2022年11月27日日曜日

テレビを見る時間がない!

 なにか,とても忙しい。TVが楽しみの私としてはゆっくりと番組を見る時間がとれずに,いや無理やり見ているから,毎日たいへんにつらい。TVくらい見る自分の時間は欲しいものだ。今期は以下の番組しか見ていないのに。。。

エルピス,最高のオバハン 中島ハルコ,チェンソーマン,

鎌倉殿の13人,アトムの童,城塚翡翠

(その他,音楽番組(「クラシックTV」とか),バラエティを見ているけれど。。。)

結局,スキマ時間にネット放送で見ている。Tver万歳!そしてワールドカップも気になって見てしまう。AbemaTV万歳!

ドラマを見ると,少しスッキリする。私の趣味からいくと,重苦しいドラマが好きだ。今期でいうと,エルピス,鎌倉殿の13人あたりが重くていい。たぶん主人公がつらい立場にあるとき,「つらいのは私だけでない,この人物もつらいんだ」と思えるから,見たいと思うのだろう。チェンソーマンも主人公デンジの願いが本当に切実,せつなくていい。このアニメはバッドエンドに違いないと思う。だからこれからもずっと見てしまうのだろう。

同じ理由で,最近の朝ドラで好きなのは「スカーレット」なのである。戸田恵梨香演じる主人公の人生が本当にシビアで,毎朝ついつい気になって見てしまっていた。こんなにつらい人生を朝ドラにするなんて。。。すばらしいドラマだった。

TVをゆっくり楽しむ余裕が欲しい。でも余裕ができるとたぶん番組を見なくなるんだろうなぁ。自分が生活からTVに逃げていることを知っている。


2022年11月26日土曜日

「何度でも何度でも」ということの愚かさ

 Dreams come trueの歌で,「何度でも」という曲がある。

なんどでもなんどでもなんどでも立ち上がり呼ぶよ,君の名前,声が枯れるまで

というフレーズが耳に残る名曲である(と思う)。

しかし,この曲を聞くたびに,「同じことを何度も繰り返す」ことの愚かさを思う。もっといえば,「同じ過ちを何度も繰り返す」ことの愚かさを思う。これがわからない人(学生)がいる。繰り返すことによって,異なる結果が得られると思っているのだろうか。

狂気とは即ち、同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること

という言葉を知らないのだろうか(アインシュタインの言葉と言われているけれど,よくわからない)。私も全くこの言葉通りだと思っている。

線形時不変系の制御を考えればすぐに分かる。入力が同じであれば出力はいつも同じなのだ。出力を変えようと思ったら入力か,システム自体を変えなければならない。すなわち「やり方」を変えなければならないのだ。そんな自明な事実がわかっていない人(学生)がいる。それは過去の成功体験にでも引きずられているのだろうか。

実際は,世界の大体の物事は非線形時変システムなのだけれど,ある限られた時間で成果を出すために,対象,課題が変化して同じ入力で期待する出力を得ようとするのは,あまりにも非効率的すぎる,いや不可能である。まずは自分が変わり,入力を変えることが必要だ。人間関係でも,相手が変わることを期待してはいつまで経っても良い結果は得られない。自分が相手に対する態度を変えることが肝要である。

では,最初のドリカムの歌詞は愚かなのだろうか。。。その通り。しかしその愚かな繰り返しをしなければならないほど,相手をあきらめられないということなのだろう。

1万回ダメで望みなくなっても1万1回めは来る

そして恋愛は,非線形時変システムということなのだろう。

2022年11月20日日曜日

回路 黒沢清:ネットを通じて死者の魂があふれ出す

 映画「CURE」を紹介したので,黒沢清監督つながりで,

「回路」(監督:黒沢清,主演:加藤晴彦,麻生久美子,2001年)

という映画を紹介したい。

怖いと評判の映画なのだけれど,私はそれほど怖くなかった。「CURE」が大傑作過ぎたからなのか,少し拍子抜けという感じだった。

主人公たちの周りの人々が,黒い影を残して消えていってしまうということなのだけれど,ストーリーの設定が,死者の魂の数があの世のキャパシティを超えてしまったのでネットを通じてこの世に溢れ出てくる,というもので(輪廻転生はないらしい),なんというか,なかなか難しい。ただ,「黒い影を残して消える」,「知らぬ間に接続されてしまうサイト」,「ネットに接続されている怪しい人物たち」,「赤い梱包テープで目張りされた開かずの間」,「絶望して自殺」などのエピソードが不穏な雰囲気を演出していていい感じだった。

ストーリー自体は難解で,最後は世界の破滅につながるような壮大な話につながるのだけれど,いかにもチャラい男の加藤晴彦と普通の女の子である麻生久美子の視点で最後の方まで話が進むから飛行機が墜落するような世界の終わりに,観ている方は驚いてしまう。

設定も面白く,雰囲気を素晴らしいけれど,好き嫌いは分かれる映画と思う。ただ映画は世紀末から21世紀の始まりの頃の時代の雰囲気をよく表していて,特に女の子の服装が目をひいた。有坂来瞳が意外に良い演技をしていた。麻生久美子は現在と雰囲気が違っていて最初誰だか気づくのに時間がかかった。そして加藤晴彦の彼女(?)となる小雪の美しさが記憶に残る。

21世紀の始まりにこの映画が公開されたことには意味があるような気がする。

私の評価は,★★★☆☆ (星3つ。5つが満点)

#アメリカでリメイクされたらしい。タイトルは”PULSE"。"Circuit"ではなかったらしい。予告編を見ると,コケる女性の幽霊,飛び降り自殺のシーンなどは踏襲されているようだ

2022年11月19日土曜日

CURE 黒沢清: 催眠の伝道師にゾクゾクする

 最近,久しぶりにこの映画を観る機会があったので紹介する。

CURE (監督:黒沢清,主演:役所広司,1997年)

この映画はホラーなのかサイコなのかよくわからないが,ゾクゾクする怖さ,面白さがある。私の生涯に観た映画の中でも,少なくとも邦画の中ではトップ10にランクインするほどの面白さである。黒沢清という監督を知ったのもこの映画がきっかけである。役所広司がホラー映画に適性があるというのを知ったのも,この映画である。

ストーリーは記憶喪失の身元不明の怪しい男 間宮(演じる萩原聖人が素晴らしい)が関わった人々の周りで起こる不可解な殺人事件。犯人を追う刑事の渡部とその友人の心理学者 佐久間(演じるのはうじきつよし。これがまた素晴らしい)の調べによって,間宮が催眠暗示を与えて殺人を起こさせているらしい。間宮の目的はなにか?そして間宮の力に巻き込まれていく渡部と佐久間はどうなるのか。。。というもの。

間宮は催眠暗示によって,人々のストレスを取り除く,すなわち殺人を犯させるように誘導しているのだけれど,間宮の底知れぬ闇に渡部も佐久間も影響を受けていくのが恐ろしい。結局,渡部は精神を病んでいる妻を看護婦に殺させ(そうだとは明示されていないが),ストレスを開放して,「怪物」(本作の黒沢清監督と役所広司の公開インタビューでそう彼らは表現していた)となってしまう。渡部は劇的に変わるのではなく,徐々に影響を受けていくところが現実味を感じさせる。心理的なスリラーなのである。

今回,見直したのは何度めかだけれど,やはり多くの謎が残る。間宮の目的は一体何だったのか?映画では間宮は人々のストレスを解放させるように誘導する役割を,誰かから引き継いだように描かれていて,それはまさに「伝道師」である(この映画のタイトルは「伝道師」であったと上記インタビューで話されている)。素直に映画のラストを解釈すると,今度は高部が伝道師の役割を引き継いだように思えるのだけれど,なぜ「伝道師」が存在するのか謎は謎のままである。そしてそれはたぶん解けない謎なのだろう。

催眠暗示は本人が嫌がることをさせることはできないと言われているので,この映画のようなことは起こらないかもしれないが,具体的に催眠暗示をしなくても,あるいは明示的に洗脳をほどこさなくても,その人の周りにいるだけでなにかしらの考えに感化される,あるいは考え方に影響を受けることは十分に有り得る。負の場をつくる人は実在するのではないだろうか(もちろん,正の場を持つ人も確実にいるけれど)

その他にも猿のミイラ?など思わせぶりなショットがいくつも出てきていて,不穏な雰囲気は満載なのだけれど,意味は不明なままである。小説が出ているというのだけれど,読む気はあまりないし。。。

とにかく観終わったあとに,人の心の闇が気になるような,奥行きのある映画となっている。ときどき観たくなる映画なのだ。1997年の映画だけど,全く色褪せていない,いや今こそ観るべき映画であるとオススメできる。

評価:★★★★★(星5つが満点)

#実は,ずいぶんあとで「ドレミファ娘の血が騒ぐ」という映画の監督も黒沢清であったと知った。この映画はナンセンスなコメディ映画?で,同じ監督なのかと驚いた。(CUREにも出ている洞口依子が主演)。

2022年11月14日月曜日

霊媒探偵・城塚翡翠の最終話を見て

 霊媒探偵・城塚翡翠の最終話を見て...

清原果耶,おそろしい子!

この一言しかない。ひとりで滔々と長セリフを回していた。

よく間を持たせることができるものだ。演技力が素晴らしい。期待の俳優さんである。

#共演の小芝風花もNHKドラマ「トクサツガガガ」を観て以来,期待している俳優のひとり。ただドラマの中で瀬戸康史からナイフを取り上げる殺陣はちょっといただけなかったけど…

2022年11月13日日曜日

結局,信心とは傾聴である

 父の十三回忌の法事において住職に伺った説話を紹介してきた(その1)。

結局のところ,浄土真宗では,私たちは仏の御心をいただいているのだから,人を導くためにはただただ傾聴することが重要らしい。

しかし,人の話を自らの先入観,価値観にとらわれることなく,そのままに聴くことの難しさは,これまでの人生で嫌というほど感じてきている。

  • 人の話の進み方が遅いと(説明の要領が悪いと),話の途中で「結論を話せ」と遮ってしまう
  • 人の話をただ聴けば良いだけなのに,解決法を考えてそれを相手に押し付けてしまう
  • 自分の価値観で人の話を判断してしまい,話している人がなにに悩んでいるのか理解しない(理解できない)

などの反省を私は山ほどしなければならない。

しかし先入観なしで話を聴くということはどれほど難しいことか。住職にこんなクイズを出された(テレビでやっていたそうだけれど)。

Q: 白い豆と黒い豆を混ぜて鍋でよく煮た。煮たあとに白豆と黒豆をたった3秒で分けることができた。どのようにしたのか?

私は「煮汁によって白豆はすべて黒豆のようになったので分ける必要がなかった」とひどい答えをしたのだけれど,住職から聞いた答えは「黒豆は最初から一粒しかなかったから」というものである。つまりは,先入観によって,白豆も黒豆も多くあると勝手に想像してしまっていたために答えを導けなくなっていたわけである。

他人の話も同様で,自分の先入観,価値観にとらわれず,ありのままに受け入れるということがどれだけ難しいことか。つねに自分というフィルタを通してでしか理解できない。しかし,それは人間の認識の限界で仕方ないと私は思う。結局,自分の価値観のフィルタから逃れることはできないということを認識し,それを考慮した理解,行動をしていくしかない,ということだろう。

人に話を聴いてもらう。それだけで救われる人も多い。信心を背景として人の話を傾聴して癒やしていく,それが寺の住職の昔からの役割だったのだろうと思う。

2022年11月12日土曜日

猫の信心,猿の信心

 法事のときに聞いた説話その3(その2はこちら

今回は他力本願と自力本願のちがいのお話。

猿が子猿を川の向こう岸に渡らせる際には,子猿は親猿にしがみついて渡る必要がある。親猿は川の向こうに子猿を渡してくれるけれども,子猿は親猿にしがみつく必要がある。すなわち悟りに至るには,なんらかの自分の努力(修行)が必要ということを表している。いわゆる自力本願である(普通の仏教)。

一方,猫が子猫を向こう岸に渡らせる場合には,親猫は子猫の首をくわえて運んでくれる。子猫は何もしない。これが他力本願ということになる。

親鸞はいくら自らが修行を積んでも,悟りには達するのは難しいと感じ,結局,阿弥陀様の本願によって救われるとの考えに至ったのだという。

『猫の信心」と「猿の信心」。自力本願と他力本願の特徴をよく表している例えだと思った。

2022年11月6日日曜日

我を捨てる

 法事の際に伺った説話のその2(その1はこちら)。

私たちはどうしても我に捕らわれてしまう。

あるとき,バスに乗っていたらおばあさんが乗車してきた。そこで自分はおばあさんに席を譲ってあげ,おばあさんは譲られた席に座った。その後,そのおばあさんは自分に礼も言わずバスを降りていったという。このとき自分は,「せっかく席を譲ってあげたのに,礼もなしか」と腹を立てないだろうか。自分は善い行いをしたのだとどこかで我が増大していないだろうか。

たとえおばあさんが礼を言わなくとも,「おばあさんのお陰で自分は善行をさせていただいた。どうもありがとう」と思うことができたらどんなに素晴らしいだろう。

教育の現場で腹を立ててばかりいる私には耳が痛い話である。

2022年11月5日土曜日

催眠術は倫理観を越えさせることができるか

 先日,新潟駅の前の通りで,全裸の男が捕まったというニュースを見た。ニュースによれば26歳のその男は裸足で,何も身に着けておらず,それでいてアルコールも検出されず,交差点の信号も守って堂々と歩いていたのだという。逮捕後,男は全裸で歩いていたことは認めているのだけれど,なぜ歩いていたかは思い出せない,と話しているということが非常に興味深い。この事件が私の想像力をそそる。彼がこうした行動に出た理由について考えてみたい。

1.彼は罰ゲームかなにかに理由で男は全裸で歩く必要があった。だからその理由については話せず,思い出せないと嘘をついている: 最も確率が高い理由として,「男はゲームで賭けをしたか,借金を抱えたりして,街を全裸で歩く必要があった。その詳細な理由については恥ずかしいので,覚えていないと供述している」ということが考えられると思う。このケースのポイントは,男が自分の意識や行動を意識して歩いていたということである。「思い出せない」というのは嘘ということである。これが最もまともな理由ではないかと思う。

2.夢遊病などの行動障害: 男は夢遊病などの行動障害の病気を抱えていて,今回の行動をしてしまったという理由も考えられる。しかしこの場合,交差点の信号を守り堂々と歩くなどということができるだろうか,と疑問に思う。男は夢の中(幻想の中)行動していたのだろうか。私はそうは思わない。当然,彼には行動中,そうした顕在意識はない。

3.催眠状態にあった: 私がこうだったら興味深いと考える理由は,男が催眠状態にあったというものである。男は何らかの理由で誰かに催眠をかけられていたのではないだろうか。そうであれば,記憶支配,思考操作されていたということになる。彼は,意識をもって行動していたことになるのだ。

催眠術というのは,術者と被術者との協力関係によって生まれ,被術者の催眠のかかりやすさの特性が催眠の深さに関係すると私は思っているのだけれど,もしも催眠術が理由であれば,この男はよほど催眠術にかかりやすかったのだろう。

繰り返すけれど,催眠術は術者と被術者との協力によって可能となる。だから,被術者が嫌だと思うような指示はできないとされている。例えば,殺人や自殺を行わせるような指示は与えることができないというものである。

しかし,私はそれは可能ではないかと考えている。「殺人」や「自殺」という倫理的に問題がある概念については,それを「陽」に指示すれば被術者は拒否反応を起こすだろう。しかし,人がチーズに見えるようにして,そこにナイフを刺して切り分けるという指示であればどうだろう。あるいは車が見えないように暗示をかけて歩行者天国だと思わせて交差点で踊らせる,などという「陰」に与える指示は可能ではないかと考えているのである。

今回の男も,なんらかの背景を与える暗示,たとえばヌーディストビーチで開放的な気分になるなどという,すなわち裸でいることが当たり前と思わされる思考操作をされていた可能性があると私は思うのである。この場合,誰が,なんのために,彼に催眠をかけたという非常に面白い謎が出てくるのだけれど。

催眠についてはあくまでも私の想像でしか無いのだけれど,こうしたことを考えるとき意識によって行動が支配される動物である人間というものは,非常にやっかいなものだと思うのである。肉体的な強制ではない,言葉によって与えられる催眠のようなものに支配されてしまうのだ。

明示的な催眠だけではない,この世はすべて催眠と暗示,そして洗脳でできているといっても過言ではないと思っている。そして,それらの精神的デトックスを行おうとすれば,その人の価値観が壊れ人格破壊に至る可能性だってあるほど,私達の精神に深く刻まれていると思うのだ。だからこそ,人間関係は複雑でつらく,そして面白いのだけれど。


2022年11月3日木曜日

こだわりを捨てる

 私の家の宗派は浄土真宗なので,法事の際に説話がある。そのときに聞いた話のその1.

お坊さんが村に出かけ,帰宅途中に井戸の周りに村人たちが語らっていた。お坊さんはお水を一杯所望して,いただいたかわりに一つお話をした。そのお話である。

川で,自分の妻と母親が溺れてしまっているとする。さてどちらを助けるか?という問題。妻を助ければ,自分の母親に申し訳が立たない。一方,母親を助ければ,妻に申し訳が立たない。村人たちは意見を言い合うけれど答えは一向に出ない。そこでお坊さんは,「そんなことで迷っていては,ふたりとも溺れてしまうぞ!」と急かす。しかし,とうとう村人たちはどちらかを選ぶことはできなかった。そして村人たちはお坊さんに「どうしたらよかったのでしょうか」と尋ねたという。「そばで溺れている人から助ければ良い」とお坊さんは答えた。「妻」だ,「母親」だ,と肩書を気にしてそれにこだわるから答えがでない。そうしたこだわりを捨て,そばで溺れている人からすぐに助けに行けば,「妻」も「母親」も助けることができるだろう。ということなのである。

そうしたこだわり,先入観が煩悩ということであり,そうした煩悩を修行によってひとつひとつ消すことが悟りへの道である,というお話であった。

単純な話だが,いろいろと考えることは多い。

ネットの書き込みは年寄りばかり

SNSというのは大変面白い。たとえば、テレビでは番組に対する視聴者の反応がわからなかったものが、今ではコメントが書き込まれることによって反応をいくぶん知ることができる。あるいはXなどへの書き込みによって、リアルタイムで感想がタイムラインにあふれることになる。そうした双方向性、即時...