2022年8月18日木曜日

大阪中之島美術館

 「展覧会 岡本太郎」が開催されていたのは大阪中之島美術館である。2022年2月開館というから,私が知らなかったのも無理はない。今年できたてほやほやの美術館だったのだ。

暑い中,大阪駅から歩いて行った。2階に芝の広場があり,そこが入り口となっている。直角に構成されている建物,窓が印象的で美しい。こんな美術館,私が関西にいた頃に欲しかった。

庭や屋内には,ヤノベケンジの作品と思われるオブジェがある。まだ新しいからかピカピカしている。

中之島美術館の外観

美術館の別の壁面。直角が美しい。

芝の広場にあるヤノベケンジと思われる作品

屋内にもヤノベケンジと思われる作品がある

私は美術館の建物が結構好きである。たとえば上野の国立西洋美術館。コルビュジエの設計による,やはり直線的な構造が美しい建物である。

中之島だって,もともとシーザー・ペリ設計の国際国立美術館がある。夜にライトアップされた姿は大変に美しい。

やはり美術館は美しくなければ。でも訪れなければ意味がない。全国の美術館,博物館巡りができたらどんなに幸せだろう!

2022年8月17日水曜日

書と呪術 ~岡本太郎 (2)~

 岡本太郎の晩年の作品には,黒い線で何かが描かれたものが多いのだけれど,書道の文字を書いた作品に似たものも多くある。私は「書道」というものに強く惹かれるのだけれど,書には呪術的な要素があるのは間違いない。だから昔から「呪符」などというものがあるのだ。その文字になんらかの超自然的な力があると信じられてきたのである。

だから「芸術は呪術である」という岡本太郎が,「書」に親しみを感じたとしても別におかしくはないと思う。書道の作品には,描かれた瞬間の作者の想いが閉じ込められているのを感じる。その念が観ているものの心に働きかけるのだ。それは結局岡本太郎の作品と同じではないかと思う。いや,本当の芸術とはそういうものなのかもしれないけど。

「呪い」(まじない)という言葉を岡本太郎の作品を観て思い出す。文字の意味はわからなくても,作者の想いが伝わってくる。それが本当の書なのだろう。中国で「書」はとても高級な芸術として取り扱われていたのもわからないでもない。

いつか,私もそうした力をもつ「書」を作りたいものだとずっと思っている。たとえ現実は書道4級であろうとも。


ひとつ前の記事にあげた「明日への神話」の壁画。渋谷駅にある。


2022年8月16日火曜日

芸術は呪術である ~岡本太郎 (1) ~

 「展覧会 岡本太郎」に行く機会があった。人気があるとは思っていたけれど,実際,会場である中之島美術館に訪れてみて人の多さに驚いた。そして若い人の多さに驚いた。今日になってもこんなに多くの若い人たちに岡本太郎が興味を持たれる芸術家であったことにあらためて感激した。なぜなら「芸術は爆発だ!」とか「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」などのパブリックイメージは私の世代には馴染みの深いものだけれど,若い人たちとは共有できていないと思っていたからだ。彼の著書だって最近読めるかどうか怪しいのだから。

展示作品のいくつかはすでに観たことがあるものだったが,数百点にも渡る展示は変わらず新鮮に感じたし,またたいへんな心に圧力を感じた。そうなのだ。岡本太郎の作品は観ていてウットリするとか,気持ちよくなるというものではない。だから観たあとに心に圧を受けたような気持ちになる。

岡本太郎の有名な言葉に,

「今日の芸術は,うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」

とあるが,まさにその通りなのだ。もしも私の居間に彼の作品が飾ってあったら落ち着かないことだろう。彼の作品は,きれいごとではすまないドロドロした生への欲望がある。それは彼が探し求めたように原始的な,根源的なものに共通している。美しさや癒やしなどではない,もっと生々しい生への渇望があるような気がする。だから観ている私も不穏な感情になるのだ。日常では抑圧されている生々しい感情に働きかけてくる。

「芸術は呪術である。人間生命の根源的渾沌を、もっとも明快な形でつき出す。人の姿を映すのに鏡があるように、精神を逆手にとって呪縛するのが芸術なのだ。」

岡本太郎は,「芸術は呪術である」と喝破している。そうなのだ。ドロドロとした感情に働きかける芸術は呪術と非常に近いものがある。私が探究してやまない,人間の心に働きかける術,それを一つの形として表したものが岡本太郎の作品なのだ。

彼の作品には「目」が描かれているものが多い。すなわち,なにかしらの「生き物」を描いていると考えられる(よくわからないけれど)。しかし,その目は丸々としていてやはり不穏な雰囲気を漂わしている。しかし生命力を感じる。こちらに挑みかかっているような。

こんな活力がなくなったと言われる時代に彼の作品が人気があるのは,こんなところに理由があるのかもしれない。若い人たちに人気がある理由も。そして私が強く惹かれるのも。


「明日の神話」の小さいもの

手すりにより掛かる太陽の塔






2022年8月14日日曜日

ドラマの特殊記憶力の設定をみてリヒテルを思い出す

最近の映画やドラマをみると,突出した記憶力を持っている設定が多いような気がする。今期のTVドラマだと,「競争の番人」の坂口健太郎演じる公正取引委員会の男。彼は検査に入った企業の帳簿などを一度見ただけで覚えてしまうという驚異的な記憶力を有している。また「石子と羽男」の中村倫也演じる弁護士。彼も一度見ただけで覚えてしまうフォトグラフィックメモリーを持っているという設定である。実際にないという能力ではないのでファンタジーではないのだけれど,ちょっと都合が良すぎるような気がする。

しかし,この特殊な記憶力という設定を聞いて思い出す現実の人物がいる。それは,ピアニストのスヴャトスラフ・リヒテル。彼は異常なほど記憶力がよく,小さな頃からいろいろなエピソードを詳細に覚えていた。「リヒテル<謎エニグマ>」という彼の伝記的なドキュメンタリー映画で彼自身が述懐している。そして「記憶力が良すぎてそれが苦痛だ」とも言っている。本当にそうなのだろうと思う。

もしも,なにもかも忘れることができないのであれば,私の人生は後悔で満たされてしまうだろう。忘れることができるからこそ,なんとか明日に希望が持てるのだ。絶望のエピソードを何度も何度もループしてプレイバックする。そんな毎日には私の心は耐えられないだろう。

リヒテルは晩年,演奏会において「暗譜」することをやめている。記憶力が衰えたのだろうか。いやもっと違う理由があったに違いない。なぜならば,映画「リヒテル...」でつらそうに「苦痛だ」と話していた頃には彼はすでに暗譜をやめていたはずだから。

彼は,ソ連の時代を生き抜いたが,父親が処刑されるなどその人生は過酷だった。そうしたつらい経験を克明に記憶して生きていかなければならなかったと思うと,彼はどのような気持ちで演奏会に臨んでいたのかと思う。ひとつでも多くの演奏会が彼の心を晴れやかにできていたのであればうれしい。リヒテルのシューベルトがまた聴きたくなった。

#主人公がすぐに忘れてしまうという設定の映画やドラマ,小説の方がずっと数が多いけど(「掟上今日子の備忘録」とか「博士の愛した数式」とか「メメント」とか)

2022年8月11日木曜日

電柱が連なる墓標に見えた

 先日,午後7時過ぎに高速道路を走っていた。日没時間も過ぎてあたりはすっかり灰青色になっていて,建物や標識はみな影として見えるくらいの明るさだった。

その高速道路はその地域の市街地を高架で突っ切るように走っており,道路に並行して電線が引かれていた。当然その架線は電柱によって支持されていて,高架の道路から見るとちょうど道路脇にさまざまな「十字架」あるいは柱を組み合わせた「標」が並べられているようだった。

私は車で走りながら,これらはまるで墓標が並んでいるように見えることに気づいた。灰青色を背景に道路に並行してどこまでも続く様々な形の十字架の影。「シン・エヴァンゲリオン」のイメージ図に出てきそうな墓標の連なり。そんなことを思い浮かべながら一定速で高速を走っていた。

「庵野秀明展」でも再認識したのだけれど,庵野秀明は電柱にかなり愛着を持っているようだ。そう認識しているだけで理由については深く思わなかったのだけれど,このたび電柱が墓標に思える風景を見て,これがその理由なのかもしれないと思った。

その風景は不吉には思わなかったけれど,少し現実の世界から離れたもののようにも思えた。そんなことを考えながら車を走らせていた。


庵野秀明展で展示されていた電柱と鉄塔のモデル

ネットの書き込みは年寄りばかり

SNSというのは大変面白い。たとえば、テレビでは番組に対する視聴者の反応がわからなかったものが、今ではコメントが書き込まれることによって反応をいくぶん知ることができる。あるいはXなどへの書き込みによって、リアルタイムで感想がタイムラインにあふれることになる。そうした双方向性、即時...