2017年5月27日土曜日

「くるり」はどこへ行く?

長年続いているバンドというのもたくさんあって,私が好きなバンドもいくつかあるのだけれど,だいたいが時が経つにつれ音楽は新しくなってきているけれどコンセプトは変わらないというバンドが多い.

たとえば,TRICERATOPS.彼らの音楽は時代につれて新しくなっているけれど,以前から「踊れるロック」というコンセプトは変わっていない.そこが大好きなのである.

また,アジアンカンフージェネレーションだってそうだ.以前に出したアルバムを10年以上を経て,そのまま再レコーディングして発売している.もちろん音楽はいまにあったものに変わっているだろうが,彼らのコンセプトは変わっていないことを示しているように思える.

そんなバンドが多い中,私の好きなバンドの一つ,「くるり」が最近向かっている方向がよくわからない.これからどこへ行こうとしているのか,気になっている.

「くるり」といえば,「東京」,「ワンダーフォーゲル」,「ばらの花」などの比較的初期のイノセントな曲が好きだったりするのだけれど,リリースされた曲を聴いて驚いたのが「Liberty & Gravity」である.聴いてもらえばこの曲の不思議さがわかってもらえると思うのだけれど,なんというか,無国籍感そして少し笑いを含ませたような曲になっていて,それでいてセンスの良さが損なわれていない,ギリギリのところで曲が成立しているのである.初めて聴いたときは思わずニヤついてしまった.

そして昨年リリースの「琥珀色の街、上海蟹の朝」.これがまた素晴らしい.ふざけたような歌詞を中毒性のあるわかりやすいメロディーに乗せて歌っている.わらっちゃうような,せつなくなるような,そしてクールな絶妙の音楽である.

初期のようなピュアさが薄まって,独自の世界に入っていこうとしていることは確からしい.アジア風になっていくことで逆に無国籍を感じさせる不思議な音楽である.こんな音楽を目指している「くるり」.ますます好きになってしまう.

2017年5月25日木曜日

「ちいさい」ではなく,「ちっさい」

学会などの発表の場において,この人は関西の人だなぁと思うことに,「小さい」という形容詞の発音がある.

関東では「ちいさい」と発音するが,どうも関西では「ちっさい」と小さな「っ」が少しだけ強調されて発音されることが多い.

「小さくなる」も「ちいさくなる」ではなく,「ちっさくなる」である(私の心情的には,「っ」ではなく,「ちッさくなる」と「ッ」を使った方が近い感じがする).

発音が気になり始めると,ますます気にしてしまう.学会の発表において関西弁で話す人は見たことがないけれど,こんな細かいところに関西の人の片鱗が垣間見えるのだ.

私も関西に来て十数年経つけれど,「ちっさい」とは発音はまだできないようだ

2017年5月24日水曜日

Vodka Martini, Shaken, Not Stirred.

James Bondを演じていたロジャー・ムーア氏が亡くなったそうである.正直,彼の007はそれほどカッコいいと思ったことはないけれど,広川太一郎氏の吹き替えでユーモアあふれる,それでいて上品なボンドであったことは間違いない.キャノンボールなんて映画への出演も洒落ていた.多くの人に愛されたボンドだったろう.

彼の演じたボンドも言っていたかどうか,覚えが定かでないけれど,ボンドが飲むカクテルといえば
"Vodka Martini, Shaken, Not Stirred."
であって,いつか私も言ってみたいと思うセリフである.まあ,実際のカクテルバーに行った際にはとても恥ずかしくて言えないけれど.

カクテルの専門家が話していたけれど,やっぱりかき混ぜたほうがオーソドックスとのことである.ただ下手なバーテンダーがかき混ぜると不味いので,それでNot Stirredと言っているのではないかなどという話.

ダニエル・クレイグの「カジノ・ロワイヤル」では,Vesperという愛した女性の名前をつけたカクテルということになっている.私は彼のボンドが一番好きなのだけれど,ポーカーのシーンで彼がカクテルを頼むところがかっこよくてたまらない.同じカクテルは頼まないけれど,私もバーでかっこよく振る舞いたいものである.居酒屋ばかりでこの20年近くはカクテルバーには行ったことがないような気がするけど...

2017年5月23日火曜日

夏夏冬冬

今日は,電気学会の調査専門委員会に参加のため梅田に出た.
梅田から堂島の中央電気倶楽部まで20分ほど歩くことになる.今日は暑くて汗が出た.まだ5月というのにもう夏のような気がする.いったい春はどこへ行った?

年々,春だなと思う時期がどんどん短くなっているような気がする.秋もそうだ.夏が終わったらすぐに木枯らしが吹いているような気がする.日本からは春と秋がなくなりつつあるのではないだろうか.

以前,中国の成都から来た留学生が,私の故郷は夏と冬しかないと言っていたのを思い出す.それを聞いたときは,それはお気の毒に,と思ったものだけれど,いつの間にか日本も同じような状況になってしまった.春夏秋冬の四季ではなく,夏夏冬冬の二季だ.

世の女性にとって春服を着る季節があまりにも短くなってしまい,かわいそうな気がする.男はTシャツさえ着ていればいいのだけれど.

そして私は,ストーブを片付けるタイミングを逃してしまった.そんなことを言っている間に次は梅雨がやってくるのだろう.衣替えもまだ十分ではないというのに...

2017年5月22日月曜日

最近の音楽の流行りはこんな感じ?

最近,なんとなく気になる音楽の流行がある.グループ名でいうと,

Suchmos
Nulbarich
cero

あたり.
なんとなく薄暗くて,それでいてグルーブ感がある.とにかくカッコいい.
マイルスのKind of Blueあたりのモード・ジャズを私は思い出す.どこか醒めた都会的なカッコよさがある.

どのバンドもすごく若そうなのがまたいい.どこかのオジサンたちが懐古趣味でやっているわけではなく,若い人が彼らの感覚でカッコいいと思うことをやっているところがいい.私のようなオジサンも,もう四の五の言わずに,彼らが奏でる音楽のグルーブ感を愉しめばいいように思う.

彼らっぽい音楽が最近増えているような気がする.このさき,昔の90年代の渋谷系みたいな大きな流行りになっていくといいな,と思う.

#BEAMSが作った”TOKYO CULTURE STORY|今夜はブギー・バック(smooth rap) in 40 YEARS OF TOKYO FASHION & MUSIC|presented by BEAMS”という秀逸な動画があって,その画と音楽のクオリティが素晴らしいのだけれど,Suchmosを最後のあたりにもってくるところがニクい

2017年5月20日土曜日

ハンドスピナーはフライホイール

ハンドスピナーことFidget Spinnerが日本でもじわじわと話題になってきた.なんのことはない,たいへん低損失のボールベアリングで回るフライホイールなのだ.

フライホイールとは日本語で「はずみ車」で,重さをもった円盤(あるいは円環)を高速で回すことによって力学的なエネルギーを貯蔵するものである.例えば,自転車の後輪を浮かせてペダルをぐるぐる回す.ある程度回転速度が高くなるとペダルから手を離しても車輪はしばらく回り続ける.あれである.車輪にたまったエネルギーはベアリングなどで消費され,速度はゆっくりとなりやがて止まる.これは貯蔵エネルギーがゼロになったことを示す.

あるいは木くずに木の棒を押し当ててぐるぐる回す火おこしをご存知だろう.棒の先に円盤がついている器具をみたことはないだろうか.その重みで回転させるのが楽に感じるようになる仕掛けである.太古の時代より,人類はフライホイールにお世話になってきたのである.

核融合のための臨界プラズマ試験装置JT-60では,巨大なパルス電力を使用するため予めフライホイールを回してエネルギーを貯蔵しておき,必要なときに一気に放出する電源システムになっている.フライホイールも巨大で,確か直径6.6m,厚さ0.4m,重さ107トンの鉄のディスクを6枚縦に積んで,それを発電機の回転子に直結して使用している.発電機とあわせて貯蔵エネルギーは8GJ.そのうち4GJを1回のパルスで放出できるシステムだ.もうこんな大きなフライホイールは作れないかもしれない.ちなみに直径の大きさは製鉄所の炉のだったか,鍛造機だったかの入口の大きさで決まったとのことである.

フライホイールの良さは,単純かつ高繰り返しに強いことである.一方,欠点は待機電力が大きいこと.使わないでただ回っているだけでもそれなりの電力が必要となる.JT-60のフライホイールの回転速度は600rpm,周速は音速の2/3にも達するということだから相当の風損がある.約1000トンを支える軸受も大きな損失を生じる.しかし,これほど堅牢で長寿命のエネルギー蓄積装置はそうそう見つからないのである.バッテリーもキャパシタも敵わない.

宇宙戦艦ヤマトは波動エンジンを始動するときに,まず補助エンジンにてフライホイールを回転させ,それを接続することで波動エンジンを起動させていたような描写がある.「フライホイール接続,点火!」というあの島大介の掛け声(?)である.あのころはフライホイールは身近だったのだ.先日,豊中キャンパスで1年生を中心としたクラスの講義でフライホイールについて尋ねたら知っている学生はほとんどいなかったのだが...

とにかくハンドスピナーを見て思うのはフライホイールである.世の中の子供たちがフライホイールにもう少し親近感を持ってくれるとうれしい.

2017年5月18日木曜日

キカイダー01は太陽電池で動いていた

今朝,キカイダー01の主題歌をたまたま耳にした.歌詞を聞いて驚いた.キカイダーはご存知の通り,身体が赤と青に塗り分けられた人造人間なのだけれど,頭部は透明のカバーがかかっていて,内部の機械が透けて見えるようになっていた.私はそれが単なるデザインだと思っていたのだけれど,なんとキカイダー01はこの頭部に取り付けられた太陽電池によって動いているという設定だったらしい.歌詞にも「光り輝く太陽電池」とあった.

まず太陽電池が輝くというのはあまりよくない.それだけ光を反射してしまい,受光するエネルギーが減ってしまう.つや消し黒が良いのではないだろうか.

そして何より太陽電池が小さすぎるのが問題だ.例え頭部全体が太陽光を受光するにしても多分その面積は頭囲60cmとして円周60cmの円の面積はだいたい300cm^2 = 0.03 m^2となる.これが必要な電力に対してかなり小さいのだ.

日光のエネルギーはどのくらいなのかご存知だろうか.実は晴れた日の正午でだいたい地上1m^2あたり1000W~1200W程度と言われている.現在の太陽電池の変換効率が17%だとしても170W程度しか電力に変換できないことになる.1000Wのドライヤーひとつ駆動できないのである.

さて,キカイダー01.太陽電池の効率が将来の量子ドット太陽電池などが実現されたとして60%くらいまであがったとしよう.それでも,頭部の太陽電池で発電できるのは,0.03 m^2 * 1200 W/m^2 * 60%/100 = 21.6 Wということになる.たかが20Wなんて,蛍光灯ぐらいしか使い物にならない電力である(現実的な変換効率15%では約4分の1の5Wしか発電できないことになる.iPhoneの充電くらいにしか使えない).

馬力に直すと,1馬力 = 735 W程度だから,21.6/735 = 0.03馬力でしかない.そんなパワーで敵を倒せるのだろうか?

いや,そもそも人間の1日の必要カロリーが2000 kcal =8.4 MJとして,24時間*60分*60秒 = 86400秒で割ると,平均97 W程度.すなわち人は平均100W で動いていることになり,キカイダーは人間より少ないカロリーで動いていることになる.これじゃ,人よりも大きな力を出せるはずがない.もしも24時間充電できたとして,8.4MJを1秒間にパルス的に放出できれば8.4MW=11428馬力だせるけれど,1秒で敵を倒さなければならないのみならず,86399秒は静止して充電していなければならないのである.これじゃ地球は救えない.

しかし,子供の頃からこんな話を見聞きしてきたのだから,普通の人が太陽電池に過度な期待をしてしまうのも仕方ないのかなと思う.たぶんキカイダー01も,どこかのプラグインハイブリッド自動車と同じで太陽光発電は単なるお飾りで,実はコンセントを差し込んで充電していたに違いない.

ちなみに鉄腕アトムは10万馬力.動力源は原子炉である.

2017年5月17日水曜日

元気,根気,勇気

アントニオ猪木は,

元気
根気
勇気

が大切だと言った.
なにごとをするにも元気が大切だと最近つくづく思う.私はずっと元気がなかったようだ.昨年の後半からようやく元気が出てきた.こうしてまたブログも書き続けることができるようになった.

根気も育ってきた.おかげで勇気も湧いてきた.
まったく,アントニオ猪木の言うとおりだ.
単純だけれど,大事な話だ.

2017年5月16日火曜日

Gun fu

この前に挙げた興味のある映画はみなヒーローが魅力的で超人的な強さを発揮するのだけれど,それぞれが使う格闘技は別である.Jack ReacherはKFM,Jason Bourneはカリといった具合である.しかし,John Wickは謎である.いろいろな格闘技がミックスされているようだけれど,どうもはっきりしない.しかし,彼のアクションが他に比べ最も映画にぴったりで流麗のように思える.

彼のアクションは最近よく見かける (?), いわゆるGun fuである.すなわちガンアクションとカンフー(実際は他の格闘技)との組み合わせでもっとも派手に,流麗に行われるアクションなのである.

最初に話題にのぼったのは,たぶんマトリックスあたりだと思うけれど,ひとつの究極の形を示したのは「Equibulium」のGun kataである.主演のクリスチャン・ベイルが,ある意味笑ってしまうようなすごいアクションを披露している.これは少しやりすぎだと,私も観たときに思ったけれど.

それに比べると,John Wickはもっと現実的なアクションになっているように見える.銃や格闘技だけではない,カーアクションにおいても芸術的な画をみることができる(そもそも使われている自動車自体が芸術品なのだけれど).すべてが複合的に組み合わされて,息もつかせぬアクションを実現している.アクションの流麗さでいえば,John Wickが最も優れていると私は思っている.

ということで,Chapter2が早くみたい.無敵の引退した殺し屋という設定がなによりもキアヌ・リーブスに似合っている.あんなカッコいい男,そうそういない.

2017年5月15日月曜日

雑誌「秘伝」に見る格闘技のはやりすたり

ついこの前,映画「アウトロー」を観て,そこで使用されていた格闘技「キーシ・ファイティング・メソッド,KFM」が気になったと紹介したのだけれど,本屋で少し手にとってみた今月の「秘伝」(というDeepな雑誌があるのだけれど)に,なんとKFMがデカデカと紹介されていて驚いてしまった.シンクロニシティというよりも,KFMがそこまでMajorになっていたということに気づかなかった私が遅れているのだろう.

しかし数年前の「秘伝」では,たしかシラットかカリなどが紹介されていて,これからジークンドーやクラヴマガに次いで東南アジア系の格闘技が流行るのではないか,という記事だったように思うのだけれど,格闘技の世界にも流行り廃りがあるらしい.今月号は,KFMの他に,クラヴマガと詠春拳の現代バージョンが紹介されている.

流行り廃りがあるとはいえ,「秘伝」においては,システマがずっと注目されていて,その他は古流の空手や意拳などが紹介されている.昔の紙面は,全国各地に伝承されている古流武術の紹介が多かったように思うのだけれど,現在は読者が実体験をできる格闘技,あるいは心身の操作法に関する記事が多くなっているようだ.ずいぶん雑誌のスタイルも変わってきたことに気づく.

しかし,このように伝統武術,古流,そして新しい格闘術と紹介しているけれど,こうしたベクトルに興味のある人々は,スポーツとしての空手,剣道,柔道をずっと練習してきている人口に比べてどれだけいるのだろうかと疑問に思う.たぶん「秘伝」という雑誌が潰れなくて済む程度の需要を生む人口はあるのだろう.そうした人々が単なる武術オタクでないことを期待したいと思うのだけど.

2017年5月12日金曜日

邦画にヒーローは生まれにくいのだろうか

相変わらず映画界では二匹目のドジョウをねらって,前作のヒットを受けたシリーズ化が盛んである.バイオハザードのように6作(?)も作られたものもあるし,スターウォーズのようにこれからもまだまだ続くシリーズもある.だいたい2作目は1作目を越えられないということが多いのだけれど(もちろん,そうではないものもある.ターミネーターとかゴッドファーザーとか),そうであったとしても気になっているシリーズ化された映画が数本ある.

Jack Reacher: Never go back
Jason Bourne
John Wick: Chapter 2

どれもヒーローの名前を冠した映画である.共通しているのは,ヒーローの超人的な強さ・賢さである.やっぱり男たるものそうしたものに憧れてしまうのだ.

そしてアクションのリアリティ.どの映画も戦闘シーン(銃撃戦,格闘)のリアリティを追求していて,そこらへんの工夫を楽しみにしている(実際は映画用にいろいろと演出されているのだけれど,そこらへんを見つけるのも楽しみのひとつだ).決してCGに逃げていないところがうれしい.

しかし観てみたい映画に邦画が含まれていないのが寂しい.強力なヒーローが邦画では生まれにくいのだろうか.もう座頭市のような時代劇シリーズもないし.ハリウッドのような大作でなくとも面白いものは作れると思うのだけど...誰か新しいヒーローを作ってくれないだろうか,と切に思う.

2017年5月11日木曜日

老化はあの世に旅立つ準備

歳のせいか,最近もの忘れをすることが多くなった.三歩も歩けば,何を考えていたのか忘れてしまう.トリ同然である自分に気づき,呆然とすることもしばしばである.

老眼でモノもよく見えなくなってきた.もともと近視でもあるから,目の焦点が合う距離が限られてきて,対象物をもって手を離したり近づけたりして調整する必要がある.

そして耳もずいぶん遠くなってきた.大事な話が聞こえない.どうも最近は悪口を言われてもそれさえも聞こえなくなってきたようだ.

こうした心身の老化は,実はあちらの世界に行く準備を少しずつ整えていることではないかと考えるようになってきた.この世に未練を残さぬよう,嫌なことを見たり聞いたりしなくなり,その上で多くのことを忘れることによって,綺麗さっぱりあの世に行けるのである.

老化はゆっくりとした死への準備である.

以前にも書いたが,村上春樹の小説「タイランド」に興味深いセリフがある.

「これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです、ドクター」

とうとうそうしたことを真剣に考える年齢になった.でも,それを静かに受け入れることができる歳でもある.

2017年5月10日水曜日

キーシ・ファイティング・メソッド KFM

昨日,ちらりとテレビで「アウトロー」が放映されているのを見た.私は実はこの映画が大好きで,第2作の「Jack Reacher: Never Go Back」も気になっている.トム・クルーズもこのシリーズが好きそうで,自分の世界をまた作っている.

主人公のJack Reacherは,陸軍のヒーローだった男で現在は引退している.でも格闘技と射撃の腕前は依然としてすばらしく,また記憶力も推理力も人一倍優れている男である.

映画の内容についてはこれくらいにして,今回の話題は彼が映画の中で使っていた格闘技である.たぶん「キーシ・ファイティング・メソッド (Keysi Fighting Method, KFM)」と思われる.これを最初に目にしたのは,クリスチャン・ベイルが主演をつとめた「バットマン」シリーズの戦闘シーンでなのだけれど,肘と前腕部をスペース小さく使い,効果的に相手の攻撃を防御し反撃するのが特徴で,ちょうど動きにくいバットマンスーツを着て行うのにはちょうど良い格闘技なのである.

今回のトム・クルーズもたぶん相当練習したのだろう,KFMをうまく使ってバーで絡まれたあとのファイトシーンなどで,そのアクションを披露している.なかなか実際的な技である.肘の使い方でいうと,八極拳にも少し似ているような気もする(柳生心眼流とはちょっと遠いかな).

これだけハリウッドでも流行っているのであれば,たぶん日本にももうあるだろう,と思って検索してみたら,やっぱりすでに教室があるらしい.そのうち,私の周りにも体験した人が出てきそうである.

2017年5月9日火曜日

青くさき新緑の毒素は世に満てり

もう夏かと思うような暖かさ,いや暑さが続いている.まだ5月なのに.
山は新緑と呼ぶにはもう遅いような黒々しさをもっている.

このように力強い緑色が山々に映えるようになってくると,緑が快いなんてとても言えなくなる.あまりの緑の荒々しさにむせかえるようだ.

以前にも同様なことを思った詩人がいたらしく,「新緑の毒素」などという詩を書いている.それは高村光太郎の「レモン哀歌」に収められている.

青くさき新緑の毒素は世に満てり

高村の気持ちもわからないではない,今の季節である

2017年5月8日月曜日

戸隠神社,天手力雄命,龍神

私の家の近所に戸隠神社があることに最近気づいた.戸隠といえば,私も大学時代,部の合宿で行ったことがあるけれど,長野県の戸隠がオリジナルのはずであって,こんなところに戸隠の名前があると知って,たいへん興味深く思っていた.

そして先日,ゴールデンウィークということもあって,その戸隠神社に散歩に出かけた.近所だと思ったら意外に遠く,たぶん4, 5 kmは歩いたように思う.行ってみると参道の両脇の杉の木はずいぶんと立派だったけれど,石段を登ったさきにあったのは小さな社だった.しかし社はなんと400年近く前に作られたものらしい.もちろん修理復元されているものではあるけれど,一部はその時代のものが使用されているとのこと.意外にすごい建築物だった.

祀られているのは「天手力雄命」.これは本家の戸隠神社と一緒である.長野の戸隠山は,そもそも天手力雄命があけた天の岩戸が勢い余って落ちてきたものが始まりとされていて,山そのものがもともと御神体だったと言われている.今回訪れた戸隠神社も2百数十年前に山腹から遷宮されているというから,始まりはやはり山がご神体だったのかもしれない.

そして,天の岩戸が落ちたときの音に応じて現れたのが九頭龍神とされていて,長野の戸隠神社では龍神が祀られている.一方,近所の戸隠神社にはさすがに龍神の摂社はなかった(一つ祭神不明の小さな社があったのでもしかするとそうだったかもしれないが).しかし,その近所には龍神が祀られている神社が存在しており,そこに戸隠神社と龍神との縁を感じる.ただし,そちらの方はもともと地元を流れている川自体が崇拝対象になったような気もする.

意外なところに意外な神様が祀られているのが面白く,昔から神社をまわるのが好きだ.しかし,近年は神社ブームで人が多く,まわるのが億劫になっていた.今度は近所の神社めぐりが良さそうだ.


2017年5月3日水曜日

相手の攻撃をかわす能力こそ

合気道をはじめとする型武道において最も問題なのは,相手の攻撃をかわすことであると最近思っている.空手のような打撃系の武道であったとしても,相手の攻撃をかわすことは難しい(だから相手の突きや蹴りがあたることになる).しかし,空手では稽古の中で攻撃をかわすことは普通のこととして練習するから,それなりのかわし方(受け方)を身につけることになる.しかし,合気道のように約束された攻撃しかしない稽古を中心に行っていると,相手の攻撃を待つときにスキだらけになるだけでなく,相手の攻撃をかわすことができない人が多くなる.これは仕方がないことである.

合気道のように技をかけること自体が難しい武道では,その技を中心に練習することが当たり前となる.たとえばポピュラーな「小手返し」という技でも,相手の小手を持てたとしても相手を投げることはなかなかに難しい.だから相手の小手を持ったところから技を練習することも多くなる.一方で,相手の攻撃をかわす練習は少なくなってしまうのである.練習していないことができないのは仕方がないのである.

しかし,たとえ小手を持って技を完璧にかけることができるようになったとしても,その前に殴られたり蹴られたりしたら終わりなのである.もちろん身体が丈夫であれば多少相手の突き蹴りがあたったとしても倒れることはないかもしれない.しかし,相手がナイフなどを持っていたとしたら,身体が丈夫だといってもあまり役に立たないのである.

では空手ならば大丈夫なのかといわれてもそれも難しいように思える.たとえ一撃で人を倒すことができる突きを身につけたとしても,それを相手に当てる前に殴られてしまったら終わりなのである.結局,相手の攻撃をかわす能力がなければ,自分がどんなに強力な攻撃力をもっていたとしても,その力は無駄になるのである(もちろん,「先手必勝」で先に攻撃することもあるけれど,それはそれでいろいろと問題が起こる).

では合気道や他の型武道においても,自由組手のような稽古を中心としてやるべきかという話になるけれど,私はそれもちょっと違うと思う.自由組手のような稽古を中心に行うと,精妙な技術を身につける前に,一定の間合いでドツキ合いになることが多くなって,結局力とスピードの体力勝負の技術ばかりが身についてしまい,その先に進みづらくなるのではないだろうか.せっかく精妙な技術が伝承されてきたのに,力とスピードの世界にまた後戻りになるのであればもったいない.年齢とともに弱くなっていくのであれば,それは武術と言えるのだろうかと思う.

ではどうすればいいのか.それは私もまだ解決できないけれど,剣豪 寺田宗有のように型稽古の中でもその技術は研鑽できると信じて稽古するしかない.でもそうでなければ武道を稽古する意味がないのではないかと思う.

#もちろんできる人はできます

2017年5月1日月曜日

研究室公開で一般の方々に研究内容を説明する

昨日,今日と,大阪大学は「いちょう祭」という一種の学祭が開かれており,吹田キャンパスでは研究室公開がされていた.阪大への進学を考えている高校生をはじめ,近隣に住まわれている方々にも足を運んでいただいている.

うちの研究室では,来室された方々への説明は主に修士1年の学生が行うことになっている.これが学生たちにとっては良い経験となる.パワーエレクトロニクスどころか電気工学を知らない方々に自分たちの研究を理解してもらえるのは大変難しい.それを課せられているのである.

でもこれは就職活動にも役立つ(修士1年は就活はまだだけれど).就活ではほとんどの会社で,「現在の研究について説明してください」と言われることになる.しかし説明する相手は,自分の専門分野に詳しい人ばかりではない.人事の人もいるだろう.そうした人たちにもわかってもらえるように,説明することが求められる.

こうしたときに想定する相手の知識レベルは高校生程度に設定すべし,とはよく言われることである.高校の物理程度の知識で理解できるようにお話しなければならない.まぁ,今日のように理工系とは縁遠い一般の方々に説明するには,いかに実生活の例をあげて実感していただくかが問題となり,高校生どころではなく中学生レベルを想定して説明しなければならないのである.

近年,理工学者,技術者らに説明する能力が強く求められている.今日はその第一歩ということで,今日の反省を将来に活かしてもらえたら,と思う.
(でも,私もあまり自信はないのだけれど)

2017年4月29日土曜日

勉強こそ一番の近道

勉強が好きな小・中・高校生はかなり少数派のような気がする.だいたいの子供が勉強が嫌いという.私も嫌いだった.しかし,勉強をあきらめるということはしなかった.それは,自分への投資だと思っていたからである.

特に中学時代,学校は荒れに荒れていた.トイレの個室のドアはどれも壊れていたし,洗面所のガラスはみな割れていて使えない.その上,水道の蛇口もとられていて水栓をひねることさえできなかった.タバコの吸い殻も当然のように落ちていたし,あちらこちらにシンナーを吸ったあとも見つかった.そんな学校だった.

そんな校内暴力がひどかった環境だったけれど(ほんとにスクールウォーズみたいだった)それなりに中学生活は楽しかった.しかし,そんな毎日に嫌気がさしていたのも事実である.そうした状況から抜け出す,手っ取り早い手段は勉強だった.勉強で環境の異なる高校に行くこと.それが一番の近道だった.

高校時代,親との関係も悪くなかったけれど,まずは自立がしたかった.親から離れたかった.やはりそこでも一番の近道は勉強だった.奨学金もいただくことができて,あとはわがままを言って東京の大学に進学させてもらった.一人暮らしの大学生活は楽しかったな.

勉強こそが自分が毎日から抜け出すための最も力強い手段であり,もっともリターンの多い投資なのだと中学時代から思っていた.そして今もその思いは変わらない.なぜ,今の中高生,大学生は勉強が嫌いなのだろうと思う.今の環境から抜け出すためには勉強が一番の近道なのに.勉強できるチャンスがあるならば,それを最大限活かした方がいい.なぜそれがわからないのだろうかと思う.現代はそんなことがわからないほど,ぬるくなってしまったのかもしれない.

2017年4月27日木曜日

野球のリズムがあわなくなってきたけれど

最近,めっきり野球を見なくなってしまった.サッカーもその他のスポーツも見る機会がすっかり減ってしまったのだけれど,以前は野球をそれなりに見ていたものだから,野球からずいぶん遠のいてしまったという感が一番強い.

野球というのは,ずっと選手が走り続けているわけではなく,なんとなく投手が作るリズムによって試合が支配される.それが日本人の感性にあっていたのか,それとも晩酌のビールを飲むリズムにあっていたのか,高度成長期においてはたいへんな人気だった.

しかし,どうもそのリズムが現代にはちょっとゆっくりとしすぎているような感じがしている.夕方からの2時間をテレビの前で野球観戦してゆっくりと過ごすという余裕がなくなってきたからかもしれない.この忙しい現代において,野球のリズムがみんなに受け入れられているのかどうか,ちょっと疑問である.

私はしばらく野球から関心が遠のいてしまったけれど,救いはまだ研究室に,野球に興味がある学生がいるというのことである.テレビの前で2時間過ごすのはもったいないような気がするけれど,球場に行ってビールを飲みながら過ごす2時間はいまだ格別である.今年も研究室の学生を誘ってナイターでも観に行きたいものである.

2017年4月26日水曜日

ラップは落語に似ている?

息子と話していて,やはりラップがまだ人気だという話題が出てきた.ラップで対戦するというのが盛り上がるらしい.

どんな基準でラップの勝敗を決めるのか,ということを尋ねると,ライム(韻)やフロー,そしてパンチラインの出来で優劣をつけるのだという.韻を踏みながら,意味のある/なしの歌詞をリズムに乗せて話しているのだけれど,その制約の中でうまいことをいうわけである.

たとえば,
「山奥のモンキーがヤンキーになって街に出てきてジャンキーになって」
みたいな韻の踏み方をしていくのだけれど,そこに二重の意味を持たせるようにして,聞いている人に「うまい」と言わせるわけである.

そこで気づいたのだけれど,これって落語の「なぞかけ」や「小噺」と結構似ているんじゃないの?相手の言葉をお題に,韻を踏みながら,ダブル・ミーニング,すなわち掛詞を持たせて歌っていくのだけれど,これって大喜利みたいなものだよな,と思ったわけである.息子にいったら,そうかもしれないとニヤリとしていた.

ラッパーの人たちに,「なぞかけ」や「大喜利」をやらせてみたら,意外にうまいのではないだろうかと思う.一方,落語家にラップをやらせてみても多分...だめだろうなぁ.

2017年4月25日火曜日

頭のはたらきが鈍いのは

疲れていると頭の働きが悪くなる.
それが歳をとってくるとなおさらだ.
睡眠不足は厳禁.
ここまではなんとかできる.
難しいのはここから.

まずは運動とダイエット.
この2つができたらどんなに素敵な人生を送ることができるだろう?
ダイエットはこの3年間,私の「今年の目標」の不動の第一位である.

次は呼吸法と瞑想.
今,流行である.しかし,毎日時間をとって継続することは難しい.
私の合氣道の先生の先生からは,「なぜこんなに気持ちの良いものを,みんな教えてもやらないのだろう」と言われていたのだけれど...

あとは時間と心に余裕を持つこと.
これが一番難しい.
心に覚悟が必要だ.つまりは毎日修行だということらしい.
頭のはたらきを良くする努力もたいへんだ.

2017年4月24日月曜日

探偵は変人ばかり

今期もテレビでは探偵モノが大流行である.
しかし,つくづく呆れるのは,探偵は変人であるという設定が多すぎること.確かに普通の人が探偵だったとしても,物語上面白くないし,そんな人が突然すごい推理をしても逆にリアリティがないような気もする.

でも,例えそうであっても...とひとつやふたつ文句も言いたくなる.
最近の探偵の設定で言えば,貴族,骨マニア,マッサージ師,謎の大金持ち,大学の超天才准教授,はては小学一年生などで,とても現実世界にありえない人たちが推理を披露している.

まあ,昔から探偵は変な人が多くて,シャーロック・ホームズなんて変人の最たるものだし,ポワロも少しおかしい.日本人だと,金田一耕助なんて人もいて,やっぱり変人である.

それでもまともな人も少なからずいて,ミス・マープルや浅見光彦,キャサリンなんてところは内外の普通の人の代表だけど(頭脳は普通じゃないけど,性格がどちらかといえば普通という意味.マザコンとかは普通の範疇に含まれるとして),私が最も素晴らしいと思うのは,なんてたって明智小五郎である.この人はもう完璧.美貌に名声,そして頭脳とすべてを兼ね備えている.しかし,探偵小説の世界ではこちらの方がたいへん珍しいのである.

一方,刑事ものについて考えてみると少し毛色が異なる.せいぜいしつこい性格に問題があるという人がいるくらいで,正義感あふれる直情派か,逆に涙もろい人情派か,あるいはチーム戦であったりして,真面目な主人公の設定が多い(あるいはドジか).変人が刑事をやるという設定自体がそもそも現実味がなさすぎて成り立たないのだろう.

さてさて,私が好きな探偵は,明智小五郎,金田一耕助あたりなのだけれど,一番は誰?と言われると実のところフィリップ・マーロウかな.そして,工藤俊作.頭は使わなくともハードボイルドが私の憧れなんである.

2017年4月21日金曜日

「竜馬がゆく」で勝海舟のファンになる

私にとって坂本龍馬というのは,どうもとらえどころがない.そもそもあまり興味がなかったから(歴史は不得意),大学生くらいまでどんなことを成し遂げた人かもよく知らなかった.

そんな私だったから,小説「竜馬がゆく」に触れたのも大学院の頃だった.その頃になって私はようやく小説を読み始めたのだけれど,吉川英治の「宮本武蔵」や「三国志」などから始まったので,司馬遼太郎に辿り着くには随分時間がかかった.

武術に興味があるから,まずは新撰組関連の「燃えよ剣」や「新選組血風録」あたりから読みはじめ,その後「項羽と劉邦」に行き,郷里の河井継之助が主人公の「峠」へと進んでようやく「竜馬がゆく」に辿り着いた.しかし,それも周りから「竜馬がゆく」を読まなければ男じゃないみたいなことをずいぶん言われたので,渋々読みはじめた感じである.

もちろん小説は面白かった.でも,坂本龍馬という人物のとらえどころの無さが印象に残った.どうも司馬遼太郎の脚色がすぎるのではないかと思いながら読んでいたからか,みんながいうほど,ヒーローという感じではなかった.

最近,彼は本当に北辰一刀流の遣い手だったのではないかという資料が見つかったけれど,読んでいた頃は龍馬が剣豪だったなんて全然信じられなかったというのもその理由の一つだったのかもしれない(なぜなら手をけがして銃をもつなんて剣豪では考えられなかったから).

むしろこの小説で強く憧れたのは勝海舟や佐久間象山である.特に勝海舟にはその行動力に憧れ,そして皮肉屋なところに親近感を覚えた.「竜馬がゆく」を読んで私にとっヒーローとなったのは勝海舟なのである.

勝海舟についてはまた別の機会に書くとして,今回なぜ竜馬のことを取り上げたかというと,今年は彼の没後150年ということを知ったからである.そして彼は誕生日に暗殺されている(旧暦で.新暦では異なる).今年は龍馬で盛り上がるのだろう.



2017年4月19日水曜日

おじいさんとクリームパン

私は大の甘党だから菓子パンが大好きで,なかでもクリームパンはそのトップ3の中に間違いなく位置するほどの好物である.それもかなりの頻度で食べていて,実は今日の昼にも一個食べてしまった.ダイエットをしている私にとってたいへん危険な敵ではあるのだけれど.

クリームパンといっても,各パン屋さんがそれぞれ趣向を凝らして作っているので,いろんな種類のクリームパンがある.中に入っているクリームひとつをとってみても,半生のカスタードクリームみたいのものもあるし,半透明なクリームもある.結構かためのクリームもあれば,トロトロのやつもある.そこにクリームを包むパンの個性も加わるから,同じクリームパンといっても全く別のパンと考えたほうがよい場合もある.

私はどのタイプのクリームパンも大好きだからどれでも全然こだわらないのだけれど,ときどき無性に食べたくなるのが,昔ながらのグローブの形をしたクリームパンである.どうしてなのだろう.なんの変哲もないスタンダードなクリームパンが食べたくなるのである.

パンを端から食べていってクリームにたどり着いたときの嬉しさとおいしさは今も子供の頃と変わらないからかもしれない.そういえば亡くなった父も,昼食はパンにしようということになるといつもクリームパンを所望していた.アンパンやコッペパンではなく,クリームパン1個だけである.父はそれを黙黙と,でも幸せそうに頬張っていたような記憶がある.

そうなのである.娘とパンの話をしていたら,クリームパンというと「おじいさん」というイメージなのだそうだ.昔ながらのパンだからだろうか.アンパンよりもむしろ今の時代クラシックなのはクリームパンなのだ.

クリームパンが大好きな私は,着実に「おじいさん」に近づいていることは間違いないらしい.それでも,いくつになってもクリームパンを笑顔で頬張っていたいものである.父がそうだったように.

2017年4月18日火曜日

「先の先」の弱点

相手の攻撃する気を察して,先んじて攻撃して勝利を得る「先の先」にも弱点がある.それは社会的に見ると,「先に手を出した」とみなされることである.それが「仕方ない」と判断されればまだいいが,「先手必勝」とばかりに襲いかかったなどと証言されれば,社会的にはかなり問題となってしまう.これが「先の先」が生じる問題である.もちろん,「後の先」を狙ってはみたものの,相手の先制攻撃をかわしきれず,それで一命を落としてしまえば,元も子もないのだけれど.

このように,現代ではケンカなどするとその場での勝負の他に,社会的な制裁が課せられることになる.実は江戸時代でも,武士が刀など抜こうものならばそれだけで事件になってしまい,武士は罰せられたのだという.だから一心太助などが「抜きたいなら抜きやがれ!」と啖呵をきることができたわけだ.

すなわちケンカをする場合には,目の前の相手の他にのちの社会の制裁まで考えなければならない.その覚悟がなければケンカなどしてはならないのである.

「手を出すときは,心に情けを残すな.
   心に情けが残っているときは,手を出すな」

とは,漫画「拳児」に出てきた八極拳士の言葉である.それでも戦わなければならないときには,相手を燃やし尽くさなければならない.二度と立ち上がれないまでに.肉体的にも社会的にも.


2017年4月17日月曜日

空手に先手なし

「空手に先手なし」という言葉は,空手を稽古している人なら聞いたことがあるだろうと思う.しかし,これがどれだけ難しいことか,少しでも武術を稽古しているものであればよく身にしみてわかっていると思う.

相手に攻撃させて,それでいて勝つなんて相当技量に差がなければ不可能である.できることならば「先の先」が一番楽である.相手がこちらを攻撃しようとした気配を感じて,相手に先んじて相手を撃破する.それができれば一番安全である.

しかし,「後の先」となると,相手の攻撃を外さなければならない.これが本当に難しい.相手が素人ならばともかく10年も武術を稽古している人であれば,自分の身が安全な状態で相手の攻撃を外す,あるいは防ぐことなんて,これがとてもとても難しい.ましてその相手が刃物の一つでも持っていたならば,それを避けてさばくなんて私には到底不可能である(もしもマイク・タイソンが私を攻撃してきたとしたら,その第一撃以下を避けることはほとんど不可能だろう).

だからこそ「先手なし」ということが尊いのである.「空手に先手なし」ということは,そこまで空手の技量を高めよという教えなのだと考えられる.言うは易く行うは難し.やればやるほど,その難しさを思い知るのである.

#しかし,個人的には,人 vs 人であれば,「後の先」の方が有利である可能性があると思っている.ただし,それでも相手の第一撃を避ける技量があってこそだけれど.

#翻って「専守防衛」を標榜するどこかの国の防衛力を思う.実戦経験もないのだから,「専守」なんてそんな実力があるなんて信じられない.私は全く期待していないのである.

2017年4月14日金曜日

友達のフリをしているけれど,本当はこの人大嫌い

今朝のラジオ番組で,大学教授でもある作家の高橋源一郎さんが興味深い話をしていた.大学の講義で,受講している学生たちに,だれにも言ったことがない秘密を書いて提出するようにと課題を出したのだという.しかし,その回答では多くの学生が同じ内容を書いてきて,それも3年ほど同じ課題を出したけれども毎年同じ答えが最多数だったので,もうこの「秘密」の課題を出すことはやめたのだという.

私はその多くの学生が抱えているという「秘密」とはなんなのだろうと興味津々で耳を傾けていて,その答えを聞いてなるほどと思った.その「秘密」とは

友達のフリをしているけれど,実はその友達が大嫌い

ということだったらしい(ラジオから聞いたので語句は正確ではないけれど,だいたいこのような意味だった).私はなんと現代の若者らしいのだろうと思った.

現代の若者は,「リア充」アピールというのに忙しいようだ.当然,「友達については多くいたほうが良い」という価値観が共有されていて,「友達とこんなところに遊びに来ました!」などとアピールするために写真をSNSにアップしている.そうでもしないで,友達が少なくて寂しい奴と思われるのが嫌なのだろう.

少し前には,「ぼっち飯」がだめで,ひとりでトイレで弁当を食べている学生がいるなどと話題になったけれど,やはりこれも友達がいなければだめなヤツだという強迫観念に支配されている若者の例である.「らしい」と当時も思ったものである.

「友達は多く持たなければいけない」「いい人でいなければならない」という強迫観念のために,本当は嫌いな人とも友達のふりをしつづけなければならないなんて,なんて住みにくい世の中になったのだろうとため息をつきたくなる.それでいて「友達はいなくたっていい」などと人と異なる価値観を持つことを強く嫌がっている.結局どちらにいっても地獄である.現代の若者は本当にたいへんである.絶対に今の時代には若者でありたくないと思う.

2017年4月13日木曜日

上野の花見には気分がのらない

今週末はめっきり春らしくなって気温が上がるというから,桜を楽しむのはこの土日がピークなのだろう.近くに花見に散歩でもしようかと思う.

梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という文章を書いて,その妖しい美しさの理由を看破したのだけれど,私はある時期本気でその話を信じていた.

大学生になって東京に出てきて,花見といえばやっぱり上野公園が有名だった.でも私はその上野の桜の樹の下には死体が埋まっているという都市伝説を信じていて,満開の桜の下で大騒ぎしている人たちの気がしれなかった.

なぜなら上野といえば,戊辰戦争で上野戦争と呼ばれる彰義隊の激闘があった場所で,たいへん多くの死者が出たけれど,その死体は引き取ることが明治政府によって許されずしばらく野ざらしになっていたという話がある.その死体が上野公園に埋められて,その上に桜を植えたのだと信じていたのだ(実際は引き取られてこっそりと供養されたらしい).

私は梶井基次郎の文章とこの都市伝説をすっかり信じて,上野の桜をみると複雑な気持ちになっていた.今は桜を見ても死体が埋まっているなどとは思わないけれど,上野公園を訪れると上野戦争の凄惨さに思いをはせることがある.単に人ゴミが嫌いなだけではなく,こうした理由で上野には花見にはなかなか行く気にはならないのである.

2017年4月12日水曜日

クラークの第1法則

アーサー・C・クラークの三法則における第3法則については,これまで何度か取り上げてきたけれど,今回は第1法則を紹介したい.

著名で年配の科学者が可能であると言った場合には,彼はほぼ正しい.一方,不可能であると言った場合には,彼はたぶん間違っている. 
When a distinguished but elderly scientist states that something is possible, he is almost certainly right. When he states that something is impossible, he is very probably wrong.
(英文はWikipediaより引用.「また引き」ですみません)


というものである.少しブラックなユーモアが効いているけれど,よくできた法則である.若い人たちにチャレンジしようという気持ちを与えてくれる.クラークは,ユーモアと後進への期待にあふれたとても魅力ある人物であったに違いない.

2017年4月11日火曜日

1994年の小沢健二

1994年,私はまだ学生で(といっても博士課程だったけど),毎週末は渋谷や神田のCDショップをめぐるのが楽しみだった.クラシックのCDの海外輸入盤が目当てで月に4枚は買っていた.

なぜかその日はクラシックのショップではなく,なぜか渋谷のWAVEに足を運んだときのこと,店内に,一度聞いたら忘れられないバブリーな音楽が流れていた.私は一瞬でトランスに入り,そのメロディを追うように注意深く耳をそばだてた.

「ラ~ラ~ラ~~ ララララララ♪」

誰が歌っているのかわからなくて,ショップのレジに少しずつ近づいていき「ただいま演奏中」のCDを確認した.それは小沢健二の「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー 」だった.

私にとってこれはオザケンのセカンドインパクトで,ファーストインパクトは「今夜はブギー・バック」だったわけなのだけど,これがオザケンの曲だとは全然気づかなかった.なんというノリノリな曲.あふれでる多幸感!「これだよ,これ」と理系の大学院生の地味な私でさえ,憧れてしまうような世界がそこにあった.

そのうちにシングルのもう一つの収録曲「愛し愛されて生きるのさ」が流れてきて,これがまた最高!「家族や友人たちと,並木道を歩くように,曲がり角を曲がるように...」と続く語りがグッと胸にくる.この2曲で私はすっかりオザケンの魅力から抜け出せなくなってしまった.

フリッパーズ・ギターも好きだったけど,それから小沢健二にはずっとずっと深くのめり込んだ(少し恥ずかしいけど).あれから23年も経った今年,小沢健二がまた新曲を出した.王子様もいまやすっかりオジサンである.作品は昔のようなキラキラ感はないけれど,ちょっと落ち着いてまろやかになった多幸感が感じられる曲である.次の曲も聴きたいなと思う.でも,正直に言うと小沢健二が歌っている姿を見られるだけでうれしいかったりもする.

2017年4月10日月曜日

映画館こそトランスに入りやすい

人は変性意識(トランス)状態にあるとき,暗示を受けやすくなる.催眠術はその最たる例だけれど,催眠術をかけられたときばかりではなく,私たちはしょっちゅうトランスに入っている.

音楽に気分が良くなっているとき,あるいは集中して本を読んでいるとき,あるいは友人や恋人との会話に夢中になっているとき,私たちはトランスに入っている.ふと目にしたテレビCMに意識をとられるとき,一瞬でトランスに入れられているのである.

スポーツや武道においてトランスに入るのは一種の必然的行為だから,スポーツ選手や武道家は催眠術にかかりやすいのではないかと思っている.なぜなら極度の集中とリラックスをするために,自己暗示をかける必要があるからだ.

一方,私たちが最もトランスに入りやすい状況のひとつが映画館であるとも考えている.映画が始まるとだんだんにホールが暗くなり,みなリラックスしはじめ,スクリーンに集中することになる.そのうち音響効果で大きな音がリアルに身近に聞こえてくれば,もう映画の中の世界に一気に引きずり込まれ,トランス状態の出来上がりである.

それだったら個人で暗い部屋でDVDを観るのもそんなに変わらないのではないだろうか,むしろ他人がいない分集中できるのではないか,とも考えられるのだけれど,私はやはり映画館の方がトランスに入りやすいのではないかと思っている.実は他人がいることで,そしてその多くがトランスに入っていることで,自分も感化されてトランスに入りやすいのではないかと思うのである.すなわち集団催眠である.事実映画自体ではなく,他の観客につられて自分が笑っていることも少なくない.

映画を見て映画館を出る時には,自分がヒーロー・ヒロインになったような余韻をひきずっている.それこそがトランスに入っている証拠である.トランス状態下でいろんなメッセージを映画から受け取っているのだろう.映画をみるということは,そのトランス状態を味わうことなのだ.だから中毒性があるのも仕方がないのかもしれない.

2017年4月7日金曜日

花粉症か.風邪か.それが問題だ.

ここしばらく,鈍い頭痛が続き,身体のあちこちも神経痛やら筋肉痛やらいろんな痛みが出ていて,今週はとにかく毎日が長く感じられた.

そして今日になって朝から鼻水とくしゃみが止まらなくなってしまった.テッシュの箱が手放せない.今日は大阪は朝からずっと雨まじりの天気.花粉が飛んでいるとは思わなかったのだけれど,急に訪れた春めいた暖かさに飛散量もぐっと増えたのかもしれない.

仕方なく鼻炎の薬を飲んで今晩は寝ることにした.もちろんマスクも忘れない.このつらい症状は風邪なのか,花粉症なのか,よくわからない.いずれにしても身体はつらく,なにごとにも集中できない.なんとかならないものかとホトホト参っている.

2017年4月6日木曜日

やっぱり桜の樹の下には屍体が埋まっている

夜に桜をみる.
街灯に照らされて夜に見る桜はピンクというよりもほぼ白色で,ほんのわずかに桃色がのっているかどうかという淡い色合いである.昼間の明るい表情とは別に夜の桜にはなにかに取り憑かれたような美しさがあり,この世に存在しないもののように感じられてくる.それは見ているものに,どこかしら恐ろしさを与えるほどである.

梶井基次郎は,その魔的な美しさの秘密を「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」からだと見破ったのだけれど,まさにその通りとしか思えない.梶井基次郎の洞察には感嘆するばかりである.彼が透視する屍体は,腐乱してうじ虫がわいているけれど,水晶のような液をタラタラと垂らしていて,その液を桜は吸い上げて美しく咲くのである.この退廃的な妄想を直観してしまうほど,桜の美しさは妖しくダークなのである.そうした理由でしか桜の魔性を説明できない.

電灯も無かった頃,人は月明かりの下,桜を見たのだろう.なかにはその美しさに気が狂ってしまった人もいたにちがいない,などと思うのである.

一方,散ってしまった桜の枝も象徴的だ.美しさを失ってしまった佇まいに,人はまた盛りを越えてしまったあとの虚しさを思わずにはいられない.

2017年4月5日水曜日

なにをみても,なにかしら心が動く

映画には,忘れられない傑作もあれば,忘れたくなる駄作もある.たしかに観終わったあとに「時間の無駄だった」と思う映画もあるけれど,そんな映画であっても,どこかしら,そしてなにかしら,心に残るものがあると私は思っている.

どんな映画にもメッセージがある.そのメッセージを強弱は別にして私たちは受け取っているはずなのである.大げさに言えば,人生が変わるようなメッセージもあっただろうし,受け取ったメッセージをすぐに忘れてしまっているということもあるだろう.でもそれは強弱・深浅の違いであってメッセージを受け取っていることには変わりがない.

村上春樹は,自分の小説を読んだ人がほんの僅かでもいいから心が動くようであればうれしいみたいなことをどこかに書いていたけれど,映画も同じである.往年のドイツのソプラノ歌手エリザベート・シュワルツコップは,「リート(歌曲)を聴く前と聴いた後では,その人の人生が変わるようなものでなければならない」と言ったというけれど,そこまで求めなくても,映画は人の人生を変えるようなポテンシャルがあると私は信じている.

もしかすると次に観る映画が私の人生を変えるかもしれない.私の心をどこかへ動かしてくれるかもしれない.そんな期待を胸に映画館に足を運ぶのである.

#そもそも映画を観ているときは,人は変性意識状態にあるから,無意識に直接働きかけ易いはずなのである.

2017年4月4日火曜日

映画の楽しみ

映画(DVD)を昨年は63本観たわけなのだけれど,映画はやっぱりいいなぁ,というのが1年を通じた感想である.

本は読んでいて想像力が自分の思い通りにはたらく自由がある.舞台は自分でどの役者に注目するか,その自由がある.しかし,映画はその自由が少ない.監督が場面を切り取ったようにしか観ることができない.つまり監督の意向を強制されるわけなのだけれど,その不自由さが悪いかというとそうではなく,実はそこが映画の楽しみでもある.クラシック音楽のバイオリニストのようなソリストの演奏のように,その人のアイデアを楽しむ.だから映画は面白い.強いてあげるならば漫画が近いのかもしれない.

もちろん映画の魅力はその他にもあって,たとえば自分で想像するしかなかった場面が存在するかのように目の前に広げられることがすごい.たとえばスタートレックやスター・ウォーズ,インデペンデンスデイのような宇宙戦争.パシフィック・リムのようなロボットもの,ゴジラの怪獣,これらは映画でなければあそこまで楽しむことができないだろう.なかでも一番映画らしいと思うのが,ホラー映画.現実に起こったら大変なことになる凄惨な場面も映画だから安心して楽しめる.ゾンビが町を埋め尽くすなんて,映画でなければあんなに具体的にイメージ化できない.最近はゾンビも全速力で走るのだから,どんどん新しいアイデアで恐ろしい状況が映像化されていく.

つまり映画というのは,実は他人の想像物を楽しむものなのかもしれない.


2017年4月3日月曜日

2016年の映画鑑賞録 (3)

昨年度行っていた一年間に50本映画を観ようとする(個人的な)プロジェクト.もう次の年になって3ヶ月も過ぎたけれど,ここで最終回,3回目のツイートのまとめ.(記した日付はツイートした日時であり,必ずしも鑑賞した日ではない)

51.
幸せへのキセキ
2016年9月28日
「We bought a zoo」邦題は「幸せへのキセキ」倒産寸前の動物園を買った家族の話。マット・デイモンが妻を失った父親役。結構平坦な話なのだけど、ジワジワと良さが沁みてくるような映画。スカヨハが相変わらず存在感抜群。ダコタの妹のエル・ファニングの可愛さが印象に残った。

52.
エージェント・ウルトラ
2016年10月16日
「エージェント・ウルトラ」もしもジェイソン・ボーンがおバカでヤク中だったら、というコメディアクション映画。恋人役のK.スチュワートを綺麗と思ったことはないけれど、今回は至極魅了的。完璧な美人ではないからこそ気になってしまう女優なのだと再認識した。B級の王道アクション映画。

53.
残穢
2016年10月16日
「残穢」実話が元だけに話は地味で映画には期待していなかったけど意外に楽しめた。しかし映画は過去の因縁調査が終わった時点で原作と同様終わるべきだったのではないかと思う。後のエピソードは蛇足だ。現実の不思議は意味不明な方がいい。映画でも主人公とその夫が心霊否定論者であることが面白い。

54.
オデッセイ
2016年10月23日
「オデッセイ」M.デイモンが火星に一人残された不屈の植物学者を好演。危機的状況においても明るさを失わないことの素晴らしさが印象に残った。理工学者が大活躍。政治家は出てこない。個人的には一人を救うために国が莫大な費用と巨大なリスクを背負うことを本当にするだろうかと疑問に思ったけど。

55.
残穢
2016年10月23日
「残穢」子供達に付き合い2回目鑑賞。心霊現象の原因を調査していくミステリーであってホラー要素が少ないのが良い。よくできていると再実感。小野不由美の作品「鬼談百景」に納められた実話怪談をどのくらい脚色してこの小説を書いたのだろうか。話のリアリティ感が読者に想像を生み出す。マジ怖い。

56.
ハンナ
2016年11月17日
「ハンナ」隔離された環境で暗殺者として育てられた少女が、社会に出て適応できない物語。もっとハードな展開を期待していたけど、少しメルヘン的でもあった。結局私は救いのない結末を期待していたのだった。少し自己嫌悪。ヒロインよりも悪役のケイト・ブランシェットて持っている映画だと思う。

57.
グッド・ウィル・ハンティング
2016年11月22日
「グッド・ウィル・ハンティング」M.デイモンはみずみずしく,R.ウィリアムスはまだ若い。青年が精神的にも故郷を旅立つ映画。観終わったあとにジーンと胸の奥が温まってくる。中でも友達役のB.アフレックが一番心に残った。いい演技だった。あんな素敵な人間に私はなれるだろうかと自問した。

58.
グランド・イリュージョン
2017年1月1日
「グランド・イリュージョン」これは素敵な映画。子供から大人まで楽しんじゃう。魔術師四人があまり深く描かれていないのがいい。あくまでも主役は追っている刑事なのだ。W.ハレルソンがやっぱり好き。彼の怪しい雰囲気が映画を面白くさせている。M.フーリマンが悪役なのが珍しい。続編も観たい。

59.
死霊館エンフィールド事件
2017年1月1日
「死霊館エンフィールド事件」実話らしい。英米では悪魔がいて悪霊がその手先になるという共通理解があるらしい。舞台がオカルト大国の英国というのがこの心霊事件に深みを与えている。動画サイトに実際の霊能者と被害者のインタビューが上がっていたけど見ない方がよかった。でもホラーとしては良作。

60.
3人のゴースト
 2017年1月1日
「3人のゴースト」クリスマス前に観たくなる傑作。ビル・マーレイがホント素晴らしい。最後は彼の長ゼリフで締めくくられる。私はクリスマス・キャロルが大好きなのだけど、このバージョンも皆さんにオススメ。今はすっかりおじいさんになったビルもまだ若くてキラキラしてる。

61.
マイティ・ソー
2017年1月1日
「マイティ・ソー」こういう神様の英雄譚が意外に好きだったりする。微妙にこの作品でもSHIELDが出てくるのも面白い。ワーグナーのリングで、ソーの打ちおろす雷のあと虹の橋が架かりワルハラ城に神々が入城するシーンが思い浮かぶ。かっこいい。浅野忠信が無言だけどいい感じだと思った。

62.
イコライザー
2017年1月1日
「イコライザー」荒唐無稽な話なのだけど、デンゼル・ワシントンの演技でリアリティが出てくるからすごい。静かな物腰が人物に深みを与えている。彼はどんな役でもソツなくこなせるのだろう。今回もアクションがかっこいい。SUUNTOの腕時計が欲しくなった。

63.
バイオハザード6
2017年1月1日
「バイオハザード6」前作の終わりから、どうなって今作の始まりに繋がっているのかよくわからないけど、アリスは始まりの場所に向かい、全てに結末をつける。前作までの伏線は全然回収されていないし、いろいろと無理はあるけど、とにかく物語は終わった。もう続きはないのだ。それが少し寂しい。

ということで,昨年は63本の映画・DVDを観た.目標は50本だったのだから,十分だと思う.こうしてTwitterで感想をつぶやくことにより,このようにまとめて記録に残すというのは悪くない趣向だ.今年は本数の目標はないけれど(実際,まだ2本しか観ていない),今後もこのようにして感想を形にして残していこうと思う.

2016年の映画鑑賞録 (1)
2016年の映画鑑賞録 (2)

2017年4月2日日曜日

2017年のエイプリルフール

昨日(4月1日)に書いた内容は,もちろんエイプリルフールの冗談です.ソフトスイッチングに関する二法則のところから私のついたウソになっています.そんな法則なんてありません.今年もウソの切れ味が悪くてすみません.

ノーフリーランチ定理というのはもともと最適化問題での話ですが,パワーエレクトロニクスのソフトスイッチングを用いた回路の効率においても,「ある運転条件では効率が向上するが,全体的な平均の効率を計算すると,従来の回路と大差ない」という意味を持たしています.

少し自虐的な冗談でした.来年こそもっと素敵なウソがつけるよう「ウソ道」に邁進いたします.

これまでのエイプリルフールのウソ

2017年4月1日 パワーエレクトロニクス・ソフトスイッチング技術に関わる二法則
2016年4月1日 地球を利用した無線電力伝送システム
2011年4月1日 パワエレの系統
2010年4月1日 電力の産地指定購入
2009年4月1日 人間の共振現象
2008年4月1日 夜中の台所にて,パワーエレクトロニクスの音色に耳を澄ます

2017年4月1日土曜日

パワーエレクトロニクス・ソフトスイッチング技術に関わる二法則

「幼年期の終わり」,「2001年宇宙の旅」などの作者,アーサー・C・クラークが述べたと言われる3つの法則のうちの第三法則については以前にも紹介した

"Any sufficiently advanced technology is  indistinguishable from magic. "(十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない)

昨年のパワーエレクトロニクス技術の世界最大規模の国際会議ECCEのプレナリーセッションにおいても講演者の一人が上記の法則を講演の最後のスライドで紹介していた.私も以前に書いたとおり,パワーエレクトロニクス技術が行き着くところは,魔法の実現なのだ.

アーサー・C・クラークの3つの法則ほど有名ではないけれど,パワーエレクトロニクス分野においても同様の法則(どちらかというと「マーフィーの法則」に近い)が存在する.今回は,半導体素子のスイッチング損失を低減するために研究されてきたソフトスイッチング技術に関するものを紹介する.

”ソフトスイッチングを実現するために回路を工夫すればするほど回路の効率は下がる”
”ソフトスイッチング技術が導入された回路の効率においてもノーフリーランチ定理が適用される” 

回路の小型化を図るため動作周波数の高周波化が進められ,それに伴うスイッチング損失の増加を抑制するためにソフトスイッチング技術が不可欠となってきているが ,上記二法則はそれは万能ではないということを経験則的に表したものである.今後,ますますこの二法則は広まっていくのであろう.

#続きはこちら

2017年3月30日木曜日

ビバ!サニー千葉

千葉真一は忍者,武士だけでなく,テレビ・映画などで空手,少林寺拳法などの武道家の役も多くこなしている(「激突!合気道」なる映画にも主演しているのだけれど,残念ながら劇中彼は合気道はほとんど使用していないという噂).その上,スタントが必要な危険なアクションまでこなしている.つまり,オールマイティのアクションスターなのだ.ここまでできるアクションスターは彼の他に,彼の弟子である真田広之くらいしか見当たらない.

千葉真一はサニー千葉として国際的にも有名で,熱狂的なファンであるクェンティン・タランティーノなどは,彼の映画「Kill Bill」に,千葉真一をなんと「服部半蔵」役で出演させている(彼とともにJACの大葉健二(ギャバンの人)もコメディ風に出演しているのがうれしい).そして「神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り...」とあの「柳生一族の陰謀」の名セリフを言うのである(ちなみに元ネタは「臨済録」の「仏に逢うては仏を殺し」かと思われる.「魔界転生」においても「神に逢うては神を斬り,魔物に逢うては魔物を斬る」とのセリフが出てくる).しかし,タランティーノってヤツは,どれだけ日本映画をみているのか...?

意外なところでは,キアヌ・リーブスにとってもサニー千葉は憧れのスターであったらしい.「John Wick」の宣伝で来日した時,千葉真一に会ってすごく喜んでいて,子供のような笑顔をしていた.キアヌ自身もカンフー映画などプロデュースしているし,こういう少しB級なアクション映画がよっぽど好きなんだろうなぁ.

千葉真一も,先日亡くなった松方弘樹同様,その偉大な功績のわりに世間の評価がずいぶん低い俳優の一人であるのは間違いないと思う.いなくなってからでは遅いのである.この国際的アクションスターの偉大さを現在から大いに讃えたいと思うのである.

#意外なところでは傑作映画「新幹線大爆破」の新幹線の運転士,あるいは松田優作主演の「蘇る金狼」にも殺される役で出演している.どちらもいい味出している.


2017年3月29日水曜日

柳生十兵衛といっても千葉真一

服部半蔵だけでなく,柳生十兵衛といっても,やっぱり千葉真一なのである.

たぶん「柳生一族の陰謀」で柳生十兵衛としてブレイクしたのだろうけれど,片目を塞いであれだけのアクションをするには,相当の稽古が必要であったに違いない.もしも私が片目を塞いで剣を持ったら,まず死角が広がってしまうし,相手との間合いも図りづらくなるだろうし,たぶん相手の攻撃をよけることも難しくなってしまうだろう.あれをあのスピードで大人数を相手に殺陣を行うのだから,もうすごいとしか言いようがない.もともとの才能も素晴らしかったのだろう.

柳生十兵衛三厳といえば時代劇の一,二を争うヒーローだけど,私は当初彼の存在はフィクションだと思っていた.時代劇好きな父が私に,十兵衛が片目を失ったエピソードを話してくれたのだけれど,これが「えーっ」という話だったので,とても信じられなかったのだ.

まだ十兵衛が子供だった頃,父の柳生宗矩に稽古をつけてもらっていたときに,石のつぶてだったか,小柄だったかを投げられて片目が潰された.しかし,十兵衛がそのときに潰れた片目を手で抑えたのではなく,健全な方の目を抑えて次の攻撃に備えた,などという話だった.講談によくあるパターンなので,どうだろうと子供心に思っていた.

しかし,彼は実在の人物で,「月之抄」などの著作もある.隻眼かどうかはさだかでないけれど,伝書もなかなか興味深いことが書かれていて(一部しか読んでいないけど.そしてそれも難解なのだけれど),実在の剣豪だったのだと知り自分の不明を恥じた次第である.いつか「武蔵野」などの彼の著作をゆっくりと読んでみたいものである.

家光の怒りをかって,しばらく柳生の里に引っ込んでいた(あるいはこの時期に諸国を修行行脚した)などという話もあって,いろいろな創作もされやすいのもよくわかる.だから,これまで柳生十兵衛を演じた俳優も数多くいるのだけれど,私の印象に残っている十兵衛は,松方弘樹に村上弘明.若いところでいくと,時任三郎,中村獅童,上川隆也(TV「柳生一族の陰謀」)そして佐藤浩市(彼は映画「魔界転生」(新しい方)で演じている)といったところだろうか.しかし,やっぱり千葉真一を越える柳生十兵衛はいまだ現れていないような気がするのである(私的には「魔界転生」(古い方)が一番!なのだけれど).

2017年3月28日火曜日

千葉真一といえば,服部半蔵

テレビで「影の軍団IV」が放送されていた.私が見ていたのは中学生くらいの頃だろうか.JACの役者さんもみな若くて,とても懐かしかったけれども,あらためて服部半蔵演じる千葉真一のカッコよさに惚れ直した.あの鎖帷子の黒装束がたまらないのだ.

これまで,殺陣のカッコよさといえば,若山富三郎勝新太郎,そして三船敏郎を紹介してきたけれど,千葉真一もすごい.影の軍団シリーズでは,忍びの集団の頭領,服部半蔵を演じ,非常に渋~い忍者アクションを披露している.殺陣も忍者らしく,普通の日本刀でない特殊な形の刀を使用したり,蹴ったり,敵の足を刀で突き刺したりと,少し変わっていて,彼の工夫がいちいちカッコいいのである.ときどき,そりゃないだろう,というアクションも披露しているが,そのオチャメさも魅力のひとつである.

彼のすごいところは常に新しいアイデアを取り入れようとすることで,たぶんスタッフをいつも困らせていたんだろうなぁと推測する.真田広之がまだJACだったころ,彼の命は千葉真一の無茶な要求で何度も危険にさらされたらしい.あの頃の撮影は無茶苦茶だったという話.

あの「影の軍団」のテーマが聞こえてくるとゾクゾクする.服部半蔵は敵ボスを倒す前に決め台詞をいうのだけれど,シリーズIVでは,「名もなく地位無く姿無し. されどこの世を照らす光あらば,この世を斬る影もあると知れ.天魔伏滅」であった.別シリーズでは,「我が身既に鉄なり.我が心既に空なり.天魔伏滅」となっていて,このセリフをきめた後に相手をワンアクションで倒すところがカッコいいのである.

影の軍団以来,本格的な忍者アクションの時代劇が無いような気がする.だれか挑戦してくれないかなぁ.


2017年3月27日月曜日

空海の教えは完全無欠?

ミャンマーからの留学生と話していて仏教の話題になった.
日本には仏教の分派が数多く存在する.日本の仏教とミャンマーの仏教とは大きく異なるが(ミャンマーはスリランカからの上座部仏教が伝来している),日本のお寺に行ったときに,お経の最初のパーリ語の部分は同じだと言っていた.

日本で仏教文化が花開いたのは,鎌倉仏教の頃だと思うけれど,その前の平安時代にその萌芽があったことは間違いないと思われる.そこですぐに思い浮かぶのは,空海の真言宗と最澄の天台宗である.

そして私が思うのは,空海の才能の大きさである.彼は超人だったのではないか.
最澄の天台宗は,法然の浄土宗をはじめ,親鸞の浄土真宗,曹洞宗,臨済宗,日蓮宗,時宗などを生み出し,日本仏教の源流となった.一方,真言宗からは独立したメジャーな宗派は生まれていない.その理由は,最澄の教えはある意味で不完全であり,そのために多くの弟子が独自の宗派を開くことになり,一方,空海の教えは完璧で弟子が疑問を呈する余地が少ないからなのではないか.空海が伝えた(開いた)密教の体系はそれほど完全な理論で構築されたものだからではないかと思うのである.彼は超人だったのではないだろうか.

最澄の教えが劣っているわけではないと思う.彼は探究を続け,そのおかげで多くの優れた弟子を輩出することになったのだから.でも,空海の教えが私の想像するような完全無欠なものであるのだとしたら,やはりその頭の中を覗いてみたいと思うのである.

2017年3月24日金曜日

大学の講義 今昔

大学の講義もずいぶんと変わった.
私が学生の頃は,ノートパソコンなんてなかったから(パソコンは8インチディスクから5インチディスクに移行する頃だ),パワーポイントで講義資料を作成するなんてありえない時代だった.気の利いた先生はOHP(Over Head Projector, 今は知らない人が多いと思うけど)を使っていたけれど,ごくごく少数派で,ほとんどの先生は自分のノートを持ってきて,教科書を片手に黒板に板書しながら講義する,というスタイルだった.その他は配布資料が補助資料として少しあったくらいだった(さすがにコピーは青ヤキの時代ではなかったけれど).

中には,講義が始まるとやってきて,挨拶をしたらすぐに黒板に向かってコツコツと書き始め,そのまま終わりまで一度も生徒の方を向かずに講義して,それで帰っていく先生なんかもいた.あるいは,途中でタバコ休憩をとる先生もいた.そうした講義でも何かを吸収しようとする学生がいて,一所懸命ノートをとっていた(そしてそのノートは試験対策期に高価な値段でコピーが売れることになるのだが).そもそも先生の海外出張が多くて,講義が学期中に半分くらいしか行われないものもあった.でもそれでも許されていた.おおらかな時代だったのだ.

学生たちにとっても,不便であったがために講義中に行わなければならない努力が多く,それが勉強に役立っていたのかもしれないと今となっては思う.現在の講義は,パワーポイントのスライドをプロジェクタでスクリーンに映し,カラフルで,ときにはアニメーションも使ってわかりやすく解説する.補助資料も多く準備され,講義手法についても学生からのアンケート結果も教員にフィードバックされる(声が小さいとか,板書の文字が汚いとか,いろいろな意見がくる.また大事なところは大事だと言ってくれ,などという意見もある).講義はあらかじめ予定された回数で行われるし,煙草休憩なんてもちろん無い.まるで塾のような講義状況なのである.

学生たちは,現在まさにマクドナルド状態.店員ならぬ教員から「~はどうですか?」,「~もあります」などとサービスをされ,それを受け入れるだけで済むという便利な時代なのだ.私はそれが悪いとは思わない.それで学生の理解が進むならば,それは結構なことだと思う.ただ,講義で得られた知識のありがたさだけは昔の方が大きかったように思う.人は苦労をして手に入れたものをありがたく感じ,長く身につけることができるからである.

2017年3月23日木曜日

大学の対応 今昔

以前と大学の入学式・卒業式の様相が異なっているという話をしたけれど,大きく様変わりしたなぁと思うことのひとつに「学生が不祥事を起こした時の大学側」の対応がある.

最近,有名私立・国公立大学において不祥事が多発しており,そのたびに学校側の所属学部長あたりの役職の人が記者会見を開き,マスコミに向かって頭を下げている映像を見ている.一応私も大学側の人間として,たいへんだなぁと思わざるを得ないのだけれど,ニュースを見ている人たちは大学が頭を下げるのが当然だと思っているのだろうか,と不思議に思う.

繰り返していうけれど,大学生は一人前の大人として取り扱うべきなのであると思う.だから大学においては,小・中・高校と違って生活指導,道徳などの講義時間が無い(はずである).私が大学生だったころ,同期の学生が罪を犯し,たいへんな事件となったことがあるのだけれど,それでも学校側が記者会見を開いた,という覚えは無い.ずいぶんあとになって,その学生の罪が確定してからのち,掲示板に退学処分が張り出されただけである.それが当時の普通の感覚だったのである.

もしも学生が不祥事を起こすたびに,大学側が記者会見を開いてそのたびに謝っていたら,たぶん私の上の世代,すなわち学生運動が盛んだった時代には,毎日のようにあちらこちらで謝罪会見が開かれていたに違いない.しかし,当時,大学は学生の生活を指導する立場ではなかったから,そんなことはなかったのであろう.

しかし,現在は大学が学生の生活・素行にまで責任をとるということが社会の通念になっているらしい.大学とはあくまでも学問探究の場であって,それまでの小・中・高校のように生活指導を行う場ではないと思っている私は少数派なのだろう.でも私は,やはり大学生はもう大人であるという自覚を持って行動して欲しいと思う.彼らの生活には大学は関与しないべきだ.一方で,罪を犯したのであれば学生だから未熟であるという配慮はやめて,一般人と同様厳罰に処すべきだと思う.大学生活は高校生活の延長であってはならないと思うのである.

2017年3月22日水曜日

卒業式 今昔

本日は大学の卒業式だった.
卒業されたみなさん,本当におめでとうございます.
次の新しい世界に飛び込むことになりますが,自分の力を信じて大いに活躍して欲しいと思います.

さて,晩に開かれた祝賀・謝恩会で先生方と話していたのは,卒業式に親がついてくる学生が多いということ.現在は会場の大阪城ホールの保護者席に限りがあるので整理券だかなんだか制限があるという.つまりはそれだけ親が卒業式についてくる,ということらしい.

私が学生の頃(二十数年前)は,卒業式に親がついてくるなんて,そうそうなかったように思う.もしも親が出席したいなどというと,恥ずかしいから来るなと言う学生が多かった.実際,卒業式には親の姿はまばらだった.入学式だって親なんか来なかった.大学生になったら一人前,親離れするというのが当時の当たり前の感覚だったのだ.

それがいまはどうだろう.確かに大学を卒業するにも親の貢献が大きいのは認める.しかし,もう少し放任であっても良いと思うのだが,それは私だけの感想なのだろうか.大学の単位取得についても,就職についても,親が心配しすぎるような気がする.大学生はもう大人なのだ.大人として扱ってあげたほうが良い.

私の卒業式には親は遠いこともあって,親が出席するなどという話は全然なかった.まあ,私は学部卒,修士卒,博士卒と三回も卒業式を経験することになったので,親としてもつきあいきれなかっただろうけど.

2017年3月21日火曜日

バレエ ボレロ

テレビで,赤いドレスを着たタレントの渡辺直美さんが,赤いZというマークの描かれたステージの上で男性ダンサーに囲まれて踊るCMを見た.もちろん流れるのはラベルのボレロ.制汗剤のCMらしい.しかし,この元ネタを知らない人も多いのではないかなどと思ってしまった(もちろん,知らなくとも汗を飛び散らせて踊る渡辺直美さんのインパクトは凄いので問題ないのだけれど)

ラベルのボレロという曲はクラシックの中でも,もちろん有名中の有名曲だけれども,それにモーリス・ベジャールが振り付けをつけたバレエもとてもとても有名なのだ.でもなにか最近は目にする機会が少ないような気がする.私はこのバレエが大好きなのに.

赤い円形のステージの上で「メロディ」と呼ばれるダンサーが一人,ボレロに合わせて最初から最後まで約15分踊り続ける.最初は照明があたった腕だけがゆっくりと動き始め,そしてその動きは次第に大きくなっていく.その後照明が明るくなり,ボレロのメロディが繰り返されるにつれて,肩,腰,足が大きく踊り始める。音楽がだんだんクレッシェンドしていくのに合わせて,どんどん「メロディ」は踊りの中に没入していく.周囲の男性ダンサーたちもステージの下で「メロディ」を囲んで称えるように踊りに加わっていく.そして音楽が最高潮に達する頃には,踊りがただただ弾けるように一体となって,音楽の幕切れとともに終わりを迎える.ボレロはこの最後の瞬間にむけてただただ盛り上がっていく曲だから,終わり方がハンパなくドラマチックなのである.

残念ながら生の舞台に触れたことはないのだけれど,私が初めてこのバレエを観たときのことは忘れない.それは映画「愛と哀しみのボレロ」の最後にかけてのシーンである.映画の内容はすっかり忘れてしまった.ただ登場人物の一人がカラヤンがモデルだということで観たのだったかもしれない.でもとにかく,映画の終盤,ボレロが野外で公演されるのだ.このときメロディを踊ったのはジョルジュ・ドン.このバレエを初めて観て,ゾクゾクして寒気がするくらいだった.色気があるなんてもんじゃない.妖しい.とにかく妖しい踊りだった.振り付けも斬新に思えて,借りてきたビデオをそこだけ巻き戻して見直したことを覚えている.

メロディは基本的には女性が踊ることになっていたらしいが,ジョルジュ・ドンが初めて男性で踊ったということらしい.そして踊ることができるのは世界でも限られた人数のダンサーだけで,つまりは実力を認められた一握りの人のメロディしか観ることができないのである.私の趣味でいえば,カッコよさではシルヴィ・ギエム,そして正確さを感じさせるという意味ではマイヤ・プリセツカヤ,という感じなのだけれど,やっぱり一番すごいと感じさせるのはジョルジュ・ドンの踊りである.迫力が違う.妖しい雰囲気がすごい.終盤には彼はあちらの世界にいってしまっているのだ.私が「愛と哀しみのボレロ」のストーリーをすっかり忘れたとしても,彼の踊りだけははっきりと覚えている.それが彼のダンスが別格だということを示しているのだと思う.

ジョルジュ・ドンも早々に亡くなり,プリセツカヤも逝ってしまった.ギエムももうボレロは踊らないという.では,私はこれから誰のボレロを観ればよいのだろう?彼らに伍するダンサーが踊る,ゾクゾクするようなボレロをもう観ることはできないのだろうか.次のボレロを探さなければ...

2017年3月17日金曜日

富山の雰囲気に懐かしさを感じる

3日間富山市で開かれた電気学会全国大会に参加し,ようやく帰宅した。特急サンダーバードで金沢まで行き,そこで新幹線に乗り継いでようやく富山に着く。北陸新幹線ができて大阪からは直通で富山に行けなくなったのでむしろ遠くなった気がする。今日復路のサンダーバードもたいへん混んでいて,当初予定していた列車も満席で,一本早めて帰宅したくらいである。まずは富山は遠いというのが今回の感想。

しかし,学会としては大盛況で,近年で最も参加人数が多かったらしい。3400名程度とか。懇親会も550名を越える参加者ということだったので,酒と料理の枯渇を心配したのだけれど,十分な量で大変楽しむことができた。

さて,先週は沖縄の久米島,そして今週は富山ということで気候が全く異なる場所に続けて出張したことになる。肌で感じたのは,久米島はやはり異国情緒が強く,一方で富山は懐かしく思えるということである。たぶんそれは私が新潟出身だからであって,北陸特有の雰囲気の湿り気が親和性を高くしているのだろう。服装だけでなく住んでいる人の顔からして違うのだから,そう思うのも仕方ないと思う。日本という国は,いろんな人が集まってできている国なのだと,あらためて感じた。

しかし,富山でも雨に降られた。久米島からずっと天気には恵まれていない。久しぶりに関西で過ごすことになる。今度こそ良い天気でありますように(でも花粉は飛ばないように…)

2017年3月16日木曜日

旧友に会って涙する

今日,学会の懇親会で25~26年ぶりくらいに旧友にあった。旧友といっても大学の研究室にいたころのひとつ下の後輩にあたる人である。ほとんど学生の頃と変わりがなかった。素敵な人生を送ってきたのだろうと思った。

この歳になると,旧友の無事を確かめただけで涙が出てきそうになる。健康そうでいるだけでもうれしいし,学生時代の思い出が次々と思い出されてきて,これまで過ぎ去った時間の長さを痛感して懐かしさに涙が出てくる。当時は毎日がたいへんだったけれど,今となってはやはり良い思い出になるらしい。

今日は後輩だけでなく,大学の先輩方にも数多くお会いした。自分が学生だった頃を思い出す。よく足を運んだ縄のれんでお話をしていただいた先輩にも思いかけず声をおかけいただいて,たいへん驚いた。先輩後輩の関係は,どれだけ歳をとっても変わらない。有難いものである。

そして,大学時代の恩師のご講演も拝聴することができた。師弟の関係もいつまでたっても変わらない。そしていつも先生は私の先をいっていらっしゃることに感激する。大学時代の研究室の卒業生にも数多く会って,また頑張ろうという気持ちが湧いてきた。なにはともあれ,みんな元気で頑張っているのが一番うれしいのだ。

現在私が所属している研究室の卒業生にも数多く会った。こうやって時間が流れていることを感じる。また,研究室はまず「人」があって,次に「教え」なのだとあらためて感じた(先日,合氣道でも同じ話を伺ったのだが)。

次にみなさんに会えるのはいつのことになるのだろうかと思いながら,さよならをした。そんなことが心配になるほど,私も歳をとったのだとしみじみ思った。

2017年3月15日水曜日

頭痛に悩まされる

頭痛がひどい。コメカミの奥がズキズキとしていて,集中力がでない。どうしたものだろうと考えている。

頭痛の原因はいろいろ考えられるけれど,水分不足であったり,疲労であったり,過度の緊張であったりする。今回は花粉症かと思っているのだけれど,咳もひどいので実はやっぱり風邪なのかもしれないとも思う。

今日はおとなしく早く寝ることにする。しかし,最近どうも体調もしっくりと来なくておかしいので,睡眠も浅いようだ。どうやったら健康的な生活に戻れるのか。運動したらいいとはわかってはいるのだけれど…

2017年3月14日火曜日

花粉症,何年かぶりにぶり返す。

この数年,花粉症はずいぶんと楽になったと思っていたのだけれど,今年はどうも違うらしい。鼻水は少々なのだけれど,頭痛が酷い。また喉がイガイガして咳が出る。そしてどうも熱っぽい(だが体温を測ってみると37℃はない)。風邪かもしれないと思っていたけれど,どうも花粉症が原因らしい。やれやれ,である。またぶり返してきたということだ。

おかしいと思ったのは久米島に行っていたとき。杉などの花粉はないのだろうとたかをくくっていたけれど,なにかしらアレルギーの元が飛んでいたらしい。それは植物の花粉かもしれないし,それともどこかの国から飛んできたPM2.5とか呼ばれるホコリだったのかもしれない。でもそれは確かに空気の中にあって,私の忘れかけていた花粉症を呼び起こしたらしい。

久米島のホテルは大変だった。頭痛に鼻水,鼻詰まり。体調がどうもおかしくて夜によく眠れない。仕方がないので,夜中に暗い部屋の中,ひたすら腕を前後に振る体操をしていた。真夜中で誰もいなくてよかった(いつも誰もいないけれど)。暗闇の中の怪人物そのものだったに違いない。

そして大阪に帰ってきた。空港を出た途端,すぐに鼻の奥がムズムズときてくしゃみをした。久米島に出かける前はそんなことなかったのに。花粉症は一度始まったら良くなることはないらしい。まったく不可逆のものなのだ。

以来,昼間も寝るときもずっとマスクをつけている。鼻と喉の症状はなんとか軽減されるのだけれど,頭痛だけはどうにもならない。身体もいつもと違う調子のようで,夜ぐっすりと眠れない。目もシクシクとしてつらい。こめかみの奥がズーンと鈍く痛む。とても集中できるような状態じゃない。でも今年の春は花粉の飛散量がずいぶんと増えると予報が言っている。また春が憂鬱な季節となってしまった。

2017年3月13日月曜日

沖縄 久米島で寒い冬を経験する。そして沖縄でかなえたい夢

電気学会の電力技術/電力系統技術/半導体電力変換合同研究会に参加するため,沖縄県久米島に行ってきた。なんと3泊4日の出張。海外を除けばこんなに長い出張は珍しい。

研究会と見学会と懇親会はいろいろと勉強になったけれど,せっかく久米島に来たのでもう少し南国気分を味わいたかった。しかし滞在中は季節外れの厳しい冬の寒さが久米島をはじめとする沖縄地方に訪れていて,最高気温は連日20℃を下回っていた。気温はともかく,とにかく風が強くて,コートなしにはいられない寒さだった。見学会で訪れた海洋深層水を利用した温度差発電の設備では,見学した高い建物の上で海からの北風に直接吹かれ,話すのもつらいくらいだった。まったく南の島気分はなかった。

これが人生2回目の沖縄訪問だったけれど(前回は電気学会産業応用部門大会で那覇だった),沖縄にはまだはたしていない夢がいくつもある。

まず沖縄空手を見てみたい。
空手がオリンピック種目となり,これからもう少し注目を浴びることになるだろうけれど,意外に空手の起源が沖縄であることは一般には知られていないようだ。空手を本土に紹介したのは船越義珍と言われているけれど,それ以前にも沖縄ではずっと「唐手」あるいは「手」と呼ばれる武術が稽古されてきたのだという。最近になって(といってもこの20年くらいかな),「沖縄空手」が注目されて,「那覇手」,「首里手」,「泊手」などのスタイルが話題になるようになってきたけれど,いつか私はそうした本場の稽古を見学させていただきたいと思っている(稽古に参加するのは体力的に不可能そうなのだ)。それが一つ目の夢。

二つ目の夢は,「ユタ」と呼ばれる人に会ってみたい。このことについてはいろいろとあるので,説明はなし。

三つ目は,美ら海水族館を見てみたい。

四つ目は,沖縄のビーチで一日を過ごしてみたい(まだ,沖縄の海で泳いだことはない)

そして,最後に戦争の記憶が残る場所を回ってみたい。本来ならばこれがまず初めに来るべきものかもしれないけれど,私にその覚悟がまだ無いような気がする。

北国生まれの私にとってやはり沖縄は異国情緒あふれる場所であり,どこかしら身構えて緊張してしまう。でもいつかプライベートでやってくれば,南国気分を満喫できる日はやってくるのだろうか。いやこのままずっと無いのではないかと,久米島空港を離れる飛行機の中で思ったのである。