2017年11月30日木曜日

ブリット: S.マックイーンの着こなしのカッコよさ

中高生の頃,雑誌メンズクラブではジェームス・ディーンがカッコいい男として紹介されていることが多かったように思う.白いTシャツとジーンズとか.しかし,たまにスティーブ・マックイーンの着こなしが紹介されることがあった.当時私は,S.マックイーンをそれほどカッコいいと思ったことはなく,どうしてこんな俳優をもち上げるのだろうかと思っていたのだけれど,今回この映画を観て考えをすっかり改めた.

「ブリット」(Bullitt)(1968年)

とにかく,S.マックイーンがカッコいい.昔はなぜカッコいいと思わなかったのだろう.そういえば,父親が彼を褒めていたっけ.父親のほうが男をみる目があったということだ.

警部補であるブリットは上院議員から依頼された裁判の重要証言者ロスの保護に失敗し,彼を殺し屋に殺されてしまう.しかし,殺されたロスの不可解な行動に疑問を持ったブリットは事件の真相に迫っていくという話.主人公は全く笑わない.ハードボイルドの極北ともいうべき男の映画である.

有名なのは,サンフランシスコ(坂の街で有名だ)の坂を利用したフォード・マスタングとダッジ・チャージャーとのカーチェイス.車の運転手目線で映像が撮られているために,斜面の揺れで車酔いになってしまいそうな迫力である.カースタントとS.マックイーンが運転しているのだけど(マックイーンはカーレーサーでもあったから),これをCGなしで撮影しているのだから,たいへんなものである.一度みたら忘れられないシーンになる.

ブリットの着ているものも確かにカッコいい.ブルーのシャツに茶色のスーツ,そしてカーキのステンカラーコートなんて定番中の定番だけれど,彼が着ると一ランク上のものになる.私が好きなのは,最後の空港での追跡シーンで黒のタートルに,拳銃のホルスターをつけて走るところである.彼はこのとき38歳くらいで,そろそろ男の渋さが漂っているころなのだけれど,黒のタートルが若々しくて素敵である.

マックイーンのクールさは評判通り.他の映画は観ていないけれど,この一本は彼のかっこよさの頂点だと言われている.そういわれても全く疑いをもつことはない.それくらい素晴らしい.

ラスト,ブリットは事件にケリをつけて愛する人のもとに帰る.途中で喧嘩をしたけれど彼女はちゃんとブリットの部屋に戻っていた.それがこの作品の救いである.それがなければあまりにもドライ,あまりにもクールな映画である.

2017年11月2日木曜日

ジェネレーションに横たわる深い淵

「ブレードランナー2049」が,ぜひ観たくてたまらない.
この連休中に観に行きたいくらい.

なぜって,あの前作「ブレードランナー」の続編なんだし.デッカードとレイチェルが,あのあとどうなったか知りたくないの?

などと,学生に言ったら,「ブレードランナー」ってなんですか?と訊かれた.私の驚いた顔を見て,その学生は「す,すみません.僕はそっち方面苦手なんです」という.

いやいや,そんなことは責めていない.私が驚いたのは,私と同世代にとって「ブレードランナー」なんて,たとえ映画は観ていないくてもレプリカントが出て来る近未来SF映画だと常識的に知っていたものである.

公開よりはずっとあとだけれど,私が大学に入ったばかりのころの86年,87年あたりは「ブレードランナー」の世界が若者たち・文化人たちにかっこいいと思われていた.私もデッカードのハードボイルドさにはずいぶんと影響されていた.

カフェバーに行けば無国籍風の暗い店内で,ディスプレイからはなにかしらビデオが流れていたし(そのビデオがたまに「ブレードランナー」だったりする),時代の最先端の流行には「サイバーパンク」があり,ディズニーの「トゥモローランド」のような夢の未来像はもう古臭くなっていた.そして間違いなく「ブレードランナー」がそれらの流行のオリジンのひとつとしてあったし,それは若者文化の常識だった.

「攻殻機動隊」だって,「トータル・リコール(2本目の方)」だって,みんな新しいんだか,古いんだかわからない,あやしい街の風景だったでしょ.あれって,「ブレードランナー」以降の未来観だよね.

的なことをいっても,いまの若者相手には通じない.それがいまでは普通だからだ.手塚治虫的な未来こそがめずらしく思えるのだろう(それまでの私たちにとっての未来の街はそびえ立つビルの間をチューブの中を車が走っているものだった.あるいは核戦争で荒廃した世界だった)

前作の公開が82年だというから35年も前の作品だ.35年も経てば私たちの常識だったことも,そうでなくなることもあるだろう.いまの学生と私の間には深い深い溝があるのも仕方ない.




2017年11月1日水曜日

葛根湯がおいしい

どうも風邪をひいたらしい.
つよい寒気がする.最近急に寒くなったせいか,身体が対応できなかったのだろう.頭痛,筋肉痛,鼻水,のどの痛みと,どれもひどくはないけれど典型的な風邪の症状が出ている.昨晩は早く寝たのでずいぶん今朝は楽になったけれど,やっぱり風邪なので身体が重い.今日も早めに帰ることにしよう.

風邪のひき始めには,私は「葛根湯」をよく飲む.身体も温まり,楽になるので愛飲(?)しているのだけれど,実は私はこの味が好きなのである.そんなことをいうとだいたい周りの人に変な顔をされるのだけれど,この苦くて甘い漢方薬が大好きなのである.たとえていうならばプリンにかけるあのカラメルのような感じである.ちょいニガの甘さが気に入っている.許されるならば,顆粒のものを何袋も飲みたいくらいである.

いろいろなメーカの出している葛根湯を試しているけれど,どれもうまい.苦さや甘さに差は確かにあるのだけれど,やはり葛根湯は葛根湯の味がして,飲むと落ち着く味である.私はちょっと苦味の強いものが好きなのだけれど.

ただこれまで葛根湯を飲みすぎたためか,効き目が一般的な感冒薬にくらべて弱い気がする.そこが少し残念.葛根湯を飲めば,汗がわっと吹き出して,あっという間に熱が下がって,身体が楽になるということであればいいのに.まぁ,これくらいの穏やかな効き方だから人の身体にやさしく,私も安心して飲むことができるのかもしれないけれど.

ということで,寒気はまだ続いていて,この昼にも葛根湯を飲んだ.食後のコーヒー代わりにその苦さを楽しんだ.これでまたマイルドに身体が楽になるだろう.でも結局のところ,風邪に効く薬はなく,身体を温めて,睡眠時間をたっぷりととるしか治す方法はないのはよくわかっている.

2017年10月19日木曜日

かもめ食堂ふたたび

映画「かもめ食堂」を再び観た.

前に観たのは2006年3月.公開初日に梅田のシネ・リーブルだったかに観に行った覚えがある.どの回も満員で,仕方なく夜の9時過ぎの回を観た.若い女性で一杯だったけれど(もちろん私は独り),そのときはヒットするなんてあまり思わなかった.面白かったことは面白かったのだけれど,ほのぼのとしたハートフルドラマという感じでそんなに派手な映画じゃないし,まだ小林聡美の人気もそれほど高くはなかったから(この映画で大変な人気となったけど).

そのときは,小林聡美演じる主人公「さちえ」に共感したものである.フィンランドという異国の地に,足をつけてしっかりと毎日を生きている彼女が素敵にみえた.あんな生き方をしてみたいなんて思った.

それが今回心惹かれたのは,もたいまさこ演じる「まさこ」である.彼女は20年の両親の介護を終え,なぜかフィンランドにやってきた女性.しかし,やってきたものの空港に荷物が届かず,かもめ食堂でしばらくお世話になるという設定.「さちえ」から,届かない荷物の中に「たいへんですね,だいじなものも入っているでしょうに」と言われて,「だいじなもの...」となにが入っていたかを思い出せないような仕草をみせる(セリフうろ覚え).今回いちばん心に残ったのはこのシーン.自分の大事なものってなんなのか.この問いへの回答って結構むずかしい.彼女の両親介護の生活の中で大事なものはなんだったのか,考えてしまう.そして,彼女はボーッとするために森に行き,きのこ狩りをする.そこで彼女の何かが変わったような気がする.彼女は主人公やもうひとりの中心人物である片桐はいりの役と異なり,この映画の中で人生の転機を迎えることとなった.そういえばこの映画では彼女だけに不思議な事が起こる.監督も彼女に特別の思い入れがあったのかもしれない.

そんな彼女たちが素敵に生きている映画.なんどみても元気が出てくる.いまならヒットしたのもよく分かる.ときどき思い出したように観たくなる映画である(風景も本当に素晴らしいし).

この映画のあと,片桐はいりはこの映画の撮影について本を書いている.よっぽど楽しかったのだろう.その楽しさが画面からあふれているような気がする.

#ちなみに私はコピ・ルアックのコーヒーはまだ飲んでいない

2017年10月18日水曜日

スニーカーも好きなものが履きたい

スニーカーブームである.
ずいぶん前にナイキのエア・ジョーダンとかが流行った時代もあったけれど,今はもっとお洒落になっている気がする.気がつけば学生も素敵なスニーカーを履いている.女子もスニーカーの人が多い.昔に比べてカラフルなスニーカーが多くなっているようだ.

学生の頃も私はスニーカーに憧れていた.映画「ビバリーヒルズ・コップ」でエディマーフィーが履いていた白地に緑のラインのアディダス・カントリーがカッコよかった.ちょっと買えなかったけれど.RUN DMCのアディダス・スーパースター.紐を通さずに履くのが流行っていたっけ.そして私の周りで良く見かけたのがアディダスのスタン・スミス.最近も相変わらず良く見かける.緑もネイビーも,そしてグレイもいい.私はネイビーを履いていたかな.K-SWISSも履いていたけれど,重くてたいへんだった.

そのうちテニスシューズだけではなくて,ランニングシューズも日常で履かれるようになってきて,ニューバランスもよく履いた(最近は,あのNマークがダサく見えてしまって履きたくなくなってきたけれど).オニツカタイガーの黄色にブルーのラインのカリフォルニアなんて本当にかっこよく見えたけど,実際に履く勇気はなかったな.

まぁ,無難なところでいくと,コンバースのバスケットシューズや,そしてケッズのチャンピオンのキャンバス地のスニーカー.トップサイダーのデッキシューズも流行った.

これまでそんなに高価でないスニーカーをあげてきたけれど,シリコンバレーの社長たちは革靴を履かずにスニーカーを履くのがステータスらしい.さすがに値段が高いものが多い.昨日,テレビでスーツにスニーカーを履くニューヨーカーたちのニュースを見たけれど,さすがにそれは通勤時だけではないのだろうか.会社に革靴を用意しておくのではないかと思う.やっぱりダサく見えるし.

私もだいたいがスニーカーで過ごしたいと思っている人間なので,もう少しスニーカーの数を揃えたい.高級なものは要らないから,気楽に履けてウオノメができないやつが欲しい.50のオジサンが履いていても恥ずかしくないような(学生みたいなことを言っている).

2017年10月9日月曜日

成田空港にてラーメンを食したこと

今週,日曜日から木曜日までアメリカ・シンシナティで開催されていたパワーエレクトロニクスの国際会議ECCEへの参加を終え,成田空港に到着した.伊丹までの乗り換え便の待ち時間に,久しぶりにラーメンが食べたくなって,4Fの専門店に寄った.ラーメンが食べたくなるなんて,最近ではめずらしい.

海外旅行へ行くとすぐに日本食が恋しくなる人がいる.でも,私は違う.少なくともアメリカで食事にはあまり頓着しない.今回の出張でも毎日ハンバーガーやステーキなど「肉」を食べ続けていたけれど,お米が恋しいなんて一度も思わなかった(アメリカの飯はまずい,と思ったことは何度かあったけれど).

学生の頃,カナダとアメリカを約一ヶ月間,旅したことがある.それぞれの国で開催される2つの国際会議に参加するためであったけれど,途中2週間ほどは宿も予約しないで,ロス,シカゴ,ボストンを移動した.向こうでクレジットカードが使用額上限に引っかかってしまい使えなくなったこともあって(海外旅行のために学生の使用上限をあげておく手続きを忘れていた),本当に貧乏旅行で,安ホテルやユースホステルを泊まり歩いていた.だから毎日の食事も簡素なものばかり.サンドイッチやバーガーなどを食べていた.でも,そんな一ヶ月でも全然日本食が恋しいとは思わなかった.毎日リンゴをかじったり,マフィンを水でお腹に流し込んでいたりしたけれど,味噌汁が飲みたいとか,醤油味が食べたいなんて思わなかった.まだ私も若くて,毎日の刺激だけで好奇心が満たされていたからかもしれない.

その後就職してからも,海外で日本食が食べたいと思ったことはほとんど無いと思う.まぁ,空港で他に食べるものがなくうどんを食べたことはあったけれど.

でも今回,成田空港で久しぶりにラーメンが食べたくなった.もちろん,食べたら美味しかった.こんなことって私にとってめずらしい.これも年齢のせいかとも思う.今回の出張でも感じたのだけれど,私もやっぱり日本人で海外の別の文化との感覚の違いを強く感じるようになってきている.これは逆に日本の文化に敏感になってきているからなのかもしれない.そうした感性がラーメンを食べたくさせたのかもしれない.

2017年9月10日日曜日

国師三喚

無門関の「国師三喚」という禅の公案がある.
詳細は無門関の原文を参照していただくとして,
だいたいの話の内容は次のとおりである.

高僧が侍者を三度呼んだ.侍者は三度返事を返したという.
そこで高僧は「自分がおまえに背いていたと思っていたけれど,
おまえが私に背いていたのか」と言ったという.

これだけの話である.
しかし解釈はさまざまで,私もどう考えるのが良いのかわからない.
ただ,侍者は三度返事を返したということなのだけれど,
その三度の返事に違いはあるのか,という議論がある.

当然2度目の返事は1度目と違うはずで,侍者の心のありようが
変わっているはずである,と.
そして当然3度目はさらに心が変わっているはずだと考え,
その侍者の心の変化について,いろいろな解釈が示されている.

しかし,私はこう思う.
3度の返事はすべて同じではないか,と.
2度目の返事においても,3度目の返事においても,
心をまっさらにして応えた一度目の返事と同様に,
侍者は変な考えをもたずに応じるというのが理想ではないだろうか.

常に初心に戻って,100%の心持ちで対応する.
同じ稽古をなんど繰り返しても,心を新たにして臨む.
これこそが武道における心の在り方ではないのかと思うのである.

合氣道の講習会に参加し,この話を思い出した.
同じことを繰り返すにしても常に心新たに
100%の集中でことにあたるようにしたいと思う.

2017年9月4日月曜日

周囲でモノが壊れ続ける,パウリ効果

食器洗い機が壊れてしまった.除湿機も壊れた.台所の電灯も次々と切れた.職場ではイーサネットのハブが突然壊れた.その前は私のPCが壊れてしまった(ようやく新しいPCに移行が完了したばかり).以前は台所のシンクがつまり,トイレも先日怪しい動作をしていた.コップを洗えばコップが割れ,障子を閉めれば障子が破れ,壁掛けのフックも落ちてしまった.とにかく,私の周囲でモノが壊れ続けている.

お盆には厄落としと思い,鞍馬山にお参りに行ったけれども,まだ少し厄が落ちていないようだ.とはいえ,ずいぶんと良くなったのだけれど.

周囲でモノが壊れるというと思い出すのが「パウリ効果」である.
パウリはあの排他律のノーベル賞学者のパウリである.
彼の周りでは実験装置が次々と壊れ,周りの同僚からもずいぶんとからかわれたようである.そんな彼を更にからかうために,冗談で彼が来たらシャンデリアが落ちるように細工をしていたのだけれど,彼が来たときにその細工自体が故障してシャンデリアは落ちなかったなどという笑い話も残っているくらいである.

私をパウリに例えるのはおこがましいけれど,そうでなくとも周囲でモノが壊れやすい人というのはいるらしい.ある娘さんの周囲では電化製品が次々と壊れてしまい,しまいには駐車場の車のゲートが誤動作してポールが車を叩いたなんて話も聞いたことがある.どういうわけか知らないけれど,そうした星の巡り合わせに生まれる人もいるらしい.まぁ,70億人も人間がいればいろんな偶然に遇う人もいるだろう.

私の周囲でモノが壊れる現象は,徐々に収束している気がする.以前よりも周囲のことに注意を払うようになったからかもしれない.単なる不注意が原因なのかもしれないと思う.しかし,実際的に問題が生じるのは本当によしてほしい.修理代が馬鹿にならないからである.

2017年8月9日水曜日

電気の人の仕事って,なにをするの?

夏休みに入り,大学では高校生向けの企画が目白押しである.
高校生向けの体験授業や実験,そして明日は大阪大学工学部のオープンキャンパスである.高校生のみなさんが大学に入ったらどんな雰囲気の中で勉強・研究をするのか知るのに良いチャンスである.

しかし,電気系というのは高校生にあまり人気がないらしい.
その理由について研究室の学生のみなさんと話していたのだけれど,自分が大学生となって電気の勉強や研究をしている姿を想像しにくいからではないか,という話が出た.

たしかに,化学系であれば白衣を着てビーカーやフラスコを片手で振っている姿がすぐに思い浮かぶ.機械系だって作業服を着て旋盤を回すとか溶接をするとか,いやいや今だったらロボットなどを想像するかもしれない.建築系だったら製図板の前で図面を引いているとか,そんなイメージが電気系には持ちづらい.せいぜいハンダごてで電子工作をしている姿だろうか.

ハンダゴテを握る研究をしているのは電気系の中でもたぶんわずかで(そのわずかな研究室のひとつが私が所属しているパワエレの研究室なのだけれど),大体は物性系,すなわち材料・化学系,あるいは情報・通信系,そしてシステム・制御系ということになり,パワエレのようにハンダゴテで電子回路というイメージからは遠い.

ひとつの有力は就職先である電力会社のイメージにしたって,作業服を着て電柱に登るCMの影響が強く,あまり憧れを持つ人が少ないのかもしれない.

でも,電化製品,電気自動車,鉄道など電気を使うところに電気専門の人はいるのである.イメージはしにくいけれど,そしてその現場現場で働き方は違うけれど,電気の研究者・技術者は大いに活躍しているのである.

そんな話を高校生にしたいのだけれど,なかなかそれも難しい.機械系のように目に見える形でアピールする研究が少ない.動くものがない.だれが電圧の波形が正弦波になったといって喜んでくれるだろうか...

パワエレは縁の下の力持ちなのだ.でもなんとか人気が出るように努力したいと思っている.どなたか良いアイデアをお持ちではないだろうか...

2017年8月8日火曜日

ウルトラセブン放映の50年前,世界人口はまだ30億人だった

今年はウルトラセブンが放映されて50年という記念の年らしい.実は私はウルトラマンシリーズの中で最もウルトラセブンが好きなのだ.もちろん放映当時のものを観たわけでなく,当然再放送を観たのだけれど.

ウルトラセブンの最終エピソードは「史上最大の侵略」で(前後編で2話構成),それはそれは名作で,

ダン「僕ねぇ,注射が嫌いなんだよ」

と子供に言うシーンや,アンヌ隊員に

ダン「僕は,僕はね,人間じゃないんだよ.M78星雲から来たウルトラセブンなんだ!」

 と言った瞬間,アンヌの向こう側からライトが当たり,アンヌのシルエットが浮かび上がる.そして音楽は,シューマンのピアノコンチェルト冒頭が始まる...

ダン「びっくりしただろう?」
アンヌ「ううん。人間であろうと,宇宙人であろうと,ダンはダンで変わりないじゃないの.例えウルトラセブンでも...」
ダン「ありがとう.アンヌ」

この名シーン.結局,止めるアンヌを突き飛ばして(!)セブンに変身するダン.自分の命をかけて戦うセブン.シューマンのピアノコンチェルトの第一楽章の盛り上がりの部分が怪獣との戦闘シーンに流れるというこのすごい演出.ウルトラシリーズの中でも屈指の名シーンではなかろうか.

とこの話はまた別の機会にするとして,なぜ「史上最大の侵略」というタイトルかというと,ゴース星人が地球上の全人類「30億人」を人質にとった侵略だったからである.30億の人類はゴース星人の奴隷となるか,誇りをもって戦うか,そうした選択を迫られるエピソードだからなのである.

ここで「30億人」という言葉にひっかかった.これが今回の記事のテーマ.
今,世界人口は優に70億人を越えているはず.たった50年,たった半世紀の間に40億人以上人口が増えているということなのだ.365日*50年 = 18250日の間に4,000,000,000人以上増えたっていうことは1日あたり22万人ずつ増えている計算になる.

これって異常じゃないかとさすがに思う.ドラえもんのバイバインじゃあるまいし.
2100年には112億人になるって予想が本当ならば,やっぱり人類は滅びるのではないかと思う.どこかで人口を減少させる機構がはたらくような気がする.それはとっても恐ろしいことなのだろうけれど.

「ウルトラセブン」の描く未来は,テレビ電話など現在実現しているのも多いけれど,人口の見積もりは大きく間違っていた.しかし,だれが人口が倍増するなどと思えただろう.だが着実に人口は増え続け,世界に危機がせまっているのは間違いない.今,SFで未来を描くとしたならば,それはかなりブルーなものになるしかない.

2017年8月3日木曜日

ブービーバードは何処へ行ったのか

私は黒いリュックサックを仕事で使っている.最近は手提げバッグでなくリュックサックの人も多くなってきた.マナー違反という意識も薄くなってきたのだろう.私の場合,腰が痛くなるので,このままリュックサックで失礼したいと思っている.

しかし,黒いリュックサックを担いでいる人は多く,懇親会のときなど椅子の上に置いておくと,他人のものと区別がつきづらくて困ることが多い.そこで,私のバッグには銀色の大きなアクセサリをつけていたのだけれど,今日それがなくなっているのに気づいた.あーぁ,結構お気に入りだったのに,どこで落としたのだろう.

今回落としたものは,鳥の形のものがカラビナになっているもので,ちょっと見ペンギンなのだけれど,実はブービーバードという鳥のものである(日本語ではカツオドリというらしい).

CHAMSという,いかにもアメリカ的なブランドのマスコットキャラクターなのだけれど,そのカラビナを取付用のリングごと無くしてしまった.どこかに落ちていないだろうか?ちょっとショック.また何か目印になるチャームをつけなければなるまい.

うーん,本当にどこへ行ったのだろう?

2017年7月31日月曜日

慈眼温容を思い出す.

ふと鏡を見て,眉間にシワを寄せていることに気づく.
どうも最近,心の状態が悪い.呼吸も心なしか浅い.
心の修行が足りないということなのだろう.

自分の最高のパフォーマンスというのは決して過度の緊張から得られるものではない.
真のリラックスこそ必要なものなのだ.

「慈眼温容」

私の合氣道の先生が,その合氣道の先生よりいただいた言葉である.
もう何度もこのブログに書いているけれど.

私もこの言葉をもう一度受け止めて修行していきましょう.

2017年7月27日木曜日

老後の楽しみなんてない

今日,歩いていると後ろで誰かが転んだような音がした.振り返ると柱の向こうに誰かが倒れているようだった.すぐに駆けつけてみるとおばあさんが手で押すカートとともに倒れていた.

幸い,そこは阪大病院の玄関前だったために,すぐに警備員がやってきてトランシーバーで救援を求めてくれた.おばあさんの意識はなく,足が突っ張っていた.いびきをかいていると警備員の一人が言っていたので,脳梗塞かもしれない.

そのうちに看護婦さんがストレッチャーをもって駆けつけてきてくれた.家族の人も気づいて寄ってきてくれて,心配そうに声をかけている.

何十年も生きてきて,人生の最後がこんな感じだったらどうなんだろうと,こうした場面に遭遇すると思ってしまう.今日,こんなことが起こるなんて昨日思うことがあっただろうか.いや,倒れる10秒前にだって,こんなことが起こるなんて思いもしなかったに違いない.

しばらく前から,私は「老後の楽しみ」というものを考えないことにしている.楽しむのであれば今である.私には「老後」なんてないかもしれないのである.

そしてそろそろいつ「向こう」へ旅立ってもいいように準備を始めようと思っている.いわゆる終活である.いつその瞬間が私にもやってくるかわからないのだから.毎瞬間,毎瞬間,ロシアンルーレットで引き金を引いているのと変わりがないかもしれないのだ.

2017年7月26日水曜日

シードル,HardでBitterな.

蒸し暑い日々が続いている.
こんな寝苦しい夜には,キリリと冷えたシードルがピッタリ.それも甘いやつじゃなくて,ビターでからい奴.喉越しがスッキリする.

暑すぎるとビールでさえ口に重たくなる.ビールのコクが濃厚すぎるのだ.
冷たい白ワインもちょっと重い.あの甘みが口の中に残ってしまう.
もちろんビールも白ワインも夏には欠かせない飲み物なのだけれど,暑さも度が過ぎるとどちらも重すぎると感じられるようになる.

そんなときにぴったりなのがシードル.
シードルはあまりメジャーじゃないのだけれど,リンゴの発泡酒である.

私は昔からこのお酒が大好きなのだけれど,20年ほど前にはニッカから発売されているシードルのスイートとドライの2種類しかなかった(少なくとも近所ではその2種類しか売っていなかった).近くのイオンでも昔は売っていたのだけれど,この数年は売棚にその姿を見かけることはなかったように思う.

それが最近,キリンが新たにシードルを販売し始めたようだ.ハード・シードルという名称で,味はドライ.キリリと喉越しもよい.最近ハマって何本も飲んでいる.量は300ml以下でアルコール度数も4.5%なのでちょっとリラックスするのにちょうどいいのである.

夜帰宅し,冷蔵庫を開けてシードルを取り出す.そして栓をあけてビンをラッパ飲みする.これがたまらない.口の中がキューっと締まる.甘くなく,濃厚さもない.蒸し暑い夜にピッタリの飲み物だ.

どうしてシードルはメジャーじゃないのだろうと思っていたけれど,先日ラジオで今年は「来る」と言っていた.ヨーロッパではビールよりも庶民的だという国もあるとか.
ちなみにアメリカやイギリスではシードルはサイダーである.
日本でももっともっといろいろな種類が販売されたらいいのにと思う.

2017年7月25日火曜日

40度以上の気温の中,いかにして人は37度以下の体温を維持しているのか

近年,やはり異常気象なのか,地球温暖化の影響なのか,体温を越える気温,たとえば37度とか39度とか,高温になるというニュースを見聞きする.そのたびに私は疑問に思うことがある.

40度の気温の中で,人はいかにして37度以下の体温を保つのか

ということである.
周囲温度が40度であれば,40度の恒温槽の中にいるようなもので,身体の周囲からは常に熱が侵入してきて,最終的には体温は40度に収束することだろう.

しかし,しばらくの間であれば人間の体温は37度以下の体温を保っていることができる(そうでなければ40度近くの気温の地方ではもっと多数の病人や死者が出ているだろうから).

その原因について考える.

1.熱容量.
物体にはそれぞれ熱容量があり,それは人間の身体にも当然あるから,入熱にしたがって体温が上がっていくけれど,その上昇には時間がかかることになる.その間はそれなりの体温を維持できることになる.

しかし,お風呂の中に落とした氷がいつかは溶けるように,体温もいつかは40度の気温と同一の温度に収束していくはずである.ただ人間の体内には大量の水があり,水の熱容量はたいへんに大きいから,それなりの時間がかかるということなのだろう.温度上昇のカーブをいつか計算してみたいものである.

2.気化熱
40度の周囲温度の環境で,私たちの体温を下げる機構があるとしたならば,それは汗をかくということだろう.その汗は気化するときに身体から熱をうばっていく.このとき奪われる気化熱によって体温が下がることが期待できる(呼吸においても,気道などの体内で気化熱による冷却が行われていると思われる).

しかし,身体の表面積から計算される入熱の大きさを考えると,いったいどれだけの水を身体から蒸発させれば,私たちの身体は37度以下の体温を維持できるのだろうか.いつか計算してみたいけれど,なにかすごい量の水が必要な気がする...

また,気化熱が身体の冷却機構であるならば,周囲の湿度,風況などが大きく影響するはずである.湿度が高ければ汗は乾かないし,逆に風がふけば涼しく感じるのは気化がさかんに行われるからである.一方最悪,お風呂の中にいたならば,熱伝導による熱侵入は大気中よりもはるかに大きいだろうし,汗をかいたとしても気化熱による冷却はお湯からでている首から上の部分でしか働かないはずである.つまり,お風呂に入ってのぼせるのが,熱中症になる最悪のケースということになる.

40度近くの気温の中,熱中症にならないためには大量の水の摂取と,汗をかく工夫が必要だ(運動してはだめだけど)ということなのだろう.こうして考えると,一番楽なのはやっぱりエアコンの風にあたることだということがよく理解できる.


2017年7月24日月曜日

頭痛の原因は...風邪か熱中症か,それが問題だ

昨日,朝,目が覚めると頭痛がした.
疲れがたまっているのかと思い,もう一度寝直す.
午前10時過ぎに目を覚ます.起きるとやはり頭痛がした.
そしてそれは朝よりもひどくなっていた.

風邪なのだろうか.この暑いのに?
そこで,はたと思い立った.もしかして熱中症か?
暑い昼間に,冷房もつけずに寝ていたのだから熱中症の可能性も十分にある.
そう思ってまずは水を飲んだ.
しかし,結局体調は回復せず,また横になった.
そしてまた眠る.暑い中にまた眠ることができたのだから,
結局のところ疲れていたというだけのことなのかもしれない.

原因は結局わからずじまい.
ただ午後からエアコンをつけて冷えた部屋で休んでいると幾分体調が良くなってきた.だから熱中症だったのかもしれない.頭痛持ちの私としては,その原因が熱中症か,風邪か,そしてあるいは脳梗塞か,いつもビクビクしながら過ごしている.そして,今回は,
暑い夏,水分補給の不足が命取りになるかもしれない.ひどい頭痛に耐えながら,本気でそう思った.

2017年7月22日土曜日

ファイナルマスター,師父,The Final Master

先日,テレビでトム・クルーズの「ミッション:インポッシブル2」が放映されているのをチラリと見た.トム・クルーズはまだ若くて,またいつも通り全力疾走していたけれど,どうも私には気乗りがしない映像だった.

なにが違和感があったのかといえば,アクションシーンの人のやられかたである.見事にバレバレのワイヤーアクションであって,カンフー映画を見ているのかと思うくらいである.はっきりいってダサダサである.かっこ悪い.そして,これみよがしに飛び交う白い鳩がウザい.演出がキモい.この鳩を見てこの映画の監督がジョン・ウーであることを思い出した.彼の映画は私とは相性が悪いらしい.

いや,この映画はたぶん2000年くらいの作品だったと思うけれど,このころは香港のフィルム・ノワールなどと言われていて,その頃こんなアクションがはやっていたのかと気づきがっかりした.いまからみると,全然ダメである.フィクションすぎる.「ミッション:インポッシブル」はこのあとのシリーズの方がずっといい.

カンフーアクションは,「マトリックス」シリーズと「グリーディスティニー(Crouching Tiger, Hidden Dragon)」で頂点に達し,その後急速に陳腐化が進んでしまった,と思っている.いまとなっては,人が空を飛んでジャンプするシーンがあったりすると,あまりにもファンタジー過ぎて,すぐにひいちゃうくらいである.それほどカンフー映画は衰退した.

一方,ハリウッドの戦闘アクションは,いかにリアルに見えるかが主流になってきている(もちろん演出はあるのだけれど).「ジェイソン・ボーン」シリーズ,「ジョン・ウィック」シリーズ,そして同じトム・クルーズでも「ジャック・リーチャー」シリーズなどを見れば一目瞭然,実際にある格闘技をベースに,リアルっぽさを追求している(そして華麗さ,「痛そう」さを追求している).フィクションの最たるものの一つであるバットマンでさえ,KFMという格闘技を使っているのだ.そうしたものに目が慣れてしまった私達には,ワイヤーアクションを用いた戦闘シーンなんて白けて見えてしまうのも当然である.

しかし,しかしである.カンフー映画の復権を感じさせる佳作を観てしまった.それは,

ファイナルマスター (師父,The final master)」(2015)

である.監督はシュ・ハオフォン.彼はあの「グランド・マスター」の脚本・武術顧問だったとのこと.どおりで,ストーリーは難解複雑.「グランド・マスター」同様わかりにくい.だから,ストーリーはあまり紹介できないけれど...とりあえずまとめると,

第二次世界大戦前,詠春拳を学んだ最後の熟達者である主人公が天津の町に出てきて,道場を開いて詠春拳を広めようとするのだけれど,弟子を育て天津の道場をいくつも破ることを条件に出される.主人公は天津で妻を娶り,弟子をとり,道場を開くためにいろいろと画策するのだけれど,そのうち軍を巻き込んだ策略に飲み込まれていくというお話.

まず,主人公の佇まいが本当に素晴らしい.リャオ・ファンという役者らしいが,ずいぶん武術を練習されたのだろうと推測される.かなり好印象.ファンになってしまった.調べてみるとベルリン国際映画祭で主演男優賞も受賞している実力派らしい.座っている姿,立っている姿がいい.野望を抱いているが,しかし優しく,そして過去を背負っている,そんな男を正面から演じきっている.

そして奥さん役の人がいい.社会的に差別されている美しい人という設定で,主人公に徐々に惹かれていくところがよく伝わってくる.素敵な女性だ.

他にも天津の武術界の長老やそれを引き継ぐ女性武道家など,芸達者な人たちが作品のクオリティを高めている.

そして特筆すべきはアクションである.たいへんにおもしろい殺陣で,実にリアリティがある.技が速すぎてよく見えなかったりするのだけれど,何度も見直す価値がある映像である.私がカンフー映画に期待するのは,「これだよ,これなんだよ」と指を指して言いたいアクションなのだ.

この映画では徒手格闘ではなく,武器術での戦いがメインなのだけれど,本当にいろいろな武器が出てきて,それを見ているだけで楽しい.そして興味深い.これを監修した人は(監督らしいけれど),よほど幅広い知識をもっていることは間違いない.ちなみに主人公は詠春拳なので八斬刀をメインに使っている.

この映画は,ストーリーよりもアクションを楽しむべき映画なのは間違いないのだけれど,それだけでなく,役者が醸し出している雰囲気,佇まいを楽しむ映画である.そして,カット,撮影法も正統派で,どのシーンも美術的に素晴らしいということもぜひ付け加えておきたい.

★個人的には5点満点中4.8点である(減点は,ストーリーの難しさと,弟子の恋人のダサさで-0.2点)

#舞台の天津というのは武術が盛んで,人々の気がかなり荒かったと言われている

2017年7月20日木曜日

パワエレ動画募集中! --- 電気学会 半導体電力変換技術委員会 コンテスト始まる ---

パワエレ」と聞いて,その内容が思い浮かぶ人は本当に少ないんじゃないかな.「パワエレ」は「パワーエレクトロニクス」の略で,電子工学(エレクトロニクス)で電力(パワー)を制御しようとする工学なのだ.

実は私たちの身の回りはパワーエレクトロニクスであふれていて,たとえばエアコンや冷蔵庫,炊飯器,そしてノートパソコンや携帯電話の充電器など,パワエレが使われていない電気製品なんて見つけるのが難しいくらい.

もちろん発電所から私たちの家庭まで電力を送る「送電」,「配電」という電力分野でも大きな役割を果たしているし,工場のモータの多くはパワエレで制御されている.電車だってそうだし,最近では,電気自動車,ハイブリッド自動車だってパワエレで動いているのだ.

でも「パワエレ」は,だいたい人の目に触れにくいところにある.技術が進めば進むほど,高機能になるけれど,どんどん装置のサイズは小さくなり,重さも軽くなり,ますます人の目から隠れてしまう.縁の下の力持ちといえばかっこいいけれど,正直もう少しだけ陽の当たるところに出てきて,みなさんの注目を浴びてほしかったりする技術なのだ.

そこで,電気学会のパワエレの人たちは考えた.
パワエレの良さ,面白さがわかってもらえる装置を作って,その動画を上げてもらったらどうだろう,と.どんな装置でもいいから,おもしろいことができたらその動画をUPしてもらって,他の人たちにパワエレの面白さをアピールしてもらいたい.そしてまた刺激を受けた人たちが,別の装置を作って面白い動画をUPして欲しい.私たちには思いつかなかったようなアイデアが出てくるかもしれない.

そんな期待をもって,パワエレの動画コンテストが始まりました
(ということで,電気学会半導体電力変換技術委員会に所属する私もお手伝いするべくこの紹介記事を書いています)
賞金もでるようです.
アイデア勝負なので,だれでも賞金獲得のチャンスがあります.
詳細は下記のURLに載っています.
一人でコツコツやる電子工作に飽きた人,ぜひぜひご参加をお願いします.
もちろん,大学,高校,中学,高専のみなさんもお待ちしております.
もしもまた進展があったら,このブログでもご紹介したいと思います.

■電気学会 産業応用部門 半導体電力変換技術委員会
パワーエレクトロニクス動画コンテスト  応募要項ページ

http://www2.iee.or.jp/~dspc/movie.html

※ 海外のパワエレ研究者もいろいろと動画をUPしているので機会をみて紹介してみたいと思います

2017年7月18日火曜日

サルが,イノシシが,そしてクマがでた

私の住んでいるところは自然に囲まれた山奥で,車で走っていても脇からシカがでたり,川ではオオサンショウウオがいたり,散歩していてもタヌキかなにかが木を渡っていたり,といろいろな動物に会うことが多いのだけれど,今年はなにかがちょっと違う気がする.

まずサルの目撃情報が多い.こうした情報は町のメーリングリストで流れてくるのだけれど,今年の春は頻繁に「サルに注意」のメールがきた.

次に,イノシシ.そもそも私の住んでいる町はボタン鍋,すなわちイノシシの肉の鍋が有名で,イノシシも住んでいるのだけれど,人がいるところにはこれまであまり降りてこなかったように思う.しかし,今年はたびたび目撃情報が流れてくる.

そしてクマ.親グマだけでなくコグマの目撃情報もある.道路脇だったり,川辺だったりとかなり民家に近いところで目撃されている.

今年は確かに暑いけれど,なにかこれまでと違うのだろうか.動物,それも大型動物の目撃情報が多いような気がする.昼間も怖いけれど,夜間にクマに出くわしたりしたら,とても逃げられる気がしない.クマにあったら目をそらさずに後ろに距離をとる,などとメールにはあったけれど,とてもできそうにない.散歩するときは,とにかくうるさく音を出して,向こうが避けてくれるように努力するしかないかな.

2017年7月16日日曜日

休日になるとマナーの悪いドライバーが増えるのではないか

今日も自動車に乗ったのだけれど,休日に乗ると腹が立つことが多い.運転マナーが悪い車が多いのである.腹が立つどころか,危なくて仕方がない.本当に困るのである.

今日も,目の前で何度も車線変更する車がいた.車種はレガシーなんだけど,マフラーは明らかに代えてあるような音だった.急にハンドルを切って私の前に割り込んで,少し空いたと思ったら隣の車線へ行き,また前が詰まると私の前に入ってくる.しまいには私もクラクションをならしたけれど,なんとなく「休日の走り屋」なのだろうと推測される.

家族連れの車も怖い.家族と会話に夢中になっているからか,家族にいい格好を見せたいからか,やはり車の流れから外れる運転をする.特にフットブレーキを変なタイミングで踏むことが多い.後ろの車はそのたびにぎょっとする.

今日の昼間は車の量が多かったのでところどころで流れが淀むのはしかたがないけれど,彼らのような車がまた渋滞に輪をかけているのは間違いない.しかし,平日の朝の通勤ラッシュでは,同じように車の量が多いにも関わらず,そうした車は少なく,車はある程度の速さでうまく流れている.みんなマナーをわかっているのだ.それをわからない休日ドライバーが多くなると,無理な運転をする車が多くなるのではないかと思う.

何度もいうけれど,車に乗っていると(特に中途半端な高級車やスポーツカーにのっていると),ドライバーは密室である車内で有能感に満たされて,欲望の抑制が効かなくなりやすい.車を降り,顔と顔をあわせることができる状況で,行列に割り込むことをしようとする人間は少ない.しかし,車の力を借りれば,割り込みをする人間は増えるのである.私はそうした人間にはなりたくない.

2017年7月13日木曜日

妖怪「ヒダリ」は熱中症?

最近特に暑い.
ただ暑いだけではなくて蒸し暑い.

こうした気温と湿度の中,やはり熱中症に気をつけないといけないと思う.
昔もやはり熱中症によって体調を崩す人も多かったのではないかと思う(今よりも涼しく,エアコンもなかったので,もしかしてそんなに倒れる人はいなかったかもしれないとも思うけど).

もしも熱中症などで倒れたり,気分が悪くなったりしたら,昔の人はなにが原因と思っただろう.私は,「ダリ」とか「ヒダリ」とかいう妖怪のせいにしたのではないかと思う.いや,「ダリ」によって力が抜けたり,気分が悪くなったりしたという伝承は,実は熱中症とか,貧血とか,そうした生理現象を指していたのではないかと思うのである.

妖怪のせいにするのは,なにも現代の子供たちだけではない.昔の人も,不可思議なことの原因を妖怪をもちだして説明することによって,ある意味,安心していたということなのだろうと思っている.

2017年7月12日水曜日

「怒る」ということ

今日は朝から怒ることがあり,その後自己嫌悪となった.
「怒る」ことのコントロール(いや,怒らないことのコントロール)は,いまだ難しい.

「怒る」といっても,感情をすべて爆発させるわけでもなく,それなりに抑制しているのだけれど,できれば「怒る」という感情自体をなんとかなくしたいものである.

「怒る」というのは,自分の「失望」,「喪失」等の傷つく感情に対する防衛反応である.そうでもしないと,自分の心が耐えられないのだ.その感情から意識をそらすために心は「怒る」のである.

「怒り」のコントロールに関する理論や書物は山ほど出ているけれど,結局は自分の未熟さに帰結される.まだまだ修行が足りないということなのだ.

しかし,一度でいいから,なにもかも構わず「怒り」の感情にまかせて暴れてみたいと思うこともある.そのときはスッキリするのだろうか.それともやはり悲しい気持ちになるのだろうか.

2017年7月11日火曜日

ミントチョコを試す,ハーゲンダッツ,ベイク

ミントチョコを試すシリーズ.

■ハーゲンダッツミニ,ショコラミント
アイスが白くて緑ではない.予想通りミント味がほのかで上品.チョコの量のバランスもいい.しかし,これがミントチョコかといわれると,ちょっと上品すぎて違うといってしまうかも.でも美味しいことには間違いない.量より質を求める人向け.

■ベイク,ミント
ベイクシリーズで中身がミントクリーム.ミントの爽やかさがあまり感じられない.冷やして食べたほうが美味しいかもしれない.全然ミント感が足りない気がする.食べたあとがものたりない.

もっともっとミントらしいミントが効いたチョコが欲しい.まだまだ探究の旅は続く.

2017年7月10日月曜日

寝苦しい夜,影女をみる

まだ7月だというのに,こんな蒸し暑くて寝苦しい夜.
2階にある寝室の窓のカーテンを見てみると,
月明かりにいないはずの女の影が映し出される.
...影女である.

なんと情緒に満ちた妖怪なのだろう.
音もなく,ただ女の影が映るだけである.

もちろんカーテンを開けても誰もいない.
そもそも人が窓の外に立つなんてありえないシチュエーション.

私はぞっとして,タオルケットを頭からかぶり,ただふるえながら寝るしかない.
でも,夜の蒸し暑さだけは少し減じた気がする.

#鳥山石燕の今昔百鬼拾遺の図版では,女の影は障子に映し出される.
本当に日本情緒あふれる妖怪だ.

2017年7月9日日曜日

趣味はなんですかと訊かれたら,なんと答えよう

「趣味はなんですか」

と尋ねられることがある.まぁ,私が訊かれることは最近はほとんどないけれど,就活中の学生にとっては聞き慣れた質問なのだろうと思う.

クリエイティブな趣味を答えるのがよいらしい.
私の趣味は,読書,音楽鑑賞,映画鑑賞なのだけれど,これらは平々凡々すぎてあまり良い答えではないことになる.受け身のものばかりで自分がなにかを創作するというクリエイティブなところがないからである.そこで,このブログに映画などの感想を書いているわけで,そうすれば少しは自分からなにかアウトプットが出てくるし,そのアウトプットから私らしさも少しは感じられることになるだろう.

合氣道は趣味ではないのかとも訊かれたことがある.しかし,合氣道は趣味と呼ぶには少し重みが違う.もっともっと生活の中に息づいているし,決して気晴らしで行うものでもない.趣味というよりも,哲学と呼ぶべきものである.でもそう答えると,合氣道をやっているからなにか違うことがあるのかなどと訊かれ,困ってしまうので,あまり答えないようにしているのも事実である.「武道」を稽古していると,なにか立派そうなことがあると世間に思われているけれど,それは大きな誤解であると私は思う.素晴らしい人もいるけれど,そうでない人も多い.その点では他の趣味と変わらない.

2017年7月5日水曜日

探偵✕仮面ライダー=仮面ライダーW

平成に入って仮面ライダーは数えるほどしか見ていない.すぐに息子は大きくなってしまったし.それで,記憶に残っているのはフォーゼでも電王でもなく,そしてカブトでもない,仮面ライダーWなのである.

この仮面ライダーW,今度はマンガになるとの記事を最近読んだ.そうなのだ.マンガになりやすい設定.まず物語はバディものであり,ふたりで組んで探偵をするのだ.一人が探偵のハードボイルド(物語内ではハーフボイルドと呼ばれていたが)で,残る一人が超天才の変人.この2人が組んで一人のライダーに変身する.変身時にはガイアスティックと呼ばれるUSBメモリみたいなものをベルトに差し込むのだ.これがなかなかカッコいい.

主演は,桐山漣と今をときめく菅田将暉だった.悪役のボスは寺田農で,かなりの貫禄.その他,映画では吉川晃司もライダーだったりして,私好みの俳優ばかりだった(ラーメンズの片桐仁もゴキブリ怪人役ででていた).悪役のキャラデザインも寺田克也でツウ好み.

そしてなにより探偵ものというのが私の大好きなところ.事件編と解決編の2話完結構成でこれもマンガになりやすいのではないだろうか.とにかく,仮面ライダーで探偵という設定がワクワクさせる(フィリップ風にいうと「ゾクゾクするね」).

マンガはすっかり読まなくなったけれど,このマンガは少し読んでみたい気もする.どんな変身をするのだろうか.それだけでも楽しみ.

2017年7月4日火曜日

伊賀野カバ丸

小学生の頃から私はマンガばっかり読んでいて,中高生になると少女漫画にさえも手を出し始めた.別冊マーガレットは毎月購読していたくらいである.

少女漫画への入り口は,亜月裕の「伊賀野カバ丸」.これが私のコメディマンガのストライクゾーンど真ん中で,以来別マを買うようになり,そして他のマンガにも手を出すようになった.

「伊賀野カバ丸」は忍者として厳しく育てられた高校生のカバ丸が,都会の高校へ転校してきて騒動を起こす物語.厳しい修行のためか,食意地だけははっているのが弱点.ヒロインとのロマンスもあるラブコメである.

そもそも横山光輝の「伊賀の影丸」のパロディだということに気づかない人も多いだろう.「影丸」は忍者マンガの傑作なのだ.

「伊賀野カバ丸」は映画にもなっていて,主演はなんとJACの「黒崎輝」.真田広之やギャバンの大葉健二も共演している.

大学生になってさすがに少女漫画を読むことは少なくなったけれど,それでも「ちびまる子ちゃん」なんて単行本を買って,合氣道部の部室に置いておいたりもした.

最近は少女漫画どころかマンガそのものをすっかり読まなくなってしまったなぁ.

2017年7月3日月曜日

はいからさんが通る,に一抹の不安

最近も,過去のアニメ作品のリメイクが盛んである.私は基本的にリメイクもいいと思っていて,現在のキレイな作画で名作を見てみたいという願いを叶えてくれている.

たとえば「宇宙戦艦ヤマト2199」なんて本当に素晴らしいと思った.美しい画面,そして以前と変わらぬ熱い思い,ノスタルジー.エンディングテーマの「真っ赤なスカーフ」に胸が熱くなった.新しいバージョンも素晴らしい,と感心した.
(「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」も面白そう)

しかし,しかしである.リメイクが失敗してしまいそうな不安がある作品もある.それは「劇場版 はいからさんが通る」である.ビジュアルイメージが公開されたけれども,なんというか現代風.まったく大和和紀テイストが無いのである.紅緒はやっぱりあの顔で,少尉はやっぱりあの顔でなければ,「はいからさんが通る」ではないのではないだろうか.大和和紀が描く画は,親しみやすさの中に気品があって,描かれる女性も男性も素晴らしい美しさである.

「はいからさんが通る」は私が大好きだったアニメで,どれくらい好きだったかというと,いまでもオープニングとエンディングのテーマをカラオケで歌えるくらい(カラオケがなくても歌えるけれど)好きだったのである(南野陽子バージョンも歌えるけれど,いまはそれではない).

マンガも全7巻+番外編が家にあって(妹が全巻持っていた),それをお腹が痛くなるほどヒーヒー笑って読んだものである.アニメでは確か少尉がロシアから帰ってくるところで終わっていたから,その後の大波乱はマンガを読んでいる人だけが知っているのである.本当に愛と涙と笑いにあふれたラブコメの王道,傑作である.

だからリメイクされるのも理解できる.今度は2部作でストーリーの最後まで描かれるらしい.なのにあのビジュアルなのである.う~ん,かなり不安なり.

それでも「はいからさんが通る」が話題になるのはたいへんうれしい.年をとった今でも読んだら,腹を抱えて笑えるかな.それはちょっと不安だけど.

2017年6月29日木曜日

雨降小僧が出そうなこんな夜には,ゆっくりと落語の怪談噺なんて聴いてみたい

雨が,ざぁーざぁー,と降っている.
こんな蒸し暑い夜には怪談のひとつでも聴いて,背筋からぞぞと涼しくなりたいものである.

これからの季節,落語や講談で怪談がもてはやされることになる.
でも,怪談というのは語るのが難しい.聴いている人をわざ怖がらせようとすれば,その魂胆が表に出て聴いている方ががしらけてしまう.

ネットTVで怪談を語る番組をときどき見ていたけれど,怪談家と呼ばれる人にも上手い下手があって,劇的に語ろうとする人ほど,聴いているこちらがしらけて語りの世界から外れ全然怖くない.それどころか,話自体が面白くなくなってしまう.本当に怖いのはむしろ淡々と日常生活の出来事のように語られる怪談である.落語家も講談師も上手の人はただただ語るだけである.

落語の怪談はオチがあるものもあるけれど,本当の恐ろしいだけのものもある.「真景累ヶ淵」や「牡丹燈籠」,「四谷怪談」あたりがそうで,話が長いこともあって「聞かせる」落語家の技量が必要となってくる.いつか生で聞きたいものである.

ということで,雨がざぁざぁと降るこんな夜には雨降小僧なんて現れそうで,それはそれで少し怖くてちょうどいい.幽霊の因縁話だけではなくて,妖怪話なんてのもいいなぁ.

2017年6月28日水曜日

ミントチョコあれこれ

ずいぶん蒸し暑くなってきて,スッキリとした味の食べ物が恋しくなる.
でも甘い甘いチョコレートも食べたい.となると,ミントチョコの出番である.

私はミントチョコが大好きなのだけれど,ここに最近食べたミントチョコを紹介.

LOOK チョコミントダブル
「LOOK! LOOK at me, 照れずに見つめてShall we go!」と新田純一がCMで歌っていたのはもうかれこれ30年以上の前のことになるのだろう.その老舗のLOOKのミントチョコアソート.これは,ミントアイス味(ミントクリームでスッキリする)とミントソースチョコレートクリームの入ったカカオミント味の2種類が詰め合わせされたLOOKチョコ.これはなかなか素晴らしい味.最近のお気に入り.

ダース ミント
「12個入っているからダース」みたいなことを小沢健二が言っていたのはもう20年以上も前のこと.ダースもミント味が出ている.パッケージも少しお洒落に見えるけれど,私的には味はLOOKの方が好きである.ちょっとミントが物足りない感じ.

サクレ チョコミントバー
これは棒アイス.サクレだけにアイスの中に氷の粒が入っていて少しシャリシャリするのが涼しさを誘うのだけれど,これもちょっとミント味が足りない気がする.もっとパンチが欲しい(死語).

ここに挙げた3種類のうち,LOOK以外はどうもミント感が足りないような気がする.私はもっとミント味が強いものが好きなのだ.やっぱりアフターエイトチョコが恋しい.でも,今日も学生が言っていたけれど,ミント味が強いと歯磨き粉の味にしか思えないとのこと.やっぱり関西の人はそう思う人が多いのだろうか.そしてまた別の学生が,「原宿とかで食べてそう」と言っていた.どうもお洒落感がスカした感じを与えるのだろうか.

とにかく,今年の夏はミントチョコを掘り下げてみようと思う.ジャイアントコーンのミントチョコ,ハーゲンダッツのショコラミント,そこら辺を試してみたい.トラブル続きで沈んだ気持ちをスカッとしよう!

2017年6月27日火曜日

トラブル続きで自分の行動を反省する

本当に不幸とトラブルが続いている
今日はとうとう職場のパソコンが壊れてしまった.幸いハードディスクは無事だったようだけれど,何時間をこの対応に費やしたことか.

ここまでトラブル・不幸続きだと,なにかに憑かれたか,祟られたか,などとも思う.

一方で,ここまで続くということは,私の行動にも改善の余地があるということか,とも思う.もっと細心の注意を払って行動するべきなのかもしれない.

あるいはやっぱり超自然的な力がはたらいていて,これから起こる致命的な危機に対する警告なのか,とも思う(靴ひもも突然切れたし).

とにかく,もっともっと注意深く行動していこうと思う.
菜根譚にもある.

天薄我以福、吾厚吾徳以迓之。
天労我以形、吾逸吾心以補之。
天阨我以遇、吾亨吾道以通之。
天且奈我何哉。

天が我を厄災に遇わすのであれば,我は我が道を守って通そう,とある.
今はそういう時期ということか.

2017年6月26日月曜日

トラブル続きで厄払いがしたい

本当にこの1週間,トラブルが続き,悲しいことが起こっている.突然潮目が変わったように不幸が続いている.

日曜日もキッチンの排水口がつまり,たいへんなことになった.夕方まで対応に追われ,おかげでやろうとしていた仕事は全然できなかった.そして本日除湿機が壊れた.

土曜日も大学に向かう道路が人身事故のため三車線のうち二車線が閉鎖され大渋滞を起こしていて,通常1時間かからないところ2時間以上を要した.その他,洗車したそばからボンネットに鳥の糞が落ちていたり(2回洗って,2回とも),靴ひもを締めたら靴ひもがブチリと切れたり,仕事を進めてもやり直しが必要になったり,必要なメールが迷惑メールに振り分けられていて検索にも引っかからなかったり,買い物に行っても所望のものが買えなかったりと,やることなすこと裏目にでて,たいへんに困っている.
(ここには書けない,泣きそうなこともあったりする)
不幸は人の弱みにつけこんで連続的に襲ってくるものである.

こうしたときは,しばらく行動することを諦めて,休むのが一番いいのだけれど,もちろん仕事でそうはいかない.そこで厄払いのために,ダイエット中であるけれど,美味しいロールケーキを買ってきた.気分を変えて明日からまた頑張ろうと思う.

6月30日は夏越の祓であるけれど,厄払いにはいけそうにないなぁ.

2017年6月24日土曜日

交響曲1997 天地人(タン・ドゥン)

7月1日で香港が中国に返還されてから20年になるのだという.そうだ,すっかり忘れていたけれど,1997年,私はこの香港返還を記念して作られたタン・ドゥンの”Symphony 1997”のCDを購入していたのだった(ちなみに金色の紙のジャケットにCDケースが入っていた).

タン・ドゥンは当時,「飛ぶ鳥を落とす」という形容がぴったりの新進の現代作曲家で,オペラ「マルコポーロ」を作曲し世界的な注目を浴びていた.その彼が依頼を受けて(誰から?),香港返還の式典で演奏するための交響曲を作曲したのが,この曲である.

現代音楽といってもこの曲は非常にわかりやすい作品で,児童合唱やチェロのソロ(式典時にはヨーヨー・マが演奏した),古代中国の楽器などがオーケストラに加わって演奏される.第一曲の親しみやすい音楽は,ベートーベンの第九を思い起こさせ,本曲が人類の友好と平和を祈っているのだと思わさせられる.香港の返還に当時は希望があったのだ.

しかし,現在の香港はどうも複雑である.20年経って経済は中国に追い越され,自由も制約され始めた.この先どうなるのかよくわからない.でも20年前には希望があったのだ.それはどこへ行ってしまったのか.

その後,タン・ドゥンは,映画「グリーン・デスティニー Crouching Tiger, Hidden Dragon」や「HERO」(キムタクじゃないやつ)などの音楽を担当したりして大活躍していたのだけれど,最近はあまり名前を聞かない.指揮者としての活動はしているようだけれど,曲の新作は出ているのかよくわからない.才能にあふれていたことは間違いないので,日本にもぜひ来て欲しいと思う.

2017年6月22日木曜日

恐怖心と美意識に縛られないロボットが最も強い

コンピュータ将棋が強くなって人間が敵わなくなってきている.そして,コンピュータが指し示す新手が,将棋界に新しい流行を生み出すようになっている.そんな時代がもう来てしまった.チェス,オセロに続いてとうとう将棋も囲碁も人間はコンピュータに敵わない.あとはコンピュータ同士が将棋を指して,どんどん新しい手を開発していくのだろう.

コンピュータに指すことができて人間が指せない手があるということは,コンピュータが恐怖心をもっていないことに起因しているという.また美意識を持っていないことも大きく影響しているということだった.

人間は恐怖心・美意識に縛られているということである.大きな意味で2つとも「先入観」といえるかもしれない.あるいは人間のもつ文化的な価値観.そうしたものがないコンピュータは自由に発想できる(正確に言うとサーチできる)ということになる.

武術・格闘技の新しい戦術・戦略もコンピュータが新しいものを教えてくれるようになるかもしれないと,私はこの話を聞いて思った.まずコンピュータが私の能力・状態を正確に測定し把握する.次に私のその時の能力を考慮した上で,その状況に応じた最善手を私に教えてくれるのだ.ポータブルコンピュータが現場で教えてくれてもいいし,そうした状況で最善手が打てるように私を訓練してくれてもいい.人間の判断を補助してくれるようになれば新しい技・戦術・戦略が生まれるようになるだろう.

しかし,人間の判断は遅い.そしてよく間違う.したがってそういう状態になったらコンピュータが人間に指示して戦うことが最も効率がよくなることだろう.リメークされた映画「ロボコップ」でもそんな話が出てくる.人間に判断を委ねるスキームは,人間を介さずに敵を攻撃するアルゴリズムにとって代わられる.なぜなら人間の判断を介した戦闘は,コンピュータが自律的に行う戦闘よりも反応が遅く,劣るからである.機械に人間が負けるーーー普通に考えれば当然だけれど,それでも人間は機械を越える能力をもつというロマンを求めてしまう.そんな小説やマンガは山ほどある.

しかし,現実は冷徹である.いつか世の中の戦争はロボットが行うことになるのだろう.人間はロボットにほとんど勝つことはできないから,ロボット同士が戦って勝敗を決めることになるだろう.それはそれで人間が死ぬことがなくなるのでよいことかもしれない.
ただしロボットが人間のために死ぬことを疑問に思わずに,ロボット同士殺し合ってくれるかぎりの話である.

2017年6月21日水曜日

コンピュータが指し示す新たな将棋の世界

藤井四段のデビュー以来負け無しの28連勝で俄然将棋人気が高まっている.その一方で名人がコンピュータに完敗するということも今年になってあったわけで,この先将棋はどうなるか,私もとても興味をもって注目している.

ラジオで将棋のプロが解説していたけれど,もう人間はコンピュータに将棋で勝つことはたいへんに難しい状況になっているらしい.コンピュータソフトもその進化が著しく,1年前のソフトと対戦すれば9割は勝つというほど,毎年毎年強くなっているらしい.

将棋の世界では,この2,3年で戦法が大きく変わってしまったのだという.それはコンピュータに将棋を教えてもらっているところがあるからだという.私も中学生の頃,将棋にすごく凝ったのだけれど(天井をみると将棋盤に見えたものだ.でも大学生になってからは天井は麻雀牌に見えるようになってしまった),まずは定跡を覚えて,手筋を覚えて,なんて感じで本を読みながら勉強したものである.そこでは,まず玉は囲ってから戦うものという暗黙の手順があった.だから矢倉とか穴熊とかミノとかに囲いを組んでそれから攻めたものである.しかし,今は違うらしい.玉はガッチリ囲うことよりも逃げるスペースが広く取れるようにゆるく守るのが流行りらしい.藤井四段も,昨年からコンピュータを導入して,そのような戦法をとるようになってきたという(藤井四段の指し手はコンピュータのものに似ているとニュースでやっていたくらい).

これまでとは全く違う一手を示す.そこから新たな戦法が生まれる.それが現在のコンピュータ将棋の意義なのだろう.しかし,ここで,なぜ人間はそうした手を指すことができなかったのかという疑問が湧いてくる.もう何百年も将棋は指され続けているのに.

その要因のひとつはコンピュータには恐怖感がないということが大きいとその将棋解説者は言っていた.また人間には美意識があるために打ち手が狭められるとも.

恐怖感がないから玉を囲わずに攻めることができる.美意識がないから新たな奇手をうつことができる.人間のもつ制約を持たないコンピュータだからこそ指し示すことができる新たな将棋の世界である.

もう将棋ではコンピュータには勝てないのだから,人間は新しい将棋をコンピュータからインスパイアされる,そしていつかは習うことになるのだろうと思う.

コンピュータには恐怖心や美意識がない.まさに怖いものしらずの強さである.

2017年6月20日火曜日

CRISIS

録画していたドラマ「CRISIS」の最終回を見た.金城一紀脚本,小栗旬主演ということでいえば以前に放送されていた「BOARDER」と同じ組み合わせで,どことなくスッキリしないストーリー展開が似ていたように思う(テレビ局は違うのだけれど).

アクションシーンがなかなか興味深かったのだけれど,使っている武術はシラットやカリらしい.たしかに警棒を使うシーンや相手を抑える技術などはエスクリマ,アーニス,カリ・シラットっぽかった.しかし,それだけではなく仲間内で行う格闘の練習シーンなどでは飛びつき腕ひしぎなども披露されていたから(それも新木優子が技を小栗旬にかけていた!),いろいろな格闘技がミックスされているのだろう.

金城一紀といえば,岡田准一主演の「SP」も企画・原作を担当しており,そこでは岡田准一がJKDやカリなどを披露している(彼はインストラクターの資格までもっているらしい.先日もあの身長なのに胸囲が1mを越えたと言っていた).アクションのリアリティに凝っているらしい.たぶん自身もなにかしているのだろう.

今回のアクションシーンで不思議に思ったのは,小栗旬や西島秀俊が持っていた折りたたみ式警棒の材質・重さである.格闘シーンで犯人の二の腕などをその警棒で叩いているけれど,腕が折れるわけでもないらしい.グラファイト製で警棒はしなうのだろうか.それとも犯人の腕は分厚い筋肉で覆われているのだろうか.もしも私の腕だったら簡単に折れてしまうに違いない.的確に膝の上や肘の上などを狙えば,完全骨折とはいかないまでも,ほとんど動かせなくなるように想像するのだけれど.私はそういう経験もないし,今後もそうしたことは経験したくないので,知りたくはないのだけれど,ついつい画面を見て思ってしまった.

ドラマのために役者のみなさんは相当練習されたに違いない.それもマイナーな格闘技を.それがすごいと思うのである.

#BOARDERは続編があるらしいので期待している.最終回は不思議な終わり方だった

#カリ・シラットと呼ぶべき格闘術だということで,文章を少し修正しました.シラットにもいくつも種類があるので...いや,よくわからないところが沢山ある.

2017年6月19日月曜日

大江千里 Rain を耳にする

先日,車のラジオからどこかで聞いたことのある曲が流れてきた.タイトルは思い出せなかったけれど,誰が歌っているかはすぐに分かった.それは大江千里だった(「おおえのちさと」とか読まない.って,こんなことを書かなければいけないほど最近は知られていないのが寂しい).

歌は「Rain」だった.あとでネットで調べて知った(いや,思い出したというべき).4,5年前に「君の名は」で話題の新海誠監督のアニメ「言の葉の庭」で,秦基博がカヴァーしていたのだという.音楽は全然古びていない.今聞いても素敵なせつない曲である.

大江千里が流行っていた頃,私は高校生から大学生になった頃だった.大江千里は,正直私にはいけ好かないタイプの歌手だった.どうしてかって,まず彼は大学生時代(関西学院大学出身)からスターだったし,なによりも彼には才能があるということも誰の目にも明らかだったし,そしてそれを彼も自分自身で理解していて彼の歌い方にはそれが現れていた.私はその歌い方,姿勢がいやだったのである.彼のファッションも80年代のポップスタイルそのままで好きではなかったし,映画の役も小憎らしかったし(「君は僕をスキになる」とか).まぁ,私にはまぶしかったということなのだろう(当時は「王子様」と言えばオザケンではなく大江千里だった).

とはいえ実は告白すると,私は彼の「redmonkey yellowfish」というアルバムが大好きで,どの曲もかなり聴いていた.80年代,大学生が憧れるポップな世界を感じさせてくれた.当時はそれを言うのが恥ずかしかったけれど.

そんなわけで当時は素直に聞けなかったけれど,先日聴いた「Rain」は思いもかけず心が少し動いた.彼のあの歌い方も,ひとつの魅力に感じられるようになった.私も年を取って,聴き方に余裕が出てきて,良さを素直に認められるようになったということだろう.

最近,彼はジャズ・ピアニストになったということだけれど,もっと彼の作品が評価されてもいいのではないかと思う.でもやっぱり彼の若い頃の歌う姿をみるとこちらがこっ恥ずかしくなるのだけれど.

2017年6月16日金曜日

TGIF!

「花金」である.もうそんなことばを使う人は私の周りにはいない(「花金」は「花の金曜日」という意味である.一応).それでも,多くの人にとって金曜日はウィークデイの終わりを告げる福音であり,この一週間の自分に対してお疲れ様を言いたくなる曜日である(そうでない方,ごめんなさい)

でも,そう思っているのは日本人だけではないようで,アメリカにもTGIFという言葉があり驚いた.TGIFは,"Thank God, It's Friday"の略で,つまりは「神様有難う,花金だ」という意味である.結局,アメリカ人も「花金」を喜ぶということか(というか,週休二日の国の労働者のみなさんはそう思っているのが普通?).

私がこの言葉を知ったのは,"Last Friday Night (T.G.I.F.)"というKaty Perryの歌を聞いてからで,金曜日の夜のどんちゃん騒ぎを後悔している内容である(ちなみにこのKaty PerryのMusic Videoは,バカげていて,下品で,最高にサイテー,いろいろな著名人がカメオ出演しているので一見の価値があるのでオススメ).

一方,SHITという,ちょっと下品な略語もあって,これは"Sorry Honey, It's Thursday"の意味とのことである.こちらはあまり一般的でないらしい.しかし,木曜日のガッカリ感が良く出ていると思う.

とにもかくにも今日は金曜日である.TGIF! 気分をあげていきましょう.
(とはいえ,週末休むとは限らないのだけれど)

2017年6月15日木曜日

刀剣ブームで慣用句も復活するか

なんとも不思議な世の中になった.
若い女性の間で刀剣ブームというものがあるらしい.「刀剣乱舞」というゲームのおかげとのことだが,これまでは一般の人にはほとんど関心がもたれなかった分野に注目が集まるのは嬉しいことである.しかし,刀剣の展示会などで女子が集まっているような場面をニュースで見ると少し異常かなとも正直思う.擬人化された男の子に興味があるというならともかく,本物の刀剣をみて何を思うのだろうか.

とはいえ,刀というものは江戸時代までは町中で見かけられたものであって,私たちの生活の中にも刀に起源をもつ言葉が結構ある.私の合氣道の先生はよくそれをおっしゃっている.

刀の部分に関連した言葉でも思いつくままに書いてみても,

「反りがあわない」
「切羽詰まる」
「鯉口を切る」
「鎬を削る」
「鍔迫り合い」
「目貫通り」
「もとの鞘に納まる」
「鞘当てをする」

などと,たくさんある.と言いたいところだけれど,今の若い人がどれだけこれらの言葉を使っているかと問われれば,はなはだ心もとない答えしかできない.

もしも刀剣ブームが本当であるならば,こうした慣用句も復活して欲しいと思う.

2017年6月14日水曜日

お洒落なチョコミントが欲しい

先日,あるコンビニに寄ったところジャイアントコーンのチョコミントが他の種類に比べ大幅に値引きされて売っていた.喉から手が出るほど欲しかったけれど,ちょっとその時は食べている余裕もなく,泣く泣く買うのを断念した.でも,しばらく時間が経ったのち,なぜチョコミントだけが安売りされていたのかとふと思った.あんなに美味しいのに...でも結局,チョコミントは人気がないのだという結論になった.

私はチョコレートに目がなく(でも,今年の目標は相変わらずダイエットです!),いつか世界のショコラティエの作品を食べ歩くのが夢なのだけれど(楠田枝里子は私の夢をすでに実現しているすごい人なのだ),私だけでなく,多くの人はチョコ好き,いやチョコレートが嫌いな人なんてこの世の中に本当に稀なのではないかと思っている.

でもそんなチョコ好きの人でもチョコミントだけは駄目という人を結構知っている.先日も大阪ではチョコミントが人気がないという記事をネットで見かけたくらいである.私はそれがもったいないと思うのである.

実を言えば,私も昔はチョコミントが苦手だった.大学生の頃である.でも,イギリス名物のチョコレート「アフターエイト」に出会って,その甘くない大人風なオシャレな味に,一気にその魅力に目覚めたのである.「アフターエイト」はチョコレートの中にミントフレーバーが入っていて,スキッとする.でも安っぽくない,歯磨き味ではない辛味があって美味である.イギリスの名物だけれど紅茶ではなくコーヒーに非常に合う味なのである.

以来,チョコとミントの大人な組み合わせが大好きとなった.チョコミントのアイスもその爽やかさの魅力に気づいた.今では全く抵抗がない,どころか積極的に選択するくらいである.

そういえば,ちょっと前の話だけれど,小説ブギーポップシリーズにも「ペパーミントの魔術師」と呼ばれる怪人が出てきたことがあって,その話のファンタジーな展開の中でチョコミントのアイスクリームが大変魅力的に思えてきたという覚えがある.

あの少し蛍光がかった緑のアイスとシックな茶のチョコとの組み合わせ.配色的にもかなりハイセンスである.カラーも味もしっかりと大人向きなのだから,もっともっとオシャレなスイーツとして活躍してもいいと思っている.なのに世間にはどうも安っぽいチョコミントしかなくてガッカリである.誰か本当に上質で上品,オシャレなチョコミントを作ってくれないだろうか.絶対に食べに行く.

いつかオシャレな大人はチョコミントを愛するのが楽しみであるという時代がくるものだと私は信じている.そのときには,私はずっと前からチョコミントファンだと周りに自慢するのである.


2017年6月12日月曜日

太刀と刀

太刀(たち)と刀(かたな)は違うことを知らない人も多い.

太刀は刃を下にして腰帯に吊るして携帯するもので,これを「太刀を佩く」という.一方,刀は時代劇でよく見るように帯に差すもので,刃を上にして差すことになっている.大刀を本差,小刀を脇差と呼び,刀は差料などとも呼ばれる.

一般的に太刀の方が長く,反りが強かったりする.馬上で使うためということらしい.一方,刀は江戸時代以降に武家諸法度によって大刀の長さが2尺程度までと決められていた.でも江戸時代後期の剣豪である平山行蔵などは2尺をはるかに越える3尺8寸の長刀を差していたという話が残っているし,居合の林崎などは3尺を越える長刀を抜いていたと言われているので,実際には法を破っていた人も少なくなかったのではないかと思われる.ただ,刀は反りが強くないので,刃を上にして乗馬すると小尻が馬の尻にあたるので,刃が下になるよう返して腰に差したと言われている.

明治以降,西洋式の軍隊になってからは,また太刀のように刃が下,あるいは前を向くようになっているのは,やはりサーベルを真似たからなのだろう.また馬上での取扱を易くするためだからと思われる.

合氣道の稽古においても,木刀を太刀と呼んだり,剣と呼んだりするので,同じだと思っている人が少なくないのだけれど,一応違うことになっている.ただ私はどちらも本物を持ったことがないので,知識だけなのだけれど.

2017年6月10日土曜日

岸田繁 交響曲第1番 ~いったい「くるり」はどこへ行く?~

「くるり」の音楽性の変遷が興味深いという話を先日書いた.アジアン風な,でも無国籍な音楽に傾きつつあるという印象だった.

そして,ついこの間,「くるり」のメンバーである岸田繁が書いたという「交響曲第1番」を全曲聴く機会があった.岸田繁の多才さを再認識した.

交響曲第1番は,五楽章構成でたぶん演奏に40分~50分くらい要するのではないかという大曲である.初めて聴いた印象は,意外に現代音楽的ではなく(もっと現代風なアレンジをするかと思ったけれど),それでいてベートーベンやハイドンのような古典的な形式でもなかった.私の個人的なイメージでは,国民楽派の五人組やカリンニコフに近い民族的な響きがあったように思う.

古典的な交響曲の形式(急速楽章,緩徐楽章,舞曲,急速楽章ーコーダという流れ)というよりも,マーラーの交響曲のような連続する交響詩といった構成であって,それは岸田繁のマーラー好きを思い起こさせる.

だから,聴き終わった後にスッキリ感というのはちょっと少ない(「ラフマニノフ終止」とまではいかないにしても).しかし,お腹いっぱいという感じはする.それも不味いものを食べた気分はせず,街のおいしい洋食屋さんのメニューをたっぷりと堪能したという感じ.

少しとらえどころのない音楽ではあったけれど,また次に聴いてみたいような気もする作品である.岸田繁の才能にあらためて感動した.

しかし,「くるり」は一体どこへ向かっているのだろうか.無国籍どころではなく,無ジャンルの音楽になりつつあるのかもしれない.

#聴いたのは
岸田繁「交響曲第一番」
指揮: 広上淳一
演奏: 京都市交響楽団
2016年12月に京都で行われた初演のライブ録音だった.

2017年6月8日木曜日

本屋で手裏剣を売っていて驚く

もう1,2ヶ月前のことになるのだけど,梅田のジュンク堂書店(ロフトの前のところ)に新刊をさがしに足を運んだ.その2階ではいつもどおり何かしらのフェアが開かれていたのだけれど,ふとフェアの棚を見ると高松寿嗣氏の写真が飾られていることに気づいた.

高松寿嗣といってもピンと来ない人も多いかもしれないけど,高松寿嗣といえば現代のニンジャマスター初見良昭氏の師匠で,多数の武術・忍術をおさめた伝説の人なのである.

私は驚いて,その棚に近づいてみると案の定,初見良昭氏の写真も飾られている.こちらは有名だから知っている人も多いと思うけれど,世界の忍者を目指す人から先生と仰がれている凄い人なのだ(昔,「世界忍者戦ジライヤ」という特撮モノがあって,主人公の忍者の師匠も演じられている.(ただし声は吹き替えだったような覚えがある).でも,動画などを見れば一目瞭然,すごい人なのだ).

どうも忍者フェアだったらしい.
別の棚を見てみると,なんと種々の手裏剣が売られている.それもジュラルミン製の銀に光る大きな星型の手裏剣が.手にとって見てみるとそれなりに重くて,投げられたら怪我をしそうである.さすがに刃引きはしてあるようだけれど,凶器に十分なりうる.こんなものが書店で売られているとは...複雑な思いを持った.

となりにはラバーナイフなども売られていて,こちらについてはDisarmする技術を練習するためにいろいろな格闘技で使うからまだ理解できるのだけれど,手裏剣は...

もちろん,忍者映画に出てくるような十字平型手裏剣というのは余り使われていなかったと言われていて,根岸流などでは少し特殊な手裏剣を使うけれど(でも棒手裏剣の一種といえるのではないかな),一般的には棒手裏剣がよく使われていたようである(投げ方も直打法).

たぶんコスプレ用あたりなのだろうかとも思うけれど,やっぱり一つ間違えば人に怪我をさせる武器になりうるので,公然と売られているのには違和感を覚える.カバンに入れて持ち歩いていたら職質されても言い訳はできないだろう.

しかし,ジュンク堂は相変わらずマニアなフェアをする.いろいろとジュンク堂オススメの本を買って,「当たり」だったと思うことも多いので,決して悪くは言えないのだけれど.

2017年6月7日水曜日

音無しの剣

眠狂四郎の「円月殺法」はフィクションだけれど,「大菩薩峠」の主人公 机竜之介の「音無しの構え」には実在のモデルがある.それは幕末の剣豪,高柳又四郎の「音無しの剣」である.

机竜之介の「音無しの構え」は,相手と剣を打ち合わせることなく勝ちを得るという恐るべき剣法として描かれているらしいのだが(正直に言うと,中里介山の「大菩薩峠」は未読である.すでに青空文庫にも上がっているのだけれど,あまりの膨大な量に始めの部分を少し読んで怖気づいてしまったのである),実際の高柳又四郎も道場において竹刀を打ち合わせることなく勝負を決めていたというのである.だから彼の剣術は「音無しの剣」と呼ばれていた.

高柳又四郎が在籍していたのは小野派一刀流中西派の道場だというから竹刀で打ち合う稽古が盛んであったことは間違いない.そこで竹刀を打ち合わせることなく,勝ちを得ていたというのだから,相当の腕前である(ただし,高柳が中西道場にいたから彼の流派が一刀流であるとはいえない.他流を学んだ後,別の道場に籍を置くということも比較的普通に行われていたからであり,中西道場には他に寺田五右衛門,白井亨なども在籍していたけれど別に道場主の中西子正に学んだわけではなく,道場主の後見人だった).

果たしてそんなことができるのかと思うけれど,私が稽古している合氣道でも剣を打ち合わせることはないと教わる.鍔迫り合いなんてやってはいけないと.これもいろいろ理由があるのだけれど,とにかくチャンバラ時代劇のように剣と剣を打ち合って火花がでる,なんてことはしないのである.それこそ音無しの剣なのである.

もちろん,剣を普通に打ち合う流派もたくさんあって,例えば新撰組の池田屋事件の際には,沖田や永倉の剣は折れたり刃こぼれしたりしたというのから相当打ち合ったのだと思われる.近藤の自慢の虎徹(と彼が信じている剣)は無事だったらしいけれど.

あるいは馬庭念流は鹿島神流などでは続飯付と呼ばれる鍔迫り合いの技法が確かに存在しているので,別に技法が無いわけではないのである.

しかし,刀の刃こぼれ,折れなどを考えれば刀など切り結んであてることはしないに越したことがないとは私も思う.なので,私は私が習ったとおりに「音無しの剣」を目指して稽古していくつもりである.

高橋英樹さんがインタビューで答えていたけれど,先日亡くなった松方弘樹さんと時代劇で共演した時,一度も刀を打ちあうことなく撮影が終わったのだという.別に殺陣がなかったわけではなく,松方さんが絶妙の太刀さばきで,あと1mmというところで太刀をピタリと止めていたのだという.もちろん刀を痛めないためである.それは撮影の技術なのかもしれないけれど,「音無しの剣」を思い出した次第である.

2017年6月6日火曜日

眠狂四郎「円月殺法」とは

眠狂四郎の剣術といえば,剣を正眼から下段に下ろしそこから円を描くように剣を回す「円月殺法」である.相手はスキだらけのその構えに我慢できなくなり(あるいは光に惑わされて)斬りかかると,後の先をとられて狂四郎に斬られてしまうという技である.

もちろん架空の技なのだ.
そもそもそんなスキだらけの構えなんて怖くてできない.ただ伯耆流の技に似たようなものがあるとの話である.では,原作者の柴田錬三郎は伯耆流をモデルとして円月殺法を編み出したのだろうか.

いやそれも違うと思う.こんなエピソードを聞いたことがある(あいまいだけど).

市川雷蔵(だったかな.とにかく狂四郎を演じようとする俳優)が,円月殺法を映像化するにあたり,柴田錬三郎に尋ねたそうである.

「剣で円を描く時,回す方向は刃から回すのでしょうか.峰の方から回すのでしょうか」

柴錬は,「そんなこと考えていなかったよ」と答えたらしい.結局,なにかの形をを見てモデルにしたということではなかったということだろう.小説では細かなことを書かなくてもヒーローは敵を斬ることができるものである.

ちなみに市川雷蔵も田村正和も円月殺法は,下段に下ろした剣を一度その場で刃を返し,その後,時計と反対方向に峰の方からゆっくりと回していくことになっている.

2017年6月5日月曜日

田村正和が「眠狂四郎」を演ずるという.期待せずにはいられない

田村正和が「眠狂四郎」を演じるのである.
もう二十年以上ぶりなのではないだろうか.これは期待せずにはいられない.

「眠狂四郎」といえばもちろん映画では市川雷蔵の当たり役であるけれど,TVシリーズでは田村正和の匂い立つような色気のある「眠」が人気だったらしい.私がリアルタイムで見ていたのはその後のスペシャルで作られていたものだと思う(私にとっては「時代劇スペシャル」の「乾いて候」の腕下主丞の方が馴染みが深い).暗い過去を背負った狂四郎は田村正和のはまり役で,個人的には市川雷蔵よりも思い入れが深い.

田村正和演ずる狂四郎の魅力は,なんといってもあの鼻にかかった声によるセリフ回し.狂四郎が淡々としかし熱く悪党どもの非を糾弾するのだけれど,一種の節回しがあって,講談のように流れるように語られる.それも顔を少し下向きにし,身体はほとんど動かさずに語る.これが田村正和なのだと思わずにはいられない,独特のオーラがそこにある.

殺陣も田村正和スタイルである.華麗な太刀筋,そして斬ったあとの身体を斜に構えつつも刀が下段で生きている.すべて計算しつくされた動き,ポーズ.田村正和以外の誰があのような殺陣ができようか.それほど独特の殺陣なのである(「鳴門秘帖」や「乾いて候」でも田村正和スタイルの殺陣を披露していた).

とにかく,田村正和は田村正和であって,時代劇のヒーローを演じていても田村正和なのである.そして,その田村正和がまた「眠狂四郎」を演じるというのである.これが期待せずにはいられようか(今回の相手役の名取裕子も大好きだし)

ただ心配なのが,彼の齢もすでに73歳ということ.殺陣もそうだけれど,顔のアップに彼の老いを感じてしまったらどうしようかと怖くもある.私の夢がこわれないで欲しい.でも田村正和が「演る」といったのだから,彼なりの自信はあるのだろう.それを見届けることがファンの務めであると思っている.

2017年6月1日木曜日

ステーキを食す.しかし寄る年波に勝てず

一昨日は珍しく東京に出張していて,午後からの用事だったので,昼食を浜松町で食べた.そしてこれも珍しく体調が良かったので,思い切って昼ご飯にステーキ屋に入った.「いきなりステーキ」である.さすが人気チェーン店ということで混んでいたし,人の回転も速い.ただ私は幸運にもすぐに座ることができた.

注文はランチメニューのワイルドステーキ.一番大きくメニューに書かれていたのは300gのものだったのだけれどとても挑戦する勇気がなく,200gを注文.それだって私にとっては大きな冒険なのだ.

しかし,鉄板に焼かれて出てきた分厚いステーキを見て,やっぱりもっと小さいものにすればよかったと大後悔.ステーキを見るだけでお腹が一杯になるどころか,気持ち悪くなりそうだった.

でも,ひとくち食べたら意外にいけて,最後の方は少々喉につかえてはいたけれど,完食することができた.食べ終わって,ふぅ~と一息.これでも昔は1ポンドくらいペロリと平らげることができたのだけれど最近はちょっといけない.やはり寄る年波には勝てないのだろう.脂っぽいものに滅法弱い.焼き方も昔からレアが好きだったのだけれど,最近はミディアム・レアとなってきて,どうも若い頃とは量も嗜好も異なるようになってきたようである.

さて,私が200gのステーキと格闘していると,目の前の席に女性が一人やってきて,メニューを見て一言オーダー.

「ステーキ450gで.でもご飯は少なめで」

言葉を聞いただけでこちらの胃が重くなった.肉は食べてもロカボなのだ,とも感心する.そして,やがて私の横を通り過ぎていった450gのステーキを見てさらに満腹感が増幅.その厚みと大きさに「スゲー」と心のなかでつぶやいた.しかし,その女性はなんの気負いもなくナイフとフォークを使って食べていた.一方の私はすっかりステーキも食べられないオジイさんになったのだと再認識した.

それでもその日の昼食には大満足.お腹の調子を整えつつ東京タワーの下の機械振興会館まで歩いた.その散歩でなんとか救われて,午後からの会議にも無事出席できた.増上寺を通り抜け,東京タワーを見上げる食後の散歩も良かったのだけれど,一方でもうしばらくはステーキはいいかな,とも思ったのも本心である.

2017年5月29日月曜日

「L」のマークの車が怖い

人は健全な自己肯定感をもつことが大切であって,これを損なうと心の安定を失う.

「うつヌケ」(田中圭一著)を読んでもそのように書いてあった.この自己肯定感をうしなうと,すなわち自分が嫌いになると「うつ」になりやすいと.

武道においてはこの自己肯定感がなければ,到底真剣の場に立つことはできないだろう.心身の修行は自己肯定感をもつために行っているのではないかと最近思っている.

しかし,過剰な自己肯定感,あるいは有能感は害となる.卑近な例だけれど,自動車を運転すると過剰な有能感にひたれるらしい.毎日,ここかしこでそうした乱暴な運転を行っている車を見かけるけれど,運転手の姿を見るとどうも見た目は普通そうな人が多い.見るからに危なそうな人というのはめったにいない.どこにでもいるような人が,車という密室空間の中で,自分ではなくその車の性能によって有能感に浸っているのではないかのように思われる.もちろん,運転自体を楽しむ人もいるだろう.しかしそうした人たちは朝の渋滞で無謀な車線変更を繰り返し,みんなを恐れさせるような運転はしないのではないだろうか.

私の個人的な感想だけれど,やっぱり性能の良い車に乗っている人は危ない運転をしている率が高いような気がする.乗っている車のクラスがベンツやポルシェまでいくと,そんなに乱暴な運転をしている人は少ないような気がするけれど,やはり走り屋仕様のような格好の車は怖い運転をする.そして,これこそ個人的な印象だけれど,「L」というマークが入った車が一番怖いと思っている.初老の男性が運転している場合が多くて,運転も荒い.後ろから迫ってくると「来た来た」と警戒してしまう.

もしも混雑している人々の中であんな歩き方,走り方をしていたら,だれかが注意するだろう.いやそんな歩き方をそもそもしないに違いない.素のままの自分ではそのようなことはしないのだ.車という機械で身を固めたときに有能感に満たされ,行動が荒くなるのである.車の運転には人の本性が現れるという.怖い,怖い.

2017年5月27日土曜日

「くるり」はどこへ行く?

長年続いているバンドというのもたくさんあって,私が好きなバンドもいくつかあるのだけれど,だいたいが時が経つにつれ音楽は新しくなってきているけれどコンセプトは変わらないというバンドが多い.

たとえば,TRICERATOPS.彼らの音楽は時代につれて新しくなっているけれど,以前から「踊れるロック」というコンセプトは変わっていない.そこが大好きなのである.

また,アジアンカンフージェネレーションだってそうだ.以前に出したアルバムを10年以上を経て,そのまま再レコーディングして発売している.もちろん音楽はいまにあったものに変わっているだろうが,彼らのコンセプトは変わっていないことを示しているように思える.

そんなバンドが多い中,私の好きなバンドの一つ,「くるり」が最近向かっている方向がよくわからない.これからどこへ行こうとしているのか,気になっている.

「くるり」といえば,「東京」,「ワンダーフォーゲル」,「ばらの花」などの比較的初期のイノセントな曲が好きだったりするのだけれど,リリースされた曲を聴いて驚いたのが「Liberty & Gravity」である.聴いてもらえばこの曲の不思議さがわかってもらえると思うのだけれど,なんというか,無国籍感そして少し笑いを含ませたような曲になっていて,それでいてセンスの良さが損なわれていない,ギリギリのところで曲が成立しているのである.初めて聴いたときは思わずニヤついてしまった.

そして昨年リリースの「琥珀色の街、上海蟹の朝」.これがまた素晴らしい.ふざけたような歌詞を中毒性のあるわかりやすいメロディーに乗せて歌っている.わらっちゃうような,せつなくなるような,そしてクールな絶妙の音楽である.

初期のようなピュアさが薄まって,独自の世界に入っていこうとしていることは確からしい.アジア風になっていくことで逆に無国籍を感じさせる不思議な音楽である.こんな音楽を目指している「くるり」.ますます好きになってしまう.

2017年5月25日木曜日

「ちいさい」ではなく,「ちっさい」

学会などの発表の場において,この人は関西の人だなぁと思うことに,「小さい」という形容詞の発音がある.

関東では「ちいさい」と発音するが,どうも関西では「ちっさい」と小さな「っ」が少しだけ強調されて発音されることが多い.

「小さくなる」も「ちいさくなる」ではなく,「ちっさくなる」である(私の心情的には,「っ」ではなく,「ちッさくなる」と「ッ」を使った方が近い感じがする).

発音が気になり始めると,ますます気にしてしまう.学会の発表において関西弁で話す人は見たことがないけれど,こんな細かいところに関西の人の片鱗が垣間見えるのだ.

私も関西に来て十数年経つけれど,「ちっさい」とは発音はまだできないようだ

2017年5月24日水曜日

Vodka Martini, Shaken, Not Stirred.

James Bondを演じていたロジャー・ムーア氏が亡くなったそうである.正直,彼の007はそれほどカッコいいと思ったことはないけれど,広川太一郎氏の吹き替えでユーモアあふれる,それでいて上品なボンドであったことは間違いない.キャノンボールなんて映画への出演も洒落ていた.多くの人に愛されたボンドだったろう.

彼の演じたボンドも言っていたかどうか,覚えが定かでないけれど,ボンドが飲むカクテルといえば
"Vodka Martini, Shaken, Not Stirred."
であって,いつか私も言ってみたいと思うセリフである.まあ,実際のカクテルバーに行った際にはとても恥ずかしくて言えないけれど.

カクテルの専門家が話していたけれど,やっぱりかき混ぜたほうがオーソドックスとのことである.ただ下手なバーテンダーがかき混ぜると不味いので,それでNot Stirredと言っているのではないかなどという話.

ダニエル・クレイグの「カジノ・ロワイヤル」では,Vesperという愛した女性の名前をつけたカクテルということになっている.私は彼のボンドが一番好きなのだけれど,ポーカーのシーンで彼がカクテルを頼むところがかっこよくてたまらない.同じカクテルは頼まないけれど,私もバーでかっこよく振る舞いたいものである.居酒屋ばかりでこの20年近くはカクテルバーには行ったことがないような気がするけど...

2017年5月23日火曜日

夏夏冬冬

今日は,電気学会の調査専門委員会に参加のため梅田に出た.
梅田から堂島の中央電気倶楽部まで20分ほど歩くことになる.今日は暑くて汗が出た.まだ5月というのにもう夏のような気がする.いったい春はどこへ行った?

年々,春だなと思う時期がどんどん短くなっているような気がする.秋もそうだ.夏が終わったらすぐに木枯らしが吹いているような気がする.日本からは春と秋がなくなりつつあるのではないだろうか.

以前,中国の成都から来た留学生が,私の故郷は夏と冬しかないと言っていたのを思い出す.それを聞いたときは,それはお気の毒に,と思ったものだけれど,いつの間にか日本も同じような状況になってしまった.春夏秋冬の四季ではなく,夏夏冬冬の二季だ.

世の女性にとって春服を着る季節があまりにも短くなってしまい,かわいそうな気がする.男はTシャツさえ着ていればいいのだけれど.

そして私は,ストーブを片付けるタイミングを逃してしまった.そんなことを言っている間に次は梅雨がやってくるのだろう.衣替えもまだ十分ではないというのに...

2017年5月22日月曜日

最近の音楽の流行りはこんな感じ?

最近,なんとなく気になる音楽の流行がある.グループ名でいうと,

Suchmos
Nulbarich
cero

あたり.
なんとなく薄暗くて,それでいてグルーブ感がある.とにかくカッコいい.
マイルスのKind of Blueあたりのモード・ジャズを私は思い出す.どこか醒めた都会的なカッコよさがある.

どのバンドもすごく若そうなのがまたいい.どこかのオジサンたちが懐古趣味でやっているわけではなく,若い人が彼らの感覚でカッコいいと思うことをやっているところがいい.私のようなオジサンも,もう四の五の言わずに,彼らが奏でる音楽のグルーブ感を愉しめばいいように思う.

彼らっぽい音楽が最近増えているような気がする.このさき,昔の90年代の渋谷系みたいな大きな流行りになっていくといいな,と思う.

#BEAMSが作った”TOKYO CULTURE STORY|今夜はブギー・バック(smooth rap) in 40 YEARS OF TOKYO FASHION & MUSIC|presented by BEAMS”という秀逸な動画があって,その画と音楽のクオリティが素晴らしいのだけれど,Suchmosを最後のあたりにもってくるところがニクい

2017年5月20日土曜日

ハンドスピナーはフライホイール

ハンドスピナーことFidget Spinnerが日本でもじわじわと話題になってきた.なんのことはない,たいへん低損失のボールベアリングで回るフライホイールなのだ.

フライホイールとは日本語で「はずみ車」で,重さをもった円盤(あるいは円環)を高速で回すことによって力学的なエネルギーを貯蔵するものである.例えば,自転車の後輪を浮かせてペダルをぐるぐる回す.ある程度回転速度が高くなるとペダルから手を離しても車輪はしばらく回り続ける.あれである.車輪にたまったエネルギーはベアリングなどで消費され,速度はゆっくりとなりやがて止まる.これは貯蔵エネルギーがゼロになったことを示す.

あるいは木くずに木の棒を押し当ててぐるぐる回す火おこしをご存知だろう.棒の先に円盤がついている器具をみたことはないだろうか.その重みで回転させるのが楽に感じるようになる仕掛けである.太古の時代より,人類はフライホイールにお世話になってきたのである.

核融合のための臨界プラズマ試験装置JT-60では,巨大なパルス電力を使用するため予めフライホイールを回してエネルギーを貯蔵しておき,必要なときに一気に放出する電源システムになっている.フライホイールも巨大で,確か直径6.6m,厚さ0.4m,重さ107トンの鉄のディスクを6枚縦に積んで,それを発電機の回転子に直結して使用している.発電機とあわせて貯蔵エネルギーは8GJ.そのうち4GJを1回のパルスで放出できるシステムだ.もうこんな大きなフライホイールは作れないかもしれない.ちなみに直径の大きさは製鉄所の炉のだったか,鍛造機だったかの入口の大きさで決まったとのことである.

フライホイールの良さは,単純かつ高繰り返しに強いことである.一方,欠点は待機電力が大きいこと.使わないでただ回っているだけでもそれなりの電力が必要となる.JT-60のフライホイールの回転速度は600rpm,周速は音速の2/3にも達するということだから相当の風損がある.約1000トンを支える軸受も大きな損失を生じる.しかし,これほど堅牢で長寿命のエネルギー蓄積装置はそうそう見つからないのである.バッテリーもキャパシタも敵わない.

宇宙戦艦ヤマトは波動エンジンを始動するときに,まず補助エンジンにてフライホイールを回転させ,それを接続することで波動エンジンを起動させていたような描写がある.「フライホイール接続,点火!」というあの島大介の掛け声(?)である.あのころはフライホイールは身近だったのだ.先日,豊中キャンパスで1年生を中心としたクラスの講義でフライホイールについて尋ねたら知っている学生はほとんどいなかったのだが...

とにかくハンドスピナーを見て思うのはフライホイールである.世の中の子供たちがフライホイールにもう少し親近感を持ってくれるとうれしい.

2017年5月18日木曜日

キカイダー01は太陽電池で動いていた

今朝,キカイダー01の主題歌をたまたま耳にした.歌詞を聞いて驚いた.キカイダーはご存知の通り,身体が赤と青に塗り分けられた人造人間なのだけれど,頭部は透明のカバーがかかっていて,内部の機械が透けて見えるようになっていた.私はそれが単なるデザインだと思っていたのだけれど,なんとキカイダー01はこの頭部に取り付けられた太陽電池によって動いているという設定だったらしい.歌詞にも「光り輝く太陽電池」とあった.

まず太陽電池が輝くというのはあまりよくない.それだけ光を反射してしまい,受光するエネルギーが減ってしまう.つや消し黒が良いのではないだろうか.

そして何より太陽電池が小さすぎるのが問題だ.例え頭部全体が太陽光を受光するにしても多分その面積は頭囲60cmとして円周60cmの円の面積はだいたい300cm^2 = 0.03 m^2となる.これが必要な電力に対してかなり小さいのだ.

日光のエネルギーはどのくらいなのかご存知だろうか.実は晴れた日の正午でだいたい地上1m^2あたり1000W~1200W程度と言われている.現在の太陽電池の変換効率が17%だとしても170W程度しか電力に変換できないことになる.1000Wのドライヤーひとつ駆動できないのである.

さて,キカイダー01.太陽電池の効率が将来の量子ドット太陽電池などが実現されたとして60%くらいまであがったとしよう.それでも,頭部の太陽電池で発電できるのは,0.03 m^2 * 1200 W/m^2 * 60%/100 = 21.6 Wということになる.たかが20Wなんて,蛍光灯ぐらいしか使い物にならない電力である(現実的な変換効率15%では約4分の1の5Wしか発電できないことになる.iPhoneの充電くらいにしか使えない).

馬力に直すと,1馬力 = 735 W程度だから,21.6/735 = 0.03馬力でしかない.そんなパワーで敵を倒せるのだろうか?

いや,そもそも人間の1日の必要カロリーが2000 kcal =8.4 MJとして,24時間*60分*60秒 = 86400秒で割ると,平均97 W程度.すなわち人は平均100W で動いていることになり,キカイダーは人間より少ないカロリーで動いていることになる.これじゃ,人よりも大きな力を出せるはずがない.もしも24時間充電できたとして,8.4MJを1秒間にパルス的に放出できれば8.4MW=11428馬力だせるけれど,1秒で敵を倒さなければならないのみならず,86399秒は静止して充電していなければならないのである.これじゃ地球は救えない.

しかし,子供の頃からこんな話を見聞きしてきたのだから,普通の人が太陽電池に過度な期待をしてしまうのも仕方ないのかなと思う.たぶんキカイダー01も,どこかのプラグインハイブリッド自動車と同じで太陽光発電は単なるお飾りで,実はコンセントを差し込んで充電していたに違いない.

ちなみに鉄腕アトムは10万馬力.動力源は原子炉である.

2017年5月17日水曜日

元気,根気,勇気

アントニオ猪木は,

元気
根気
勇気

が大切だと言った.
なにごとをするにも元気が大切だと最近つくづく思う.私はずっと元気がなかったようだ.昨年の後半からようやく元気が出てきた.こうしてまたブログも書き続けることができるようになった.

根気も育ってきた.おかげで勇気も湧いてきた.
まったく,アントニオ猪木の言うとおりだ.
単純だけれど,大事な話だ.

2017年5月16日火曜日

Gun fu

この前に挙げた興味のある映画はみなヒーローが魅力的で超人的な強さを発揮するのだけれど,それぞれが使う格闘技は別である.Jack ReacherはKFM,Jason Bourneはカリといった具合である.しかし,John Wickは謎である.いろいろな格闘技がミックスされているようだけれど,どうもはっきりしない.しかし,彼のアクションが他に比べ最も映画にぴったりで流麗のように思える.

彼のアクションは最近よく見かける (?), いわゆるGun fuである.すなわちガンアクションとカンフー(実際は他の格闘技)との組み合わせでもっとも派手に,流麗に行われるアクションなのである.

最初に話題にのぼったのは,たぶんマトリックスあたりだと思うけれど,ひとつの究極の形を示したのは「Equibulium」のGun kataである.主演のクリスチャン・ベイルが,ある意味笑ってしまうようなすごいアクションを披露している.これは少しやりすぎだと,私も観たときに思ったけれど.

それに比べると,John Wickはもっと現実的なアクションになっているように見える.銃や格闘技だけではない,カーアクションにおいても芸術的な画をみることができる(そもそも使われている自動車自体が芸術品なのだけれど).すべてが複合的に組み合わされて,息もつかせぬアクションを実現している.アクションの流麗さでいえば,John Wickが最も優れていると私は思っている.

ということで,Chapter2が早くみたい.無敵の引退した殺し屋という設定がなによりもキアヌ・リーブスに似合っている.あんなカッコいい男,そうそういない.

2017年5月15日月曜日

雑誌「秘伝」に見る格闘技のはやりすたり

ついこの前,映画「アウトロー」を観て,そこで使用されていた格闘技「キーシ・ファイティング・メソッド,KFM」が気になったと紹介したのだけれど,本屋で少し手にとってみた今月の「秘伝」(というDeepな雑誌があるのだけれど)に,なんとKFMがデカデカと紹介されていて驚いてしまった.シンクロニシティというよりも,KFMがそこまでMajorになっていたということに気づかなかった私が遅れているのだろう.

しかし数年前の「秘伝」では,たしかシラットかカリなどが紹介されていて,これからジークンドーやクラヴマガに次いで東南アジア系の格闘技が流行るのではないか,という記事だったように思うのだけれど,格闘技の世界にも流行り廃りがあるらしい.今月号は,KFMの他に,クラヴマガと詠春拳の現代バージョンが紹介されている.

流行り廃りがあるとはいえ,「秘伝」においては,システマがずっと注目されていて,その他は古流の空手や意拳などが紹介されている.昔の紙面は,全国各地に伝承されている古流武術の紹介が多かったように思うのだけれど,現在は読者が実体験をできる格闘技,あるいは心身の操作法に関する記事が多くなっているようだ.ずいぶん雑誌のスタイルも変わってきたことに気づく.

しかし,このように伝統武術,古流,そして新しい格闘術と紹介しているけれど,こうしたベクトルに興味のある人々は,スポーツとしての空手,剣道,柔道をずっと練習してきている人口に比べてどれだけいるのだろうかと疑問に思う.たぶん「秘伝」という雑誌が潰れなくて済む程度の需要を生む人口はあるのだろう.そうした人々が単なる武術オタクでないことを期待したいと思うのだけど.

2017年5月12日金曜日

邦画にヒーローは生まれにくいのだろうか

相変わらず映画界では二匹目のドジョウをねらって,前作のヒットを受けたシリーズ化が盛んである.バイオハザードのように6作(?)も作られたものもあるし,スターウォーズのようにこれからもまだまだ続くシリーズもある.だいたい2作目は1作目を越えられないということが多いのだけれど(もちろん,そうではないものもある.ターミネーターとかゴッドファーザーとか),そうであったとしても気になっているシリーズ化された映画が数本ある.

Jack Reacher: Never go back
Jason Bourne
John Wick: Chapter 2

どれもヒーローの名前を冠した映画である.共通しているのは,ヒーローの超人的な強さ・賢さである.やっぱり男たるものそうしたものに憧れてしまうのだ.

そしてアクションのリアリティ.どの映画も戦闘シーン(銃撃戦,格闘)のリアリティを追求していて,そこらへんの工夫を楽しみにしている(実際は映画用にいろいろと演出されているのだけれど,そこらへんを見つけるのも楽しみのひとつだ).決してCGに逃げていないところがうれしい.

しかし観てみたい映画に邦画が含まれていないのが寂しい.強力なヒーローが邦画では生まれにくいのだろうか.もう座頭市のような時代劇シリーズもないし.ハリウッドのような大作でなくとも面白いものは作れると思うのだけど...誰か新しいヒーローを作ってくれないだろうか,と切に思う.

2017年5月11日木曜日

老化はあの世に旅立つ準備

歳のせいか,最近もの忘れをすることが多くなった.三歩も歩けば,何を考えていたのか忘れてしまう.トリ同然である自分に気づき,呆然とすることもしばしばである.

老眼でモノもよく見えなくなってきた.もともと近視でもあるから,目の焦点が合う距離が限られてきて,対象物をもって手を離したり近づけたりして調整する必要がある.

そして耳もずいぶん遠くなってきた.大事な話が聞こえない.どうも最近は悪口を言われてもそれさえも聞こえなくなってきたようだ.

こうした心身の老化は,実はあちらの世界に行く準備を少しずつ整えていることではないかと考えるようになってきた.この世に未練を残さぬよう,嫌なことを見たり聞いたりしなくなり,その上で多くのことを忘れることによって,綺麗さっぱりあの世に行けるのである.

老化はゆっくりとした死への準備である.

以前にも書いたが,村上春樹の小説「タイランド」に興味深いセリフがある.

「これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです、ドクター」

とうとうそうしたことを真剣に考える年齢になった.でも,それを静かに受け入れることができる歳でもある.

2017年5月10日水曜日

キーシ・ファイティング・メソッド KFM

昨日,ちらりとテレビで「アウトロー」が放映されているのを見た.私は実はこの映画が大好きで,第2作の「Jack Reacher: Never Go Back」も気になっている.トム・クルーズもこのシリーズが好きそうで,自分の世界をまた作っている.

主人公のJack Reacherは,陸軍のヒーローだった男で現在は引退している.でも格闘技と射撃の腕前は依然としてすばらしく,また記憶力も推理力も人一倍優れている男である.

映画の内容についてはこれくらいにして,今回の話題は彼が映画の中で使っていた格闘技である.たぶん「キーシ・ファイティング・メソッド (Keysi Fighting Method, KFM)」と思われる.これを最初に目にしたのは,クリスチャン・ベイルが主演をつとめた「バットマン」シリーズの戦闘シーンでなのだけれど,肘と前腕部をスペース小さく使い,効果的に相手の攻撃を防御し反撃するのが特徴で,ちょうど動きにくいバットマンスーツを着て行うのにはちょうど良い格闘技なのである.

今回のトム・クルーズもたぶん相当練習したのだろう,KFMをうまく使ってバーで絡まれたあとのファイトシーンなどで,そのアクションを披露している.なかなか実際的な技である.肘の使い方でいうと,八極拳にも少し似ているような気もする(柳生心眼流とはちょっと遠いかな).

これだけハリウッドでも流行っているのであれば,たぶん日本にももうあるだろう,と思って検索してみたら,やっぱりすでに教室があるらしい.そのうち,私の周りにも体験した人が出てきそうである.

2017年5月9日火曜日

青くさき新緑の毒素は世に満てり

もう夏かと思うような暖かさ,いや暑さが続いている.まだ5月なのに.
山は新緑と呼ぶにはもう遅いような黒々しさをもっている.

このように力強い緑色が山々に映えるようになってくると,緑が快いなんてとても言えなくなる.あまりの緑の荒々しさにむせかえるようだ.

以前にも同様なことを思った詩人がいたらしく,「新緑の毒素」などという詩を書いている.それは高村光太郎の「レモン哀歌」に収められている.

青くさき新緑の毒素は世に満てり

高村の気持ちもわからないではない,今の季節である

2017年5月8日月曜日

戸隠神社,天手力雄命,龍神

私の家の近所に戸隠神社があることに最近気づいた.戸隠といえば,私も大学時代,部の合宿で行ったことがあるけれど,長野県の戸隠がオリジナルのはずであって,こんなところに戸隠の名前があると知って,たいへん興味深く思っていた.

そして先日,ゴールデンウィークということもあって,その戸隠神社に散歩に出かけた.近所だと思ったら意外に遠く,たぶん4, 5 kmは歩いたように思う.行ってみると参道の両脇の杉の木はずいぶんと立派だったけれど,石段を登ったさきにあったのは小さな社だった.しかし社はなんと400年近く前に作られたものらしい.もちろん修理復元されているものではあるけれど,一部はその時代のものが使用されているとのこと.意外にすごい建築物だった.

祀られているのは「天手力雄命」.これは本家の戸隠神社と一緒である.長野の戸隠山は,そもそも天手力雄命があけた天の岩戸が勢い余って落ちてきたものが始まりとされていて,山そのものがもともと御神体だったと言われている.今回訪れた戸隠神社も2百数十年前に山腹から遷宮されているというから,始まりはやはり山がご神体だったのかもしれない.

そして,天の岩戸が落ちたときの音に応じて現れたのが九頭龍神とされていて,長野の戸隠神社では龍神が祀られている.一方,近所の戸隠神社にはさすがに龍神の摂社はなかった(一つ祭神不明の小さな社があったのでもしかするとそうだったかもしれないが).しかし,その近所には龍神が祀られている神社が存在しており,そこに戸隠神社と龍神との縁を感じる.ただし,そちらの方はもともと地元を流れている川自体が崇拝対象になったような気もする.

意外なところに意外な神様が祀られているのが面白く,昔から神社をまわるのが好きだ.しかし,近年は神社ブームで人が多く,まわるのが億劫になっていた.今度は近所の神社めぐりが良さそうだ.


2017年5月3日水曜日

相手の攻撃をかわす能力こそ

合気道をはじめとする型武道において最も問題なのは,相手の攻撃をかわすことであると最近思っている.空手のような打撃系の武道であったとしても,相手の攻撃をかわすことは難しい(だから相手の突きや蹴りがあたることになる).しかし,空手では稽古の中で攻撃をかわすことは普通のこととして練習するから,それなりのかわし方(受け方)を身につけることになる.しかし,合気道のように約束された攻撃しかしない稽古を中心に行っていると,相手の攻撃を待つときにスキだらけになるだけでなく,相手の攻撃をかわすことができない人が多くなる.これは仕方がないことである.

合気道のように技をかけること自体が難しい武道では,その技を中心に練習することが当たり前となる.たとえばポピュラーな「小手返し」という技でも,相手の小手を持てたとしても相手を投げることはなかなかに難しい.だから相手の小手を持ったところから技を練習することも多くなる.一方で,相手の攻撃をかわす練習は少なくなってしまうのである.練習していないことができないのは仕方がないのである.

しかし,たとえ小手を持って技を完璧にかけることができるようになったとしても,その前に殴られたり蹴られたりしたら終わりなのである.もちろん身体が丈夫であれば多少相手の突き蹴りがあたったとしても倒れることはないかもしれない.しかし,相手がナイフなどを持っていたとしたら,身体が丈夫だといってもあまり役に立たないのである.

では空手ならば大丈夫なのかといわれてもそれも難しいように思える.たとえ一撃で人を倒すことができる突きを身につけたとしても,それを相手に当てる前に殴られてしまったら終わりなのである.結局,相手の攻撃をかわす能力がなければ,自分がどんなに強力な攻撃力をもっていたとしても,その力は無駄になるのである(もちろん,「先手必勝」で先に攻撃することもあるけれど,それはそれでいろいろと問題が起こる).

では合気道や他の型武道においても,自由組手のような稽古を中心としてやるべきかという話になるけれど,私はそれもちょっと違うと思う.自由組手のような稽古を中心に行うと,精妙な技術を身につける前に,一定の間合いでドツキ合いになることが多くなって,結局力とスピードの体力勝負の技術ばかりが身についてしまい,その先に進みづらくなるのではないだろうか.せっかく精妙な技術が伝承されてきたのに,力とスピードの世界にまた後戻りになるのであればもったいない.年齢とともに弱くなっていくのであれば,それは武術と言えるのだろうかと思う.

ではどうすればいいのか.それは私もまだ解決できないけれど,剣豪 寺田宗有のように型稽古の中でもその技術は研鑽できると信じて稽古するしかない.でもそうでなければ武道を稽古する意味がないのではないかと思う.

#もちろんできる人はできます

2017年5月1日月曜日

研究室公開で一般の方々に研究内容を説明する

昨日,今日と,大阪大学は「いちょう祭」という一種の学祭が開かれており,吹田キャンパスでは研究室公開がされていた.阪大への進学を考えている高校生をはじめ,近隣に住まわれている方々にも足を運んでいただいている.

うちの研究室では,来室された方々への説明は主に修士1年の学生が行うことになっている.これが学生たちにとっては良い経験となる.パワーエレクトロニクスどころか電気工学を知らない方々に自分たちの研究を理解してもらえるのは大変難しい.それを課せられているのである.

でもこれは就職活動にも役立つ(修士1年は就活はまだだけれど).就活ではほとんどの会社で,「現在の研究について説明してください」と言われることになる.しかし説明する相手は,自分の専門分野に詳しい人ばかりではない.人事の人もいるだろう.そうした人たちにもわかってもらえるように,説明することが求められる.

こうしたときに想定する相手の知識レベルは高校生程度に設定すべし,とはよく言われることである.高校の物理程度の知識で理解できるようにお話しなければならない.まぁ,今日のように理工系とは縁遠い一般の方々に説明するには,いかに実生活の例をあげて実感していただくかが問題となり,高校生どころではなく中学生レベルを想定して説明しなければならないのである.

近年,理工学者,技術者らに説明する能力が強く求められている.今日はその第一歩ということで,今日の反省を将来に活かしてもらえたら,と思う.
(でも,私もあまり自信はないのだけれど)

2017年4月29日土曜日

勉強こそ一番の近道

勉強が好きな小・中・高校生はかなり少数派のような気がする.だいたいの子供が勉強が嫌いという.私も嫌いだった.しかし,勉強をあきらめるということはしなかった.それは,自分への投資だと思っていたからである.

特に中学時代,学校は荒れに荒れていた.トイレの個室のドアはどれも壊れていたし,洗面所のガラスはみな割れていて使えない.その上,水道の蛇口もとられていて水栓をひねることさえできなかった.タバコの吸い殻も当然のように落ちていたし,あちらこちらにシンナーを吸ったあとも見つかった.そんな学校だった.

そんな校内暴力がひどかった環境だったけれど(ほんとにスクールウォーズみたいだった)それなりに中学生活は楽しかった.しかし,そんな毎日に嫌気がさしていたのも事実である.そうした状況から抜け出す,手っ取り早い手段は勉強だった.勉強で環境の異なる高校に行くこと.それが一番の近道だった.

高校時代,親との関係も悪くなかったけれど,まずは自立がしたかった.親から離れたかった.やはりそこでも一番の近道は勉強だった.奨学金もいただくことができて,あとはわがままを言って東京の大学に進学させてもらった.一人暮らしの大学生活は楽しかったな.

勉強こそが自分が毎日から抜け出すための最も力強い手段であり,もっともリターンの多い投資なのだと中学時代から思っていた.そして今もその思いは変わらない.なぜ,今の中高生,大学生は勉強が嫌いなのだろうと思う.今の環境から抜け出すためには勉強が一番の近道なのに.勉強できるチャンスがあるならば,それを最大限活かした方がいい.なぜそれがわからないのだろうかと思う.現代はそんなことがわからないほど,ぬるくなってしまったのかもしれない.

2017年4月27日木曜日

野球のリズムがあわなくなってきたけれど

最近,めっきり野球を見なくなってしまった.サッカーもその他のスポーツも見る機会がすっかり減ってしまったのだけれど,以前は野球をそれなりに見ていたものだから,野球からずいぶん遠のいてしまったという感が一番強い.

野球というのは,ずっと選手が走り続けているわけではなく,なんとなく投手が作るリズムによって試合が支配される.それが日本人の感性にあっていたのか,それとも晩酌のビールを飲むリズムにあっていたのか,高度成長期においてはたいへんな人気だった.

しかし,どうもそのリズムが現代にはちょっとゆっくりとしすぎているような感じがしている.夕方からの2時間をテレビの前で野球観戦してゆっくりと過ごすという余裕がなくなってきたからかもしれない.この忙しい現代において,野球のリズムがみんなに受け入れられているのかどうか,ちょっと疑問である.

私はしばらく野球から関心が遠のいてしまったけれど,救いはまだ研究室に,野球に興味がある学生がいるというのことである.テレビの前で2時間過ごすのはもったいないような気がするけれど,球場に行ってビールを飲みながら過ごす2時間はいまだ格別である.今年も研究室の学生を誘ってナイターでも観に行きたいものである.

2017年4月26日水曜日

ラップは落語に似ている?

息子と話していて,やはりラップがまだ人気だという話題が出てきた.ラップで対戦するというのが盛り上がるらしい.

どんな基準でラップの勝敗を決めるのか,ということを尋ねると,ライム(韻)やフロー,そしてパンチラインの出来で優劣をつけるのだという.韻を踏みながら,意味のある/なしの歌詞をリズムに乗せて話しているのだけれど,その制約の中でうまいことをいうわけである.

たとえば,
「山奥のモンキーがヤンキーになって街に出てきてジャンキーになって」
みたいな韻の踏み方をしていくのだけれど,そこに二重の意味を持たせるようにして,聞いている人に「うまい」と言わせるわけである.

そこで気づいたのだけれど,これって落語の「なぞかけ」や「小噺」と結構似ているんじゃないの?相手の言葉をお題に,韻を踏みながら,ダブル・ミーニング,すなわち掛詞を持たせて歌っていくのだけれど,これって大喜利みたいなものだよな,と思ったわけである.息子にいったら,そうかもしれないとニヤリとしていた.

ラッパーの人たちに,「なぞかけ」や「大喜利」をやらせてみたら,意外にうまいのではないだろうかと思う.一方,落語家にラップをやらせてみても多分...だめだろうなぁ.

2017年4月25日火曜日

頭のはたらきが鈍いのは

疲れていると頭の働きが悪くなる.
それが歳をとってくるとなおさらだ.
睡眠不足は厳禁.
ここまではなんとかできる.
難しいのはここから.

まずは運動とダイエット.
この2つができたらどんなに素敵な人生を送ることができるだろう?
ダイエットはこの3年間,私の「今年の目標」の不動の第一位である.

次は呼吸法と瞑想.
今,流行である.しかし,毎日時間をとって継続することは難しい.
私の合氣道の先生の先生からは,「なぜこんなに気持ちの良いものを,みんな教えてもやらないのだろう」と言われていたのだけれど...

あとは時間と心に余裕を持つこと.
これが一番難しい.
心に覚悟が必要だ.つまりは毎日修行だということらしい.
頭のはたらきを良くする努力もたいへんだ.

2017年4月24日月曜日

探偵は変人ばかり

今期もテレビでは探偵モノが大流行である.
しかし,つくづく呆れるのは,探偵は変人であるという設定が多すぎること.確かに普通の人が探偵だったとしても,物語上面白くないし,そんな人が突然すごい推理をしても逆にリアリティがないような気もする.

でも,例えそうであっても...とひとつやふたつ文句も言いたくなる.
最近の探偵の設定で言えば,貴族,骨マニア,マッサージ師,謎の大金持ち,大学の超天才准教授,はては小学一年生などで,とても現実世界にありえない人たちが推理を披露している.

まあ,昔から探偵は変な人が多くて,シャーロック・ホームズなんて変人の最たるものだし,ポワロも少しおかしい.日本人だと,金田一耕助なんて人もいて,やっぱり変人である.

それでもまともな人も少なからずいて,ミス・マープルや浅見光彦,キャサリンなんてところは内外の普通の人の代表だけど(頭脳は普通じゃないけど,性格がどちらかといえば普通という意味.マザコンとかは普通の範疇に含まれるとして),私が最も素晴らしいと思うのは,なんてたって明智小五郎である.この人はもう完璧.美貌に名声,そして頭脳とすべてを兼ね備えている.しかし,探偵小説の世界ではこちらの方がたいへん珍しいのである.

一方,刑事ものについて考えてみると少し毛色が異なる.せいぜいしつこい性格に問題があるという人がいるくらいで,正義感あふれる直情派か,逆に涙もろい人情派か,あるいはチーム戦であったりして,真面目な主人公の設定が多い(あるいはドジか).変人が刑事をやるという設定自体がそもそも現実味がなさすぎて成り立たないのだろう.

さてさて,私が好きな探偵は,明智小五郎,金田一耕助あたりなのだけれど,一番は誰?と言われると実のところフィリップ・マーロウかな.そして,工藤俊作.頭は使わなくともハードボイルドが私の憧れなんである.

2017年4月21日金曜日

「竜馬がゆく」で勝海舟のファンになる

私にとって坂本龍馬というのは,どうもとらえどころがない.そもそもあまり興味がなかったから(歴史は不得意),大学生くらいまでどんなことを成し遂げた人かもよく知らなかった.

そんな私だったから,小説「竜馬がゆく」に触れたのも大学院の頃だった.その頃になって私はようやく小説を読み始めたのだけれど,吉川英治の「宮本武蔵」や「三国志」などから始まったので,司馬遼太郎に辿り着くには随分時間がかかった.

武術に興味があるから,まずは新撰組関連の「燃えよ剣」や「新選組血風録」あたりから読みはじめ,その後「項羽と劉邦」に行き,郷里の河井継之助が主人公の「峠」へと進んでようやく「竜馬がゆく」に辿り着いた.しかし,それも周りから「竜馬がゆく」を読まなければ男じゃないみたいなことをずいぶん言われたので,渋々読みはじめた感じである.

もちろん小説は面白かった.でも,坂本龍馬という人物のとらえどころの無さが印象に残った.どうも司馬遼太郎の脚色がすぎるのではないかと思いながら読んでいたからか,みんながいうほど,ヒーローという感じではなかった.

最近,彼は本当に北辰一刀流の遣い手だったのではないかという資料が見つかったけれど,読んでいた頃は龍馬が剣豪だったなんて全然信じられなかったというのもその理由の一つだったのかもしれない(なぜなら手をけがして銃をもつなんて剣豪では考えられなかったから).

むしろこの小説で強く憧れたのは勝海舟や佐久間象山である.特に勝海舟にはその行動力に憧れ,そして皮肉屋なところに親近感を覚えた.「竜馬がゆく」を読んで私にとっヒーローとなったのは勝海舟なのである.

勝海舟についてはまた別の機会に書くとして,今回なぜ竜馬のことを取り上げたかというと,今年は彼の没後150年ということを知ったからである.そして彼は誕生日に暗殺されている(旧暦で.新暦では異なる).今年は龍馬で盛り上がるのだろう.



2017年4月19日水曜日

おじいさんとクリームパン

私は大の甘党だから菓子パンが大好きで,なかでもクリームパンはそのトップ3の中に間違いなく位置するほどの好物である.それもかなりの頻度で食べていて,実は今日の昼にも一個食べてしまった.ダイエットをしている私にとってたいへん危険な敵ではあるのだけれど.

クリームパンといっても,各パン屋さんがそれぞれ趣向を凝らして作っているので,いろんな種類のクリームパンがある.中に入っているクリームひとつをとってみても,半生のカスタードクリームみたいのものもあるし,半透明なクリームもある.結構かためのクリームもあれば,トロトロのやつもある.そこにクリームを包むパンの個性も加わるから,同じクリームパンといっても全く別のパンと考えたほうがよい場合もある.

私はどのタイプのクリームパンも大好きだからどれでも全然こだわらないのだけれど,ときどき無性に食べたくなるのが,昔ながらのグローブの形をしたクリームパンである.どうしてなのだろう.なんの変哲もないスタンダードなクリームパンが食べたくなるのである.

パンを端から食べていってクリームにたどり着いたときの嬉しさとおいしさは今も子供の頃と変わらないからかもしれない.そういえば亡くなった父も,昼食はパンにしようということになるといつもクリームパンを所望していた.アンパンやコッペパンではなく,クリームパン1個だけである.父はそれを黙黙と,でも幸せそうに頬張っていたような記憶がある.

そうなのである.娘とパンの話をしていたら,クリームパンというと「おじいさん」というイメージなのだそうだ.昔ながらのパンだからだろうか.アンパンよりもむしろ今の時代クラシックなのはクリームパンなのだ.

クリームパンが大好きな私は,着実に「おじいさん」に近づいていることは間違いないらしい.それでも,いくつになってもクリームパンを笑顔で頬張っていたいものである.父がそうだったように.

2017年4月18日火曜日

「先の先」の弱点

相手の攻撃する気を察して,先んじて攻撃して勝利を得る「先の先」にも弱点がある.それは社会的に見ると,「先に手を出した」とみなされることである.それが「仕方ない」と判断されればまだいいが,「先手必勝」とばかりに襲いかかったなどと証言されれば,社会的にはかなり問題となってしまう.これが「先の先」が生じる問題である.もちろん,「後の先」を狙ってはみたものの,相手の先制攻撃をかわしきれず,それで一命を落としてしまえば,元も子もないのだけれど.

このように,現代ではケンカなどするとその場での勝負の他に,社会的な制裁が課せられることになる.実は江戸時代でも,武士が刀など抜こうものならばそれだけで事件になってしまい,武士は罰せられたのだという.だから一心太助などが「抜きたいなら抜きやがれ!」と啖呵をきることができたわけだ.

すなわちケンカをする場合には,目の前の相手の他にのちの社会の制裁まで考えなければならない.その覚悟がなければケンカなどしてはならないのである.

「手を出すときは,心に情けを残すな.
   心に情けが残っているときは,手を出すな」

とは,漫画「拳児」に出てきた八極拳士の言葉である.それでも戦わなければならないときには,相手を燃やし尽くさなければならない.二度と立ち上がれないまでに.肉体的にも社会的にも.


2017年4月17日月曜日

空手に先手なし

「空手に先手なし」という言葉は,空手を稽古している人なら聞いたことがあるだろうと思う.しかし,これがどれだけ難しいことか,少しでも武術を稽古しているものであればよく身にしみてわかっていると思う.

相手に攻撃させて,それでいて勝つなんて相当技量に差がなければ不可能である.できることならば「先の先」が一番楽である.相手がこちらを攻撃しようとした気配を感じて,相手に先んじて相手を撃破する.それができれば一番安全である.

しかし,「後の先」となると,相手の攻撃を外さなければならない.これが本当に難しい.相手が素人ならばともかく10年も武術を稽古している人であれば,自分の身が安全な状態で相手の攻撃を外す,あるいは防ぐことなんて,これがとてもとても難しい.ましてその相手が刃物の一つでも持っていたならば,それを避けてさばくなんて私には到底不可能である(もしもマイク・タイソンが私を攻撃してきたとしたら,その第一撃以下を避けることはほとんど不可能だろう).

だからこそ「先手なし」ということが尊いのである.「空手に先手なし」ということは,そこまで空手の技量を高めよという教えなのだと考えられる.言うは易く行うは難し.やればやるほど,その難しさを思い知るのである.

#しかし,個人的には,人 vs 人であれば,「後の先」の方が有利である可能性があると思っている.ただし,それでも相手の第一撃を避ける技量があってこそだけれど.

#翻って「専守防衛」を標榜するどこかの国の防衛力を思う.実戦経験もないのだから,「専守」なんてそんな実力があるなんて信じられない.私は全く期待していないのである.

2017年4月14日金曜日

友達のフリをしているけれど,本当はこの人大嫌い

今朝のラジオ番組で,大学教授でもある作家の高橋源一郎さんが興味深い話をしていた.大学の講義で,受講している学生たちに,だれにも言ったことがない秘密を書いて提出するようにと課題を出したのだという.しかし,その回答では多くの学生が同じ内容を書いてきて,それも3年ほど同じ課題を出したけれども毎年同じ答えが最多数だったので,もうこの「秘密」の課題を出すことはやめたのだという.

私はその多くの学生が抱えているという「秘密」とはなんなのだろうと興味津々で耳を傾けていて,その答えを聞いてなるほどと思った.その「秘密」とは

友達のフリをしているけれど,実はその友達が大嫌い

ということだったらしい(ラジオから聞いたので語句は正確ではないけれど,だいたいこのような意味だった).私はなんと現代の若者らしいのだろうと思った.

現代の若者は,「リア充」アピールというのに忙しいようだ.当然,「友達については多くいたほうが良い」という価値観が共有されていて,「友達とこんなところに遊びに来ました!」などとアピールするために写真をSNSにアップしている.そうでもしないで,友達が少なくて寂しい奴と思われるのが嫌なのだろう.

少し前には,「ぼっち飯」がだめで,ひとりでトイレで弁当を食べている学生がいるなどと話題になったけれど,やはりこれも友達がいなければだめなヤツだという強迫観念に支配されている若者の例である.「らしい」と当時も思ったものである.

「友達は多く持たなければいけない」「いい人でいなければならない」という強迫観念のために,本当は嫌いな人とも友達のふりをしつづけなければならないなんて,なんて住みにくい世の中になったのだろうとため息をつきたくなる.それでいて「友達はいなくたっていい」などと人と異なる価値観を持つことを強く嫌がっている.結局どちらにいっても地獄である.現代の若者は本当にたいへんである.絶対に今の時代には若者でありたくないと思う.

2017年4月13日木曜日

上野の花見には気分がのらない

今週末はめっきり春らしくなって気温が上がるというから,桜を楽しむのはこの土日がピークなのだろう.近くに花見に散歩でもしようかと思う.

梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という文章を書いて,その妖しい美しさの理由を看破したのだけれど,私はある時期本気でその話を信じていた.

大学生になって東京に出てきて,花見といえばやっぱり上野公園が有名だった.でも私はその上野の桜の樹の下には死体が埋まっているという都市伝説を信じていて,満開の桜の下で大騒ぎしている人たちの気がしれなかった.

なぜなら上野といえば,戊辰戦争で上野戦争と呼ばれる彰義隊の激闘があった場所で,たいへん多くの死者が出たけれど,その死体は引き取ることが明治政府によって許されずしばらく野ざらしになっていたという話がある.その死体が上野公園に埋められて,その上に桜を植えたのだと信じていたのだ(実際は引き取られてこっそりと供養されたらしい).

私は梶井基次郎の文章とこの都市伝説をすっかり信じて,上野の桜をみると複雑な気持ちになっていた.今は桜を見ても死体が埋まっているなどとは思わないけれど,上野公園を訪れると上野戦争の凄惨さに思いをはせることがある.単に人ゴミが嫌いなだけではなく,こうした理由で上野には花見にはなかなか行く気にはならないのである.

2017年4月12日水曜日

クラークの第1法則

アーサー・C・クラークの三法則における第3法則については,これまで何度か取り上げてきたけれど,今回は第1法則を紹介したい.

著名で年配の科学者が可能であると言った場合には,彼はほぼ正しい.一方,不可能であると言った場合には,彼はたぶん間違っている. 
When a distinguished but elderly scientist states that something is possible, he is almost certainly right. When he states that something is impossible, he is very probably wrong.
(英文はWikipediaより引用.「また引き」ですみません)


というものである.少しブラックなユーモアが効いているけれど,よくできた法則である.若い人たちにチャレンジしようという気持ちを与えてくれる.クラークは,ユーモアと後進への期待にあふれたとても魅力ある人物であったに違いない.

2017年4月11日火曜日

1994年の小沢健二

1994年,私はまだ学生で(といっても博士課程だったけど),毎週末は渋谷や神田のCDショップをめぐるのが楽しみだった.クラシックのCDの海外輸入盤が目当てで月に4枚は買っていた.

なぜかその日はクラシックのショップではなく,なぜか渋谷のWAVEに足を運んだときのこと,店内に,一度聞いたら忘れられないバブリーな音楽が流れていた.私は一瞬でトランスに入り,そのメロディを追うように注意深く耳をそばだてた.

「ラ~ラ~ラ~~ ララララララ♪」

誰が歌っているのかわからなくて,ショップのレジに少しずつ近づいていき「ただいま演奏中」のCDを確認した.それは小沢健二の「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー 」だった.

私にとってこれはオザケンのセカンドインパクトで,ファーストインパクトは「今夜はブギー・バック」だったわけなのだけど,これがオザケンの曲だとは全然気づかなかった.なんというノリノリな曲.あふれでる多幸感!「これだよ,これ」と理系の大学院生の地味な私でさえ,憧れてしまうような世界がそこにあった.

そのうちにシングルのもう一つの収録曲「愛し愛されて生きるのさ」が流れてきて,これがまた最高!「家族や友人たちと,並木道を歩くように,曲がり角を曲がるように...」と続く語りがグッと胸にくる.この2曲で私はすっかりオザケンの魅力から抜け出せなくなってしまった.

フリッパーズ・ギターも好きだったけど,それから小沢健二にはずっとずっと深くのめり込んだ(少し恥ずかしいけど).あれから23年も経った今年,小沢健二がまた新曲を出した.王子様もいまやすっかりオジサンである.作品は昔のようなキラキラ感はないけれど,ちょっと落ち着いてまろやかになった多幸感が感じられる曲である.次の曲も聴きたいなと思う.でも,正直に言うと小沢健二が歌っている姿を見られるだけでうれしいかったりもする.

2017年4月10日月曜日

映画館こそトランスに入りやすい

人は変性意識(トランス)状態にあるとき,暗示を受けやすくなる.催眠術はその最たる例だけれど,催眠術をかけられたときばかりではなく,私たちはしょっちゅうトランスに入っている.

音楽に気分が良くなっているとき,あるいは集中して本を読んでいるとき,あるいは友人や恋人との会話に夢中になっているとき,私たちはトランスに入っている.ふと目にしたテレビCMに意識をとられるとき,一瞬でトランスに入れられているのである.

スポーツや武道においてトランスに入るのは一種の必然的行為だから,スポーツ選手や武道家は催眠術にかかりやすいのではないかと思っている.なぜなら極度の集中とリラックスをするために,自己暗示をかける必要があるからだ.

一方,私たちが最もトランスに入りやすい状況のひとつが映画館であるとも考えている.映画が始まるとだんだんにホールが暗くなり,みなリラックスしはじめ,スクリーンに集中することになる.そのうち音響効果で大きな音がリアルに身近に聞こえてくれば,もう映画の中の世界に一気に引きずり込まれ,トランス状態の出来上がりである.

それだったら個人で暗い部屋でDVDを観るのもそんなに変わらないのではないだろうか,むしろ他人がいない分集中できるのではないか,とも考えられるのだけれど,私はやはり映画館の方がトランスに入りやすいのではないかと思っている.実は他人がいることで,そしてその多くがトランスに入っていることで,自分も感化されてトランスに入りやすいのではないかと思うのである.すなわち集団催眠である.事実映画自体ではなく,他の観客につられて自分が笑っていることも少なくない.

映画を見て映画館を出る時には,自分がヒーロー・ヒロインになったような余韻をひきずっている.それこそがトランスに入っている証拠である.トランス状態下でいろんなメッセージを映画から受け取っているのだろう.映画をみるということは,そのトランス状態を味わうことなのだ.だから中毒性があるのも仕方がないのかもしれない.

2017年4月7日金曜日

花粉症か.風邪か.それが問題だ.

ここしばらく,鈍い頭痛が続き,身体のあちこちも神経痛やら筋肉痛やらいろんな痛みが出ていて,今週はとにかく毎日が長く感じられた.

そして今日になって朝から鼻水とくしゃみが止まらなくなってしまった.テッシュの箱が手放せない.今日は大阪は朝からずっと雨まじりの天気.花粉が飛んでいるとは思わなかったのだけれど,急に訪れた春めいた暖かさに飛散量もぐっと増えたのかもしれない.

仕方なく鼻炎の薬を飲んで今晩は寝ることにした.もちろんマスクも忘れない.このつらい症状は風邪なのか,花粉症なのか,よくわからない.いずれにしても身体はつらく,なにごとにも集中できない.なんとかならないものかとホトホト参っている.

2017年4月6日木曜日

やっぱり桜の樹の下には屍体が埋まっている

夜に桜をみる.
街灯に照らされて夜に見る桜はピンクというよりもほぼ白色で,ほんのわずかに桃色がのっているかどうかという淡い色合いである.昼間の明るい表情とは別に夜の桜にはなにかに取り憑かれたような美しさがあり,この世に存在しないもののように感じられてくる.それは見ているものに,どこかしら恐ろしさを与えるほどである.

梶井基次郎は,その魔的な美しさの秘密を「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」からだと見破ったのだけれど,まさにその通りとしか思えない.梶井基次郎の洞察には感嘆するばかりである.彼が透視する屍体は,腐乱してうじ虫がわいているけれど,水晶のような液をタラタラと垂らしていて,その液を桜は吸い上げて美しく咲くのである.この退廃的な妄想を直観してしまうほど,桜の美しさは妖しくダークなのである.そうした理由でしか桜の魔性を説明できない.

電灯も無かった頃,人は月明かりの下,桜を見たのだろう.なかにはその美しさに気が狂ってしまった人もいたにちがいない,などと思うのである.

一方,散ってしまった桜の枝も象徴的だ.美しさを失ってしまった佇まいに,人はまた盛りを越えてしまったあとの虚しさを思わずにはいられない.

2017年4月5日水曜日

なにをみても,なにかしら心が動く

映画には,忘れられない傑作もあれば,忘れたくなる駄作もある.たしかに観終わったあとに「時間の無駄だった」と思う映画もあるけれど,そんな映画であっても,どこかしら,そしてなにかしら,心に残るものがあると私は思っている.

どんな映画にもメッセージがある.そのメッセージを強弱は別にして私たちは受け取っているはずなのである.大げさに言えば,人生が変わるようなメッセージもあっただろうし,受け取ったメッセージをすぐに忘れてしまっているということもあるだろう.でもそれは強弱・深浅の違いであってメッセージを受け取っていることには変わりがない.

村上春樹は,自分の小説を読んだ人がほんの僅かでもいいから心が動くようであればうれしいみたいなことをどこかに書いていたけれど,映画も同じである.往年のドイツのソプラノ歌手エリザベート・シュワルツコップは,「リート(歌曲)を聴く前と聴いた後では,その人の人生が変わるようなものでなければならない」と言ったというけれど,そこまで求めなくても,映画は人の人生を変えるようなポテンシャルがあると私は信じている.

もしかすると次に観る映画が私の人生を変えるかもしれない.私の心をどこかへ動かしてくれるかもしれない.そんな期待を胸に映画館に足を運ぶのである.

#そもそも映画を観ているときは,人は変性意識状態にあるから,無意識に直接働きかけ易いはずなのである.

2017年4月4日火曜日

映画の楽しみ

映画(DVD)を昨年は63本観たわけなのだけれど,映画はやっぱりいいなぁ,というのが1年を通じた感想である.

本は読んでいて想像力が自分の思い通りにはたらく自由がある.舞台は自分でどの役者に注目するか,その自由がある.しかし,映画はその自由が少ない.監督が場面を切り取ったようにしか観ることができない.つまり監督の意向を強制されるわけなのだけれど,その不自由さが悪いかというとそうではなく,実はそこが映画の楽しみでもある.クラシック音楽のバイオリニストのようなソリストの演奏のように,その人のアイデアを楽しむ.だから映画は面白い.強いてあげるならば漫画が近いのかもしれない.

もちろん映画の魅力はその他にもあって,たとえば自分で想像するしかなかった場面が存在するかのように目の前に広げられることがすごい.たとえばスタートレックやスター・ウォーズ,インデペンデンスデイのような宇宙戦争.パシフィック・リムのようなロボットもの,ゴジラの怪獣,これらは映画でなければあそこまで楽しむことができないだろう.なかでも一番映画らしいと思うのが,ホラー映画.現実に起こったら大変なことになる凄惨な場面も映画だから安心して楽しめる.ゾンビが町を埋め尽くすなんて,映画でなければあんなに具体的にイメージ化できない.最近はゾンビも全速力で走るのだから,どんどん新しいアイデアで恐ろしい状況が映像化されていく.

つまり映画というのは,実は他人の想像物を楽しむものなのかもしれない.


2017年4月3日月曜日

2016年の映画鑑賞録 (3)

昨年度行っていた一年間に50本映画を観ようとする(個人的な)プロジェクト.もう次の年になって3ヶ月も過ぎたけれど,ここで最終回,3回目のツイートのまとめ.(記した日付はツイートした日時であり,必ずしも鑑賞した日ではない)

51.
幸せへのキセキ
2016年9月28日
「We bought a zoo」邦題は「幸せへのキセキ」倒産寸前の動物園を買った家族の話。マット・デイモンが妻を失った父親役。結構平坦な話なのだけど、ジワジワと良さが沁みてくるような映画。スカヨハが相変わらず存在感抜群。ダコタの妹のエル・ファニングの可愛さが印象に残った。

52.
エージェント・ウルトラ
2016年10月16日
「エージェント・ウルトラ」もしもジェイソン・ボーンがおバカでヤク中だったら、というコメディアクション映画。恋人役のK.スチュワートを綺麗と思ったことはないけれど、今回は至極魅了的。完璧な美人ではないからこそ気になってしまう女優なのだと再認識した。B級の王道アクション映画。

53.
残穢
2016年10月16日
「残穢」実話が元だけに話は地味で映画には期待していなかったけど意外に楽しめた。しかし映画は過去の因縁調査が終わった時点で原作と同様終わるべきだったのではないかと思う。後のエピソードは蛇足だ。現実の不思議は意味不明な方がいい。映画でも主人公とその夫が心霊否定論者であることが面白い。

54.
オデッセイ
2016年10月23日
「オデッセイ」M.デイモンが火星に一人残された不屈の植物学者を好演。危機的状況においても明るさを失わないことの素晴らしさが印象に残った。理工学者が大活躍。政治家は出てこない。個人的には一人を救うために国が莫大な費用と巨大なリスクを背負うことを本当にするだろうかと疑問に思ったけど。

55.
残穢
2016年10月23日
「残穢」子供達に付き合い2回目鑑賞。心霊現象の原因を調査していくミステリーであってホラー要素が少ないのが良い。よくできていると再実感。小野不由美の作品「鬼談百景」に納められた実話怪談をどのくらい脚色してこの小説を書いたのだろうか。話のリアリティ感が読者に想像を生み出す。マジ怖い。

56.
ハンナ
2016年11月17日
「ハンナ」隔離された環境で暗殺者として育てられた少女が、社会に出て適応できない物語。もっとハードな展開を期待していたけど、少しメルヘン的でもあった。結局私は救いのない結末を期待していたのだった。少し自己嫌悪。ヒロインよりも悪役のケイト・ブランシェットて持っている映画だと思う。

57.
グッド・ウィル・ハンティング
2016年11月22日
「グッド・ウィル・ハンティング」M.デイモンはみずみずしく,R.ウィリアムスはまだ若い。青年が精神的にも故郷を旅立つ映画。観終わったあとにジーンと胸の奥が温まってくる。中でも友達役のB.アフレックが一番心に残った。いい演技だった。あんな素敵な人間に私はなれるだろうかと自問した。

58.
グランド・イリュージョン
2017年1月1日
「グランド・イリュージョン」これは素敵な映画。子供から大人まで楽しんじゃう。魔術師四人があまり深く描かれていないのがいい。あくまでも主役は追っている刑事なのだ。W.ハレルソンがやっぱり好き。彼の怪しい雰囲気が映画を面白くさせている。M.フーリマンが悪役なのが珍しい。続編も観たい。

59.
死霊館エンフィールド事件
2017年1月1日
「死霊館エンフィールド事件」実話らしい。英米では悪魔がいて悪霊がその手先になるという共通理解があるらしい。舞台がオカルト大国の英国というのがこの心霊事件に深みを与えている。動画サイトに実際の霊能者と被害者のインタビューが上がっていたけど見ない方がよかった。でもホラーとしては良作。

60.
3人のゴースト
 2017年1月1日
「3人のゴースト」クリスマス前に観たくなる傑作。ビル・マーレイがホント素晴らしい。最後は彼の長ゼリフで締めくくられる。私はクリスマス・キャロルが大好きなのだけど、このバージョンも皆さんにオススメ。今はすっかりおじいさんになったビルもまだ若くてキラキラしてる。

61.
マイティ・ソー
2017年1月1日
「マイティ・ソー」こういう神様の英雄譚が意外に好きだったりする。微妙にこの作品でもSHIELDが出てくるのも面白い。ワーグナーのリングで、ソーの打ちおろす雷のあと虹の橋が架かりワルハラ城に神々が入城するシーンが思い浮かぶ。かっこいい。浅野忠信が無言だけどいい感じだと思った。

62.
イコライザー
2017年1月1日
「イコライザー」荒唐無稽な話なのだけど、デンゼル・ワシントンの演技でリアリティが出てくるからすごい。静かな物腰が人物に深みを与えている。彼はどんな役でもソツなくこなせるのだろう。今回もアクションがかっこいい。SUUNTOの腕時計が欲しくなった。

63.
バイオハザード6
2017年1月1日
「バイオハザード6」前作の終わりから、どうなって今作の始まりに繋がっているのかよくわからないけど、アリスは始まりの場所に向かい、全てに結末をつける。前作までの伏線は全然回収されていないし、いろいろと無理はあるけど、とにかく物語は終わった。もう続きはないのだ。それが少し寂しい。

ということで,昨年は63本の映画・DVDを観た.目標は50本だったのだから,十分だと思う.こうしてTwitterで感想をつぶやくことにより,このようにまとめて記録に残すというのは悪くない趣向だ.今年は本数の目標はないけれど(実際,まだ2本しか観ていない),今後もこのようにして感想を形にして残していこうと思う.

2016年の映画鑑賞録 (1)
2016年の映画鑑賞録 (2)

2017年4月2日日曜日

2017年のエイプリルフール

昨日(4月1日)に書いた内容は,もちろんエイプリルフールの冗談です.ソフトスイッチングに関する二法則のところから私のついたウソになっています.そんな法則なんてありません.今年もウソの切れ味が悪くてすみません.

ノーフリーランチ定理というのはもともと最適化問題での話ですが,パワーエレクトロニクスのソフトスイッチングを用いた回路の効率においても,「ある運転条件では効率が向上するが,全体的な平均の効率を計算すると,従来の回路と大差ない」という意味を持たしています.

少し自虐的な冗談でした.来年こそもっと素敵なウソがつけるよう「ウソ道」に邁進いたします.

これまでのエイプリルフールのウソ

2017年4月1日 パワーエレクトロニクス・ソフトスイッチング技術に関わる二法則
2016年4月1日 地球を利用した無線電力伝送システム
2011年4月1日 パワエレの系統
2010年4月1日 電力の産地指定購入
2009年4月1日 人間の共振現象
2008年4月1日 夜中の台所にて,パワーエレクトロニクスの音色に耳を澄ます

2017年4月1日土曜日

パワーエレクトロニクス・ソフトスイッチング技術に関わる二法則

「幼年期の終わり」,「2001年宇宙の旅」などの作者,アーサー・C・クラークが述べたと言われる3つの法則のうちの第三法則については以前にも紹介した

"Any sufficiently advanced technology is  indistinguishable from magic. "(十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない)

昨年のパワーエレクトロニクス技術の世界最大規模の国際会議ECCEのプレナリーセッションにおいても講演者の一人が上記の法則を講演の最後のスライドで紹介していた.私も以前に書いたとおり,パワーエレクトロニクス技術が行き着くところは,魔法の実現なのだ.

アーサー・C・クラークの3つの法則ほど有名ではないけれど,パワーエレクトロニクス分野においても同様の法則(どちらかというと「マーフィーの法則」に近い)が存在する.今回は,半導体素子のスイッチング損失を低減するために研究されてきたソフトスイッチング技術に関するものを紹介する.

”ソフトスイッチングを実現するために回路を工夫すればするほど回路の効率は下がる”
”ソフトスイッチング技術が導入された回路の効率においてもノーフリーランチ定理が適用される” 

回路の小型化を図るため動作周波数の高周波化が進められ,それに伴うスイッチング損失の増加を抑制するためにソフトスイッチング技術が不可欠となってきているが ,上記二法則はそれは万能ではないということを経験則的に表したものである.今後,ますますこの二法則は広まっていくのであろう.

#続きはこちら

2017年3月30日木曜日

ビバ!サニー千葉

千葉真一は忍者,武士だけでなく,テレビ・映画などで空手,少林寺拳法などの武道家の役も多くこなしている(「激突!合気道」なる映画にも主演しているのだけれど,残念ながら劇中彼は合気道はほとんど使用していないという噂).その上,スタントが必要な危険なアクションまでこなしている.つまり,オールマイティのアクションスターなのだ.ここまでできるアクションスターは彼の他に,彼の弟子である真田広之くらいしか見当たらない.

千葉真一はサニー千葉として国際的にも有名で,熱狂的なファンであるクェンティン・タランティーノなどは,彼の映画「Kill Bill」に,千葉真一をなんと「服部半蔵」役で出演させている(彼とともにJACの大葉健二(ギャバンの人)もコメディ風に出演しているのがうれしい).そして「神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り...」とあの「柳生一族の陰謀」の名セリフを言うのである(ちなみに元ネタは「臨済録」の「仏に逢うては仏を殺し」かと思われる.「魔界転生」においても「神に逢うては神を斬り,魔物に逢うては魔物を斬る」とのセリフが出てくる).しかし,タランティーノってヤツは,どれだけ日本映画をみているのか...?

意外なところでは,キアヌ・リーブスにとってもサニー千葉は憧れのスターであったらしい.「John Wick」の宣伝で来日した時,千葉真一に会ってすごく喜んでいて,子供のような笑顔をしていた.キアヌ自身もカンフー映画などプロデュースしているし,こういう少しB級なアクション映画がよっぽど好きなんだろうなぁ.

千葉真一も,先日亡くなった松方弘樹同様,その偉大な功績のわりに世間の評価がずいぶん低い俳優の一人であるのは間違いないと思う.いなくなってからでは遅いのである.この国際的アクションスターの偉大さを現在から大いに讃えたいと思うのである.

#意外なところでは傑作映画「新幹線大爆破」の新幹線の運転士,あるいは松田優作主演の「蘇る金狼」にも殺される役で出演している.どちらもいい味出している.


2017年3月29日水曜日

柳生十兵衛といっても千葉真一

服部半蔵だけでなく,柳生十兵衛といっても,やっぱり千葉真一なのである.

たぶん「柳生一族の陰謀」で柳生十兵衛としてブレイクしたのだろうけれど,片目を塞いであれだけのアクションをするには,相当の稽古が必要であったに違いない.もしも私が片目を塞いで剣を持ったら,まず死角が広がってしまうし,相手との間合いも図りづらくなるだろうし,たぶん相手の攻撃をよけることも難しくなってしまうだろう.あれをあのスピードで大人数を相手に殺陣を行うのだから,もうすごいとしか言いようがない.もともとの才能も素晴らしかったのだろう.

柳生十兵衛三厳といえば時代劇の一,二を争うヒーローだけど,私は当初彼の存在はフィクションだと思っていた.時代劇好きな父が私に,十兵衛が片目を失ったエピソードを話してくれたのだけれど,これが「えーっ」という話だったので,とても信じられなかったのだ.

まだ十兵衛が子供だった頃,父の柳生宗矩に稽古をつけてもらっていたときに,石のつぶてだったか,小柄だったかを投げられて片目が潰された.しかし,十兵衛がそのときに潰れた片目を手で抑えたのではなく,健全な方の目を抑えて次の攻撃に備えた,などという話だった.講談によくあるパターンなので,どうだろうと子供心に思っていた.

しかし,彼は実在の人物で,「月之抄」などの著作もある.隻眼かどうかはさだかでないけれど,伝書もなかなか興味深いことが書かれていて(一部しか読んでいないけど.そしてそれも難解なのだけれど),実在の剣豪だったのだと知り自分の不明を恥じた次第である.いつか「武蔵野」などの彼の著作をゆっくりと読んでみたいものである.

家光の怒りをかって,しばらく柳生の里に引っ込んでいた(あるいはこの時期に諸国を修行行脚した)などという話もあって,いろいろな創作もされやすいのもよくわかる.だから,これまで柳生十兵衛を演じた俳優も数多くいるのだけれど,私の印象に残っている十兵衛は,松方弘樹に村上弘明.若いところでいくと,時任三郎,中村獅童,上川隆也(TV「柳生一族の陰謀」)そして佐藤浩市(彼は映画「魔界転生」(新しい方)で演じている)といったところだろうか.しかし,やっぱり千葉真一を越える柳生十兵衛はいまだ現れていないような気がするのである(私的には「魔界転生」(古い方)が一番!なのだけれど).

2017年3月28日火曜日

千葉真一といえば,服部半蔵

テレビで「影の軍団IV」が放送されていた.私が見ていたのは中学生くらいの頃だろうか.JACの役者さんもみな若くて,とても懐かしかったけれども,あらためて服部半蔵演じる千葉真一のカッコよさに惚れ直した.あの鎖帷子の黒装束がたまらないのだ.

これまで,殺陣のカッコよさといえば,若山富三郎勝新太郎,そして三船敏郎を紹介してきたけれど,千葉真一もすごい.影の軍団シリーズでは,忍びの集団の頭領,服部半蔵を演じ,非常に渋~い忍者アクションを披露している.殺陣も忍者らしく,普通の日本刀でない特殊な形の刀を使用したり,蹴ったり,敵の足を刀で突き刺したりと,少し変わっていて,彼の工夫がいちいちカッコいいのである.ときどき,そりゃないだろう,というアクションも披露しているが,そのオチャメさも魅力のひとつである.

彼のすごいところは常に新しいアイデアを取り入れようとすることで,たぶんスタッフをいつも困らせていたんだろうなぁと推測する.真田広之がまだJACだったころ,彼の命は千葉真一の無茶な要求で何度も危険にさらされたらしい.あの頃の撮影は無茶苦茶だったという話.

あの「影の軍団」のテーマが聞こえてくるとゾクゾクする.服部半蔵は敵ボスを倒す前に決め台詞をいうのだけれど,シリーズIVでは,「名もなく地位無く姿無し. されどこの世を照らす光あらば,この世を斬る影もあると知れ.天魔伏滅」であった.別シリーズでは,「我が身既に鉄なり.我が心既に空なり.天魔伏滅」となっていて,このセリフをきめた後に相手をワンアクションで倒すところがカッコいいのである.

影の軍団以来,本格的な忍者アクションの時代劇が無いような気がする.だれか挑戦してくれないかなぁ.


2017年3月27日月曜日

空海の教えは完全無欠?

ミャンマーからの留学生と話していて仏教の話題になった.
日本には仏教の分派が数多く存在する.日本の仏教とミャンマーの仏教とは大きく異なるが(ミャンマーはスリランカからの上座部仏教が伝来している),日本のお寺に行ったときに,お経の最初のパーリ語の部分は同じだと言っていた.

日本で仏教文化が花開いたのは,鎌倉仏教の頃だと思うけれど,その前の平安時代にその萌芽があったことは間違いないと思われる.そこですぐに思い浮かぶのは,空海の真言宗と最澄の天台宗である.

そして私が思うのは,空海の才能の大きさである.彼は超人だったのではないか.
最澄の天台宗は,法然の浄土宗をはじめ,親鸞の浄土真宗,曹洞宗,臨済宗,日蓮宗,時宗などを生み出し,日本仏教の源流となった.一方,真言宗からは独立したメジャーな宗派は生まれていない.その理由は,最澄の教えはある意味で不完全であり,そのために多くの弟子が独自の宗派を開くことになり,一方,空海の教えは完璧で弟子が疑問を呈する余地が少ないからなのではないか.空海が伝えた(開いた)密教の体系はそれほど完全な理論で構築されたものだからではないかと思うのである.彼は超人だったのではないだろうか.

最澄の教えが劣っているわけではないと思う.彼は探究を続け,そのおかげで多くの優れた弟子を輩出することになったのだから.でも,空海の教えが私の想像するような完全無欠なものであるのだとしたら,やはりその頭の中を覗いてみたいと思うのである.

2017年3月24日金曜日

大学の講義 今昔

大学の講義もずいぶんと変わった.
私が学生の頃は,ノートパソコンなんてなかったから(パソコンは8インチディスクから5インチディスクに移行する頃だ),パワーポイントで講義資料を作成するなんてありえない時代だった.気の利いた先生はOHP(Over Head Projector, 今は知らない人が多いと思うけど)を使っていたけれど,ごくごく少数派で,ほとんどの先生は自分のノートを持ってきて,教科書を片手に黒板に板書しながら講義する,というスタイルだった.その他は配布資料が補助資料として少しあったくらいだった(さすがにコピーは青ヤキの時代ではなかったけれど).

中には,講義が始まるとやってきて,挨拶をしたらすぐに黒板に向かってコツコツと書き始め,そのまま終わりまで一度も生徒の方を向かずに講義して,それで帰っていく先生なんかもいた.あるいは,途中でタバコ休憩をとる先生もいた.そうした講義でも何かを吸収しようとする学生がいて,一所懸命ノートをとっていた(そしてそのノートは試験対策期に高価な値段でコピーが売れることになるのだが).そもそも先生の海外出張が多くて,講義が学期中に半分くらいしか行われないものもあった.でもそれでも許されていた.おおらかな時代だったのだ.

学生たちにとっても,不便であったがために講義中に行わなければならない努力が多く,それが勉強に役立っていたのかもしれないと今となっては思う.現在の講義は,パワーポイントのスライドをプロジェクタでスクリーンに映し,カラフルで,ときにはアニメーションも使ってわかりやすく解説する.補助資料も多く準備され,講義手法についても学生からのアンケート結果も教員にフィードバックされる(声が小さいとか,板書の文字が汚いとか,いろいろな意見がくる.また大事なところは大事だと言ってくれ,などという意見もある).講義はあらかじめ予定された回数で行われるし,煙草休憩なんてもちろん無い.まるで塾のような講義状況なのである.

学生たちは,現在まさにマクドナルド状態.店員ならぬ教員から「~はどうですか?」,「~もあります」などとサービスをされ,それを受け入れるだけで済むという便利な時代なのだ.私はそれが悪いとは思わない.それで学生の理解が進むならば,それは結構なことだと思う.ただ,講義で得られた知識のありがたさだけは昔の方が大きかったように思う.人は苦労をして手に入れたものをありがたく感じ,長く身につけることができるからである.

2017年3月23日木曜日

大学の対応 今昔

以前と大学の入学式・卒業式の様相が異なっているという話をしたけれど,大きく様変わりしたなぁと思うことのひとつに「学生が不祥事を起こした時の大学側」の対応がある.

最近,有名私立・国公立大学において不祥事が多発しており,そのたびに学校側の所属学部長あたりの役職の人が記者会見を開き,マスコミに向かって頭を下げている映像を見ている.一応私も大学側の人間として,たいへんだなぁと思わざるを得ないのだけれど,ニュースを見ている人たちは大学が頭を下げるのが当然だと思っているのだろうか,と不思議に思う.

繰り返していうけれど,大学生は一人前の大人として取り扱うべきなのであると思う.だから大学においては,小・中・高校と違って生活指導,道徳などの講義時間が無い(はずである).私が大学生だったころ,同期の学生が罪を犯し,たいへんな事件となったことがあるのだけれど,それでも学校側が記者会見を開いた,という覚えは無い.ずいぶんあとになって,その学生の罪が確定してからのち,掲示板に退学処分が張り出されただけである.それが当時の普通の感覚だったのである.

もしも学生が不祥事を起こすたびに,大学側が記者会見を開いてそのたびに謝っていたら,たぶん私の上の世代,すなわち学生運動が盛んだった時代には,毎日のようにあちらこちらで謝罪会見が開かれていたに違いない.しかし,当時,大学は学生の生活を指導する立場ではなかったから,そんなことはなかったのであろう.

しかし,現在は大学が学生の生活・素行にまで責任をとるということが社会の通念になっているらしい.大学とはあくまでも学問探究の場であって,それまでの小・中・高校のように生活指導を行う場ではないと思っている私は少数派なのだろう.でも私は,やはり大学生はもう大人であるという自覚を持って行動して欲しいと思う.彼らの生活には大学は関与しないべきだ.一方で,罪を犯したのであれば学生だから未熟であるという配慮はやめて,一般人と同様厳罰に処すべきだと思う.大学生活は高校生活の延長であってはならないと思うのである.

2017年3月22日水曜日

卒業式 今昔

本日は大学の卒業式だった.
卒業されたみなさん,本当におめでとうございます.
次の新しい世界に飛び込むことになりますが,自分の力を信じて大いに活躍して欲しいと思います.

さて,晩に開かれた祝賀・謝恩会で先生方と話していたのは,卒業式に親がついてくる学生が多いということ.現在は会場の大阪城ホールの保護者席に限りがあるので整理券だかなんだか制限があるという.つまりはそれだけ親が卒業式についてくる,ということらしい.

私が学生の頃(二十数年前)は,卒業式に親がついてくるなんて,そうそうなかったように思う.もしも親が出席したいなどというと,恥ずかしいから来るなと言う学生が多かった.実際,卒業式には親の姿はまばらだった.入学式だって親なんか来なかった.大学生になったら一人前,親離れするというのが当時の当たり前の感覚だったのだ.

それがいまはどうだろう.確かに大学を卒業するにも親の貢献が大きいのは認める.しかし,もう少し放任であっても良いと思うのだが,それは私だけの感想なのだろうか.大学の単位取得についても,就職についても,親が心配しすぎるような気がする.大学生はもう大人なのだ.大人として扱ってあげたほうが良い.

私の卒業式には親は遠いこともあって,親が出席するなどという話は全然なかった.まあ,私は学部卒,修士卒,博士卒と三回も卒業式を経験することになったので,親としてもつきあいきれなかっただろうけど.

2017年3月21日火曜日

バレエ ボレロ

テレビで,赤いドレスを着たタレントの渡辺直美さんが,赤いZというマークの描かれたステージの上で男性ダンサーに囲まれて踊るCMを見た.もちろん流れるのはラベルのボレロ.制汗剤のCMらしい.しかし,この元ネタを知らない人も多いのではないかなどと思ってしまった(もちろん,知らなくとも汗を飛び散らせて踊る渡辺直美さんのインパクトは凄いので問題ないのだけれど)

ラベルのボレロという曲はクラシックの中でも,もちろん有名中の有名曲だけれども,それにモーリス・ベジャールが振り付けをつけたバレエもとてもとても有名なのだ.でもなにか最近は目にする機会が少ないような気がする.私はこのバレエが大好きなのに.

赤い円形のステージの上で「メロディ」と呼ばれるダンサーが一人,ボレロに合わせて最初から最後まで約15分踊り続ける.最初は照明があたった腕だけがゆっくりと動き始め,そしてその動きは次第に大きくなっていく.その後照明が明るくなり,ボレロのメロディが繰り返されるにつれて,肩,腰,足が大きく踊り始める。音楽がだんだんクレッシェンドしていくのに合わせて,どんどん「メロディ」は踊りの中に没入していく.周囲の男性ダンサーたちもステージの下で「メロディ」を囲んで称えるように踊りに加わっていく.そして音楽が最高潮に達する頃には,踊りがただただ弾けるように一体となって,音楽の幕切れとともに終わりを迎える.ボレロはこの最後の瞬間にむけてただただ盛り上がっていく曲だから,終わり方がハンパなくドラマチックなのである.

残念ながら生の舞台に触れたことはないのだけれど,私が初めてこのバレエを観たときのことは忘れない.それは映画「愛と哀しみのボレロ」の最後にかけてのシーンである.映画の内容はすっかり忘れてしまった.ただ登場人物の一人がカラヤンがモデルだということで観たのだったかもしれない.でもとにかく,映画の終盤,ボレロが野外で公演されるのだ.このときメロディを踊ったのはジョルジュ・ドン.このバレエを初めて観て,ゾクゾクして寒気がするくらいだった.色気があるなんてもんじゃない.妖しい.とにかく妖しい踊りだった.振り付けも斬新に思えて,借りてきたビデオをそこだけ巻き戻して見直したことを覚えている.

メロディは基本的には女性が踊ることになっていたらしいが,ジョルジュ・ドンが初めて男性で踊ったということらしい.そして踊ることができるのは世界でも限られた人数のダンサーだけで,つまりは実力を認められた一握りの人のメロディしか観ることができないのである.私の趣味でいえば,カッコよさではシルヴィ・ギエム,そして正確さを感じさせるという意味ではマイヤ・プリセツカヤ,という感じなのだけれど,やっぱり一番すごいと感じさせるのはジョルジュ・ドンの踊りである.迫力が違う.妖しい雰囲気がすごい.終盤には彼はあちらの世界にいってしまっているのだ.私が「愛と哀しみのボレロ」のストーリーをすっかり忘れたとしても,彼の踊りだけははっきりと覚えている.それが彼のダンスが別格だということを示しているのだと思う.

ジョルジュ・ドンも早々に亡くなり,プリセツカヤも逝ってしまった.ギエムももうボレロは踊らないという.では,私はこれから誰のボレロを観ればよいのだろう?彼らに伍するダンサーが踊る,ゾクゾクするようなボレロをもう観ることはできないのだろうか.次のボレロを探さなければ...

2017年3月17日金曜日

富山の雰囲気に懐かしさを感じる

3日間富山市で開かれた電気学会全国大会に参加し,ようやく帰宅した。特急サンダーバードで金沢まで行き,そこで新幹線に乗り継いでようやく富山に着く。北陸新幹線ができて大阪からは直通で富山に行けなくなったのでむしろ遠くなった気がする。今日復路のサンダーバードもたいへん混んでいて,当初予定していた列車も満席で,一本早めて帰宅したくらいである。まずは富山は遠いというのが今回の感想。

しかし,学会としては大盛況で,近年で最も参加人数が多かったらしい。3400名程度とか。懇親会も550名を越える参加者ということだったので,酒と料理の枯渇を心配したのだけれど,十分な量で大変楽しむことができた。

さて,先週は沖縄の久米島,そして今週は富山ということで気候が全く異なる場所に続けて出張したことになる。肌で感じたのは,久米島はやはり異国情緒が強く,一方で富山は懐かしく思えるということである。たぶんそれは私が新潟出身だからであって,北陸特有の雰囲気の湿り気が親和性を高くしているのだろう。服装だけでなく住んでいる人の顔からして違うのだから,そう思うのも仕方ないと思う。日本という国は,いろんな人が集まってできている国なのだと,あらためて感じた。

しかし,富山でも雨に降られた。久米島からずっと天気には恵まれていない。久しぶりに関西で過ごすことになる。今度こそ良い天気でありますように(でも花粉は飛ばないように…)

2017年3月16日木曜日

旧友に会って涙する

今日,学会の懇親会で25~26年ぶりくらいに旧友にあった。旧友といっても大学の研究室にいたころのひとつ下の後輩にあたる人である。ほとんど学生の頃と変わりがなかった。素敵な人生を送ってきたのだろうと思った。

この歳になると,旧友の無事を確かめただけで涙が出てきそうになる。健康そうでいるだけでもうれしいし,学生時代の思い出が次々と思い出されてきて,これまで過ぎ去った時間の長さを痛感して懐かしさに涙が出てくる。当時は毎日がたいへんだったけれど,今となってはやはり良い思い出になるらしい。

今日は後輩だけでなく,大学の先輩方にも数多くお会いした。自分が学生だった頃を思い出す。よく足を運んだ縄のれんでお話をしていただいた先輩にも思いかけず声をおかけいただいて,たいへん驚いた。先輩後輩の関係は,どれだけ歳をとっても変わらない。有難いものである。

そして,大学時代の恩師のご講演も拝聴することができた。師弟の関係もいつまでたっても変わらない。そしていつも先生は私の先をいっていらっしゃることに感激する。大学時代の研究室の卒業生にも数多く会って,また頑張ろうという気持ちが湧いてきた。なにはともあれ,みんな元気で頑張っているのが一番うれしいのだ。

現在私が所属している研究室の卒業生にも数多く会った。こうやって時間が流れていることを感じる。また,研究室はまず「人」があって,次に「教え」なのだとあらためて感じた(先日,合氣道でも同じ話を伺ったのだが)。

次にみなさんに会えるのはいつのことになるのだろうかと思いながら,さよならをした。そんなことが心配になるほど,私も歳をとったのだとしみじみ思った。

2017年3月15日水曜日

頭痛に悩まされる

頭痛がひどい。コメカミの奥がズキズキとしていて,集中力がでない。どうしたものだろうと考えている。

頭痛の原因はいろいろ考えられるけれど,水分不足であったり,疲労であったり,過度の緊張であったりする。今回は花粉症かと思っているのだけれど,咳もひどいので実はやっぱり風邪なのかもしれないとも思う。

今日はおとなしく早く寝ることにする。しかし,最近どうも体調もしっくりと来なくておかしいので,睡眠も浅いようだ。どうやったら健康的な生活に戻れるのか。運動したらいいとはわかってはいるのだけれど…

2017年3月14日火曜日

花粉症,何年かぶりにぶり返す。

この数年,花粉症はずいぶんと楽になったと思っていたのだけれど,今年はどうも違うらしい。鼻水は少々なのだけれど,頭痛が酷い。また喉がイガイガして咳が出る。そしてどうも熱っぽい(だが体温を測ってみると37℃はない)。風邪かもしれないと思っていたけれど,どうも花粉症が原因らしい。やれやれ,である。またぶり返してきたということだ。

おかしいと思ったのは久米島に行っていたとき。杉などの花粉はないのだろうとたかをくくっていたけれど,なにかしらアレルギーの元が飛んでいたらしい。それは植物の花粉かもしれないし,それともどこかの国から飛んできたPM2.5とか呼ばれるホコリだったのかもしれない。でもそれは確かに空気の中にあって,私の忘れかけていた花粉症を呼び起こしたらしい。

久米島のホテルは大変だった。頭痛に鼻水,鼻詰まり。体調がどうもおかしくて夜によく眠れない。仕方がないので,夜中に暗い部屋の中,ひたすら腕を前後に振る体操をしていた。真夜中で誰もいなくてよかった(いつも誰もいないけれど)。暗闇の中の怪人物そのものだったに違いない。

そして大阪に帰ってきた。空港を出た途端,すぐに鼻の奥がムズムズときてくしゃみをした。久米島に出かける前はそんなことなかったのに。花粉症は一度始まったら良くなることはないらしい。まったく不可逆のものなのだ。

以来,昼間も寝るときもずっとマスクをつけている。鼻と喉の症状はなんとか軽減されるのだけれど,頭痛だけはどうにもならない。身体もいつもと違う調子のようで,夜ぐっすりと眠れない。目もシクシクとしてつらい。こめかみの奥がズーンと鈍く痛む。とても集中できるような状態じゃない。でも今年の春は花粉の飛散量がずいぶんと増えると予報が言っている。また春が憂鬱な季節となってしまった。

2017年3月13日月曜日

沖縄 久米島で寒い冬を経験する。そして沖縄でかなえたい夢

電気学会の電力技術/電力系統技術/半導体電力変換合同研究会に参加するため,沖縄県久米島に行ってきた。なんと3泊4日の出張。海外を除けばこんなに長い出張は珍しい。

研究会と見学会と懇親会はいろいろと勉強になったけれど,せっかく久米島に来たのでもう少し南国気分を味わいたかった。しかし滞在中は季節外れの厳しい冬の寒さが久米島をはじめとする沖縄地方に訪れていて,最高気温は連日20℃を下回っていた。気温はともかく,とにかく風が強くて,コートなしにはいられない寒さだった。見学会で訪れた海洋深層水を利用した温度差発電の設備では,見学した高い建物の上で海からの北風に直接吹かれ,話すのもつらいくらいだった。まったく南の島気分はなかった。

これが人生2回目の沖縄訪問だったけれど(前回は電気学会産業応用部門大会で那覇だった),沖縄にはまだはたしていない夢がいくつもある。

まず沖縄空手を見てみたい。
空手がオリンピック種目となり,これからもう少し注目を浴びることになるだろうけれど,意外に空手の起源が沖縄であることは一般には知られていないようだ。空手を本土に紹介したのは船越義珍と言われているけれど,それ以前にも沖縄ではずっと「唐手」あるいは「手」と呼ばれる武術が稽古されてきたのだという。最近になって(といってもこの20年くらいかな),「沖縄空手」が注目されて,「那覇手」,「首里手」,「泊手」などのスタイルが話題になるようになってきたけれど,いつか私はそうした本場の稽古を見学させていただきたいと思っている(稽古に参加するのは体力的に不可能そうなのだ)。それが一つ目の夢。

二つ目の夢は,「ユタ」と呼ばれる人に会ってみたい。このことについてはいろいろとあるので,説明はなし。

三つ目は,美ら海水族館を見てみたい。

四つ目は,沖縄のビーチで一日を過ごしてみたい(まだ,沖縄の海で泳いだことはない)

そして,最後に戦争の記憶が残る場所を回ってみたい。本来ならばこれがまず初めに来るべきものかもしれないけれど,私にその覚悟がまだ無いような気がする。

北国生まれの私にとってやはり沖縄は異国情緒あふれる場所であり,どこかしら身構えて緊張してしまう。でもいつかプライベートでやってくれば,南国気分を満喫できる日はやってくるのだろうか。いやこのままずっと無いのではないかと,久米島空港を離れる飛行機の中で思ったのである。

徳島でハンバーガーを食す OSAFUNE BURGER

 電気学会全国大会に参加するために徳島に滞在した。今回は長めの滞在となったので,徳島で何回も食事を取ることができた。阿波どり,徳島ラーメン,鯛塩ラーメン,徳島餃子,かぼす酒,かぼす酎など,多くの地元の名物を食べることができたのけれど,最終日はさすがに普通の食事が取りたくなって,昼...