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5月, 2007の投稿を表示しています

5/31, 6/1

出張で不在。

新人は群れる

気づけばもう5月も終わりで, 大学を卒業しこの4月に会社に入社した人たちへの 新人研修もそろそろ終わるところも多いだろう。 それで最近は見かけることも少なくなったが, 少し前には,見るからに新入社員という人たちが 群れているのがよく目についた。 なぜか新人はよく群れる。 これが本当にかっこ悪いと私は思う。 群れている新人は,スーツを着なれないせいか不格好で, 立居振舞も学生時代のものをひきずってマナーが悪い。 それが集団でいるのだからよく目立つのだ。 私は短気だから,すぐに腹を立てる。 私は“群れる”ということが嫌いだ。 似たような言葉で“つるむ”ということも大嫌いだ。 どちらも非建設的な響きがする。 自分がそうした集団に入ることを想像すると 吐き気がする。 なぜ新人は群れるのだろう。 やはり会社,社会が怖いのだと思う。 新しい環境で自分だけが外れて行動する。 それが規範を越えて咎められることを恐れているのだ。 集団であれば,間違ったことをして咎められても怖くない。 まさに「赤信号みんなで渡れば」の心理がそこには働いている。 私はダークなスーツに身を包んだこうした集団を見ると, 小さな魚たちが群れをなして泳いでいる姿を思い出す。 結局彼らには,大きな外敵から身を守るためには 集団で行動する以外手はないのだ。 しかし,人間の群れはずっとタチが悪い。 研修の合間にも,煙草を吸ってだらだらしながら, 不平不満,愚痴を言い合っている。 他の人の動向を気にして, 自分が集団から外れないようにビクビクして行動している。 また,他の人が進んだことをしようとすると, 足をひっぱるようにプレッシャーをかける。 表面的には「なかよし」であるが, その少し下層ではいろいろな思惑が 意識的に/無意識的に働いている。 そうした集団にいて気分がいいものだろうか。 少しの安心は得られるかもしれないが, その集団にいることは 自分に対してプラスになるのだろうか。 確かに会社の同期はすばらしい横のつながりである。 しかし,単にダラダラと一緒に過ごし, 愚痴を言い合うだけの集団だったら, その集団にいる方がマイナスである。 こう考えると,新人だからといって, わざわざ群れている必要はないのではないか。 ともに苦労を重ねていけば, いやでも同僚意識は芽生える。 はじめから自分の思うとおりにやれば良いのだ...

記録媒体いまむかし

昨日はCPUの話だったけれど, 今日は記録媒体(メディア)の話。 現在はUSBメモリが主流なのかな。 先日携帯電話を購入したが, メディアはMicroSDであった。 ほんの小指の先の大きさでしかない。 それで最新のものは8GBの容量があるというのだから, もう驚くより呆れるしかない。 私が初めてパソコンに触れたころは, メディアは磁気テープ。 それも普通のカセットテープだった。 (さすがにパンチカードではなかった) パソコンを立ち上げると, カセットテープを挿入し, 「ピー,ガガー」とロードする。 それでようやくOSがロードされるのだ。 プログラムもカセットテープに記録する。 テレビのパソコン教室の番組では, 副音声でこの音信号を流し, 視聴者はそれを録音して使用するということがされていた。 今から考えるとずいぶんとのんびりしていた時代である。 ちなみに「ウォーゲーム」(1983)という映画の中では, (少年が国防省のコンピュータとは知らずハッキングし, その中で第三次世界大戦のゲームを行うことによって 世界が危機にさらされるという内容) 国防省のコンピュータに接続する際にも フォンカプラーを使っていた。 音声が主たる伝達信号の時代だったのだ。 大学に入り,情報演習は,TSS(Time Sharing System)の ホストコンピュータを使用して行なっていた。 まだUNIXは普及しておらず, 友達がKernighanの名著(らしい) 「プログラミング環境」という本で講義を受け, これからUNIXの時代だと言っていたのを思い出す。 このときの記録媒体が8 inchのフロッピーディスク。 これがヤワで,大きくて,持ち運びにえらく難儀したものである。 これをコンピュータセンターに行ってガチャリとリーダに挿入し, それからエディタにロード。 WordStarによる編集のあとは,セーブしてホストに転送。 プロセスが表示されるディスプレイで, 自分のタスクが走ったことを確認すると, ラインプリンタの前へ行き,出力(折り紙式)の束を受け取る。 そしてエラーを確認してデバッグ。 そうしたことを繰り返していた。 言語はFORTRANで,課題はFFTによる音声認識だったかな。 まともにプログラムが走るまでにずいぶん時間がかかったことを覚えている。 そして大学の研究室。 ここでは5in...

コンピュータいまむかし

今日の輪講で,Intelのプロセッサ8086の話題が出た。 1985年に8086を用いて,パワーエレクトロニクス回路の DDC(Direct Digital Control)を試みたという話だった。 若い学生はもちろん知らない。 しかし,私にはずいぶん懐かしく感じられた。 私が中学生時代にパソコンブームが訪れ, NECのPC9801シリーズに搭載されていたCPUが8086だった。 その後,80286,386,486と次々と開発され, Pentiumに続く現在までのインテルの系譜がある。 これが現在のx86の表記の元となっている。 そのころ対抗といえば,Motorolaの68系だった。 68000, 68020, 68030とシリーズが出ていた。 Macintoshが採用していた(と聞いていた)けれども, とても高価で手が出せなかった。 (PC98シリーズも大変高価で高嶺の花だったが) そう考えるとコンピュータの進歩はすさまじいものがある。 まぁ,「ムーアの法則」が成立しつづけているのだから, この分野の成長速度は異常である。 そして思い出したのがZ80。 8080互換のプロセッサで, メカトロニクスには不可欠のプロセッサだった。 私もメカトロニクスの成績は悪かったけれども, 一生懸命ニーモニックでコーディングしたものである。 (ハートの形にならべたLEDが順次点灯するとか, そんなプログラム。いい時代だったなぁ) そういえば,18年ほど前(!),学生の頃, ある重工メーカで戦闘機トムキャット(F14)の 制御部の生産ラインを見学させてもらったことがある。 そこに使われているCPUはいまだZ80だった。 Z80は1976年に発表されたということだから, 14~15年たっても現役で使用されていた名機だったりする。 (とはいえ,戦闘機の場合は信頼性が一番重要だったりするから, 十分に枯れた製品を使用するのが鉄則である。 一方で入手が困難となるが,十分に在庫があると聞いたような気がする) Z80のクロック数はせいぜいで8MHz。 4GHzなどが売られている現在から見ると, 時代が変わったのだと実感せざるを得ない。 Z80は最後のころは, 大学生協で売っていたポケコンにも搭載される位になっていて, 少し悲しくなった覚えがある。 とにかく時代は変わっている。 苦労したころの話を...

携帯電話の説明書の厚さにまいる

最近,携帯電話を買い換えた。 しかし,この新しい携帯電話がいまだうまく使えない。 多機能になるのは良いが,どう使ったら良いのかわからない。 説明書を読もうにも,あの厚い説明書を読もうという気にならない。 もうゲンナリという感じである。 多機能であるがゆえに,使いこなすのに時間がかかる。 説明書が厚くなる。 この問題はなんとかならないものかと思う。 前のモデルは3年以上使用していた。 そのモデルの説明書でさえも読むのが億劫だった。 そして今回のモデル。 さらに多機能となっているためか,説明書が何冊も付いている。 これをじっくり読む時間の余裕があるひとは少ないのではないか。 これを読めというのだろうか。 通話だけならば良いのかもしれない。 しかし,いまや携帯電話は「通話もできる端末」である。 メールなどの設定ができなければ,その価値は半減してしまう。 Webを見ようにも, ”~設定がOffになっています” などというメッセージが表示され,先に進まない。 キャリアのホームページでキーワードを検索しても要領を得ない。 こちらは早く使いたいのだ! もう我慢が出来なくなる。 こうした携帯電話を持っている人たちは みな理解できているのだろうか。 私だけが要領が悪いのかとうらめしく思えてくる。 その点,海外の計測器などの説明書は素晴らしい。 簡潔に要領だけを説明してある。 必要最小限のものだけだ。 高度な使い方をしようとする人は, 内部の回路図やシステム図などを参考に考えれば良い。 わかる人にはわかるようにできている。 日本の説明書の悪い点は, わからない人にわかるように説明する努力するあまり, わかる人にはまわりくどい説明になってしまい, 結局,必要な情報にたどり着くまでの 時間がかかってしまうというところだ。 愚痴をこぼしても始まらない。 今週末は,携帯電話とにらめっこして, なんとか使えるように設定しよう。 #しかし,最新モデルを買っても 付属ソフトウェアがVista対応でないのは本当に困る。 キャリア会社のサービスが悪いといわれても仕方がない。

電力工学I (5/25)のレポート問題

レポート問題は配布資料の(2),(3)。 ((1)は答えなくてよい ) 【問題】(配布した資料と同じです) 下記の二つの問題についてA4,(トータルで)1ページで答えよ。 (2) 核融合が将来社会に受け入れられていくためには何が必要か述べよ。 (3) 核融合に関する授業は難しかったか,易しかったか。感想を交えて述べよ(1/4ページ位)。 【締切】 平成19年6月4日(月)13:00 【提出場所】 E4-226の指定ボックスの中 【注意】 ・ 「コストを低くできれば良い」,「安全性が必要」などという単純な回答は認めず ,点数はつけない。データ等の裏付けをふまえた上で,論理的に意見をまとめること。 ・Wikipediaなどデータとして参考にするのは構わないが,自分の意見を書くこと。 ネット上の記事の単なるコピペなどは許さない 。発見した場合は点数は無い(私もずいぶんこの関係の記事はネットでWatchしています)。 ・講義内容に対して,質問,意見などがある場合,レポートに書き加えておいて構わない。もしかすると,本ブログにて回答することもあるかもしれません。 ・配布資料を入手していない人は,E4-226の三浦まで取りに来ること。 (以上)

アルバイトを言い訳にするな

学校に来ない, あるいは研究が進んでいない, そんな学生が毎年いる。 そういう学生に理由を聞くと, 「バイトが忙しくて」 などと答えることがしばしばある。 (というか,かなり多い) では,この学生は大学は卒業しなくてよいのだな, と思ってしまう。 大学に入ったのは何のためか? 勉強をして卒業するのが目的ではないのか。 バイトで学業をおろそかにするのならば, 本末転倒もいいところである。 確かに,バイトは魅力的だ。 自分で仕事をして収入を得る。 大学とは全く違う環境で,自分の力を試せる。 そして社会勉強になる。 バイトと勉強を比べれば, バイトの方がたぶん魅力的なのだろう。 しかし,ここに落とし穴がある。 人間は目の前の仕事をやることに対しては 心のハードルが低い。 忙しい,忙しい,といって, 自分の目の前の仕事をあくせくとこなすことは, 実は比較的心理的には楽なのである。 バイトはこのような状態にある。 目の前に仕事が与えられて,それをこなしていく。 収入が得られれば充実感もあるし, 自分がなにがしかの役割を果たしているという満足もある。 だが,それはあくまでも目前の仕事を こなしていることにすぎない。 一方で,勉強は心理的ハードルが高い。 成果がでるのは,ずいぶん先のことだし, なんのために勉強しているのかわかりづらい。 試験で単位が取得できたとしても,あまり感慨がない。 (一般に仕事でも,日々の仕事をこなすのは比較的楽なのだ。 しかし,将来の自分やプロジェクトのための スキルアップや準備といった仕事に対しては, 心理的ハードルが高い) しかし, 学生時代に一番大切なことは 将来に向かって力を蓄えることである。 広範な知識を得ることである。 すぐに手応えは感じられないだろう。 しかし,将来の自分に対する投資なのだ。 これを学生時代にしないでどうする,と私は言いたい。 バイトで社会勉強ができる,というのも言い訳に過ぎない。 社会勉強など就職してから嫌というほどできる。 (いや,望まなくともさせられる) 学生時代の社会勉強がどれほど, 真剣勝負の厳しい現場で役に立つというのか? もちろん,研究に関係した社会実習というのであれば別だ。 これは,インターンという形で学校も推奨している。 しかし,単なるバイトであれば別だ。 将来を見越した学業に比べ,どれだけ価値があるという...

時間積分が大切

4年生が研究室に配属されると, 今までの勉強の仕方とずいぶんと様子が異なるので, 結構とまどう人が多い。 研究室に入ったら,まず何が一番大切か。 それは, 研究室での滞在時間を長くすること である。 研究室で先輩たちと同じ空気を吸っているだけで, 実は何かを吸収しているのである。 研究室にいれば,どのような研究が進められているのか, どの先輩がいま何に取り組んでいるのか, そういったことがわかるようになる。 そうなると,自分がどんな分野を勉強したら良いのか, どんなソフトウェアに習熟したら良いのか, 自分のベクトルも定まってくる。 研究室に来なければいつまで経っても情報はゼロである。 たとえ研究室に来て机に座っているだけでも, わずかながらの情報が自分の中に蓄積されていくのである。 それは,すぐに研究に役に立つ情報ばかりとは限らない。 遊ぶための情報もあるだろう。 まぁ,それも学生生活には役立つ。 生活には潤いも必要だ。 しかし,それも情報がなければ始まらない。 4年生になったら,まずは研究室に居ること。 そうすれば,さまざまな情報が時間積分されていき, いつか自分のベクトルを決定するのに役立つときがくる。 研究室に来なければ何も始まらないのだ。

その課題に答えはない

先日,特別講義で関西電力のO部長の講義を 学生に交じり聴かせていただく機会があった。 昨年のヨーロッパで発生した停電や 電力自由化の流れなど, 最新のトピックについて紹介されており, 大変勉強させていただいた。 そしてo部長は講義の最後で 学生たちにレポートを課したのだが, そこでのお話が印象に残った。 「これらのレポート課題には答えがありません。 したがって,みなさんの考えを書いてください。 ただし,私を説得するように書いてください」 「これから会社に入っても答えのある課題などありません。 必要なのは自分の考えとそれを誰かに説得できる力です」 大学には,この説得力を磨く機会がずいぶんと少ない。 研究室に入ったあとも, 他人を説得しなければならないという機会はほとんどない。 いや,学生たちは意識的にそうした機会を 避けているように思われる。 しかし,社会に出てしまうと, 上司や同僚を説得できなければ, 自分の仕事を進めることができないのである。 説得力はビジネスにおいて必要不可欠なスキルなのである。 説得のためには,論理的なストーリーの組み立て, そして,客観的なエビデンスを示す必要がある。 しかし,学生たちは,たとえば締め切りを守れず叱られたとしても 「次は締め切りに間に合うようにします」 などと答えることが多い。理由を示さない。 「どうして締め切りに間に合うといえるの?」 と尋ねると, 「根性で」とか「心を入れ替えて」などと答える。 短気な私はもう腹が立って仕方がない。 だれもその学生の性格更正の話をしているのではない。 どうして次の締め切りに間に合うのか, 客観的なエビデンスを交えて, 論理的に説明することを求めているのである。 自分の心を入れかえるから実現できるなどというのは なんて自分勝手な理由なのだろうと思う。 それで納得できると思っているのか。 社会に出る前の大学においてでも, こうした言い訳はしないでほしい。 誰でも説得できる論理的な説明力を 身につけるよう努力してほしい。 研究室においてこそ,こうした力を身につけて欲しい。 先生だからといって遠慮する必要はないのである。 堂々と私たちを説得できるような プレゼンをすれば良いではないか。 それが実現した上でようやく 私たちは同じ土俵の上で 自由闊達な議論ができるというものだと思う。 心から...

博士が就職難である理由

博士が就職難であるという記事を朝日新聞で読んだ(平成19年5月21日)。 官主導で,大学は博士号取得者の数を急激に増やしてきたものの, 受け皿である産業界の博士受け入れ態勢は整っておらず, 就職先に困っているという内容であった。 確かに,博士を取得しても任期付きの職を転々とすることが多い。 (かくいう私も任期付き職員である) かつて政府は欧米に比べ日本の博士号取得者の数が少ないと嘆き, 博士増産計画に手をつけた。 一方,大学はもともと先進的な研究を行う学生が必要なため, あるいは博士課程の学生を増やさなければ 予算の割り当てが少なくなるため, 政府主導に従って博士課程の学生の数を 言われるままに増やしてきた。 しかし,産業界はどうか。 はっきりいって産業界にとっては博士号をもって卒業した学生など, 実は厄介ものなのである。 すなわち必要性があまりない。 これは大学が育ててきた博士号取得卒業者の志向が原因なのだと思う。 博士号取得卒業者はいわゆる研究志向が強い。 自分の専門分野に固執する人が多い。 したがって,自分の好きな研究ができる大学や研究所への職を求める。 事実,そこでも自分の望む研究ができなければ やめてしまう人が多いのである。 企業にしてみれば,利益を産む研究, 将来役立つ研究をしてほしいと思うのが当然である。 それに対して,企業に言われるとおりの研究が嫌だなどといって 不平をいったり,他分野への協力を断ったり, 企業人として当然の職務(まぁ,雑務ということだが)を断ったりする。 こうしたプライド高い態度が雇用者としては, はなもちならないのは仕方がないだろう。 それでいて高給を要求したりするのだから。 企業が博士課程卒業者を採用するのは, その企業との共同研究を行っていた場合に限る などということも多くなっている。 使えない博士はいらないけど, 共同研究で即戦力になる博士は必要だということだ。 結局,大学が企業が求める博士を送り出していないということが この状況を生んでいる。 しかし,(先進国の中では)日本ほど博士号の価値が低い国も珍しい。 よく驚かれるのであるが博士号を持っているからといって, 給料で優遇されることは,日本ではほとんどない。 初任給は修士卒よりも高いけれど, それは修士が3年働いたのちにもらえる給料と同等なだけである。 すなわち,博士課程...

締め切りを問え!

4年生が新しく研究室に入ってきた。 きっとこれからいろいろなことを学んでいくことと思う。 ここでもいくつかの話をしていきたいと思う。 今日は, ”締め切りを問え!” というお話。 将来上司に,あるいは研究室であれば教員に, 「この仕事を頼むよ」 と言われたら,必ずこう聞き返すことにしよう。 「いつまでにできればいいですか?」 あるいは 「締め切りはいつですか?」と。 仕事を頼むとき,その締め切りを意外にあいまいにしていることが多い。 別に講義で出すレポートのように 各仕事で,それぞれ締め切りをきっちり決めて進めているわけではない。 (そうやって自己管理する方法はあるのだけれど。 いずれ,またここで紹介したいと思う) だから頼むほうもそれを明示せずに頼みがちである。 しかし,それでは頼まれた方は困るのである。 自分の作業量,内容を見積もることができないからである。 もしも2-3日という期限を与えられたら, 2-3日でできる仕事のレベルが要求されている。 締め切りが1週間後と言われたら, 1週間でできるレベルの仕事が要求されているのだ。 当然,2-3日でできる仕事よりも, より幅広い調査,深い考察が必要になってくる。 (すなわち締め切りが早く設定されていればいるほど 即応性は求められるが,内容の深さは反比例して 少々浅くても許される。 このさじ加減がその人の才能だったりする) こうして締め切りを決めることによって初めて, 自分の作業量,内容を見積もることができるのである。 この話は,私が学生時代,はじめて研究室に配属された頃, 私の指導教官のS先生より教えていただいたことである。 その後,職に就いてからもこの教えはずいぶんと役に立った。 締め切りを聞くということは, 自分の仕事に責任を持つということなのである。 これからは,仕事を頼まれたら, 「締め切りはいつですか?」 と答えるようにしよう。 そうすれば,君の評価がずいぶんと上がることは間違いない。