2012年2月20日月曜日

羊をめぐる冒険:「それで救われたのかい?」「救われたよ」と鼠は静かに言った.

明日の修士論文発表会で一息つけそうなので(いや,すみません.まだ仕事がたくさん残っていますが...),今日は久しぶりにブログを更新.思いつくままに雑談を.

というわけで,とにかく忙しく,ブログどころかツイッターでつぶやく暇もなかったわけなのだけれど,そんな中,ラジオから美しいホルンの旋律が聴こえてきた.最初は何の曲かわからなくて,しばらくじっと耳を澄ませていて,そしてやっとそれがブルックナーの交響曲第4番であることに気づいた.思わずホッとする.「癒される」という言葉はあまり好きではないのだけれど,この言葉はこんなときに使うのだなと思った.

<僕> 「それで救われたのかい?」
「救われたよ」と鼠は静かに言った.

なぜか村上春樹の「羊をめぐる冒険」を思い出した.久しぶりに本を手に取りたくなる.

村上春樹自身もどこかで述べていたように(そして大勢の村上ファンが指摘しているように),「羊をめぐる冒険」はチャンドラーの傑作"The Long Good-bye"と同じ構図を使っている.私も村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」を読んでこの小説の魅力にメロメロになったのだけれど,彼もチャンドラーのこの作品にぞっこんだったのだろう.

<僕>「君はもう死んでいるのだろう?」
鼠が答えるまでにおそろしいほど長い時間がかかった.ほんの何秒であったのかもしれないが,それは僕にとっておそろしく長い沈黙だった.口の中がからからに乾いた.
「そうだよ」と鼠は静かに言った.「俺は死んだよ」

鼠は羊男の姿を借りて,一度<僕>に会いに来る.<僕>は,彼が鼠であることに途中で気づく.そしてひどく怒るフリをして,鼠が再び鼠として会いに来るように仕向ける.そして鼠がすでに死んでいることを確認をするのだ.

「ロング・グッバイ」の中では,<僕>はフィリップ・マーロウで,「鼠」は整形を施したテリー・レノックスなのである.レノックスはマーロウが自分の正体を見破っていることに気づいてこう言う.

"I suppose it's a bit too early for a gimlet.'
(ギムレットには早すぎる)

鼠四部作の最後,「ダンス・ダンス・ダンス」の中にだって,マーロウとレノックスは現われる.それは,<僕>と五反田君である.ただし,場所はバーではなくて,ピザ屋のシェーキーズだけれど.
そこで<僕>は五反田君の正体,すなわちコールガールのキキを殺した犯人であることを彼に確認する.

「どうしてキキを殺したの?」
こうした場面で描かれる友情は,読んでいて本当につらい.たとえば「羊をめぐる冒険」で鼠が自殺してから<僕>に会いに来るところなどは,読んでいて気分が重くなってくる.
問題を抱えていることを知っていながらも,嫌いにはなれない友達.マーロウにとってのレノックスであり,<僕>にとっての鼠であり,<僕>とっての五反田君なのである.そしてそれらの関係はすべて悲劇的な結末を迎えている.

村上春樹は,"Seek and Find"というテーマについて語っている.
主人公がなにかを探そうとすると,いろいろな面倒に巻き込まれ,そしてそれを見つけたときにそれがすでに失われてしまっている,ということである.これもチャンドラーの手法を真似たといっている.ただし,ここで注意したいのは,主人公は受動的に物語に巻き込まれていくということである.<僕>はマーロウのようにマッチョではないけれどタフであり,友達は裏切らない人間であるけれど,行動的ではない.受動的なのだ.ここに村上春樹の小説の重要なポイントがあるような気がする.

さらに思い出したので書いてみると,チャンドラーの「ロング・グッドバイ」はS. フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」を下敷きにしている,ということも村上春樹は,「ロング・グッドバイ」のあとがきで述べている.私がなぜここに挙げた小説がすべて好きなのか理由がわかるような気がする.

求めて得られないこと.
悲しき友情.

そうしたものがきっと私は好きなのだろう.
ただ現実でそのようなことがあってはたまらないなので,小説の世界にどっぷりと浸かるというのが良いのだろう.








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