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7月, 2013の投稿を表示しています

最近,寝返りをうつことが少ないような気がする

最近歳をとったなぁ,と思ったのは,寝ついた姿のまま目が覚めたときである.すなわち,寝返りをほとんど打っていないということに気付いたときである. 赤ん坊や子供を見ると,頻繁に寝返りを打って体勢を変えていることがわかる.それが私の場合,寝返りの頻度が明らかに少ないようで,布団に入ったそのままの姿勢に近い格好で目が覚めるのだ. 寝返りとはずっと同じ姿勢で横になっていることの無理を直すために行うとするならば,私の現在の状況は身体にずいぶんと悪いのではないかと心配している.歳をとると長時間寝ることができなくなるのは,このように寝返りをせず,身体に無理がかかって,疲れてしまうからなのではないかと思う. 私は寝つきはすばらしく良いのだけれど,そのあとがあまりうれしくない.動かない分,眠りが深いというわけでもないようだ.現在,うまく寝返りを増やすような対策はないものかと探している. 歳をとったら誰でもそうなるのだ,といわれると仕方がないのだけれど.

松田龍平演じるミズタクを好きにならない女の子なんているんだろうか?

週末なので,ブログの話題も軽いものに. 最近ハマッているテレビドラマといえば,なんといっても「 あまちゃん 」で,もう何十年かぶりに毎朝放映を観ている.こんなことは,斎藤由貴の「 はね駒 」以来ではないだろうか?(古) もう「あまちゃん」は,世間的に大ブームでここで私があらためて書くこともないのだけれど,今週の放映を観てどうしても書きたくなってしまった.それは, 松田龍平 演じる「 水口琢磨 」( ミズタク )の格好良さについてである. なにがどうって,とにかく最近彼がカッコいいのだ.45歳を過ぎた私のようなおじさんが言うのもなんだけれど,すごくカッコいい.昔ながらの二枚目の格好良さではない,清潔でもない,ニヒルでもない,新しい魅力的な男性像を作りだしている. なにが今までと違うって,まずミズタクは笑わない.無表情である.何を考えているかわからず,一見クールである.しかし,冷淡に見えるのは外見だけ.実の中身は,主人公アキちゃんが驚くほど熱い.これまでもその感情の熱さはところどころに現われてきた.しかし,今週の,田舎に帰省したまま東京に帰ってこないアキを連れ帰るために北三陸にやってきたときのエピソードで放出された熱量といったらどうだろう.もうこの私でさえ,メロメロになるようなものだったのだ. 連れ戻す前,東京でアキ宛に吹き込んだ留守電のセリフもいい.留守電の録音時間が切れて新しくメッセージを残すたびに「水口です」と,感情的な言葉の間に律儀に名前を入れていく(観ていない人には全然わからない話ですみません).そこに垣間見えるミズタクの性格がいい. また,アキの家に来て,アキが留守電を聞いていないことを知ってアキを叱るところの言葉の使い方もいい.セリフは倒置法で,感情が先走るため,短く言葉が繋がれていく.そして,その難しいセリフを自分のものとして話す松田龍平が本当に素晴らしい. さらに,役を自分のものとするということでは,ミズタクのファッションもいい.決してかっこつけた服装はしていないのだけれど(スーツはしわしわ,ネクタイも曲がっている,コートもしわしわ),どれもがミズタクのものとしてふさわしく,それらがひとつひとつカッコ良く見えてくるから不思議だ.彼の部屋着も単なるスウェットの上下だったりするのだけれど,彼の長い手足に良く合っていて,こちらもす...

戦略,戦術,兵站

戦略(Strategy),戦術(Tactics),そして兵站(Logistics). これらは戦争の三要素である.しかし,もちろん本当の戦争に対してだけではない.外交であっても,経営であっても,これらは熟考しなければならない要素である. そして今日,学生と研究の話をしていて,研究開発の分野においても,戦略と戦術の考え方は重要なのではないかと思った.もちろん,メーカであれば研究テーマなどの選択や予算のつけ方などは,当然こうした考え方が必要かと思うけれど,今日思ったのはもっと小さなテーマ,たとえば回路の制御についてに対してなのである. 戦略と戦術の違いというのは説明が難しいのだけれど,とりあえず,戦術というのは戦闘に勝つための「術」,テクニックであり,戦略というのは大局的に勝利をおさめるための方針なのだと言えるのではないかと思う.戦術というのは各戦闘において勝つことを目的とするが,戦略の観点から見れば,局地戦で負けることも許容されるのである. 今日,回路の制御の議論においては,システムを最終的な目標値に整定するために(戦略),細かなところの制御については多少の誤差を許容しても良いのではないか(戦術)という話をしたのである.局所戦においては多少の妥協を許しても,全体的に目的が達せられれば良しとしようではないか,という大局観である.なにかしらのトレードオフ関係が制御量にある場合にはこのような選択もありうるのではないかということなのだ. このように戦略,戦術は,大局観と局所戦との対比として位置づけることができるかもしれない. では,第三の要素,兵站はどうだろう. こればかりは仕方がない.研究費をどこからか工面するばかりである. 資金の調達は,研究と同様に難しい問題なのだけれど, ハンダゴテを握っているだけでは解決はできない,また別の問題なのである.

公平な人

公平な人が好きである. 公平な人とは,なにかを判断するとき,良いことも悪いこともともに考慮する人のことをいう.わかりやすい例で言えば,争いの正否の判断をするとき両方の意見を聞いてから行う人のことである.あるいは人の評価を下すときも,他人からの伝聞だけでなく,本人に自分が直に会ってから行う人のことである.こうした人を私は尊敬する. 片側の意見だけを聞いて判断する人には残念ながら失望する.たとえその話をしてくれた人が信頼できる友達であっても,あるいは大手の新聞の記事であったとしても,片側の意見だけで判断しているのであれば,その人は公平性を欠いている.なぜならば,その信頼できると信じている友達の意見に絶対に誤りがないといえるだろうか.その友達の感情的なバイアスがかかっていないとはいえるのだろうか.自身を省みるとき,自分の意見に必ず誤りが無い,あるいはバイアスがかかっていないなどととても言うことができない.その友達を信頼しないわけではないけれど,やはり自分の目で確かめるまでは,判断したくはないのである. 新聞や雑誌の情報なんてもっと信じられない.なんらかのバイアスがかかっているのは明白なのである.私たちには,いかにそのバイアスを見抜き,それを差し引いて判断する能力が求められている.震災以降,メディアにあふれかえったデマ情報を見てみればわかる.新聞が記事で書いているから,雑誌が記事で書いているから,有名人が発信源だから,そんな理由は全く正誤の判断のあてにならないということはすでに証明されているのではないだろうか.もちろん正しい情報も多いだろう.しかし,私たちはそうした玉石混淆の情報空間から玉だけを取り出す目利きの腕が必要とされているのだ. 人の悪口を言う人がいる.そしてそれを安易に信じる多くの人がいる.しかし,本人にあってみれば,どうしてそんな噂が流れるのか理解できないことが多い.そんなとき,自分の目を信じたい.もちろん,他人の意見は参考にはするけれど,それが人を評価するときの先入観となるのは避けたいと思う.そして人の悪口を安易に信じる人たちを私は遠ざけたいと思う. デマを流す人がいる.そしてそれによって不安や怒りを容易に煽られる人がいる.しかし,事実を確かめてみれば,明らかに異なることも多い.そんな場合にも,まずは自分で情報を集め,学会や現場の実際を調べ...

私が大嫌いな「被害者意識」

私が数ある嫌いなもののひとつに,「 被害者意識 」というものがある. 先日ちょうど朝日新聞朝刊にも,北朝鮮から帰国した蓮池さんのお兄さんの「被害者意識が増殖している」という記事が掲載されていたけれど,私も俗に言う「被害者意識」が吐き気をもよおすほど大嫌いなのである.だから蓮池透さんの記事にはたいへん共感した. では,「被害者意識」とはなにかといわれると,これまでなかなかうまく説明ができなかったのだけれど,今回の蓮池さんの記事によれば, 「被害者なのだから何を言っても許されるというある種の全能感と権力性を有し」た状態 と説明されている.私はよく表現されていると思う. 被害者意識に毒された人は,自分は被害者なのだから加害者に対して感情的になって何でも言って良いと思っているし,ときには言論だけでなく,ときには反社会的な行動を行っても許されると考えているのだ.そして,それらの言論や行動をおかしい,といえば,「被害者の気持ちを考えてみろ」とか,「感情的になって当然だろう」というような反論をする.相手は非難するだけで,話し合う気持ちも無い.だから私はもう嫌になってしまうのだ. さらに加えて,今回の北朝鮮拉致問題の蓮池さんのように明白に被害にあった人ならばまだしも,私の周囲で被害者意識をもつ人はそもそも本当に被害者なのか曖昧な人も多い.逆恨みとまでは言わなくとも, 他人ばかりを責めて自分の責任には言及しない人が多い のだ. 被害者意識は,ある意味,優越感でもある .ある一部の人は,その優越感を維持するために,自分をあえて弱者の立場に置こうともする.そのような立場になるように話す.他人の憐れみを買おうとする.このような話法を私は「被害者話法」と呼んでいる.そして,この被害者意識の恐ろしいところは,自分の優越感を持ち続けるためには,自分がさらに不幸になることも厭わないことである.そしてその矛盾を指摘すれば,さらに恨まれてしまうのだ. 結局,ある臨界点を越えてしまった被害者意識を持つ人は,自分で気がついて反省しない限り,こちらには戻ってこない.他人がなにかできるような状態ではないのである.だから私は,そういう場合には,そうした人たちとは距離を置くという対処をするのである.悲しいけれど. <私が嫌いなものシリーズの続きです>

目隠して殴られるのは怖い

目隠しをされたタレントが平手打ちを受けて鼓膜などを傷つけてしまう事故(?)があったらしく,ニュースで流れていた.どうも平手打ちされた感覚から誰が殴ったのかを当てるゲームだったらしい. この「目隠し」というのがどうもいけない.いつのタイミングで殴られるかわからないから,身体の準備のしようがないのだ.すなわち不意打ちで叩かれることになる. 不意に何かにつまづいたり,腕をどこかにぶつけたりすると,滑稽なほどコケたり,痛かったりする.これはひとえに,意識的および無意識的に心身の準備ができなかったためである.筋肉も弛緩したままだったり,あるいは衝撃に耐える姿勢も取れない状態で打撃を受けたら,もともと人間の身体なんて非常に弱いものだから,すぐに壊れてしまうだろう.日常生活で,あちらこちらでぶつけたりコケたりしていてもなんとか生きていられるのは,やはり衝撃に対して準備ができているからなのである. 大学時代,図書館で,筑波大学の前身である東京教育大学で書かれた体育論文を読んだことがある.タイトルは忘れてしまったけれど,人間の急所に関する論文であった(かなり特殊な論文ですが). たとえばミゾオチ.ここが人間の急所であることを確かめるために,論文では次のような人体実験を行なっていた.被験者は目隠しをされて待たされる.そこに重りをつけた棒によって不意にミゾオチへと打撃を与えるのである.打撃の大きさは同じだから,その場合の脳波等の乱れを測定してその振幅や整定時間が大きければ,そこは人体にとって急所であることを確認できる,というような,なかば漫画のような実験結果が報告されていた.たしかミゾオチだけでなく,コメカミなんて急所も試験されていたのではなかっただろうか... 急所は確かに急所であるけれど,それを如何に打撃するかでその効果は全く異なるものになる.敵の「虚」を誘って,我の「実」をもってそれを撃つ.そうした技術が山ほど武術には存在する.それと同様な効果を目隠しすることで得ることができると考えられる. 暗闇の中で殴られるのは怖いだろうと思う.タイミングが計れず,いつ耐衝撃の姿勢をとったらいいかわからず,ビクビクすることになる.そんな経験をしたタレントの人たちをひどく気の毒に思う.企画者もちょっと反省すべきではないかと思う.そして笑いのためとはいえ,鼓膜が傷ついたり首が...

「黒井ミサ」待望論

この数年,魔法少女と言えば, 「まどか☆マギカ」 となるのだろうけれど,私の世代にしてみれば,それは 「ミンキーモモ」 であり, 「クリーミーマミ」 あたりになるのだろう.もちろん, 「魔女っ娘 メグ」 , 「花の子 ルンルン」 なんてシリーズも含まれる.いつの時代も,少女たちの夢を背負って魔法少女は活躍している.しかし,私が最も印象深い魔法少女といえば(いや正確にいえば魔女なのだけれど),それは 「黒井ミサ」 である.古賀新一の漫画 「エコエコアザラク」 のヒロインである. 黒井ミサは残念ながら明るい幸せの魔法を使うのではない.悪魔を召喚して人に災いをなす黒魔術である.それも,ときにとっておきの残忍な黒魔術を使う.その魔術をかけられた相手は,料理になったり,魔法手術を受けたり,とんでもない結末を迎える.当時少年チャンピオンに連載されていたのだけれど,それを読んだ小学生の私は,かなり怖い思いをした覚えがある.(余談だけれど,当時並行して藤子不二雄の 「魔太郎がくる!」 もチャンピオンに連載されていたと思う.どちらも魔法・魔術をかけられた相手はひどい結末を迎えていて,多くの子供はそれがトラウマになったに違いない.現在ではとてもそんな話は掲載できないだろうと思う.おそるべし,当時のチャンピオン...) 黒井ミサは設定では女子高生(最初は中学生?)なのだけれど,実際何歳なのかは不明な底知れなさを持つ.顔が暗く,サタンや魔女の格好をしたときの不気味さは,古賀伸一の画力を感じさせる.それでもときどき「お笑い」の回もあったりして,ギャグを飛ばす黒井ミサは意外に可愛かったりする.そこが魅力のひとつなのである.たぶん続編も何度か製作されている. 一方,エコエコアザラクは映画やテレビドラマにもなっている.映画は,吉野公佳主演で2本,その後 佐伯日菜子 で1本.あとも加藤夏希などが主演で映画(もしかするとドラマ?)が作られている.でも私がオススメするのはなんといってもテレビドラマのエコエコアザラク.それも上野なつひバージョンではなく,断然,佐伯日菜子のシリーズである. 佐伯日菜子という人は,少し日本人離れした顔立ちの美人で(最近,離婚の報道があって心配してますが),「 毎日が夏休み 」という映画では本当に愛らしい女子高生を演じていたのだけれど,このエコエコアザラクでは哀...

清濁併せ呑む

池波正太郎の「剣客商売」が好きである. 一応,全巻本棚に揃っている.しかし,最近は目を通すことが少ないので,いろいろエピソードは忘れてはいるのだが. なにが好きかと問われると,なんといっても主人公である老剣客 秋山小兵衛の魅力に尽きると思う.無外流の達人であるけれど,単なる清廉潔白な剣士ではない.清濁併せのむその度量の広さに憧れるのだ. 人生少しでも長く生きていれば,清く正しいことばかりでは生きていけないことは身にしみてわかるものである.善も悪も世間に溢れているのだ.それを片側ばかり見ていても生きてはいけまい.善と悪との中間に私たちの生活は存在するのである. 以前,河合隼雄のインタビューで,こんな意味の話があった(詳細うろ覚えですが). 「自動車の運転でも,交通規則を徹底して守る車の周囲では事故ばかりが起こる. 人間の場合も同じだ. 正しいことばかりを,ひとりよがりに自己満足で行っていても,周囲の人が迷惑する. 環境に順応して生きるということは,正しいことを行うばかりではうまくいかないのだ」 完全に善である人間は存在せず,みな善と悪との狭間で生きている. だからこそ,どちらも併せて呑み込むだけの度量が欲しい. もちろん,悪は悪として,毒は毒として対応する. しかし,その毒だって時には薬になるだろう. 生前,父は私に「若くして枯れるな」と言った.その言葉は今も覚えている. 私の理想が秋山小兵衛であると知ったならば,父も笑ってくれるだろう. #決して,秋山小兵衛が美食家で,若いお嫁さんをもらったから憧れているわけではありません(笑) <私が好きなものシリーズの続きです>

感謝される人間になること

最近は,スーパーのレジの待ち時間に時間がつぶせるようにとモニタが用意してあって,セールの広告だけでなく,「生活の知恵」や「健康情報」などがながれている.私もご多分に漏れずそれを眺めて待っていることが多いのだけれど,先日は偉人の言葉が紹介されていて,そのひとつが心に残った. 「成功者になろうとするのではなく,価値ある人間になることだ」(アルバート・アインシュタイン) そして,今日,ある先生と話していて, 「感謝することも大切だけれど,感謝されることも大切である」 「感謝される人間になることが大切」 という言葉が出てきた.これは上記のアインシュタインの言葉と同じ意味なのではないだろうか. 「価値ある人間になること」は,「人に感謝される人間になること」であり,「人や社会に役立つ人間になること」である. 人に感謝することはもちろん大切であり,感謝する心を持つようにと教えられている.しかし,人に感謝することは比較的簡単なのではないだろうか(その本心の度合いは別にして).それに対して「人から感謝される人間になること」は明らかに難しい.しかし,人生の目的が人のために役立つことであるのならば,それこそが毎日心がけるべきことなのではないだろうか. こんな例え話を思い出す. 自分の中にある宝石を磨きなさい. しかし,その美しさは自分で褒めるものではない. 他人に賞賛されるようになって初めてその宝石の価値が生まれるのだ.