2012年7月24日火曜日

「動じない。」: 広岡,王両氏の境地はまさに剣豪.

私が稽古している武道は,「心身統一合氣道」という.
その会長 藤平信一先生の最新刊動じない。広岡達郎氏,王貞治氏との鼎談である.



動じない。


会の主たる内容は合氣道ではあるけれど,多くの運動選手が学びに来ているということである.何を学ぶかというと,いわゆる「心身統一」.大事なときに心を静めて,事に当たる.それが恒にできたらどんなに素晴らしいだろう.それを運動選手たちは学びに来るのである.


現在となっては,トップアスリートに限らず運動選手がなにかのヒントを得るために武道を学ぶというのは,そんなに珍しいことではなくなったけれど,昭和30年代には先代の藤平光一先生がすでに野球選手の指導などを始めていたというのだからその先見性には驚かされる.


その野球選手の指導で有名なのが,王選手である.王選手が一本足打法を完成させるために学んだのが心身統一なのである.王選手に藤平光一先生を紹介した広岡氏もやはり心身統一合氣道を学んでいた.野球に活かせるヒントを武道に求めていたのである.

どのような経緯で一本足打法を完成させたかは,本書を読んでいただくことにして,私が印象に残ったのは,技術を習得するために(完成させるために)広岡,王の両氏がたいへんな猛練習を行ったということ.いまだったら,身体が壊れてしまうという理由でそんな猛練習は許されないに違いない.今の選手はケガをしやすい,と両氏がいうのも納得できるけれど,昔の人は本当にすごかった.なにが現在の選手と異なるのか.これはたいへん興味深いテーマだ.

次に印象に残ったのは,試合を真剣勝負の場として捉えていたということ.もちろん,現在の選手にとっても試合は真剣勝負の場なのだろうけれど,お二人の「真剣」とは本当に「命がけ」という言葉にふさわしい気構えがあったように思われる.ちょうどオリンピック前だけれど,「試合を楽しんでくる」という選手たちの言葉に違和感を覚える,とのお二人の言葉に私も全く同感なのだけれど,お二人がいう「真剣勝負」の厳しさは,私にはずっと遠い世界のものに感じられてしまう.それほど,異なる次元で勝負されていたのだ.


最後にぜひ書いておきたいのは,広岡氏や王氏が語る,ある意味「達人」としての境地が,昔ながらの剣豪小説のような世界に非常に近いということなのである.私達は剣豪小説に出てくるような達人の境地は,フィクションのように感じてしまうのだけれど,その世界に達するとやはりそういうような感覚になるらしい.


広岡氏の言葉.「『静止』の状態のというのは,無限に詰めていった『動』の極致.逆に言えば無限の『動』を含みながら最も安定した状態」
「『静止』に向けての動きを二分の一詰めろ」

王氏の言葉.「池の水が静かなときは,水面に映った 月 は, 月 の姿のままでくっきりと映っているでしょう。風が出て池の水面が揺れたり波立ったりしたら,月の形はぼやけてしまう.(中略)この話における月は,僕にとってはボールと思えばいいんですね」


もう形而上学的な話すぎて,とても野球の話だとは思えない...事実は,小説よりもフィクションに近いのである.講談のような話の世界が本当に達人の世界にはあるのだろう.

広岡氏によるあとがきには,本書の目的として,「藤平光一先生の功績を明らかにする」,「『教える側』と『教わる側』の心構えを再確認する」,そして,「ものごとを会得する,体得するには,どれほどの努力が必要なのか.その努力の道の遠大さ,そして目標を目指してその道に精進することの尊さ,それを導くことの尊さ,ということを再認識すること」の3つを挙げている.最初の一つはともかく(もちろん勉強にはなったけれど),残りの二つのテーマは現在の私の心構えがいかに生ぬるいかということを教えてくれた.今の私には自分に対する厳しさが足りないのだ.「もうひと努力」をこれから心がけたいものである.

藤平信一会長は,現在では米国メジャーリーグのドジャースで指導したり(今春は阪神を指導していたのが新聞に載っていたけれど),全日本女子ソフトボールチームを指導したり,と本当にトップアスリートたちを指導している.彼らアスリートたちも必要なものがわかっているのだろう.

私も同じ武道を稽古しているというのが恥ずかしいくらい未熟なのだけれど,こうした話を読むと進むべき方向が見えるような気がする.
オリンピック直前の今の時期,自分にカツを入れたい人におススメの一冊なのである.







2012年7月6日金曜日

電力と電力量

以前にも,「電力」と「電力量」の違いについて書いたのだけれど,今回は少し図を描いたので再び簡単に解説.詳細は以前の記事を参考にしてください.

「電力」と「電力量」の違いは,「パワー(仕事率)」と「エネルギー」の違いに相当します.
水槽に貯められた水について考えてみたいと思います.



水槽に貯められる水量(m^3)は水槽の容積に依存します.一方,単位時間あたりに蛇口から出力される水量(m^3/s)は,蛇口の開き方に依存します.したがって,それぞれは別の量となります.

これを電気に代えて考えてみたいと思います.
貯められた水量は,エネルギーに相当します.エネルギーですので,単位はJ(ジュール)です(ちなみに,1カロリーは4.184ジュールです).蛇口から放出される流量は,仕事率に相当します.仕事率ですので,単位はJ/s(ジュール毎秒)です.

しかし,電力の世界ではエネルギーを電力量と呼び,ジュールよりもkWh(キロワットアワー)で表すことが一般的です.一方,仕事率については出力(ときには入力)あるいはパワーと呼び,単位もジュール毎秒よりもW(ワット)やkW(キロワット)で表します


1 kWhとは,1 kWの負荷(たとえば1kWのヘアドライヤー)を1時間連続して使用したときに消費されるエネルギーを表します.
1 kW × 1 hour = 1 kWh
1 Wを1秒使用したときのエネルギーが1Jですから,1kWhは,(1kW × 3600秒)なので3600 kJ = 3.6 MJ(メガジュール)となります.

貯めることができる水量は水槽の大きさに依存するように,電力貯蔵装置(たとえば蓄電池電力貯蔵装置)では,蓄積できるエネルギー(電力量)は蓄電池の容量に依存します.一方,取り出せる流量は蛇口の開き方に依存します.これは,蓄電池に取り付けられた交流/直流電力変換器(AC/DCコンバータ)の容量に相当することになります(実際には,蓄電池の性能にも大きく依存します).


大きな電力量を蓄積できていても,小さな電力しか出力できない電力貯蔵装置もあるし,あるいは短時間の電力量しか供給できないけれど,大きな電力を出力できるという電力貯蔵装置もあるわけで,それらは用途に応じて適切に設計されることになります.

もうひとつ,電力貯蔵装置の性能指標に不可欠なのが「効率」です.効率の定義はいろいろありますが,ここでは入力した電力量に対し,出力できる電力量の比として考えます.

効率 = 出力電力量 / 入力電力量 = (入力電力量 - 損失) / 入力電力量

実は蓄積された電力量は100%出力できるわけではありません.蓄電池でも超伝導コイルでもコンデンサでも,損失が存在し,蓄積された電力量は目減りすることになります.また蛇口に相当するAC/DCコンバータにおいても損失が発生します.この損失は,水槽の水漏れに例えることができます.効率が良いといわれる蓄電池でも効率は70~80%といわれていますから,だいたい2割から3割の水が漏れてしまうという非常に質の悪い水槽と言えるかもしれません.

電力貯蔵には,蓄電池の他にも超伝導コイル,揚水,圧縮空気,電気二重層キャパシタなどがあり,蓄電池にもリチウムイオン電池やNAS電池,レドックスフロー電池,鉛蓄電池,ニッケル水素などさまざまな種類があります.こうしたものを利用した装置の性能を比較するためにも,電力と電力量の違いを理解しておきたいものです.
(その他の比較指標としては体積エネルギー密度,重量エネルギー密度,繰り返し寿命など種々なものがあります)



2012年7月4日水曜日

ユニクロのトートバッグが意外にいい

今回はめずらしくモノに関するエントリー.
国会で採決された公務員の給料削減の法案のために,倹約に倹約を重ねている私だけれど(ほんとに文房具ぐらいしか買っていないな...),先月購入したユニクロのトートバッグが思いのほか良かったというお話.

これまで,図書館やちょっとした買い物に使っていたバッグが,もう10年近くの使用のためにボロボロになっていたので,代わりのものを探していたのである.これまでのバッグもユニクロで買ったキャンパス地のトートバッグだったのだけれど,トートというのが意外に使いやすかったので,やはり次もトートと考えていた.

とはいっても,いまさらLL. Beanのトートというガラでもないし,TUMIやBriefingを買うというほどの予算もない.なにか良いモノはないかな,と探していたところ,先日ユニクロで手頃なモノを見つけたので早速購入したわけである.購入したのは,このトートバッグ.

ユニクロ x DIME コラボレーション Vol. 10 トートバッグ
(脇に付いているのは携帯入れで,前に使っていたものを取り付けているけど,そのうち外します)

定価 3990円のところを,1990円で購入.気に入っているところは,

  • 中空糸を使用しているとのことでたいへん軽い
  • 取っ手が長く,肩にもかけることができる(別途,肩かけ用のベルトもついている)
  • 黒くて無難なデザイン(ちょっとごつくて,武骨)
  • 内部が見えないように上部にチャックがついている
  • 仕分けポケットが比較的多い
  • 携帯電話用のポケットは内側がフリースになっている(ちょっと位置が悪いけど)
  • 外側にペットボトルを入れるポケットがある
  • 内部にはPCを入れるポケットがある
  • 下部に鋲がついていて,床に直置きOK.直立も可能.
  • なんといってもコストパフォーマンスが高い

実は,このシリーズ,前々から目をつけていたのだけれど,定価4000円に買うのを渋っていた.またVol.9シリーズのトートもあったのだけれど,どうも外側のポケットが気に入らなかったので今回もパス(外側にマガジンポケットがあるのが魅力ではあったのだけれど...).やっぱりVol.10のものを選択することになった.

さて,少し使ってみた印象だけれど,全然悪くない.TUMIなどに比べると安っぽさは否めないけれど,それなりに使いやすいし,収納力もある.これで2000円しないのだから文句はいうまい.これまで通勤にはYカバンのデイパックを使っていたのだけれど,季節が夏ということもあり,肩にかずく必要がないこのトートを今は重宝している.そんなに長持ちはしそうにないのだけれど,それでも今は十分満足.本当に自分はお金を使わないで満足できる人間なのだと思う(笑).

#このバッグは良いと思うのだけれど,ネットでもあまり記事が見つからないので自分で記事を書きました.





2012年7月2日月曜日

山伏と僕: 山で死んで山で再生する

本というものは,出会ったときに手に入れておかなければ,と良くいわれるのだけれど,それはこのインターネット時代においてもある程度当てはまるようだ.先週,梅田であった会議の際に立ち寄ったドーチカの旭屋書店において,ふと目にとまった本があった.

「山伏と僕」(坂本大三郎,リトルモア)


ぱらぱらとページをめくってみると,なんとなく面白そうな予感がした.しかし,会議前ということもあって,その場を通り過ぎてしまった.出版社も大手でないところが,売れずに残っているだろうという安心感につながっていたことも否めない.でも,しかし.そんなにあまくはなかったのである.逃した魚は大きいというけれど,その特徴的な黄色な表紙があとから気になって仕方がない.またちらりと見かけた版画の挿絵も記憶に残って,それが私を急かすのである(もちろん,ネットで購入すれば良いのだけれど,思い立ったらすぐに手に取りたいと思うのが人の常である).

そして日曜日.私は思いがけず独りの時間をもつことになって,梅田の街を歩いていた.そこでこの本のことを思い出し,まずは梅田駅の書店「紀ノ国屋」へ行く.店員さんに尋ねてみると,なんと在庫切れだという.そこで続いて駅2階の「Book 1st」へ.そこで調べてもらうがやはり在庫なし.近隣のBook 1stでも見つからないのだという.ちらりと書店の人が操る検索画面を見ると「朝日新聞書評」の文字が!そうなのだ.新聞に書評が載ったらしい.うぅ...これでは売り切れも仕方ない.そもそも出版社の大きさからして,仕入れ冊数が少ないことは容易に想像できるし(リトルモアさん,ごめんなさい).これはあきらめるしかないか.と思っていたのだけれど,ふとCHASKA ジュンク堂&丸善 のことを思い出す.雨もやんだ夕方の街を,最後の希望をもって茶屋町方面に歩いて行った.

CHASKAに着いて,本の検索機械の前へ行き早速調べてみる.そこには「前日7冊在庫」の文字が.2階のコーナーに行ってみると確かに置いてあった.手にとってようやくホッとする.すぐにレジに直行し購入.ふぅ.逃した魚を捕まえた,という感じ.しかし,このように,こうした本をそれなりの冊数揃えてくれている大型書店は心強い.確か大阪大学の機関誌に,当時総長であった鷲田清一先生とジュンク堂の社長の対談が掲載されたことがあったのだけれど,そのときに種々の本を揃えている書店が,その街の文化力の指標となる,みたいなことが書いてあったような,なかったような(私の考えだったかもしれませんが).素晴らしいよ,ジュンク堂!とにかく,CHASKAにこの日は救われたのでした.

さて,やっとこの本の内容(マクラが長い!).
この本は,ごく普通の(宗教やニューエイジ思想にかぶれていない)青年が,山伏の修行を通じて日本原始の信仰,すなわち自然崇拝に向かい合うという体験を通して書かれたエッセーで,肩肘張らずにあっという間に読み終えることができた.ひとことでいえば,「素朴」.ありのままの山伏修行,自然崇拝を自分の言葉で語っている.あたたかな雰囲気の彼の手による版画の挿絵も,その素朴感に一役買っているようである.

山伏というと,験力を得るとか,悟りを得るとか,とかく高尚な宗教的体験を売りにして,自尊心高そうな,つまり独善的な,上から目線の人を想像してしまうのだけれど,この著者はそんな感じが全くしない.あくまでも日常,普通目線で,それが読む私達との距離をぐっと近くさせている.そして彼が尊敬する先達も,やはり普通の人なのである.それが山伏のひとつの理想だと彼は考えているようである.

神道や密教の影響を受ける前の修験道は,もっともっとプリミティブで,山そのものに先祖が帰るという土臭いものであったのではないか,と彼はいう.自然と向き合うことそのものが目的であったのだと.それを,変な宗教的に先入観に汚されていない彼は,山伏の修行を通じて感得していくのだ.

その修行の様子は,かっこわるい(それが彼のこの作品の狙いなのだろうけれど).山を歩けばへばるし,滝に打たれればフラフラするし,「南蛮燻し」においては煙で気絶寸前に追い込まれるし,とにかく何事もたいへんな修行であることが語られる.しかし,ところどころに見受けられる自然に対する彼の感想が,本当に素直で(って,私が偉そうに言うことのではないのだけれど),読んでいるものの心に直接届くのである.

しかし,そんな彼も,本格的な山伏の修行に身を投じ,とうとう本物の山伏となってしまった.普通の人が,である(彼の職業はイラストレータらしい).とはいっても,職業的な山伏というのはあまりいないようで,多くの山伏は普通に職を持って町で生活しているらしいのだけれど(修行の時にだけ山に来る).本当の山伏になる修行は,相当たいへんらしい(守秘のため本では詳細は語られていない).それでも著者はそれを目指した.それだけ山伏が魅力的だったのだろう.こちらまでうっかりと山伏に憧れてしまいそうになるくらいである.


この本が,決して仰々しいものではなく,肩肘はらずに楽しく読めるのは,ひとえに著者の文章の気どらなさによる.本の最後には,法螺の作り方のイラストまでおまけでついている!本当に楽しい本なのである.しかし,その割にあとで考えさせられることが多い.この国の原初の人たちの自然に対する尊敬について思いをはせた.こうした本が良い本と呼ばれるのだろう.


私も山伏修行とは行かないまでも,浮き世を離れた自然の中に身を投じたいなぁ(水洗トイレがないと無理なのだけれど),と叶わぬ願いをまた持ったのでした...


#白装束は死に装束.一度死んで,母なる山の修行によって再生する.これが山伏の目的なのだという.死と再生.やはりこのテーマかと思う.