2024年4月27日土曜日

夢も予定もなく

 世の中はゴールデンウイークGWである。今年は比較的天気も良いようで、これまでコロナ禍で自粛していたレジャーがもう一度賑わいを取り戻せばいいなぁ、と心より思う。やっぱり世間が暗いのは、私のような老人にはつらいものである。

ただGWになったとはいえ、私はなにをするともない。というか、今日からGWだと認識したのは今週の月曜日なのだ。なにも特別な予定も立てていない。これから考えてみようかとは思う。

前半の3連休は、仕事の宿題をして、宿題をして、宿題をして...すぐに終わりそう。楽しみといえば、ずっと積読状態になっている本をいくつか読もうと思うのと、テレビの動画配信を見るのと、そして寝だめをすることかな。一日中ゴロゴロしているのもいいものである。

しかし、年を取るとやはり動くのが億劫になってきているのは感じてきている。いかにこれから自ら行動しようという動機となる、生活にハリとうるおいをもたらすテーマを見つけていくか、ということである。

夢も趣味もない人生というのはいかに寂しいものかと最近感じている。独居老人は早死にするとのことなので、もっと残りの人生を楽しみになるようなものを見つけたい。

2024年4月21日日曜日

ネットの書き込みは年寄りばかり

SNSというのは大変面白い。たとえば、テレビでは番組に対する視聴者の反応がわからなかったものが、今ではコメントが書き込まれることによって反応をいくぶん知ることができる。あるいはXなどへの書き込みによって、リアルタイムで感想がタイムラインにあふれることになる。そうした双方向性、即時性が昭和の時代にはなかったリアクションであり、面白さである。

一方で、コメントを書き込むことへのハードルが低すぎるということがずいぶんSNSを問題のあるものにしていることは間違いない。ラジオ番組への投稿も、ネットであればネタを思いついたらすぐに投稿できるが、以前はハガキで申し込まなければならなかったのでネタを何度も吟味し送らなければならずハードルは高かった(と、こんなことを書いているけれど私はハガキ職人でもなんでもないのだけれど)。

こうしたネタであればよいのだけれど、ネット時代になって番組への感想などもほとんどハードルゼロで書き込まれることになった。その結果、ひどい罵詈雑言の嵐がコメント欄に巻き起こる。ポジティブで建設的な意見ならばよいのだけれど、上から目線の非難(批判ではなく)なども多く、見ていて相当に不快になる。これがSNSの欠点であると思う。

そしてそうしたひどいコメントを見ていると、どうも書き込んでいるのは若い人ではなく、40代以上の大人が多いのではないかと感じる。

そもそも若い人は長い文章をコメント欄などに書き込まない。一方、ひどいコメントの文章は長く、そして上から目線で失礼なものが多い。その内容も説教じみて、昔の感覚を基準に書かれていることが多いような気がする。そんなに嫌ならば番組を視聴しなければいいのに。そこで偉そうなコメントを書くことで承認欲求を満たそうとしているのだろうか。

若い人の番組に感覚が合わないなどというコメントを書いてみたり(個人の感想ですよね!)、有名曲のカバー演奏の動画に「あなたの歌は本家にはかなわない」みたいなことを書いたりする(それもあなたの感想ですよね!)。あるいは、お笑い芸人の番組に向かってまるでお笑いのすべてを知っているかのような口調で説教する(お笑いのプロに説教できるほどの知識と経験があるの?)。そしてそもそも悪意のある人がコメントを書き込む頻度が高いわけだから、コメント欄は悪口に触発されて爆発的にネガティブな文章であふれかえることになる。本当に読んでいると不快で腹が立ってくる。そしてゲンナリする。気持ち悪いけれど、私もその世代の人間なのだから。

私もこの年齢でSNSを見ているわけだから,その気持ち悪さにある程度貢献していることは認識している。私はコメントを書き込んだりしないけれど、目を通しはしている。おおざっぱに言ってしまえば、こうした中年・老年によるネット公害は、老害のひとつに含まれるのだろう。

このブログだって老人の承認欲求の表れなのだから、他人を非難することはできないのかもしれないけれど、心無い誹謗中傷のコメントを読むたびに自分はそうはなるまいと自省を繰り返すのである。

#匿名性の高いXからスレッズなどに移行すれば少しは改善されるかもしれないとは思う

2024年4月20日土曜日

マンガ、アニメ、ゲームの擬人化に思う(3)~刀剣乱舞~

 以前、京都の名刹「大覚寺」を訪れたときに、玄関に男の子のポップが立っていて大変に驚いた。だって、「大覚寺」みたいに格式の高い寺社にアニメのポップが立っているなんて!ご朱印帳も以下のとおりである。

御朱印帳も膝丸エデション
「霊場」という言葉に不似合いな感じもするけれど...

でもこうしたキャラクターのおかげで、拝観者が増えているのだろうと容易に予想できる。このキャラクターはもちろん「刀剣乱舞」である。これは各刀に男の子のキャラクターを割り当てて擬人化しているゲームである(ゲーム内容は全然知らないけれど)。人気のあまり、アニメ化され、舞台化され、そして歌舞伎化もされていたりする。

擬人化されるのはイケメンばかりだから、ファンの大多数は女性になるのは当然かとは思うけれど,その影響で博物館や美術館で刀剣の周りには女性ばかりがいるようになったのは本当に驚きである。世の中は本当に刀剣ブームなのである。

まず雑誌。「刀剣画報」なる雑誌が書店に並んでいて驚いた。そんなに買う人がいるなんて信じられない…(まぁ、私が「秘伝」などという雑誌を読んだりするのも他人からみたら相当珍しいのだろうけれど)

次に,あちらこちらの美術館・博物館で刀剣の前で食い入るように見ている女性ファンの山が信じられない。足利市では山姥切国広の展示で3万7千人以上,来場者があったとか。学生時代,ときどき研究室で煮詰まるとサボって大学の近くの五島美術館に行っていた。平日だからかもしれないけれど,少し暗い館内で刀剣をずっと眺めていても誰にも会わなかった(まぁ,横山大観の絵の前に立っていても誰も来なかったような気がするけれど...)。それがいまじゃ,どの美術館,博物館に行っても刀剣の前には女性がいる(ような気がする)。そして彼女たちは刀剣の知識もたいへんに詳しい(ような気がする)。

そのうえサポートも素晴らしい。「山鳥毛」が瀬戸内市の所有になった話には本当に驚いた。寄付だけで9億円近くが集まったそうである。うーん,ひと昔前では考えられない。

本当に刀剣関係の人たちにとっては「刀剣乱舞」は大きな変革だったに違いない。大きなメリットとそしていくらかのデメリットもあっただろうけれど,刀剣に興味が集まるのは私はうれしく思う。



2024年4月14日日曜日

大阪中之島にあるシーザーペリの建築

 少し前、大阪に行った際に、大阪市立科学館に寄ろうと思って中之島に行ったらなんと科学館は改装中で閉館していた。

中之島美術館や国際美術館でも観て帰ろうかと思ったのだけれど、なんとなく乗り気ではなかったので展示は見ずに、建物だけを見ていた。そういえば私は建築物を見るのが好きらしい。

国際美術館はステンレス?の屋根が特徴的な地下の建物になっている。この建物はシーザー・ペリという建築家の手によるものらしい。私は関西に住むまでシーザー・ペリという建築家を知らなかったのだけれど、あべのハルカスも彼の手によるものらしい。夜間に見るとライトアップされていてますます綺麗に見えるのでお勧めである。

右側が国立国際美術館

そして中之島にはもうひとつ彼の手によるビルがある。中之島三井ビルディングである。ビルの上の階のデザインが特徴的である。

中之島三井ビルディング。高いビルなので離れないと写真におさまらない

こんな風に現代建築が並んでいる中之島は、大大阪時代のクラシックな建築との比較が楽しめる実素晴らしい場所なのである。ぜひ散歩されてみては、とおススメしたい。

桜を見ると思い出す

桜が満開である。

研究室でも花見BBQが行われ、まさに「花より団子」 、学生はだれも桜など見ずにひたすら食べることに集中していたけれど、食べづかれた私は桜をぼんやりと見ていた。

学生の一人が「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と梶井基次郎の文章について話していたので、そういえばそうだった、と思い出した。

桜の妖しい美しさは、その下に埋められた屍体のためだと梶井基次郎は看破して文章を書いたのだけれど、上野公園の桜の木の下に埋められているのは、戊辰戦争のときの彰義隊だったろうか、それとも東京大空襲のものだったろうかと、ふと疑問に思った。

よく考えてみれば、梶井の文章が発表されたのは太平洋戦争の前なので、東京大空襲の話を知るわけがないのだけれど、梶井は彰義隊の話は知っていたのだろうか?

彰義隊の話は悲惨すぎるのでたぶんそれとは関係なく梶井は「桜の木の下には」を書いたものだと思いたい。

それにしても桜と死を結び付けた梶井の感性に感心する。そしてどちらにも美学を感じるのは日本人の感性なのだろう(私は「死」には美など感じないのだけれど)。

最後に本居宣長の桜の歌を。

敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花 (本居宣長

柿川の夜桜



2024年4月13日土曜日

オッペンハイマー

 これは傑作!間違いない、と映画を観終わって席を立つときに確信した。

アカデミー賞をとった作品だからというわけではない。まぁ、私はクリストファー・ノーランが好きということもあるけれど、作品自体がたいへん面白くて3時間の上映時間の長さを感じさせなかった。

本作は、彼がナーバスな学生時代から原爆開発のマンハッタン計画で頂点に昇りつめ、その後栄光と後悔を抱きながら生きていく。ひとりの研究者の人生を正面から描いた正統派映画であって、戦後名声が地に落ちそれが回復されるまでの過程が描かれている。一方で、一歩引いた観点からみれば、原子力爆弾がなかった世界から、それが「ある」世界へと変わってしまったエピック的な出来事を描いているともいえる。そしてオッペンハイマーは、それが世界に与える影響を予見していた。

作中では、オッペンハイマーは、一流の研究者で、「原爆の父」であったかもしれないけれど、ヒーローでもなんでもない一人の苦悩する男として描かれている。流行りの思想にも浮かれるし、女にもだらしがなかったりする。またマンハッタン計画でみんなをまとめるのに東奔西走したりする。つまりは身近にいる弱さをもつ男として描かれている。だからこそ、私も映画を観ながら、「私だったらどうするだろう?」と自問を繰り返すことになった。そして,彼同様,ニューメキシコの核実験のシーンではドキドキしたし,その後彼が罪悪感に苛まれるシーンでは私も身もだえした。映画を観ることでオッペンハイマーの人生の一部を生きたような気がする。すなわち本作はそう思わせてくれる傑作なのだと思う。

オッペンハイマーについては学生時代、「アインシュタインの部屋」という本で彼の人生を知った。この本は、プリンストンの高等研究所に招かれた天才たちのおかしなエピソードをまとめた本だったけれど(アインシュタインとかゲーデルとか。映画にも出てきた。もう読んだのは30年以上前だからちょっと内容はおぼつかない)、オッペンハイマーというハンサムな英雄の数奇な運命が紹介されていてそれが印象深かった。私は大学を出てから、日本原子力研究所に就職したこともあり、彼のことはずっと気になっていたのだ。それが今回、こんな形で、そしてノーランの傑作として、彼の人生を知ることができるなんて...とても...

研究者であるならば、そうでなくても世界を変えてしまった男の人生を知りたいと思う人であるならばぜひ観るべき映画である。観た後に余韻と映画が出す宿題を楽しむことができる。

星5つ!(満点)★★★★★

#実際のところ、彼の性格にはちょっと鼻につくところがあったのかもしれない、とストローズとの確執のエピソードをみて思う。残された言葉も少し芝居がかっているところがある。

#フォン・ノイマンが出てこなかった...

#音響が素晴らしい。ぜひ映画館で!今年映画館で観た4作目。

2024年4月7日日曜日

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章

 「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章」。この映画を観て初めに思った疑問は,なぜこの映画が大ヒットしていないのか?なぜ話題になっていないのか?ということである。私の周囲の学生にたずねても,本作の存在自体を知らない人が多かった。

なぜ?こんな名作になりそうなにおいがするのに?

テレビ東京が製作委員会に含まれていてCMがメジャー局で流れていないからなのだろうか。どうして宣伝しないのだろう?本当にもったいない。

原作を読んだことはなかったけれど,「あのちゃん」,「幾田りら」が声優を務めているということで私は映画館に足を運んでこの映画を観た。原作者の浅野いにおも気になっていて,あの絵の感じに妙に惹かれていた。平日最後の夜の回。公開から1週間しかたっていないのに観客は私の他に5~6名がいるだけ。そんなものかと思っていたけれど、映画館を離れるときにはこの観客の少なさに腹が立ってきていた。

映画の内容は、宇宙から侵略者がやってきて大きな被害が出たのだけれど、その後大きな出来事は起こらず、侵略者が存在する世界で日常が進んでいく。そんな世界の女子高生の青春物語...と思っていたのだけれど、侵略者の存在はそんな軽いものではなかった。生活のいろいろなところに影を落とし、それが顕わにする私たちの生活の暗い部分。それを女子高生が(もっというと小・中学生のころから)経験していく物語である。

友達との関係、親との関係、教師への恋、陰謀論に翻弄される人たちとの不理解、暴走する正義感、弱者である侵略者などなど、女子が経験するにはつらそうなことばかりである。私はこの映画はあまりに生活の暗部をむき出しにしすぎるので、「残酷」だと感じた。観ていて胸が痛くなる。「どうかそちら方向にはいかないで!」と心の中で思うのだけれど、残酷にも私が予期するBad Endingに物語は向かっていく。

前章では、主人公である門出と凰蘭の日常と過去、侵略者との出会い、など、謎が散りばめられていて、最後に「どーなっちゃうの?」とある意味クリフハンガー的な終わり方で映画は幕を閉じる。観た人は後章が気になって気になってどうしようもなくなる最高の終わり方になっている。いいぞっ!

こんな名作の予感しかしない作品に懸念されるのは次のふたつ。

1.当初,「後章」は4月下旬の公開だった。しかし,現在は5月下旬に延びたことがアナウンスされている。いやな理由でなければいいのだけど...

2.原作を知らないからオリジナルの結末も知らないのだけれど,映画は映画独自の結末になっているらしい。こうした「アニオリ」みたいなもので成功した例ってあるのだろうか?原作者がちゃんと関わっているのであればひどい結果にはならないとは思うけれど...

でも私はかなりの確率で後章を観に行く。興行収入が悪いからといって短期間で打ち切りになりませんように...(やっぱり宣伝が悪い!と思う)

星5つ!(満点) ★★★★★ 

#この前章の主題歌になっている、あのちゃん feat. 幾田りらの「絶絶絶絶対聖域」が大好き。どこかで聞いたことがあるような気がするけれど思い出せない。それが名曲のあかし。

#作中のドラえもんのパロディ「イソベやん」がちょっとドぎつくてドキッとする

2024年4月6日土曜日

マンガ、アニメ、ゲームの擬人化に思う(2)~艦隊これくしょん~

 最初にゲームの擬人化に感心した、いや呆れたのは、「艦隊これくしょん」である。大戦時の日本の艦船がかわいい女の子に擬人化されている。いつだったか、「島風」という艦船を検索したら、赤と白のハイソックスをはいた女の子の画像が並んで、やれやれ、とあきれたことがある。大戦時の戦艦、駆逐艦などを女の子に擬人化して怒られないのは、日本くらいのものだろう。アメリカでこんなことをしたら、軍人の団体から相当叩かれるに違いない。

学生に尋ねると、「艦これ」の女の子たちは、艦の大きさ、役割などが反映されたデザインになっているのだという(例えば、赤城のような空母にはしっかりとした女の子があてられているなど。詳細は知らないけど)。

「ゴジラ ー1.0」では、大戦後に残っていた(はずの)「高雄」と「雪風」などの艦船が出てきて、ゴジラとの闘いに大活躍する。私は「高雄」という軍艦は知らなかったけれど、「雪風」は「幸運艦」としての名前は知っていた。なぜって、「宇宙戦艦ヤマト」で古代進の兄、古代守が指揮していた艦だから。テレビシリーズ最初の第1話で、ガミラス艦隊との戦闘において沖田艦長に敬礼をしながら散っていく。こんな印象的なシーンが第1話だったなんて。小学生の私が震えたのも仕方ない(たぶん見たのは再放送だろうけれど)。その艦に描かれていた艦名が「ゆきかぜ」。つらい話なのである。

さらに「雪風」は私が大好きなハードSF「戦闘妖精・雪風」(神林長平)の主人公が乗る戦闘機の名前でもある。雪風は、異星人との闘いの情報を収集し、味方を見殺しにしても必ず帰還しなければならない非情の任務を負った戦闘機である。高度な電子機器で構成された雪風はいつか意思のようなものを持つようになり、機械のように感情に薄いパイロットといつしか心の交流のようなものが生まれる...というような物語で、とにかく傑作なので読んでいただきたい。「必ず帰還」というところから、この戦闘機には「雪風」と名付けたのかもしれない。

さて、ゴジラにおいても戦艦の名前を知っている学生がいるのに驚いた。ミリタリーマニアなのかもしれないが、「艦これ」の影響とは言っていた。これは弊害というべきではなく、良い影響といえるのではないだろうか。

艦隊が女の子で、戦争ゲームをするなんて...考えた人、奇才!

ただ艦船を名前を見て初めに女の子の姿を思い出すというのはどうかとは思うのだけれど。

2024年4月2日火曜日

2024年のエイプリルフール

 毎年エイプリルフールには気の利いたウソをつこうと思っているのだけれど,今年は単なる冗談で終わってしまった。自分でもトホホと思う...

本当は,パワーエレクトロニクスで必須なトランジスタの一種であるIGBTが,よくQという名称がつくということを紹介し,だからパワエレのコミュニティはもともとLGBT-Qについての受容性が高い。でも女性が少ないので,"I"GBTQであり"L"GBTQではない...とか,

単相の周波数・位相検出器(PLL)のSOGIについては,Sexual Orientation, Gender Identityの略なのだ,というウソをつこうとしたのだけれど,社会的な批判を恐れて,昨日の冗談になってしまいました。われながら情けない...

*本当の略は以下の通りです

IGBT ... Insulated Gate Bipolar Transistor
SOGI ... Second Order Generalized Integrator

毎年のタイトル「2024年のエイプリルフール」というのも村上春樹の「1973年のピンボール」,大和和紀の「紀元2600年のプレイボール」にちなんでいます...


これまでのエイプリルフールのウソ

2024年4月1日月曜日

リプルという名を持つお店

 パワーエレクトロニクスに関係している人たちは、「Ripple(リプル)」という言葉に敏感である。パワエレでいうところのリプルとは、基本的に直流に重畳する交流摂動成分をいう。

本来、きれいな直流電流・直流電圧が欲しいのに、回路動作が原因で,その直流成分の上に交流成分が重畳し、周期的に振動する。例えばインバータの直流リンク電圧においてこのリプルが大きくなると、インバータの出力電流のひずみが大きくなったり、コンデンサが過熱して寿命が短くなったりするやっかいな問題の原因となる。だから、パワエレの技術者はこのリプルの取り扱いに留意して電気回路を設計することになる。

しかし、この「リプル」のもともとの意味は「さざなみ」である。パワエレ技術者にとってはネガティブなイメージがあるこの単語ではあるけれど、一般的には美しいものと考えられていて、気づくとあちらこちらに「リプル」という名前のお店を見つけたりする。

長岡技術科学大学から車で40分ほどのところにある海が見える出雲崎の道の駅「天領の里」にも「さざなみ」という名前のアイスやコーヒーを販売する店がある。看板には確かに「Ripple」と書かれている。これを見たときに私は現実に引き戻され、美しい海の印象がしぼんでしまった...


道の駅「天領の里」のお店「さざなみ」の看板

先日はまた、N市で「リプル」の名前をもつ美容室を見つけた。興味を持ったのでネットで少し調べてみると、細かいパーマをかける「ソバージュ」が得意らしい。そしてそのパーマの度合いは、THDの大きさで指定するらしい。パワエレ関係の女子の御用達なのだろうか。恐るべし。

>> つづく

2024年3月31日日曜日

マンガ、アニメ、ゲームの擬人化に思う(1)~ウマ娘プリティーダービー~

 あぁ、やっぱりこれは日本の文化なのだろうな、と思ってしまうのが、動物やモノの「擬人化」である。現代の日本のあちらこちらであらゆるものが擬人化がされている。

いつだったか鳥獣戯画を京都の博物館で観て思ったのだけれど、動物を擬人化(マンガ化)してどこか笑いとユーモアを持たせて表現する文化は、日本古来から脈々と受け継がれているのは間違いなさそうである。

最近の擬人化では、ゲームの「ウマ娘 プリティーダービー」である。競走馬を耳を生やした(?)女の子たちに擬人化するなんて!と最初見たときにはびっくりした。女の子たちが競馬場を全力疾走で徒競走をするアイデアにほとほと感心した。学生たちも喜んでゲーム内の競争(競馬?)を楽しんでいる。そして用いるデータはリアルな競走馬のデータを参考にしているのだという。

このゲームが大流行したら競馬はまた人気がでるな、と思っていたら案の定、多くの学生が競馬にはまっていった...武豊がテレビのインタビューで「ウマ娘」のおかげで、また多くの若い人が競馬に興味をもってくれるようになった、と話していたけれど、一体どれだけ競馬はこのゲームに恩恵を受けているのだろう?

私の学生時代は、武豊の乗ったオグリキャップが有馬記念で奇跡と呼ばれた復活を遂げて、中山競馬場の「オグリコール」をテレビで見ていた時代だから(さすがにハイセイコーではない)、オグリキャップやメジロライアンなどの名前を聞くと懐かしく思うのだけれど、そもそもオグリキャップってオス馬じゃなかったっけ?と首をかしげてしまうのも正直ある。

この辺りが擬人化の弊害なのだろう。でもゲームで擬人化し、それで人気が出るというのは日本独特の文化なのだろうな、とあらためて思ったのである。

2024年3月30日土曜日

現代人は超能力や霊能力を失ってしまったのか

 オカルト界隈でよく話題にのぼるひとつの説として、

「私たち人類は、遠い昔、超能力や霊能力のような超自然的な能力を誰もがもっていたのだけれど、文明が発達したためにそれらの能力は退化して、現代人は使えなくなった」

というものがある。

ここでいう超能力は、オカルトでいうところの超自然的な能力ということにする。一方で、原始人は現代人よりも聴力や視力、嗅覚が考えられないほどたぶん優れていたなどということで超能力と呼ぶことがあるが、それらについてはそうだろうと私も同意する。また耳を動かせる人がいるのを見ると、現代人はそうした能力が退化したのだろうと思う。

しかし、念動力やテレパシーなどの超自然的な超能力はどうだろうか。「耳を動かす能力が現代となっては不要なので退化したのだ」などという例とは違う。超能力は人類全員が普遍的に持っていた能力で、それが退化してしまったとはとても思えないのである。

考えてみればわかる。もしも超能力があったらどんなにこの世の中便利なことか。それを現代になって使わなくなったから退化したなんてありえない。もしも超能力があったのであれば、逆にどんどん洗練された使用方法が編み出されていたに違いないと思う。そうではないのは、やはり私たちはもともとそうした能力を持っていないからだ。

例えば、もしも念動力があったら、この世の中もっと便利になっているに違いない。実験や手術などで非接触で遠隔から物体を動かせたらどんなに世界が変わっていただろう。もしもテレパシーがあったら、人と人とのコミュニケーションがいまとは違う形になっていたに違いない。たぶん人に心を読まれない技術こそ発達しただろう。

ちょっと考えるだけで、そうなってはいないという矛盾がでてくる。そんな能力が誰もに普遍的にあったなどとはとても思えない。だから私は、そうした超能力が退化したわけではなく、最初から持っていなかったと思うのである。


#もしもそのような能力を使える人がいたならば、それはやはり特別な人なのだと思う

2024年3月24日日曜日

言葉が世界を単純化することの副作用

 人間がこれだけの文明を持つに至った理由のひとつは「言葉」を用いることであることは間違いないと思う。「言葉」があれば正確なコミュニケーションができるし、それを表す文字があれば知識を記録として残すことも可能である。また言葉を使えば現実世界には存在しない抽象的な概念(たとえば「民主主義」とか「学習」とか)も表すことができるから、論理学、哲学などが発達してきた。言葉が世界を作っているといっても過言ではないと思う。

もうひとつの言葉の重要な役割が、概念の「単純化」であると思う。たとえば木製の扉を見たときに、これは「扉」であると認識すれば、人は特別なことがない限りはその木製の板の集まりを深くは考察しない。一方、「扉」と認識することで、「開閉されるもの」、「空間から別の空間に移動するためのもの」、「空間を仕切るためのもの」、「使い方」などの「扉」という言葉に付随される概念が無意識に私の中に準備されて、毎日の日常で問題を起こさずに生活できるようになっている。

木製の扉をみるたびに、この木の板の集まりは何なのか、どのような目的で作られたものなのか、と考える必要があるのであれば、さぞかし生活は毎日大変なことだろう。私たちがそうした煩雑さから解放されているのも、「言葉」のおかげなのだろう。

しかし、「言葉」による「単純化」には同時にネガティブな副作用もたくさんあると考えている。「言葉」によって単純化された抽象的概念のために、本来「木の板の集合体」がもつ特徴・特性が切り捨てられているように思うのである。「これは扉だ」と思った瞬間から、「思索」や「考察」、付随する複雑な特徴に対する「想像・イメージ」が省略されてしまっているのではないだろうか。

もちろん、単純化・抽象化するからこそ論理学のように思索を進めることができるのだけれど、言葉が持つ概念が現代となってはあまりにも抽象化され過ぎていて、思考が単純化されすぎたり、物事に対して持つイメージが薄っぺらいものになりすぎたりしているのではないかと思っているのである。

オカルトの世界ではよく、「超能力」やら「霊能力」やら超自然的な能力を本来人間は持っていたけれど、いつの間にかその力を忘れてしまったなどという話がよく話題にあがる(この説についての私の考えは別の機会に書くことにしたい)。もしも本当にそうであるならば、その原因のひとつはここまで発達しすぎた「言葉による単純化」なのではないかと思う。モノが本来持っている特徴・属性・イメージの中の多くのものを、私たちは「思考」するために切り捨てている。モノをただ見てそれを素直に感じるということができれば、もっと私たちの感覚は研ぎ澄まされていくような気がするのである。

「言葉」に縛られず、自分の中の既成の「概念」、「先入観」、「思想」、「考え方」から解放されて、正しくモノを見てもっと多くの情報を受け取ることができれば、この世の中、見たり感じたりできるものが増えて、毎日がより素敵になるかもしれない。たまにはそんなトレーニングをしてみたい。


#途中まで書いてみて、クリシュナムルティが同様のことを書いていたかもしれないと思い出す(「条件付け」からの自由みたいなこと)。やはり私の考えは、若いころ読んだ書物に影響されているのだろう。

#相変わらず自己満足の記事ですみません

2024年3月23日土曜日

私の葬送曲候補(3):ワーグナー「ローエングリン」第1幕への前奏曲

 私はワグネリアンではないけれど,ワーグナーの曲は結構好きである。とはいえ,彼のオペラをすべて通して見たことはない。そんな贅沢な時間がいつかとれればとは常に思っているのだけれど...

ということでオペラを見たわけではないとすると,私が知っているワーグナーの数々の曲は「つまみ食い」をして聴いていることになる。まあ,ワーグナーの名曲集という企画CDなどは山ほど発売されているし,一方で楽劇(オペラの一種)の抜粋版なんていうのもある。私もショルティやレヴァインなどの「ニーベルングの指輪」(通称 リング)の抜粋版を愛聴していた。まともにリングを聴くならば,四夜を費やさなければならないほど長大な作品なのだ(15時間くらい)。リングには,「ワルキューレの騎行」などの名曲がたくさん含まれているので,ぜひ興味と忍耐のある人は聴いてほしいと思う(自分にも言っています)。

さて,今回私の3曲目の葬送曲候補に選んだのは,ワーグナーのオペラ「ローエングリン」第1幕への前奏曲である。先にも書いたように私はワーグナーのオペラを通しで見たことはないから,この曲も抜粋された演奏を聴いたのみである(オペラ自体は,聖杯伝説や白鳥伝説に彩られた騎士の物語らしい)。しかし初めて聴いたとき,その素晴らしさにずっと耳をそばだてていた。

初めてこの曲を認識して聴いたのは,アメリカFOXのTVシリーズ「ミレニアム」の中でのBGMである。「ミレニアム」は西暦2000年になる少し前,世界が不安に満ちあふれていた頃のドラマで,「Xファイル」の後継作品になる。世界が邪悪なものによって影響を受け始め,不可解な事件があちらこちらで発生する。それらにエージェントが対応するのだけれど,第1シーズンは犯罪対応だったのが,第2シーズンは秘密結社「ミレニアム」の話になってかなり難解なオカルトの話になっていく。私は大好きなドラマだったけれど,第2シーズン以降人気が下がったらしく,結局第3シーズンまで作られたけれど,その後続編は製作されていないようだ。

そして,この曲は,実に霊感に満ちた神聖な雰囲気の曲で,天から降り注ぐ神の恩賜を感じられるような素晴らしい作品である。聴き終わったあともその余韻にずっと浸っていたいような静謐な曲なのである。しかし,「ミレニアム」ではこの曲に合わせて,邪悪なことが進行していくのであった。この皮肉に私はメロメロになった。そしてこの美しい曲の旋律が忘れられなくなったのである。

この曲が「ローエングリン」であったのを知ったのはそれからしばらく経った後のことである。ワーグナーの作品集でこの曲を見つけたとき,どこかで聴いたことがあると記憶を探っていったのちに,「あー,これはあのときの曲だ」と思い出したのである。あの邪悪なものがやってくるときに流れていた曲だと。

もちろん私の葬式が別に邪悪なものというわけではない。この曲が本来持つ「霊性」,「静謐さ」,「神の恩賜の美」などのイメージが葬式に似合っているのではないかと思うのである。演奏時間も9分はかからない。私の小さなお葬式にはちょうどよいのではないかと思うのである。


#「ローエングリン」には,本曲の他,「第3幕への前奏曲」(キラキラ感が素晴らしい!)や「結婚行進曲(婚礼の合唱)」(メンデルスゾーンの行進曲と並んで超有名。ただし合唱)が含まれているので,オススメである。

2024年3月20日水曜日

最古の呪物は縄文人の装飾品ではないのか

 というわけで新潟県立歴史博物館に行ったのだけれど,そのときに思いついたのは,発掘された縄文人のヒスイなどの装飾品こそが呪物なのではないか,ということである。

世間ではよく昔のものがいわくとともに伝えられて,「呪物」のように扱われることが多い。そして現在,また「呪物ブーム」が起きているように思う。そして,その呪物は古ければ古いほど,その呪力が強いにように思ってしまう。

しかしそうであるならば,私が博物館で見た縄文人の装飾品や剣こそが最大の呪物になるのではないだろうか?そんなことを思いながら博物館で展示を見ていた。

でも実際はそんなことは全然言われない。この理由について考えてみた。

まず縄文時代の装飾品や剣などがなぜ呪物と呼ばれないのか。祭事に使ったものであれば,あるいは墓所から発掘されたのであれば,相当「念」がこもっていそうである。しかし,私たちは怖さを感じない(私は逆に感じたりするけれど)。その理由のひとつとして,具体的な「いわく」が伝えられていないから,なのではないかと思うのである。

特に文字が伝来する前である縄文や弥生時代では,その由来などを伝える手段は口伝のみであり,仔細を正確に伝えるのは相当に難しかったに違いない。一方,古事記や日本書紀が書物化された時代からは,急に由緒などが伝えられ始めることになり,現在でも各神社などにそうした神器などが祀られている。人がモノの価値を知るのは,そのモノにまつわるエピソードなのである。それが無いモノは単なる遺物でしかない。

次に,遺跡からの発掘物にあまり呪物性を感じない理由のひとつは,「エピソードの風化」である。伝承されるエピソード自体も年月を経るにつれ,不正確になり,忘却されていく。そして,そのエピソードを受取る私たちの価値観も大きく変わって,畏怖や恐怖を感じなくなってしまう。時代が経つにつれ,そのモノがもつエピソードの生々しさは薄れていき,ついには呪物は単なるモノになっていく。人が畏怖や恐怖を感じるのはモノ自体ではなく,そのモノに付帯するエピソードなのである。これが理由ではないかと思う。

エピソードだけではない。亡くなる人の思いも,周囲の人が持っている亡くなった人の思い出も,どんどん薄れていく。「リメンバー・ミー」という映画(見ていないけれど)でも,人々の記憶から消えたときに霊の存在が無くなってしまう,という設定のようだったけれど,まさにそうだと思う。小林秀雄もある講演で「「魂」なんてあるに決まっているじゃないか。みんなの中に魂は存在し続ける」のようなことを話していたけれど,このことを言っているのではないかと私は思っている。

だから,なぜ縄文人の幽霊がいないのかという疑問に対する答えも同じである。もしもすべての亡くなった人が霊になるのであれば,この世の中は幽霊で溢れているはずである(あの世で霊が溢れてインターネットを通じてこちらの世界に染み出してくるという「回路」(黒沢清監督)という映画もあったけれど)。しかしそうなっていないのは,私達が忘れてしまっているからなのではないだろうか。

オカルトの世界では,ある時代以前の幽霊が現れないのは私たちの問題ではなく逆に幽霊の思いが薄れていくから,という説明もされている。よく人を祟るのも七代までというけれど,七代という時間を経ると思いが薄れてしまうから,というのだ。七代というとちょうど戦国時代あたりで,最近落武者の幽霊を見たという話が無くなったのは,ちょうどそのくらいの年月が経ったからではないか,という話なのである。これもまた面白い。

2024年3月17日日曜日

徳島でハンバーガーを食す OSAFUNE BURGER

 電気学会全国大会に参加するために徳島に滞在した。今回は長めの滞在となったので,徳島で何回も食事を取ることができた。阿波どり,徳島ラーメン,鯛塩ラーメン,徳島餃子,かぼす酒,かぼす酎など,多くの地元の名物を食べることができたのけれど,最終日はさすがに普通の食事が取りたくなって,昼は松屋の「チキンマサラカレー」を食べた。

一応,言い訳をすると,午前中のセッションが終わったのが12:30過ぎ,その後いろいろな人に挨拶して建物の階段を降りて学生食堂に行ったのが12:45。しかし激混み。研究室の学生が発表するセッションが13:00から開始だったので,結局昼ご飯を食べずにセッションを聞いていたのである。さすがに空腹に耐えられず,松屋でカレーとあいなったのである。しかし,チキンマサラカレー,ボリュームもあって期待以上の美味しさだった。

その後,駅前の「森珈琲店」でブレンドコーヒーで一服。カレーの余韻をコーヒーの程よい苦さが打ち消してくれる。ほんと,コーヒーを発明した人,天才。

さて,それで夕食。カレーも食べたのでそれほどお腹も空いていない。麺類ももう飽きたし,と思っていると路地裏に柔な明かりに照らされたおしゃれな看板を見つけた。何屋さんだろうと思って近づいてみると,なんとハンバーガー屋さんだった。ずいぶんとこじんまりとした店構えなのだけれど,店主の趣味なのかアメリカの田舎っぽいWoodyな店内。これ以上お腹にハンバーガーが入るかどうか心配だったけれどハンバーガー好きの私としてはどうしても食べてみたくなって,とうとう店に入ってしまった。店は新しく、昨年の8月にオープンしたばかりとのことである。

もちろんホームメイド的なアメリカンハンバーガー。その場でパテを焼いてくれる。基本セットは1,000円で,バーガーとフレンチフライ。そこにトッピングとして,私はチェダーチーズ150円を選択。加えてバドワイザービールで500円。計1,650円の食事となった。先払い。バーガーとポテトが金属製の「バット」に乗ってサーブされてくる。

バーガーの味は,まずバンズが甘い。そのように徳島のパン屋さんにお願いしているのだとか。チェダーチーズを乗せたパテのしょっぱさにちょうどよい甘さだ。そのパテはパテで,さっぱりしている。「スネ肉」って言っていたかな。脂身が少なく,パテなのにさっぱりとしていて臭みなどない。高齢者の人も食べられると店主は言っていたけれど,まさに私のような老人でもぺろりと食べられた。レタスもパリパリ。マヨネーズも自家製だということらしい。ピクルスはもっと入っていると嬉しかったけれど…トッピングメニューにあったかな?

ポテトにハインズのケチャップをかけて食べる(バーガーはチーズで十分に味がついていたのでケチャップは不要だった)。そしてバドのビール。やっぱりバーガーにはビールだ。あっという間にハンバーガーを食べ終えてしまった。全然問題なくお腹に入った(と思っていたのだけれど,時間が経つとやっぱりお腹が苦しくなった。明らかに食べ過ぎ)。

ヒゲを生やした若い男性の店主が応対してくれたのだけれど,ずっと話しかけてきてくれて,徳島と長岡の比較で盛り上がった。

ということで,徳島で食べたハンバーガーが美味しかったのでご紹介。店主の前で写真を撮るのは気が引けたので,ハンバーガーの写真はなし。代わりにお店のインスタを。

https://www.instagram.com/osafune_burger/

#今回徳島に来てみて気づいたのは,お店の人に話しかけられることが多いということ。徳島は人と人との距離が近いのかな

2024年3月16日土曜日

新潟県立歴史博物館(2)~雪国の暮らし~

 新潟県立歴史博物館の目玉といえば,縄文時代の「火焔土器」と大きなディスプレイで再現された「雪国の暮らし」ではないだろうか。

圧巻なのは,雁木とよばれる雪よけをつけた通路と道路,そしてそのなかで営まれていた昭和初期くらいの人々の暮らしなどが数十メートルの部屋のなかに再現されているところである。

現在の長岡は消雪パイプや整備されたことや除雪車が除雪することもあって,道路が雪に埋まって自動車などが走ることができなくなることなど滅多になくなったけれど,私が小学生のときに長岡に住んでいた頃はまだ,家々の屋根から雪下ろしした雪の捨て場がなくて,直方体に固めた雪のブロックを石垣のように道路に積んでいくところも多かった。

こうして道は雪で埋まってしまうので,町で雁木と呼ばれる家のヒサシを長く伸ばして,屋根付きの道を確保して,その中を人々は歩いていた。道路側は高く雪が積まれているので空が見えず,雁木の下はトンネルのようにいつも暗かった。

私の家も家の周りは屋根から下ろした雪で壁ができてしまうので,一階の窓からは雪しか見えないし,通行はブロックで家の2階くらいの高さまで積まれた雪の壁の上につけられた通路なので,一階の玄関までは下り階段を雪で作って出入りをしていた。そして通学は高く積まれた雪の壁の上の通路を通るので,道路脇の電信柱の頭が目の高さになるくらいだった

この通路の両脇の雪は踏み固められていないので柔らかく,この雪に足を取られると長靴が雪の中に埋まってしまい,春まで発掘は不可能だった。ミニスキーで学校まで行くことができればよかったけれど,残念ながら学校で禁止されていた。

そんな嘘みたいな話が本当だったとわかるディスプレイがされている。雁木も再現されていて,その下にある当時の店の様子も見れてたいへん懐かしい気持ちになる。これはほんとにオススメ。やはり長岡といえば豪雪。その豪雪地帯に住んでいた人々がどのような暮らしをしていたのか,ぜひ感じてほしいと思う。

個人的には,写真パネル等で紹介されていた,豪雪時に行われる「結婚式」,「葬式」そして「病人の搬送」などを見て,もう絶対こんなところに住みたくない!と思ったけれど…

#ちなみに消雪パイプは長岡市で柿の種を生み出した菓子屋の社長が発明したものということになっている。記念碑が街にある。

実物大で再現された雪の街


2024年3月10日日曜日

新潟県立歴史博物館(1)~ 火焔土器 ~

 美術館と博物館は地方を訪れたときによく行くのだけれど,長岡に越してきて5年。大学の近くにある新潟県立歴史博物館には足を運んだことがなかった。研究室の学生たちや周囲の人から「良いから一度は行くべき」などと話を聞いていたのだけれど,逆に近いとそのきっかけがなかなか見つからない。それでも,2月の終わりに仕事の一部に一段落つくことができたので,(気分転換のために)「よし」と心を決めて歴史博物館に行ったのである。

県立歴史博物館というだけあって新潟県の歴史が紹介されているのだけれど,時代は遡ってなんと縄文時代のころから(実はその前から)展示解説されている。長岡市は「火焔土器」が発掘されたことで有名だから,そうした土器がズラッと並べられている。

私は長岡に来てからこれらの土器について

  • 「火焔土器」が出土されたのは長岡市の馬高・三十稲場遺跡であるということ(今回訪れた新潟県立歴史博物館のすぐ近くに馬高縄文館とともにあります)
  • 「火焔型土器」とは「火焔土器」型の土器という意味で(「火焔型」は型式を表す),意味が少し違うこと
  • 「火焔式土器」とは呼ばず「火焔型土器」と呼ぶこと(小さい頃は「火焔式」で習ったような…)
  • よく似ている土器に「王冠型土器」があること

などを知った。6000年も前に生きていた人たちがこれらの土器を用いて炊事を行っていたかと思うと,人間がずっと行ってきた営みについて深い感慨を持つ。

私は諸星大二郎という漫画家が大好きだから縄文の話は結構好きなのだけれど,実際のところどんな生活をしていたのかなどぼんやりしかわからない。それがこの博物館では,縄文人の暮らしが人形と家屋の模型などを用いた大きな複数のセットでわかりやすく説明されていて,たいへん面白くみることができた。

彼らには年を取ると歯を抜く習慣があったとか,船を作る技術があったとか,また装飾品をつけていたことなど,古代ロマンを感じさせてくれた(一方で,同時代のローマではすでに水道や浴場,道路が整備され,馬車や石造りの宮殿があり,フレスコ画や彫像で芸術が盛んだという,文明の違いを思っていたけれど)。しかし,なぜこんな雪深いところに住んでいたんだろう...?と思う。

漫画家でいうと諸星大二郎(「暗黒神話」とか)や星野之宣(「ヤマタイカ」なんて最高!)に興味のある人,そして縄文時代にロマンを感じる人はぜひ足を運ぶべき博物館だとオススメしておく。

新潟県立歴史博物館(駐車場があります)

長岡駅にある火焔土器のレプリカ。縄文時代に魅了された岡本太郎の言葉が添えてある。


2024年3月9日土曜日

命令暗示法で運動を継続しよう。

 最近の心身の不調を解決するために,運動を始めようと思う。

思うのだけれど,この時期なかなか腰が上がらない。やはり夜しか運動できないし,夜は寒いし,長岡では雨が降っていない夜は少ない。腕立て伏せも,「トップガン・マーベリック」を見て少し継続してやめて以来,全然行っていない。スクワットも然り。なぜ運動をすると気分が高揚して気持ちがいいと感じるのに,そして夜も睡眠の質が上がって集中力が上がることを実感しているのに,運動をしないのか。われながら全く不思議である。

運動は身体に負担がかかるので,まだ理解できる。やはり疲れることを無意識に避けよう,避けようとしてしまうのだ。一度スイッチが入って,雪玉を転がし始めると玉がどんどん大きくなり,それがやりがいとなって継続するのだけれど,一旦やめてしまうと玉の重さを思い出して腰が上がらなくなってしまう。これを解決するにはどうすればいいかと考える。

やはり無意識が運動を避けさせようとするのだから,無意識を変えなければならないと思う。では無意識を変えるためにはどうすればよいか。これまで数々の啓蒙書を読んでこの有様なのだから,なにか方法を変えなければならない。

仕方がない。命令暗示法を用いようか...これは寝る前に鏡の前の自分に命令暗示をかけて,あとはさっと眠る,という方法で,心身統一合氣道の藤平光一先生が指導されていた方法である(もとは中村天風先生だと思うけど)。今まで試したことがないのだけれど,やってみようかなと思う。

ただ心配なのは,同様に心身統一合氣道の呼吸法も同様の状態であるということ。呼吸法を行えば身体にいいことはよくよく理解しているつもりである。しかし,継続しない。こちらも時間を決めてやるようにしようか...藤平光一先生は「こんなに気持ちがいいことを教えているのに,みんななぜやらないのだろう」とおっしゃっていたけれど,まさにその通り。私もせっかく教えていただいたのに継続を怠っている。運動も呼吸法と同じことにはならないだろうか...いや暗示法をとにかく試してみよう。

頭で理解するのは十分でない。実践してこそ本当の理解である。真の理解は自発的な行動を生むはずである。さぁ,五十半ばにして知行合一にチャレンジである(伝習録も読んだはずなのだけれど,行動がともなっておらず知識だけなのがバレバレ)。


2024年3月3日日曜日

おみくじの凶を4回続けてひいたこと

今冬,学会の研究会の発表で関西に行ったときのこと。学生3名と私で出世のご利益で有名な神社を参拝することになった。4名で神社本殿にお参りをし,そのあと私がいつものとおりおみくじをひくと言い出したので,せっかくだから全員でひくことになった。

おみくじは,箱の上部に丸い穴が開いていて,そこから手を入れておみくじを一つひくものである。私が最初に200円を支払って1枚をひく。さっそくおみくじの封を開いてみると...そこにはなんと「凶」の文字が。最初の一文に「する事なす事すべて思うようにいきません」と書いてある。あまりのショックで思わず笑ってしまった。逆にうれしくて3人の学生に自慢したくらいである。

そして二人目の学生がおみくじを開いた。なんと結果は「凶」。おなじく最初の一文は「する事なす事すべて思うようにいきません」と書いてある。

残りの二人もくじをひいて集まってきて,私と2番めの凶を笑っている。そして3人め,4人目とおみくじをひらくとなんとふたりとも「凶」。つまりは4人連続して「凶」をひいたことになる。

ひどいと思ったのは,4つのおみくじの番号。18番,24番が2枚,42番が1枚と3種類のおみくじをひいたことになるけれど,書いてある言葉はすべて全く同じだったこと。これは手抜きじゃないの?

連続してひかれた4つの「凶」みくじ。18, 24, 24, 42番。

じかし,4回連続して「凶」をひいたことには間違いがない。私は個人的に凶を連続して(厳島神社で)3回連続してひいたことがあるけれど,それ以来の衝撃である。凶をひいたのもそれ以来だったし。3人の学生はこれから修士論文の発表会があるというタイミングだったから,みんな笑えない状況だった。

ひとりの学生が,おみくじが置いてある社務所の売り子さんに「この神社のおみくじは「凶」がおおいのですか?」と尋ねにいったくらいである。売り子の女の子は不思議そうに「そんなことはないと思います」と答えていた。

事実,私たちのあとに若い女の子ふたりがおみくじをひいていたけれど,ふたりはキャッキャと笑いながら喜んでいて,とても「凶」をひいたようにはみえなかった。

結局はみんなで予想外の結果に笑いはしたけれど,どこかちょっと「寒い」笑顔だった。しかし,4回連続「凶」ってどれだけ低い確率の事象なのだろう。必ずハズレをひくという超能力のように,それはそれですごいことなので,まぁこれからもずっと忘れないだろう。誰かの運がとてつもなく強いに違いない。

#ちなみに3人の学生は無事卒業できそうだし,私は最近近くの神社でおみくじをひいたら「大吉」だったのだけれど。

2024年3月2日土曜日

おみくじの凶を3回続けてひいたこと

 1月末におみくじで久しぶりに「凶」を引いた。これまでに「凶」を引いた覚えがあるのは,浅草の浅草寺,そして宮島の厳島神社の2箇所ほどしかない。

浅草寺のおみくじは凶が多いことで有名だから仕方がない。あきらめもつく。

しかし,厳島神社で引いた凶はとても恐ろしかった。ずいぶん昔の話だけれど,厳島神社を参拝し,おみくじを引いたときのことである。結果は「凶」。おー,と驚いた。この神社のおみくじにはちゃんと「凶」が入っているんだ,と感心したくらいである。

けれどおみくじというのは「引き直し」ができると聞いていたので,せっかく厳島神社まできておみくじが「凶」ではもったいないと思い,2回めを引いた。そして結果はなんと「凶」。2回連続「凶」は相当こたえた...

しかし,それでもせっかく来たのだから厳島神社参拝を良い思い出にしたいと思い,あらためて3回めのおみくじを引いた。そして結果はなんと「凶」。3回連続して「凶」をひいたのである。

さすがに怖くなって4回めをひくのはやめておいた。占いは信じないのだけれど,3回連続の凶には少しビビった。その頃は関西に住んでいたのだけれど,宮島からの帰路になにか起こるのではないか,これからなにかまずいことが起こるのではないか,とビクビクしながら自宅に帰ったのを覚えている。

おみくじは,生活を見直すきっかけだと思っているので「凶」をひいたことで,生活をいろいろと反省しようとは思うのだけれど,3回連続というのはさすがになにかの凶事を予言しているのではないかと思ってしまう。一体どれだけの確率で3回「凶」をひくというのか…いまでも思い出すとちょっと怖くなる。

そしてこれを超える経験はもうないものと思っていたのだけれど...(次回につづく

2024年2月25日日曜日

不適切にもほどがある

 最近,宮藤官九郎のドラマや映画にあまり興味を惹かれず,しばらく離れていたのだけれど,彼の脚本による今期のTVドラマ「不適切にもほどがある」はかなり面白くて,毎週放映を楽しみにしている。

1986年,昭和の時代から2024年の現代にタイムスリップしたオジサン(阿部サダヲ)のカルチャーショックをもとに,行き過ぎたハラスメント対策やコンプライアンスなどの現代の問題を浮き彫りにするコメディ・ドラマである。ところどころにミュージカル風な演出があったりして(これが実に本格的で感心させられる),クドカン節全開の作品となっている。

1986年,私は大学1年生で上京したばかりだったから,ドラマで描かれている昭和の時代を実際に経験している(これもリアタイというのだろうか?)。バスや列車の中でもタバコは吸われていたし,部活動は熱血指導という名のハラスメントし放題だったし,深夜テレビでは「11PM」や「トゥナイト」,そして「オールナイトフジ」なんかが放送されていた時代である(とんねるず全盛期)。だからこのドラマの「昭和あるある」はほんとに共感できるし,懐かしく感じる。

しかし,このドラマで一番感心しているのは,その「昭和あるある」を単に笑いのネタとして使うのではなく,昭和の価値観を否定しないで,その昭和の視点から現代を見つめ直す(否定しているわけではない)ことを試みていることである。単なるコメディドラマでないところが,人気の秘密なのだろう。

とはいえ,私も阿部サダヲ演じる主人公をついつい応援してしまう。現代のコンプライアンスに縛られた生活に対して,主人公が「気持ち悪っ」って言い放つところに共感してしまうところが,私もこの現代の様式に適応てきていない証拠なのだろう。

このドラマは笑いながら,現代の価値観の新シい味方を与えてくれる素敵な作品だと思う。クドカンも久しぶりに(?)いい仕事している,って思う。


#阿部サダヲって,初めて私が認識したのは「私立探偵 濱マイク」だったと思う(木更津キャッツアイを見ていないので)。すでに20年以上も前になるのか。大河ドラマの主役を張れるような役者さんなのだなぁ,としみじみ。(映画「リボルバー・リリー」では,山本五十六を演じていたけれど)

2024年2月24日土曜日

誠実に機嫌よく生きる

 今年の目標のひとつに,

「誠実に機嫌よく生きる」

とあげた。今年はまずは機嫌よく(自分の心身の機嫌をとりながら)生活していこうというのが目標である。具体的には,

  • ダイエットはするけれど,無理をせず機嫌よく行う(たまには美味しいものを食べる)
  • 仕事は頑張るけれど,心身の健康を崩さない程度に機嫌よく行う。
  • 部屋の清掃,身の回りの整理整頓をして機嫌をたもつ。
  • 機嫌をたもつために,読書,映画鑑賞などの時間をケズらない。
  • 合氣道は...これはいつも機嫌よく行うので問題なし。

という感じである。仕事に関して上機嫌でいるというのがやっぱり難しいのだけれど,やっぱり,仕事量的にやり過ぎ,限界はある。そこで仕事の進め方で必要なのが「誠実さ」なのである。自分に対してその仕事の進め方で,後ろめたさ・心苦しさがあるかどうか,それがなければその仕事を「誠実に」行っていることになる。これが「誠実に」の意味である。

実際は本当に難しい。現在だって,どれだけ心にやましさを抱えて仕事をしていることか。これを心スッキリと仕事できるようになることが私の今年の目標なのである。そのためには,仕事も整理整頓しなければならないとは思っている。

終活を始めるのも,後顧の憂いをなくして毎日を上機嫌で過ごすためである。今後は自分をあまりいじめず,どうやって機嫌良く生きるかを指標にしたいと思う。

#天理教でいうところの「陽気ぐらし」に相通づる考え方なのかもしれない

2024年2月23日金曜日

文章の書き方:私のブログ記事の文章がひどい理由

 実は今日が祝日だということに昨日気づいた。最近は土日,祝日にブログ記事をアップロードするようにしているので,今日は記事を落とさないよう慌ててブログを書いている。

私のブログというのは,たいへん申し訳ないけれど人に読んでもらうことを第一目的としていないので,長い間書いているけれど文章が全然うまくなっていないし,またそう心がけてもいないのだけれど,私のブログ記事にも私なりの書き方・構成があるのだという話を今回は少し書いてみたい。

まず小学校で習う物語の構成によくあるのが「起承転結」である。「起」ではじまりを記し,「承」でそれを受けて内容を展開する。そして「転」で思いがけない展開で読者を引き付け,「結」でオチをつけるというものである。映画だってそんな感じである。

しかし論文の書き方というのはちょっと違う。よく言われるのが「序論」「本論」「結論」である。ただ私はもう少し細かくて,「序論1(背景・動機)」,「序論2(先行研究・課題・目的)」,「本論(方法論+結果)」,「議論(反論,考察)」,「結論」の5つの部分から構成されるように思う。「議論(反論,考察)」の吟味が大切なのだと思っている。

一方で,技術仕事文は,「平易な言葉で誤解なく」「簡潔に」「読みやすく」「事実と主張を区別して」などの要件を満たして書くことが求められる。ここが,理系文章と文系文章との違いである。理系文章には著者の感想など不要だし,主語がはっきりしない修辞学的な長文などあってはならない。最近はAIによる英語翻訳がその基準になるだろう。機械翻訳が間違わないようにできているのであればそれは技術仕事文として十分な日本語文章だろうし,一方,英語翻訳されたら主語が代わっていたり,趣旨が間違っていたりするならばそれは不十分な文章だといえるだろう。

さて,このブログだけれど,まず文系的文章というのは私は書けない。使い古された「陳腐な」表現を自分が書くのが大嫌いなのである。「心の琴線に触れた言葉」とか「雷に打たれたような衝撃」とか,「鍋の底が抜けたような大雨」など,書きたくもない。平凡な文章の方がずっといいと思ってしまうのだ。だから小学生の作文のように,文章をベタ書きしている。また修辞学的に凝った文章といのは,あきらかに「狙っている」感が出ていて,恥ずかしいものである(村上春樹的比喩までいくとある意味芸術になるのだろうけれど)。

次にブログ記事も「起承転結」であるべきだとは思うけれど,最近私はこの「結」でオチを書くのが嫌になっているので,このところの記事は「結文」の一文で終わることが多い。「時計の話だけに,一刻も早く解決したい」とか,「核融合方式で議論が過熱しつつあるが,加熱するのはプラズマだけにして欲しい」みたいな,コテコテなオチをつけるのは嫌いなのである。オヤジギャクでしかない。

ということで,私のブログは読みにくい構成で,思いついたまま話し言葉を書いているような文章となっていて,読む人には極めて不親切なものになっている。だからビュー数もかなり低いのも納得なのだ。自己満足な文章を公衆に垂れ流しているといえば,その通りで申し訳ないのだけれど。

2024年2月18日日曜日

最近の流行曲の魅力に舌を巻く

 Creepy Nutsの「Bling-Bang-Bang-Born」をきっかけに,先日Youtubeが提供する「私向け」のミックスという連続動画を少し集中して聴いてみた。そういえば最近どんなアーティストが人気なのかよくわかっていなかった。

最初に驚いたのはYOASOBI。紅白歌合戦を観ているから,「夜に駆ける」や「アイドル」などの楽曲は知っていたけれど,オススメに出てきた「アイドル」のライブの動画は凄かった(日本で歌っていたもの)。舞台演出も会場の雰囲気も凄かったのだけれど,一番驚いたのはikuraの歌唱力。録音かと思うくらいに正確で,それでいてライブの勢いがある。振り付けも良くて,今はこんな人がいるんだ,と心から感心した。これは世界で売れるのもよくわかる。

次に驚いたのはAdo。これもライブ映像だったのだけれど,彼女はとにかく歌がうまい(私が今更言うことではないのだろうけれど)。最近は歌がうまいアーティストがこれでもか,というくらい売り出されているけれど,Adoは別格なのだなと思わされた。私は歌手がみんなに長く愛されるかどうかは,最終的には声質だと思っているのだけれど,Adoの声は素晴らしく魅力的。ついつい耳が引き寄せられてしまう。この人が売れているのもよく理解できた(ikuraの声質も特殊で素晴らしく魅力的だ)。

声質という点では,米津玄師の声も惹きつけられる。歌もうまいし,楽曲もこれまでに無い展開が多くて,やはり好きになってしまう。曲の作りは,私のような素人にはよくわからないけれど,転調に次ぐ転調がされていることはよくわかる。そうなのだ。YOASOBIの「アイドル」も米津玄師の「Kick Back」もそうだけれど,何度転調するのだろうかと思うくらいに転調している。曲の歌詞と連動して転調していたりするのだけれど,非常にそれが細かい。そして早口で譜割りも独特だから,印象に強く残る。

その他,この動画のミックスでは,羊文学,緑黄色社会,King Gnuなどが流れてきて,それぞれの歌の巧さ,声質の特徴と魅力,楽曲の工夫などを知ることができたのだけれど,ずいぶん時間を費やしてしまった。でもその時間の経過を感じさせないほど,魅力的な楽曲たちだった。そして私は最近あまりPOPSを聴かなかったことを少し反省した。たまにはいろいろな流行曲を聴いて,私の中のライブラリを更新したいと思った。


#King Gnuをグラフソフトではないの?と思ってしまうのはおじいさんの証拠である。

2024年2月17日土曜日

長岡の星,DJ松永

 私はカラオケなど行かないから,レパートリーは「世界にひとつだけの花」以降更新されていないような気がする。決してPOPSが嫌いで聴かないわけではなく,ラジオやテレビでよく耳にはするのだけれど,じっくりと最初から最後まで,そして歌詞などを考えて聴くことがほとんどない。まぁ,その必要もないからなのだけれど。

それが最近Creepy Nutsの新曲である「Bling-Bang-Bang-Born」を聴く機会があって(Youtubeで流れてきた),おーっと思ったのである。Creepy Nutsは越後長岡の生んだスーパーヒーローDJ松永とR-指定のユニットということもあって,以前から興味があった。

DJ.松永は,自分の夢を叶えてきたすごい人で,DJになるために高校を中退し,長い下積み時代を過ごしたあとにDJの世界チャンピオンまで昇りつめている。夢に向かって行動を起こし,下積み時代でも努力を続け,その夢を実現しているという,本当に尊敬できる人だと思う。オリンピックの閉会式にも出ていた。ただこの数年,バラエティー番組にでてその魅力的なキャラクターで人気になっていてテレビに消費されてしまうのではないかと少し心配だったのだけれど,ここ最近はどうもテレビやラジオなどの出演をセーブして音楽活動に集中していたらしい。

そしてこの「Bling-Bang-Bang-Born」の大ヒットである。世界的に売れているらしい。音楽に集中するといって,それで結果を出している。またもやDJ松永の有言実行である。これが実現できたというのは,もちろん彼の音楽の才能もあると思うけれど,その夢や決意に向かって努力ができるという素晴らしい才能が彼にはあるのだろう。もちろん,R-指定のような才能とユニットを組むことができたというような幸運もあるけれど,その運だって努力で引き寄せたに違いない。彼のキャラクターを考えると,この大ヒットで天狗になってぜひいろいろと放言してまた注目を浴びて欲しい。私は応援したい。

今期,最も面白いと思っているテレビドラマ「不適切にもほどがある」の主題歌の「二度寝」もいい感じの曲である。やっぱり二人は才能に恵まれているんだなぁ,と感じる。

2024年2月12日月曜日

世界のオザワ

 というわけで,小澤征爾指揮,ボストン交響楽団の演奏を聴くことができたのでけれど,その後は彼の演奏を生で聴いたのはたぶん一度あったかないか,記憶が定かでない。

「たぶん」,なのだけれど,水戸芸術館で吉田秀和が館長を務めていたときに水戸室内管弦楽団を小澤が指揮したのを聴いたような気がする。演奏曲目は,ストラヴィンスキーのプルチネルラだったような...この記憶が妄想だとするとずいぶん具体的な内容だなぁと思うけれど,他の演奏曲目がなんであったかも覚えていないし。自信は全くない。

私が持っている小澤征爾の指揮に対する印象は,純音楽的な非常にきれいな演奏になるというものである。ベートーベンやブラームスの交響曲でさえ,感情控えめに美しく磨き抜かれた純音楽的な響きをもって演奏される。彼の演奏は,ちょうどジャパニーズウィスキーに例えられると思う。磨きに磨き抜かれた精妙な美しさ。たしか彼がまだ壮年の頃のインタビューで「日本人が西洋のクラシック音楽を理解できるのか」と尋ねられて,ずいぶんナーバスになっていた映像を見た記憶がある(ついでにいうと,別のヨーヨーマのインタビューで同じ質問をされていたのを見たことがあって,マは動揺して席を立っていたような記憶がある)。そのとき小澤が何を答えたのかもう覚えていないのだけれど,結局,西洋音楽がグローバル化することの意味を理解して彼が導き出した答えがこの純化された演奏なのだと思う。

さて,ここで小澤の録音で私のオススメを紹介したい。まずはサイトウ・キネン・オーケストラを指揮したブラームスの4つの交響曲とハンガリー舞曲の録音が好きである。初めて聴いたときに日本人のオーケストラなのに世界レベルな感じがした(よくわからないけれど,あくまでも印象で)。第1番交響曲は重厚というよりも淀みない美しい音楽という印象がするし,お涙頂戴の第4番交響曲でさえも綺麗さ,純粋さが感じられる演奏である。まさにジャパニーズウイスキー。また同録されているハンガリー舞曲1番のノリノリ感がいい。

次にオススメしたいのは,ベルリン・フィルとの録音によるオルフの「カルミナ・ブラーナ」。小澤征爾のほとばしるエネルギーが感じられる演奏になっている。彼の熱い演奏も魅力的なのだ。合唱団が晋友会というのも珍しい。

別な形でオススメしたいのは,村上春樹が小澤にインタビューした「小澤征爾さんと、音楽について話をする」という本。村上春樹はクラシック音楽に造詣が深く(少なくとも私より),ファンとしての立場の話もあるし,同じ芸術家としての話もある素敵な本である。

これは,出典不明なエピソードなのだけれど,同年代の指揮者である山本直純が若い頃に小澤に,自分は国内で底辺を広げる仕事をするから、小澤は海外へ行って頂点を目指せと言ったという話が好きである。山本は「オーケストラがやって来た」を続け,寅さんのテーマなどを作った。そして小澤はウィーン国立歌劇場の音楽監督まで昇りつめ世界のオザワとなった。お互い,その言葉を果たしている。そんな二人の人生が(どちらも)素敵だと思っている。

2024年2月11日日曜日

小澤征爾とボストン交響楽団の思い出(2)

 私は国際会議に参加するためアメリカを旅していた1993年,旅の途中で小澤がまだ音楽監督をつとめていたボストン交響楽団のそのシーズン(10月から始まる)の最初の演奏会を幸運にも聴くことができた

プログラムは,ツィマーマンとのバルトーク ピアノ協奏曲第1番と,マーラー 交響曲第4番。シーズンのオープニングということで相当華やかなプログラム。ワクワクせずにはいられなかった。

まず昼に一般公開されるゲネプロのチケットをホールのチケットブースで購入して,そこに参加した。ゲネプロのチケットは相当に安価なのである(たぶん2~3千円だった?)。小澤,ツィマーマン,オーケストラの団員はカジュアルな服装だけれど,ほぼ最初から通しで曲を演奏してくれる。そして演奏の前には楽団の方がステージに立って,演奏曲目の解説もしてくれるからお得なのである(残念ながら私の英語能力ではほとんど説明内容を聞き取ることはできなかったけれど。まぁ,バルトークではピアノが打楽器のように使用されているというくだりはわかったかな...)。

ゲネプロが終わったあと,小澤がステージ上に少し残っていて,私と一緒にゲネプロを聴いていた日本人に,江戸弁みたいな訛りで「東京から来たのかい」みたいに話しかけていて,ずいぶん気さくな人だな,と思ったのを覚えている。

さて,ゲネプロで曲目を予習したあとは,本番の夜の演奏会である。これがシーズン最初ということで,交響楽団のパトロンたちが集まるらしく,ホール前にはリムジンが次々と到着し,中から着飾った紳士・淑女たちが赤い絨毯の上に降り立っていくのを見た。自分は,学会発表用に持っていった普通のスーツを着ていたけれど(ボストンのクリーニング屋にスターチ強めでとお願いしたワイシャツを着ていたけれど),やはりタキシードとドレスの間ではみすぼらしさは隠せなかった。

演奏の詳細はすっかり忘れてしまったけれど,一曲目のバルトークのピアノコンチェルトにはひどく興奮してしまい,隣りに座っていた夫婦から「どこがよかったの?」などと訊かれたほどである。英語でうまく答えられなかったことが今でも悔しい。

バルトークのあと少しの休憩。そのとき,ホールのバーでは聴衆全員にシャンパンが無料で振る舞われた。私はもうびっくり!独りだったから話し合う相手もいなかったけれど,独りでホワイエの端の方でじっくりと味を楽しんだ。

そしてマーラーの第4交響曲。少年合唱団も加わって,それはそれは豪華な演奏会だった(ような記憶がある)。演奏会後には小澤征爾が日本が生んだマエストロだということがやっぱり誇りに思えた。その年の国際会議で何を発表したのか,今はさっぱり覚えていないけれど,この小澤征爾&ボストン交響楽団のシーズンオープニングコンサートの記憶はいまだ(それほど)薄れていない。私のクラシック音楽ファン人生のささやかな自慢となっている。

私に素晴らしい青春のひとつの思い出をくれた小澤征爾さんに深く感謝し,ご冥福をお祈りいたします。



#この演奏会でバルトークのピアノコンチェルトが大変気に入って,その後1,2,3番のピアノコンチェルトが好きな曲目になった。そして次にバイオリン協奏曲も。バルトークは民族音楽研究で有名だけれど,しっかり現代音楽にも近い作曲家だと思う。

2024年2月10日土曜日

小澤征爾とボストン交響楽団の思い出(1)

 小澤征爾逝去の知らせを聞く。最近はめっきりメディア露出の機会も減っていたし,たまに表に出てきた彼の姿を見ても少しつらそうだったから,とうとうその時が来てしまったという感じである。

さて,私は学生時代に,1ヶ月ほどカナダとアメリカを旅したことがある。その旅はそれぞれの国で国際会議に参加するためだったけれど,最初にカナダのビクトリアからロスに移動したところで指導教員と別れて,その後は独りでスーツケースを抱えて,ほぼ放浪するようなものだった。行った先々の町でホテルを探し(当時はインターネットがなかったから「地球の歩き方」を見ながら数十ドルで泊まれる地元のホテルに公衆電話から電話をして予約をしていた),その上旅の途中で学生の上限額を超えてカードが使えなくなかったから現金とT/Cを握りしめて,なんとか宿泊代と食事代を支払いながらロスからケープコッドまで(西海岸から東海岸まで)を旅行した。

ケープコッドの国際会議の前にはボストンで数泊した。街では遠い昔にイギリスからの移民船がアメリカに着いた日(?)とかいうお祭りが開かれていて,町は人で溢れていた。そのためYMCAにすでに数日宿泊していた私は宿を追い出されてしまい,仕方ないのでそこで声をかけた英国人男女2名と一緒に部屋をシェアしたりしたのだった。

そのYMCAの宿からボストンのシンフォニーホールまではそれほど離れていなくて,私はそこに足を運んで,小澤&ボストン交響楽団の演奏を聴いたことあるのが自慢である。小澤はその頃まだボストン交響楽団で音楽監督をつとめていた。私は幸運にも1993年のシーズンのオープニングの演奏会を聴くことができたのだった。>>その(2)につづく。


2024年2月4日日曜日

広上淳一,そして「さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~」

 金沢駅で見かけたポップ。

「この人は誰だろう? 確かめに音楽堂へ行こう」とある。もちろん,私はすぐに指揮者の広上淳一であるとわかったけれど(ポップは指揮棒も持っているし),でも知っている人はまだ少ないだろうなぁ,と思った。

ただ,彼が現在オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督?に就任していたのを私は知らなかった。私が知っているOEKは,まだ岩城宏之が立ち上げたばかりの頃のもので,それ以来情報はアップデートされていない。

そういえば,最近「広上淳一」の名前を見ることが多いような気がする。NHK大河ドラマ「光る君へ」のテーマ曲(これがピアノコンチェルトっぽくて驚いたのだけど)の演奏指揮者として毎回オープニングに名前を目にしているし,今期のTVドラマ「さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~」でも音楽監修しているらしいから,毎回タイトルバックに名前が表示されている(そもそもこのドラマは東京音楽大学が協力しているから,教授である広上淳一が監修していても全然不思議はない)。

広上淳一はその軽妙な語り口で,クラシック音楽を身近なものとして解説してくれるので,私は大好きである。ときどきラジオの特集番組でMCを務めることもあったりして,まるで落語家のように紹介されるエピソードはとても楽しいモノばかりだった。

そういえば「さよならマエストロ」でマエストロ役の西島秀俊は,ベートーベンを「ベートーベン先生」と呼んでいる。これは広上淳一がモデルなのだと今気づいた。広上はベートーベン先生と言っていたように覚えている。面白いからたぶんそれを制作側が取り入れたのだろう。もしかするとドラマ内の西島の指揮スタイルも広上淳一の影響を受けているのかもしれない。

残念なことに私はこの10年以上,クラシック音楽の新たな録音を購入したことがないから,広上淳一の指揮の演奏を聴いたことがほとんどない。今度,ぜひ聴いてみたいと思う。作品はやっぱり彼が「先生」と呼ぶベートーベンのものがいいかなと思っている。

2024年2月3日土曜日

おみくじの意味 ~生活の中のチャンス・オペレーション~

 占いについては私はあまり信じていない。特に「血液型」とか「動物」などはエンターテイメントとして楽しむのは良いけれど,その占いの言葉によって自分の考えや行動が縛られるようになるのは決して良くないと思っている。

一方,おみくじは神社に参拝した際によくひく。私の考えでは,おみくじというのは一種の運試しであり,日々の生活の中の「ランダムインプット」なのである。

私のいうところの,「ランダムインプット」とは何かというと,それは日々の退屈なルーティンから抜け出すための予想を越えたインプットなのである。仕事でも趣味でも,ある程度の長い時間そ関わっていると,残念ながら同じことを繰り返すだけになっていく。

(この段落は読み飛ばしてください)ちょっと理工学的にいうと,制御対象であるシステムがある時間の過渡現象を経て定常状態に達することに似ている。あるいはシステムが線形であり,同じ入力をすれば同じ出力が繰り返されるということにも似ている。とにかくシステムが安定ならば,時間が立てば定常状態になるし,同じ入力であれば同じ出力になる,それが自然の摂理なのである。

このマンネリから脱するために,不確定な入力をわざと生活の中に取り入れる。そのひとつがおみくじなのである。以前にも書いたのだけれど,おみくじは自分の生活を省みる,そして変化させるきっかけとして使えばよいと思っているのである。不確定な入力がなければ予想外の変化は起こらず,また同じような朝を迎えることになる。

辻占もそうだ。全く関係のない誰かの言葉をインプットとして,自分の生活を変えるきっかけを作る。そうした機会として,古来おみくじはひかれてきたのだと思う。

マンネリから抜け出すために不確定入力を用いるという手法といえば,現代作曲家のジョン・ケージを思い出す。彼は偶然性の音楽を目指し,傾倒していた「易」を用いて作曲を行う「チャンス・オペレーション」という手法を用いたと言われている。「易」で音楽を作曲するなんて…と私は思っていたけれど,彼がチャンス・オペレーションで作曲しているところを近くで見た高橋アキ(だったと記憶しているのだけれど)は,易の結果が,ケージが気に入らなかった音だった場合には易をひき直していたとどこかで話していた。そうなのである。易で神様の言葉を聞いて作曲するのではなく,マンネリから脱却するための不確定入力のために易を用いていたのだと思う。

私の場合のおみくじはまさにその生活の「チャンス・オペレーション」である。大きな変化ではないけれど,心がけやちょっとした行動を変えることが日々の幸せの質を向上させるきっかけになりうるのだと思う。だからこれからも私はおみくじをひき続けることになるのだろう。

2024年1月28日日曜日

ゴジラ -1.0 白黒(3) ~映像が白黒化されるとゴジラの造形が詳細になり,俳優の表情はよりナマナマしくなる~

  「ゴジラ -1.0」モノクロ版を観てきた。シン・ゴジラのときも2回観たのだけれど,今回も2回観た。しかし,今回はどうしても2回観たくてみたわけではなく,若干「たまたまタイミングが良かった」という理由も含まれている。

白黒になると,ゴジラの怖さが増す,と聞いていたのだけれど,私はそれほどの違いを感じなかった。白黒で観て思ったは,ゴジラの造形がよりくっきりと分かるようになったということ。筋肉の動きがよく分かる(動きすぎて少し不自然だけれど)。CG製作の人たちのこだわりなのだろう。

一方,各俳優の演技が強すぎるように感じられる。なぜかと理由を考えてみたのだけれど,白黒になることにより,より各人物の表情の陰影が強く出るように感じられるからではないかと思った。昔の白黒映画ではドーランをべったりと塗って白塗りの顔で演技をしていたから,ちょうどよかったのかもしれないけれど,現代の技術で映像を白黒化すると,ちょっと表情が生々しく感じられるようだ。恐怖の表情などは陰影の強い楳図かずおのホラー漫画に通じるものがある。

物好きな人にはモノクロ版をオススメするけれど,やはり最初はカラー版を観たほうが良いと思う。星4つ。★★★★☆。

#2024年2本目

2024年1月27日土曜日

ゴジラ -1.0 (2) ~ゴジラは自然災害であり,戦争である~

今回のゴジラを観て思ったのは,ハリウッド版とのゴジラという存在の違いである。これは多くの人が指摘しているところなのだけれど,ハリウッド版はあくまでも巨大恐竜,怪獣という未知の生物を相手に人間が戦うという印象である一方,日本版はゴジラの厄災は天災であるという意味あいが強い。今回のゴジラは特にそう。もう強すぎて,理不尽すぎて,こんなのは台風や地震にならぶ災害である。その前に人間はただただ逃げ惑うしかない。そんなゴジラの存在が今回の映画によく描かれていた。

日本人がゴジラを破壊神として神格化するのは,自然災害は荒ぶる神の表れと考えが日本にはあるからなのだろう。日本は自然災害に苛め続けられてきた。それは全く理不尽で,人間にはどうしようもない。あきらめて受け入れるしかない。しかし人間にはその悲劇にはなんらかの理由付けが必要で,そのために神があるのかもしれない

さて,そうしたゴジラの存在意味の違いが原因なのだろうけれど,だから,今回の映画ではハリウッド映画によくありがちな最初から特別に強いヒーローは出てこない。主人公は特攻から逃げてしまった業を抱えているし,ゴジラと戦う人たちは「戦争で生き残ってしまった」とどこかで後ろめたさを抱えている人たちである。ゴジラはその時代の各人が心に傷を抱えている「戦争」でもある。浜辺美波の最後のセリフ「コウさんの戦争は終わりましたか?」に表れているとおり,それらに区切りをつけるという意味もある。

最初にこの映画を観たときに思ったのは,上記理由で「日本スタイルのゴジラだなぁ」ということ,「日本人が好きそうなベタな人間ドラマだなぁ,」と感じて,つまりは「世界には受けないだろうなぁ」ということを感じたのである。しかし,私の予想とは異なり世界的にヒットをしているのだという。うーん,やはりドラマとゴジラの配分がいいからかなぁ…?まぁ,確かにハリウッドが,世界が,マーベルやDCのスーパーヒーローの物語に飽きているということもあるけど。


2024年1月21日日曜日

ゴジラ -1.0 (1) ~ドラマとゴジラの配分がちょうど良い観ておくべき特撮映画~

 年始の忙しさにとうとう耐えられなくなって,仕事から逃避して映画を観に行った。映画館で映画を観るのはずいぶん久しぶりのような気がする。観た映画は「ゴジラ -1.0」である。

やっぱりいいなぁ,映画館で観るのは。特に今回のような怪獣映画の場合には,やはり大画面の迫力と大音響がワクワクさせる。ゴジラの咆哮は腹の底から響いた。映画はこうでなくては。

そして,内容が思いがけず素晴らしかった。もっと子供向けのエンターテインメントかと思っていたのだけれど,全然違っていた。大人向けのゴジラだった。

まず主人公の神木隆之介の精悍な顔つきに驚かされた。これまで見てきた彼とは違う。男らしさが感じられる。しかし,彼は特攻隊から逃げてしまった男。そしてゴジラへの恐怖のために動けず,多くの人を見殺しにしてしまった。それで幸せな人生を送ることを許されない業を背負ってしまった男という,観るのが耐えられないほど重い役だった。

そしてこの映画のシリアスさをガツンと思い知らせてくれたのは安藤サクラの登場シーン。自分の家族は戦争で死んだのに,特攻隊員の神木は生還してきた。そのやるせなさをひどい言葉ですごい顔で神木にぶつける。彼女の演技の凄まじさに私がビビるほどである。

佐々木蔵之介も山田裕貴も青木崇高も,そして吉岡秀隆もみんな素晴らしい演技だったのだけれど,やはり浜辺美波のかわいさにトドメを指す。彼女がいなければこの映画がギスギスしたものになっていただろう。

これらの登場人物が織りなす人間ドラマがかなりベタで予想がつくのだけれど,それでも感動する。いや,逆にベタだからこそその結末に至ったときに安心する。そんなストーリーになっている。

人間ドラマがほとんどなかったシン・ゴジラとは全く逆の作り方。シン・ゴジラをみたときは,そんな人間ドラマなど邪魔だと思ったけれど,今回のゴジラ-1.0を観てドラマとゴジラの配分さえ間違わなければ,ちゃんと良作になるのだということを認識した。

ということでかなりオススメ。星4.5です。★★★★ ★/☆

#橋爪功が数秒出演していて美味しい役だなと思った

#2024年1本目。

2024年1月20日土曜日

2023年に観た映画のまとめ

2023年の目標で唯一達成できたのは,「映画を12本観る 」である。ただし,これには映画館以外で観たものも含むので,かなり易しい目標となっている。それでも日々の中で映画を観る時間を確保するのはそれなりに難しいので,自分を少しは褒めてあげたい。

2023年に観た映画は以下の通り。

  1. 「ジョン・ウィック:コンセクエンス」
  2. 「007カジノ・ロワイヤル」
  3. 「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」(初見)
  4. 「ジェイソン・ボーン」
  5. 「The Batman」
  6. 「リボルバー・リリー」(初見)
  7. 「コントラクター」(初見)
  8. 「ソー:ラブ&サンダー」(初見)
  9. 「SHERLOCK ピンクの研究」
  10. 「シャーロック・ホームズ」
  11. 「キングスマン・ゴールデンサークル」
  12. 「劇場版 呪術廻戦 0」(初見)
  13. 「エンド・オブ・デイズ」
  14. 「シン・仮面ライダー」(初見,映画館)
  15. 「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(初見)

なんとも情けない。実は,1~11は海外出張の機内で観た映画であり,本当に小さい画面で,大スクリーンと素晴らしい音響で体験する映画の醍醐味なんてこれっぽっちもなかった。映画館で観たのは「シン・仮面ライダー」一本だけだ... 今年こそ映画館にもっともっと観に行こう。映画は日常を離れて,その世界に没入できる(変性意識になる)良い機会なのだから。


2024年1月14日日曜日

2024年の目標:終活をはじめる

 年末年始ととにかく忙殺されて,なにもできず,それでいてなにも休めなかった。本当にひどい年末年始だった。1月1日の能登半島地震のときも大学で仕事をしていたくらいである。

昨年の目標を書いたブログをみて,涙があふれてくる。本当に全然思った通りに生きていない。昨年の目標とその達成度は以下の通りである。

  1. 「叶えたい夢を見つける」(0%)
  2. 「身体を鍛えて体重を5kg減らす」(0%)
  3. 「合氣道の稽古量を増やす」(0%)
  4. 「本を12冊読む」(10%)
  5. 「映画を12本観る」(100%)
  6. 「人生をもっと楽しむ」(10%)
  7. 「身体の姿勢に気をつける」(50%)

唯一,達成できたのは海外出張の機内で本数を稼げた映画の本数だけである。映画の話はまた別のところでまとめるとして,ほとんどの目標は全くといっていいほど進んでいない。体重なんて,2 kgほども太ってしまった。こんなことでよいわけがない。なにか根本的に変えなければならないと思う。

そこで今年から始めようと思うのは「終活」である。そろそろ私の人生も終わりが見えてきた。残りの人生は,自分の思い通りに,楽しく生きたいと思う。多くの人が言っているけれど,いかに死ぬかということはいかに生きるかということと同義である。村上春樹も「タイランド」という作品の中でも言っているし,「蛍」や「ノルウェイの森」でも生と死は近いと言っている。

良い死に方をするということは,良い生き方をする,ということである。ブルース・リーもそんなことを言っていたように思うし,呪術廻戦の主人公のおじいさんもそんなことを言っていた。明日突然死を迎えるかもしれないということを心に銘じて毎日を生きていこうと思う。

ということで,今年の目標は以下の通りとする。最後の2つが今年から新たに加わった目標である。

  1. 「叶えたい夢を見つける」
  2. 「身体を鍛えて体重を5kg減らす」
  3. 「合氣道の稽古量を増やす」
  4. 「本を12冊読む」
  5. 「映画を12本観る」
  6. 「人生をもっと楽しむ」
  7. 「身体の姿勢に気をつける」
  8. 「終活をはじめる」
  9. 「誠実に機嫌よく生きる」
目標9については,また別の機会に。


2024年1月13日土曜日

魅力ある歌を歌いたい

 私はカラオケが嫌いとか苦手とかではないのだけれど,人前で披露するようなうまさではないので積極的にカラオケを歌うことは少ない。「歌うのは女の人がいるときだけだ」などと言ってマイクから逃げることが多いので,カラオケを歌うのは一年に一度あるかないかである(ちなみに2023年は一度も歌わなかったと思う)。ただし,歌うことは好きなのである。

最近は,歌が上手な人が増えたと本当に思う。私が学生のころはカラオケボックスもあったけれど,カラオケスナックなどにいくとステージ上でみんなの前で歌を歌うという文化がまだあって,他人の歌をよく耳にしていた。その頃は今みたいにみんながみんな歌がうまいというわけではなかった。下手な歌を自分の好きなように歌う人が多くて,うまさを競うというよりも自分が気持ちよくなることが目的だった。

それがカラオケボックスで歌唱に対して点数がでるのが当たり前になって,そして流行する歌も歌うのがたいへん難しい曲ばかりになって(あるいは歌よりもパフォーマンスが優先されるようになって),それにあわせて歌がうまくないと人前で披露しづらい雰囲気になってしまった。これが本当によいことなのだろうかと私は思っている。

多くの歌手の歌唱力も昔とは比べものにならないほどレベルが上がっていることは間違いないのだけれど,私の個人的な感想ではみんな同じような歌い方になっているように思える。言葉を代えると,カラオケでうまいとされるような歌い方ばかりになっているように思う。カラオケの採点ではさぞかし良い点が出るだろうけれど,聴いている私としては「私はうまいだろう」と自慢する感じで歌を聞かされているような気がして,そして結局心に残らないような,そんな印象が強くある。

昭和や平成の初期はこんな感じではなかった。紅白歌合戦でも見た寺尾聰の「ルビーの指環」とかニューミュージックの人たちとか,歌唱力を競うというよりも,その歌い方の魅力で主張していたように思う。歌がうまいといっても,尾崎紀世彦や布施明,松崎しげるのように個性的なうまさだった。しかし,今は画一的な感じがして,魅力ある歌い方のアーティストが減っているような気がするのだ。

私は歌が下手なので,この魅力ある歌い方というのに憧れる。たとえば,原田芳雄とか藤竜也とか。ショーケン,水谷豊,松田優作,石橋凌なんてところもいいなぁ。結局,歌手というよりも俳優と言った人たちの方が心にずっと残る歌を歌っている。

ということで,私のカラオケはそっち方向を目指しています。なので点数が低いのです。という言い訳を書きたくてこのブログ記事を書きました笑。

2024年1月8日月曜日

佐野元春「彼女」

 佐野元春の「君を待っている」という曲から連想したのが「彼女」という曲。これもミディアムなテンポで切々と歌う作品である。この曲は,1981年発売の「Heart Beat」,そして1991年の「SLOW SONGS」に収録されている。

この曲はどうも佐野元春がデビュー前から作られていたとのことらしい(未確認だけど)。私はてっきり彼の敬愛するエルビス・コステロの「She」へのリスペクトソングかと思っていた。

佐野元春はどうも彼が好きなアーティストの曲の翻案というべき曲をつくっていると思われることがある。例えば「Someday」は,ブルース・スプリングスティーンの「Hungry Heart」のそれにあたるし,「Young Bloods」はスタイル・カウンシルの「Shout to the Top」のそれにあたる(と思っている)。私はそれが悪いと思っているわけでなく,それらの曲はちゃんと佐野元春の作品になっているし,それが正直な佐野元春だと思っていて,そんなところを含めて私は彼を好きなのである。

そして,この「彼女」もエルビス・コステロの影響なのかと思っていたけれど,調べてみるとエルビス・コステロの「She」の方が2010年になっていて,佐野元春よりもずっとあとなので驚いた。だって,タイトルからして同じなんだから...(エルビス・コステロも1974年の作品のカバーらしい)

佐野元春とエルビス・コステロがそれぞれ「彼女」と「She」を歌いあったステージもあったということだ(私はどちらも好きなのだけど,ファンにはたまらないものだったろう)。どちらも名曲で,二人はリスペクトしあったに違いない。

どうも「彼女」という曲は映画「SPEC」で使われたらしく,若い人たちにも少しは知られているようでうれしい。正直,彼はもっともっと多くの人に聴かれて欲しいと思っている。私の青春時代をともに過ごした佐野元春というアーティストがもう少し現代で再評価されて欲しい。


#そういえば佐野元春は「SPEC」のテレビドラマで,主人公の戸田恵梨香の父親役で出演していた。セリフがあの語り口調そのままでしびれた。

#「若い人に」と書いたけれど,「SPEC」のテレビドラマの放映が2010年らしい。そもそも若い人はこのドラマ,そして映画を観ていない(実は私も映画は観ていない)。

2024年1月7日日曜日

佐野元春「君を待っている」

 佐野元春はビートの効いたロックンロールのシンガーソングライターとして有名だけれど,実はミディアムからスローテンポの甘く切ない曲も素晴らしい。私は昔から佐野元春が大好きなのだけれど,なぜか最近彼の「君を待っている」という曲が脳内ヘビロテされてしまい,とりあえずブログにアウトプットする。

「君を待っている」は調べてみると1990年発売のアルバム「Time Out!」に収録されているらしい。その頃の私はクラシック音楽のCDばかりを買っていたけれど,佐野元春のリリースするアルバムだけは購入していたので,このCDも所有している。このアルバムはロックなのだけれど,もっと自分の周りのスモールワールドをテーマにしている曲が多いような気がする。

「君を待っている」はスローに佐野元春が別れた彼女に語りかけるように歌うバラードである。年をとった今にこの曲を聴くと,若い頃とは違う印象がある。彼女に衒いもなくストレートに語りかけることに気恥ずかしさを感じていた学生時代とは違い,まぁそれもあるかとある意味,「あきらめ」に似たような感想をもつ。良い曲だということを再認識したけれど,私もトシをとったということも実感した(佐野元春は比較的若い頃にこの曲を書いているので「あきらめ」というニュアンスはこの曲に意図していないとは思うのだけど)。

2024年1月6日土曜日

黄色いリーガルパッドが欲しいのだ!

 ずっと欲しい,欲しいと思っているモノのひとつに,黄色いリーガルパッドがある。あの黄色い紙に緑の罫線,左側に赤い縦線が2本入っている,アレである。サイズはレターサイズ。これをずっと探し求めている。

初めて使ったのは,たぶん就職してからアメリカ出張に行って,それをもらってきたときだと思う。しかし,黄色い紙は決して上質とは言えず,表面はザラザラで万年筆で書くと少し青い文字がにじむような品質。少なくとも高級品ではない。気軽にメモとして使えて,使った上の紙からビリビリと切り取ることができる。そんな日常使いのメモ紙である。

しかし,これが日本では売っていない。あちらこちらで探しているのだけれど,見つからないのである。

実は伊東屋には同様のリーガルパッドが売られているのを知っている。サイズがレターではなくA4サイズであるのはワタシ的には全く問題がない。しかし,紙質が上質すぎるのである。非常に表面は滑らかで,たぶん万年筆で書いても文字はにじまないに違いない。しかし,これでは鉛筆の引っかかりがなさすぎる。私がこのリーガルパッドに求めているのはザラザラの紙質なのである。

初めて使ったとき,なんてチープな紙だと思った。それが使いこんでくると,このザラザラにシャープペンシルの芯がひっかかるのが非常に心地よい。仕事で式の計算などをすると,スラスラと変形や導出ができるような気がする。それが気持ち良いのである。学生の前で,計算を行う。そしてビリっとその紙を破って渡す。これがいいのである(ちなみに紙を切り取ったあともギザギザである)。

鉛筆やシャープペンシルに最適な計算用紙。それが私の求めている黄色いリーガルパッドなのである。

アメリカ出張に行った際に入手しようと思っていた。しかし,ナッシュビルのダウンタウンにはウォールマートも文房具のDEPOもなく,購入を断念。本当に残念だった。

そして,実はアマゾンでも売っていることも知っている。そのリーガルパッドが私が求めるものかどうか,来年は試してみようと思う。12冊で1セットなので,私の求めるものと違った場合,12冊を使わなければならず,それが怖くてポチるのを少しためらっているのだけれど。

2024年1月3日水曜日

元旦の不思議な体験

 大晦日は実家に戻っていた。私は疲れのせいか紅白歌合戦を最後まで見るのを途中であきらめて早く床に入ることになった。お酒も入っていたので横になるとすぐに眠りに落ちたようだ。そしてそのせいか朝方早くに目が覚めた。

私は実家の仏壇がある和室に布団をしいて寝ていたのだけれど,右横向きで目が覚めるとそこに誰かがいた。障子からかすかに入る光を頼りに,薄暗闇の中で目を凝らすと,どうも薄灰色と茶色の男性物の羽織の前の一部のようなものが見える。

「男の人?」と

思ったら,仏壇の前にあるお参り用の椅子が背もたれ方向にぐらりと傾いて,その人は扉が閉まっている仏壇があるところへと通り抜けるように入っていってしまった。私は怖いというよりも驚いて,ただただその目の前で起こったことを眺めていた。

見届けたあと私はすぐにトイレに立って,今起こったことを思い出してみた。やはり怖さもなにもない。ただ不思議だとしか思えなかった。時刻をみると朝の五時半だった。

そのまままた寝て,翌日元旦はゆっくりと起きた。家族にその話をすると,みんな「誰だろうね」と不思議がった。これが元旦に私が体験した不思議な体験である。

あとからよく考えてみると,それは明晰夢だったのかもしれない。明晰夢の中では「これは夢だ」と気づくことができるし,自分の思った通りの夢をみることができるのだという。私は夢だとは気づかなかったけれど,右横に男の人がいるという夢をみて,頭の何処かで「そういえばここは仏壇があるんだっけ」と思った瞬間,「仏壇に吸い込まれるかもしれないな」という連想をし,その通りのことが夢の中で起こったのかもしれない。「仏壇に入るのだったら,仏壇前に置いてある椅子も動きそうだな」とも無意識に瞬間的に連想したので,思ったとおりに椅子が揺れたのかもしれない。そんな気もする。

幽霊なのか,それとも明晰夢なのか,よくわからないけれど,どちらにしろ不思議なことが私に起こったのは間違いない。私はずっとオカルトが大好きなのだけれど,今年はますます興味が湧きそうだ。まずはそうしたことに耐えるだけの心身の体力を今年はつけようと思っている。

2024年1月2日火曜日

心療内科医 稲生知性2の見どころは,怨霊と人間との心理戦

 年末に面白いドラマを見つけた。「心療内科医 稲生知性2」というホラードラマである。

「2」とタイトルにあるくらいだから続編なのである。半年前に「心療内科医 稲生知性」というドラマタイトルを見つけて,「おっ」と思ったのだけれど放送が関東ローカルだったこともあって,見ることができず残念に思っていた。今回はTverで12月に連続して4回放映された「2」を観ることができたのである。

主演は,なんとシソンヌのじろう。彼のコント力は,シソンヌのコントやNHKのコント番組「LIFE」で知っていたけれど,今回はまじめなドラマなのである。もっというと,主人公は笑うこともしない非常にクールな医師なのである。

最初は彼が真面目な演技をしていることに,正直違和感を持っていたけれど,主人公自身が複雑な性格をもつ変人のようで,その違和感が実は正しいのかもしれないと途中から思うようになった。

内容は単なるホラーではなくて,人間と怨霊の嘘のつきあいからどちらが嘘を言っているのか暴いていく,ミステリー要素が強いので,たいへん楽しめた。ほとんど医院の診察室(といっても心療内科なので,椅子に座って患者と対峙するだけなのだけれど)一室で繰り広げられる,怨霊と人間と主人公との心理戦がメインで,怨霊自身も人間の嘘に騙されたりするし,もちろん人間も怨霊に騙され,呪われる。なるほど,こんなミステリーも成立するのかと感心した。原作者を調べてみたら,脚本家二人のうち一人が池田鉄洋だった。彼は多才なのだなぁと驚いた。

「1」を見ていないので,すでにネタバレしている設定もあって,それは残念だったけれど,いつか機会があればぜひ「1」も見てみたいと思う。まだ親友?の死因も不明のままだし,「2」の最後にはまた大きな謎が提示されているので,たぶんさらに続編が制作されるだろう。楽しみである。

#怨霊に呪われている人(患者)の問診をはじめるまえにお神酒を飲んで体を清め,自分が取り憑かれないようにする設定らしい。そのお酒の名前が「嫐」というのが面白い。


夢も予定もなく

 世の中はゴールデンウイークGWである。今年は比較的天気も良いようで、これまでコロナ禍で自粛していたレジャーがもう一度賑わいを取り戻せばいいなぁ、と心より思う。やっぱり世間が暗いのは、私のような老人にはつらいものである。 ただGWになったとはいえ、私はなにをするともない。というか...