2014年6月30日月曜日

庭の芝を刈る

雨季に入って忙しく,最近庭の手入れをまったくしていなかったので,芝生はもう荒れ放題となってしまっていた.ぺんぺん草みたいな背の高い草があちらこちらにその存在を主張していて,ここは空き家の庭かと思うほどひどかった.その上,庭だけでなく駐車スペースにも同様に雑草が我が物顔に目立ち,家の前に立つと我が家ながらがっかりする状態だった.

そこで土曜日に芝を刈った.うちは芝を電動バリカンで刈るのだけれど,結局4時間くらいかかったので,軽いはずの芝刈り機を重く感じるほど疲れてしまい,次の日はもう腰が痛くてたまらないという状態だった.幸い空は曇りだったのでそれほど日に焼けたということもないけれど,汗はびっしょりとかいたので,芝刈り後のぬるいシャワーがたいへん気持ちよかった.結局ずいぶんな運動になってしまった.

以前にも書いたのだけれど,芝刈りをすると村上春樹の短編小説「午後の最後の芝生」をいつも思い出す.主人公の「僕」は芝刈りがうまく,依頼主の女主人に気に入られて,家の中に招かれそこである体験をするのだけれど,その前に描かれた,芝刈り作業に対するその手を抜かない仕事ぶりが彼の人柄をよく表すのである.

これも村上春樹が書いていたのだけれど,下手な自己紹介よりも,その人が好きな物事について書いてみるとその人柄がよく表されるのだという(好きなものの例として,カキフライが挙げられているので「カキフライ理論」と呼ばれているらしい).

先の小説もまったくこの手法が用いられている.彼の芝刈りに対する心構え,仕事というものに対する真面目さ,そうした描写から読者は彼への親近感を抱くことになるのだ(その後,彼の心には何かがある(欠けている)ことも読者は知ることになるけれど).小説とはそういうものだなのだろう.決して登場人物は自己紹介をしない.

ということで,今回のトラ刈りとなってしまった庭を見れば,私という人間がよく分かることになる.ところどころで芝がハゲて土がむき出しになってしまった庭を見ながら,いろいろと反省してしまったのである.

2014年6月27日金曜日

ワールドカップ日本敗退に思うこと

というわけで,今回のワールドカップは,日本にとって非常に残念な結果になってしまったわけですが,試合を見ていて思ったのは,出場している選手たちは想像を絶する努力をした結果,あの晴れ舞台に立っているわけで,そして一生懸命戦っているわけで,その結果を私がとやかく言えることではないということです.

その一方で,やはりこのような不本意な結果に終わってしまったからには,その原因と改善策を検討しなければならないし,当然選手たちも批判にさらされることでしょう.選手たちがそんなに頑張ってきたのに批判されるのはかわいそうに思うのですが,それがプロフェッショナルというものなのでしょう.結果が求められる厳しい世界に彼らはいるのです.仕方ないと思います.

しかし,これまでもよくありがちなことだったかと思うのですが,誰かを戦犯扱いして非難するのは嫌な気持ちがするのです.特にマスコミは,これまで賞賛してずいぶん持ち上げてきたのに,このような結果になってしまうと180度方向を変えて,一斉にこき下ろし始めます.そんな人たちに,違和感を感じるのは私だけでしょうか.こうした態度はマスコミだから許されるのでしょうか?もしも私の周囲にそんな人がいたならば,私はその人を敬遠することでしょう.

非難と批判は違うと思います.批判は相手のためになるものだと思いますが,非難はそうではありません.批判はしてもいいと思いますが,今回の日本チームについては非難はすべきではないと思います.彼らは十分に戦ったと思えるからです(手を抜いていたと思う人がいれば,非難するかもしれませんが).反省すべき点は,次回に活かせばいいことです.

相当の努力をしてきただろうに,このような望まない結果が訪れてしまう.
この全世界の人々の前で起こってしまった事実をもって,「努力が必ずしも報われるわけではない」,という人生の重要な真実を今回の大会は(今回の大会も)教えてくれたのだと思います.いや,スポーツは,ほとんどの人たちにとって,常にそれを教えるためにあるのかもしれません.努力が報われ賞賛を得るのは,本当に一握りの人たちだけなのですから.

試合後の日本選手のインタビューを見ていて思い出したのは,山際淳司が彼の短編小説「ポール・ヴォルター」(「スローカーブを,もう一度」収録)の中で引用しているヘミングウェイの言葉です.

「スポーツは公明正大に勝つことを教えてくれるし,またスポーツは威厳をもって負けることも教えてくれるのだ.要するに…スポーツはすべてのことを,つまり,人生ってやつを教えてくれるんだ」

今回も,最高の舞台で,プロフェッショナルたちがそれを教えてくれたということなのでしょう.

#上記の言葉は山際氏の小説の中に紹介されているのだけれど,いまだに原典がわかりません.一体,どこで彼が発言したのでしょうか?

2014年6月24日火曜日

Twitter・Facebookのアイコンを変えてみた

久しぶりにTwitter以外にもネットにつながってみようかと,気分一新.
やる気を出してTwitterのアイコンを変えてみた.

今まで使用していたのはこれ.



ケツァルコアトルというアステカの神様で,私が大好きなチョコレートを人間に教えてくれた(ことになっている).もちろん,もっと大事な「火」を人間たちに与えたということにもなっているけど.

しかし,一応実名でTwitterをやっているというのに,このアイコンでは何を示しているのか全然わからない.万が一,ケツァルコアトルだと知っていても,私が何を意図してこのアイコンにしたのか,理解できる人はいないだろう(私だって,誰も使っていないだろうと思って,適当にこのアイコンを使ったのだし).

そこで,少し考えた挙句,自分の顔写真にすることに決めた.まあ,実名でやっているわけだし.

まず,少しでも写りが良い写真を選んだ(笑).しかし,これが一番大事で,一番時間がかかる.プロがとってくれているわけではないし,自分の写真だから自分が工夫して撮るわけにもいかない.だいたい誰かに頼むのだから,私の顔が綺麗に撮れるようになどと気を使って写真を撮ってくれる殊勝な人などいないのだ.

やり方としては,Picasaの顔認識の機能を使って,私の顔が写っている写真を抽出し,自然光で優しそうに写っている(ここが大事(笑))ものを選んだ.

とはいっても,私のブサイクな顔がアイコン一杯に広がるのはいただけない.しかし,誰だかわからないのも意味が無い.ということで,適当なサイズで,私の顔がぼんやりとわかりそうな構図を選ぶことにした.具体的にはTwitterやFacebookのアイコンは正方形をしているので,正方形になるようにトリミングする.そして,三分割法を使って,自分の顔が右上3分の1の位置に来るようにして,かつ判別がかろうじてできそうな大きさになるようにした.

次に,リサイズとアップロード.
ネットで調べてみるとFacebookのアイコンのサイズは160 x 160 (ただし,アップロード時は180 x 180)と書いてあったので,180 x 180のサイズにリサイズしてから,Twitter,Facebookにプロフィール写真としてアップロードした.

しかし,これが良くなかった.TwitterやFacebookのコメントの脇に表示される小さなアイコンについては十分なのだけれど,TwitterのページやFacebookのプロフィールなどに少し大きく表示されると,160 x 160の画質ではただでさえ見られない顔がさらに見られないひどいものになってしまった.

そこで仕方ないので,あらためてリサイズした写真を作成した.今度は1000ピクセル以上の大きさにした.縮小は各プロフィールにアップロード時に自動的にされるのに任せることになる.

ということで,現在の状況に落ち着いた.アイコンを自分の写真にするのは少し恥ずかしいけれど,どうせ実名でやるならば,どんな人物なのか多少なりともわかる方がいい.逆に,本人を知らない場合は,アイコンでその人の印象を決めている.自分がそのように考えていることに気づいて,アイコンを今回変えてみた.こんな小さなアイコンで人の印象まで変わるとしたら,ちょっと怖いことである(写りの良い写真さえあれば,印象を操作できるかも).