2014年7月17日木曜日

風邪はひいても薬は飲まない

今年は年初早々,ひどい風邪をひいて声が出なくなり,仕事の遅滞を引き起こして各方面にいろいろとご迷惑をかけてしまったのだけれど,それからも何度か風邪をひくことを繰り返し,先週月曜日からもまたまた新たに風邪をひいてしまって,火曜日はとうとう職場を休んでしまった.どうも今年になって風邪をひいたときのダメージが大きくなっている気がする.日頃の体力の蓄えが無くなっているということなのかなと思う.

今回も風邪をひくにあたって,保健管理センターで阪大病院の先生に診察を受けたのだけれど,喉の痛み止めのトローチと念のための熱冷ましをもらっただけで,通常の風邪薬はもらえなかった.先生の話によれば,「これはウィルス性の感冒,いわゆる風邪で,寝て治すしかない病気ですね」ということで,余程症状がひどくなければ,薬は処方しないということらしい.

実は昨年も保健管理センターの先生の診察の際に,同様のことを言われていて(先生はちがうんだけど),印象深く覚えている.それらの要点をまとめると次の通り.


  • 風邪は薬を飲んで治すものではない
  • 早く風邪を治したいならば,薬を飲まずに身体を休めた方がいい
  • 薬はあくまでも症状の緩和が目的であって,風邪を治すものではない.薬を飲んで症状を抑制したほうが治りが遅いというデータも学会や論文で報告されている
  • そもそも風邪で医者にかかるのは日本人くらいで,アメリカでは医療費が高いから風邪では病院に行かないし,イギリスではかかりつけ医のシステムがあるけれど感冒は除外されている.
  • 結局身体を休めること,生姜湯などを飲んで身体を暖めること,そして早く寝ることが大切
  • 風邪の予防には紅茶がいいという報告がある
ということだそうで,そのときも,薬はくれたけれど飲まなくていいならば飲まない方がいい,と言われた.風邪についてはいろいろと同様な情報を本やネットで目にしているけれど,医者に面と向かって言われると,やはりそうなのだと納得してしまう(もちろん,症状がひどい場合には飲んだほうがいいとも言われたけれど).

野口整体という民間療法があるけれど,そこでは風邪は病気として捉えられてはいなくて,治すものではなく,経過するものという風に考えられている.つまり,風邪は自分の身体の歪みや疲労を自分で治すために経過すべき,自己調整作用なのだということらしい(健康法のひとつ?). 

まぁ,そういうこともあるのかな,という感じなのだけれど,もしそうだとしたら今年に入って私の身体は大きく歪み,疲労が蓄積しまくっているということになる.風邪をひかなくて済むように日頃の生活を改めろ,と身体が言っているのだろう.







2014年7月3日木曜日

靴のカカトはつぶしてはかない

カール・ゴッチは,レスリングシューズの靴紐を締めるのに20分をかけたという.

先日,息子の靴の履き方を見てため息をついた.彼は,カカトを潰し気味に靴の中に足を突っ込み,その後ゴニョゴニョと足首を動かしてようやくカカトまでが靴に収まるやいなや,扉を開けて「いってきます」と出て行った.あれでは靴と足の一体感など無いに違いない.

私の中学時代,毎日全国で校内暴力のニュースが流れていて,私の通っていた中学校も例外でなく荒れていた.学校のあちらこちらでシンナーを吸った跡が見つかるし,水道の蛇口はみな外されていたし,トイレの鏡はなく個室のドアはみな壊されていた.不良の服装も男子は短ラン,女子は長いスカートという格好で,靴はカカトをペッタンコに踏み潰して履いていた.そんな感じだったから不良でなくとも,靴はカカトを踏みつぶして履くのが流行っていた.というより普通だった.

なぜかあの頃,通学用にキャンバス地の白いデッキシューズがとても流行っていて,私もそれを履いていたのだけれど(私はトップサイダーに憧れていたけれど,残念ながら月星の安いものを履いていた),靴を長持ちさせようと思って,カカトは潰さずに履くようにしていた.一方,不良と呼ばれる人たちはデッキシューズではなくなぜか靴底が薄いものを好んでいて,本当に底が薄い体育館履きのような靴を履き,歩くときは,ペッタン,ペッタンと音を立てていたものである.

高校に入っても,私の通学靴は白いデッキシューズか,コンバースのローカットのバスケットシューズという感じだったけれど,やはりカカトは潰さなかった.この頃になると空手道部で燃えていたので,そんなブカブカの靴の履き方なんて武道を稽古するものとして許せなかったからである.

今となっても,やはりカカトは潰さない.別にスリップオンが嫌いなわけじゃないし,サンダルもよく履いている.しかし,靴を履くならば,やはりカカトのホールド感は重要なのだ.いつでも動けるという安心感をそこから得ることができる.逆に息子がカカトを潰して靴を履いているのをみると,おまえはわかっていない,という気持ちで悲しくなる.

なにかあったときに足元が不安定で動けない,そんな怖い話があるだろうか.だから靴のフィーリングは大変重要である.ゴッチが20分間をかけて靴紐を結んだというのもよくわかる.細部をおろそかにしない人を私は信用する.

#やはり良い靴はカカトのホールド感が違うんだよなぁ...靴を収集する人の気持ちもわかるような気がする.


2014年6月30日月曜日

庭の芝を刈る

雨季に入って忙しく,最近庭の手入れをまったくしていなかったので,芝生はもう荒れ放題となってしまっていた.ぺんぺん草みたいな背の高い草があちらこちらにその存在を主張していて,ここは空き家の庭かと思うほどひどかった.その上,庭だけでなく駐車スペースにも同様に雑草が我が物顔に目立ち,家の前に立つと我が家ながらがっかりする状態だった.

そこで土曜日に芝を刈った.うちは芝を電動バリカンで刈るのだけれど,結局4時間くらいかかったので,軽いはずの芝刈り機を重く感じるほど疲れてしまい,次の日はもう腰が痛くてたまらないという状態だった.幸い空は曇りだったのでそれほど日に焼けたということもないけれど,汗はびっしょりとかいたので,芝刈り後のぬるいシャワーがたいへん気持ちよかった.結局ずいぶんな運動になってしまった.

以前にも書いたのだけれど,芝刈りをすると村上春樹の短編小説「午後の最後の芝生」をいつも思い出す.主人公の「僕」は芝刈りがうまく,依頼主の女主人に気に入られて,家の中に招かれそこである体験をするのだけれど,その前に描かれた,芝刈り作業に対するその手を抜かない仕事ぶりが彼の人柄をよく表すのである.

これも村上春樹が書いていたのだけれど,下手な自己紹介よりも,その人が好きな物事について書いてみるとその人柄がよく表されるのだという(好きなものの例として,カキフライが挙げられているので「カキフライ理論」と呼ばれているらしい).

先の小説もまったくこの手法が用いられている.彼の芝刈りに対する心構え,仕事というものに対する真面目さ,そうした描写から読者は彼への親近感を抱くことになるのだ(その後,彼の心には何かがある(欠けている)ことも読者は知ることになるけれど).小説とはそういうものだなのだろう.決して登場人物は自己紹介をしない.

ということで,今回のトラ刈りとなってしまった庭を見れば,私という人間がよく分かることになる.ところどころで芝がハゲて土がむき出しになってしまった庭を見ながら,いろいろと反省してしまったのである.

2014年6月27日金曜日

ワールドカップ日本敗退に思うこと

というわけで,今回のワールドカップは,日本にとって非常に残念な結果になってしまったわけですが,試合を見ていて思ったのは,出場している選手たちは想像を絶する努力をした結果,あの晴れ舞台に立っているわけで,そして一生懸命戦っているわけで,その結果を私がとやかく言えることではないということです.

その一方で,やはりこのような不本意な結果に終わってしまったからには,その原因と改善策を検討しなければならないし,当然選手たちも批判にさらされることでしょう.選手たちがそんなに頑張ってきたのに批判されるのはかわいそうに思うのですが,それがプロフェッショナルというものなのでしょう.結果が求められる厳しい世界に彼らはいるのです.仕方ないと思います.

しかし,これまでもよくありがちなことだったかと思うのですが,誰かを戦犯扱いして非難するのは嫌な気持ちがするのです.特にマスコミは,これまで賞賛してずいぶん持ち上げてきたのに,このような結果になってしまうと180度方向を変えて,一斉にこき下ろし始めます.そんな人たちに,違和感を感じるのは私だけでしょうか.こうした態度はマスコミだから許されるのでしょうか?もしも私の周囲にそんな人がいたならば,私はその人を敬遠することでしょう.

非難と批判は違うと思います.批判は相手のためになるものだと思いますが,非難はそうではありません.批判はしてもいいと思いますが,今回の日本チームについては非難はすべきではないと思います.彼らは十分に戦ったと思えるからです(手を抜いていたと思う人がいれば,非難するかもしれませんが).反省すべき点は,次回に活かせばいいことです.

相当の努力をしてきただろうに,このような望まない結果が訪れてしまう.
この全世界の人々の前で起こってしまった事実をもって,「努力が必ずしも報われるわけではない」,という人生の重要な真実を今回の大会は(今回の大会も)教えてくれたのだと思います.いや,スポーツは,ほとんどの人たちにとって,常にそれを教えるためにあるのかもしれません.努力が報われ賞賛を得るのは,本当に一握りの人たちだけなのですから.

試合後の日本選手のインタビューを見ていて思い出したのは,山際淳司が彼の短編小説「ポール・ヴォルター」(「スローカーブを,もう一度」収録)の中で引用しているヘミングウェイの言葉です.

「スポーツは公明正大に勝つことを教えてくれるし,またスポーツは威厳をもって負けることも教えてくれるのだ.要するに…スポーツはすべてのことを,つまり,人生ってやつを教えてくれるんだ」

今回も,最高の舞台で,プロフェッショナルたちがそれを教えてくれたということなのでしょう.

#上記の言葉は山際氏の小説の中に紹介されているのだけれど,いまだに原典がわかりません.一体,どこで彼が発言したのでしょうか?

2014年6月24日火曜日

Twitter・Facebookのアイコンを変えてみた

久しぶりにTwitter以外にもネットにつながってみようかと,気分一新.
やる気を出してTwitterのアイコンを変えてみた.

今まで使用していたのはこれ.



ケツァルコアトルというアステカの神様で,私が大好きなチョコレートを人間に教えてくれた(ことになっている).もちろん,もっと大事な「火」を人間たちに与えたということにもなっているけど.

しかし,一応実名でTwitterをやっているというのに,このアイコンでは何を示しているのか全然わからない.万が一,ケツァルコアトルだと知っていても,私が何を意図してこのアイコンにしたのか,理解できる人はいないだろう(私だって,誰も使っていないだろうと思って,適当にこのアイコンを使ったのだし).

そこで,少し考えた挙句,自分の顔写真にすることに決めた.まあ,実名でやっているわけだし.

まず,少しでも写りが良い写真を選んだ(笑).しかし,これが一番大事で,一番時間がかかる.プロがとってくれているわけではないし,自分の写真だから自分が工夫して撮るわけにもいかない.だいたい誰かに頼むのだから,私の顔が綺麗に撮れるようになどと気を使って写真を撮ってくれる殊勝な人などいないのだ.

やり方としては,Picasaの顔認識の機能を使って,私の顔が写っている写真を抽出し,自然光で優しそうに写っている(ここが大事(笑))ものを選んだ.

とはいっても,私のブサイクな顔がアイコン一杯に広がるのはいただけない.しかし,誰だかわからないのも意味が無い.ということで,適当なサイズで,私の顔がぼんやりとわかりそうな構図を選ぶことにした.具体的にはTwitterやFacebookのアイコンは正方形をしているので,正方形になるようにトリミングする.そして,三分割法を使って,自分の顔が右上3分の1の位置に来るようにして,かつ判別がかろうじてできそうな大きさになるようにした.

次に,リサイズとアップロード.
ネットで調べてみるとFacebookのアイコンのサイズは160 x 160 (ただし,アップロード時は180 x 180)と書いてあったので,180 x 180のサイズにリサイズしてから,Twitter,Facebookにプロフィール写真としてアップロードした.

しかし,これが良くなかった.TwitterやFacebookのコメントの脇に表示される小さなアイコンについては十分なのだけれど,TwitterのページやFacebookのプロフィールなどに少し大きく表示されると,160 x 160の画質ではただでさえ見られない顔がさらに見られないひどいものになってしまった.

そこで仕方ないので,あらためてリサイズした写真を作成した.今度は1000ピクセル以上の大きさにした.縮小は各プロフィールにアップロード時に自動的にされるのに任せることになる.

ということで,現在の状況に落ち着いた.アイコンを自分の写真にするのは少し恥ずかしいけれど,どうせ実名でやるならば,どんな人物なのか多少なりともわかる方がいい.逆に,本人を知らない場合は,アイコンでその人の印象を決めている.自分がそのように考えていることに気づいて,アイコンを今回変えてみた.こんな小さなアイコンで人の印象まで変わるとしたら,ちょっと怖いことである(写りの良い写真さえあれば,印象を操作できるかも).

2014年4月21日月曜日

ガルシア・マルケスが亡くなった

ガルシア・マルケスが少し前に亡くなった.87歳というから,もう十分に生きた,ということなのだと思いたい.

近くの図書館に行くと彼の全集が配架されていて,その本の素敵な装丁もあってついつい手を伸ばしてしまうのだけれど,その本の厚みと現在の自分に許されている読書時間の短さを思うと,やっぱり本をまた元の位置に戻してしまう.いつか,いつか,と思っている作品集のひとつである.

それでも比較的短い作品をすでにふたつ読んでいる.「予告された殺人の記録」と「わが悲しき娼婦たちの思い出」 である

「予告された...」の方は文庫本になっているので手軽に手にすることができたのだけれど,内容はずいぶん読みづらかった覚えがある.文体が読みづらいというよりも,描かれている内容が暗く,重く,閉鎖的で読み進めるのに気乗りがしなかったからである.この作品では,ある田舎町で何十年か前の予告殺人事件について,その真相を淡々と書き出していくのだ.どのエピソードにも閉塞感があふれていて,気分が晴れるようなことはなかった.読み終わったときの気持ちの重さを思うと,もうしばらくはこの小説とは関わりたくないような気がする.

一方,「わが悲しき娼婦たち...」の方は,90歳の老人が少女に恋する物語で,老いの恋の悲哀がユーモアをもって描かれている.

「満九十歳の誕生日に,うら若い処女を狂ったように愛して,自分の誕生祝いにしようと考えた」

という扇情的な一文から始まっているけれど,内容は悲しくも滑稽な老人の恋の右往左往が描かれていて,こちらの作品はすいすいと短時間で読むことができた.14歳の少女に90歳になって初めて(だったかな?)恋をする主人公がいい.センスがあって魅力的で情けない.ワタシ好みのキャラクターとなっている.内容もそれほど重くない.オススメの一冊である.こちらは文庫本ではなくて新潮社から出ている全集のものを読んだのだけれど,装丁もかなり素敵で内容と合わせ自分の書棚に並べたくなってくる一冊となっている(結局,私の書棚には並んでいないのだけれど)

彼の作品の魅力のひとつに,作品の中にクラシック音楽が,それも渋めの曲がでてくることがある.特に「わが悲しき娼婦たち...」では,バッハの無伴奏チェロやフランクのバイオリンソナタ,ブルックナーの弦楽五重奏などが出てくる.私のこの作品でブルックナーの弦楽五重奏という曲を知ったけれど,なかなか通好みの選曲なのだったりする.マルケスという人のセンスが感じられる.そんな曲を流しながら,彼の小説を読んでみたい.

ガルシア・マルケスの代表作といえば,「百年の孤独」(そんなお酒もあった),「コレラの時代の愛」(映画化もされた?)などだけれど,どれも未読である.「族長の秋」なんかも読みたい.マルケス山脈の全制覇に向けてまだまだ先は長い.しかし,それは,まだまだ楽しみが残されている,ということでもある.

2014年4月17日木曜日

「なぞの転校生」について:3.音楽がいい感じ

なぞの転校生」の第3弾.今回は音楽について.

たぶん予算や時間の不足が原因だと思うのだけれど,オープニングやエンディングの曲はともかく(といってもどちらも,いい曲だとは思うけど),劇伴曲は新たに音楽家に依頼したのではなく,たぶん既にある曲(主にクラシック)を使っていた.第11話(だったかな)なんて劇中に音楽がひとつも流れなかったし.

とにかく何度も流れてくるのが,ショパンの雨だれ(前奏曲 作品28の15).ドラマの世界設定において重要なキーにもなっている.この曲は,たいへん美しいのだけれど,使い方によっては「ベタ」になりすぎる.しかし,この番組では適度な「甘さ」を演出していてとても効果的だった.しばらく私の頭のなかで,ヘビロテ状態だったけど.

その他には,バッハのゴルトベルク変奏曲やラベルの亡き王女のためのパヴァーヌなどが使われていて,その選曲が良かった.ゴルトベルクが流れていたのは,確か山沢典夫が麻雀をやってボロ勝ちするところだったと思うけれど,ミスマッチかと思いきや意外に曲がハマっていて笑ってしまった.

オリジナルといえば,「風が吹いている」という歌が唯一かと思うのだけれど,これがまた良かった.「ヘクとパスカル」という,岩井俊二の仲間で構成された3人組が歌っていて,ボーカルがなんと劇中SF研究会の女子部員を演じていた椎名琴音さんなのだという.この人,いろいろな才能がありそうだ.ただ,この「風が吹いている」という歌も,どこかの結婚式場の依頼で別に作ったものの使い回しらしい.でも,すごくこのドラマにあっていた.

大げさな劇伴曲はなく,基本的にメローな音楽が終始ドラマのバックに流れていて,それがたいへん気持ちのよいドラマだった.音楽がドラマの演出に果たす役割って,すごく大きいということをあらためて認識した次第.

#オープニング主題歌は,香川みどり役の桜井美南さんが歌っているとのこと.エンディングの清水翔太さんの歌も,エンディングの映像とあわせてたいへん印象的.

2014年4月16日水曜日

「なぞの転校生」について:2.出演者が素晴らしい

なぞの転校生」の第2弾.今回は出演者について.

まずは,なぞの転校生 山沢典夫役の本郷奏多さん.彼の精妙な演技なしにはこの番組の成功はなかった.手放しで大絶賛.ネタバレになるけれど,転校生の彼はアンドロイドなのだ.そしてアンドロイドゆえのつらさ,苦しみを味わうことになる.それを表現する彼の演技が素晴らしかった.アンドロイドなのでモノを食べない,肺がないので吹奏楽はできない(しかし,ピアノは弾く).そしてどんなに悲しくても涙を流せない.人間とは違う少し不自然なしぐさ,その一方で人間よりも人間らしい(でもアンドロイドの)感情の表出.すっかり彼のファンになってしまった.最終回,彼が長い長いセリフは,このドラマの一つのテーマについて語っていて,きっと多くの人が長い間覚えていることだろう.

次に,主人公がもう二人.岩田宏一役の中村蒼さんと香川みどり桜井美南さん.
中村君は,普通の高校生を過不足無く演じていた.彼は若手俳優として実力派なのだろう.さわやかかつ,のびやか,それでいて平凡.そんなどこにでもいる高校生が,ある日突然異次元の出来事に巻き込まれていく,その不安がよく出ていたと思う.また,桜井さんもまた普通で素晴らしい.どこのクラスにでもいる素敵な女の子を演じていて,青春時代を思い出しそうになる(そんな青春なかったけれど).彼女はなんと新人ということらしいのだけれど,今後の活躍に期待したい.

この二人のどこにでもあるような高校生活が,かけがえのないもののように見える.そんな風にドラマは作られている.これは,他の世界からやってきた山沢典夫他の人たちからの視点であって,観ている私たちも自分たちの生活のかけがえのなさに気づくようになっている.花の美しさや,青空の美しさ,学校という社会の複雑さ.そんな事柄がとても魅力的に感じられてくる.

そして,異次元世界の王女を演じた杉咲花さん.
物語の後半は,彼女の演技が特に目を引きつけた.なんという演技力だろう.彼女が表現した,世界を失うものの悲しみは,こちらの胸を熱くさせた.彼女の登場がドラマを引き締め,そしてクライマックスへと導いてくれた.

これらの若手俳優のみなさんが本当に素晴らしかった(椎名琴音さん,樋井明日香さんもいい感じ).
そして,その他にも素敵な,そして実力派の俳優がしっかりと脇を固めていて,たいへんに魅力的だ.

高野浩幸さん.NHKのドラマで主人公の「岩田宏一」を演じていた.彼が今回の「岩田宏一」の父親役だったのだ.そして最終回.私たちの世代にはたまらない幕引きを演じてくれた.ああいう結末でよかった.どうも脚本家の岩井さんは,最後の最後で,ドラマの結末を今回のように書き換えてしまったらしいのだけれど,これはこれでひとつの素敵な物語の終わりだった.高野さんが出演していて良かった.

私が一番かっこいいと思ったのは,ミッキーカーチスさん演じる隣の少しボケている老人(中野裕太さん演じるアゼガミ様も,佐藤乃莉さん演じるスズシロ様も,かっこよかったけれど).彼が山沢典夫に操られているときのかっこよさといったら,このうえない.特に第2話のエンディングで彼が星空の素晴らしさに腕を開いて野原を走り回るところなどは,このドラマの中でも最も印象的な場面のひとつだろう.

どの俳優さんもキャスティングがハマっていて,誰もがこのドラマの魅力の一端を担っていた.どの登場人物にもそれぞれの物語が感じられた.
...それなのに,なぜこのドラマは全然話題にならないのだろう?

2014年4月11日金曜日

「なぞの転校生」について:1.なぜ,話題にならないのだろう?

なぜこれほどまでに話題にならないのだろうかと不思議に思う.先にテレビ東京系で放送されていたテレビ番組「なぞの転校生」のことである.私は,この5~6年,いや10年間で観た中でも最高のSF連続ドラマだと思う.まぁ,そもそもSF連続ドラマっていうのが少ないのだけれど.

「安堂ロイド」も最初は期待してみていたのだけれど,終わりの方になると人の想いが素粒子だなんて話になっていて,興味がだいぶ薄れてしまっていた.あれがSFかといわれると,少し首をかしげてしまう(いや,私はキムタクも本田翼もエンケンも大好きなのですが).

一方,この「なぞの転校生」は昔ながらのSFの範疇に入る珍しいドラマである.もちろん原作は私の世代(よりちょっと前)では,NHKの少年ドラマシリーズで映像化もされた眉村卓の「なぞの転校生」なのだけれど,今回はリメイクというわけではなくて,設定だけ踏襲し内容は異なる話となっている.

企画と脚本(編集も)は岩井俊二.監督は長野雅彦.映画畑のふたりである.だからなのだろう,ドラマとしてはお金がかかっているように全然みえなかったけれど,すばらしい雰囲気が醸しだされていた.自然光を使った美しさが,このドラマのみずみずしさを際立たせていた(いかにも岩井ワールド的なのだ).そう,みずみずしさ.青春の甘酸っぱさが実はこのドラマのテーマのひとつなのだ.「なぞの転校生」は,ここ久しく聞くことがなかった「ジュブナイル」という言葉がぴったりのストーリーなのである.

第1話から私は胸キュンだった(アラフィフの男が言うと気持ち悪いが).私にもあったかもしれない高校時代が,それも憧れ感満載の学生生活が描かれていた.特に第1話から2話くらいまでは,中年のおじさんが思わず目を細めてみてしまうような描写が多く,大いにときめかせてもらった(何度も,気持ち悪くてすみません).

それが第3話以降,俄然SF味を帯びてくる.確かだと思われた世界がその安定を失っていくような展開.毎週次の放映が楽しみで楽しみで仕方なかった.そして終盤には,早く観たいけれど番組が終わって欲しくないという相反する気持ちで一杯になってしまった.12話までが短すぎる.でもだからこそテンポがよかったのだろうけど.

最終話まで,小粒だけれどキラキラする宝石のような物語が続き,決して視聴者を裏切らなかった.こんなにも素晴らしい番組がなぜ話題にならないのだろう?(視聴率もそんなに良くなかったらしいし)

私は悔しいので,しばらくこの「なぞの転校生」の話題を続けたい.

#BSジャパンで現在放送中です(日曜の深夜0時).次回は第2話.物語が動き出す回です.とにかくオススメです!

2014年4月10日木曜日

健康の基本は質の良い睡眠から

最近,ひどく眠たかった.疲れも蓄積している.どうしたものかと思ったのだけれど(少し胃も悪くしていたが),今日は少し調子がいい.なにが異なるかといえば,昨晩は鼻炎の薬を飲んで寝たということである.

考えてみるに,どうも最近よく眠れていなかったことが体調不良の原因ではないかと思われる.特に花粉症の季節になって,鼻がつまっているのだけれどこれがいけないらしい.確かに夜中にも鼻づまりがつらくて目が覚めてしまうこともたびたびあった.朝起きると首筋が非常に凝っていて首が回らない.ひどい時には頭痛までする.目も痛い.疲れがとれていないのも仕方ないということだったのだ.

昨晩は,鼻炎のための薬を飲んだから,薬の作用もあってぐっすり眠れたらしい.正味5時間弱しか眠らなかったのだけれど,体調はスッキリしている.質の良い睡眠がとれたということらしい.

胃を悪くしたのも,睡眠不足のせいに違いない.集中力不足だってそうだ.やっぱり人は睡眠時間を十分に取らなければならないとあらためて思う.ただし,ただ長く眠ればいいわけではなくて,やはり(質)×(量)なのだろう.

睡眠の質を上げるために,今日からは眠る前に呼吸法をしよう.深くリラックスして眠るのだ.しかし,呼吸法をしようにも鼻がつまっていてはどうしようもないのだけれど.

2014年4月9日水曜日

Easy come, easy go.

B'zの歌ではありません.

容易に得たものは,同じく容易に失いやすい,ということ.

最近の若い人は(定型句),すぐ楽をしようとする.しかし,楽をしているかぎり,それは身につかず,すぐに手放さざるを得なくなるということが理解できていないのではないだろうか,と思うのである.

合氣道の藤平光一先生が,よく講習会で言われていた.正しいことを教えると,それで技ができるようになる.それで満足してしまう.しかし,実際に技として使えるためには,それを一生懸命身につくまで稽古しなければならない.そうでなければ,すぐにできなくなってしまう.結局,Easy come, easy go. だ,と.

技術を自分の身につけるためには,何らかの痛みを代償にしなければならないのではないかと思う.それは,努力であり,苦労であり,感動であったりする(感動は心に傷をつけることかと思う).そうしたものがなければ,すなわち「身銭を切って」得たものでなければ,その技術は使いものにならない,あるいはすぐに失ってしまうのではないだろうか.

たとえば,卑近な例をあげれば,英単語.なんども同じ単語を辞書で調べてしまう.ある単語の意味を辞書で確認したら,すぐにもともとの本題に戻ってしまう.そこで何か工夫をしていなければ,すぐにその意味を忘れてしまう.そして同じ単語が出た際に,調べたことは覚えているけれど,単語の意味は忘れている,ということがしばしば起こる.これは,辞書を引く際に,なんの痛みも無いからである.この傾向は,電子辞書を使うようになってますます加速している.単語を調べることがますます楽になっているからである.

Googleなどの検索もまさにこれである.すぐに答えがWeb上で検索されるから,その答えの意味が身につかない.どんどん忘れていく.これを防ぐためには,自分に負担をかけるなにかの工夫が必要なのである.

さらに考えると,研究における回路のシミュレーションもそうである.回路シミュレーションが走れば,それでひと安心してしまうが,一体どれだけの技術がそれで身につくのだろうか.やはり試験装置を苦労して作り動かすことが,真の技術を身に付けるということにならないだろうか.少なくとも,メーカーなどの現場では,そちらの方がいいに決まっている.

「身銭を切る」という代償によって,ある技術を得る.これは一種の等価交換なのではないだろうか.世の中,やっぱりそうした法則で成り立っているのである.

2014年4月8日火曜日

「助けてもらう力」を養おう: 研究室新メンバーへのお話(2)

私は地域では福祉委員という役を務めさせていただいているのだけれど(ほとんど仕事できていなくて申し訳ありません),その関係で聞かせていただいた福祉の講演会の中のお話が印象的だったので,少しだけご紹介.

講演会やセミナーで集まった福祉関係のボランティアの人たちに,「皆さんの町でどなたかが「助けてください」と手を挙げたら,助けようとする人はどれくらいいますか?」と尋ねてみると,だいたいどこでも90%以上の方々が手を挙げるのだという.
一方,「もしも皆さんが誰かの助けが必要な状況になったとして,「助けてください」と手を挙げることができる人は?」と尋ねると,手を挙げる人は10%にも満たないのだという.

この話には私も納得がいく.多くの人は他人に迷惑をかけるのが嫌だと思っているから,このような結果になるのは当然のような気もする.しかし,このように助ける側と助けられる側の非対称性が存在していることが問題なのだ.

福祉の観点からいけば,助けを求める人,助ける人,どちらも同等でなければならない.そうでなければ,助けあう社会などは実現できないだろう.すなわち,これからの社会では,うまく「助けてもらう力」が大事なのだ.

この状況は,仕事や研究室の人間関係にもあてはまると思う.誰かに助けてもらえることも,その人の能力なのである.研究で行き詰まって誰にも聞けない,困っていますと手も挙げることができない,そんな状況では,八方ふさがり,ただただ自分が疲弊していくだけである.

でももしもそんなとき,「困っています,助けてください」といえる勇気があったらどうだろう?恥ずかしくて,やはりそんなこと言えないだろうか.でも逆に,自分の目の前で「助けてください」と手を挙げる人がいたら,つべこべ言わずに喜んで手を差し伸べるのではないだろうか.先に述べた話の90%と10%の非対称を思いだそう.そう思えば,「助けてください」と手を挙げることへのハードルも少しは低くなるのではないだろうか.勇気をもって,人に相談しよう.

みんなが喜んで手を貸してくれる人がいたら,それはひとつの才能である.研究室でも仕事の現場でもそうした力もつけていったらよいのではないかと思うのである.ひとりで悩んでいないで,すぐに相談してみたらいい.ひとりの行き詰まりは,結局みんなの行き詰まりになる.みんながひとりを助けることが,全員の前進につながるのである.

自分の実力を向上するのももちろん大切だけれど,こうして必要なときにみんなに頼る能力も,そしてみんなが自分を助けてくれる能力も,生きていく上でたいへん大切のような気がする.福祉の現場でもそうだけれど,研究室でも不可欠なのかもしれない.


2014年4月7日月曜日

研究室における存在確率を高めよう : 研究室新メンバーへのお話(1)

今日から大阪大学でも新学期が始まった.昼休みに食堂がたいへん混むことで,新しい学期の始まりを感じる.これが一ヶ月も過ぎてゴールデンウィーク明けになれば,食堂は混まなくなるのだから不思議だ.これだけの学生たちは一体どこへ行ってしまうのだろう?

研究室にも新しく修士(博士前期課程)の学生が入ってきた.外部から4名.もともと研究室から進学した学部4年生,研究生を含めると,全部で修士1年は9名となる.かなり大所帯である...

さて,本日研究室の対面式というものが行われた.そこで私がするあいさつは短いのだけれど内容は毎年決まっている.今日はその話を書く.

新しく研究室のメンバーとなった皆さんには,とにかく研究室で過ごす時間が長くなるように努力して欲しいと思います.皆さんの実力は,研究室で過ごした時間の積分で決まると思っています.たとえ用事が無くとも研究室にいることで,いろいろな知識・情報を得ることができます.また研究室の仲間とのきずなも強くなるものと思います.まずはなにはなくとも研究室に長くいるようにして欲しいと思います.

これだけである.この話は,もしかすると何かの折に,私の指導教官である嶋田隆一先生から伺った話かもしれない(そこらへんの出典がすでに曖昧なほど昔から使っているネタなのだ).研究室に配属が決定してからも,学校に出てこない学生がときどきいる.そうした学生が一番困る.大学生なのだから学外の生活指導をする気はそうそうないのだけれど,まったく制御不能となるとこれまた卒業研究に関わる問題が生じてくる.声をかけようにも届かない.これが一番困るのだ.まずは,教員やその他のメンバーと顔を合わせる機会を多くして,コミュニケーションのハードルを下げる努力が必要である.コミュニケーションさえ取れれば,なんとかなるだろう.

研究室における存在確率を増やすこと.これをまず心がけて欲しいと思う.

#実は自分が学生時代は,用も無いのに研究室にいるのが嫌で嫌でしょうがなかった.そんな時間があったら,合氣道の稽古か,映画館か本屋,あるいは渋谷や神田のCDショップに行くほうがずっとマシだと思っていたから.それでも(仕方なく)研究室にいる時間は長かったので,いろいろと勉強することができた.こうして振り返ってみると,やはり研究室にはそれなりに長い時間を費やしたほうがいいと思うのである.


2014年1月3日金曜日

悪い指導者はすべてを教える

最近,時間に余裕が無かったということで,学生のみなさんの話をよく聞かなかったのではないかと反省することがしばしばある.

学生が私のところに相談に来てくれたら,まずは相手の話をじっくり聞くべきである.説明が上手な学生ばかりではないから,いろいろ質問してあげて,「現在の状況」,「理想の状況」を明確にし,「そのギャップの原因」についていろいろ一緒に考える.そして,「次の行動」を相手に決めてもらう.そうした指導のプロセスが,少しおろそかになっていたのではないかと思うのである.

時間が無いと「それはこれが原因だ」とか「こうしたらどうか」と,ついつい私の意見を先に言ってしまうから,相手が自分で考える機会を奪ってしまうことになっている.あるいは,その説明の要領の悪さにイライラして先に私が結論を言ってしまうから,相手がストーリーを組み立てて話すことをできなくさせている.また,「最終的な目標」も,「次にとるべき行動」も,相手にとってではなく,私にとって都合のいいものを設定してしまう.すべては時間が無いからということを理由に,すぐに結論を求めてしまうということなのだけれど,それはあくまでも「自分のため」であって,「相手の成長のため」ではない対応なのである.だいたい,そういう対応をしてしまった日は,帰りの車中で思い出して,ずいぶん落ち込んだ気分になる.後悔がハンドルを重くする.

研究においてはスピードも大切だから,もちろん効率よく進めることが求められるのだけれど,大学は教育機関であるから,学生の成長をまず第一に考えるべきであるはずである.それなのに,面倒だから,あるいは時間がかかるからといって,私があれこれ細かく学生に指示していては,決して彼らの自主性は培われないだろう.ただ「指示待ち」の学生がまた増えるだけである.また,私がイライラして怒ってばかりいては研究も学生の指導もうまくいかないだろう.そのうち,私のところに相談に来なくなるだけだろうから.

最初は時間がかかるかもしれないけれど,長い目でみて指導することによって,学生のみなさんには,自分で研究を進めていく能力を身につけていってもらわなければなら.それが大学のクライアントである社会(決して学生たちの親ではない)への責任を私たちが果たすということになるのである.そうした学生が育つかどうかには教員である私たちの指導の方法が多分に影響する.そのことを常に忘れず,今年は学生のみなさんと対面したいと思っているのである.

良い指導者は,相手の成長のための質問をし,自主性を育てる.
悪い指導者はすべてを教える.

時間がなくても,「相手のため」の対応をしたいものである.


2014年1月2日木曜日

好きなキャラクターは,無いものねだりの表れなのだ

自分の好きなキャラクターを考えると,自分に足りないものが見えてくる,という話がある.

私の好きな人物というと勝海舟なのだけれど,その一方で西郷隆盛,山岡鉄舟といった幕末の偉人や剣豪 白井亨とかがいる.勝海舟を除いた人物に共通しているのは誠心誠意の人であるということである.これは自分自身よく分かる.私が誠心誠意の人に憧れるのは,私に誠の心が無いからなのだ.自分でもそう思っている.だからこそ,西郷隆盛の涙に泣き,山岡鉄舟の誠忠に憧れ,白井亨の愚直に我が身を正すのである.いつか,そう,人生を終えるときには,この人たちの足元に指先が届くくらいまでにはなりたいものだと思っているのである.

一方で,好きな小説の中のヒーローといえば,池波正太郎 「剣客商売」の秋山小兵衛である.尋常ならざる剣技の冴え,なのに清濁併せのむ度量の広さ,決して枯れていない人間臭さ.そこら辺にたいへんな魅力を感じる.私も武道に触れるものとしていろいろな剣豪の名前をあげることができるが,武道家としての理想は彼である.武蔵もいいけれど色がない.針谷夕雲もいいけれど豪放すぎる.秋山小兵衛こそが浮世と武道の世界のバランスがとれた武芸者なのだと思う.

さて,私は格闘技マンガも大好きなのだけれど,その中で一番好きなキャラクターはなんといっても,「北斗の拳」のラオウである.知っての通り,彼は「力の中に正義あり」を体現する剛拳の遣い手なわけだけれど,私は彼に一番の憧れを抱いている.そしてそう,彼の拳法こそ,私と真反対なところにあるのだ.結局,ないものねだりなのだ.私にはどう頑張っても彼のような剛拳を身につけることが出来ないだろう.だからこそ憧れる.あんな豪快な拳を振るってみたい.そして彼のような豪放磊落な一生を送ってみたい.そう思うのである.いまでもサンドバックを叩いていると,ついついラオウのような突きが放てないかと試してみてしまうのだ(そして拳を痛めてつらい思いをするのだが)

やはり私が好きなキャラクターには,私の憧れが投影されている.そしてそれは結局のところ私の無いものねだりなのだ.ただ私が最も好きな人物,勝海舟については無いものねだりでないことを祈っている.

2014年1月1日水曜日

今年,しようかな,と思っていること

2014年,新年にあたり,少しだけ「しようかな」と思っていることを.
(残念ながら「決意」ではありません)

昨年5月から私の生活は諸々の事情により大きく変化した.なにが変わったかというと,とにかく時間がとれなくなった.仕事もプライベートの時間もである.その結果,運動することができなくなったし,読書もほとんどできなくなった.そして何より心の余裕がなくなった.これが一番困る.研究や武道の修行というのは,心の余裕というか,空白がなければ,どうも進まないものだからである.

仕事を優先して,これまで運動や読書の時間を削ってきた.そしてこのブログもほとんど更新できなくなった(わずかにツイッターだけは続けているけれど).しかし,どうも違う.先にも書いたように,研究や武道の修行は,心の空白の時間が不可欠なようである.仕事の時間を優先しても,余裕がなければ結局集中の度合いが低く,効率が上がらないようなのである.

そこで今年は,まず運動の時間を確保することにする.この1時間を確保するのが相当大変そうだと今から覚悟している.しかし,毎日ランニングを続けている村上春樹は,一日はあらかじめ23時間しかないのだとあきらめているそうである.私もこの1時間を予め無いものだとあきらめることにしよう.

さて,運動は週3日あればよい.すると平日5日間のうち残り2日の各1時間を読書にあてることができるだろう.実は最近少しの時間でも良いから,無性に本を読みたくなる.文章に飢えるということは本当にあるのだと実感している.

そしてこのブログ.くだらないことばかり書いているけれど,こうして書くのは誰のためでもなく自分の思考の整理のためなのだ.今年は20分でも30分でも,なんとかこのブログを更新する時間を持つようにしたいと思う.まぁ,昨年も週に3日は更新しようと目標を立てたのだが...

とにかく,今年は心に余裕を持つことが目標である.心に空白がなければ,そこに満たすべき新しいものは生まれない.そのスペースを広げること.それが人間の成長かもしれない,と思ったりなんかした元日だったのでした.