2011年7月28日木曜日

格闘漫画「修羅の門」がいい

今日は疲れたので,元気の出る話題を.

連載が13年ぶりに再会した「修羅の門」
いいなぁ.こういうシンプルな格闘漫画.
こういう漫画を読むと,稽古に励もうという気になる.

私はずいぶん昔に「世界最強」の夢をあきらめたけれど
(というか,男は誰でもそれを目指すのでは...)
漫画の世界ではそれが正々堂々と追求できる.
そして,それがきれいごとで済む.
これが素晴らしい.

武道の世界というのは,私も少ししか知らないけれど,
ドロドロとした部分がかなりある.
そもそも人を倒す(殺す)技ばかり考えている人が
性格が素晴らしいなんてことは,
めったに無いのではないか.

しかし,そんなことには関係なく,主人公が
強さを追求するその純粋さがうれしいのだよなぁ.

漫画はいい.
こうして夢を与えてくれるから.
努力しようという気力を与えてくれる.
たとえ私のようなロートルに対しても.

2011年7月27日水曜日

地熱発電普及の問題は


大震災以来,原子力の代替エネルギーの議論が
活発に進められているが,地熱発電に期待する意見も多い.
しかし,現在の地熱発電の総設備容量は53.5万kW程度と,
2000万kWを越える推定資源量に対して,たいへん小さい.

私も地熱発電には詳しくないのだけれど,
その普及が進んでいないということは,
なにか障害があるということなのだ.

今月の雑誌「OHM(オーム)7月号」(オーム社)の特集は
なんと「地熱発電」である.
「地熱発電Q&A20」という記事で,基本的な疑問が
部外者である私たちにもたいへんわかりやすく説明されている.

詳細は記事を読んでいただくことにして,
地熱発電の普及を妨げている障害
次の3つであることが述べられている.

1) コスト
2) 国立公園
3) 温泉

(このほか建設までに長い期間を要することも
問題としてあげられているが)

第1に,コスト問題であるが,地熱発電の場合,
その5割が掘削コストによって占められるのだという.
まず掘削してみなければ分からない部分もある.
掘削してみて「はずれ」ということだってあり得る.
地下データの少ない地域では5割近くの失敗井が
生じてしまっているとのことである.
そのたびに数億円の損失が生じるのである.

また,地熱資源がうまく発見できたとしても,
蒸気を取り出す井戸や,水を還元する井戸は,
通り道が詰まってしまうので,2~3年ごとに
1本程度井戸を掘り直す必要があり,そのコストも
必要である.

とはいえ,一度資源を手に入れて,
うまく運用さえすれば,燃料費は不要なので
ランニングコストは低く抑えられ(追加掘削費),
結局発電コストは13~16円/kWhとなるのだという.
(資源エネルギー庁の1993~2004年の平均値のデータであると
記事には紹介されている)
太陽光発電のコストが50円/kWh以上であることに比べ,
十分に低い
しかし,それでも他の火力,原子力に対しては
コストが倍以上も高く,現在の電気料金では
採算がとれず,たとえ固定価格買取り制度が採用されたとしても
20円/kWhの買取り価格設定でも,採算がとれる発電所は
少ないだろうとしている.


第2に国立公園問題.
1972年の旧通産省と旧環境庁との覚書により
国立公園内には地熱発電所を新規に建設しないことになっており,
これによって,地熱資源量の8割以上が使えない,とのことである.

第3に温泉問題.
温泉資源の枯渇の恐れより,地元に反対運動が起こり,
建設が進まないとのことである.
実際には,うまく運用すれば温泉資源の枯渇は免れるとのことだが,
地元の反発が大きければ,やはり建設はできないのである.

コストの問題は,技術的なことであって,
今後将来改善される,
あるいは状況が変わる(電気料金が高騰するとか)
こともあり得るので,継続して研究開発が
進められるべきだと思うけれど,
国立公園問題,温泉問題については,
なかなか難しいのではないかと思う.

地熱資源が豊富に存在し,
そして技術的に(コスト的に)成立するようになっても,
利権が絡めば,事は進まないのである.
この問題が解決されない限り,地熱発電の普及は
進まないだろう.

そんな社会的な問題はなんとかできる,という人が
エコ推進派には多いけれど,地元の人たちの同意と
協力を得るためには,長い時間がかかり,
やっぱりこうした問題はたいへんに難しいのである.
(浮体式の洋上風力発電なども話題だが,
技術的には可能であるけれど,日本では
漁業権の問題があって,地熱発電同様に
難しいのではないかと私は思っている)

しかし,日本が地熱資源に恵まれていることは間違いがない.
社会的状況が変わることもあり得るだろう.
研究開発は粛々と進めていっていただきたいと思う.

#7月号のOHMでは,もっともっと詳しく
あるいはわかりやすく地熱発電について
説明されている.
代替エネルギーを議論するならば,
最近のOHMをまとめて読まれるだけでも
ずいぶんと勉強になるので,おすすめである.

#7月号のOHMでは,小水力発電についても
特集記事が掲載されている.
こちらもやはりコストが見合わないのが問題.

2011年7月26日火曜日

劣化は世界の終わり

最近では,以前美しかった女優やアイドルが年をとって,
その美貌が衰えていった場合に,それを「劣化」と呼ぶらしい.
ひどい言い方だとは思うけれど,
うまいなぁとも思ってしまうのである.

私もつい最近,昔のアイドルがおばあさん役で
CMに出演されているのを見て,たいへん驚いた.
確かに,おばあさん役がふさわしい感じだった.
...私も年をとるわけである.

ネットである若い女性ががつぶやいていた言葉が,

「劣化は世界の終わり」

である.なにか,年をとることが絶望につながっている.
少し悲しい...

実際には,美しく年をとっていく人もいる.
そのように内面の美しさが表われるように年を経ていく女性は
私も素敵だと思うけれど,そうした人は少ないのだろうか.
そのような年の取り方は難しいのだろうか.

確かに,アンチエイジングとして若づくりも大切かもしれないけれど,
人には,そんなことには左右されない美しさがあると私は思う.
加齢していくことは恥ずかしいことではない.
むしろ人としての魅力を増していくことであるのだ.
ただそうした美しさを身につけるのは一朝一夕のことでは
できないのであろうことは予想できる.
毎日の絶え間ない心がけだけが自分の美しさを磨いていくのだろう.

往年の女優やアイドルのみなさんでも
やはりその努力の差が現われているように思われる.
もっとも美貌に敏感であるはずの人たちでさえ,そうなのである.
いわんや私たちをや,である.
「劣化」ではなく,「熟成」となるように,私も精進いたします.


2011年7月25日月曜日

「世界最強」をあきらめたときにアマチュアになる

武道の世界においては,プロフェッショナルとアマチュアの境界は
厳然として存在している.

それはたとえば相撲であったり,将棋であったり,
圧倒的な実力の差として存在している.
(そうでない場合は,「プロ」を名乗る資格が無いのではないだろうか)

では,その「線引き」はどのように決まるのだろうか.

私は,武道の世界においては,
それは,「世界最強」を断念した瞬間なのだとふと思った.

「世界最強」を目指して,毎日,どの瞬間にも,
人を倒すという技術を極めようとする努力を
継続しつづけてはきたけれど,自分の才能と
技量の限界を感じて,どこかで疲れてしまい,
「なにか」をあきらめてしまうのだ.

「最強」の追求には,「技の洗練」とは別の
「なにか」が存在し,それが不可欠である.
それが「なにか」,具体的に説明することは
たいへん難しいのだけれど,
それは確かに存在し,自分を突き動かし続ける動力で
ありつづけていたのだ.
しかし,それが失われてしまう.
そのとき,「世界最強」を断念する.

もちろん,勝負というものはその設定条件に
大きく影響を受けるので,「世界最強」という定義そのものが
あいまいであり,むしろそれは幻想に近いものだといえるだろう.
その場合,求めるものは「世界最強」から「絶対不敗」に変わる.
だが,「世界最強」と「絶対不敗」の間には大きな隔たりがある.
前者を「夢」「野望」とすると,後者は「悟り」というべきか.
後者の方が良いような気もするけれど,
前者の「夢」を追い続けていきたい気もする.

その「夢」をあきらめた瞬間に,
プロへの道を断念するのだとしたならば,
私はなんと早期にアマチュアの道を進み始めたのだろう.
自分の才能の限界を感じるのは早かったなぁ...

しかし,こうして「世界最強」をあきらめた人は
武道の稽古をなんのために継続するのだろうか.
そして,どうやってその矜持を持ち続けていけばよいのだろうか.
そして私は一体なんのために稽古を続けているのだろうか.

私は到底プロにはなれない.
道場の看板を命がけで守ろうなどという覚悟もない.
ただただ自分の技を磨くだけが目的となっている.
しかし,それでよいのだろうか.
この先,なにを考えていくべきなのか.

武道は,スポーツと異なり「気晴らし」ではないならば,
アマチュアはなんのために稽古を続けていくのだろうか.
私はこの先何を目的として...

2011年7月20日水曜日

「勿嘗糟粕」

しばらく仕事,私事ともに忙しくて,
なかなかブログの記事がかけなかった.
いろいろと考えは浮かぶのだけれど,
それを書き留めておく時間が無い.
もう少しメモを充実させようと思う.

昨晩,考えたのは,ある研究分野,
あるいは産業分野の成熟ということ.

ある分野が切り拓かれはじめたとき,
そこに乗り込んでいく人は勇気ある開拓者,
フロンティアである.
そして彼らは,なんでもかんでも自分自身の手で
準備しなければならない人々である.

しかし,そのようになにもかもを知らなければ
ならないからこそ,素晴らしい発明や革新を
彼らは成し遂げることができたのではないかと
思うのである.
専門家ではない,横断的な知識と技術を
もっていたからこそ,そうした偉業を
成し遂げることができたのだ.

フロンティアには伝説の英雄がいる.
たとえばパワーエレクトロニクスという分野にも
そうした人たちがいた.
彼らは素子を作り,またそれをうまく動かすための
駆動回路も工夫し,そしてもちろんそれらを
活用するための回路も研究した.
それらはすべて一連の知識と技術の中で
進められるべき,研究と開発であった.

しかし,時は流れ,その研究分野,あるいは
産業分野は成熟していく.
そこで起こるのは,分業化であり,階層化である.

研究する対象は,徐々に専門化が進み,
それだけをテーマとする研究者が増えていく.
(逆に言えば,それだけをテーマにしても
やっていけるようになる)
素子は素子屋が作り,
駆動回路はその専門家が検討し,
主回路は主回路で,直流変換回路,インバータ,
整流回路と細分化して,それぞれに研究者がいる.
そうしなければ,深く研究を進めることができなく
なるのだろう.
しかし,その反面,研究は重箱の隅をつついたような
些末なものに分化していってしまう.
フロンティアがもっていたような
分野を網羅するような大きなビジョンをもつことは
難しくなっていく.
それとともに野望もしぼんでいく...

現在は,そうした成熟した分野が数多くある.
そうした分野では,研究だけでなく産業も分業化し,
結局はニッチなところで棲み分けていくような状況に
陥っているような気がする.

それはある意味,仕方がないと思うが,
それでは研究者,技術者は面白くない.
私たちに必要なのは,未開の分野なのである.
私たちがフロンティアとなれる未踏の領域なのである.
冒険者として大いに活躍してみたいと思うのである.

現在,大阪大学学長室に掲げられている額には,


「勿嘗糟粕」
(糟粕を嘗むる勿かれ)


という初代総長 長岡半太郎の言葉があるという.
これは酒を搾り取ったあとの残りカスである糟粕を嘗めるな.
すなわち他人が切り拓いた研究で食べていくのではなく,
新たな分野を切り拓いていけ,との意味である.

まさに,私の思うところであったわけであるけれど,
ではどうするか,というと...
まぁ,毎日悩んでいるわけなのである.

2011年7月13日水曜日

コジェネ普及の鍵は

CO2削減の高効率な発電システムとして,
コージェネレーションシステム(コジェネ)が注目を浴びている.

コジェネとは,主に化石燃料を使用して原動機を駆動し,
電力を発電するとともに,原動機の排熱を利用して,
冷暖房や給湯などの熱需要に熱エネルギーを供給する
システムである.
熱電併給などと呼ばれる.

原動機としては,ディーゼルエンジン,ガスタービン,
ガスエンジンなどが産業用に従来から使用されてきたが,
最近では家庭用で燃料電池を用いる場合
(エネファームと呼ばれるようなシステム)も増えている.
ずいぶん身近な存在になってきた.

コジェネのメリットは,まず需要地で発電できるため,
現在のように遠隔地で発電した電力を都市部に
送電するのに比べ,発電ロスを低減できることである.

もちろん,熱エネルギーも供給できるので,
総合的な効率が改善できることが魅力である.
総合効率は,たとえば家庭用燃料電池コジェネ
の場合,
60%を越えるものもある.

しかし,ここには盲点があって,
この高い総合効率は,排熱が高い効率で
利用される前提で計算されていることに,
注意しなければならない.

総合効率というのは,一般的に発電効率と
排熱利用率を足しあわせて計算される.
すなわち,

(総合効率)=(発電効率)+(排熱利用率)

となる.それぞれの効率は,

(発電効率)=(発電電力量)/(燃料消費量)

(排熱利用率)=(排熱利用量)/(燃料消費量)

と計算される.
(アメリカでは,排熱利用量を0.5乗する場合もある)

燃料電池システムでは発電効率は30%を越える程度だから,
排熱利用率も30%を越えないと,総合効率は60%を
越えないことになる.
したがって,総合効率を高めるためには,
どれだけ排熱を効率よく利用するかにかかっているのだ.

しかし,そうした熱需要がどれだけあるのだろうか.
特に家庭用コジェネでは,熱需要がなかなか無いのが
悩みの種なのである.
ヨーロッパやカナダなど,暖房などの給湯需要が高い場合には
コジェネはたいへんに威力を発揮する.
しかし,日本,たとえばこの暑い大阪などでは,
残念ながらそうした熱需要は低い.
家庭用コジェネでもお湯を作って貯湯槽がいっぱいに
なってしまうと,発電を止めてしまうようになっている.
現在はコジェネで発電した電力は,太陽光発電と違って,
余っていても電力会社は買ってくれないが,
買ってくれるようになっても,お湯が一杯になってしまったら,
もう発電できないのである.
(お湯を捨ててまで発電するというのは,本末転倒である)

比較的低容量のガスエンジンコジェネがよく導入される先は,
病院,スーパー銭湯,ラーメン屋というのもわかる.
日本はコジェネには暑すぎる国なのである.

とはいえ,震災後,コジェネの需要はたいへんに高まっている.
家庭では難しいかもしれないが,ビルなどでは
冷房に熱エネルギーを使用することもできる.
また近所の家庭間で熱エネルギーも融通できれば,
さらに利用度が高まるだろう.
今後,どのように排熱を利用するか,そのアイデアが
コジェネの普及を決めるに違いない.

太陽光,風力発電などの出力変動補償に
出力制御可能なコジェネを利用するアイデアも出てきている.
魅力はさらに増すだろう.

2011年7月12日火曜日

人の話をただ「聞く」という技術

自分が苦手だと思うことに,
人の話を聞く,というものがある.
最近,特にそう思う.
そろそろ反省すべき時期に
なったのではないかと思い始めている.

人が話そうとする物語を
理解することは私は得意な方だと思う.
人の意図を理解し,それに応じた
答えを用意する.
まぁ,周囲の人たちは私の能力に不満が
あるだろうけれど,私自身としては,
結構そうしたところは得意だと思っている.

では,私が足りないと思う「聞く」という行為は
どういったものか.
それは,「相手の心に寄り添って」話を聞く,
ということである.

私は,感情的になって議論する人を軽蔑する.
議論の場において,怒ったり,泣いたり,
そうした感情をあらわにする人を私は相手にしたくない.
議論においては,そうした時間は無駄となる.
私には,「ガス抜き」につきあっている暇も
我慢もないのである.

しかし,世の中には議論を目的とせず,
ただ話を聞いて欲しい,というためだけに
話すということがあるようである.
私は,人とコミュニケーションをとるのは,
自分の考えを相手に伝えるという目的があるからだと
思うのだけれど,相手のリアクションを求める要求は薄く,
ただ話を聞いてもらうだけで良いということもあるようなのだ.
一般的には,「悩みを聞いてもらう」というようなことだろうか.
「話を聞いてもらって,すっきりした」などというセリフが
聞こえてきそうなシチュエーションである.
(もちろん,そこには自分がこれだけ苦労していることを
知って欲しい,という要望があり,ちゃんとした
コミュニケーションの目的はあるのだけれど,
相手の反応をあまり期待していない状況)
私は残念ながら,これまでそうした「聞く」という行為に
重きを置いてこなかった.
目的もなく人の話をただ聞くなんて,まっぴらご免だった.
(だから,女の子にもてなかった?(笑))

実は,私は幸いというか,薄っぺらな人生だからというか,
悩みを人にただ聞いて欲しい,と思うようなことはない.
少なくとも記憶にはない.
もちろん,そうした状況もあってしかるべきだろうけれど,
悩みをただ聞いて欲しいということは今後も私には
なさそうな気がする.
私だったら,そのような場合,
相手にアクションをしてもらうことを目的として話をするだろうから.

しかし,最近,ただ聞くという行為も,
相手の負担を軽くするという目的において,
やはり重要なのではないかと思うようになってきたのである.

ひとつには,浄土真宗の影響がある.
私の父が亡くなって,少しだけ浄土真宗が身近になった.
宗教が現代に果たすべき役割ということには,私は
懐疑的ではあるのだけれど,浄土真宗ではこの「聞く」ということを
重要視しているようである.
(そこがいかにも大乗的だと思う.
もう少し修行重視の宗派(たとえば曹洞宗とか真言宗とか)だと,
自らの実現の方が先に来るような気がする.
衆生の救済は,まず自分が悟りに近づいてからの話,という
印象がある)
話し終わった相手が「救われた」と思うような
話の聞き方とはどのようなものか.
興味がある.
(余談ではあるけれど,現在「考える人」に連載中の
「親鸞と日本主義」は面白いなぁ)

村上春樹の小説にも,村上氏自身が
人の話を良く人であっただろうと感じさせる文章が
ところどころに見られる.
子供時代の回想で,失語症のようになってしまった主人公に,
言葉を話さなければ,なにも存在しないなどと
医者に言われた話は,どの小説だったろうか.
また別の小説では,大学時代,いろいろな人の話を聞いたという
ことが書かれている.

また,「聞く」ということで真っ先に思い出すのは,
村上春樹氏と一緒に本を出したこともある
「河合隼雄」氏である.
彼に会った人たちは,みな彼を「聞く」ことのプロだという.
彼の「聞く」技術とは,一体どんなものだったのか.

たぶん,それで救われたような気持ちになるのだから,
少なくとも話している人の気持ちに寄り添っているような
聞き方なのだろうと想像がつく.
しかし,私は人に話をただ聞いてもらうという経験が無いために,
どうすればよいのか,ということがわからない,ということに
あらためて気づきもする.

それでもこれまでの人生,自分はしゃべりすぎて生きてきたような気がする.
もう少し無口に,人の話にただ耳を傾けるというようなことも
良いのではないかと思っているのである.


2011年7月11日月曜日

世俗を離れ,山に籠もるのが真の修行か


若い頃,山に籠もって修行をするのが夢だった.
世俗を離れ,ひとり山中で自分を見つめ直し,
武道の稽古と読書三昧で1年程度は過ごす.
そんなことを夢見ていた.

それは,まずは吉川英治の「宮本武蔵」
影響されていたのだろう.
(今なら「バガボンド」なのだろうが)

次に,大山倍達氏の「空手バカ一代」
かの傑作漫画によれば,大山氏は
若い頃,清澄山に籠もり,立木を叩いて
自然石を割るなどして修行を行い,
開眼したと言われている.
人里恋しくて,山から下りようとする自分を戒めて,
川に自分の顔を映して片方の眉を
切り落とすというシーンがある.
そこで,「バカよ,バカよ」と自分を
空手バカと笑うのである.
まぁ,実際はどうだったのかよく知らないけれど,
大山氏も山に籠もる際に,吉川英治の
「宮本武蔵」を持ち込んだのだそうである.

若い頃に,世俗を離れて山に籠もる,ということは,
特別なことではなくて,たとえば村上春樹の
「海辺のカフカ」においても主人公が
山のロッジでしばらくトレーニングと読書に三昧な
日々を送ることになっている.
やはり誰もが一度はそんなことを夢見るのだ.

今の私も実は,たまにはそうした夢をみる.
しかし,山に籠もったところで何も変わらないだろうということも
もう良くわかってしまってもいるのである.
山に籠もったことによって,私の何が変わるのだろうか.
それがもうわからない.

私という存在は社会があってはじめて認められる.
人とのつながりがなければ,私という人間は
ほとんど意味がないだろう.
それを,人間関係を断ち切ることによって,
なにが得られるというのだろうか.

私が大嫌いなものに「本当の自分さがし」というものがあるが,
山に籠もって見つけようとするものは「自分」なのではないだろうか.
日常生活の自分から逃れようとする弱さでしかないのではないだろうか.

もちろん,トレーニングや武道の修行で,
具体的な目標があるのであれば問題ない.
しかし,心が何か変わることを期待して
山に籠もるのであれば,日常生活からの逃避と変わらないのである.

私はいつのまにか,山に籠もる夢に魅力を感じなくなってしまった.
それは,陽明学の「事上磨錬」という思想
出会ったからかもしれない.
実際の毎日における修行こそ,真の修養となる,というその教えに
強く惹かれたのである.

この陽明学についても,いろいろ思うことがあるのだけれど
(たとえば日本と中国とでは,陽明学が異なってきていて,
日本の陽明学は,非常に先鋭で過激なものになっている,など)
また機会をあらためて,書きたいと思う.

ということで,ここ少しばかり内省することが多かったので,
こんな感じのつまらないブログ記事が続くと思います.
すみません.

2011年7月6日水曜日

和田慎二さんの訃報に思う: 海槌麗巳@スケバン刑事 は素敵だった

今日の夕方,大阪は雨.
昼間のストレスを発散に,
外に走りに行けないのが本当に残念.
「走る」ことの素晴らしさを,
走れない雨の日に思う.

さて,本日ニュースで知ったのだけれど,
漫画家の「和田慎二」氏が急逝されたのだそう.
ご冥福をお祈りいたします.

私が少女マンガも読んでいたという話
前にもしたけれど,
少女誌であっても少年誌顔負けの
アクションマンガもいくつかあって,
それはそれで楽しみにしていたものである.

その中のひとつが,「スケバン刑事」.
和田氏の作品である.
もちろん,「スケバン刑事」だけではない.
超少女明日香」シリーズ(別マ?花とゆめ?)や,
ピグマリオ」(なぜか合氣道部の部室にあった),
怪盗アマリリス」シリーズなんてずいぶん読んだ.
(いや,今は内容をほとんど覚えていないのだが...)

好きだったのは「超少女明日香」シリーズ.
一種の変身ヒロインものといえると思うのだけれど,
通常時のお手伝いさん(断じて,「メイド」ではない)と
変身時の姿とのギャップがいいんだなぁ.

しかし,もっとも好きな登場人物は誰かといえば,
それは断然「海槌麗巳(みずちれみ)」.
スケバン刑事における主人公 麻宮サキの
最大・最悪の敵である.

斎藤由貴主演のテレビシリーズ
「スケバン刑事」では,高橋ひとみさんが
レミを演じられていたけれど,
サキを挑発する高笑いが忘れられない.
(「ホホホ」と笑う)

原作の方もたいへん魅力的.
あの吊り上がった三白眼がたまらない.
悪の信奉者であり,自分の妹たちも
容赦なく切り捨てる.
サキの最大のライバルにして,実は「友」.
そんな設定もよかったなぁ.

もう麻宮サキが活躍するのを
見ることができないかと思うと本当に寂しい.
あの独特な絵柄が懐かしい.
こうやってひとつずつ私の青春も終わっていく.

#研究室の学生に和田氏のことを尋ねたら
全く知らず,代表作を教えてあげたら,
「あぁ,昔の漫画家の方ですね」と言われた(涙)

2011年7月4日月曜日

ダイエットに必要なものはなにか

それは,時間と余裕である,と断言しよう!

強い意志などというものを持ち合わせない私だが,
この1ヶ月で5kg以上やせた.
その私がダイエットに必要だったものは,
時間である.
そして,カリカリしないだけの余裕である.

そして,それらはこの日常生活において
もっとも確保するのが難しいものなのだ.

私のダイエットの手段は,
岡田斗司夫氏考案の「レコーディングダイエット」,
そして「ジョギング」である.

「レコーディングダイエット」というのは,
本も出ているし,実践者も多いので,
ネットで調べればわかると思うのだけれど,
まずは自分の食事のカロリーを記録して,
ある値以下に抑えようというものである.

私の家のタニタの体重計が私の
基礎代謝量が1500~1600程度だと教えてくれるので,
毎日の摂取カロリー量を,1600程度に抑えた.
といっても,私は最近あまり食欲がないので,
あまり苦もなく制限することができた.
どうも私は量にはあまりこだわらない人らしい.
(しかし,美味しいものは食べたいのだが)

ただ甘いものの摂取量はずいぶんと減った.
これはストレスが少なくなったからだと思われる.

ということは,仕事が楽になったってこと?
それは全く変わらない.
ではどうしたかというと,「ジョギング」したのである.
週3回を目処に40分程度ジョギングを行う.
「ランニング」ではなく「ジョギング」
これが大切である.
楽に,楽しく走る.
走って気持ちよくなければ,次に走ろうという気にならない.
まだまだ走れる,というところで走るのを
止めるのも大切である.
良い状態を継続する工夫も必要だ.

走ることによって,ストレスはずいぶん発散されているように思う.
気分の転換にもなるし.
(これで発想も豊かになるといいのだけれど...)

このストレスの低減が,甘いものの摂取量を
減らしているようだ.
いままでは,甘いものを食べることによって
得られる満足感によって,
ストレスとのバランスをとろうとしていたらしい.
そのために太ってしまっていたのである.
それがジョギングによって,他の満足感が得られるので,
甘いものに頼らなくても良くなった.
もちろん,ジョギング自体もカロリーを消費するので,
一石二鳥である.

ただ,このジョギングには大きな欠点がある.
それは時間を使うことである.
走るための時間を確保しなければ,
ジョギングができない.
これが一番の問題である.
晴れた日の夕方に1時間程度の時間を確保する.
それが簡単にできれば良いのだけれど,
そんなことはないことは多くの人が知っている.
その難しさがダイエットのハードルである.

時間は作るものだと考えても,
そこにはそれなりの「余裕」がなければならない.
心の余裕がなければ,
走る時間を確保することができない.
確保することに罪悪感を感じてしまう.
これがまたダイエットのハードルとなる.

村上春樹氏は,一日はもともと23時間だと考えて,
ランニングに1時間をちゃんと割り当てている.
私もそのように考えることにした.
余裕をもって,24/23倍の密度で毎日の時間を
過ごせばよい.
そう考えて,今後もぜひジョギングを
継続していきたいと思っている.

ダイエットは全然つらくなかった.
しかし,考え方を変えて,時間を確保する必要があった.
そしてそれには余裕が必要だった.
思いもかけず,ダイエットは生活を変える原動力と
なっている.
いい感じだ.
もう少し続けてみよう.