2013年7月22日月曜日

最近,寝返りをうつことが少ないような気がする

最近歳をとったなぁ,と思ったのは,寝ついた姿のまま目が覚めたときである.すなわち,寝返りをほとんど打っていないということに気付いたときである.

赤ん坊や子供を見ると,頻繁に寝返りを打って体勢を変えていることがわかる.それが私の場合,寝返りの頻度が明らかに少ないようで,布団に入ったそのままの姿勢に近い格好で目が覚めるのだ.

寝返りとはずっと同じ姿勢で横になっていることの無理を直すために行うとするならば,私の現在の状況は身体にずいぶんと悪いのではないかと心配している.歳をとると長時間寝ることができなくなるのは,このように寝返りをせず,身体に無理がかかって,疲れてしまうからなのではないかと思う.

私は寝つきはすばらしく良いのだけれど,そのあとがあまりうれしくない.動かない分,眠りが深いというわけでもないようだ.現在,うまく寝返りを増やすような対策はないものかと探している.

歳をとったら誰でもそうなるのだ,といわれると仕方がないのだけれど.

2013年7月19日金曜日

松田龍平演じるミズタクを好きにならない女の子なんているんだろうか?

週末なので,ブログの話題も軽いものに.

最近ハマッているテレビドラマといえば,なんといっても「あまちゃん」で,もう何十年かぶりに毎朝放映を観ている.こんなことは,斎藤由貴の「はね駒」以来ではないだろうか?(古)

もう「あまちゃん」は,世間的に大ブームでここで私があらためて書くこともないのだけれど,今週の放映を観てどうしても書きたくなってしまった.それは,松田龍平演じる「水口琢磨」(ミズタク)の格好良さについてである.

なにがどうって,とにかく最近彼がカッコいいのだ.45歳を過ぎた私のようなおじさんが言うのもなんだけれど,すごくカッコいい.昔ながらの二枚目の格好良さではない,清潔でもない,ニヒルでもない,新しい魅力的な男性像を作りだしている.

なにが今までと違うって,まずミズタクは笑わない.無表情である.何を考えているかわからず,一見クールである.しかし,冷淡に見えるのは外見だけ.実の中身は,主人公アキちゃんが驚くほど熱い.これまでもその感情の熱さはところどころに現われてきた.しかし,今週の,田舎に帰省したまま東京に帰ってこないアキを連れ帰るために北三陸にやってきたときのエピソードで放出された熱量といったらどうだろう.もうこの私でさえ,メロメロになるようなものだったのだ.

連れ戻す前,東京でアキ宛に吹き込んだ留守電のセリフもいい.留守電の録音時間が切れて新しくメッセージを残すたびに「水口です」と,感情的な言葉の間に律儀に名前を入れていく(観ていない人には全然わからない話ですみません).そこに垣間見えるミズタクの性格がいい.

また,アキの家に来て,アキが留守電を聞いていないことを知ってアキを叱るところの言葉の使い方もいい.セリフは倒置法で,感情が先走るため,短く言葉が繋がれていく.そして,その難しいセリフを自分のものとして話す松田龍平が本当に素晴らしい.

さらに,役を自分のものとするということでは,ミズタクのファッションもいい.決してかっこつけた服装はしていないのだけれど(スーツはしわしわ,ネクタイも曲がっている,コートもしわしわ),どれもがミズタクのものとしてふさわしく,それらがひとつひとつカッコ良く見えてくるから不思議だ.彼の部屋着も単なるスウェットの上下だったりするのだけれど,彼の長い手足に良く合っていて,こちらもすごくカッコ良く見える.まぁ,ミズタクは松田龍平が演じるからカッコ良くなっているわけなのだけれど(私が同じ格好をしていたら,単なる不潔そうなオジサンでしかない),その松田龍平の役作り,彼の醸し出す雰囲気に惚れ込んでしまうのである.あの松田龍平演じるミズタクを好きにならない女の子なんているんだろうか?

とにかく,今週のミズタクはすごかった.
こうして私がくだらないブログ記事を書いてしまったくらいである.
でも,あの格好良さが気になって気になってしょうがないのだ.

2013年7月18日木曜日

戦略,戦術,兵站

戦略(Strategy),戦術(Tactics),そして兵站(Logistics).
これらは戦争の三要素である.しかし,もちろん本当の戦争に対してだけではない.外交であっても,経営であっても,これらは熟考しなければならない要素である.

そして今日,学生と研究の話をしていて,研究開発の分野においても,戦略と戦術の考え方は重要なのではないかと思った.もちろん,メーカであれば研究テーマなどの選択や予算のつけ方などは,当然こうした考え方が必要かと思うけれど,今日思ったのはもっと小さなテーマ,たとえば回路の制御についてに対してなのである.

戦略と戦術の違いというのは説明が難しいのだけれど,とりあえず,戦術というのは戦闘に勝つための「術」,テクニックであり,戦略というのは大局的に勝利をおさめるための方針なのだと言えるのではないかと思う.戦術というのは各戦闘において勝つことを目的とするが,戦略の観点から見れば,局地戦で負けることも許容されるのである.

今日,回路の制御の議論においては,システムを最終的な目標値に整定するために(戦略),細かなところの制御については多少の誤差を許容しても良いのではないか(戦術)という話をしたのである.局所戦においては多少の妥協を許しても,全体的に目的が達せられれば良しとしようではないか,という大局観である.なにかしらのトレードオフ関係が制御量にある場合にはこのような選択もありうるのではないかということなのだ.

このように戦略,戦術は,大局観と局所戦との対比として位置づけることができるかもしれない.

では,第三の要素,兵站はどうだろう.
こればかりは仕方がない.研究費をどこからか工面するばかりである.
資金の調達は,研究と同様に難しい問題なのだけれど,
ハンダゴテを握っているだけでは解決はできない,また別の問題なのである.

2013年7月17日水曜日

公平な人

公平な人が好きである.

公平な人とは,なにかを判断するとき,良いことも悪いこともともに考慮する人のことをいう.わかりやすい例で言えば,争いの正否の判断をするとき両方の意見を聞いてから行う人のことである.あるいは人の評価を下すときも,他人からの伝聞だけでなく,本人に自分が直に会ってから行う人のことである.こうした人を私は尊敬する.

片側の意見だけを聞いて判断する人には残念ながら失望する.たとえその話をしてくれた人が信頼できる友達であっても,あるいは大手の新聞の記事であったとしても,片側の意見だけで判断しているのであれば,その人は公平性を欠いている.なぜならば,その信頼できると信じている友達の意見に絶対に誤りがないといえるだろうか.その友達の感情的なバイアスがかかっていないとはいえるのだろうか.自身を省みるとき,自分の意見に必ず誤りが無い,あるいはバイアスがかかっていないなどととても言うことができない.その友達を信頼しないわけではないけれど,やはり自分の目で確かめるまでは,判断したくはないのである.

新聞や雑誌の情報なんてもっと信じられない.なんらかのバイアスがかかっているのは明白なのである.私たちには,いかにそのバイアスを見抜き,それを差し引いて判断する能力が求められている.震災以降,メディアにあふれかえったデマ情報を見てみればわかる.新聞が記事で書いているから,雑誌が記事で書いているから,有名人が発信源だから,そんな理由は全く正誤の判断のあてにならないということはすでに証明されているのではないだろうか.もちろん正しい情報も多いだろう.しかし,私たちはそうした玉石混淆の情報空間から玉だけを取り出す目利きの腕が必要とされているのだ.

人の悪口を言う人がいる.そしてそれを安易に信じる多くの人がいる.しかし,本人にあってみれば,どうしてそんな噂が流れるのか理解できないことが多い.そんなとき,自分の目を信じたい.もちろん,他人の意見は参考にはするけれど,それが人を評価するときの先入観となるのは避けたいと思う.そして人の悪口を安易に信じる人たちを私は遠ざけたいと思う.

デマを流す人がいる.そしてそれによって不安や怒りを容易に煽られる人がいる.しかし,事実を確かめてみれば,明らかに異なることも多い.そんな場合にも,まずは自分で情報を集め,学会や現場の実際を調べてみたい.そのようにして新聞や雑誌,テレビのバイアスから免れたいと思う.そして,デマを容易に信じ,声高らかにまた拡散し,行動しない人を非難する,そんな人たちを私は遠ざけたいと思う.

私は公平な人でありたいと思う.
そして公平な人である友達を多く持ちたいと思う.
こうした不確かな世界であるけれど,
私はそうした信頼できる確かな人間関係をつくりたいと思うのである.

2013年7月16日火曜日

私が大嫌いな「被害者意識」

私が数ある嫌いなもののひとつに,「被害者意識」というものがある.
先日ちょうど朝日新聞朝刊にも,北朝鮮から帰国した蓮池さんのお兄さんの「被害者意識が増殖している」という記事が掲載されていたけれど,私も俗に言う「被害者意識」が吐き気をもよおすほど大嫌いなのである.だから蓮池透さんの記事にはたいへん共感した.

では,「被害者意識」とはなにかといわれると,これまでなかなかうまく説明ができなかったのだけれど,今回の蓮池さんの記事によれば,「被害者なのだから何を言っても許されるというある種の全能感と権力性を有し」た状態と説明されている.私はよく表現されていると思う.

被害者意識に毒された人は,自分は被害者なのだから加害者に対して感情的になって何でも言って良いと思っているし,ときには言論だけでなく,ときには反社会的な行動を行っても許されると考えているのだ.そして,それらの言論や行動をおかしい,といえば,「被害者の気持ちを考えてみろ」とか,「感情的になって当然だろう」というような反論をする.相手は非難するだけで,話し合う気持ちも無い.だから私はもう嫌になってしまうのだ.

さらに加えて,今回の北朝鮮拉致問題の蓮池さんのように明白に被害にあった人ならばまだしも,私の周囲で被害者意識をもつ人はそもそも本当に被害者なのか曖昧な人も多い.逆恨みとまでは言わなくとも,他人ばかりを責めて自分の責任には言及しない人が多いのだ.

被害者意識は,ある意味,優越感でもある.ある一部の人は,その優越感を維持するために,自分をあえて弱者の立場に置こうともする.そのような立場になるように話す.他人の憐れみを買おうとする.このような話法を私は「被害者話法」と呼んでいる.そして,この被害者意識の恐ろしいところは,自分の優越感を持ち続けるためには,自分がさらに不幸になることも厭わないことである.そしてその矛盾を指摘すれば,さらに恨まれてしまうのだ.

結局,ある臨界点を越えてしまった被害者意識を持つ人は,自分で気がついて反省しない限り,こちらには戻ってこない.他人がなにかできるような状態ではないのである.だから私は,そういう場合には,そうした人たちとは距離を置くという対処をするのである.悲しいけれど.

<私が嫌いなものシリーズの続きです>

2013年7月12日金曜日

目隠して殴られるのは怖い

目隠しをされたタレントが平手打ちを受けて鼓膜などを傷つけてしまう事故(?)があったらしく,ニュースで流れていた.どうも平手打ちされた感覚から誰が殴ったのかを当てるゲームだったらしい.

この「目隠し」というのがどうもいけない.いつのタイミングで殴られるかわからないから,身体の準備のしようがないのだ.すなわち不意打ちで叩かれることになる.

不意に何かにつまづいたり,腕をどこかにぶつけたりすると,滑稽なほどコケたり,痛かったりする.これはひとえに,意識的および無意識的に心身の準備ができなかったためである.筋肉も弛緩したままだったり,あるいは衝撃に耐える姿勢も取れない状態で打撃を受けたら,もともと人間の身体なんて非常に弱いものだから,すぐに壊れてしまうだろう.日常生活で,あちらこちらでぶつけたりコケたりしていてもなんとか生きていられるのは,やはり衝撃に対して準備ができているからなのである.

大学時代,図書館で,筑波大学の前身である東京教育大学で書かれた体育論文を読んだことがある.タイトルは忘れてしまったけれど,人間の急所に関する論文であった(かなり特殊な論文ですが).

たとえばミゾオチ.ここが人間の急所であることを確かめるために,論文では次のような人体実験を行なっていた.被験者は目隠しをされて待たされる.そこに重りをつけた棒によって不意にミゾオチへと打撃を与えるのである.打撃の大きさは同じだから,その場合の脳波等の乱れを測定してその振幅や整定時間が大きければ,そこは人体にとって急所であることを確認できる,というような,なかば漫画のような実験結果が報告されていた.たしかミゾオチだけでなく,コメカミなんて急所も試験されていたのではなかっただろうか...

急所は確かに急所であるけれど,それを如何に打撃するかでその効果は全く異なるものになる.敵の「虚」を誘って,我の「実」をもってそれを撃つ.そうした技術が山ほど武術には存在する.それと同様な効果を目隠しすることで得ることができると考えられる.

暗闇の中で殴られるのは怖いだろうと思う.タイミングが計れず,いつ耐衝撃の姿勢をとったらいいかわからず,ビクビクすることになる.そんな経験をしたタレントの人たちをひどく気の毒に思う.企画者もちょっと反省すべきではないかと思う.そして笑いのためとはいえ,鼓膜が傷ついたり首が捻挫するほど強く殴った他のタレントもちょっと悲しく思う.

2013年7月11日木曜日

「黒井ミサ」待望論

この数年,魔法少女と言えば,「まどか☆マギカ」となるのだろうけれど,私の世代にしてみれば,それは「ミンキーモモ」であり,「クリーミーマミ」あたりになるのだろう.もちろん,「魔女っ娘 メグ」「花の子 ルンルン」なんてシリーズも含まれる.いつの時代も,少女たちの夢を背負って魔法少女は活躍している.しかし,私が最も印象深い魔法少女といえば(いや正確にいえば魔女なのだけれど),それは「黒井ミサ」である.古賀新一の漫画「エコエコアザラク」のヒロインである.

黒井ミサは残念ながら明るい幸せの魔法を使うのではない.悪魔を召喚して人に災いをなす黒魔術である.それも,ときにとっておきの残忍な黒魔術を使う.その魔術をかけられた相手は,料理になったり,魔法手術を受けたり,とんでもない結末を迎える.当時少年チャンピオンに連載されていたのだけれど,それを読んだ小学生の私は,かなり怖い思いをした覚えがある.(余談だけれど,当時並行して藤子不二雄の「魔太郎がくる!」もチャンピオンに連載されていたと思う.どちらも魔法・魔術をかけられた相手はひどい結末を迎えていて,多くの子供はそれがトラウマになったに違いない.現在ではとてもそんな話は掲載できないだろうと思う.おそるべし,当時のチャンピオン...)

黒井ミサは設定では女子高生(最初は中学生?)なのだけれど,実際何歳なのかは不明な底知れなさを持つ.顔が暗く,サタンや魔女の格好をしたときの不気味さは,古賀伸一の画力を感じさせる.それでもときどき「お笑い」の回もあったりして,ギャグを飛ばす黒井ミサは意外に可愛かったりする.そこが魅力のひとつなのである.たぶん続編も何度か製作されている.

一方,エコエコアザラクは映画やテレビドラマにもなっている.映画は,吉野公佳主演で2本,その後佐伯日菜子で1本.あとも加藤夏希などが主演で映画(もしかするとドラマ?)が作られている.でも私がオススメするのはなんといってもテレビドラマのエコエコアザラク.それも上野なつひバージョンではなく,断然,佐伯日菜子のシリーズである.

佐伯日菜子という人は,少し日本人離れした顔立ちの美人で(最近,離婚の報道があって心配してますが),「毎日が夏休み」という映画では本当に愛らしい女子高生を演じていたのだけれど,このエコエコアザラクでは哀しみを背負った魔女である女子高生を演じていて,影のあるその顔立ちがまさにぴったりな当たり役だったのである.

深夜に放映されていたドラマだけあって,内容はとことん暗い.父と母は人形にされ,最愛の妹アンリも邪教集団に利用されて最後には命を落とす.本当に悲しいエピソード満載なのである.シリーズ途中に挿入された,ミサが魔女になる前の幸せな家庭のエピソードふたつが,だからこそたいへん痛々しく感じられるのである(因みにお父さん,お母さんは「帰ってきたウルトラマン」の団時朗と榊原るみ).そして,救いは無い.まさに私好みのストーリーだった.

最近は漫画の連載はされていないのだろうか.今のような閉塞感に満ちた世界にこそ,黒井ミサが活躍して欲しい.多くの人が,どす黒い欲望と漠然とした不安,恐れを感じている世界.その人々の心を汲み取って具現化してくれる彼女の再来を望んでいる.どこまでも暗く,どこまでも救いのない魔女の物語.そんな物語を私は待ち望んでいるのだ.

<私が好きなものシリーズの続きです>

2013年7月10日水曜日

清濁併せ呑む

池波正太郎の「剣客商売」が好きである.
一応,全巻本棚に揃っている.しかし,最近は目を通すことが少ないので,いろいろエピソードは忘れてはいるのだが.

なにが好きかと問われると,なんといっても主人公である老剣客 秋山小兵衛の魅力に尽きると思う.無外流の達人であるけれど,単なる清廉潔白な剣士ではない.清濁併せのむその度量の広さに憧れるのだ.

人生少しでも長く生きていれば,清く正しいことばかりでは生きていけないことは身にしみてわかるものである.善も悪も世間に溢れているのだ.それを片側ばかり見ていても生きてはいけまい.善と悪との中間に私たちの生活は存在するのである.

以前,河合隼雄のインタビューで,こんな意味の話があった(詳細うろ覚えですが).

「自動車の運転でも,交通規則を徹底して守る車の周囲では事故ばかりが起こる.
人間の場合も同じだ.
正しいことばかりを,ひとりよがりに自己満足で行っていても,周囲の人が迷惑する.
環境に順応して生きるということは,正しいことを行うばかりではうまくいかないのだ」

完全に善である人間は存在せず,みな善と悪との狭間で生きている.
だからこそ,どちらも併せて呑み込むだけの度量が欲しい.
もちろん,悪は悪として,毒は毒として対応する.
しかし,その毒だって時には薬になるだろう.

生前,父は私に「若くして枯れるな」と言った.その言葉は今も覚えている.
私の理想が秋山小兵衛であると知ったならば,父も笑ってくれるだろう.

#決して,秋山小兵衛が美食家で,若いお嫁さんをもらったから憧れているわけではありません(笑)

<私が好きなものシリーズの続きです>

2013年7月9日火曜日

感謝される人間になること

最近は,スーパーのレジの待ち時間に時間がつぶせるようにとモニタが用意してあって,セールの広告だけでなく,「生活の知恵」や「健康情報」などがながれている.私もご多分に漏れずそれを眺めて待っていることが多いのだけれど,先日は偉人の言葉が紹介されていて,そのひとつが心に残った.

「成功者になろうとするのではなく,価値ある人間になることだ」(アルバート・アインシュタイン)

そして,今日,ある先生と話していて,

「感謝することも大切だけれど,感謝されることも大切である」
「感謝される人間になることが大切」

という言葉が出てきた.これは上記のアインシュタインの言葉と同じ意味なのではないだろうか.

「価値ある人間になること」は,「人に感謝される人間になること」であり,「人や社会に役立つ人間になること」である.

人に感謝することはもちろん大切であり,感謝する心を持つようにと教えられている.しかし,人に感謝することは比較的簡単なのではないだろうか(その本心の度合いは別にして).それに対して「人から感謝される人間になること」は明らかに難しい.しかし,人生の目的が人のために役立つことであるのならば,それこそが毎日心がけるべきことなのではないだろうか.

こんな例え話を思い出す.

自分の中にある宝石を磨きなさい.
しかし,その美しさは自分で褒めるものではない.
他人に賞賛されるようになって初めてその宝石の価値が生まれるのだ.

2013年6月25日火曜日

弁理士の日記念事業 講演会 「再生可能エネルギーがつくる明るい未来」

紹介が遅れてしまってたいへん申し訳ないのですが,下記のとおり6月30日(日)に,専門家ではない一般の方向けに,講演会を行うことになりました.締め切り関係なく,現在も申し込み受け付け中とのことですので,ご興味のある方は,足をお運び下さい.

再生可能エネルギーの普及が進まない理由な何なのか,そしてスマートグリッドがなぜ解決策となるのか,わかりやすくご説明する予定です.また,講演の後半は,会場からのご質問をお受けする予定です.肩肘を張らないカジュアルな雰囲気で進めるつもりですので,ぜひ奮ってご参加下さい!(参加費無料です)

「- 平成25年度 弁理士の日記念事業 -(滋賀地区)」
■記念講演会「再生可能エネルギーがつくる明るい未来」

日時: 平成25年6月30日(日)15:00~16:45
会場: 草津市立まちづくりセンター301号室
主催: 日本弁理士会近畿支部
参加費無料
申込は下記のページからできるとのことです.
※日本弁理士会近畿支部のページ
http://www.kjpaa.jp/seminar/26972.html

#残念ながら,同日予定されている,親子工作教室「親子で 燃料電池カーを作ろう」の方はもう参加申込が締め切られたそうです...

以上,よろしくお願いいたします.

2013年6月17日月曜日

カローラというクオリティ

オーストラリアに行ったり,風邪を引いたり,そしていろいろあったりで,しばらく全然活動できなかった.今週から復活の狼煙をあげよう...ということで,今日は自動車の話題.

2ヶ月ほど前に車を乗り換えた.中古である.10年以上乗ってきた車がそろそろ買い換え時になったので,年度末を契機に乗り換えたのである.

購入した車はカローラフィールダー.乗ってみて,そのクオリティに驚いた.この値段だったら文句のつけようがないと思った.

もちろん,高級車の乗り心地は無い.内装もそれなりだし,見た目もやぼったい.しかし,街乗り車としては申し分ないのだ.燃費もいいし,それなりにエンジンも吹き上がる.私はスポーツ車が欲しかったわけでないし,軽自動車やコンパクトカーが欲しかったわけでもない.ちょうどこのくらいのサイズが良かった.

カローラというのは,やっぱりカローラなのだけれど,そこにひとつの行き着いた境地があるように思う.ずば抜けて優れている,ということは無いけれど,どれもがそこそこのクオリティを持ち,それらのバランスがとれている.そこが素晴らしいと思うのである.

マンガ「美味しんぼ」に出てきたハンバーガーの話を思い出す.パティ(肉)だけが良くても,ハンバーガー全体としての美味しさは得られない.パティの品質はそれほどでなくとも,バンズ(パン)とのバランスがハンバーガーとしての美味しさを引き立てるというエピソードだった.

まさにそのバランスがカローラにあると思う.たぶん自動車の運転を楽しむ人にはカローラは物足りないに違いない.しかし,庶民の足としてのクオリティには必要かつ十分なのだ.

運転席に乗った瞬間に,カローラ品質を感じる.カローラに体現されたトヨタの哲学を感じる.そしてやっぱり自分が庶民であることを実感するのである(笑).

2013年5月23日木曜日

テレパシストが大嫌い

<まだまだ自分の好き嫌いを書いていくシリーズ,続きます>

私はテレパシストに会ったことがある.
その人はこう言った.

「みんなそう思っていますよ」(暗に「おまえの考えがおかしい」と言っている)

そういうことを言う人には,私はとりあえず「へぇ~」という顔をしてあげる.だって,他人が思っていることがわかると言っているのだから,その人は超能力者なのだと自称しているのだ.そうでなければ,自分の意見を通すために,あるいは私を批判するために,ずいぶんと浅薄な根拠をあげているにすぎない,たいへんにイタい人でしかない.だから私は,相手が本当にテレパシストであったとしても,イタい人であったとしても「へぇ~」という顔をしてあげるのだ.

そもそも,まず「みんな」って誰のことを言っているのかわからない.どういうカテゴリーに含まれている人たちを想定して「みんな」と定義しているのか.まさか世界中の全員を言っているわけではあるまいし,そのテレパシストが付き合っているすべての人と限定したとしても,相当な数である.その人たちのすべての思考を読んでわかっているのだから,本当にすごい能力である.一方,超能力者でないのであれば,知性を疑うような言葉である.「みんな」がそう思っていると自分が思い込んでいるだけでしかない.その主張は,かなりイタい.

「XXちゃん(子供の名前)のことは,すべてわかるんです」

と言う親にも会ったことがある.その子供はすでに成人してずいぶん歳をとっていたけれど.
この場合,自分の子供だから読心できるのだろうか?もしも本当にそんな超能力者の親だったら,その子供は絶望的に不幸だと思う.だって親からの逃げ場がないのだから.少なくとも自分は嫌だ.

一方,こんなことを言った親が超能力者でないとしても,全くその子供は不幸である.あまりに親がイタすぎるのだ.「すべてわかる」ということは,子供の言動はすべて自分の管理下にある,と言っているのに等しく,その親は大きな勘違いをしているか,その子供に対してひどい虐待をしているか,のどちらかになるのではないだろうか.「過保護」,「過剰な管理・干渉」は,立派な虐待なのである.ベストセラーとなった「毒になる親 ~一生苦しむ子供~」(スーザン・フォワード著)を読めば,こうした考えを持つ親の子供がどのようにスポイルされて,社会への不適応を示すかがよくわかる.一生こうした親の影響下で生きていく息子(娘)には,本当に同情するのだ(とはいえ,社会に不適応な大人となってしまった彼らとは距離をおきたいと思うのだけれど).

「あなたの考えることはよくわかるんです」

と,ずばり私の心を読むことができる,と言ってくる人にもあったことがある.しかし,その人の態度をみていると,とても私の考えを読んでいるようには思えないから,実に根拠のない主張をする人だとかわいそうになる.

そして時には,

「そのとき,あなたはきっとそうします.私にはわかるんです」

と言われたこともある.読心術を超えて,とうとう予知能力までもつと主張するのだ.このときは本当に呆れてしまった.その人は,私の行動を想像し,それに対して腹を立てるのである.もうそんな妄想にまでこちらは責任は持てないよ,と思いつつ,自分の妄想に怒り続ける相手が哀れに思えてくるのである.

ディベートなどの議論の場でこのようなことを言えば,即座に負けであることは明白である.というか,そうした人たちとは議論する価値もない.私が出会った上記のような人たちは,すでに立派な大人であった(それどころか年配の人も多かったが).だから私は面と向かってあなたと議論する価値が無い,などとは言えず(私も一応,気配りするのです),「みんなって,誰ですか?」とか,「私の考えがわかるんですか?」とか,尋ねてみる.このように論理立てて質問すると,似非テレパシストは逆ギレすることが多い.そういうときこそ,私の考えを読んで反論すればいいのに.

こうした経験から学んだ私の自称テレパシストへの対処法は,結局その人とは距離をとる,ということに尽きる.そもそも読心術を駆使しているようなモノ言いをする人は,粘着質な人が多く,社会的に問題があることが多い.

だから私は,まず君子危うきに近寄らず,そして上記のような発言を聞いたら,「すごいですね.へぇ~」という顔をしてあげるのである.

「みんながやっているから」という言い訳の未熟さについて

<自分の好き嫌いを書くことによって,自分の性格や思考について明らかにしていこうとする試みを続けています>

先日,子供たちの塾の先生と話していたのだけれど,子供の

「みんながやっているから」
「みんなそうしているよ」

という言い訳が大嫌いという意見で一致した.
実は,子供だけではない.大の大人であっても(たとえそれが定年を過ぎたような人でも)

「みんなやっていますよ」

などと言い訳しているのを見聞きすることは少なくない.子供ならまだしも大人がそんなことを言っているのを見ると,もう私はその人をなんとかするのはあきらめて,その人との付き合いをやめるようになってしまった.もうそんな人たちと関わっている時間がもったいないのだ(そして相手を非難しても相手が変わるわけでもないし,距離をとるのが一番大人の対応なのだ.).

「みんながやっているから」というのは,まずかなり不確かな根拠だということをそれを言い訳にする人たちは認識していない.いったいどれだけの人が,現実にそのような言動や思考をしているのか調査したことでもあるのかと思う.そうした事実に基づいたものではないから,彼らにとっては常識に思えるのかもしれないけれど他人から見ればそれが滑稽であることも多々ある.自分の言動,考えが一般の人たちを代表しているといって強く主張したいのだろうけれど,結局自分の意見を通そうとするわがままでしかないことを認識すべきである.

次に,自分の言動の理由を他人に求めることが気に入らない.「みんながやっているから,自分もやるのだ(あるいはやっていいのだ)」という言葉の裏には,自分の言動に責任をとらないというその人の立ち位置が垣間見える.もしもその言動について責任を追求されれば,「みんながやっているからいいのだと思った」などと答えるのだろう.その無責任さには,腹が立つのを通り越して,悲しくなってしまう.この言い訳は,自分の責任の放棄を表しているのだ.

最後に,自分の頭を使っていないことを他人に示して,それがそんなにうれしいのかと思う.「みんながやっているから」ということは,他人の行動に自分の思慮なく従う,ということである.それを言い訳にするとき,自主性の欠如はもちろんのこと,自分の知性の無さをひけらかしていることにほかならないのだ.そんなことにも気づかないで,それを理由に他人を責めるのであれば(よく人を非難するときに「みんなそうしてますよ」という言葉を使う),その人の知性を疑うべきである.

子供がこの理由を使うのは,彼らの未熟さゆえであり,大人として私たちはその言い訳のおかしさを説いて教えるべきである.しかし,いい年をした大人に対しては,手のうちようがないのが現実なのだと思う.そんなことを言えば,逆に怒り出してしまうだろう(怒らないで素直に聞いてくれる人はそもそもこんな言い訳をしない).だからこそ,私はそうした人たちとは距離をもつという対応をする.それが一番大人の振舞いなのだと思う.

えっ,そんな態度は度量が小さいって?いや,大人だったらみんなやっている対応ですよ(笑).

2013年5月14日火曜日

なぜ私は「自分の気持ち第一主義」を嫌悪するか

私が大嫌いなものに,「自分の気持ち第一主義」というのがある.
最近は,世間がわがままを許さない状況になってきたから,ずいぶんとそれを口にする人が減ってきたように思うけれど,数年前くらいには「自分の気持ちを一番大切にして何が悪い」と言ってはばからない学生も数多くいた.そこには,他人の事情はどうでもいいという気持ちが見え隠れしているのうな気がして,私はそうした人たちを嫌悪し続けていたのである.

自分の気持ちを大事にするのは大切だと私も思う.自分が幸せを感じるために生きているのだから.しかし,それを最優先して生きていくことがそれほどいいことなのだろうか?私はそうは思わない.私たちは社会の中に生きていて,環境との関係性を無視して生きていくことができないからである.

自分の気持ちを最優先する,という言葉の裏には,他人の想い・期待を裏切る,あるいは社会に対する責任を果たさない,という事実が隠れていないだろうか.そうしたわがままを通しても構わないという考えの表明ではないだろうか.もちろん,過剰に責任を果たす必要は無い.しかし,私たちは社会的な存在である以上,自分が所属する社会(家族,友達,学校など)と調和をして生きていかなければならないのである.それを無視して自分が幸せになれるはずがないのである.

心理的な治療において,催眠や暗示などの手法が用いられることも多いけれど,被術者の価値観や行動を変える暗示を与えたのちに,その暗示に従った場合に環境と整合がとれるかどうかを被術者の無意識に尋ねるのだという.そこに不整合が起っては,生活に支障をきたすからである.自分の一つの価値観の変化,行動の変化を例にとっても,環境と調和していなければならないのだ.

社会に対する責任を果たしてはじめて,自分の生活,幸せがあるのである.あるいは社会に対して貢献することによってこそ,自己実現があるのだ.だから私は社会との関係,社会に対する責任を軽視するような「自分の気持ち第一主義」は,大嫌いなのである.

震災以降,「自分の人生,好きなように生きる」と口にする人が増えているように思う.しかし,「自分探し」とか,「好きなように生きる」などという前に,まずは社会に,学校に,家族に対して責任を果たすべきなのではないか,と私は思うのである.

#先日,同様な意見がツイートで流れていたのを見て,この記事を書いた次第.
まあ,自分も反省すべきことが多いのですが.

2013年5月2日木曜日

皮肉屋であるフィリップ・マーロウと勝海舟

私は,レイモンド・チャンドラーのハードボイル小説の主人公フィリップ・マーロウが大好きなのだけれど,なぜ彼にこんなにも惹かれるのかと少し考えてみた.

残念ながら,私は彼ほどタフではないし,女性に優しくもなく,モテもしない.彼と私との共通点はほとんどないのだけれど,唯一「皮肉屋」であることが似ているといえばいえなくもないのだと気付く.

ただ彼の皮肉は,非常にカッコ良く響くのだけれど,私の皮肉はたんなる嫌みにしか聞こえないというのが大きな違いらしい.私はマーロウばりに気の利いたことを言っているつもりなのだけれど,みんなは決まって嫌な顔をする....どこかが違うらしい.そこがわからない限り,ハードボイルドの道は遠いのだろう.まだまだマーロウにはなれない.

フィリップ・マーロウの他にも大好きな皮肉屋がいる.それは幕末の英傑 勝海舟である.彼が皮肉屋であるというと,少し違和感を感じる人も多いのかもしれないけれど,彼は明治時代にはすでに隠居をしていて,教えを請いにやってくる人たちに対していろいろな話をいていたのだけれど,ところどころに辛辣な皮肉を吐いている.「氷川清話」などを読むと,勝海舟の一筋縄でいかない彼の人物像が浮かび上がってきて,本当に面白い.

幕末の三舟といえば,勝海舟,山岡鉄舟,高橋泥舟だけれども,剣術の達人でもなく,槍術の達人でもない勝海舟が一番好きだ(海舟も直心影流の皆伝だけど).どうも山岡鉄舟,高橋泥舟はどちらも誠意と忠誠の人であり,それはそれで素晴らしくてまぶしい人物なのだけれど,私が親近感を持つかといわれるとちょっと違う.一方,勝海舟は幕末にあれだけ活躍したのに明治以降は一線から外されて,世の中を少し斜に見ているところが妙に身近に感じる.そうした境遇から生まれる皮肉には,彼の無念さが少しのぞいて見えるような気がする.ただ私の皮肉と違って,彼の皮肉には人生経験に基づいた深みがあるのがうらやましい.

フィリップ・マーロウ,勝海舟,いずれにしろ皮肉屋であるところが,好きな理由のひとつであるらしい.ただ私の皮肉と彼らのものとは大きな隔たりがあるのも事実である.
彼らのような大人の皮肉をつぶやけるようになるのはいつのことだろうか.

2013年5月1日水曜日

インバータエアコンは世界を救う

明日は「いちょう祭」で研究室公開.
パワーエレクトロニクス(以下,パワエレ)という聞き慣れない言葉を一般の方にも理解してもらえるよう,説明をそれなりに一生懸命工夫しているのだけれど,あまりピンと来てもらえない.これだけ身の回りに溢れているのにそれを認識されていないというパワエレはある意味成熟した技術なのかもしれない.

「十分に進んだ科学技術は,魔法と区別がつかない」(アーサー・C・クラークの言葉)

私が学生の頃,「インバータ」といえば一般の人は「エアコン」を思い浮かべたものである.「インバータエアコン」といえば,省エネできるエアコンとしての売り文句で,広告が溢れていたからである.

しかし,現在.
いつものまにかエアコンといえばインバータエアコンであることが当たり前となってしまって,人々の記憶から「インバータ」という言葉は消えつつあるようだ.研究室に見学に来た方に「インバータ」といっても,うなづいてくれるのは40代を過ぎた大人ばかりであるようだ...

インバータエアコンはそうでないエアコン(スイッチをオンするか,オフするかしか制御できない)に対してきめ細かい温度制御ができるので,およそ30%も電力を節約できると言われている.

日本では,出荷される住宅用エアコンはほぼ100%がインバータエアコンであるという.しかし,世界は全く違うのである.アメリカや中国では90~100%がインバータを用いていないエアコンなのだ.つまり,オンオフ制御しかできないエアコンが世界の常識なのである.なんと日本は進んでいることか...

日本に4000万軒,住戸があるとする.そのうち半分の住戸に(実際はそれ以上だけれど)一台ずつエアコンがあるとする.ということは2000万台のエアコンが稼働していることになる.その一台一台がわずか5Wずつ電力を削減できたとするだけでも100万kW,すなわち原発1基分の電力が節約できることになるのである.

非インバータエアコンがインバータエアコンの100 / (100-30) = 1.4倍の電力を消費するとすると,インバータエアコンの平均電力を2.5kWと仮定すると,非インバータエアコンは3.5kWの電力消費となる.すなわち1kWの差が生じる.これが中国やアメリカ,全世界で出荷されているエアコンの台数倍すると,インバータエアコンにするだけで,一体原発何基分の電力が節約できることになるのだろうか.これから世界でインバータエアコンが売れるようになるに違いない(現在は,価格の安い非インバータエアコンが売れているけれど).

ということで,パワエレ技術は今後も世界の省エネに大きく貢献できるのである.
でも,知っている人が少ないんだよなぁ.もっと宣伝せねば.

#本当は,使用電力量について議論すべきなんです.今回はわかりやすく電力で話してみました.だからちょっと不正確です...

2013年4月30日火曜日

PEDS2013@小倉

全くブログを更新できず...

今年は更新の頻度を上げようと思っていたのに.
少しでも良いので,ブログを書いていこうとまた決意.

かといって,やはり短いと自分の思うことをうまくかけないなぁ...

ということで,今回は覚え書き.

先週は,北九州で開催された国際会議PEDS2013(IEEE International Conference on Power Electronics and Drive Systems) に参加.私も久しぶりに英語で発表した.相変わらず英語の能力には不満が一杯.もっとブラシアップしなければ,といつも思う.

メーカーの方々とお話しする時間が多くとれて,大変刺激になった.現場を離れては発想が生まれないのだとつくづく思う.大学は現場との距離をうまくとっていくことが大切かなと考える.

小倉は,松本零士が小学校3年からずっと住んでいたゆかりの地らしい.小倉駅には,ハーロック,鉄郎,メーテルがいた.



2013年3月6日水曜日

Hesher (「メタルヘッド」)感想: 謎のヘビメタ男はキリストなのか

2月末で,卒論,修論の提出も終わり,また抱えていた締切もすべて間に合って,少し先週末は時間ができた.そこで,自分へのご褒美として,DVDを見ることができた.観たタイトルは,

"Hesher"(邦題「メタルヘッド」,2010,監督:スペンサー・サッサー,出演:ジョゼフ・ゴードン=レヴィット,ナタリー・ポートマン他)

まず観て思ったのは,「いいなぁ.こんな映画が作れるなんて,まだまだアメリカの映画界も底力があるなぁ」ということ.とにかくクレージーで馬鹿馬鹿しい.決してコメディーだけというわけではないが,楽しい.そして少し泣ける.映画としては,現代の癒しの形を示しているのではないかと思う.内容としては,

母親を交通事故で亡くした中学生(?)(名前はT.J.)と父親が喪失感から立ち直れないでいるとき,ヘッシャーがやってくる.彼はヘビメタ男.やることなすこと,常識外れ,クレージー,いかれている.そんな彼にふりまわされて,T.J.と父親は混乱の毎日を送ることとなるのだけれど,彼らの生活にもやがて変化が訪れて,再生に向かい始める.そして,ヘッシャーはどこかに去っていく.

という話なのである.あらすじを書いていても全然この映画の魅力が伝わらない.とにかく,観ることでしか伝わらない雰囲気がこの映画にはある.

ジョゼフ・ゴードン=レヴィットは,インセプションで観たときからファンになってしまったのだけれど,この映画では,謎の長髪刺青ヘビメタ男,ヘッシャーを演じている.またこれがいいんだなぁ.彼が芸達者なことがよくわかる.役者臭さを感じさせずに,怪しい男を演じている.またまた彼のファンになってしまった.

途中,T.J.が憧れる地味なレジの女性は,ナタリー・ポートマンが演じている.意外だけれど,またこれがいい味を出している.今回,彼女はこの映画のプロデュースに参加したらしい.彼女もこの映画を愛しているのだろう.

内容としては,母親を亡くした喪失感に苛まれる家族の再生の話なのだけれど,ヘッシャーはある意味,神様なのだ.もっと言ってしまうとヘビメタ男になったキリストなのだ.その思いを強くしたのはDVDのメニュー画面.落書き風のイラストで,たぶんヘッシャーの手のひらが描かれているのだけれど,その両手のひらには聖痕が確かにあった.すなわちキリストなのだ(両手のひらは実は,親指が内側に描かれているので,後ろ手なのだろうけれど).彼は,救いをT.J.たちに与えて去っていく(そして,屋根には"Hesher was here."と大きく書き残していく(笑)).また次の人を救いに行くのだろう.この映画は,現代の形に改変された神の癒しによる喪失からの再生のおとぎ語なのだ.
こんな映画が作られるなんて,まだまだアメリカ映画は捨てたモノではない.日本では,たぶん作られないだろうなぁ.

ということで,大人のみなさんにオススメの一本.子供が主役のように見える映画だからといって,子供と一緒には観てはいけません.かなり下品で大人しかわからない下ネタ満載の映画です.でもなんだか元気が出る映画.とにかく雰囲気を味わって欲しいと思います.

評価は,★★★★☆(星四つ.五つが満点)

#因みに,作中に流れるヘビメタは,メタリカのものらしい.ヘビメタって,今聴くと少し前代的な感じ(ひらたくいうと,少し古い感じ)がした.私も歳をとったか?


2013年3月5日火曜日

人の悪口と同じように,マスコミの情報に接すること

相変わらず放射能の誤った情報が出回っている.しかし,最近は少し落ち着いてきたようだ.まっとうな意見も多く見られるようになってきた.

しかし,先日もラジオ番組で放射能に不安を感じる人たちの話がでて,アナウンサーが「放射能については,いろいろなことが言われていて,よくわからないところがありますからね」などとコメントしていた.私はそれは違うと思うのだ.もちろん,放射能自体には注意しなければならないし,不安を感じている方々のケアも大切だと思う.でも,情報への接し方さえ気をつければ,不安はずいぶんと解消されるのではないかと思っている.

放射能については,たしかにいろいろな意見があるけれど,大多数の意見と少数意見というものがあることに注意しなければならないと思う.もちろん,少数意見が正しい場合も多々あるのだけれど,学術的に見て,あるいは統計的に見て,大多数の意見が正しいことが多いはずである.

しかし,マスコミは反対意見も取り上げることが多いのだ.それはそれで公正さを示しているように見えるけれど,マスコミが取り上げる反対意見は,実際には1%に満たない少数であるもの,あるいはその特殊な専門家だけ,ということもよくあることなのである.マスコミは,反対意見を取り上げるのも良いけれど,それがどれだけ少数意見か,あるいは特殊な意見かということをちゃんと示すべきだと思う.

ずいぶん前の話だけれど,核融合について日本において2種類の方式を主力とするかという議論があった.はっきりいって,世界的には決着がついていて,トカマク方式でいくというコンセンサスがほぼとられていた.それなのに,日本では別の方式の可能性も議論されていた.もちろん,科学技術的な議論としてはそれは健全で,有益であっただろうけれど,どちらに予算を配分するか,あるいは世界にどのように協力していくか,という政治的な判断をする際に,それはどうだったのだろうか,と私は今でも思う.世界的には大多数の研究者がトカマク方式に注力して進めることに合意していたのである.それなのに,マスコミは別の方式も同じように取り扱って,議論が伯仲しているような印象を与えていた(「加熱するのは議論ではなく,プラズマだけにして欲しいものだ」などと書かれていた).反対意見も当然あって良い.しかし,それがどれだけ少数意見なのかをちゃんと示すべきである(海外の研究者から,日本はいまさら何をいっているのだ,といわれていた).

放射能だって,ずいぶん悪い話,デマがネットや週刊誌では散見される.そうした意見があるのもわからなくはないけれど,それが学術分野の中で主流なのか,少数意見なのか,それもあわせてマスコミは示すべきだと思う.一部の特殊な意見をもつ専門家を取り上げて,わざと不安を煽るようなことはマスコミはすべきではないと思う.そして,私たちも常にそのことを念頭に置いて,情報に接するべきである.

人の悪口,うわさ話だって同じことではないだろうか.
あるひとりの人が,Aさんについて悪口を言っていたとする.あなたはそれを直ちに信じるだろうか.たぶん,そうではないだろう(たぶんあなたが普通の人だったら).まずは,どれだけの人がAさんについて同様な評価をしているかを気にするのではないだろうか.そして最終的には,Aさん本人に直接会って,自分の評価を固めるのではないだろうか.すなわち,一次情報にあたって,判断を下すことをするのではないだろうか.これと同じことなのではないだろうか.悪口を言っていた人同様,マスコミが正しいとは限らないのである.いや,実はどれだけいい加減か,私たちはもうそろそろ気づいてもいいころなのではないだろか(個人的には,まず悪口を言う人自体の評価を悪くするでしょう).

一方で,ほんの数件の例(意見)をあげて,自分の考えを通そうとする人も多い.しかし,本来ならばそれが統計的にどれだけ信頼性があるかということに注意して主張しなければならないはずである.「あそこはどうだ」,あるいは「この場合はどうだった」と特殊な例だけを挙げて,自分の意見が正しいと言ったところで,わかる人がみれば,その人の我田引水にしか見えないのである.そしてその人の「程度」がわかってしまうのである.私もよくよく気をつけなければならないと思うけど...

つまり,放射能に限らず,専門家,マスコミについても頭からまるごと信じるのではなく,誰かについて,あるいは何かについての個人的な判断と同様,一次情報に触れて自分の評価を定めるべきなのだ.

その意見の信頼性は?
データはあるのか?
統計的にはどうなのか.一部の特殊な例ではないのか?
その専門家は学会において主流の意見を表明しているのか?
一次情報はあるのか?

こうしたことに留意して,私たちは情報に触れるべきだと思う.
もちろん,私のブログに書かれている意見だって,あくまでも一ブロガーの意見でしかない.判断は読む人にお任せである.しかし,人の悪口への接し方と同じように,マスコミやネットに現われている情報・意見についても,もっと注意深い接し方が必要ではないかと思うのである.意見の内容はともかく,情報の取り扱い方はもっと注意深くなるべきではないのだろうか.

2013年2月6日水曜日

シベリウスの第5交響曲とStrawberry Switchblade

最近,またグールドカラヤン&BPOによるベートーベンのピアノ協奏曲3番シベリウスの交響曲5番が聴きたくなって,通勤の車中でヘビロテだった.なんど聴いても,グールドのピアノが清冽で気持ちが良いのだけれど,カップリングのシベリウスがこれまた名演奏なのである.グールドがカラヤンと共演したことを自慢していたことを,どこかで書いていたと覚えているのだけれど,そのとき楽屋か幕裏かで聴いたこのシベリウスが名演だったと書いてもいたはずである.モノラル録音ではあるけれど,確かに素晴らしい演奏である.

この曲では,金管のの旋律がたいへん印象的に使われている.私が金管奏者だったら,このファンファーレを思いっきり吹けたらどんなに気持ちがよいことだろうといつも思うのである(村上春樹の"1Q84"で有名になったヤナーチェクのシンフォニエッタの金管よりもよほどわかりやすい音楽である).

先日,車のラジオからStrawberry Switchbladeの80年台のヒット曲"Since Yesterday"が流れてきた.その冒頭,聞き覚えのあるファンファーレが.そう,シベリウスの第5交響曲のあの旋律が使われていたのである.30年くらいたって,初めて気づいた.自分はなんて鈍感なのだろうと思った.

肝心のこの曲は,サイケで水玉ファッションの可愛い女の子二人が歌ったスマッシュヒットで,私は女の子のモヤモヤ感がよく出ているので,結構お気に入りの曲なのである.しかし,そんな曲にシベリウスが使われていたとは...全く違和感なく聞こえる.このアレンジャーはいい腕をしていたのだなぁと今更ながらに思う.

思わぬ所でクラシック音楽が使われていることも多いけれど,それが耳に馴染んだ音楽であればあるほど,自然に感じられて気づくことが少なさそうである.まぁ,それだけクラシックの名曲は完成されているということなのだけれど.

2013年2月5日火曜日

自分の心を制御するために,合氣道を稽古する

私の合氣道の先生が,藤平光一先生にこのような質問をされたそうである.

「先生は何のために合氣道を稽古されているのですか?」

藤平先生は,

「自分の心をコントロールするためだよ」

と即座に答えられたそうである.

心と身体はひとつであるので,心の状態が身体に現れる.完全にリラックスして臨機応変に対応できる状態が理想ならば,心も柔軟に保たなければならない.

まして合氣道は,相手の心を知り,氣を導く武道である.相手の氣を導くためには,まずは己の心が制御できていないければならない.

ほんの少しの心のさざ波が,身体に大きな影響を及ぼす.
心を静め,落ち着けること.
これを今年の目標としたい.

#昨日今日と,ちょっと引くような話題ですみません...

2013年2月4日月曜日

「慈眼温容」: 心は身体を動かしている

今年はこれまでと違ってもう少し精妙に合氣道を稽古してみようと思っていて,自分の身体の感覚に鋭敏になろうと思っているのだけれど,しばらく気をつけていると今更ながらに心と身体の関係は密接であることに気づく.

私が稽古している合氣道においては,「全身の力を完全に抜く」と習うのだけれど,今年はより一層精妙に力を抜くことを目標としている.注意し始めてみると今までの力の抜き方がいかに中途半端であったのか,これまで何を稽古してきたのかと,自分の修行の至らなさに悲しくなるほどである.

そして,心の状態が全身の筋肉にいかに大きな影響を及ぼしているのかということに気づいた.それは,眉間にほんの少しシワがよるだけであっても,身体の筋肉が緊張し始めるくらい微妙なのである.

ちょっと何かに意識がとどまって(執着,怒り等で),心が固くなってその柔軟さが失われたとする.その瞬間,身体のどこかが緊張し始めるのである.自分が良い状態であると感じる完全にリラックスした状態から明らかに変化するのである.そのあまりの微妙さに,そして心の状態に対する身体の感度の良さに,呆れるほど感心してしまうとともに,自分の心のコントロールの難しさを実感するのである.

まして武道において,敵が自分に襲いかかってきたときに,心が止まってしまっていては,身体が臨機応変に動くことなど望むべくもないだろう.まったく修行が役に立っていないことにがっかりしてしまったのである.

私の合氣道の先生はお若い頃,眉間にシワを寄せるクセがあったとのこと.そこで藤平光一先生は「慈眼温容」と色紙に書かれて,私の先生に渡された.その後,私の先生はその色紙を見て自分のそのクセを直すよう努力をされたのだという.そのお話は以前よりうかがっていたのだけれど,実はたった眉間に少しのシワを寄せるだけで,こんなに大きく影響を及ぼすとはこれまでとても思わなかったのである.

千代の富士が,藤平先生の著書を読んで,相撲の立合の際に相手をにらむのをやめたという話がある.にらむことによって,氣が止まるからだということなのだけれど,それが最近よくわかるような気がするのだ.もっと以前から,この話を真剣に受け止めておけばよかったと反省することしきりなのだ.

心の状態は,表情,姿勢に明らかに反映され,それは身体に緊張をもたらす.やはり心と身体は一つなのだ.なんと単純で明らかな原理.あとは真剣にそれを修行するかどうかだけなのだ.最近,本当に最近,そんなことがやっとわかってきた.今年は少しマシな稽古ができるだろうか.

2013年1月24日木曜日

危機的状況に自分を追い込んで感覚を鋭敏にする

今日,ある先生から高野山の大阿闍梨の行のお話を伺った.

高野山には50日間断食をする行があるそうである.そして,その目的は何か?という話になった.その大阿闍梨のお話によれば,それは人間の生命力を活性化させるためだということである.断食をして生命の危機が訪れると,体の細胞ひとつひとつが活性化し,潜在的な生命力が引き出されるというのだ.そのため,断食中には隣の部屋の線香が燃える音,その灰が落ちる音が聞こえるほど感覚が鋭くなるのだという.

この話を聞いて,武道の修行にも同様のものがあることを思い出した.やはり断食をすると感覚が鋭敏になり,敵の殺気を感じ,動きを読むことができるのだというのである.新体道の青木氏はそうした修行をしたことを本に書かれている.また断食の後に酒を飲んで更に感覚を鋭くするような稽古も行ったそうである.

通常,人間は,自分たちが思っているよりもずいぶん多くの情報を外界から得ているらしい.ただそれらに鈍感なだけなのだ.顕在意識上に登ってくるためのしきい値を超えるほどの情報はごく僅かで,入力された多くの情報は潜在意識下においてそのまま捨てられているということなのだろう.それを断食という危機的状況を自分に与えることによって,研ぎ澄ます,すなわちしきい値を下げ感度をあげるということなのだろう.

BBCのテレビ番組の取材で,同じく新体道の滝行に参加する企画があった.レポーターは英国人だが中国拳法の修行者であって,他の日本人の修行者とともに滝に打たれていた.滝に打たれたのち,そのレポーターは畳の部屋に通されて,あるテストを行った.それは背面からふすまを隔てて日本刀を切りつけられる殺気を感じることができるかどうかというものである.滝に打たれる前に比べ明らかに当たる率が向上していた.これも冷たい滝に打たれるという身体的に危機的状況を作り出すことによって,感覚を鋭敏にするということなのだろうと思われる.

ストレスを自らにかけることによって,本来の生命力を活性化する.それも死に近いところまで負荷をかけ,ギリギリのところで行を行うというメソッドが確立されているというところが伝統宗教のすごさなのだろう.

そのお話をしていただいた先生は,同様に「勘」を磨きたいものだとお話されていた.生活における勘だけではなく,研究においても勘を働かすことが大切なのだろうとおっしゃっていた.なるほど,共通するものがあるかもしれないと私も思う.私も勘を磨きたいものだと思うけれど,荒行はちょっと大変そうだなと尻込みしてしまう.そんなふうに思っているからこそ,私には勘が働かないのだろう(そしてそれが私の方向音痴の一因になっているかも...).


2013年1月23日水曜日

現代の新しい百物語 「新耳袋」

つい最近,「新耳袋」第5夜を読み終えた.それも1日でである.

「新耳袋」は10巻まであり,各巻99話で構成されている...はずなのだが,実は巧妙にあと1話が掲載されており,各巻を最初から最後まで読むと100話を楽しめるということになっている.なぜ100話構成なのに,99話としているか.それはもちろん,お察しの通り「百物語」の怪異を気にしているからである.

「百物語」というのは,江戸時代にはずいぶんと流行ったようで,一種の肝試しではなかったのだろうか,と思う.その方法は,夜に参加者が集まって,100本のろうそくに火をつけて,一話ずつ怪談を話し終えるたびに,ろうそくの火を消していく,というものである.100話を語り終え,最後のろうそくを消した後,真っ暗の部屋の中でなにかしらの怪異が起こると言い伝えられている.

「新耳袋」も最初発刊されたときには,100話まで番号が振られて怪談が掲載されていたようなのだけれど,100話を読み終えたときに怪異現象を体験したという読者からの便りが多かったために,新装版がでる際には,99話までの掲載としたのだという裏話が紹介されている.

「百物語」でまず思い出すのは,大映の「妖怪百物語」という映画.小学生の頃にたぶん見たのを覚えているのだと思う.それも小学校の屋外の運動場に白い幕を張って,そこに上映されていたのを見たのだと覚えている(一時期,「化け猫」とか「皿屋敷」とかそんな映画が流行った頃があった.同時上映はだいたい「座頭市」シリーズか「トラック野郎」シリーズだったような気がする).のっぺらぼうが怖かったんだよなぁ.その他,ろくろ首やから傘おばけなどのクラシックな妖怪が次々と登場する,なかなかすごい映画だった...

次に思い出すのは,漫画家 杉浦日向子の「百物語」.これも秀逸な作品で,ぜひその不思議な世界を楽しんで欲しいと思う(あまり有名ではないのかな...)

「百物語」というのは,いまよりももっともっと暗闇が暗く,妖怪やお化けがもっともっと身近だった頃のひとつの素晴らしいエンターテイメントだったのだろうと思うけれど,現代においてももっともっと注目されて,楽しんでも良いと思うのだ.

さて,その日私は第5巻を1日で読み終えた.それに気づいたとき,少し怖かったけれど私のところにも「怪異」が現われるのかと楽しみにして夜を迎えた.そのあとは...それは内緒です(笑)


2013年1月20日日曜日

自反而縮 雖千萬人 吾往矣

今年も始まってから,まだ3週間といったところ.しかし,いろいろ大変なことが重なって起こっている.こうなると,

1) 余裕がなくなる

2) ストレスが溜まって,いろいろなところに気が回らなくなる

3) ミスを犯す

ということになりやすい.

なので,

a) 睡眠時間を確保し,疲労をなくし,体調を良く保つ

b) 呼吸法,瞑想を駆使し,ストレスを緩和する

c) 運動をしてストレスを解消する

ということを,いつものより心がけなければならない.

そして,心が落ち着いた所で,自らの考えを検討しよう.
その上で,自分の考えが正しければ,

自反而縮 雖千萬人 吾往矣
(自ら反みて縮くんば、千万人と雖も、吾往かん:  孟子です)

ということだ.
今年は,こうやって事にあたりたいと思う.


2013年1月17日木曜日

体育会系のノリはやっぱり苦手

現在,体罰の問題で,いろいろと議論が行われているのだけれど,私は昔から体育会系のノリというのが苦手で,どうも身体に合わないのである.

まぁ,私も,ミニバスケット(小学校),水泳部(中学校),空手道部(高校),合氣道部(大学)と,ずっと体育会の部活に所属してきたので,いまさら何をいうと思われるかもしれないけれど,体育会系のノリというは嫌なのである.

特に,高校,大学と武道系の部活だったので,体罰などはなかったけれど無理なシゴキは当然あった.いや,大学はなかった.でも高校時代は荒稽古と称した理不尽なシゴキがあった.自分はうまく立ち回っていたので,それほどひどいことにはならなかったけれど,その無意味さなどはずっとおかしいと思っていた(いつかどんな稽古をしたのか,どんなサボり方をしたのか(笑),書いてみよう).

だから私が高校時代,空手道部の主将になったときには,そうした理不尽なことは一切やめた.また以前から私は人の名前を呼び捨てにはせず,「~君」,「~さん」と呼んでいたし,乱暴な言葉遣いは行わないようにしていた.高校時代の先生方には,空手道部は変わったな,と感想を言われるようになって,うれしかったのを覚えている.

一方,大学時代の合氣道部は,もともとそういう乱暴なことはしない伝統だったので,本当にやりやすかった.私が(くじ引きで負けて)主将になったあとも,部内は和気藹々とした雰囲気だったし,他人から武道をやっているように見られるのは修行が足りない証拠だと教えられていたので,私もむしろ文系の部活のような品の良さ,柔らかさを目指していたのである.厳しさは稽古の中にあればよいのであって,他人に対して強がる必要などどこにもないのである.

しかし,世の中はそうでもないようである.私が嫌なのは小中学校のクラブ活動の指導である.グラウンドからは,指導たちが,耳をふさぎたくなるようなきつい言葉,乱暴な言葉を子供たちに投げつけているのが聞こえてくる.野球やサッカーのような競技の方が武道系の部活よりもずっとひどい言葉を使っている.これでは,子供たちがかわいそうだ.そして,そうした指導を受けて育った子供たちは,いつか大人になったときにもそのような指導をしてしまう可能性が高くなるのだ.

現在,体罰についていろいろなスポーツ選手がコメントをしているけれど,ほとんどの選手が自分たちもそのような体罰を受けたと告白しているようである.昔はそれが普通だったと.トップの選手たちからしてそうなのだから,世の中のスポーツ指導者にはどれだけ体罰による指導を行ってきた人が多いことか,ぞっとするのである.そして,「時代が変わったから,体罰はやめた方がいい」,などと言う人がいる.しかし,昔から体罰など無い方がいいに決まっているのである.体罰をやめた方がいい理由は「時代が変わったから」ではないのである.

こうして書いてくると,自分のの子供に対してもしつけのために体罰をしない方がいいということになる.この点については,私もよくよく反省しなければならないと思う.昔,げんこつでゴツンとやられたからといって,今はやってはいけないのだ.


2013年1月13日日曜日

「今夜はブギーバック」が名曲であること,そして私の渋谷系との出会いであったこと

最近,加藤ミリヤという人がカバーしている「今夜はブギーバック」を耳にする機会があった.久しぶりにこの曲を聴いたのだけれど,やっぱりいい.私は小沢健二が大好きなのだけれど,なかでもこれは名曲中の名曲.何度聴いても,そして大概の人のカバーを聴いても良いと思ってしまう.そして今回のこの加藤ミリヤの曲も素晴らしいと思ってしまった.

もちろん,オリジナルはスチャダラパーと小沢健二(オザケン)のもので,ヒットしたのは1994年.私もまだ学生だった(とはいっても博士後期課程の学生だったけれど).初めて聴いて,この曲の美しさとラップパートのノリの良さに,一発でやられてしまったのだけれど,今もその殴られた後遺症が続いているような気がする(パンチドランカー状態?(笑)).

オザケンの魅力に目覚めたのは,渋谷のWAVEだったと記憶している.もちろん,それ以前からフリッパーズ・ギターも知っていて,そのセンスの良さには注目していたのだけれど,解散してからのオザケンには少し距離があった.それが,渋谷WAVEでCDを選んでいるときに店内に流れていたのが,「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー」だったのである.ヘンチクリンな歌詞とポップなメロディー.あっという間にメロメロになってしまった.当時「渋谷系」という言葉が流行っていて,私はその言葉の軽薄さにファッションも音楽も敬遠していたのだけれど,いつの間にかこの曲のもつウキウキ感に絡めとられて,その魅力から逃れられなくなっていた.

はじめ,このボーカルがオザケンだとは気づかなかった.はっきりいって歌はうまくない.それでもどこかに魅力がある.ついつい耳を傾けてしまう.そんなチャーミングさが歌の内容によく合っていた.そして「愛し愛されて生きるのさ」(「東京恋愛専科...」のカップリングだった)のせつなさに胸がつまってしまう.その頃,私も恋する若者のひとりだったのだ(もちろん,モテなかったけれど).

「今夜はブギーバック」は,オザケンの存在を(そしてスチャダラパーの存在も)一気にメジャーにしただけあって,10年にひとつあるかないかの名曲ではないかと私は思っていて,「ダンスフロアにはなやかなひ~かり~」とあの甘い声が聞こえると,一瞬でその歌の世界に引きこまれてしまう.ラップのノリの良さと,繰り返されるメロディーに麻薬のような中毒性がある.なんどもなんども聴いたものである.

名曲であることは,今回の加藤ミリヤをはじめとして多くのアーティストにカバーされていることからもよく分かる.数年前には,ハルカリもCMソングでカバーしていたし,オザケンは自分自身でも同曲をカバーしている(もっと大人の感じがするバージョンになっている).そんな数多いカバー曲の中で私のオススメは,(たしか)スチャダラパーのアルバム「サイクル・ヒット」に収録されているバージョンである.ボーカルはなんとフリッパーズギターの相方の小山田圭吾.まるでオザケンにあてつけるように,オザケンよりもさらに甘く甘く歌い上げている.やっぱりオザケンと小山田圭吾は仲が悪くてフリッパーズは解散したのだろうか,などと勘ぐってしまうほどの嫌味な,そして素敵な名カバー曲である.未聴の方はぜひお試しあれ.

2013年1月10日木曜日

本願の確信が強さにかわる

年末,合氣道の稽古の際に藤平光一先生のお話がでて,藤平先生は自分が天地に守られていることを確信されていたということが話題になった.天命を信じその道を歩んでいる限り,天地が自分を守ってくれないはずがないと思われていたのだろう.それがあの先生の絶対的な強さの秘密のひとつだったのだろうとのお話だった.

この話を聞いて,私は「本願」ということを思い出した.父の死後,浄土真宗のお寺にお世話になったこともあり,浄土真宗の教えに触れる機会があったのだが,阿弥陀様の本願によって,我々は救われることになっているのだという.それを信じていれば,極楽浄土にいけるのだ.

「救われる」ということは「悟る」ということである.悟ってしまえば,その人は時空を越えてしまう.すなわちもしも未来に私たちが本願によって救われるのであれば,現在の私たちも時空を越えて救われてしまうはずなのである.だから現在から幸せなのだ.

考えてみるとこの「本願」とは,過去の因果によって現在が決定されるのではなく,未来において現在が決定されるという,たいへんなコンセプトの転換のような気がする.もしも未来に私たちが救われる・悟るのであれば,現在の状況はそのための試練であり,その試練そのものを幸せに転化することができるのである.「本願成就」の確信こそが現在の幸せを決め,そうした考え方が現在の行動を決定していく.これこそが「他力本願」で救われるということではないだろうか.
(さらにいえば,現在の私たちも「悟る」ことができるということであり,「即身成仏」という考え方に発展していくのではないだろうか)

絶対の自信のもとにおける行動は,周囲の人も巻き込んでいく(人間はやはり社会的な存在であり,人との関係性においてアイデンティティが成り立っている.したがって,他人の影響をたいへん大きく受けやすいということを常々痛感している).それが藤平先生の魅力であり,宗教者の強さになっているのではないかと思ったのである.

まぁ,ひとつ間違うとカルトの教祖となる可能性もあるわけで,その辺は巻き込まれることに気をつけなければならないと思うけれど,毎日を幸せに生きていくためのヒントがこうしたところにあるのではないかとも思うのである.

#親鸞という人はかなり過激思想の持ち主だったらしい.「浄土に行きたいと思えないのですが」,と尋ねた弟子の唯円に対して,「私もそうだ」と答えていたりもする.なかなか興味深い人物なのである.

2013年1月9日水曜日

恩田陸「蛇行する川のほとり」: 少女漫画の美しい世界

今年の目標の一つは,50冊本を読むことなのだけれど,既に今年に入って3冊を読んでしまった.いや,もっとゆっくり読むはずだったのだけれど,「読んでしまった」という感じなのである.

読んだ本は,

恩田陸「蛇行する川のほとり」1~3巻

である.3巻というと相当な分量を思い浮かべる方もいるかと思うけれど,その実一冊あたり122~123ページで(作者の意図で各巻ほとんど同じページ数になっている),一冊あたり1時間ほどで読み終えてしまう程度なのである.

内容は作者が少女漫画を目指したという通り,女子高生という多感な時期,すなわち少女から大人になる特別な季節に起こった悲劇の話である.それも過去に起こった殺人事件が起因しているというミステリーとなっている.

しかし,ミステリーといっても,主題は少女たちの成長物語で,少女たちが持つ(あるいは持つであろうと期待する)特別な世界で交わされる好意と悪意について話が進められていくのである.思い浮かべる光景は,萩尾望都の世界.ふわふわ,キラキラの世界の中で残酷なまでに事件が起こっていく.そのせつなさが,描かれた理想的な少女世界と対比されて,心のなかにずっとあとを引くものになっている.

6人の少年少女たちが,親が不在のひとりの少女の家に泊まりこんで,演劇で使う「背景画」を夏休みの期間に描き上げる作業に取り組むのだけれど,各巻はそれぞれ別の登場人物の視点から語られていく.それぞれの成長が描かれ,そして殺人事件についてもそれぞれにとっての真実が語られていく.彼らが背景画を書いている演劇は,「藪の中」を題材にしたものとされていて,それがこの物語を示唆しているものとなっている.

とはいえ,人がうらやむ美男美女が6人でキラキラと夏の日差しを浴びながら緑の庭で紅茶を楽しんだりするのだから,そうした夢のような美しい世界が好きな人にはぜひオススメの物語である.ずいぶんと青春が遠くなってしまった私が読んでも,心の奥に少しだけ忘れたものを思い出したようにキラキラとするものがあった(告白するのは恥ずかしいが).

実はこの本は,恋愛小説なのか,SFなのか,はたまたミステリーなのか全く前知識なしに読み始めた.そのため話の展開がどうなるのか読めないまま,物語の最後の場面まで引っ張られていってしまったという感じであった.そんな感覚ははじめてのことであったけれど,そのワクワク感を十分に楽しむことができた.初めて読む作家の作品というのは,こうした体験ができるのがうれしい.

2013年1月3日木曜日

温泉で思索に耽ることのススメ

大晦日にはひとり温泉を訪れ,しばらく考えに耽る時間をもった.そのおかげで40個にもなる本年の目標ができたのだけれど,実は昨日,1/2にも同じ温泉を訪れ,やはり2時間ほどひとり思索に沈む時間をもった.昨日は何かを考えるというよりも,とにかく頭の中をクリアにして,心と身体の調子を調えることを第一の目的としていた.そしてその目的はおおよそ果たすことができたと思う.

私が温泉を訪れるのは,もちろん温泉好きということもあるのだけれど(私は温泉宿に泊まると,晩と朝にほとんど必ず入浴するくらいだし),第一の目的はひとりで思索に耽る時間をもつ,ということにある.ダライ・ラマも「一日に一人になる時間をもつ」ということを推奨しているけれど,家庭を持っている人ならばそれが必ずしも容易くないことを知っているはずである.それを実現するのが温泉なのである.

ひとりで考えに耽るのであれば家でもできるのではないか,と思いもするけど,やはり家ではどこかでなにかが邪魔をするのである.「瞑想」をするならばまだしも,考えに耽るとなるとまずどうしても注意がどこかに向いてしまう.ついついコーヒーやお茶を飲んでしまうとか,寝っ転がってしまうとか.そしてそのうちウトウトとしてくる.結局,深く考えに沈むことが出来なくなってしまうのである.

それが温泉だとどうなるか.
まずは日常から切り離された環境に自分を置くことができる.また,残念ながら(悲しいことに)家族は誰も同行してくれないので(涙),ひとりになることができるのである.そして,温泉につかっていると身体がポカポカして温まり,いつもと違う脳のモードで思索に耽ることができるだけでなく,ウトウトすることが無い.その上,この季節は露天風呂に入ると必然的に頭寒足熱の状態になる.まさに温泉こそ,思索に耽るのに相応しい「哲学の道」ならぬ,「哲学の露天」なのである.

では,昨日はなにを考えたか,ということなのだけれど,まぁ,それはこれからおいおい生活の中に活かしていくことにして,今回はみなさんに温泉に浸かりながらの思索をすることをオススメして終わりたいと思う.

#私は露天風呂に本やペンとメモを持ち込んだりして時間を過ごすのだけれど,人に不快な印象を与えないよう,気を使っています.また,喉が乾く前に水分の補給を行うよう心がけています.マナーと体調には十分注意いたしましょう.

2013年1月1日火曜日

2013年の新年にあたり

新年あけましておめでとうございます.
今日はカタイ話です.

元日というのはやはり一年の計を立てるのに良い日だと思う.そこで私も実は昨日,温泉に一人でかけ,露天風呂に浸かりながら今年の目標を考えた.思いつくままにメモをとってみるとあっという間に40個近くにもなってしまった.これはたいへんな一年になりそうだと,そのリストを見て年が明ける前にすでにため息をついたのは内緒である.

私が学んでいる心身統一合氣道の宗主であった藤平光一先生は新年にあたり次のようなお話をされていたことを思い出す.

元日といえども,一年の他の一日と本来変わることがない.ただ人間というものは心が弱いから,このように区切りの日を設けて,一年の計を立てるのである.そして,会では新年に「洗心の行」と称してこの厳寒の中,冷たい川や池の中に入る行を行う.このとき,すべてを洗い流し,真っ白な気持ちでまた新たな年を迎えるのである.大切なのは,忘れるのは嫌なことばかりではなく.良かったこともすべて忘れるということ.昨年起こった良かったことにも執着せず,まっさらな気持ちで新年を迎える.そしてまた大いに精進するのである,と.

私は忘れることは得意である.いろいろなことをすぐに忘れてしまう.昔から得意だったけれど,最近は特にひどい.メモを取らなければどんどん記憶の棚から流れ落ちていってしまう(まぁ,人から受けた悪意だけは絶対に忘れないのだけれど).こうして考えると,私は毎日心新たに計を立てても良いのではないかと思える.でも,それって良いことなのか?という疑問はあるけれど.

ということで,私の計.
今年は変革の年とすることがテーマである.今までの行動・生活とは非連続的な変化を起こすことが目標である.

とはいえ,昨日立てた40以上の目標をすべてここに挙げることはしないのだけれど,そのうちのひとつはブログを週3回更新するということなので,今年はこのブログに150以上の記事が載るはずである.
...あぁ,またできそうな気がしなくなってきた...