2011年6月16日木曜日

この夏,祇園囃子が仙台に流れるという話

先に参加したパワーエレクトロニクス学会の帰りに,
四条烏丸で途中下車した.
自宅へのおみやげを買うためだったのだけれど,
街を歩いていると,心地よいお囃子が聞こえてきた.
音楽の聞こえる方に近づいていくと,
ある家屋の2階の窓が開け放たれていて,
そこで浴衣(?)を着ている方々がお囃子の練習を
している光景が見えた.
たぶん建物の看板には「月鉾保存会」と書いてあったと思う.
祇園祭にむけて,練習をされているのだ.
私はしばらく,その音に耳を傾け,ぼうっとしていた.

お囃子の稽古が行われている建物は
木造2階建てではあったけれど,
その周囲の街は,京都といっても烏丸だから,
鉄骨のビルが建ち並んでいる.
しかし,そうした街の中で聞いても
そのお囃子には,まったく違和感がなかった.
京都という街の力なのか.

でも私は,どこでそのお囃子を耳にしても,
親近感を持ったのではないかと思う.
私たちが生きているこの日本に,
暗黙のうちに存在する文化の流れ.
その流れに私たちは知らず知らずのうちに影響され,
日本人としての文化的背景を持つことになる.
そうした人であれば誰でも,
お囃子の音色が身体に優しく感じられるのではないだろうか.

自分がそうした文化背景をもつとは,
日頃思いもしないけれど,
今回たまたま耳にすることになった祇園祭のお囃子は,
思いもよらず,自分が日本人であることを再認識させてくれた.
そんなに素敵な旋律があるというわけではない音楽なのだけれど,
なぜかほっとするのだなぁ.
西洋音楽とは異なる優しさがそこにある.

今年の夏,祇園囃子が特別に
仙台の七夕祭りで披露されるとのニュースがあった.
もともと祇園祭の始まりは,平安時代に東北で起きた地震も
契機になっているという話もあるらしい.

私が短時間でもお囃子で素敵な時間を過ごせたのと同じように,
東北の方々も少しでも楽しい時間が過ごせますように.

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