2011年7月11日月曜日

世俗を離れ,山に籠もるのが真の修行か


若い頃,山に籠もって修行をするのが夢だった.
世俗を離れ,ひとり山中で自分を見つめ直し,
武道の稽古と読書三昧で1年程度は過ごす.
そんなことを夢見ていた.

それは,まずは吉川英治の「宮本武蔵」
影響されていたのだろう.
(今なら「バガボンド」なのだろうが)

次に,大山倍達氏の「空手バカ一代」
かの傑作漫画によれば,大山氏は
若い頃,清澄山に籠もり,立木を叩いて
自然石を割るなどして修行を行い,
開眼したと言われている.
人里恋しくて,山から下りようとする自分を戒めて,
川に自分の顔を映して片方の眉を
切り落とすというシーンがある.
そこで,「バカよ,バカよ」と自分を
空手バカと笑うのである.
まぁ,実際はどうだったのかよく知らないけれど,
大山氏も山に籠もる際に,吉川英治の
「宮本武蔵」を持ち込んだのだそうである.

若い頃に,世俗を離れて山に籠もる,ということは,
特別なことではなくて,たとえば村上春樹の
「海辺のカフカ」においても主人公が
山のロッジでしばらくトレーニングと読書に三昧な
日々を送ることになっている.
やはり誰もが一度はそんなことを夢見るのだ.

今の私も実は,たまにはそうした夢をみる.
しかし,山に籠もったところで何も変わらないだろうということも
もう良くわかってしまってもいるのである.
山に籠もったことによって,私の何が変わるのだろうか.
それがもうわからない.

私という存在は社会があってはじめて認められる.
人とのつながりがなければ,私という人間は
ほとんど意味がないだろう.
それを,人間関係を断ち切ることによって,
なにが得られるというのだろうか.

私が大嫌いなものに「本当の自分さがし」というものがあるが,
山に籠もって見つけようとするものは「自分」なのではないだろうか.
日常生活の自分から逃れようとする弱さでしかないのではないだろうか.

もちろん,トレーニングや武道の修行で,
具体的な目標があるのであれば問題ない.
しかし,心が何か変わることを期待して
山に籠もるのであれば,日常生活からの逃避と変わらないのである.

私はいつのまにか,山に籠もる夢に魅力を感じなくなってしまった.
それは,陽明学の「事上磨錬」という思想
出会ったからかもしれない.
実際の毎日における修行こそ,真の修養となる,というその教えに
強く惹かれたのである.

この陽明学についても,いろいろ思うことがあるのだけれど
(たとえば日本と中国とでは,陽明学が異なってきていて,
日本の陽明学は,非常に先鋭で過激なものになっている,など)
また機会をあらためて,書きたいと思う.

ということで,ここ少しばかり内省することが多かったので,
こんな感じのつまらないブログ記事が続くと思います.
すみません.

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