるまい.
原発大国のフランスから電力を購入しているのである.
もちろん,それは電力が安いからである.
今後のエネルギーの確保のために,国民には
さらに新たな負担が加わるといわれている.

またその専門家は,10年で25%の
「無理のない」節電が可能だと言っていた.
また,最新の技術を用いれば
家庭の消費電力を1/4に減らせるとも.
それは技術的には可能かもしれない.
しかし,それにかかる費用は膨大なものになる.
それを誰が負担するのか?
経済がそれでシュリンクしていくことへの
責任を誰がとるのか?

浜岡原発の停止によって,
1日で中部電力の株価が大幅に(1400億円?)下落したけれど,
それで「いい気味」と思っている人には
そんなことは関係ないかもしれない.
しかし,経済への影響は不可避なのである.
もしも東電管内で電力料金が20%程度上がったら,
(16%位との報道があったが)
東電管内の経済がどのように変化するのか,
注目しておきたいと思う.

一方,本日の朝日新聞に掲載されていた,
早稲田大学の林 泰弘教授の意見は
至極妥当なもので,再生可能エネルギーの
大量導入によって,周波数と電圧の安定が
損なわれる可能性をちゃんと説明されていた.
将来のエネルギーの導入量は,
たとえスマートグリッドの技術が普及したとしても,
電力貯蔵装置(蓄電池)の量によって決定されるとも
説明されていて,ようやく普通のことを言う専門家の
意見が採り上げられていて,ほっとした.
林先生は,今後蓄電池に関する技術革新が起こると
予想されていたけれど,それについては不明である.
残念ながら,不確実なことを期待して
ぞれに依存した計画を立てることはできないのである.
(もちろん,それが起これば変更できる計画を
立てることは可能だ)
また,各家庭の電気自動車のバッテリを利用するアイデア
(これはV2Gと呼ばれている)も紹介されていたが,
そのためには,充電器を双方向電力変換器にしなければ
ならず,またその制御のためにインフラの整備が必要で,
それは研究開発を進めていかなければならない技術だけれど,
残念ながら,この5~10年では実現しないと思われる.
(10年後であっても,プラグインハイブリッド車でさえ,
導入量は20%程度だろう)

なんとか電力をやりくりしていくこと,
そして再生可能エネルギーを導入していくこと,
それは将来にとって不可欠なのだが,
拙速な導入は避けるべきだと思う.
ヨーロッパでも,フィードインタリフのために
電力料金が高くなっている.
再生可能エネルギー導入のためのインフラ整備に
要する費用も膨大である.
これらがすべて,税金か電気料金に加算されるかと思うと,
ため息が出てしまうのである.
こうした方針で,いつもしわ寄せがくるのは
社会的弱者なのである.

2011年5月7日土曜日

「奇跡」に見合うだけの「絶望」を:「魔法少女 まどか☆マギカ」

今日は休日なので(出勤したけど(涙)),
くだけた話題で.

私はすでに40歳を過ぎたオヤジだけれど,
アニメもたまに観ている.
(少し恥ずかしい...)

とはいえ,内容についていけない
(面白く感じない)番組が多いので,
続けて毎週観るというものは少ない.

私の趣味では,かなりビターな内容のものが
好みである.
ビターというのは,はっきり言ってしまえば,
欝な内容ということで,
中途半端なコメディや恋愛ものは全然ダメ.
単純に女の子の戦士が活躍するなどという
内容もすぐに飽きてしまう.
そしてハッピーエンドはダメなのである.

以前だったら,「ブギーポップ」とか,「Lain」とか...
(古くてごめんなさい)といったあたりで,
最近では,「鋼の錬金術師」がお気に入りだった.
これも大変な人気作品だったけれど,
内容はかなりビターだった.

錬金術というのは,等価交換が原則で,
人間を錬成しようとすると,それなりの代償を
払わなければならず,主人公とその弟は
死んだ自分の母親を錬成しようとしたために
腕や足,弟は体全部を失ってしまったという話である.
(そしてそれを取り戻すために「賢者の石」を探す)
途中,自分の子どもをキメラ化する錬金術師がいたり,
戦争の話があったりして,かなり救われない話だった.
でも毎週見ずにはいられない話でもあった.

そんな私が最近,「これは」と思ったのが,
「魔法少女 まどか☆マギカ」である.
主人公などの姿をみると,なにか「萌え系」(古い!)の
アニメのようだけれど,内容はかなりビターだった.

魔法少女のお話の世界に「等価交換」の法則を
持ち込んだらどうなるか,という,
これまでの常識を破る設定で,
少女たちがひとつだけ願いを叶えてもらえる代わりに,
魔法少女になって世の中に災いをもたらす「魔女」と
戦う契約をする,という話である.

ネタバレで申し訳ないが,主人公まどかは
全12話の最終話でようやく魔法少女となる契約をするのである.
では,初回からそれまでまどかは何をしているか?
主人公は,魔法少女になるのをためらっているのである.
また,叶えてもらう願いを探しているのである.

最初は単なる魔法少女への憧れだけだったものが,
「願いを叶える」ということが,「等価交換」が成り立つ
この世界でどのような意味を持つことになるかを
かなりハードな経験を通して理解していくのである.
すなわち,この世界で「奇跡」とよばれるような
常識を無視したような願いが叶えられるということは,
それに見合うだけの「絶望」が契約者を襲うという
設定なのである.
そして実は,その絶望が極まったとき,魔法少女は
「魔女」となって,世界を呪い,災いをもたらすものと
なるという,皮肉な結末が用意されているのだ.
(そして,新しい魔法少女*1に倒される運命)
これをまどかは理解してなお,魔法少女の契約をする.
そのプロセスが,11話をかけて描かれるのである.
(これだけでも,どれだけ画期的な話かわかるなぁ)

これまで,「魔法少女」といえば,
都合が良い魔法を使えるのが当たり前の設定だった.
そこに,「等価交換」の法則を持ち込んだのが
この作品の斬新さなのである.
そして,その結果,かなり凄絶な話となった...

最終話を見終わったときも,
最後に,登場人物たちは救われたのかどうなのか,
私にはよく判断できない.
たぶん,ハッピーエンドではないような気がする.
こんなふうに終わるのがよかったのかどうかも
わからない.
そんな結末だった.

---(ここから先は少し話が変わって...)

この作品のキモは「等価交換」であると思う.
その背景には,人生は「幸・不幸が同量である」という
考え方があるのではないかと思う.
つまり,この人生,良いこともあれば悪いこともあり,
収支はトントンになるのだという考え方である.

私は,この「人生幸・不幸同量」の法則は
現実には成り立っていないと思う.

ずっと幸せな人生を送る人もいるし,
不幸な出来事だけで人生を終える人もいる.
(今回の震災をみても,また小さい頃に
亡くなる人を考えてもそれは明らかだ)

だから,現世で報われない人たちを救うために,
輪廻転生やカルマという考え方で
宗教が発展してきたのだ.

実際,現世しか考えない儒教が普及していた
中国では,現世における人生を良くするために,
賄賂など使うのもやむなしという考えが根強いという.
この現世で報われなければ,その先はないのだから.

人生で起こる事象には,
もともとプラスもマイナスもないはずである.
人がその事象をどのように捉えるか,ということが
あるだけなのだろうと思う.
もちろん「自然」がそうであるだけであって,
私たちはそれに納得はなかなかできないことであるけれど.

もしかすると,良いこと(プラス)と悪いこと(マイナス)が
起こる確率は正規分布になっていて,
その中心値はゼロになるのかもしれない.
しかし,プラス側に寄っている人もいるだろうし,
マイナス側に寄っている人もいるのだろう.
それが,人生の運の良さ・悪さということになる.

しかし,私たちの考え方ひとつで,
そうした世の中でも明るく生きて行く努力はできる
逆にいうと,それだけしかできないのだ.

---(ここから先はまた話がもどって...)

「まどか」は,私にあらためて
「等価交換」について考えさせてくれた.
しかし,現実には「等価交換」は成り立っていない.
たとえば,努力は必ずしも報われるとは限らない.
「希望」が「絶望」を生むとも限らない.
それでも人生はビターであることを
「まどか」は思い出させてくれた.

「魔法少女」というファンタジーな世界に,
「等価交換」の設定を持ち込んだのは,
はっきりいって,反則である.
しかし,これが「ガンダム」や「エヴァ」と同じように,
歴史的に語られる作品になったことは間違いない.

主人公の萌え系な姿を見て,
作品を見るのを敬遠するのはもったいない.
そんな40を過ぎたオヤジが推薦できる作品なのである.

#デザインといえば,魔女のデザインが秀逸.


*1 「魔女」と書いてあったのを「魔法少女」に直しました(June 21, 2011)

2011年5月6日金曜日

新しい椅子

研究室の引っ越しが済んで約10日.
場所が変わった以外,
ほとんど何も変わらない生活が続いているのだけど,
(心機一転と思っていたのに!)
変わったといえば,椅子を新調した.

これまで,アームレスト付の
リクライニング機能があるオフィス用の椅子を
使ってきたのだけれど,
今回新調したのはイトーキのスピーナ.
外見をみればわかるように,少しゴツい.
というか,未来的なデザインである.
(背中はエラストマーという樹脂製で,
クロスでないのがまたいい)

そのデザインも魅力的なのだけれど,
なによりも腰のサポートが稼働して,
姿勢を直立姿勢に近く保ってくれるという
機構に惹かれた.
私は,この腰への負担ということに
少し敏感なのである.

私が稽古している武道では,
姿勢(と心の状態)が重要視される.
姿勢といっても,見るからに背筋がピンと
張った仰々しいものではなく,
なんのことはない,肩肘張らない
普通の楽な格好をすることが求められる.
(だから,他のスタイルの合気道の演武で,
背筋を必要以上に伸ばして姿勢を固くしているのを
見ると違和感を覚える)

背骨の形状でいうと,通常の直立姿勢,
すなわち背骨がS字のゆるいカーブを
保った姿勢が良い.
これを座った姿勢で実現すれば,
それは正座となるわけで,
仙骨が立った状態が,身体に最も
負担の少ないものとなる.

これを無理に背骨を伸ばしたり,
腰骨を前に押し出すような姿勢をしたりすると,
腰に負担が来て,身体を壊す結果となる.
内蔵もずいぶんと負担を受ける.

そこで立っているときや,正座をしているときは,
その姿勢を保つようにしているのだけれど,
椅子に座っているときには,それが難しい.
なので,これまでの椅子に座っていると,
だんだん腰がつらくなってきて,
結局椅子の上にあぐらをかいて,
仙骨を立てるようにしていたのである.
ちょっと恥ずかしい格好だけれど,
腰がずいぶんとラクになるので,
ときどきあぐらをかいていた.
それがこのスピーナになれば
あぐらをかかなくて済むのではないか
と思ったのである.

座り始めてみると,確かに腰骨への
サポートがある.
椅子に座るとその重みで,サポートが
せり出してきて,腰を支えてくれるのである.

個人的には,もう少し強めに
押し出してくれる方が好きなのだけれど,
何事もやり過ぎは,長時間の継続に
耐えることができないので,
このくらいがちょうど良いのだろう.

アームレストの高さは調整できるのだけれど,
レストの角度も「ハ」の字に変えることができて,
これがまたPC作業が多い私にはうれしい.

椅子の良さは,長時間座って
やっとわかってくることが多いから,
まだまだファーストインプレッションの域をでないけれど,
とりあえずは十分満足している.

これで少しでも作業能率が上がると
うれしいのだけれど...
(それは,私の心がけ次第?)

2011年5月2日月曜日

再生可能エネルギーが主力になるのは難しい

今日は,「いちょう祭」ということで,
大学の研究室が公開され,学部1年生や,
一般の方々が研究室を見学に訪れた.

私も少しだけ見学者の相手をして,
なるべくわかりやすく説明したつもりなのだけれど,
パワーエレクトロニクスがどのように社会に
役立っているか,わかってもらえたか不安...
こういう機会こそ,なんとか科学技術を
身近なものに感じて欲しいのだけれど...

研究室は,パワーエレクトロニクス技術の
主に電力応用を研究しているので,
やはり現在,深刻な状況になっている
電力について質問が出た.
(答えられるだけ,頑張って答えてみましたが)

研究室のテーマは,太陽光発電や
風力発電,そしてガスエンジンコジェネなどの
分散電源の高効率化・高機能化であって,
マイクログリッドやスマートグリッドへの応用を研究しているので,
原発に反対か,と思われるのだけれど,
私は原発に反対でも賛成でもない.
もしも経済的に成り立つのであれば,
(すべてを含めて)
原発も選択肢のうちのひとつであると思う.
(すくなくともイニシャルコストは低い)

ただ,正直なところ,日本ではこの先
原発の建設は難しいだろうと思うので,
その解はないのだろうと思う.
しかし,その代わりの解決策が本当に見つからない.

個人的には,二酸化炭素排出を削減するという
京都議定書,そして鳩山元首相が宣言した
25%削減という目標を破棄して
(議長国だったのにかっこわるいけれど)
この10年くらいは火力発電にシフトしていくしかないと思う.
脱原発を目指すのであれば,これから20~30年とかの
スパンで考えて,新たな代替発電を開発していくのだろう.

一方で,太陽光発電や風力発電が,
主力の発電手段になるという主張には懐疑的である.
少なくともこの5年~10年くらいには難しいのでは
ないかと考えている.

もちろん,こうした再生可能エネルギーの利用は
今後も進めていかなければならないし,
私もそれが少しでも効率よく発電できるよう,
研究を進めていきたいと思っている.
そして,将来,ある割合を再生可能エネルギーが
発電電力に占めるようになるのは間違いない.
ただそれが近い将来,主力となるかというと,
それは難しいと思っているのだ.

何度も書いているように
再生可能エネルギーには本質的な問題がある.
そのうちのひとつは,出力が天候によって大きく
変動してしまうこと.
そして,またひとつは,エネルギー密度が低いこと,
である.
(他にも問題は多々あるけれど)

たとえば,太陽光は空が曇ればほとんど発電しないから,
梅雨が来れば一週間も発電電力無しの状況が続く.
ネットを見ていると電力を使わなければいい,
という人も多いようだから,
その方々は停電してもよいかもしれないが,
病院や学校,公共施設など,人の安全,健康に
関わる電力がそれでは困るのである.
したがって,バッテリのような電力を貯蔵する装置が
必要となるのだけれど,1週間分の電力をあらかじめ
貯蔵するようなバッテリは現状大変高価なのである.
現在の10倍くらいのエネルギー密度をもつ
画期的なバッテリが開発され,この5年のうちに
それが安価に市場に出回るようになれば,
状況も変わるかもしれないが,
そんなことを期待して,将来の計画を立てるわけには
いかないと思う.

また,短時間の発電出力の変動も電力系統の安定性に
非常に悪影響を与えるため,
これも電力貯蔵装置によって補償しなければならない.
繰り返すけれど,再生可能エネルギー発電には,
電力貯蔵装置(あるいはそれに代わる
高速な応答をもつ発電方法)とセットであることが
不可欠なのである.

これらの問題は,学会においては
ずいぶん前から議論されており,
この分野に携わる人は,
たぶん誰もが認識していることなのである.
これらが解決されない限り,
大量の再生可能エネルギーの導入は難しいのだ.

また,本質的に太陽光も風力もエネルギー密度が低いため
非常に大きなスペースが必要となることが問題になる.

風力については,日本には適地が少なく環境破壊の観点から,
今後は洋上発電が検討されると思うけれど,
それだって,大変大きな面積が必要となる.
現在,2~3MWクラスの風力発電機が最もコストエフェクティブだと
言われているけれど(ECCE2010でもそのような議論があった),
原発1基分の電力100万kW(=1000MW)と同じ発電容量に
するだけでも300~500基必要なのである.
(実際は稼働率を考えると,さらに何倍も必要となる)
3MWクラスの風車のロータ直径はおよそ90mである.
ジャンボジェット機(B747-400)の全幅が64m,
全長は70m程度だから,B747よりも大きいブレードが
ぐるぐると回っているという,巨大なものだから,
それが300基も回っていたらどのようなことになるか
容易に想像がつく.
(設備容量国内最大の新出雲風力発電所では,
3MWの風車が26基設置されているが,
人里はなれた場所に,間隔を十分にとっている)
環境に大きな影響を与えることは間違いなく,
浮体式であっても,漁業権の問題が大きな障壁となるだろう.
(環境省などは日本にはまだポテンシャルがある,といっているけれど,
実際に住民が納得する土地がどれだけあるだろうか.
もしもそうした問題が解決できて,
本当に経済的に成り立つのであれば,風力発電会社に
紹介してあげればよいのに,と思う.
国がいうように,補助金を出すシナリオに沿えば,それなりの導入が
見込めるのだろうか?)

風力はスケールメリットがある発電方法である.
すなわち,大型になればなるほどコストエフェクティブになる.
(もちろん,ある大きさ以上のロータは逆にコスト高になる.
だから2~3MWあたりが良いといわれているのだが)
一方,逆に小型の風車発電機を沢山設置しても
コストばかりかかってしまう.
さらに都市部の小型風車発電機の稼働率は大変に低いのは,
これまで街に設置された風車発電機の状況を見れば,
すぐにわかることだろう.
小型風車はなかなか経済的には成り立たないのだ.

なかなか風力は日本のような狭い国土では難しい.

太陽光ももともとエネルギー密度が低い.
太陽から得られるエネルギー密度は一般に
日中で1kW/m^2と言われる.
現在,太陽パネルの市販品で効率は15~20%程度だから,
150W~200W/m^2が得られる計算になる.
(Siの性能限界は30%程度と言われている.
新しい量子ドットと呼ばれるものは60%程度が
理想的には望めるようだが,現状16%程度らしい)
しかし,もしも理想的に100%の効率が得られたとしても
100万kWの発電容量を確保するためには,
100万m^2の面積が必要である.
1000m x 1000mということになる.
(もちろん,日照量が変わることを考えると,
さらに何倍も面積が必要となる)
膨大な面積が必要となるのだ.
日本にはそうした広大な土地が少ない.
ただ,住宅や公共施設,工場の屋根を使用できるとすれば,
ある程度の電力量は稼げるはずである.
それに期待しているわけである.
(しかし,電力系統に与える影響の問題は
依然残っているわけだが)

結局のところ,太陽光と風力というのは,
出力が変動するため,主力になるのは難しく,
大きな発電量を稼ぐためには
大きなスペースを必要とするので,
なかなか日本で適地を探すのは大変で,
大量導入にはまだまだ障壁が大きいのである.
近い将来に電力の主力になるのは難しいと思わざるを得ない.

これから20~30年は,脱原発とはいうものの,
再生可能エネルギーはあくまでも補助なのではないか,
というのが私の考えである.
(もちろん,研究には鋭意努力いたします)
ただ火力に頼るというのも,なかなか悲しい選択である.
なんとか良い発電方法があればよいのだけれど...

#マイクロ水力もなかなかコスト的に
収支が合わないという報告が多い.
もちろん,ラオスなどの非電化地域などでは
大活躍しているとの学会報告もあるのだけれど.

#最後に面白いツィッターまとめをご紹介.
よくまとめられていると思います.


keigomi29さんの(普通の)科学者と(三流)ジャーナリストの違いに関するツイートのまとめ。