2012年11月26日月曜日

この世に不思議なことなどなにもないのだよ,いや,あった方が面白いのだ

最近,あらためて「新耳袋」を読み返している.仕事の合間,ほんの数分間の息抜きに,数話ほど目を通す.異次元の話に気分が少しほぐれるのである.

私はとにかく怪談話が好きなのだけれど,人の情念や因縁による暗い話は苦手で,どちらかといえば不思議系の話が好きなのである.不可思議な現象がおこったエピソードは話されるけれど,その理由は謎のまま.そんな話が大好きなのである.

思えば,こうした構図(不思議なことは起こるが,物語が終わっても謎は謎のまま残される)は,村上春樹の小説でも同じである.もともとこの世界には説明がつかないことがあって当然ではないかというのが私の考えなので,その理由が示されなくても(科学的な説明ではなく,因縁めいた理由がほとんどなのだけれど)村上春樹の作品も「新耳袋」の怪談も私にストレスを感じさせないのである.

ただ実際の世界においては,ほとんどの不思議な現象はいろいろなことで説明がつくのではないかと思ってはいる.「幽霊の正体見たり枯れ尾花」とよく言われるけれど,人間の心理的な状態がなんでもないことがらを不可思議な現象にしてしまうのではないだろうか.あるいは結局は物理的に説明がつくことが多いのではないかと思うのである.

「この世に不思議なことなどなにもないのだよ」とのたまう京極堂のごとく(京極夏彦の小説の登場人物です),理路整然と物事を解き明かしていく,そうした態度こそが私が憧れるところである.

しかし,小説や怪談の楽しみ方は違う.そんな興ざめなことはしない.不思議は不思議のまま受けいれ,その不思議が起こる背景,理由,そしてそれが示唆すること,そうしたことに思いをはせる方がずっと面白いではないかと思う.ケチをつけたところで,なんの意味があるというのだろう.むしろそれで自分がどう思うか,体験談であったらその心理的・社会的な背景はなんであったのか,それを考えた方がずっと興味深い.

たとえば,

近所の子供たちが遊びに来ていて,母親がおやつを出そうとするとひとつ足りない.数えてみると,ひとり見かけない女の子が含まれている.女の子は,「私はいいから」と一言いうと,庭の木の方に走っていき,するすると登っていったかと思うと木のてっぺんですぅっと消えてしまった.

という話が紹介されている.子供たちが一緒にそうした不思議な経験を共有するということに素晴らしさを感じてしまう.私だったら憧れてしまう.そんな体験ができる人生の方がずっと素敵に違いない.結局,ファンタジーなのである(もちろん,そんなことも言えない,怖い話も多く紹介されているのだけれど).

異世界への恐れと憧れ.誰もがそれをもっているからこそ,怪談話はいつの時代も流行るのだ.変に「スピリチュアル」などといわないで,もっと健全に怪談話を楽しんでもよいのではないか.また怪談ブームが来るような気がする(そしてそれはゾンビブームよりも健全な気がする)

2012年11月15日木曜日

生きることと死ぬることは,ある意味では等価なのです

先週末は父の三回忌ということで,新潟に帰省していた.家族だけでひっそりと法事を終え,父を偲んだ.うちは浄土真宗なので,法要の終わりに住職の説話がある.浄土真宗では,もともと三回忌というものは,いや法事というものは,故人を縁にして,現在生きている人たちに仏法にあう機会を持たせるために行うということになっているらしい.だから,多くの場合法事の最後は説話で締めくくられることになる.

今回のお話は「生死(しょうじ)の問題」についてだった(私が「三回忌はなんのためにあるのでしょうか?」とお尋ねしたことからこの話が始まった).

まず「人はなぜ死ぬのか」という問題が最初に来る.

「老いるから」だろうか?それならば若い人は死なないのだろうか?

「病気にかかるから」だろうか?それならば健康ならば死なないのだろうか?

いや,誰もが死ぬ.強いて「なぜ死ぬか?」と問われるのならば,「生きているから」としか言いようがない.生きている限り誰もが死ぬのだ,ということなのだ.それも不慮の事故などで命を落とす場合もあるから,「いつ」死ぬのかもよくわからない.今日は生きながらえても,明日はそうではないかもしれない.そんな不確定な毎日を私たちは過ごしているということになる.

生と死は紙の裏表のようなものだと話される.ふたつはとても近い存在で,どちらもとても大切なことなのに,私たちは「生きる」という表側だけを考えて生きてはいないだろうか.いまこのときの次の瞬間,死が私たちのもとを訪れるかもしれないのに,自分に限っては死が遠くにあるように思ってはいないだろうか.もっと私たちは「死」を意識して生きていく必要があるのではないだろうか.

死を前にしては,知識や教養などは全く意味をなさない.唯一頼れるのは仏法である.仏法にあうことによって,すなわち阿弥陀如来のご本願を聞くことによって救われるのである.そして,三回忌などの法事は,故人を縁として,こうした仏法にあう機会をもつために行われるのである.

という法話であった.浄土真宗なので,最後は「南無阿弥陀仏」の教えにいくのだけれど,確かに「生死の問題」は,私にとっても大きな問題である.いろいろと考えるきっかけになった.

そして「生と死は等価」という言葉にたどり着いて,ふと村上春樹の短編「タイランド」を思い出した(「神の子供たちはみな踊る」収録).

女医である主人公はバンコクで開催された国際会議に出席したついでに,リゾート地で休暇を取る.このときに自分についてくれた老運転手かつガイドが,女医が心に「石を抱えている」ことを知り,ある老婆のもとにつれて行き,それを指摘してもらう.そして,その後に女医との会話でこのように話すのである.

「これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです、ドクター」

そう,生きることだけに集中するのではなく,死ぬための準備も行わなければならない.なぜなら,生と死は等価なのだから.

この短編小説はなぜかしら心に残っている.そして,年をとればとるほど「死に向かう準備」の重要さを思うようになってきた.そして,このたびの三回忌であらためてその大切さを考えることになった.

「死は遠くにあるものではない.生と死は続いているのだ」(これもたぶん村上春樹の小説に似たような言葉があったと思う.「蛍」だったか「ノルウェイの森」だったか)

「生死の問題」はとても身近な話である.そして,ことあるごとに思い出したい話である.




2012年11月14日水曜日

ゾンビ映画はお好き: World War Z

なぜ世界はここまでゾンビが好きなのだろうと不思議に思う.そうでなければ,このように毎年大量にゾンビ映画が製作される説明がつかない.

私も最近では"Zombieland"を観て大いに楽しんだけれど(実はこれは青春お笑い映画だったのだが),バイオハザードシリーズといい,多くの作品のリメイクといい,ここ数年,少し常軌を逸しているくらいにゾンビ映画が溢れている.そして,多くの人がそれを求めている(The Walking Deadも早く日本で放映されないかな).

その理由は,世界が破滅願望に満たされているからではないかと私は思う.この閉塞した世界,先は見えないし,かといってバラ色の人生なんてもはや望めない時代,多くの人が「リセット」願望を意識的あるいは無意識的に持っているのではないだろうか.だからこそ,理解を越えたモノが人間世界を破壊し尽くすストーリーに狂喜するのではないだろうか.

古来,人はカミやモノを恐れていたけれど,それにはどこかに救いもあったのではないかと思う.一度インドのシヴァ神などの破壊神の存在は,その願望の反映ではないだろうか.ほぼ成熟・固定してしまった社会システムは人間の未来を奪うように感じられる.そんな社会に人間は長くは落ち着いていられないのではないんだろうか.だから,社会に変化を求める願望が破壊的な行動につながるのもわからないでもない(もちろん,そんなことがあったら大変困るのだけれど).そうした無意識の願望が有り続ける限り,ゾンビ映画は作られ続けるのだろう.

マクラが長かったけれど,"World War Z"の予告編を観た.ブラッド・ピット主演のゾンビ映画である.ブラピがゾンビ映画に出るというだけでも驚きだったのだけれど,予告編を観てすごく興味が湧いてきている.ゾンビが昆虫かネズミのように集団暴走して街を破壊していくシーンが印象的だ.やはりここでもゾンビは全力で走る(ゾンビが走るようになったのは,Dawn of the Deadあたりからだったろうか).ゾンビの群衆が暴走してバスを倒し,塀をよじ登っていくのである.見ているだけでぞっとしてくる...単なるホラー映画ではなさそうだし,ブラピの演じる主人公も魅力的だし,かなり惹かれる映画なのだ.

私もスプラッタは嫌いだけれど,ゾンビ映画は大好き.世界にゾンビファンがどれだけいるのだろう.ゾンビが発生するZ-Dayの到来がまことしやかにささやかれ,ゾンビが世界を占拠する状況でどのように生き残るかというHow To本も出版されている.それだけ彼らは魅力的なのだ.これからもずっと彼らは人間に脅威を与え続ける存在であり続けるのだろう.

#ゾンビってもともとブゥードゥー教の話ではなかったのだっけ?だから,ウィルスによるものはLiving Deadと呼ぶべきなのだろう.哲学的ゾンビの話も面白いが,それはまたいつかの機会に.


2012年10月18日木曜日

勝兵は先ず勝ちて、而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて、而る後に勝を求む

今日,息子と話していて,孫子の話題が出た.息子も「戦わずして勝つ」などと言って,孫子の言葉を知っているような風だったけれど,まだ中学生には孫子は早い.中身を理解できないだろう.

私が孫子を読んだのはいつだったろうか.たぶん高校生で,毎日空手に明け暮れていた頃に違いない.空手は戦って勝つ武術であるけれど,これは兵法から行くと勝ちの下である.兵法から言えば負けるということがあってはならない.したがって,まず廟算し,己が勝つことを確かにしてから戦わなければならない.それでもこれは勝ちの中であり,勝ちの上は「戦わずして勝つ」ことになるわけなのだけれど.

「勝兵は先ず勝ちて、而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて、而る後に勝を求む」

この言葉を初めて知ったとき,これが不敗の戦い方なのかと半分感心し,半分がっかりしたような気がしたのを覚えている.やっぱり正々堂々と戦って勝つことに憧れていたのだろう.

しかし,今ではこの言葉の意味がよくわかる.とにかく生き残ること(国も人も)が大事なのだ.勝つことが目的ではない.国や人を全うすることが目的なのである.負ける戦はしないのである.そのためには,廟算の技術を磨かなければならないのだ.そうなると情報戦ということになるのだろう.

武道の目的の一つは,危険を察知することである.瞬時に危険を察知して,それを避けねばならない.一目で相手の技量を見ぬくことも武術の能力であり,これも兵法のひとつなのかもしれない.その能力を身につけるために,人は精進し,経験を積むのだろう.

孫子は素晴らしい書物だと改めて思う.今読んでも,多くのことを学ぶことができる.
しかし,やはり息子にはまだ早い.

「兵は詭道なり」

この言葉を理解するためには,もう少し人生の酸いも甘いも知ってもらわなければ.

2012年10月17日水曜日

大学教員は特殊技能の専門家

大学教員は一応「先生」と呼ばれるけれど,道徳者である必要はないと思う.人間的に尊敬される必要さえないかもしれないとも思っている(もちろん,人間的に素晴らしい先生方もたくさんいらっしゃいますが).私は大学教員は一般的な「先生」というよりも,特殊技能の専門家に近いと思っている.すなわち,大工や左官屋,シェフ,板前,アスリート,そういった職業に近い気がするのである.

もしも尊敬されるとするならば,まずはその技能によってされたいと思う.その分野の知識とアイデア,技能のプロフェッショナルでありたいと思っている.そこで,カール・ゴッチの言葉を思い出す.私はそのプロフェッショナルとして,なにを磨くべきなのか.それを明確に目的に定めて毎日精進していきたいと思っているのである.

しかし一方で,大学の教員にとっては社会への啓蒙活動もその仕事のひとつである.研究と教育だけが仕事ではない.大学という機関は,社会に対しても情報を発信していかなければならないと思う.

10月3日に,大阪大学が一般の方々向けに開いている公開講座の講師を務めさせていただいた.その際は,電気工学を専門としている学生向けの講義ではなく,専門知識に疎い方々へわかりやすい講義を行うように,一応は努力したつもりである.これも仕事なのだ.だからその技能を磨く必要がある.そう思ってやっている.でも,こうした機会はこれまでほとんどなかったので,こちらもたいへん楽しませていただいた.なぜならわかってもらえるのはやっぱり嬉しいものなのである.また機会があれば,ぜひお受けしたいと思っている.

啓蒙活動も仕事の一環であるというのは,少し特別かもしれないけれど,やはり大学教員は,特殊技能の専門家なのだと思うのである.そう思うと,「神は細部に宿る」という言葉なども,身近に感じられてくる.

2012年10月16日火曜日

メン・イン・ブラック3,ハンガーゲーム,スノーホワイト,ジョン・カーター映画評

忘れないうちに,1ヶ月前のアメリカ出張の復路の機内で寝ずに観た映画4本の感想を.

1.MEN IN BLACK 3
もう期待通りのばかばかしさ.ずいぶんと楽しむことができた.特筆すべきは,Tommy Lee Jonesの若い頃を演じたJosh Brolin.全く違和感を感じなかった.若い頃のエージェントKは,もう少し話がわかって,笑いもする男だったという設定で,Joshはそれをうまく演じている.話の中身は前2作同様ほとんど無いけれど,本作のくだらなさは際立っている(もちろんいい意味で).特に1960年代にタイムジャンプしたエージェントJが遭遇するAndy Warholのパーティーのくだりなどは,笑いが止まらなかった.ただ笑い続けた1時間40分くらいというところ.

採点は星3つ★★☆☆

2.HUNGER GAME
アメリカでしばらくトップの興行成績を維持していたということで観てみることに.アメリカ版バトルロイヤルとの話だったけれど,もともと殺し合いの映画は嫌いだし,もちろんバトルロイヤルも観たことがない.世界の平和のために,世界の各地区から若い男女が集められて,殺し合いのゲームをする.それを世界の人々が娯楽のために視聴するという設定.そうすることによって,世界の平和が保たれるのだとか.集められた若い男女は醜く殺し合いを始めるのだけれど,例によって主人公の女の子は悪いことはしない.汚い手で自分を殺しにきた奴らだけを仕方なく倒していく,ということになる.主人公のJennifer Lawrenceはこの映画でブレークして,今や人気女優の一人だとのことだけれど,私はあまり魅力を感じなかった.綺麗でもないし,かわいくもない.むっつりとした表情だけが印象に残る.アメリカではこうした女優がウケルのかな...
話も薄っぺらい印象.ゲームを観ていた人たちが主人公の活躍によって,暴動を起こしたりするのだけれど,それはそれで終わり.どうも不完全燃焼だった...

しかし,Woody Harrelsonは最高!私は彼のファンなのだ.彼は過去のゲームの勝者で,主人公にアドバイスをするために雇われているのだけれど,最初は酒に入り浸っていたりして,ダメダメ感が本当に素敵.それも金髪の長髪で,かっこいいのである.もうため息がでるほど.ZOMBIE LAND,NO COUNTRY FOR OLD MANとか,そこらへんのレビューを今度書こう!

まぁ,第4弾まで制作が決定しているとのことなので,今後独特な世界観がしっかりと提示されていくのでしょう.


採点は星2つ★★☆☆

3.Snow White and the Huntsman
もう観るのが疲れていたので,頭にやさしそうな映画ということで,3本目はこれを選んだ.驚く無かれ,白雪姫が剣をとって悪の女王と戦争してしまうというアクション映画になっている.しかし,何も残らない.ただCharlize Theronのマガマガしさだけが印象に残っただけの映画だった.彼女は年老いていく悪の女王を演じているのだけれど,その老け方が実際のセロンではないかと思えてきて,ほんとに痛々しいのである.観ていて全く気分がつらくなるばかりだった.
主人公は,Kristen Stewart.バンパイアのシリーズ"Twilight"で人気が出た女優らしいけれど,全く魅力を感じない.いつも口が半開きのアゴがゴツイ女の子という印象しかない.頭の良さ,優しさなどが感じられない女優だ.しかし,彼女は,公開が間近の"On the Road"でMarylowという悪婦を演じているとのこと.それだったらぴったりの配役かもしれないと思う.(私の大好きな小説,ケルアックの"On the Road"についても,ぜひ近々記事を書こうと思います).唯一の救いは,私のヒーロー:マイティー・ソーこと,Chris Hemsworth君.なんかいいだよなぁ.やっぱり少し荒っぽくて,単純な狩人役.でもいい人.王子様の代わりにキスで白雪姫を生き返らせる.でも,彼はいつかこうしたいい人役から離れることができるのだろうか?

もう第2弾の製作がアナウンスされているとのこと.観ないなぁ...

採点は星2つ★★☆☆

4.John Carter
実は途中寝てしまっていた(さすがに疲れていたのだもの).主人公はバトルシップでやはり主役を演じていたTaylor Kitsch(それに気づくのにもしばらく時間がかかってしまった).結構明るい役で,彼に似合っていた.地球から火星に飛ばされて,火星の種族間戦争に巻き込まれた男の話.火星は重力が小さいというところがミソで,主人公は火星の種族からみると異常なジャンプ力を持つことになっていて,それが活躍する理由となっている.全くのおとぎ話.しかし,頭を使わなくて済むので,十分楽しむことができた.しかし,地球と火星をつなぎ,火星の戦争をマネージしている神のような存在の種族についての謎は残されたままとなっていて,消化不良.あれだけ宣伝されていたのに...でもTaylor Kitschはこれからも活躍しそうな俳優で期待感大.

採点は星2つ★★☆☆

5.MATRIX
余った時間でMATRIXを観た.やはり良くできている.面白いんだよなぁ.ストーリーがわかっていてもゾクゾクしてくる.こうした映画を待っているのに,なかなか見つからないんだなぁ.

採点は星5つ(満点)★★★★

実は,プロメテウスも観ようとおもったのだけれど,日本語に対応していなく,英語を聞こうと思ったけれど全然歯が立たず断念.同様の理由でDriveも観られなかった.Ryan Goslingにはすごく興味があるのに,残念だった.

ということで,今回はこれにて終了.
次に映画をたっぷり観ることができるのはいつのことか...

2012年10月15日月曜日

「きっかけ」と「原因」は区別しよう

最近,「きっかけ」と「原因」を混同する状況を見たので,今回はそれは異なるものなのだという話.

ある「きっかけ」によって問題が顕在化し,物事が悪い展開になったとしても,「きっかけ」は「きっかけ」でしかないことを理解すべきである.そこに問題はあらかじめ内包されていた,すなわち原因はもとから存在していたことを受け入れなければならない.それを区別することができず,「きっかけ」となった物事を原因として悪者扱いしても,本質的な解決にはならないのである.

わかりにくいので,例え話を少し.

あるところに荷物を運ぶロバがいて,そのロバは限界ギリギリの重い荷物を主人に運ばされてふらふらと道を歩いていた.そこに,通りすがりの人がワラを一本,ロバの荷物の上にポイッと放り投げた.するとロバはそのタイミングでついに重さに耐えきれず,倒れて動けなくなってしまった.ロバの主人はワラを投げた道行く人を激しく非難したという.

これは,ロジカルシンキングなどのセミナーで紹介されるような基本的な例題で,実際私もそうした場で聞いた話である.ワラはきっかけに過ぎないのに,そのワラを原因のように思っては本質的な問題(この場合はロバへの重荷)の解決には至らないということである.こうして例え話にされるとわかりやすいが,現実の世界ではそれを区別できずに原因を他に求めて人を非難するということが多々見受けられるのだ.

本当に必要なのは,問題が顕在化する前に(ロバが倒れる前に)悲劇的な結果を予見し,その内在している原因を解決して(荷物を減らすなど),事を未然に防ぐことなのである.

まぁ,それができたら誰も苦労はしないのだろうけれど.

2012年10月11日木曜日

アベンジャーズ,テルマエ,シャーロックホームズ,バトルシップ映画評

ずいぶん久しぶりのブログの更新です.アメリカ出張から帰ってきてどうも忙しく,ブログに書きたいことはたくさんあったのですが,書く機会を逃してしまいました.そして今日のように書く時間ができたとしても,なんとなくモチベーションが下がってしまって,なかなかペンが進まないという感じです...

ということで,今回は頭を空っぽにして,いつもの出張の機内で観た映画評ということにしたいと思います.

アメリカ,ノースカロライナ州ローリー市への出張では,片道16時間以上機上の人だったわけで,特に関西空港-サンフランシスコのフライトは,9時間以上のものだったから,映画はたっぷりと観ることができた.その上,ユナイテッド航空のB777(だったかな)でオンデマンドで映画がみられるものだから,往路では4本,復路では5本,合計9本も映画を観た.ほとんど寝ずに観たものだから,今回は時差に悩まされることが少なかったという副作用もあった.まぁ,一年でこのときしか映画は観ないのだから仕方ない.

さてさて,早速往路で観た映画4本の感想を.


1."Avengers"
話題作で頭を使わずに済みそうなので,まずはこれを鑑賞.事前に観たことがあるのは,アイアンマン1だけだったけれど.

内容は本当に単純.しかし,それぞれのヒーロー,ヒロインに活躍の場が用意されていて,それなりに楽しめた.私のお気に入りは,「マイティ・ソー」のクリス・ヘムズワース.なんかいい感じなんだなぁ.性格が単純直情型で,それでいて神.憎めないやつなのだ.

次は,なんといってもスカーレット・ヨハンソン.美人なのはわかるけれど,全然私の趣味じゃない(どうでもいい話だけど).しかし,たいへん魅力的なヒロインなのだ.まるでお人形さんみたいなのだけど,ときどき毒を吐く.それでいて性格がつかめない謎のスパイを素敵に演じていた.彼女の良さを知った感じがする.そして,キャプテン・アメリカ.やっぱりいかにもアメリカという感じ.アメリカが求める健全なヒーローだったなぁ.

とはいえ,このシリーズでは,アイアンマンがなんといっても主役なのだ.先日アイアンマン2もテレビ放映でみたのだけれど,ロバート・ダウニー・Jrの魅力が他の出演者とくらべ群を抜いている.彼がいなければ,この映画は成立していないのは明らかだ.

しかし,パート2があっても観に行かないかな...もっと大人のストーリーがほしかったな.

採点は星2つ(5つが満点)★★☆☆☆


2."テルマエ・ロマエ"
漫画は1巻だけ読んだ.ずいぶん面白い原作だったので,映画も期待して観た.阿部寛も上戸彩も私の大のお気に入りなのだし.

話の前半は漫画のエピソードを踏襲.阿部寛がやっぱりコメディーでいい味を出していて,笑いが止まらなかった.原作には登場しない上戸彩の役がなんともいえないのだけれど,上戸彩がかわいいから何でも許す(笑).後半は映画オリジナルなストーリー展開で,少し間延びした感じだったけれど,総じて楽しめる映画だった.海外でもウケるというのもわかる気がする.ただし,第2弾はないだろう(期待しないし).

採点は星3つ(5つが満点)★★★☆☆


3."シャーロック・ホームズ シャドウゲーム"
これこそ,ロバート・ダウニー・Jrの魅力全開.それだけでもっているような映画.観ていて本当に楽しくなる.私はBBCのドラマ「SHERLOCK」の大ファンなのだけれど,この映画のホームズ&ワトソンのコンビも大いに気に入っている.1作目も面白かったけれど,この2作目もたいへん良くできている.今回は,モリアーティ教授との対決がメイン.ラインバッハで決着がつくのだけれど,そこまでもハラハラし通しのアクション続き.あっという間にエンディングになってしまった.しかし,アドラーが開始早々死んでしまうのには本当にがっかりさせられた.もっと活躍してほしかったな...第3弾を今から期待!

採点は星4つ(5つが満点)★★★★☆

4."バトルシップ"
いかにもアメリカハリウッドの話.「インデペンデンス・デイ」を思い出した.期待しないで観たのだけれど,意外や意外,引き込まれて観てしまった.主人公のテイラー・キッチュに最初は魅力を感じなかったのだけれど,最後の方は親近感を覚えた.そして,浅野忠信が若い.実年齢よりもぐっと若く見える.そしていい活躍をするんだなぁ.彼にとっては美味しい役だった.これで世界的にも知名度が上がったかな?頭を空っぽにして楽しめる映画でオススメ.

採点は星3つ(5つが満点)★★★☆☆

復路に観た残りの5本については,また次の機会に!

2012年9月4日火曜日

藤平光一先生が外国人と組み合っている動画について

今回はマニア向けの記事です...こんな話はもう誰でも知っているのかと思っていたけれど,いまだにネットではときどき話題になっているようなので,記事にしてみました.

心身統一合氣道の宗主であった藤平光一先生の動画がYoutubeなどのサイトに,いくつかアップされているのだけれど,その中でときどき話題になるのが,柔道着を着たどうみても素人の外人と藤平光一先生が取っ組み合っている動画なのである.

この動画は白黒で画質も悪いのだけれど,まだ若かりし藤平先生が大柄の外人と組み合って,彼を少々もてあましながらも何度も尻餅をつかせ,最後は柔道の締めのような形で外人を抑えて終わりとなるという珍しい記録映画の一部である.

ちょっと見た感じには合氣道のスマートさが見られないし,確かに最初藤平先生も手こずるところもあるのだけれど,この映像を見て,「真剣勝負」とか「実戦」とか言って,合氣道の技術を論じる人がいるのにびっくりするのである.どうみても藤平先生が相手をこわさないように,「相手をしている」ように思えるのだけれど...

まぁ確かにこの動画を見て,合氣道は大丈夫か,と思う人もあっておかしくないとも思う.実は1991年のアメリカの雑誌「Black Belt 6月号」(102ページ)の読者投稿欄においても,この動画を見たであろう読者から,"Will Aikido Work on the Street?"というの手紙が載っている.投稿者は,技術の無いニュースレポーター相手にこの様子では,実際のストリートファイトの現場で使える合氣道の技は何年経ったら身につけることができるのだろうという疑問を呈していたのである.

この疑問に対しては,同じ年の「Black Belt 10月号」(90ページ)において,武道ライターのDave Lowry氏が,このアメリカのテレビ局クルーによって1958年に撮影された動画の背景を説明する形で,回答,解説をしている.記事の内容は,日本人はなかなか気分良く読めないものなのだけれど,とにかく藤平先生はこのアメリカ人記者ハーマン氏を傷つけないためにどんな危険な技を使わないという約束のもと試合をした,ということはちゃんと書かれている.つまりは,そういう制約の中であのように立ち合ったということなのである.

真面目に試合をしていた,という意味では真剣勝負かもしれないけれど,あれを見て合氣道の技術を云々と批判するのはちょっと違うのかなと思う(藤平先生は,合氣道に「試合」は無いと明言されていたし).

本件については,日本の合氣道の先生もどなたか,雑誌かなにかのインタビューで,藤平先生が相手を傷つけないように大変苦労された,という話をされていた覚えがあるのだけれど,どこで読んだかすっかり忘れてしまった.

藤平先生はアメリカで合氣道のデモンストレーションをするときは,柔道の経験者を相手にされていたいという.それは投げたときに受け身ができるからであって,空手家は投げたときにケガをするかもしれないから困るとも話されていた.確かに演武をするたびに,相手を傷つけていたらアメリカでの合氣道の普及にはつながらなかっただろうなと,そのご苦労が偲ばれる.

いずれにしろ,あの動画の話は誰もが知っていることだと思っていたのだけれど,まだ話題に上っているようなので,ここにメモしておく.

#この動画はどこかのサイトで探してください(ナレーション付の動画であれば,ハンディキャップの話が聞けるかもしれません)

#Black Beltの記事は,Google Booksにリンクしておきました.藤平先生の記事は1962年1月号(創刊号?その頃は9段だと紹介されています.フラダンスが非常にお上手だったとの記述もあります)から何度も掲載されていて,いかにアメリカで注目されていたのか実感できます.

2012年9月3日月曜日

伊瀬研見学会:ウインドパーク笠取

すっかりブログ更新の間隔が空いてしまいました.すみません.
これからは,少しまともなエントリもちょっとずつ書いていきたいと思います.

さて,8月30日は,伊瀬研究室恒例の見学会だった.毎年,どこか電力に関わる設備を見学しに行くことになっている.昨年は,兵庫山奥の揚水発電所を見学に行く予定だったのだけれど,台風の大雨で断念している.今回は2年ぶりの見学会ということなる.

今年は,三重県の津市と伊賀市にまたがる風力発電設備「ウインドパーク笠取」を見学させてもらった.ウインドパーク笠取の隣には,ウインドパーク美里,ウインドパーク久居榊原,そして青山高原ウインドパークが近接し,青山高原一帯の風力発電設備群を構成している.このあたりは琵琶湖から伊勢湾に抜ける北西の風が吹くことで風況がたいへんに良く,設備の稼働率が高い地域なのである(20数パーセント).そもそも「笠取山」の名称も,旅人の笠が風に飛ばされるほど強い風が吹くことから由来しているらしい.ウインドパーク笠取も風況の良い笠取山の尾根伝いに風車が設置されていて,2 MW(2000 kW)の風力発電機が19基,合計38 MWの容量を誇る.運転開始は平成22年だから,まだまだ最新鋭と言えるだろう.

タワーの高さは65 m,風車の回転直径は83.3 m.ブレード高さの最高は106 mを越えることになる.ジャンボジェット機B747の両翼の長さが64mだから,ジャンボジェット機がタワーに取り付けられてグルグルと回っているよりも大きなものが回転していることになる.残念ながら見学時,風は弱く風車はゆっくりと回転しているだけだったけれど(9 rpm),それでも十分に迫力はあった.定格時には19 rpm程度にまで回転数も上がり,そのチップスピードは時速300 kmに達するというのだから,さぞかし近寄りたくない状態になるのだろう.当日は雨も降ってきて,あたりがすっかり霧に包まれ,ブレードさえも見えない状況になった.そのうち雷鳴も聞こえてきてバスの中に避難.まったく山の中の風力発電設備というのは,たいへんな環境に設置されている.山の天気,すなわち100%近い湿度と雷の危険にいつもさらされていることなっているのだ.そもそも山の中に風車を立てるのは,世界でも日本くらいなのだし.

学生のみなさんは,風力発電設備を初めて見る人もいたようで,喜んでいた.やはり実物の迫力には座学でいくら説明しても勝てないのだと思った.百聞は一見にしかず.見学会の良さがここにある.

ここで,基本的なデータを備忘のためにまとめておく.

「ウインドパーク笠取」
事業者: (株)シーテック
風力発電機: 2000kW x 19基 = 最大38000kW
日本製鋼所製,永久磁石励磁多極同期発電機(84極,東芝)
発電機出力690V,BTB連系方式
ローター直径:83.3 m,タワー高さ: 65 m
22kV地中線にて,5基毎に直列接続(各タワーにGIS設置),
変電設備により77kV架空線集中連系
ナセルの中に,690V/22kVの変圧器と変換器が入っている.
カットイン風速3~4m/s,カットアウト風速25m/s
運転開始: 平成22年

#日本のメーカの風力発電設備というのは珍しい.ここに書けない話もたくさん伺うことができました.シーテックの方,どうも有難うございました.

2012年8月21日火曜日

最近,試験の答案の質が劣化している

期末試験の採点を終えて,疲労困憊.体力的なものよりも精神的な方が大きい.なぜなら答案用紙を眺めていると,本当に腹が立ってくるのとともに,無力感に悲しくなるからである.近年,どんどん答案用紙の「質」が下がっているような気がするのだ.

まず,文字が幼稚になってきている.もちろん以前から文字が汚い答案というものはあった.しかし,書かれている内容はしっかりしているし,なによりも文字に主張があったような気がする.しかし,それがいまはどうだろう.文字からその学生の精神年齢の低さが推し量られるような答案が目に付くようになってきたのである.文字の姿の幼稚さだけではない.小学生レベルの漢字でさえもひらがなを使っている.そんな答案を読まされていると,だんだんこちらも不機嫌になってくるのである.

次に,計算ミスが多い.それも単純な四則演算である.指数関数や三角関数,無理数なのではない.通常の電卓で可能な足し算,引き算,掛算,割り算を間違っている.大学受験に向けて,散々計算ドリルでスキルを磨いてきたのではないか?それが,今ではこちらが呆れるくらいに計算ができていない.時間不足で焦っていたのならばわかる.しかし,この試験の最中,監督をしていた私の目には結構時間は余っていたように映った(そもそもそんな分量出ていないし).確かめ算くらい行えばいいのに.そう小学校で習わなかったのだろうか.

そして,常識がない.たとえば,効率を計算する問題で,平気で100%を越える値を書いてくる学生がいる.物理法則を知らないのだろうか(もちろん,ヒートポンプのような特殊なケースを問題にしているわけではない(ヒートポンプだってちゃんと計算すれば効率100%以下である.当然だけど)).回路の抵抗で,マイナスの値を算出する学生がいる.普段からそうしたセンスがないのだろうか.

点数が悪いのは,私の講義が悪いせいなのだろう.反省する.しかし,これまで紹介してきたような答案については,学生たちの学問に対する姿勢があまりにもだらけていることの表れなのではないかと思う.そして,それが年々ひどくなっているような気がする.答案用紙を,親元に送ってやりたいくらいである.一方,就職活動のエントリーシートとなると,みんな必死で綺麗に書こうとする.つまりは大学の単位はそれに比べれば価値が低いものだろう.ならば単位を取得できず卒業できないようにすればいいのだろう...

とにかく,年々この無力感は強くなっているような気がする.そして小中学校のころから子供たちがスポイルされているのではないかという懸念は,どんどん強くなっているのだ(そう思う理由はまた別の機会に)

#今回の試験で,太陽光発電の半導体において,「電子」と同様にキャリアとして働くものの名称を問題に出したら,正答の「正孔(ホール)」の代わりに「孔子」と書かれた答案が5%ほど存在した.彼らは論語でも読んでいるのか?それだったら,もっと学問に励んで欲しい...

2012年8月19日日曜日

土砂降りと雷鳴の中,「観画談」を思い出す

金曜日の稽古において脚を痛めてしまったこともあり,今日は心身を調えるために温泉に足を運んだ.家族も誘ったけれど誰も一緒には来てくれず,寂しいけれど一人ゆっくりとした時間を確保することができた.

温泉は三田から山奥に進んだところにある「こんだ薬師温泉」.源泉かけ流しの良湯である.しかし,温泉に行く途中に車のフロントガラスの先が見えないほどの大雨に見まわれて,幸先まったく不安だったのだけれど,温泉に着くとまだ雨も降っていないらしく地面も濡れていない.やれやれと一息ついて露天風呂に身を沈めたのである.

温泉でも私は本を持ち込んでゆっくりと読むことが多い(自宅の風呂でもそうである).ところが,そのうち空からポツリポツリとやってきた.これは参ったと本をしまい,それでも湯に沈んでいると,そのうちザーッと湯面に雨滴で跳ねる波紋が一面に広がる状況になってしまった.もう前も見えないほどの土砂降り.そのうち雷も鳴りだしてあたりは騒然となってきた.ピカっときたあとにすぐにドカーンと音がするので,これは危ないと思い(いやいや音がするだけで雷というのは危なくて身の安全を確保する必要があるのですが),屋内の浴場へと退避する.内湯の窓から外を見ても,白滝のような雨の斜線でほんの少し先の景色がほとんど見えない.ただピカピカしていることだけが分かるだけである.

火災報知器が誤動作したこともあって,そのうち人がグッと少なくなった.もちろん屋外の入浴は控えるように指導があったのだけれど,ふと気づくと露天だけでなく内湯のほうも湯につかっているのが私だけという状況になっていた.そうした贅沢に内心うれしくなって,窓外を変わらずに見ているうちに,なにか変な感覚になってきた.どうも異界につながっているようなそんな怪しい気分になってくる.雨と雷との轟音の中,日常と非日常の境目があいまいになってきているような気がする.覗いている窓の向こうに何かが見えてきそうである.

ふと,幸田露伴「観画談」という作品を思い出す.ある人物が山奥の寺に宿泊中,豪雨に見舞わる.深夜の土砂降りの中,避難してたどり着いたある建屋の一室で,現実と非現実のあわいに紛れ込んでしまった経験をするというものである.この作品を読むと,露伴独特の語り口についつい引きこまれ,自分がそんな体験をしてしまいそうな気分になってしまうのだけれど,今日のそれはまさにそれを実際に体験してしまうかのような時間だった.異界を強く近くに感じた.

いつの間にか雨の降りも柔らかくなり,私も湯から上がって帰途に着いた.これで心身の疲れがとれたかどうかはよくわからない.でも,なにかしら奇妙な体験をしたことは確かである.あちらの世界は思ったほど,こちらの世界から遠くないような気がした.

#露伴には,「幻談」とか「五重塔」のような,もう天下一品の語り口をきかせる作品がある一方,種々の論考をまとめた随筆も素晴らしい.彼の博識ぶりが溢れ出ている.そちらも私は大好きだ.幸田露伴にはなにかしら惹かれるものがある.実は,「氷川清話」の中で勝海舟も彼の名前を上げているのである(露伴と海舟の時代がつながっているということに私は驚いたのだけれど)

2012年7月24日火曜日

「動じない。」: 広岡,王両氏の境地はまさに剣豪.

私が稽古している武道は,「心身統一合氣道」という.
その会長 藤平信一先生の最新刊動じない。広岡達郎氏,王貞治氏との鼎談である.



動じない。


会の主たる内容は合氣道ではあるけれど,多くの運動選手が学びに来ているということである.何を学ぶかというと,いわゆる「心身統一」.大事なときに心を静めて,事に当たる.それが恒にできたらどんなに素晴らしいだろう.それを運動選手たちは学びに来るのである.


現在となっては,トップアスリートに限らず運動選手がなにかのヒントを得るために武道を学ぶというのは,そんなに珍しいことではなくなったけれど,昭和30年代には先代の藤平光一先生がすでに野球選手の指導などを始めていたというのだからその先見性には驚かされる.


その野球選手の指導で有名なのが,王選手である.王選手が一本足打法を完成させるために学んだのが心身統一なのである.王選手に藤平光一先生を紹介した広岡氏もやはり心身統一合氣道を学んでいた.野球に活かせるヒントを武道に求めていたのである.

どのような経緯で一本足打法を完成させたかは,本書を読んでいただくことにして,私が印象に残ったのは,技術を習得するために(完成させるために)広岡,王の両氏がたいへんな猛練習を行ったということ.いまだったら,身体が壊れてしまうという理由でそんな猛練習は許されないに違いない.今の選手はケガをしやすい,と両氏がいうのも納得できるけれど,昔の人は本当にすごかった.なにが現在の選手と異なるのか.これはたいへん興味深いテーマだ.

次に印象に残ったのは,試合を真剣勝負の場として捉えていたということ.もちろん,現在の選手にとっても試合は真剣勝負の場なのだろうけれど,お二人の「真剣」とは本当に「命がけ」という言葉にふさわしい気構えがあったように思われる.ちょうどオリンピック前だけれど,「試合を楽しんでくる」という選手たちの言葉に違和感を覚える,とのお二人の言葉に私も全く同感なのだけれど,お二人がいう「真剣勝負」の厳しさは,私にはずっと遠い世界のものに感じられてしまう.それほど,異なる次元で勝負されていたのだ.


最後にぜひ書いておきたいのは,広岡氏や王氏が語る,ある意味「達人」としての境地が,昔ながらの剣豪小説のような世界に非常に近いということなのである.私達は剣豪小説に出てくるような達人の境地は,フィクションのように感じてしまうのだけれど,その世界に達するとやはりそういうような感覚になるらしい.


広岡氏の言葉.「『静止』の状態のというのは,無限に詰めていった『動』の極致.逆に言えば無限の『動』を含みながら最も安定した状態」
「『静止』に向けての動きを二分の一詰めろ」

王氏の言葉.「池の水が静かなときは,水面に映った 月 は, 月 の姿のままでくっきりと映っているでしょう。風が出て池の水面が揺れたり波立ったりしたら,月の形はぼやけてしまう.(中略)この話における月は,僕にとってはボールと思えばいいんですね」


もう形而上学的な話すぎて,とても野球の話だとは思えない...事実は,小説よりもフィクションに近いのである.講談のような話の世界が本当に達人の世界にはあるのだろう.

広岡氏によるあとがきには,本書の目的として,「藤平光一先生の功績を明らかにする」,「『教える側』と『教わる側』の心構えを再確認する」,そして,「ものごとを会得する,体得するには,どれほどの努力が必要なのか.その努力の道の遠大さ,そして目標を目指してその道に精進することの尊さ,それを導くことの尊さ,ということを再認識すること」の3つを挙げている.最初の一つはともかく(もちろん勉強にはなったけれど),残りの二つのテーマは現在の私の心構えがいかに生ぬるいかということを教えてくれた.今の私には自分に対する厳しさが足りないのだ.「もうひと努力」をこれから心がけたいものである.

藤平信一会長は,現在では米国メジャーリーグのドジャースで指導したり(今春は阪神を指導していたのが新聞に載っていたけれど),全日本女子ソフトボールチームを指導したり,と本当にトップアスリートたちを指導している.彼らアスリートたちも必要なものがわかっているのだろう.

私も同じ武道を稽古しているというのが恥ずかしいくらい未熟なのだけれど,こうした話を読むと進むべき方向が見えるような気がする.
オリンピック直前の今の時期,自分にカツを入れたい人におススメの一冊なのである.







2012年7月6日金曜日

電力と電力量

以前にも,「電力」と「電力量」の違いについて書いたのだけれど,今回は少し図を描いたので再び簡単に解説.詳細は以前の記事を参考にしてください.

「電力」と「電力量」の違いは,「パワー(仕事率)」と「エネルギー」の違いに相当します.
水槽に貯められた水について考えてみたいと思います.



水槽に貯められる水量(m^3)は水槽の容積に依存します.一方,単位時間あたりに蛇口から出力される水量(m^3/s)は,蛇口の開き方に依存します.したがって,それぞれは別の量となります.

これを電気に代えて考えてみたいと思います.
貯められた水量は,エネルギーに相当します.エネルギーですので,単位はJ(ジュール)です(ちなみに,1カロリーは4.184ジュールです).蛇口から放出される流量は,仕事率に相当します.仕事率ですので,単位はJ/s(ジュール毎秒)です.

しかし,電力の世界ではエネルギーを電力量と呼び,ジュールよりもkWh(キロワットアワー)で表すことが一般的です.一方,仕事率については出力(ときには入力)あるいはパワーと呼び,単位もジュール毎秒よりもW(ワット)やkW(キロワット)で表します


1 kWhとは,1 kWの負荷(たとえば1kWのヘアドライヤー)を1時間連続して使用したときに消費されるエネルギーを表します.
1 kW × 1 hour = 1 kWh
1 Wを1秒使用したときのエネルギーが1Jですから,1kWhは,(1kW × 3600秒)なので3600 kJ = 3.6 MJ(メガジュール)となります.

貯めることができる水量は水槽の大きさに依存するように,電力貯蔵装置(たとえば蓄電池電力貯蔵装置)では,蓄積できるエネルギー(電力量)は蓄電池の容量に依存します.一方,取り出せる流量は蛇口の開き方に依存します.これは,蓄電池に取り付けられた交流/直流電力変換器(AC/DCコンバータ)の容量に相当することになります(実際には,蓄電池の性能にも大きく依存します).


大きな電力量を蓄積できていても,小さな電力しか出力できない電力貯蔵装置もあるし,あるいは短時間の電力量しか供給できないけれど,大きな電力を出力できるという電力貯蔵装置もあるわけで,それらは用途に応じて適切に設計されることになります.

もうひとつ,電力貯蔵装置の性能指標に不可欠なのが「効率」です.効率の定義はいろいろありますが,ここでは入力した電力量に対し,出力できる電力量の比として考えます.

効率 = 出力電力量 / 入力電力量 = (入力電力量 - 損失) / 入力電力量

実は蓄積された電力量は100%出力できるわけではありません.蓄電池でも超伝導コイルでもコンデンサでも,損失が存在し,蓄積された電力量は目減りすることになります.また蛇口に相当するAC/DCコンバータにおいても損失が発生します.この損失は,水槽の水漏れに例えることができます.効率が良いといわれる蓄電池でも効率は70~80%といわれていますから,だいたい2割から3割の水が漏れてしまうという非常に質の悪い水槽と言えるかもしれません.

電力貯蔵には,蓄電池の他にも超伝導コイル,揚水,圧縮空気,電気二重層キャパシタなどがあり,蓄電池にもリチウムイオン電池やNAS電池,レドックスフロー電池,鉛蓄電池,ニッケル水素などさまざまな種類があります.こうしたものを利用した装置の性能を比較するためにも,電力と電力量の違いを理解しておきたいものです.
(その他の比較指標としては体積エネルギー密度,重量エネルギー密度,繰り返し寿命など種々なものがあります)



2012年7月4日水曜日

ユニクロのトートバッグが意外にいい

今回はめずらしくモノに関するエントリー.
国会で採決された公務員の給料削減の法案のために,倹約に倹約を重ねている私だけれど(ほんとに文房具ぐらいしか買っていないな...),先月購入したユニクロのトートバッグが思いのほか良かったというお話.

これまで,図書館やちょっとした買い物に使っていたバッグが,もう10年近くの使用のためにボロボロになっていたので,代わりのものを探していたのである.これまでのバッグもユニクロで買ったキャンパス地のトートバッグだったのだけれど,トートというのが意外に使いやすかったので,やはり次もトートと考えていた.

とはいっても,いまさらLL. Beanのトートというガラでもないし,TUMIやBriefingを買うというほどの予算もない.なにか良いモノはないかな,と探していたところ,先日ユニクロで手頃なモノを見つけたので早速購入したわけである.購入したのは,このトートバッグ.

ユニクロ x DIME コラボレーション Vol. 10 トートバッグ
(脇に付いているのは携帯入れで,前に使っていたものを取り付けているけど,そのうち外します)

定価 3990円のところを,1990円で購入.気に入っているところは,

  • 中空糸を使用しているとのことでたいへん軽い
  • 取っ手が長く,肩にもかけることができる(別途,肩かけ用のベルトもついている)
  • 黒くて無難なデザイン(ちょっとごつくて,武骨)
  • 内部が見えないように上部にチャックがついている
  • 仕分けポケットが比較的多い
  • 携帯電話用のポケットは内側がフリースになっている(ちょっと位置が悪いけど)
  • 外側にペットボトルを入れるポケットがある
  • 内部にはPCを入れるポケットがある
  • 下部に鋲がついていて,床に直置きOK.直立も可能.
  • なんといってもコストパフォーマンスが高い

実は,このシリーズ,前々から目をつけていたのだけれど,定価4000円に買うのを渋っていた.またVol.9シリーズのトートもあったのだけれど,どうも外側のポケットが気に入らなかったので今回もパス(外側にマガジンポケットがあるのが魅力ではあったのだけれど...).やっぱりVol.10のものを選択することになった.

さて,少し使ってみた印象だけれど,全然悪くない.TUMIなどに比べると安っぽさは否めないけれど,それなりに使いやすいし,収納力もある.これで2000円しないのだから文句はいうまい.これまで通勤にはYカバンのデイパックを使っていたのだけれど,季節が夏ということもあり,肩にかずく必要がないこのトートを今は重宝している.そんなに長持ちはしそうにないのだけれど,それでも今は十分満足.本当に自分はお金を使わないで満足できる人間なのだと思う(笑).

#このバッグは良いと思うのだけれど,ネットでもあまり記事が見つからないので自分で記事を書きました.





2012年7月2日月曜日

山伏と僕: 山で死んで山で再生する

本というものは,出会ったときに手に入れておかなければ,と良くいわれるのだけれど,それはこのインターネット時代においてもある程度当てはまるようだ.先週,梅田であった会議の際に立ち寄ったドーチカの旭屋書店において,ふと目にとまった本があった.

「山伏と僕」(坂本大三郎,リトルモア)


ぱらぱらとページをめくってみると,なんとなく面白そうな予感がした.しかし,会議前ということもあって,その場を通り過ぎてしまった.出版社も大手でないところが,売れずに残っているだろうという安心感につながっていたことも否めない.でも,しかし.そんなにあまくはなかったのである.逃した魚は大きいというけれど,その特徴的な黄色な表紙があとから気になって仕方がない.またちらりと見かけた版画の挿絵も記憶に残って,それが私を急かすのである(もちろん,ネットで購入すれば良いのだけれど,思い立ったらすぐに手に取りたいと思うのが人の常である).

そして日曜日.私は思いがけず独りの時間をもつことになって,梅田の街を歩いていた.そこでこの本のことを思い出し,まずは梅田駅の書店「紀ノ国屋」へ行く.店員さんに尋ねてみると,なんと在庫切れだという.そこで続いて駅2階の「Book 1st」へ.そこで調べてもらうがやはり在庫なし.近隣のBook 1stでも見つからないのだという.ちらりと書店の人が操る検索画面を見ると「朝日新聞書評」の文字が!そうなのだ.新聞に書評が載ったらしい.うぅ...これでは売り切れも仕方ない.そもそも出版社の大きさからして,仕入れ冊数が少ないことは容易に想像できるし(リトルモアさん,ごめんなさい).これはあきらめるしかないか.と思っていたのだけれど,ふとCHASKA ジュンク堂&丸善 のことを思い出す.雨もやんだ夕方の街を,最後の希望をもって茶屋町方面に歩いて行った.

CHASKAに着いて,本の検索機械の前へ行き早速調べてみる.そこには「前日7冊在庫」の文字が.2階のコーナーに行ってみると確かに置いてあった.手にとってようやくホッとする.すぐにレジに直行し購入.ふぅ.逃した魚を捕まえた,という感じ.しかし,このように,こうした本をそれなりの冊数揃えてくれている大型書店は心強い.確か大阪大学の機関誌に,当時総長であった鷲田清一先生とジュンク堂の社長の対談が掲載されたことがあったのだけれど,そのときに種々の本を揃えている書店が,その街の文化力の指標となる,みたいなことが書いてあったような,なかったような(私の考えだったかもしれませんが).素晴らしいよ,ジュンク堂!とにかく,CHASKAにこの日は救われたのでした.

さて,やっとこの本の内容(マクラが長い!).
この本は,ごく普通の(宗教やニューエイジ思想にかぶれていない)青年が,山伏の修行を通じて日本原始の信仰,すなわち自然崇拝に向かい合うという体験を通して書かれたエッセーで,肩肘張らずにあっという間に読み終えることができた.ひとことでいえば,「素朴」.ありのままの山伏修行,自然崇拝を自分の言葉で語っている.あたたかな雰囲気の彼の手による版画の挿絵も,その素朴感に一役買っているようである.

山伏というと,験力を得るとか,悟りを得るとか,とかく高尚な宗教的体験を売りにして,自尊心高そうな,つまり独善的な,上から目線の人を想像してしまうのだけれど,この著者はそんな感じが全くしない.あくまでも日常,普通目線で,それが読む私達との距離をぐっと近くさせている.そして彼が尊敬する先達も,やはり普通の人なのである.それが山伏のひとつの理想だと彼は考えているようである.

神道や密教の影響を受ける前の修験道は,もっともっとプリミティブで,山そのものに先祖が帰るという土臭いものであったのではないか,と彼はいう.自然と向き合うことそのものが目的であったのだと.それを,変な宗教的に先入観に汚されていない彼は,山伏の修行を通じて感得していくのだ.

その修行の様子は,かっこわるい(それが彼のこの作品の狙いなのだろうけれど).山を歩けばへばるし,滝に打たれればフラフラするし,「南蛮燻し」においては煙で気絶寸前に追い込まれるし,とにかく何事もたいへんな修行であることが語られる.しかし,ところどころに見受けられる自然に対する彼の感想が,本当に素直で(って,私が偉そうに言うことのではないのだけれど),読んでいるものの心に直接届くのである.

しかし,そんな彼も,本格的な山伏の修行に身を投じ,とうとう本物の山伏となってしまった.普通の人が,である(彼の職業はイラストレータらしい).とはいっても,職業的な山伏というのはあまりいないようで,多くの山伏は普通に職を持って町で生活しているらしいのだけれど(修行の時にだけ山に来る).本当の山伏になる修行は,相当たいへんらしい(守秘のため本では詳細は語られていない).それでも著者はそれを目指した.それだけ山伏が魅力的だったのだろう.こちらまでうっかりと山伏に憧れてしまいそうになるくらいである.


この本が,決して仰々しいものではなく,肩肘はらずに楽しく読めるのは,ひとえに著者の文章の気どらなさによる.本の最後には,法螺の作り方のイラストまでおまけでついている!本当に楽しい本なのである.しかし,その割にあとで考えさせられることが多い.この国の原初の人たちの自然に対する尊敬について思いをはせた.こうした本が良い本と呼ばれるのだろう.


私も山伏修行とは行かないまでも,浮き世を離れた自然の中に身を投じたいなぁ(水洗トイレがないと無理なのだけれど),と叶わぬ願いをまた持ったのでした...


#白装束は死に装束.一度死んで,母なる山の修行によって再生する.これが山伏の目的なのだという.死と再生.やはりこのテーマかと思う.

2012年6月19日火曜日

「うまくいく人」は理想の状態にフォーカスする

長期間にわたる雑務もお役目ごめんとなり,なんとか時間も確保できるようになりそうです.これから少しずつ復活いたします.さてさて,これから何をいたしましょう...ブログの更新の頻度も高くしてまいります.

さて,今回は,この人生経験の浅い私ではあるけれど,「うまくいく人」と「うまくいかない人」の違いについて考えたことを書くことにしたいと思います「うまくいかない人」というのは,なにかしらネガティブに物事を考える人だ,というのは良くいわれることなのだけれど,最近考えたことを,もう少し具体的に書いてみます.


(これからこんな話が増えてしまうかも...中二病みたいなんで(笑),いやな人は読み飛ばしておいてくださいませ

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「うまくいかない人の行動」

どうも「うまくいかない人」は,失敗したことにフォーカスしやすい.失敗を失敗として受け止めて,そのことにこだわる傾向がある.また自分の責任については目をつぶり,そうなったのは環境のせい,他人のせいだという.

どんな状況にあっても,まずは自分の責任を考えるべきであると私は思うのだけれど,そう考えない人がいる.そうした人は他人に毒を吐き,結局自分で自分を直す(治す)機会を逸している.個々の事象に気をとられ,対症療法的に自分の他に原因を探す.普通に考えてもこれではうまくいくはずがない.

「うまくいく人の行動」

一方,「うまくいく人」は,最終的な理想状態にフォーカスする.どのような状態になったら,うまくいっているといえるのか,あるいは現在はその状態に対して何が足りないのか,ということを考える.何が満たされたら,それが実現できるのかと,ゴールの視点から考える.

こうした人たちにとって,失敗はあくまでもフィードバックである.次回はアプローチを変えていく.そのための情報のフィードバックなのだと考える.別に個々の事象について必要以上に感情的になることもなく,あくまでも次のアプローチのための有益な情報として利用するのである.

このように得られたフィードバックによって自分の行動を変える.これが大切である.なわち,先の失敗の責任は自分にあると考えて行動しているのである.この世界で,自分で変えることができるものは,自分だけしかないのだから.他人や環境が変わるとしても,それはあくまでも自分が変わったことの二次的な変化でしかないはず.とにかく,自分の行動を変えることが,結果を変える有益な方法なのである.


一方,うまくいかない人にとっては,失敗の責任は他人や環境にあるのだから,それらを変えようとする.そこの無理が生じて,環境や他人との間に摩擦が起るのである.だから,また失敗するのである.さらに,映画「インセプション」の中でも出てくるけれど,「失敗のことを考えるな」といわれると,「失敗」のことを考えざるを得なくなる.失敗のことを考えることは,結局失敗のイメージトレーニングをしていることにほかならないのである.


「加点法」と「減点法」


私が学んでいる武道では,「減点法」ではなく「加点法」で考えることが大切であると指導される.「減点法」というのは,つまりは失敗にフォーカスすることにほかならない.ひとつひとつの失敗に注目し,自分や他人の評価を決めていく.しかし,他人だけでなく,自分に対しても,「加点法」であることが求められるのである.「自分に甘くなる」ということではない.次の行動を改善するために,理想の状態にフォーカスし,「加点法」で考える必要があるということなのだ.明確な目標を持ち,それを確認する方法を具体的にし,失敗をフィードバックしてアプローチを変えていく.こうしたシンプルな行動原理がうまくいく人の特徴なのだと思う.そしてこれは工学的に考えても,非常に合理的な手法であると考えられるのである.

#どうも安っぽい自己啓発の本みたいな話になってしまい,申し訳ないです.しかし,こんな単純なことにも気づかない人が多いみたいだし,そうした人にこのような話をしても,なぜか不機嫌になるだけなので,ときどきこうしたこともブログに書いていきたいと思います.

2012年6月4日月曜日

考現学 今和次郎


考現学の今和次郎の展覧会が日本民族学博物館(民博)で開催されている。私は非常に興味がそそられているのだ。

「考現学」というのは、一般にはあまり馴染みが無いと思われるけれど、赤瀬川原平、荒俣宏らによる「路上観察学会」なんて活動もあるくらいで現在にもそれなりに影響を与えている学問なのだ.現代の建築や風俗を観察し体系的に整理、分析するような活動をしている。大正後期から昭和初期に今和次郎(こん わじろう)が提唱し始めたことになっている。

荒俣宏といえば博学で有名だけれど、私が初めて考現学を知ったのも彼が書いた小説「帝都物語」に今和次郎が登場したからである。映画「帝都物語」でも彼が銀座かどこかで観察しているところが紹介されていた。いとうせいこうが演じていたと思う。それが妙に印象に残っていたのだ。

例えば、女性のスカートの短かさを三段階に分けて,銀座のある通りを行き交う女性のスカートの長さの統計をとるとか、あるいは化粧の濃さで統計をとるとか、そんなかなり身近なところから、その観察対象は広がっているのだ。

もちろん,もともとは建築学ということで,スケッチは農家や納屋などのものも多いのだが,単なる写生ではなくその絵にはそこはかとなく生活に対する暖かい視線が感じられて面白い.最初は柳田国男に同行して東北の村などでスケッチをしていたらしい.

また,マジノ線と呼ばれるフランスの対ドイツ要塞線に模した絵が描かれていて,その湾曲した線にそって言葉が書かれているスケッチもあるのだけれど,マインドマップに似ていてたいへん興味深い.放射線状に発想を記していくという行動は意外に万国共通のものなのかとも思う.しかし,それをすでに戦前から実践していた今和次郎の先見性には驚かされる.

今和次郎は,工学院大学に最後のころはお世話になっていたこともあり,今の研究資料などは工学院大学に寄付され,コレクションとして公開されているとのことである.あぁ,いつか見てみたい.

今和次郎などの活動を知って思うのは,発見はいつも観察から始まるということ.実際に起っている現象を子細に観察し,考察することからアイデアが生まれるのは,どの学問でも同じなのではないかと思う.心に銘じておきたいものである.

2012年5月31日木曜日

激しい雷雨のあとで:ワーグナー「ラインの黄金」,ヴァルハラ城への神々の入城

先日,ひどい雷雨に見舞われたことがあった.それも一日に2度もである.こんなこともあるのだと感心して夕方,学内を歩いてみれば,上空に寒気が入ってきたのか気温はずいぶんとさがっていることに気づいた.なにかしら空気も清々しさを帯びている.そんな雰囲気の中,そぞろ歩いていると楽劇「ラインの黄金」のヴァルハラ城入城のシーンが思い出された.

「ラインの黄金」は,もちろんワーグナーが作曲した楽劇(「オペラ」とは呼ばないらしい)で,舞台祝祭劇(!)「ニーベルングの指輪」4部作の最初,「序夜」と呼ばれるものである.その4場構成の4場の最後に神々が完成したヴァルハラ城に入城する際のシーンの音楽が,本当に勇壮で私も大好きなのである.

雷神ドンナーがハンマーを振るって雲を起こし,雷を落とす.このとき,演奏でもハンマーの音が雲を切り裂くように鳴り響く.すると雲は切れ,神フローが城に虹の橋をかける.演奏では,キラキラとしたメロディーが聞こえてきて,そして私の大好きな音楽が始まるのである.神々が勇壮に入城していくシーンが音楽によって描かれていく.音はどこまでも広がり壮大なまま終わっていく(実際には,炎の神ローゲが神々の黄昏を予言し呪いの言葉を吐いてハッピーエンドとは言えないのだが).このシーンで鳴り響く曲が思い出されたのである.

雷神ドンナーというのは,北欧神話でいうところのトール.英語で言えばThor(ソー).すなわち最近映画になった「マイティ・ソー」のあの「ソー」である(だから映画のヒーローもハンマー(ミョルニル)を使う).クラシック音楽の中で雷が描かれることも多いが(例えば,ウィリアムテル序曲の嵐とか,シュトラウスの「電光と雷鳴」とか,ベートーベンの「田園」など),雷の鋭さを表すといったら,この曲に勝るものはないだろう.「ヴァルハラ城への入城」では,このハンマーの一撃のあとに広がる清々しさが実に良く表現されているのだ.

この曲でお気に入りの録音は,ショルティの初めての全曲録音のものだったのだけれど(持っていたのはハイライト版だったが),それがある事情で無くなってしまったため,現在このハンマーの音が入っているCDは一枚もないのが残念至極なのである.その後に流れる「ヴァルハラ城への入城」では,レヴァイン,カラヤンの録音を聴くことが多い.結局この前も,レヴァインのメトロポリタン歌劇場の録音「コンパクト・リング」のCDを取り出して聴いてしまった(通勤時だけど).とにかく圧倒的な音楽.朝から気分がずいぶん大きくなった(笑).

以来,ワーグナーにはまっている.今日はパルジファルを聴いて運転してきた.ワーグナーは嫌う人も多いのだけれど,一度ファンになると抜けられなくなるようだ.私もワグネリアンと呼ばれる日も近そうである...

#ウォータン(オーディーン)がまたかっこいいんだなぁ,情けない男で(笑).

2012年5月24日木曜日

「分巻」は「ブンマキ」なのか「ブンケン」なのか

*今回はかなりマニアックな話です.

直流電動機には,他励式と自励式があり,自励式にも直巻電動機 (series motor),分巻電動機 (shunt motor),複巻電動機 (compound motor)などがあり,そしてまた複巻電動機にも和動複巻電動機と差動複巻電動機がある.それぞれ特徴があり,長所を活かした用途に適用されているわけだけれど,今回はそうした応用についてではなく,その名称についてである.

さて,「分巻」はなんと読むか?ということが主題である.
私は昔「ブンケン」と習った(ような気がする).確かにどこかの教科書かハンドブックに「ブンケン デンドウキ」とインデックスに載っていたのを覚えている.しかし,電気機器の講義を担当することになり,文科省の「学術用語集 電気工学編」(電気学会)で確かめてみると,「ブンマキ」となっている.確かにそうなのだけれど,なんとなく違和感がある.それはいわゆる重箱読みだからなのだろうけれど,どこかヌけているような感じがするのだ.

では,「直巻」,「複巻」は?
これも「チョッケン」,「フッケン」と習っていたはずなのだけれど,学術用語集では「チョクマキ」,「フクマキ」となっている.これも重箱読みだ.どうもしっくりこない.

一応講義では,どちらとも読めるけれど,学術用語集にしたがって「ブンマキ」,「チョクマキ」,「フクマキ」と読むことにしています,と断っている.でもついつい「ブンケン」なんて読んでしまうのだけれど...

ということで,今日は備忘のためにこの記事を書いておきます.

#「バスバー」なのか,「ブスバー」なのか,という問題も面白いのでいつか記事にしたいと思います

2012年5月22日火曜日

金環日食観察の記

遅ればせながら金環日食の話を.

家族揃って,日食観察用眼鏡を通して日食を観察した.一応,観察用眼鏡は購入しておいたのだけれど,ひとつは980円のちゃんとしたもの,もう一つは子供向け科学雑誌「かがくる」の付録のものだった.さすがに雑誌の付録の眼鏡は,長時間見ていると目がいたくなるので,専ら子供たちは値段が高い方の眼鏡を通して観察していた.一方,私はピンホールを作って紙に映し出された太陽を見ていた.

しかし,本当に感動的だった.みるみるうちに太陽が欠けていく.それを見ているだけでワクワクしてくる.「天体ショー」といわれるけれど,まさに「ショー」なのである.時間があっという間に過ぎていった.みんな朝から少し興奮気味だった.

でも実は私が住んでいるところではギリギリ「金環」にはならなかった.それはもう新聞などで知っていたのだけれど,少し残念だった.あと10kmも南下すれば金環現象が見られたのだけれど,朝通学前にそこまでする元気もなく,その上その金環現象は非常に短時間であろうことも考えて今回は断念したのである.「今回は」と書いてはみたけれど,まぁ次はあるまい.少し残念.

しかし,一部は書けていたけれどほぼリング状に太陽が光ったときは本当に美しかった.あたりは少し薄暗くなり,洗濯物干しの隙間を通った光もヘンな形をしていた.素敵な時間だった.

2009年の日食のときにも書いたけれど,古代の人々にとって日食は凶兆であることが多かった.天の岩戸の神話なんかも,いかにも日食が題材になっているような気がする.今回の日食のときも気温が下がったというのだから,こうした自然の変化は恐れを生んだに違いない.龍が太陽を飲み込もうとしているという話が生まれるのも十分に理解できるような気がする.

ということで,今回の天体観察は思いのほかうまくいった.途中曇ったりしてハラハラしもしたけれど,ほとんど問題なく観察することができた.ピンホールも良かった.子供たちに見てもらえたし,少しは役に立ったかなと思う.

ただ今回思ったのは,6/6の金星の太陽面通過についてはちょっと観察は難しいかな,ということ.ピンホールもそうだけれど,観察用眼鏡を通して見た太陽でさえずいぶんと小さい.その中を黒い点が動いていくのを観察するなんて,本当に難しいだろう.こればかりは天文台でも行かなければ観察はできなそうである.

まぁ,金環日食という,生きている間はもう見られそうにない現象をこの目で見ることができたのだから今回は満足,満足の巻なのであるのだけれど.

2012年5月21日月曜日

サンドバッグトレーニングでストレス発散

生活が飽和していた.
仕事が山積している.
ブログの更新もままならなかった.
しかし,それもなんとか底を打った.
これからまたブログも更新する機会が増えるだろう.

ブログはストレス解消の一手段である.
「書く」ことによって,頭の中が整理される.論理建てされる.これによって脳内の交通渋滞が解消され,ストレスは発散される.考えを表現することによって癒される.人間というのは,よくよく社会的動物だと思う.表現すること(その対象が他人でなく自分であったとしても)が生きていくために必要なのだから.

音楽もストレス解消の手段である.私は専ら聴く方だけれど.
この数週間,私を救ってくれた音楽は,バッハのシャコンヌ(ビオラ4台による編曲版),ブラームスのバイオリンコンチェルト(庄司紗耶香が良かった),そしてマゼールの編曲によるワーグナーの”Ring without words"(ベルリンフィルの演奏がまたすごい).
音楽はやはり素晴らしい.いつの間にかその世界に引き込まれて,感情が変わっていく.感情は無意識の産物であるならば,音楽はその無意識に直接的に働きかけるということなのだろう.論理性は要らない.暖かな優しい気分を呼び覚ましてくれる.

さて,私が最も嫌悪する人間の種類に,「感情的な人間」がある.
感情は否定しない.人は楽しい気持ち,幸せな気持ちを求めて行動するのだから.感情は大切だ.
しかし,怒りなどの感情によって,非論理的になって,ただ声を荒げるような人間は本当に嫌いだ.そのうち,開き直って感情的であることも当然だと言ったりする.それが女性であれ,男性であれ,私は許せないのである.老い始めている人間であったりすると,なおさらだ.長い人生どのように過ごしてきたのだろうと呆れるほどである.そうした人たちとは関係を持たなければ良いのだけれど,どうしてもそうした場に居合わせなければならないことがある.それは私の中に怒りの感情を生み,大きなストレスとなる.

この「怒り」のストレスの解消が難しい.ブログでも音楽でもなかなかおさめることができない.それで困っていると,ある人から運動が良いと薦められた.怒りを爆発させても,人に迷惑をかけなければいい,と言われて,「そうかな」と思った.これまでは,人を憎むことは自分が嫌な人間になるようで,そうした感情は抑制してきたのだけれど,それがまずいのかもしれない.むしろ発散すべきだったのかもしれない.

そこで,先週の金曜日,サンドバッグを叩いてみた.確かにサンドバッグを殴る分には誰にも迷惑もかからない.怒りは完全には解消できなかったけれど,まぁ少しはおさまった.おかげで身体のあちこちが筋肉痛だけれど(笑)

今回学んだのは,感情を抑制するのはやはり良くないということ.どこかで発散することが大切なのだ.抑制すると,人間の脳はなぜかその感情を何度も何度もリピートするようだ.それがまた新たな怒りを生んでいく.
そうならない前に,なんらかの形で発散し,解消していくことにしよう.別に自分は聖人になる必要はないのだから,もっと感情を抑制するのではなく,発散させることを考えよう.起ってしまった「怒り」はそうするより他がないのだ.

まずは,サンドバッグトレーニングの励行だ.これで夏前にずいぶんと体力をつけることができるだろう.

2012年4月26日木曜日

合氣道の道着について

合氣道を始められようとする方に道着の購入について尋ねられた.そういわれると,合氣道を行うための道着というのは,どこか曖昧なところがあるような気がする.そこで,これから合氣道を始められようとする方向けに,私の思うところをお話ししたいと思う.

まずは,運動できる服装で道場・教室に通い始める
私が稽古している教室でもそうなのだが,道場に通い始めの人に,道着をすぐに購入しろとは言わない.まずは運動できる服装で見学し,および少し稽古に参加することから始めることが多いと思う.だから,とにかくはじめは道場・教室に通い始めることが大切である.教室の先生があるメーカの道着を薦めてくれることもあるだろうし,他の稽古をしている人の道着を見てから決めることができる.道着を購入するのは,自分が合氣道の稽古を続けることを決意(覚悟)してからでも遅くはないのだ.

柔道着で稽古している人も多い
合氣道の道着の選択が曖昧という印象は,柔道着を着ている人も多いし,空手着で稽古している人もある割合でいることに起因しているのかもしれないと思う.私も大学に入学して合氣道を始めた際には,高校の空手道部時代に使用していた道着を着ていた.次に購入したのは,柔道着だった.なぜなら柔道着が一番安いからである.

では,合氣道着,柔道着,空手着は違うのか,という疑問が出てくる.
答えはやはり違うのである.空手着は基本的に道着をつかみ合うことも,受け身を多くとることも想定されていない.だから薄手の布地で,合氣道の稽古の中で破れやすいようである(特に肩と袖のつなぎ目部分).その分,突きや蹴りなどが出し易いようにするため,道着は動きやすく余裕があるように作られているのであるけれど.さらに襟が乱れないように,道着の内側にヒモがついていたりする.

一方,柔道着は合気道着よりずっと丈夫に作られているようである.まずは袖口などが合気道着に比べ内径が大きい.これは競技中に袖口をつかみやすくするためと考えられる.次に襟が分厚い.これも襟をもって競技をするために丈夫にするとともにつかみやすくするためだろうと思う.あとは,個人的な感想だけれど,ズボンの布地が全般的に薄く,透けやすい.だから女性が柔道着をつけるときは気をつけなければならないと思う.またズボンの丈が合気道着に比べ短いような気がする.

合気道着は,袖の内径が小さく幾分ほっそりと見える.一方で,肩の部分が広く厚く作られているような気がする.ズボンは膝行という特別な移動法が合氣道にはあるので,膝部分が広く厚く丈夫に作られていることが特徴である.布地も柔道着に比べ柔らかめで,はじめから白くなっている(晒してある?)ものが多いようである.

では,どれを選ぶか?という問題だけれど,
私はやっぱり合気道着を選ぶことをオススメする.なぜならば,一番カッコイイから.形から入ることをモットーとする私としては,道着を着た姿がカッコイイものを選ぶのだ.それが稽古を継続するモチベーションのひとつとなるのである(だれが,かっこわるい道着を着ようなどと思うだろうか?).とにかくカッコと自分の思い込み.これに勝るものは無いということなのだ.

#おまけで袴(はかま)の話.
合氣道では袴をはいて稽古する.これは,足や膝の動きを隠すためだなどといわれるけれど,実際のところは,古流柔術では大体袴をはいて稽古してきたわけなのだから,別に理由はないのだと思う.逆に言うと袴をはかない柔道の方が特殊なのだ.

合氣道では,初段をとったら袴をはくことができる,というところが多い.しかし,これは主に男性の場合で,女性は最初から袴をはくことが許されているところも多い.もともと植芝盛平先生からして,女性には袴の着用を許していた.どうも植芝先生は袴無しで女性が受け身をとっているのが気になって稽古にならなかったから,という話はどこで読んだのだったろう...?

袴の長さは,ちょうどつま先が隠れるぐらいが良いと習った.これが長すぎるとだらしがなく見えるし,稽古にも支障をきたす.また短すぎるとツンツルテンでえらくカッコが悪く見える.やはりピタリとあった長さというものがあるのだ.

袴の紐の結び方もいろいろある.合氣道は剣道とは異なるし,また杖道などとも異なる.杖道では質実剛健を良しとし,華美を嫌うから合氣道の袴の結び方を商人の結び方として嫌っている.どれがいったいホントの結び方なんだか,私もよくわからない.

#道着も道衣と書いたりする.意味が違うのかもしれない.


2012年4月25日水曜日

フィリピン武術「カリ」が流行?

更新の時間がとれず,少し間が空いてしまいました.
今日は,簡単,短く,お気楽な話題で.

映画「シャーロック・ホームズ」では,ホームズが詠春拳の遣い手になっていたけれど,最近の武道の流行はどうも「カリ」らしい.一昔前であれば,主人公が使うのは「カラテ」だったような気がするけれど,その後「カンフー」が全盛期となり,ハリウッド映画の主人公はだいたいカラテかカンフーか良く分からない技術を使って敵と戦うことが多くなっていたように思う.

特殊なところでは,セガールのように合氣道を使うとか,ショー・コスギのように忍術を使うとか,はたまたジェニファー・ロペスが主演していた映画では彼女が確かクラヴ・マガを使うとか,見た目の新しさを追うために,時にマイナーな武術を使うこともある(あるいはリアリティを離れて,まったく新しい武術を使うこともある."Gun kata"とか,シナンジュとか).

しかし,最近はフィリピン武術の「カリ」の戦闘シーンを見ることが多いような気がする.私が印象的に記憶しているのは,「ボーン・シリーズ」で主人公のマット・デーモンが新聞紙か雑誌を丸めてそれを武器のようにして戦うシーンである.あれは「カリ」ではないかと思う.いや,「エスクリマ」と呼ぶべきか.「カリ」を使うシーンを映画でみたのは,ブルース・リーの「死亡遊戯」でダン・イノサントとの戦闘シーン以来だったと思う.いや,「燃えよドラゴン」の中でも使用されていたか...細い棒(オリシ)を使用して高速に回転させることによって相手を打撃するように誘導し,致命傷を負わせる.または,ナイフを用いる技術もある.

以前に,BBCのテレビで"Mind Body & Kick Ass Moves"という,たいへん面白い世界の武術紀行番組があったのだけれど,そこでも「ダガ」というナイフの技術や,「オリシ」と呼ばれる棒の技術が紹介されていた.詠春拳の練習法のチーサオに共通するような感覚を頼りに,攻撃と防御を繰り返す稽古が特徴的で,ブルース・リーが惹かれたのもわかるような気がする.

また,「SP」という映画で,主演の岡田准一さんが使用していたのもカリらしい.彼が通っていた(いる?)道場は,ブルース・リーのジークンドーの流れを汲む師範のもので,主宰はダン・イノサント派の中村頼永氏だったようである.Youtubeなどにもその技法の動画がUpされているので見ていただければわかるのだが,殺傷を目的としたかなり殺伐とした技術も多いようである(まぁ,武術なので仕方ないのだけれど).非常に展開が早い技術なので見栄えがして映画向きなのかもしれない.私にはとても習得できない武術の一つだと思われるけれど...

映画の世界でも武術の流行があるのだと,最近つくづく思う.カリの次にくる武術は何なのか?私には全くわからない(誰が現在のカリの流行を予想し得ただろうか?).ただ,いまさら「ダーティファイター」のイーストウッドのように,拳を固めて殴り合うようなストリートファイトの時代にはもう戻れないことだけは確かだと思うけれど.

2012年4月13日金曜日

シャーロック・ホームズは詠春拳の遣い手か?

昨日のシャーロック・ホームズの話で思い出したのだけれど,シャーロック・ホームズはボクシングやバリツと呼ばれる謎の武術をたしなみ,その腕前は相当のものだという設定である.

最近,テレビで放映されていたロバート・ダウニー・Jr主演の映画「シャーロック・ホームズ」において,ホームズが賭けボクシングの試合に出ているようなシーンがあった.そのアクションを見ていて,ホームズはどうもボクシングというには違和感がある技術を使っていた.手は開手だし,手腕を用いた受け技を多用している.どちらかというと,ブルース・リーが創始したジークンドーに似ているような印象だった.

その後,ロバート・ダウニー・Jrの経歴を見る機会があって,やはり彼は中国拳法を学んでいる(いた?)らしい.それも「詠春拳」とのこと.それで納得.ブルース・リーを私が思い出すわけである.

ブルース・リーの師匠はイップ・マンと呼ばれるたいへん有名な拳法家だった.最近,このイップ・マンを主人公にした映画がいくつか作られている(2本はドニー・イェン主演で.ウォン・カーウェイもトニー・レオンを主演として現在制作中とのこと).創始者が女性とも言われる拳法なのだけれど,その内容はとても激しい.とても私には習得できそうにない武術である...

映画のこともあり,もう少し日本でも知名度が上がってもおかしくないとは思う.まぁ,ロバート・ダウニー・Jrが学んだ,としても知名度が上がるようには思えないのだけれど.

2012年4月12日木曜日

イザイの無伴奏バイオリン・ソナタを弾いてみたい

私はほとんど楽器を演奏することはできないのだけれど(リコーダを音楽の授業でやったくらい),もしもどれかの楽器を練習する,となったら,バイオリンはその有力候補である.すっくと舞台の上に立ち,おもむろにバイオリンをアゴに挟んで弾き始める.なんてかっこいいのだろう!

シャーロック・ホームズはバイオリンが得意なのをご存じだろうか?彼はプロ並みの腕前で,物思いにふけるとき,独りバイオリンを奏でたりするのである.最近のシャーロック・ホームズの映画(ロバート・ダウニー・Jr主演のもの)でも,彼の部屋にバイオリンが置いてあった.無造作に手に取ったりしていたけれど,確か彼のバイオリンはストラディバリウスだったのではないだろうか.まぁ,それを無頓着に取り扱うというのが,ホームズらしいといえばらしいのだけれど.とにかくバイオリンは「できる人」が演奏する,というイメージがあり,憧れてしまう.

私がもしもバイオリンが思い通りに弾けるようになったら,演奏してみたい曲というのがある.まずは,

J.S. バッハ「無伴奏バイオリン ソナタ・パルティータ」

これはやっぱり外せない.あの有名なシャコンヌが含まれるパルティータ第2番をはじめ,名曲揃いの組曲である.あぁ,これが弾けたら天国に行けるだろう,と思わずにはいられない作品である.

そして,次に弾いてみたいのが

E.A. イザイ「無伴奏バイオリンソナタ」

の6曲ある.こちらの"無伴奏"はあまり知られていないのだけれど,バッハの"無伴奏"のアバンギャルド風といった具合になっていて,相当に影響を受けている.例えば,第2番を聴くとわかるのだけれど,バッハのパルティータ3番の旋律と「怒りの日」の旋律を相混ぜた作品となっていて,たいへんに面白い.この作品のタイトルが"Obsession"というのだから,幸せでありながら終末思想に取り憑かれているということなのだろうか.それにしても,バッハの"無伴奏"というのは,作曲家にとってどれだけ高くそびえたつ作品なのか,と思わずにはいられない.超える作品などそうそう書けないよなぁ...

その他,ピアノ付ソナタであれば,フランクやブラームスなどの作品を弾いてみたいと思う.ただ,私が超絶技巧を会得し,どんな作品もミス無く弾けるようになったとしても(そんなことはありえないのだけれど),奏でた音楽が薄っぺらで,人を感動させるのになにかが足りない,そんな状況だったらたぶん絶望するだろうな,と思ってしまう.人並み外れた訓練をしても,その演奏で人を感動させることができないなんて.技術の才と音楽の才は両立しないこともありうるのだろう.そういった面で創造主は残酷である.

そう考えると,はてさてロボットの演奏家で人を感動させることができるのはいつのことだろうか.

2012年4月10日火曜日

桜のつぼみの下,たこ焼きを焼く

昨日は大阪では桜が満開との発表があったらしい.週末は寒かったけれど急に暖かくなって一斉に花が開いたということかもしれない.花見にはちょうど良い一日だったに違いない.

伊瀬研究室では本日が花見BBQの予定である.新M1のみなさんの歓迎の意味で毎年恒例でこの時期に行っている.今日の予報を見る限り,なんとか天気も持ちそうだし,少しは暖かい中でビールが飲めそうである.

先週末は寒かった.私が住んでいる兵庫の山奥は大阪よりも気温が3度くらい低いこともしばしばなので,まだ桜はあまり咲いていない.しかし,土曜日(4/7)には例年通り近くの公園で自治会主催の「さくらまつり」が開催された.もちろん,桜の花はほとんどなし.木にはつぼみがただあるだけの寂しい雰囲気だった.

今年は我が家は自治会の役に入っているので,私も朝から駆り出されて模擬店の手伝いをする.私のグループは「たこ焼き」を担当.私は生地の撹拌係という有り難いお役目を与えられ,朝からずっと電動ドリルの先に撹拌器をつけて,バケツの中の「たこ焼きミックス」をかき混ぜていた.ひたすら,水と粉と卵を入れた生地のもとを電動ドリルでかき混ぜる.かき混ぜが甘いと「ダマ」が生地の中に残ってしまい,「焼き係」の方から苦情が入る.ふたりで担当していたのだけれど,結構な労働だった.ずっと立ちっぱなしだったし.おかげでまだ私のふくらはぎは痛いままである.

そんな単純重労働だったけれど,一緒に担当していた方が,朝の10時からビールを飲もうと言ってくださって,それでなんとか救われた.途中からたこ焼きもつまみとして食べることができたし.終わる頃には私はもうべろべろに酔っ払ってしまっていたけれど,なんとか楽しく終えることができた.

次回は夏祭り.灼熱の中,たこ焼きを作らなければならないらしい.また,ビールを飲む余裕も無いらしい.今からそれが恐ろしい.まずは,それまでになんとか体力をつけるしかない.

桜と阪急電車(北千里駅前)

2012年4月6日金曜日

「火垂るの墓」が大の苦手

私は映画を観るのは大好きなのだけれど,最近は全く映画館に足を運ぶ機会がないから,残念ながらこのブログでは映画の話題が少ない.DVDを借りてみるという時間も無いので,どうも私もつまらない.もっともっと新作,旧作,名作を観たいと思っているのに.

映画好きといっても,これまでの人生でそんなに数を観ているわけでもない.話題作であっても観ていないものも多い.実は「ラピュタ」なんてのも一度も観たことがない.だから「バルス」がなんなのかさえ理解できない...(この話を学生にしたら「非国民」呼ばわりされたし(笑)).今年は百年の記念にあたる「タイタニック」さえ実は観たことない.私はどうも純愛とか,感動ものとかが苦手なのだ.

苦手というよりも,それらの映画を意図的に避けているフシがある.感動ものをみるのであれば,SFやアクション,それかすごく「重たい」映画に惹かれてしまう.心が病んでいる,といわれればその通りなのかもしれないが(笑),単純な純愛ものを観て感動する,というような精神構造には私はなっていないのだろう.

そんな私がうっかりと観てしまい,ボロボロに涙を流してしまった映画がある.それは「火垂るの墓」である.これは凶悪としかいいようがない,本当にひどい映画であると思う.人の涙腺を刺激するためだけに作られたアニメなのではないかと思われる.とにかくこの映画を観て大変つらい気持ちになった.

それはまだ私が大学3年生の頃だったと思う.映画好きだった私は友達を誘って「となりのトトロ」を劇場に観に行った.私が合氣道部主将で,一緒に行ったのは副将だった.これが「火垂るの墓」と二本立てで,はじめは「火垂るの墓」だった.アニメでしか描けないあの悲惨さ.その世界に私と友達はどっぷりと引き込まれてしまったのである.

それは全くの不意打ちだった.楽しいトトロを観に来たはずだったのに,この悲惨さはなんだ,と心の中で繰り返し思っていた.映画が終わって,場内が明るくなっても友達と顔を合わせるのが嫌だった.お互い泣いているのはわかっていたから.いい大人が二人ボロボロと泣いていたのである.結局ひとりずつトイレに行って顔を洗ってきて初めて話すことができた.ふたりとも「こんなひどい映画は無い」と言い合っていた.

二本目の「トトロ」が始まると,テーマ曲にあわせて場内から子供たちの合唱が聞こえた.それで救われた.しかし,その子供たちも「火垂るの墓」を観ていたのだと思うと,少しつらくなった.

ふたりは「トトロ」で救われて,街の飲み屋に出かけていった.「トトロ」がなければどんな風になっていたかわからない.それほど「火垂るの墓」は私の心を傷つけたのである.

以来,「火垂るの墓」は一度も観たことがない.テレビでなんども8月の時期に放映されていたのも知っている.でも決してチャンネルを合わせようとはしなかった.もう二度とあんな悲しい目には遭いたくないのだ.

ときどきスーパーマーケットの売り場で,「サクマドロップ」を見かける.そのたびに胃のあたりがキューっと痛くなる.私はまだ,「火垂るの墓」をひきずっているのだ.

2012年4月3日火曜日

人を呪うということ

今日はすごい雨風だった.吹田の空も暗くなってきたと思ったら,ゴーッと滝のような,まるでガソリンスタンドの洗車機で洗われている車の中にいるような横殴りの雨がスタートの合図を待っていたかのように降り始めた.私の居る建物には鎧戸が廊下についているのだけれど,そこから雨がザーザーと降り込んできていて水たまりが当たり前のようにできていた.全く窓の役割を果たしていなかった.まるでだれかが呪詛をかけたような嵐だ,と思ったのだけれど,「呪詛をかける」ということの意味についてふと考えをめぐらせた.人に呪いの言葉をかけるということの意味を実はあまり知らない人がいるのではないかと思ったのである.

ときどき,他人にひどい言葉をかける人を見かける.感情的だから悪意をむき出しにした言葉が許される,ということは絶対に無い.そして,そうした呪いの言葉は,必ずなんらかの影響をもたらすのである.その言葉を発した人に必ず.

ある人に悪意をもった言葉を投げつけられたとする.しかし,あなたの価値がそれによってなんら変わることがないことを理解すれば,その言葉によってあなたが傷つくことはない.そのことをしっかり理解する必要がある.確かに信頼していたと思っていた人からそうした言葉を言われたら悲しいだろう.しかし,相手はそれこそ感情的だからそうした言葉が出たのかもしれないし(私個人は感情的であっても決してそれを許しはしないが),もともとそうした言葉をいうような人格の持ち主であなたにふさわしい人ではなかったのかもしれない.でもあなたの価値がそれによって減ずることがないことを理解すれば,むしろ相手を憐れむことができさえすれば,その言葉はあなたに影響を及ぼさなくなるだろう.そのことによって,相手の言葉による呪いは解けるはずである.

呪いを解くために相手を許すことができれば,最高だろうけれど,私はすべての人を許せとはとてもいえない.だが相手を逆に憎むことは最悪である.それこそ相手の呪いにかかってしまうことになるのである.

大丈夫.あなたが相手を憎み,呪わなくても,その言葉を発した人は,自分のその言葉で自分を呪っているのである.心は身体とひとつである.発した言葉は,古来言霊といわれるように,自分の心の中ではそれは本当のこととなる.心の中に憎しみが生まれれば,その人の身体には必ず影響が現われる.心身一如なのである.別に梅干しを思い出すと唾が出るという具体的な例をあげるまでもない.感情は脳に,神経に,内蔵に,そして筋肉に必ず影響を及ぼす.そんなことは武道の修行を長く行っていれば当たり前のことなのだけれど,それを知らずに悪意を人にむき出しにする人は結局自分を呪っているのである.自分で自分の心と身体を痛めつけているのである.そしてその悪意は壊れた動画再生機のように,その人の心の中で何度も何度もリピートされ,心と身体に毒素となって定着する.

だから,あなたは安心していればよい.むしろ相手を憐れめばよい.相手はちゃんと自滅するのである.「人を呪わば,穴二つ」ではなく,あなたが心を健全に保つことができれば,「人を呪わば,穴ひとつ」すなわち,相手が「墓穴を掘る」だけのことなのである.(一般の人が)呪いをかけるということは,結局そういうことなのである.悪意をむき出しにした人がちゃんとバカをみるようにできているのである.

では,私はどうか.私は人を呪わずにいられるのだろうか(「魔太郎がくる!」に私はひどくシンパシーを感じてしまうけれど(笑)).少なくとも私は感情的に悪意をむき出しにするようなことはしないように努力しているつもりである.しかし,ただ言えるのは,「呪い」というのは本来「言葉による呪い」だけではない,ちゃんとした「呪い」もあるということである.武術というのは,決して体育的なものだけではない.精神的な技術も多く存在する.少しばかり長く修行していると,そういうことだけはいえる.私に言えるのはそれだけである.

#こうした話は悪意をむき出しにした人を救うことになるので,別にしなくても良いのだけれど(そしてこれまではやんわり書いてきたのだけれど),今日の嵐を見て,少し気分を変えて書いてみました.

2012年3月27日火曜日

毎年この時期に思うこと

とにかく忙しかったのである.
(そして今も忙しい)

先週は,電気学会全国大会で広島工業大学に3月21日,23日と出張し,中日の22日は大阪で卒業祝賀会・謝恩会に出席した.今週は昨日が梅田で会議で,木曜日が東京出張の予定というスケジュール.その間に,いろいろと雑務をこなしているのだけれど,どうにも時間不足は否めない.自然,ブログの更新も滞ることになる.でも,今週から少しずつまた書いていこう...

一方で,研究室の人口密度もすっかり低くなった.卒業生がいなくなったためと,春休みで現役生も学校に出てこないため,いや修士1年は就職活動のため,ということだろう.

毎年,この時期同じことを繰り返し書いているのだけれど,こうして私は大学の研究室で定点観測していることになるのだが,先を急ぐ旅人である学生たちから見れば私は道標ということなのだろう.毎年担当する学生の年齢は同じだけれど,道標である私の年齢だけは増えていく.いつかこの道標は朽ちていくのだろう.

私から見れば,毎年学生を迎え入れるのは変わらない.しかし,もちろん学生たちは同じではない.


年年歳歳花相似
歳歳年年人不同


2012年3月12日月曜日

一日に四時間くらいは,書くことの他には何もしない

フィリップ・マーロウ シリーズを書いたレイモンド・チャンドラーはある手紙の中で,うまく文章を書く秘訣をこのように書き記していた,と「ロンググッドバイ」のあとがきの中で,村上春樹は書いている.

「作家を職業とするものにとって重要なのは,少なくとも一日に四時間くらいは,書くことの他には何もしないという時間を設定することです.べつに書かなくてもいいのです.もし書く気が起きなかったら,むりに加工とする必要はありません.(中略)ただ,なにかを読むとか,手紙を書くとか,雑誌を開くとか,小切手にサインするといったような意図的なことをしてはなりません.書くか,全く何もしないかのどちらかです.(中略)ルールはふたつだけ,とても単純です.(a) むりに書く必要はない.(b) ほかのことをしてはいけない.あとのことは勝手になんとでもなっていきます」

私は,以前に書いた20%ルールでさえ守れていない.なんとか1日のうち2時間を研究にあてるようにしたい.まずはなにも成果がうまれなくてもいい.とにかく2時間は研究のことを考えて過ごすことにしよう.これをこの先の目標とする.あとできれば,30分程度はこのブログの記事書きにあてたいものである.

2012年3月8日木曜日

「遮断機」と「遮断器」

私が担当している「電気機器」という講義においては,「磁気回路」,「直流機」,「同期機」,「変圧器」,「誘導機」を取り扱う.「磁気回路」は機器ではないので,残りの4つの電気機械について学生のみなさんは勉強することになる.さてここで,「直流機」,「同期機」,「誘導機」の名称には機械の「機」を使っているのに,「変圧器」だけはウツワの「器」を使っていることにお気づきの方もいるかと思う.今回はその違いについて少し説明する.

簡単に言ってしまうと,動く機械については「機」を使い,動かないものには「器」を使うのである.
「直流機」,「同期機」,「誘導機」 は,発電機または電動機(モータ)として用いられる.すなわち動力を電力に変換する,あるいはその逆を行うわけなのだけれど,だから機械的可動部がその機器には存在する.もちろんこれらは「回転機」なので,回転軸がその可動部になる.一方,「変圧器」はどうだろう.一般的には動くところがない.こうした電気機械は「静止器」と呼ばれ,この場合は「器」の文字を用いることになっている.また,半導体を用いた電力変換器(整流器,インバータなど)は,見た目にやはり可動部が無い.したがって,「静止器」で「電力変換器」は「器」の文字を使う.

ここでややこしいのが,「周波数変換器」である(例えば,60 Hzの電力を50 Hzに変換するように,周波数を所望の値に変換する装置のこと.エアコンのコンプレッサーや電気自動車のモータは可変速で使用されることが多く(回転数を変えるということ),したがってインバータと呼ばれる周波数変換器が使用されていることが一般的である.もちろん,電車なども同様に速度に応じて回転数すなわち周波数を変化させている).半導体を用いた周波数変換器は動かないので「器」である.しかし,世の中には回転機を用いて周波数を変換するものもあるのだ.有名なものは,新幹線の電力を供給するために綱島(神奈川県横浜市)に設置された60 MVAの「回転型周波数変換機」がそれである(神奈川県南足柄市にもある).これは回転機なので「機」でなのである.

#因みに新幹線は全線60Hzで運用されており,そのために東側エリアでは50Hzから60Hzに周波数を変換する必要があるのです.綱島に近年設置された周波数変換器は半導体の静止型です

ということで,「機」と「器」はちゃんと使い分けているのである.
さて,「遮断機」と「遮断器」の話である.線路の踏切についているのは動く機械なので「遮断機」である.一方,電力系統に事故などによって大電流が流れてしまったときにその電流を遮断する(切る)ものは「遮断器」なのである.
えっ,機械式遮断器はちゃんと可動部があるじゃないかって?細かいことは言わない,言わない(笑).

2012年3月5日月曜日

偽りの物語によっても,心は癒される

先週の金,土曜日は,奈良県の信貴山に行って研修.グローバルCOEの総括を行うということだった.二日目の午前中は,心理学のお話.私たち教員や学生の能力発揮のために心理学的なアプローチを活かそうという試みが大阪大学でされていて,中心となっている先生とカウンセラーの方からご講演があった.

私の理解の範囲で内容を簡単にまとめると,私達の能力の発揮をさまたげているもののひとつにトラウマがあり,そのトラウマをなくすことによってその心理的バリアを越えることができるようになる.というもの.ここでいうトラウマというのは,私がこれまで思ってきたような,「現在の状況に重大な影響を及ぼす,精神的外傷を与えた過去の体験」という特殊なものだけではなく,現在の私達の心に影響を及ぼすさまざまな心理的経験といった広い定義であるような印象を受けた.親に虐待を受けたとか,目の前で大きな事故や事件が起った,などの経験だけではなく,親にひどく叱られたこと,あるいは過去の失敗経験,そうしたものすべてがトラウマと呼ばれてもおかしくないようである.

現在の私は,過去の経験の上に成り立っているのであって,その経験には良いものも悪いものも当然ある.そのどちらも現在の私が私であることの理由なのだが,そのすべてが必要であったかどうかは確かに別である.現在の私の活躍のバリアとなっているような経験(すなわち,トラウマ)が存在するのであれば,できればそうした経験は無かった方が有り難い.

例えば,会話をしていても相手の発言についつい腹が立つようなことがある.これはその内容について,私のトラウマが影響している可能性があるのだという.私もそう思う.あるいはなにかプロジェクトを始めようというときに,過去の経験がブレーキをかけることが確かにある.これもトラウマなのだという.こうしたトラウマはなんらかの形で解消するのが良いのだろう.

しかし,すべての悪い経験がトラウマとして解消すべきものだとは限らないのだろうと思う.ストレスは人間が生きていくためには不可欠なものだからである.どこまでが適度なストレスで,どこからが過剰なストレス,トラウマなのか,線引きは難しいのではないのかと思う.現在の私に過剰な反応を引き起こすものがトラウマなのだろうけれど,どこからが「過剰」なのか,という線引きもあいまいだからである.

とはいえ,トラウマが解消されて能力がより発揮できるようになるのであれば,それは素晴らしいことである.その講演のスライドにおいては,トラウマである経験を見つけ,リフレーミングを行うことによって解消するとあった.その手法として,Process Oriented Memory Resolution, POMRというアプローチを行うというのが,そのカウンセラーの方のお話だった.POMRという手法に限らず,こうした手法はいくつも提案されていると思われ,NLPや心身統一法など,その教えには共通するところもあると感じた.

リフレーミングというのは,過去の経験を新しい価値観によって捉え直すことであると思っているけど,それは新しい「物語」の創出なのではないかと思っている.過去の事実は変えることはできない.しかし,その捉え方は個人で変えることができる.過去の事実に関わる物語(つまり,その事実が自分与える意味づけ)を,現在の自分に影響を与えないように,あるいは都合の良いように作りかえることなのではないかと思うのである.

それは偽りの物語でも構わないのだと思う.つまりは今の自分が共感し,納得できる物語であれば,それは私の心にとっての真実となり,それによってトラウマが解消されていく.もともと記憶だって曖昧なものであるから,正確さというのはあまり重要でないのではないか.共感,納得.それらさえあれば,私の心は新しく創造された物語を真実として捉えるのだろう.

小説の物語で癒されるということも,こうした共感と納得が得られるからだと思う.登場人物と共感し,そこで展開される話をともに経験する.そこで得られた経験は,現在の私達の経験に新しい意味付けを与え,価値観の変化を引き起こす(それを自分の経験にフォーカスして行うのが,カウンセリングではないのかと思われる).そして私達は少しずつ変わっていく.

カウンセリングの効果というのは,劇的なものでないかぎり客観的な評価は難しく,またそこで行われる内容は前述の通り,客観的なものである必要は無い.ウソも方便の世界と思われる.だからこそ「うさんくささ」も確かにある(カウンセラーの方もそうおっしゃっていたが).しかし,それが私達の心の世界であり,心の中はフィクションノベルで溢れているのだ(それをマインドマップと呼ぶことも可能かもしれない).ならば,新しい物語を創出することによって,また新しい生活を手に入れることも可能なのだろう.そんなことを思った.

#心身統一合氣道との関連についてはまた別途.「心と身体はひとつ」というお話です.

2012年3月2日金曜日

分散型電源なのか,分散電源なのか

将来の電力システムにおいては,風力発電や太陽光発電が大きな役割を果たしていくと予想されている(それが主電源となるかどうかは別にして).また総合効率を改善できる熱と電気を併給するコジェネレーションの導入も進んでいくことも間違いないと思われる.こうした電源は,従来の原子力,火力,水力などの集中型電源(Centralized Generation)に対して分散型電源(Distributed Generation)と呼ばれる.

分散型電源のメリットとしては,一般的に遠隔地にある大容量発電所から遠距離を送電するシステムである集中型電源に比べ,送電損失が少ないこと,発電時に発生する熱も利用できること,一般的に細かい制御が可能であること,などが挙げられる.一方,デメリットとしては発電ユニットが小容量であるためスケールメリットが活かせず発電の効率が低くなること(熱を併給して始めて総合効率が良くなる),コストが高くなること,ユーザーが設備導入の負担をしなければならないこと,などがある(太陽光発電はスケールメリットが出にくい発電方法なので分散型電源に向いているといえる.一方,風力発電はスケールメリットが出やすいので,近年ますます大容量化が進んでおり6MW級の洋上風力発電機なども登場している(EnerconとかAlstomとか.翼直径は126mにも達するらしい)).

さて,今回の話題は技術的な話ではなく,表記の問題である.英語ではDistributed Generatorであるが,日本語では,主に,「分散型電源」と「分散電源」の2種類の表記がある.どちらが正しいのか?

最初に結論からいうと,どちらの表記も正しい.
ただし,「分散型電源」と表記するのは,「電力・エネルギー分野」に多いようである(つまり,電気学会でいうと「電力・エネルギー部門(B部門)」).一方,産業分野では「分散電源」が多い(電気学会でいうと「産業応用部門(D部門)」).

この理由を私なりに考えてみると,電力分野ではまず「集中型電源」ありきで電力システムが構築されている.この「集中型電源」を電力分野の人が「集中電源」と呼ぶことはあまり多くないような気がする(他の電源と混同されるからかもしれない).「集中型電源」があるのであれば,当然対するものは「分散型電源」である.だから電力・エネルギー分野では,「分散型電源」という表記が多いのではないかと思われる.一方,産業部門ははじめから製品が「電源」である.発電所ではない.したがって,「集中型電源」の概念に縛られることなく,「分散電源」という言葉を使用しているのではないかと推測されるのである.

しかし,これはあくまでも表記が多いか少ないかの問題であって,電気学会 電力・エネルギー部門の論文誌のタイトルを見ても,「分散型電源」と「分散電源」が混在している.論文タイトルにおいてもそうなのだから,どちらの使用も電気学会としては認めていることとなる.

さらに「分散形電源」という言葉もあるけれど,使用例は少ないようである(使用している論文もあるけれど.実は私が共著者の論文タイトルは「形」を使用している).これは,半導体電力変換器の分野において,「電圧形変換器」,「電流形変換器」というものがあり,これらは「型」ではなく「形」を使うように統一されているからである.たぶんこれも正しいとは思うのだが...

ということで,今回は技術用語に関わる雑談でした.

#「超伝導」と「超電導」の違いとか,「レーザー」と「レーザ」の違いなども面白い.またいつか(あれ,すでに記事を書いたような...)

#ひなまつりが近いですが,あれは「人形」であって「人型」ではありません.あれも「ヒトガタ」という呪の話から始まって...と話が長くなりそうなのでまた別の機会に.

2012年2月28日火曜日

話し方にリズムがなければ: 就活,人に耳を傾けてもらう話し方とは

コミュニケーションの基本,それは話し方なのだとつくづく思う.この2週間ほど卒業研究発表会,修士論文発表会の他,いろいろと,そして多くの人のプレゼンを聴いてきたのだけれど,やっぱり話し方がすべての基本なのだとあらためて感じた.耳障りな人のプレゼンはとても聴いていられない.途中で腹が立ってくるほどである.なぜこんなに腹が立つのか,そしてどんな話し方だったら良いのか,そんなことを書いてみようと思う.

この数年は私もなかなか忙しく読書をする時間もあまりとれないので,しばしば通勤の車中で講演集を聴くことが増えてきた.小説の朗読というオーディオブックという手もあるけれど(いつかチャレンジしてみたいが),私が聴くのはもっぱら作家の講演の録音が多い.

まずは小林秀雄.新潮社から講演集として5枚ほどCDが出ている(実はその後未発表音源が発見されて,文藝春秋だったろうか,付録でついていたCDも持っているのだけど).近くの図書館で借りることができたので,もちろんすべて制覇.彼の著作とはひと味違った洒脱なお話が聴けて本当におすすめである(もちろん,厳しいことも話しているけれど).アーティストの横尾忠則も小林秀雄の講演の録音を聴いて「隠居生活」を始めたというのだから,面白い.あなたもなにかが得られるかもしれない(もちろん,聴くたびに新たな発見がある).

次に面白かったのは,開高健.こちらも新潮社から発売されている講演集,CDにしておよそ4枚を聴いた.「講演が面白い小説家は,小説が面白くなくなってもう終わりだ.だから私の講演が下手なのは勘弁してもらいたい」みたいなマクラを繰り返し使っていて,のっけからぐいぐいと引き込まれる.中身はかなりハードな話をすることもあるのだけれど,そうと感じさせずに聴かせてしまう.もう見た感じそのままのしゃべりなので,ぜひぜひオススメである.

最近聴いて印象的だったのは,向田邦子.一本スジが通った品のある話し方で,真面目なのか冗談なのか,曖昧なまま話が進んでいってしまう.私が聴いたのは「言葉が怖い」という題目で話されたもの.あれだけ言葉を魔術のように自在に操る人がこの講演題目なのである.思わず聴かずにはいられなくなる.

その他,茂木健一郎養老孟司など,それはそれは面白い講演をしている.もちろん内容も素晴らしいのだけれど,共通しているのは「人が思わず耳を傾けてしまいたくなるような語り方」をしていることである.決して立て板に水といった感じで,ぺらぺらと話すわけではない.むしろ開高健などは,朴訥としていて,どちらかといえば下手の部類に入るのではないだろうか.しかし,私たちは次の言葉を息を呑んで待ってしまうのである.

「人が思わず耳を傾けたくなる語り方」とは,つまりは次から次へと言葉をつないでいくことの上手さをいうのではないことがわかる.逆にいかにパウゼ(全休止)をとるか,それがまずは大切なのではないかと思う.いわゆる「間」である.先日も私が聴くに堪えなかった学生もそうだった.矢継ぎ早に言葉をつないでいくけれど,言葉と言葉,フレーズとフレーズ,内容と内容の間に,「休止」が無いのである.

だいたい話に耳を傾けてしまう人は,この「間」の取り方がうまい.小林秀雄の講演などもそうだ.まぁ,彼はうまい講演をするために古今亭志ん生の落語をずいぶん研究したのだとか.「間」があって始めて私たちの注意を向けるだけの空白が生まれるのだ.

では,「間」を作るためにはどうすればよいのか.単に話している最中に「休止」すればよいというものではない.その前に,リズム,アクセントが必要なのだ.結局のところ,人の語りは音楽と一緒なのだ.音楽も「フレーズ」という.人の語り,話し方においても,ひとつひとつの「フレーズ」には音の高低,アクセント,レガート,クレッシェンドなどが存在するのだ.またフレーズの長さも,長短うまく組み合わせなければ単調なものになってしまう.そうしたものがうまくできていれば,自然に「休止」,「間」が生まれるのである.

文体も結局のところリズムであると村上春樹も言っている.それが才能を決めるのだと.人が耳を傾ける,あるいは文章を継続して読む,継続して見つめる.そのためには,退屈させないなにかが必要なのだ.それはリズムなのだと私も思う.先にあげた作家たちの話し方にも,独特のリズムがある.朴訥であったり,淡々であったり,落語調であったり.でも,どの講演にも音楽のような流れがあり,そしてパウゼがやってくる.その心地よさに聴衆はうっとりするのである.

もちろん声質もあるし,発声法もある.印象はほとんど非言語のコミュニケーションで決定するのだ.就活の人も自分の話している姿を動画で録画してみればいい.自分の話に耳を傾けることができるだろうか.

コミュニケーションには内容も大切だ.しかし,話し方こそその根本に必要不可欠なものである.内容ばかり気にしていても,相手の耳に届かなければ,内容がいくら良くても意味がないのだ.「心に愛がなければ どんなに美しい言葉も 相手の胸には響かない」(聖パウロの言葉より)ではなく,「話し方にリズムがなければ,どんなに美しい言葉も 相手の胸には響かない」のだ.そして,これは厳然たる事実なのである.

2012年2月23日木曜日

ARBOS<樹>: アルヴォ・ペルト

少し音楽を聴く余裕も出てきたのか,通勤の車の中でCDをかけてみた.今日は現代音楽.

アルヴォ・ペルトの"ARBOS<樹>"
ギドン・クレーメル,ヒリヤード・アンサンブル
(ただし,「アルボス」は別のオケが演奏している)

現代音楽といっても無調の難しいものではない.このペルトの作品は静謐なものが多く,むしろグレゴリオ聖歌を思わせるようなシンプルな作品となっている.こうした音楽が気持ちよく感じるということは,やはり自分が疲れているのだろうかとも思う.(以前は,同じ現代音楽でも無調で特殊なものを多く聴いていたものだけれど)

この曲を購入したのが20年近くも前だったことに気づき唖然とする.そうだ,このCDを買ったのは学部4年の頃だったと思う.

表題曲の「アルボス 」を始めて聴いたのは,たぶんテレビドラマを見ていたときだ.タイトルは忘れてしまったけれど,南果歩さんと田中裕子さんが出演されている人間関係が難しそうなドラマだったと思う.私の記憶が確かならば,そこでこの曲がかかっていたのではないかと思うのである.

その頃,クラシック,まして現代音楽なんて聴くこともなかったけれど,なにかしら不思議に印象に残りCDを探しにいったのである.アルボスという曲はどちらかといえばミニマリズムに近く,彼が「ティンティナブリ」と呼ぶ様式で単純なリズムで音列が繰り返されるだけのものである.曲も二分半に少し足りないくらいでたいへんに短い.でも,なにかしら世界がぐるぐる回るような,混乱しつつも広がっていくような,そんな錯覚を覚える曲なのである.

ペルトのその他の静謐な作品に比べ,この曲はなにか特別である.でもそれだけに一度聴いたらずっと後に引く音楽なのだ.あなたがなにかのきっかけが必要と思うならば,この曲がその役割を果たしてくれるかもしれないとも思う.



#もちろん,ペルトの他の曲も素敵です(例えば「タブラ・ラサ」とか)

※ググって,ドラマ名を調べたところ「スティル・ライフ 霧子とマリエの犯罪的同棲生活」らしいです


2012年2月22日水曜日

イタリアではエクソシストが不足している


体調が悪かったので早めに帰宅してみると,子供たちがテレビに釘付けになっている.なにかと思うと,エクソシストの特集であった.私も興味津津で見ていると,ノンフィクション作家の島村菜津氏が出演していた.おぉっと驚く.

彼女には「エクソシストとの対話」や「エクソシスト急募」などのエクソシストに関わるたいへん興味深い著作があり,このブログでも紹介してきている(彼女は日本に「スローフード運動」を紹介したことでも有名なのだが)

番組でも,イタリアにはバチカンが認めるエクソシストが数百人いるけれどどのエクソシストも悪魔祓いで忙しく,絶対数が足りないということを紹介していたけれど,これは元ネタになっている「エクソシスト急募」にも書かれているように,イタリアには精神病棟が無いことが原因となっている.心の病の人がどこにも相談のしようがないために,エクソシストが望まれているのだ.「心の病」というよりも「悪魔憑き」と思ったほうが体がよく,安心できる心理が働いているらしい.

もちろんわずかではあるけれど,説明が難しいような現象がエクソシストの儀式において起こることもあり,エクソシストは悪魔の存在を否定していないとのこと.しかし,現在エクソシストはバチカンが講習を行なっているくらい当たり前のことで,受講者もたいへん多いらしい(映画「The Rite」も題材にしている).

日本でも祓魔師と呼ばれる人達がいる.精神科や心療内科という医学がなかった時代にはやはりそうした人たちが人の心の癒しのためには必要で,それは世界共通のことなのだと思う.

今年も儀式や魔術による深層心理の操作というテーマに興味を持ち続けたいと思う.

2012年2月21日火曜日

油断を恥じる

実は先週の金曜日の夕方,太ももをひどく打撲して,いまだにうまく歩けない.金曜日の夜には左太ももが右の1.5倍まで腫れ上がり,とうとう足が曲がらなくなっていた.でも右足でなくて良かった.とりあえず車を運転して帰宅することができたから.

今回の打撲は,全くの私の油断である.本当に恥ずかしい.武道を稽古しているものとして(最近はかなり稽古量は少ないが)あってはならないことである.

池波正太郎の「剣客商売」の話に,主人公 秋山小兵衛の同門の兄弟子(だったか,弟弟子だったか)が不意打ちで殺されてしまうものがあった.それも剣ではなくて,縄におもりをつけたようなものをひっかけられて身動きを不自由にしてから殺されたのではなかったか.確か酒に酔っていたということだった思う.

秋山小兵衛は,不意打ちをした賊を怒るのではなく,油断があったその兄弟子に腹を立てるのである.「なんと情けない」と残念がる.これぞ武芸者の思いなのだろうと思う.

自らを省みれば,やはり「なんと情けない」と恥じる以外にない.もう少し,心の修行に精を出すことにしよう.

現在はようやく足も曲がるようになってきた.ゆっくりではあるけれど歩くこともできる.このつらさを忘れずに,修行に励むことにしたいもの.早く,足よ治れ,と祈るばかり.

2012年2月20日月曜日

羊をめぐる冒険:「それで救われたのかい?」「救われたよ」と鼠は静かに言った.

明日の修士論文発表会で一息つけそうなので(いや,すみません.まだ仕事がたくさん残っていますが...),今日は久しぶりにブログを更新.思いつくままに雑談を.

というわけで,とにかく忙しく,ブログどころかツイッターでつぶやく暇もなかったわけなのだけれど,そんな中,ラジオから美しいホルンの旋律が聴こえてきた.最初は何の曲かわからなくて,しばらくじっと耳を澄ませていて,そしてやっとそれがブルックナーの交響曲第4番であることに気づいた.思わずホッとする.「癒される」という言葉はあまり好きではないのだけれど,この言葉はこんなときに使うのだなと思った.

<僕> 「それで救われたのかい?」
「救われたよ」と鼠は静かに言った.

なぜか村上春樹の「羊をめぐる冒険」を思い出した.久しぶりに本を手に取りたくなる.

村上春樹自身もどこかで述べていたように(そして大勢の村上ファンが指摘しているように),「羊をめぐる冒険」はチャンドラーの傑作"The Long Good-bye"と同じ構図を使っている.私も村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」を読んでこの小説の魅力にメロメロになったのだけれど,彼もチャンドラーのこの作品にぞっこんだったのだろう.

<僕>「君はもう死んでいるのだろう?」
鼠が答えるまでにおそろしいほど長い時間がかかった.ほんの何秒であったのかもしれないが,それは僕にとっておそろしく長い沈黙だった.口の中がからからに乾いた.
「そうだよ」と鼠は静かに言った.「俺は死んだよ」

鼠は羊男の姿を借りて,一度<僕>に会いに来る.<僕>は,彼が鼠であることに途中で気づく.そしてひどく怒るフリをして,鼠が再び鼠として会いに来るように仕向ける.そして鼠がすでに死んでいることを確認をするのだ.

「ロング・グッバイ」の中では,<僕>はフィリップ・マーロウで,「鼠」は整形を施したテリー・レノックスなのである.レノックスはマーロウが自分の正体を見破っていることに気づいてこう言う.

"I suppose it's a bit too early for a gimlet.'
(ギムレットには早すぎる)

鼠四部作の最後,「ダンス・ダンス・ダンス」の中にだって,マーロウとレノックスは現われる.それは,<僕>と五反田君である.ただし,場所はバーではなくて,ピザ屋のシェーキーズだけれど.
そこで<僕>は五反田君の正体,すなわちコールガールのキキを殺した犯人であることを彼に確認する.

「どうしてキキを殺したの?」
こうした場面で描かれる友情は,読んでいて本当につらい.たとえば「羊をめぐる冒険」で鼠が自殺してから<僕>に会いに来るところなどは,読んでいて気分が重くなってくる.
問題を抱えていることを知っていながらも,嫌いにはなれない友達.マーロウにとってのレノックスであり,<僕>にとっての鼠であり,<僕>とっての五反田君なのである.そしてそれらの関係はすべて悲劇的な結末を迎えている.

村上春樹は,"Seek and Find"というテーマについて語っている.
主人公がなにかを探そうとすると,いろいろな面倒に巻き込まれ,そしてそれを見つけたときにそれがすでに失われてしまっている,ということである.これもチャンドラーの手法を真似たといっている.ただし,ここで注意したいのは,主人公は受動的に物語に巻き込まれていくということである.<僕>はマーロウのようにマッチョではないけれどタフであり,友達は裏切らない人間であるけれど,行動的ではない.受動的なのだ.ここに村上春樹の小説の重要なポイントがあるような気がする.

さらに思い出したので書いてみると,チャンドラーの「ロング・グッドバイ」はS. フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」を下敷きにしている,ということも村上春樹は,「ロング・グッドバイ」のあとがきで述べている.私がなぜここに挙げた小説がすべて好きなのか理由がわかるような気がする.

求めて得られないこと.
悲しき友情.

そうしたものがきっと私は好きなのだろう.
ただ現実でそのようなことがあってはたまらないなので,小説の世界にどっぷりと浸かるというのが良いのだろう.








2012年2月3日金曜日

ヒツジはなぜ桃太郎で活躍しないのか

今日は本当に寒かった.
しかし,目の前の仕事の山に,心の方がもっと寒い.あぁ,どうしよう...

さて,今日は節分である.節分については過去にもいくつかブログ記事を書いてきた.追儺式の方相氏は今年も見ることはできなかったけれど,各地で行われている鬼やらいの儀式はいつか,いつか目にしたいものである.

そういえば,奈良の橿原市で,鬼の顔が描かれた土器の破片が見つかったとか.平安時代後期(12世紀初め)というから,900年くらい前のものなのか.鬼瓦は7世紀からあったと新聞記事にあったから,日本人は1200年以上も鬼を怖がってきたことになる.

鬼といえば,大阪大学の近くの茨木童子をはじめとして,酒呑童子など有名な話があるけれど,印象強く覚えているのは,「舎人が夜分に笛を吹いていた.あまりの上手さに鬼が手をはたいた.そのとたん,舎人は絶命してしまった」というお話.一体どの古典に収められている話なのか忘れてしまったけれど,そのくらい鬼は恐れられていたのだろう.まるでラヴクラフトの小説のようだ.姿は見えないけれど,この現実世界に強く影響を及ぼす異世界のモノ.疫病や戦乱が続く平安の時代では鬼の存在は確かなものであっただろうけれど,誰もその姿を見たことがないという不安.その不安を祓うために,今日の豆まきの儀式があるのだ.

鬼と言えば,東北の鬼門から来ると言われ,だから丑虎(艮,うしとら)のキメラとなって,角と虎のパンツをはいているのであり,鬼を退治する桃太郎の話では,その反対の方角・南西に位置する戌,申,酉(イヌ,サル,トリ)が大活躍するのである.そこで,なぜ未(ヒツジ)が抜けているのか不思議だという記事も前に書いた.つい最近,その理由ではないかと思われることに気づいた.

なぜヒツジは桃太郎で活躍しないのか.
それは,幕末以前には日本にはヒツジはいなかったからではないかと思いついたのである.これは,村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」に出てくる.この小説では謎の羊を求めて主人公たちが北海道に渡り,かずかずの冒険をするのだけれど,その中で羊は明治頃に初めて日本に輸入されてきたという話が出てくる.小説の中のエピソードだけれど,これは本当の話らしい.主人公たちも言っているのだけれど,それまでほとんどの日本人は羊とはどういうものなのか知らなかったのだ.羊は龍などの伝説上の動物と変わりがなかったことになる.桃太郎の成立は,江戸時代よりもずいぶん昔だろうから,羊が登場して鬼退治に活躍するという話は,その頃の人たちには想像できなかったに違いない.だから,桃太郎には羊が登場しないのではないだろうか.ふとそう思いついたのである.これで少し安心した.やれやれ.

桃太郎とヒツジの謎はこれで一つ解けたような気もするけれど,イワシの頭をヒイラギに刺す風習や恵方巻のいわれもいまだ分からない.また来年までに考えてみよう.
そういえば,立春に卵が立つという話もあったっけ.伝承というのは本当に面白いなぁ.



2012年1月26日木曜日

研究会の準備にあけくれる

今週は鬼のように忙しい.
明日,あさって(27,28日)と大阪大学で電気学会 半導体電力変換研究会が開催されることになっており,その現地世話人として準備をしているからである.研究室の学生のみなさんの協力も得て,なんとか明日の開催の準備を進めてきた.明日,あさっても朝早くからの活動である.

実はこうした学会活動の多くは,今回のようなボランティアによって支えられている.学会は基本的に営利団体ではないので(運営資金程度は必要だが),こうした学会の開催などは,開催場所の大学などが中心となって準備を進めることになる.

また学会会場となる大学もある程度の大きさが求められることになるから,開催される大学も限られてくる.そうなると何年間に一度,その役割がまわってくることになる.

今回の研究会は,例年2日間の開催でのべ参加人数が200人程度と大きくないので,2会場の並行開催で可能だし,準備スタッフもそれほどの人数は要らない.これが電気学会の全国大会(本当は昨年の3月に大阪大学で開催予定だったが,震災のため中止となった)規模になると,一年近く前から数十人のスタッフ体制で準備を進めることになる.相当のマンパワーが投入されるわけだけれど(企業の方のスタッフも多い),報酬はない.ボランティアなのである.

学会というものは,それだけのボランティアを集めるだけメリットがある,ということなのだろう.いや,昔はあったというべきか.多くの学会で学会員の減少が問題となっているのを見ると,学会で発表することの価値が下がっているような気がする.ネットに論文が掲載されれば,それで事足りると考える人も多くなってきているのだろう.

しかし,学会や研究会のような発表の場は,やはり研究者にとって不可欠なものではないだろうかと思う.なによりも多くの人と議論し,大いに刺激を受ける.それが学会,研究会の醍醐味である.ネットでも討論はできるかもしれないが,もっとくだけた話をする機会も顔を合わせることによって,ぐっと増えるはずである.

もちろん学生のみなさんにとっても,学会や研究会で発表をすることは,研究者,技術者として良い経験である.そうした場を提供しつづけることも学会の役割である.

ということで,明日から研究会.とにかく無事終わって欲しいと祈るばかりなのです...

2012年1月23日月曜日

就活に効果的な自己紹介の方法とは

就活に限らず,初めての人たちに対し,自己紹介をしなければならない機会がある.私は,人前で話すのは緊張して苦手なのだけれど,まぁ,こうした職業にもついているわけだし,やっぱりそうした機会は少なくない.この前も学生と自己紹介のコツという話になったので,ここに少しまとめておく.

まず自己紹介の目的はなにか,と考えてみる.
自己紹介というと,「~大学の○○です.私の得意科目は~で,学生時代は~サークルに入っていて副将を務めていました.将来の夢は~で,国際的・グローバルに活躍する技術者になることです」みたいなありきたりなものがいまだに多いのだろうか.いや,就活関係の本などを沢山読んでいるからもう少しマシな内容になっているに違いない.

さて,ではなぜ上記のような自己紹介がダメなのだろうか.
それは,話す内容が情報の羅列であって相手の印象に残りにくいからである.そう,自己紹介とは「相手に自分を覚えてもらう」ことが目的なのである.これを忘れてはいけない.だから独りよがりでいろいろな細かいことを話しても,あまり効果的ではないのである.相手の記憶に残ってこそ,はじめてその目的が達せられるのだと心に銘じよう.

では,どのようにすれば覚えてもらいやすいのだろうか.
よく言われるとおり,自己紹介にエピソードを含めることが効果的だと思われる.人は情報の羅列よりもストーリー化されている物事の方が覚えやすいのだ.そう,記憶術にも,覚えるべきものを物語に組み込んでいく方法があるだろう.また,将棋の棋士が定跡だと棋譜を覚えることができる,あるいは音楽も前後のつながりから追っていくとメロディーを思い出すことができる,そんなことなどにも関係あるのかもしれない.要は,相手に覚えてもらいやすいエピソードを考えることである.

次に大切なのは,「相手にどのようなイメージで覚えてもらいたいか」である.
エピソードを自己紹介に含めるのは良いけれど,相手に悪いイメージで覚えてもらうのは逆効果である.すなわち,自分がアピールするべき長所が最も良く表われているエピソードを見つけるべきなのである.たとえば,自分が我慢強いということをアピールしたいのならば,人に比べて我慢した結果,大きな成功をつかんだ,みたいな話をすればよい.リーダーシップについてアピールしたいのであれば,自分が苦労してイベントを成功させた,というような話が向いている.

ここで忘れてはいけないのは,苦労の末に成功があったというストーリー展開である.
まずエピソードが単なる自慢話にならないようにしなければならない.だから,苦労をしたこと,そこから多くを学んだこと,という話の展開が必要である.次に,そうしたストーリー展開は映画「ロッキー」を見れば分かるとおり,シンプルでなおかつストレートのものの方が人の心に残りやすい.そもそも難しい話が相手の記憶に残るだろうか.エピソードは単純でなおかつ苦悩の末の歓喜というものがよいと考えられる.

最後に,大切なのは話し方,特に声の質,大きさ,そしてリズムである.
実は人は話の内容なんてあまり印象に残らない(ここまで書いてきたのに,こんな話ですみません).言語情報ではなく,視覚情報,聴覚情報がほとんどを占めるのである.声の質,大きさ,リズムはやっぱり音楽と同じなのである.人の耳に心地よくなければ相手の心が無意識に拒否してしまうのだ.自分が選んだエピソードにぴったりの話し方を練習してみよう.そして大切なのは,いかにも練習してきたという話しぶりではなく,いつもその場で話が初めて語られるように話すことである.(話し方については,いろいろと話すことがまだまだあるので,また別の機会に)

さて,自己紹介の場面.
相手は,目の前で初めてそのエピソードを語るように,しかし,自然な話法で語られる,あなたのアピールポイントのストーリー,「苦悩から歓喜」の成功譚を聞かされるとき,あなたの印象はあなたの望んだとおりのイメージで相手の心に焼き付けることができるだろう.

ということで成功を祈ります.
(そして,うまくいかなくても私は責任をとりません.あしからず)

2012年1月19日木曜日

グスタフ・レオンハルト

グスタフ・レオンハルト氏の訃報を聞く.
彼のコンサートを聴けたことは,これまでの人生の中でも最良の経験の一つである.
下記の文章は,彼のゴルトベルク変奏曲について書いたものである.

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現代のバッハといえば、真っ先に思い浮かぶのが"グスタフ・レオンハルト(GUSTAV LEONHARDT)"である。ブリュッヘンをしてそう言わしめたといわれるほど、明哲な音楽家としてあまりにも著名である。

彼は「アンナ・マクダレーナ・バッハの日記」という映画にも出演している。残念ながら未見なのだが、バッハを演じているという。まさに当たり役なのだろう。

なんといっても彼の業績は、現代の古楽器演奏の流れを確立したことである。彼の前には、現在行われているような古楽器を演奏するスタイルは無かったという。それが当たり前になった時代から聴き始めた私には信じられない話だ。現在では、バッハは古楽器で演奏する方がむしろ当たり前である。彼は数々の困難を乗り越え、道を切り開いた開拓者なのである。

彼は古楽器研究家であるとともに、音楽史の研究家でもあり、哲学者でもある。その姿は長身で品格にあふれ、まさに紳士、まさに哲学者、そしてまさに現代のバッハである。

一度だけ、彼の実演に触れたことがある(1996年)。
フランスの18世紀の作品を中心としたプログラムだった。
チェンバロのためにいつもより空調の温度をさげた会場。そこに彼が現れた。
すっくと立った長身の姿。音楽家というより、なにか大学教授といったような雰囲気を醸し出していた。

拍手も早々に切り上げられ、チェンバロの前に座る彼。会場に緊張が走る。
しかし、彼がチェンバロを弾き始めると途端に会場の緊張がほどけていく。言いようもない美しい音が弾かれるようにして広がっていく。彼の演奏している姿から一瞬たりとも目が離せなくなっていた。

ふと彼が立ち上がりお辞儀をして前半が終了した。すでに時間の流れが全くわからなくなっていた。そして会場の寒さも、もはや気にならなくなっていた。
プログラムには休憩が設けられていた。そして、チェンバロの調律のために客は一時会場から退場することになっていた。粘りに粘って私は会場から最後にでた。ドアを出るとき振り返ると舞台の袖から彼がやってきた。彼自身が調律を行うのだ。

後半は最初から暖かい雰囲気の中で演奏が行われた。彼の集中力と音楽への愉悦が会場を支配していた。
演奏がすべて終了したとき、手が痛くなるほど拍手をしながら、私は涙が流れているのに気付いた。演奏会で涙を流したのは今までにこの一回だけである。激情で熱くなったとか、悲しくて泣いたとかではない。奏でられた音楽自体は、そんな激情とはかけ離れた"品の良い"ものであったのだ。それでも私は涙を流していた。なぜなのか、その心境は複雑で今でも理由をはっきりと述べることはできない。しかし、その音楽の場に居得たこと、一期一会というべき貴重な時間を過ごしたことに感謝の気持ちがあふれていたことだけはよく覚えている。

彼の業績と録音については、多くの専門家による解説がある。興味を持たれた方は、ネットを探してみるだけでも多くの記事を見つけることができるだろう。

ここでは、このゴルトベルク(下記参照)について書いてみたい。
実は購入した当時(実演に触れる前だったが)、このCDをあまり気にとめることはなかった。可もなく不可もない演奏という印象だった。しかし、いろいろなゴルトベルクを経験し改めてこの録音を聴いてみると、その演奏の暖かさに驚いた。

テンポはそんなに速くない。むしろゆっくりとこちらに話しかけてくるような調子である。しかし、その中で行われる微妙なテンポの揺れ、間の取り方、アクセントのつけ方が、聴き手の心を一瞬キュッと捉える。本当に微妙なタイミングの揺れ、ズレだからこそ耳を惹きつけられるのだ。それでいて決して踏み外すことのない演奏の上品さが、音楽をすることの楽しさ、古楽の楽しみ方とはこういうものだということを優しく教えてくれる。

レオンハルトが育てた弟子は数多い。しかし、われわれ一般の聴き手に対しても、彼は優しい古楽の先生であるのだ。

■ゴルトベルク変奏曲
グスタフ・レオンハルト (Gustav Leonhardt)
Deutsche Harmonia Mundi
1978年録音(Cembalo)
(私が持っているこのCDでは、BWVが985となっている。988の間違いではないだろうか)

2012年1月18日水曜日

十字架でバンパイアを倒せるか

家族の間で,"Super Natural"という海外ドラマが人気らしく(私は残念ながらその話題の外にいるけど),悪霊払いなどの話に子供たちも興味を持ち始めているようだ.そこで十字架が悪魔祓いのアイテムとして出ているらしい(?)のだけれど,その話を聞いてなにをいまさら,という感じがした.きょうび十字架で倒される悪魔なんて映画にも登場していないのではないだろうか.吸血鬼でさえ,十字架でなんて倒されないだろう.もちろん,エクソシズムには必要不可欠なアイテムなのだろうけれど.

そもそも,キリストが十字架に磔になったかどうかも異説がある.聖書でもっとも古いのはギリシャ語のバージョンらしいけれど(七十人語訳聖書は聖書研究で貴重らしい(と,「考える人」という雑誌に書いてあった),キリストは十字架ではなく杭にくくりつけられて処刑されたという説もとりうるらしい.実際,当時のギリシャでは杭による処刑が多く行われていたという話もある.

まぁ,いまさら十字架でなかったなどという話であったら世界中の宗派が困るわけで,そうした学説を信じているのは本当に一部の宗派らしいけれど,そうであっても不思議はないように思う(まぁ,こうした話は,宗教の会議で何百年も議論されているだろうから,反論する余地はないだろうけれど).もともと世界中でXという形は魔除けとして使われていることが多いのだし,たとえばケルトなどでも十字架はキリスト教のシンボルとしてだけの意味を持つのではないという.

五芒星(清明判でもあるし,西洋ではペンタグラムで)とか六芒星(籠目,ユダヤの紋章,ヘキサグラム)とかあるけれど,これらもやはり魔除けである.トゲトゲしいところが魔除けたる所以なのだろうといわれている.たとえばヒイラギの枝葉などがやはり魔除けとされているように.これらがやっぱり杭のような棒が一本だけでは格好がつかないような気がする.

その他,密教や修験道などでも,九字を切ったり,五芒星を空間に描いたりする呪法が伝わったりしている(たぶんに,武術はこういう分野と近かったりする).しかし,本当にそれらは魔除けの効力があるのだろうか.九字や印には,自己催眠のアンカリングとしての役割があると思うけど(実は肉体的にも影響があるのではないかと思っている.肉体を操作することによって神経系に影響を及ぼし,心の安定を図るという役割があるのではないか),単なる十字架ではどうか,と不安に思う.十字架が信仰心を強く持つためのイコン,シンボルだとするならば,やはり魔除けには日頃からの敬虔な信仰が不可欠なのだろうと考えてしまうのである.つまりは,持っている人の心次第ということなのだ.

だから普通の人が十字架をもっていても,それはあまり意味をなさないのではないだろうか.結局,強い心あってのものなのではないかと思うのである.

というようなくだらないことを今日は考えながら車通勤したのだった.


2012年1月16日月曜日

トム・ソーヤ効果

最近,「トム・ソーヤ効果」という言葉を良く目にする(というか,私の心にバイアスがかかっているのだろうが).「トム・ソーヤ効果」というのは,トムソーヤの本の中に出てくるエピソードに起因するもので,そのお話は次の通り.

ポリーおばさんがトムのいたずらの罰としてトムに退屈で大変な壁塗りをさせるのだけれど,トムは智恵を働かし友達の前で,「壁塗りほど楽しいものはない」というようなフリをして,友達が壁塗りをしたくてたまらないように仕向けるのである.そのうち,壁塗りをやりたくてたまらない友達がつぎつぎと現われ,自分たちの宝物まで差し出して,やらせてもらうようになる.トムは,壁塗りを友達にやらせ,宝物もせしめ,最後にはおばさんにも褒められるという話なのである.「罰」であるお手伝いが,誰もが競ってやりたいと思わせる「遊び」に変わるというところが,この話のキモなのである.

トムは最初にやりたがる友達をワザと断ることによって,「壁塗り」の魅力を増すようなテクニックまで使っている.つまり,簡単には手に入れることができない状況を作り出すことによって,多くの人が逆に魅力を感じるようにさせているのである.これが「トム・ソーヤ効果」と呼ばれているらしい.

しかし,私の考えでは,つらい仕事も見方を変えることで楽しい仕事に変えることができる,というのも,この話の示すところであるように思う.自分の仕事もつらくて退屈だとばかり思うのではなく,それを「遊び」と思えば楽しく,継続して続けることができるだろう.そんなことを,最近この言葉を目にして思ったのである.

ただ,自分をだます,というのが最も難しいのだともすぐに気づいたのだけれど...





2012年1月13日金曜日

「世界三大」,「日本三大」は3番目のものが面白い

もうびっくりするほど忙しくて,ブログの更新もままならぬ状態が続いておりました.でも,今は少しだけ一休み.ちょっと,ブログでも書いて気分転換しようかと思います.

さて昨日,通勤の車中でベートーベンのバイオリンコンチェルトを聴いた.久しぶりだったので,このコンチェルトが,ベートーベンだったのか,ブラームスだったのか,わかるまでしばらく時間がかかってしまった.そのうち聞き慣れたフレーズがそのうち出てきて,これはベートーベンのコンチェルトだとわかったのだけれど,ふと三大バイオリンコンチェルトとはなんだろうと疑問を持ち始めた.

まずはチャイコフスキーかな.そして,個人的にはブラームス,ベートーベンと続くのだけれど,一般的にはメンデルスゾーンだろうか.いやいや,意外にシベリウスなのかもしれない,などと思案する.

そのうち,音楽を離れて,この世に「三大~」と呼ばれるものは多いけれど,1番,2番はともかく,3番目にがクセモノなのではないかということに気づく.このバイオリンコンチェルトでもブラームス,ベートーベンとすぐに名前が挙がっても,3番目になると急に議論が紛糾するのではないだろうか.

「世界三大料理」とはなんだろうか.
フレンチ,中華ときて,3番目に来るのは,イタリアン?それとも和食?世界でこの問いを尋ねてみると,自国の料理を挙げる人が多いのではないかと思ったりする.

「日本三大大仏」.
奈良,鎌倉ときて,その次は?私は赤塚の大仏だと昔聞いた覚えがあるのだけれど,日本にはもっともっと大きな大仏がありそうな気がする.

「日本三景」といえば,天橋立,松島,安芸の宮島と来るけれど,「日本三大夜景」というとだんだん怪しくなる.神戸,函館ときてその次が思い浮かばない.

すなわち,1,2番というのは性能や美しさが際立っていて,多くの人の同意が得られやすいのだけれど,3番目以降はどんぐりの背比べであることが多いのではないかと思うのである.また,3番目くらい自分の嗜好を反映させてみたい,という願望があったりするのかもしれない.

「世界三大」とか,「日本三大」とか,話題がでるときには,なんといっても3番目が面白い.その回答にはなにか恣意的な理由が隠れていることが多そうだ.昔から「二大」とか「四大」とかいわない理由がそこにあるような気がする.

2012年1月5日木曜日

研究室旅行でスキーに出かけていた頃

今日から大学で講義が始まった.まだ,1月5日だというのに!

私が学生の頃は,始まりはだいたい8日くらいで,正月が終わってから講義が始まるまでの期間は,大学の研究室でスキーにいくのが恒例だった.

私の恩師がひいきにしている野沢温泉にいくのがもっぱらで,無料で街にある十以上の温泉にも入れるし,スキー場のコースも申し分ないし,そしてなんといってもこたつに入って野沢菜の漬物をさかなに飲むビールと日本酒が最高だった(スキーなんて,午前中に何本か滑って,あとはゲレンデのレストランで,ずっとビールを飲んでいたような気がする).

いまの学生は,そうした機会が無くなってしまって,かわいそうだと思うのは,そうしたイベントを楽しく感じた私たちの世代だけなのかもしれない.最近の若者は(いつものフレーズで申し訳ありませんが),自動車も乗らず,酒も飲まなくなってきている.雑魚寝で泊まる民宿に友達と遊びにいくなんて,全然魅力的でないに違いない.

当時,研究室で遊びに行くとなると,誰かが車を出して,何台かに分乗してスキー場に向かうことになる.スキーはもちろん研究室のバイスなどを使ってチューンナップしてものだ.そのころはまだ携帯電話など普及していなかったから,気の利いた先輩はトランシーバーセットや車無線(当然,無線の免許も取得する)を用意していて,先行している車と連絡を取りながら夜間ドライブにでかける.カーオーディオで聴くカセットはもちろんユーミン(「私をスキーにつれてって」の世界が憧れとされていた).準備を含めてスキーに行くまでのすべてが楽しみだった.

学生がお金を使って楽しむイベント.それがスキーだった.いま,スキーの人気はどうなのだろう?スノボーだって,あまり話題になっていない.なにか,スキー場は寂しくなっているような気がする.

学生の気質が変わってしまった現在,彼らの楽しみは何なのだろうかと不思議に思う.想像ができない.彼らにとって,心を奮わせるようなイベントは一年に何回あるのだろうか.