2025年4月26日土曜日

人生MAXの値

 体重が人生MAXの値となっている。今の職場に異動してから,6 kg以上増えている。6 kgの鉄アレイの重さを想像してみると,あんなものを身体にいつもつけて動いていることになるわけで,身体への負担は相当なものになっていることはすぐに想像できる。

なぜ太ってしまうのか。それはとにかくストレスである。常にストレスに追われているから,生活のどこかで満足感を得て幸福を感じたいのだ。簡単に言えば,肉・揚げ物と甘いものである。

先日も研究室の飲み会で,焼き肉食べ放題のお店にいった。ビールでどんどん肉が胃の中に入る。満腹感はこのうえないストレス隠ぺいの手段である。実は前日にも実家でステーキをたらふく食べており,なぜこんなに肉がうまいのだろう,人間は肉食動物なのか,などと考えていたのである。

仕事に合間には甘いものが欠かせない。小さな仕事をひとつひとつ片づけていくたびに,チョコレート,ビスケット,芋けんぴ,かりんとうなどを食べる。ほっと一息休むときに茶うけを求めてしまうのだ。ときには「うぇ,あまーい」と顔をしかめるほどの甘さも求めてしまう。これも過剰な甘さでストレスを塗りつぶそうとする無意識の行動に違いない。

つまり,肉も甘いものも,その量を減らすには,ストレスを解消するしかないことがわかる。こんな論理の帰結は,何十年もわかりきっているのに,やせることができない。私はこの単純な結論を本当の心の底から理解していないのだろう。

「知るだけでは十分ではない、実行しなければならない。意志を持っているだけは十分ではない、行動しなければならない。」(ブルース・リーの言葉とされている)

この言葉を何度聞いたことか。そして「事上磨錬」を心の銘としようと思ったのはいつのことだったか。ダイエットできずして,こうした言葉を口にすることはできない。

そこにはない車のキーを回してしまう

 数か月前に車を買い替えた。いろいろ事情があって,10年以上,19万km以上乗った愛車を手放して,新しく車を購入したのである。

最新の車種であるので,当然スマートキーとなっている。車の鍵はポケットに入れたまま,ドアに手をかければ自動的に開錠されるし,そのまま運転席のボタンを押せばエンジンがかかる。車をかえて2,3か月。まだその動作にぎこちなさが残る。

しかし,習慣というのは恐ろしい。環境が変わっても無意識に動作を行ってしまう。車は替わったけれども,以前の車と同様の動作を繰り返してしまう。特に停車後,エンジンを止める際に,無意識にハンドル脇に右手を伸ばしてしまう。そして,そこには無いキーをつまんで回そうとする動作を行ってしまうのである。そしてそのたびに,そこにはなにもないことに気づいて苦笑する。やれやれ,と思う。

スムーズに車のエンジンをかけ,止める動作ができるようになるには,あとどれだけの時間が必要なのだろう。人間の無意識に染みついた動作の習慣を,シミ抜きのように薄くするのはそう簡単ではないらしい。そう思うと前の車と一緒に過ごした時間の長さをあらためて実感し,また愛おしく思う。

2025年4月19日土曜日

老人五衰

 「天人五衰」という言葉がある。私がこの言葉を知ったのは,三島由紀夫の著作「豊饒の海」4部作の第4作のタイトルであることからだけれど,天人であっても老衰するという仏教における意味を知って驚き,以来ずっと心に残っている。

「天人五衰」とは(wikiの解説によれば),

  1. 衣裳垢膩(えしょうこうじ):衣服(羽衣)が埃と垢で汚れて油染みる
  2. 頭上華萎(ずじょうかい):頭上の華鬘が萎える
  3. 身体臭穢(しんたいしゅうわい):身体が汚れて臭い出す
  4. 腋下汗出(えきげかんしゅつ):腋の下から汗が流れ出る
  5. 不楽本座(ふらくほんざ):自分の席に戻るのを嫌がり楽しみが味わえなくなる


だそうである(出典: wikipedia, 2025.04.19確認)。一体,天人にとってどれだけの時間が過ぎたらこうした衰えがくるのか,ちょっと予想もつかないけれど,天人でさえこうした衰えを感じ,私たちと同様に「老い」の苦しみを味わなければならないのか,と若いころに思った覚えがある(この苦しみから解放されるためには,輪廻からの「解脱」が必要となる)。

私が最近,「老い」を感じて悲しみを味わったのは,次のことがらである。私はこれらを「老人五衰」と名付けたい。

  1. 手に持った物をついつい落としてしまう
  2. よくつまづいて靴のつま先部分をぶつけることが多くなって,靴がすぐに傷む
  3. 視野が狭くなって見落としが多くなる
  4. 加齢臭
  5. 耳が遠くなって聞き返すことが多くなる

その他,「更年期障害でへんな汗をかく」とか,「ついつい座る場所を探してしまう」,「目がかすむ」,「夜目がきかない」など,例をあげだしたらキリがなく,結局は老化現象の具体的な症状でしかないと思い悲しくなった。天人と違うのは,こうした衰えがあっという間に心身に訪れるということか。

また気の利いた「老人五衰」を思いついたら,紹介したい。

#三島由紀夫は「天人五衰」の最終回を書き上げた後、自決している。どんなことを書いたのだろう。実は,「豊饒の海」は最初の「春の雪」の途中で挫折している。



2025年4月13日日曜日

偽りの記憶

 リバイバル上映をしている映画「Love Letter」を,シネスイッチ銀座で観たという話を書いた。しかし,文章を書いているうちに,その記憶が本当のものなのか,偽りのものなのか,自信が持てなくなってきた。

調べてみると「Love Letter」のシネスイッチ銀座での上映期間は,1995年3月24日~1995年6月29日らしい(なんてロングラン!)。

1995年は私が博士後期課程を修了した年である。1995年3月に大学を卒業しているから,3月24日はすでに卒業式を終えているはずである。4月に備えて引っ越し準備に忙しかったに違いない。そんな時期に映画を観に行く余裕が私にあっただろうか。相当に疑わしい。

しかし,映画館で確かに観た記憶があるし,中山美穂のポスターを見てため息をついた覚えもある。でも1995年の3月下旬に本当にシネスイッチ銀座に足を運んだのだろうか。

偽りの記憶かもしれない。あれから30年,今の自分の記憶がこの長い間に影響をうけていつのまにか作られた可能性も捨てきれない。えてして人間の記憶なんて容易に変更されるし,捏造されるものなのだ。そして私もこの年齢になって自分の記憶の確かさに全く自信が持てない。

でもそれはそれでいいのではないかとも思う。こうして自分の気持ちが幸せになるのであれば,捏造された記憶があってもよいのではないだろうか。つらい記憶よりも,こうした幸せな記憶の方が毎日を生活していくためにずっと必要なのだし。

2025年4月12日土曜日

Love Letter

 岩井俊二監督,中山美穂主演の「Love Letter」が,公開30周年記念,中山美穂追悼ということで,4Kリマスター版として現在上映中である。残念ながら私が住んでいる長岡では上演がなく,新潟市まで行かなければ観ることができない。上映期間中に私も観られるかどうか。

この映画は岩井俊二の長編映画デビュー作で,中山美穂が女優として名を挙げた傑作である。私は,これをシネスイッチ銀座で観た記憶がある。

私はその当時大学院生で,月に2本程度のペースで映画を観ていた。全国ロードショーの大作も観たし,名画座で単館上映みたいな映画も見ていた。シネスイッチ銀座は銀座にあるけれど比較的小さな名画座で(近くには有楽町の大きな映画館があったし),ゆっくりと映画を楽しむことができる場所だった。

「Love Letter」という作品はそんなに大々的に宣伝されていなかったのではないかと思う。私も別の映画を観に映画館に足を運んで,この映画の予告編をみて存在を知ったような気がする。1995年当時はインターネットもなかったので情報の広がりも悪かったし,岩井俊二もそれほど有名でなかったから話題にあまりならなかったと思う。そして主演も中山美穂であったので,テレビドラマの延長のようなどこかよくあるアイドル映画ではないのか,という印象を持っていた。ただ予告編の中山美穂,豊川悦司,酒井美紀,柏原崇などが映される画面と小樽の風景が非常にきれいで,それで興味を持ったような記憶がある。

映画を観て,たいへんに切ない気持ちになって映画館を出た覚えがある。映画館の壁に貼ってあったLove Letterの中山美穂のポスターを見て,ふぅー,とため息をついたことを覚えている。作品は切なさのてんこ盛りだった。

まず,高校生時代のエピソードを演じる酒井美紀と柏原崇が素晴らしかった。私もまだ若かったので,高校生時代のファンタジーな(実際にはありえないくらいロマンチックな)物語に胸が痛くなった。お互いに気にしながらも素直に近づけない,恋愛のような友達のような。そんな経験できなかった甘酸っぱい出来事がみずみずしく描かれていた。

次に素晴らしいのが,現代の中山美穂の二役と,関西弁を話すカッコいい豊川悦司,そしてそれを取り巻く大人たち。そのひとりひとりがアートのように綺麗に描かれていて,場面場面が心に残る。このあたりが岩井俊二の才能の素晴らしさなのだろう。私も作品の中の美しい大人のようになりたい,と憧れを持った。登場人物の誰もが美しく,素敵なのだ。そして舞台となる小樽がノスタルジックに描かれていて,だれでも小樽に行きたくなってしまう。

しかし,この映画は1995年だったから成立するファンタジーであることに気づく。まず,中山美穂が死んでしまった婚約者に手紙を出すところから物語が始まるのだけれど,手紙を送る住所が卒業アルバムに載っている時代なのである。そこから文通が開始されるけれど,「文通」というのが今となってはあまりに非効率的である。しかし,だからこそ古めかしく,そしてロマンチックである。「文通」だからこそ,勘違い,すれ違いが生じ,それが物語を動かしていく。

また,当時は学校の図書館で本を借りるためには図書貸出カードに名前や返却日時を記入していて,それが映画では重要な役割を果たすのだけれど,そのシステムは現在の若い人たちが見ても理解できないだろう。私などは,図書貸出カードを見るだけで図書館に通った学生時代が,数々の借りて読んだ本とともに想い出されるのだけど。

このように,当時の人たちがノスタルジックさとファンタジーを感じるアイテム,設定が詰め込まれ,小樽の風景とともに美しい思い出が描かれていく。場面場面がすべて美しい。岩井監督のデビュー作にして最高傑作と言われるのも理解できる。

雪原をバックに「お元気ですかー  私は元気でーす」と叫ぶ中山美穂はこの2025年の現在でさえミーム化されていて,一体どれだけの人がこの映画に心を動かされたのかと思う。それは,私のような50代の老人にとってもそうだし,現代の若者が見ても,50代の私たちと同じではないにしろ,なにかしらの感動を与え続けていることは,このリバイバル上映が話題になっていることがよく示しているのだと思う。

先日,韓国の20代の女の子たちが北海道を訪れるYouTubeの動画を見た。雪原で「お元気ですかー」と叫んでいた。私も小樽の雪原をいつか訪れてみたい。


#出演していた篠原勝之(ゲージツ家 クマさん)は当時52~53歳だったらしい。私の年齢はすでに彼を越えてしまっていた


2025年4月5日土曜日

春望は「しゅんぼう」と読む

 中国の人が驚くことのひとつに,日本人が漢詩を読めるということがある。レ点などを用いて日本語に翻訳して漢詩を理解する。そのことに大いに驚く人が多い。

ずいぶん以前のこと,中国の杭州,浙江大学を訪問した際に,研究室の方が西施にゆかりがある西湖を案内してくれた。そこには,蘇軾の読んだ漢詩が書かれた建物があって,その内容を日本人が理解することに大いに驚いていた。私などは,そんなこと中学校で習うよ,と笑っていたけれど,たしかに外国人が百人一首を読んで理解するのであれば,やっぱり驚くとは思う。ただ漢詩は中国語で読まなければ,韻を踏んでいることがわからず,せっかくこのラップ全盛の世の中でそれが理解できないのは残念である。

春になると思い出す有名な漢詩がある。「代悲白頭翁」の「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」がそれなのだけれど,もうひとつ私が思い出すのは,「春望」である。「国破れて山河在り」から始まる杜甫の五言律詩である。

春望   杜甫

国 破 山 河 在
城 春 草 木 深
感 時 花 濺 涙
恨 別 鳥 驚 心

烽 火 連 三 月
家 書 抵 万 金
白 頭 掻 更 短
渾 欲 不 勝 簪

昔は覚えてそらんじることができたものだけれど,いまではすっかり忘れてしまった。年齢をとることによって,昔手に入れた宝物をどんどん失っているような気がする。

最近知って驚いたのは,私はこの詩を「しゅんもう」と覚えていたのだけれど,「しゅんぼう」と読むの方が一般的らしいこと。


金運上昇で有名な高龍神社に参拝する

私は 神社を参拝することは大好き なのだけれど, まだ地元長岡の神社をすべてお参りできたわけではない。今回は,金運アップで有名な(らしい)高龍神社にお参りしてきた。 初夏,学会で長岡にいらした方も「高龍神社」にわざわざ参拝に出かけられていたくらい金運アップで全国的に(一部,龍神フ...